あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(6) 1960年代前半の創作 音色の観点から

(筆者:高橋智子)

 前回は、1954年にケージらニューヨーク・スクールとして近しい関係にあった仲間たちがマンハッタンを離れたことをきっかけに、フェルドマンの音楽にも若干の変化が見られた様子をたどった。彼の音楽様式が記譜法の変遷と連動していることは初回に述べたとおりで、このことは1960年以降の創作を語る際にも当てはまる。連載6回目にしてようやく1960年代に入った今回は、記譜法の議論に入る前に触れておきたい、フェルドマンのこの当時の音楽における音色や楽器編成に焦点を当てる。

1. フェルドマンの映画、映像音楽

 ケージたちが1954年頃を境にマンハッタンを離れてからも、フェルドマンはこの地にとどまった。ハンス・ネイムス監督によるポロックの映像作品へ音楽を書いたり、ヨーロッパ・ツアーに出たケージとチュードアを介して作品が演奏されたり、1962年にペータース社と楽譜出版の契約を結んだりと、この頃のフェルドマンは作曲家としてのキャリアを順調に積み上げているかのように見えるが、実はまだ専業作曲家になってはいなかった。当時も彼は家業である子供服会社で働いて生計を立てていた。1963年のある日、そんな彼の様子を見た作曲家のルーカス・フォスはフェルドマンが作曲に専念できるよう、彼のために大学教員のポストを探すが、この時点ではフォスの尽力は実らなかった[1]。このような事情で、フェルドマンは1960年代のある地点まで昼間は子供服会社で働きながら音楽活動を続けていた。

 1960年代のフェルドマンの創作において看過できないジャンルとして映画や映像のための音楽が挙げられる。フェルドマンは1960年から1969年の間にいくつかの映画音楽と映像作品の音楽を書いている。また、実際には制作されなかった映画のために書かれたと思われるスコアも残存している。[2]

[フェルドマンが1960年代に手がけた映画と映像の音楽][3]

Something Wild (1961) 監督:Jack Garfein 約113分
The Sin of Jesus (1961) 監督:Robert Frank 約37分
Willem De Kooning: The Painter (1961) 監督:Hans Namuth&Paul Falkenberg 約14分
Room Down Under (1964) 監督:Dan Klugherz(1964) 約64分
Time of the Locust (1966) 監督:Peter Gessner 約13分
American Samoa: Paradise Lost? (1969) Dan Klugherz 約55分

 上記のリストの1番目「Something Wild」はブロンクスとマンハッタンを中心に撮影され、当時のニューヨークの街並みを知るうえでも貴重な作品と見なされている。この映画がフェルドマンにとっての本格的な長編映画音楽デビューになるはずだった。だが、彼が書いた音楽はこの映画に採用されなかった。ジャック・ガーフェイン監督の妻だったキャロル・ベイカー演じる主人公、メアリー・アンが映画の冒頭でレイプされるシーンにフェルドマンはチェレスタ、ホルン、弦楽四重奏による変ホ長調の短い曲(「Mary Ann’s Theme」として録音されている)を書いたのだ。この曲がガーフェインの逆鱗に触れて彼はこの映画音楽を降板させられる[4]。彼の代わりを務めたのは既に映画音楽の作曲家としての実績を充分に持っていたアーロン・コープランドだった。

コープランドの音楽によるメアリー・アンのシーン
https://www.cnvill.net/SomethingWild-Copland.mp4

フェルドマンの音楽によるメアリー・アンのシーン
https://www.cnvill.net/SomethingWild-Feldman.mp4

Aaron Copland/ New York Profile (opening theme of Something Wild) (1961)

 当初フェルドマンが書いたサティ風の幻想的な変ホ長調の音楽と、コープランドによる劇的な効果を活かした緊張感の高い音楽を同じシーンで聴き比べてみてほしい。理屈のうえでは、どんな音楽もその映画の映画音楽になりうるのだとしばしば言われるが、フェルドマンとコープランドの音楽を並べてみた場合、生きる目的を失いつつも自分の道を見つけようともがき続ける若者の様子を描いたこの映画にはコープランドが適任だったと思い知らされる。後にコープランドはこの映画音楽を独立した管弦楽曲「Music for a Great City」(1964)として再構成した。

Copland/ Music for a Great City (1964)

 「Something Wild」での降板劇をふまえるとフェルドマンは映画や映像の内容と背景を一切省みず傍若無人に音楽を書いた作曲家のように思えるが、決してそうではない。1951年に制作されたジャクソン・ポロックの短編ドキュメンタリー映像でのフェルドマンの音楽を評価していたハンス・ネイムスとパウル・ファルケンベルクは、ウィレム・デ・クーニングに迫った短編ドキュメンタリーで再び彼に音楽を依頼した。この時のフェルドマンの音楽は無事に映像に使われている。フェルドマンはこの映像のために作曲した「De Kooning」を「(ポロックのドキュメンタリー映像の音楽のチェロのデュオとは対照的に)映像の文脈がなくても独り立ちできる viable even without the film context (as opposed to the Pollock duo)」[5]曲とみなし、その完成度にある程度満足していたようだ。出版された楽譜においてはデ・クーニングのドキュメンタリー映像のことは言及されていない。現に、フェルドマンの楽曲リストの中で「De Kooning」は映画音楽ではなく独立した楽曲として位置付けられている。

 結局は採用されなかった「Something Wild」のサティ風の小曲の例からわかるように、フェルドマンの映画音楽は、音楽における抽象性を探求し続けた彼の「通常の」楽曲とは明らかに趣が違う。職業映画音楽家ではない作曲家にとって、映画や映像の音楽は既に確立された作曲家としてのパブリック・イメージとは違う音楽を書く実験の場でもある。このことはフェルドマンにも当てはまるだろう。これまでこの連載でとりあげてきた彼の楽曲のほとんど全ては、標題を持たず(放棄している、背を向けているともいえる)、旋律(メロディ)や伴奏といった声部間の明確な機能と役割分担もほとんどなく、その概要の説明に骨の折れる類の音楽である。だが、例えばサモア諸島の東側、アメリカ領サモアの人々の生活を追ったドキュメンタリー「American Samoa: Paradise Lost?」のための音楽を聴くと、やはりフェルドマンも映画音楽の中で普段の彼のパブリック・イメージとは違うことを大胆に行っていたのではないかと考えられる。

 「American Samoa: Paradise Lost?」はサモア諸島の人々の暮らしと、アメリカ統治下で彼らが直面している様々な社会問題を扱ったドキュメンタリーだ。当然ながら、フェルドマンはサモアの風土や文化を彷彿させる要素をこの音楽に何一つとりいれていない。青年がカヌーで海に繰り出す冒頭のシーンには、ハープの伴奏によるコルネットの穏やかで素朴な旋律の音楽がつけられている。この旋律にはしばしばフェルドマンが単音楽器に課す1オクターヴ以上にもおよぶ極端な跳躍や、三全音などの不穏な音程がほとんど用いられておらず、人間が無理なく身を委ねることのできる自然な音楽の流れが形成されている。このコルネットの旋律はフルートなど他の楽器でもその都度少しずつ違うかたちで演奏されることから、この映画音楽におけるライトモティーフのような機能を持っているともいえる。コルネットによる旋律の他に、チェロ、トロンボーン、マリンバ、ヴィブラフォン、ピアノで構成された輪郭のはっきりした快活な曲が劇中で何度か聴こえてくる。もしも、このような雰囲気の曲を「Something Wild」のために書いていればフェルドマンは降板させられなかったかもしれないが、「American Samoa」でのフェルドマンによる仕事ぶりから彼は映画音楽の作曲家としての任務を果たしていて、その能力も充分に持っていたことがわかる。従来のフェルドマンの曲に慣れている人にはこの映画における一連の穏やかで、時にロマンティックな音楽がかえって不気味にも聴こえ、裏に何かあるのではないかと勘ぐってしまいたくなるだろう。しかし、何度聴き返してもこの映画音楽には聴き手を不安にさせる要素はほとんどないので最初から最後まで安心して聴くことができるし、映画を観る際の妨げにもならない。

American Samoa: Paradise Lost?
part 1 https://www.youtube.com/watch?v=pF3wieHjtPM
part 2 https://www.youtube.com/watch?v=ssrzxlTePfA

 旋律は従来のよく知られたフェルドマンの音楽において異例で特殊な要素だ。だが、60年代に彼が映画音楽で試みた旋律による実験は一過性のものではない。フェルドマンは映画音楽で初めて旋律を書いたわけではなく、既に1947年、ライナー・マリア・リルケの詩に曲をつけた無伴奏の独唱曲「Only」を作曲している。また、旋律の要素は60年代以降の創作の一部に引き継がれている。未出版だが、フェルドマンは1960年にボリス・パステルナークの詩に曲をつけたピアノ伴奏付き歌曲「Wind」を作曲している。70年代を代表する楽曲「The Viola in My Life 1-4」(1970-71)と「The Rothko Chapel」(1971)にも旋律が現れる。これらの楽曲での旋律はシナゴーグの鐘の音に触発されたといわれているが「American Samoa」でのコルネットの旋律ともそう遠くない関係に聴こえる。映画や映像の音楽に着目すると、その作曲家のこれまでの創作やその後の動向を知る手がかりとなる。映画音楽の中で突然出てきたように見えるフェルドマンの旋律だが、このように視野を広げて見てみると、彼の創作の変遷において旋律の要素が実は密かに連続しているとわかる。

Feldman/ Only (1947)

2. 60年代前半の室内楽曲の編成 

 先に触れた「Something Wild」や「American Samoa」の音楽ではチェレスタ、ヴィブラフォン、コルネット、ハープといった、50年代までの楽曲にはほとんど登場しなかった楽器が用いられている。この傾向はフェルドマンの映画音楽に限ったことではなく、「通常の」彼の音楽も1960年頃から楽器の編成に変化が見られる。むしろ彼の音楽全体が1960年前後を境に新たな段階に突入したといった方がよいかもしれない。1950年代のフェルドマンの楽曲に頻繁に用いられているのはピアノ、チェロ、ヴァイオリン、フルートで、図形楽譜による室内楽編成の楽曲にはトランペット、ホルン、チェレスタがしばしば登場する。1960年に始まる「Durations」シリーズを皮切りに風変わりな編成による室内楽作品がこの時期のフェルドマンの作曲の中心となっていく。1960年以降の室内楽編成の楽曲に頻出する楽器として、主にフルート、アルトフルート、ホルン、トランペット、トロンボーン、チューバ、ヴィブラフォン、打楽器、ハープがあげられる。1961年の図形楽譜の楽曲「The Strait of Magellan」でのエレクトリックギターの使用と1963年の無伴奏の合唱曲「Christian Wolff in Cambridge」も1950年代までのフェルドマンの楽曲には見られなかった試みだ。1960年代前半の主な室内楽作品の編成を見てみると、この時点でフェルドマンが用いた木管楽器は主にフルートとアルトフルートで、オーボエ、クラリネット、ファゴットはほとんど使われていない。弦楽器と金管楽器には偏りがないものの「Durations 3」はヴィオラとピアノにチューバという、やはりあまり見慣れない組み合わせでできている。「Vertical Thoughts」3と5、「For Franz Kline」など、この時期のいくつかの楽曲には声のパートもアンサンブルの一員として登場する。「Vertical Thoughts」3と5ではヘブライ語で書かれたユダヤ教の聖典タルムードTalmudの詩篇 Psalm第144篇からの1節を英訳した「life is a passing shadow」がテキストとして用いられている。「Vertical Thoughts 5」においては、チューバとティンパニと太鼓類が轟く中でソプラノがひきのばされた1音にテキストのうちの1語か2語をのせて歌う。ソプラノが1音ないし1語を歌い終わると、次の音が出てくるのはそれからしばらく間を置いてからだ。このように途切れ途切れの断片としてソプラノの声部が書かれているので、この声は歌の旋律とはいえないかもしれない。通常、楽器の音に対して人間の声は聴き手に特別な注意を引くが、曲が進むにつれて、ソプラノの声色としての認識さえ曖昧になってくる。ここでのソプラノはどちらかというと楽器のパートと同等な一声部の意味合いが強いといえるだろう。打楽器にかんしては、フェルドマンのこの時期の楽曲ではヴィブラフォンが、鍵盤楽器にかんしてはピアノの他にチェレスタが頻繁に用いられている。チェレスタは1970年代以降の楽曲にも特によく登場し、多くの場合、ピアノ奏者がピアノとチェレスタを兼ねている。映画と映像の音楽においてもこの2つの楽器の音が聴こえてくる瞬間がいくつもあり、70年代、80年代の楽曲でもこれらの楽器の登場回数が多い。

Feldman/ The Straits of Magellan (1961)
Feldman/ Christian Wolff in Cambridge (1966)
Feldman/ Vertical Thoughts 5

1960年代の主な室内楽曲の編成
Durations (1960-1961)
1: アルトフルート、フルート、ピアノ、ヴァイオリン、チェロ
2: チェロ、ピアノ
3: ヴィオラ、チューバ、ピアノ
4: ヴィブラフォン、ヴァイオリン、チェロ
5: ホルン、ヴィブラフォン、ハープ、ピアノ/チェレスタ、ヴァイオリン、チェロ

The Straits of Magellan (1961): フルート、ホルン、トランペット、ハープ、エレクトリックギター、ピアノ、コントラバス

Vertical Thoughts (1963)
1 : 2台ピアノ
2 : ヴァイオリン、ピアノ
3 : ソプラノ、フルート/ピッコロ、ホルン、トランペット、トロンボーン、チューバ、打楽器2(トムトム、ティンパニ、アンティーク・シンバル、ゴング、ヴィブラフォン、モーター付きグロッケン)、ピアノ/チェレスタ、ヴァイオリン、チェロ、コントラバス
4 : ピアノ
5 : ソプラノ、チューバ、打楽器(大太鼓、トムトム、ティンパニ、アンティーク・シンバル)、チェレスタ、ヴァイオリン
*6番、7番は未完

For Franz Kline (1962): ソプラノ、グロッケンシュピール、ピアノ、ヴァイオリン、チェロ、チャイム

De Kooning (1963): ホルン、打楽器(テナードラム、大太鼓、アンティーク・シンバル、ヴィブラフォン、モーター付きグロッケン)、ピアノ/チェレスタ、ヴァイオリン、チェロ

 上記の一覧を見ると、たしかにこの時期からフェルドマンの楽曲は編成の幅が広がっている。しかし、彼はこれらの試みを通して楽器や声固有の豊かな音色の世界を探求していたのではない。むしろフェルドマンの場合はその逆で、楽器や声の音の特性を引き出すよりも覆い隠す方に注力する傾向が見られ、それぞれのパートを出どころのわからない音として響かせようとしていた。この傾向は1962年の「For Franz Kline」でも顕著だ。この曲は1961年5月13日に脳卒中で急逝した抽象表現主義の画家、フランツ・クライン[6]を偲んで作曲された。この曲はフェルドマンが親しい友人の名前をタイトルに付けたシリーズの最初の作品でもある。グロッケンシュピールとチャイムが用いられているので、きらびやかな音の響きを期待してしまうが、実際の鳴り響きは必ずしもそうとはいえない。グロッケンシュピールとチャイム、そしてホルンが用いられているにもかかわらず、なぜかくすんだ音色が聴こえてくるのだ。もしもクラインとフェルドマンの創作の態度に通じる事柄があるならば、それは絵画における色彩と音楽における音色の関係に見出すことができるだろう。

Feldman/ For Franz Kline (1962)

 クラインの晩年はあたかも色彩を邪魔者として扱うか[7]のような、黒と白のモノトーンを基調にした作風だった。絵画なのに色彩を邪魔とみなし、用いる色を黒と白に限定するクラインのやり方は、楽器本来の音色の魅力を引き出すのではなく全体的にくすんだ響きを志向したフェルドマンの書法と重なっている。Bernardはこの曲の音色の特徴を楽器の組み合わせ、抑制されたダイナミクスと最小限のアタック、楽器と声との垂直な(和音として重なる音)組み合わせの3つの観点から述べている[8]。1つ目の楽器の組み合わせについては、フェルドマンの楽器法がその楽器の特性を活かす音型をあえて回避していることが指摘されている。たとえば、呼吸に基づいた滑らかな連続と持続は声(ソプラノ)の音楽的な特徴の1つだが、フェルドマンはこの曲において断片的な音型や単音をソプラノのパートに課すことが多い。

ホルン、歌詞のないソプラノ、チャイム、ヴァイオリン、チェロの組み合わせは最大限「カラフルに」することを狙っているように思えるが、実際、この組み合わせはまったくそんな風に鳴り響かないのだとわかる。奇妙なまでに個性が抑制されている効果の理由は、これらの楽器が「通常の」オーケストレーションの中でその楽器だとわかるような固有の音型やパッセージの中で用いられていないからだ。これらの楽器は単音で構成された声部、安定しない時間の中でひきのばされた、あるいは孤立した和音の中に現れる。時間的に隣接しているソプラノの音高は、跳躍によって分断されていて、たいていの場合大きく離されている。

The combination of horn, wordless soprano, piano, chimes, violin, and cello seems destined to be “colorful” in the extreme. Yet somehow it turns out not to sound that way at all. One reason for the curiously neutral effect is that the instruments are not displayed in any of the characteristic figures or passagework that often serve to identify them in “normal” orchestrational situations: the parts consist of single notes, sustained for varying lengths of time, or isolated chords; the soprano’s temporally adjacent pitches are all separated by leaps, usually large ones.[9]

 2つ目の、全体的に低く抑えられたダイナミクスと最小限に留められたアタックは、「パート間に生じるはずの差異を均すことにつながる (which) tends to smooth out the differences that might emerge among the instruments in these dimensions」[10]効果に一役買っている。通常、声、弦楽器、管楽器、打楽器、ピアノといった種類の異なる音色を用いる目的は多様な響きを獲得するためだが、フェルドマンは違う。彼は様々な種類の音色を駆使してモノトーンを目指しているのだ。これは絵の具を何色も混ぜていくと最後には黒や茶色のよくわからない色に行き着いてしまう現象とも似ている。3つ目の楽器と声との垂直な組み合わせは各パートが同時に響くことを意味し、Bernardは3つの中で最も重要な事柄とみなしている。

3つ目の要因はおそらく何よりも重要だ。それは楽器と声が作り出す垂直な組み合わせで、そのどちらも慣習的な楽器や声として認識されない。響きに対するフェルドマンの完全に独創的な耳(訳注:聴き方)は、どのパートが最も低く、どのパートが最も高く、どのパートがその中間なのかをしばしばフラストレーションを感じながら特定しようと試みる練習であることを意味する。

A third factor, perhaps the most important of all, is the kind of vertical combinations that the instruments and voice form, none of which are recognizable as conventional. Feldman’s utterly original ear for sonority means that it is often an exercise in frustration to try to identify which part of lowest, which highest, which in between.[11]

 この3つ目の指摘は若干の説明が必要だ。フェルドマンの多くの曲、特に50年代のピアノ曲によく見られるのが、例えばC4からD3のように隣接した音高間の移行を、あえて1オクターヴかそれ以上の広い間隔で行うことによって音の高低の間隔と感覚両方をあいまいにさせる手法だ。曲中、この手法が和音の重なりとして試みられている。これまで、この手法はある音からある音へ移る際に用いられてきたが、今度は同時に鳴らされるひとまとまりの音の中で音の高・中・低の感覚を混乱させようとしているのだ。実際に、この曲の中でどの音がどのパートによるものなのかをスコアを見ずに聴き分けるのはあまり簡単ではない。冒頭にテュッティで鳴らされる和音でさえ、ホルンとソプラノとチェロという全く違う種類の音なのに、どれがどのパートの音なのかを正確に特定するにはある程度訓練された耳でないと難しい。それぞれの楽器の音色と、その楽器の特性を活かした音楽に慣れてしまった私たちの耳は、この曲のように楽器の個性をできるだけ抑えた響きに対してBernardがいう「フラストレーション」を感じてしまうだろう。「For Franz Kline」を聴いて、それぞれのパートが特定できなければできないほど、この曲でのフェルドマンの試みは成功しているともいえる。

 詳しくは次回に解説する予定だが、この曲のスコアは拍子や小節線のない自由な持続の記譜法で書かれている。曲の随所に記された数字とその上に書かれたフェルマータは通常の五線譜における全休符と同じ役割である。Bernardはフェルマータで記された休止と静止の空間をクラインのモノトーンの絵画における白の部分に、音符を黒の部分に見立てている[12]。しかし、この曲では静寂と音とがはっきりと区分けされておらず、白と黒とが混ざり合った灰色の状態を作り出している。これをBernardは次のように描写する。

実際にこの曲の静寂の性質は音の性質と不可分で、音の響きは1つ、2つ、3つかそれ以上の楽器が同時に鳴っている事実を以ってしても、はっきりと階層付けられるわけではない(おそらくその理由の一部として、同じタイミングでのアタックであれ、楽譜の中の音符が記譜された通りのタイミングで同時に鳴ることがほとんどないからだ)。

The quality of silence in this work, actually, is inseparable from the quality of sound, in which sonorities are not markedly hierarchized by the fact of one, two, three, or more instruments sounding at once (probably in part because notes sounding at the same time are rarely if ever attacked at the same time).[13]

 前回とりあげた「Piece for 4 Pianos」と同じく、この曲でも記譜と実際の鳴り響きが完全に一致しない。一斉に始まる冒頭を除いてそれぞれのパートが各自のペースで進むので、楽譜の上では同じタイミングで垂直に整然と重なっている音やフェルマータであっても実際はそれぞれの出来事が起こるタイミングには微妙なずれが生じる。フェルドマンは各パートの随所にフェルマータを記すことで音の鳴っていない状態を作り出しているが、この曲ではすべてのパートに同じタイミングでフェルマータが付けられている箇所はなく、いくつかのパートにフェルマータが付いていようと常にどこかで音が鳴っている。このようなはっきりしない音と静寂の混ざり合いも、フェルドマンにとってはモノトーンの音楽を具現する1つの手段だったのだろう。

 通常、音楽における豊かな色彩の感覚は概ね肯定的な特性として歓迎されるはずだが、フェルドマンは「For Franz Kline」において「豊かな」音色や色彩という美的価値観とは逆のことを試みているのだ。この曲に見られるように多様な楽器を用いるが、その楽器の特性を活かすのではなくて、できるだけ抑えることで、どっちつかずのよくわからない音響を創出する手法は1960年代のフェルドマンが新たに到達した境地の1つでもある。

3. 打楽器作品における音色へのアプローチ 「The King of Denmark」

 図形楽譜の楽曲でもフェルドマンは楽器法と音色に対する独自のアプローチを追求していた。1964年に作曲された「The King of Denmark」は打楽器の独奏曲で、フェルドマンの楽曲の中では演奏される頻度が高い。この曲のスコアはこれまでに紹介してきた図形楽譜の楽曲――「Intersection」シリーズ(1951)、「Ixion」(1958)――とほとんど同じ形態をとっていて、縦の段が音域、横の方向が時間の経過を示す。他の図形楽譜の楽曲と同じく具体的な音高は記されず、マス目(スコアの指示書では四角形、またはボックスと記されている)に演奏すべき音の数と演奏指示が記されている。テンポは1つのマス目あたり1分間に66-92と幅がある。図形楽譜を約5年ぶりに再開した1958年以降の楽曲ではマス目に装飾音や八分音符も書かれるようになり、50年代前半の図形楽譜よりも緻密になったことは前回解説したとおりだ。「The King of Denmark」の最後はヴィブラフォンと、グロッケンシュピールかアンティーク・シンバルで演奏する音が五線譜で書かれており、フェルドマンの図形楽譜の書法に新たな側面が加わっている。

The King of Denmark (1964) スコアと演奏を同期させた映像
The King of Denmark (1964) 同じ演奏者による演奏の映像

 この曲で興味深いのはやはり打楽器の種類と音色との関係である。予め明記されているゴング、シンバル、トライアングル、ティンパニ、ヴィブラフォン以外の楽器の選択は演奏者に委ねられている。スコア冒頭には以下の演奏指示が記載されている。

  1. グラフに記された高・中・低の四角形1つをMM 66-92のテンポとみなす。最上段あるいはそれより少し上の場所は最高音域。最下段あるいはそれより少し下の場所は最低音域。
  2. 数字は1つの四角の中で演奏される音の数を示す。
  3. 全ての楽器はスティックやマレットを使わずに演奏しなければならない。演奏者は指、手、あるいは腕のどの部分を使って演奏してもよい。
  4. ダイナミクスは極端に抑えてできるだけ均等に。
  5. 太い水平線[14]はクラスターを示す。(可能ならば様々な楽器で演奏すべき)
  6. ローマ数字は同時に鳴らす音の数を示す。
  7. (高・中・低の四角の全部に及ぶ)大きく書かれた数字は全ての音域でどのような時間のシークエンスでも演奏できる単音を示す。
  8. 破線は引きのばす音を示す。
  9. ヴィブラフォンはモーターを使わずに演奏する。
  • 各種記号:
    • B ベルのような音
    • S 膜鳴楽器(訳注:あるいは太鼓類)
    • C シンバル
    • G ゴング(訳注:銅羅)
    • R ロール
    • T. R. ティンパニのロール
    • △ トライアングル
    • G. R. ゴングのロール
  1. Graphed High, Middle and Low, with each box equal to MM 66-92. The top line or slightly above the topline, very high. The bottom line or slightly beneath, very low.
  2. Numbers represent the number of sounds to be played in each box.
  3. All instruments to be played without sticks or mallets. The performer may use fingers, hand, or any part of his arm.
  4. Dynamics are extremely low, and as equal as possible.
  5. The thick horizontal line designates clusters. (instruments should be varied when possible.)
  6. Roman numerals represent simultaneous sounds.
  7. Large numbers (encompassing High, Middle and Low) indicate single sounds to be played in all registers and in any time sequence.
  8. Broken lines indicate sustained sounds.
  9. Vibraphone is played without motor.
  • Symbols Used:
    • B-Bell-like sounds
    • S-Skin instruments
    • C-Cymbal
    • G-Gong
    • R-Roll
    • T. R.-Tympani roll  
    • △- Triangle
    • G. R.-Gong roll [15]

 即興演奏と混同される可能性や、演奏者の手癖やパターンが入り込んでしまう余地のあった50年代の図形楽譜に比べると「The King of Denmark」は具体的で明確な演奏方法が記されているように見える。だが、スコアにはこの演奏指示には含まれていない記号がいくつか存在する。クラスターは太線で示されているが、曲中にはグリッサンドも登場する。斜線がグリッサンドを示し、1つの音域で完結していることもあれば、複数の音域をまたぐこともある。装飾音もしばしば登場するが演奏指示では言及されていない。たいていのフェルドマンの楽曲における装飾音はあまり速すぎないように演奏することが指示されているので、おそらくこの曲の装飾音にも同じ演奏方法が適用される。数字のみが記されている箇所ではその音域に即した楽器を選んで、その数字と同じ数の音を1つのマス目の中に収まるように演奏しなければならない。これは最初期の図形楽譜「Projections」シリーズから一貫した方法だ。初期の図形楽譜はほとんどがチェロ、ピアノ、ヴァイオリンなど音高のある楽器で演奏されるため、マス目に書かれた数字の数だけ指定された音域内で異なる音高を演奏すれば、音高による差異の効果が音楽にもたらされる。打楽器で演奏され、さらに楽器の選択も演奏者に任されているこの曲では、初期の図形楽譜の場合とやや事情が異なる。例えば冒頭の高音域のマス目に7と書かれた場所では、この7つの音を高音域の同じ楽器、同じ音色で演奏しても間違いではない。しかし、できるだけ違った種類の楽器や音色で高音域の7つの音を鳴らした方がより多様な音色による効果が得られるのも事実だ。リンク先の映像では、演奏者はこの7音をガラスの皿、陶器、鈴、カウベル、小型の太鼓など様々な楽器で鳴らしている。選択肢が広がった分、演奏者は効果的な楽器の組み合わせを考える必要がある。

 冒頭の7音のように、異なる楽器の組み合わせによる多様な音色を狙った箇所もあれば、同属の楽器の響きでの演奏が各種記号や文字によって指定されている箇所もある。スコア1ページ目2段目の後半はゴング、2ページ目の2段目の後半は皮(膜鳴楽器)、3段目はシンバルが指定されている。3ページ目1段目はベルのような音がこの段の半分以上を占めている。ゴングとシンバルの場合は大きさや種類の異なるそれぞれの楽器を用意すれば3つの音域に応じた音を出すことができる。だが、3ページ目の「ベルのような音」の指示はやや漠然としていて、演奏者に音のイメージの構築が求められる。リンク先のスコア付きの映像では4分11秒、演奏の映像では4分18秒頃からこの「ベルのような音」の箇所が始まる。この演奏では演奏者は大きなカウベル、アンティーク・シンバル、ヴィブラフォン、金属製のボウルなどを使ってベルのような音を作り出している。この「ベルのような音」は金属の音とも解釈できるが、この曲の演奏とその分析を行った打楽器奏者のDaryl L. Prattは、トライアングルのパートが別個に三角形の記号で書かれているので、ここに含めない方がよいという見解を示している[16]。演奏実践の視点から考えると、この曲では奏法、音色、楽器の属性が響きの性格を決める重要なパラメータとして機能しているといえる。では、フェルドマンは打楽器の音色についてどのように考えていたのだろうか。

 実際のスコアの演奏指示と違いがあるが、1983年のジャン・ウィリアムズによるインタヴューの中で、この曲を作曲した当時フェルドマンは打楽器の音を楽器の大きな一群とみなし、金属、ガラス、木の音に分類した[17]と語っている[18]。だが、これらの分類に基づくそれぞれの音は金属製の楽器で金属の音を出すことや木製の楽器で木の音を出すことを必ずしも意図しているのではなく、どんな種類や素材の打楽器でも「耳にとって金属のように聴こえる音、ガラスや木に聴こえる音sounded like metal, sounded like glass and wood to the ear」[19]を出すことができればこの分類に適った音になる。「The King of Denmark」は奏者が指定された箇所にどの楽器を割り振るかによって演奏の結果生じる音の響きが大きく変わってくる点で不確定性の音楽である。だが、演奏指示とスコア、そして上記の発言から、フェルドマンはどこをどの音色で演奏すべきか、この曲の中で自分が理想とする音色のイメージをある程度具体的に持っていたようにも思われる。おそらくここで彼が求めていたのは、その出自が特定されている「〜という楽器の音」よりも、出どころのあまりはっきりしない「〜のような音」や、既存の楽器から生じる「〜とは思えない音」だったのかもしれない。通常、打楽器は様々な度合いのアタックがその音響や音色を特徴付けるが、スティックとマレットを用いた演奏を禁じたこの曲では、従来の打楽器奏法では得られないアタックの音響的な効果も期待されている。

 フェルドマンによれば「The King of Denmark」はガムラン音楽、ジョン・ケージの1940年代初期の楽曲、ヴァレーズの楽曲をモデルにして書かれた[20]。彼はロングアイランドのビーチに座って数時間でこの曲を書き上げた時の様子を次のようにふりかえっている。

作曲していた時の記憶を実際に呼び起こすことができる――遠くで微かに聴こえる子供たちの声、トランジスターラジオの音、ブランケットを敷いた他の人たちの場所から漂う会話といった音がこの曲に入り込んできたことを覚えている。私が言っているのはこの種の断片のことだ。私はこの断片にとても大きな印象を受けた。長く続かない物事の印象がこの曲のイメージとなった。それは周りで起きていたことのイメージだ。このイメージを補強するために、いかなるマレットも使わず、指と腕を使うことを思いついた。そうすることで全部の音がそこにただ漂っては消え、長い時間そこに残らないのだ。

And I can actually conjure up the memory of doing it—that kind of muffled sound of kids in the distance and transistor radios and drifts of conversation from other pockets of inhabitants on blankets, and I remember that it did come into the piece. By that I mean these kinds of wisps. I was very impressed with the wisp, that things don’t last, and that became an image of the piece: what was happening around. To fortify that, I got the idea of using the fingers and the arms and doing away with all mallets, where sounds are only fleetingly there and disappear and don’t last very long.[21]

 これを読むと、フェルドマンがビーチで見聞きした様々な出来事とその音の断片がこの曲の音の響きのイメージを形成していることがわかる。彼は、打楽器奏者がスティックやマレットを使わず、全ての楽器を自身の指と腕で演奏しなければならないアイディアを作曲中に思いついたといっているが、これについては別の説がある。1964年秋に行われたニューヨーク・アヴァンギャルド・フェスティヴァルでこの曲を初演したマックス・ノイハウスによれば、指や手だけを用いる演奏はフェルドマン立ち合いのもとで行われた練習の中で現れたアイディアだったらしい。

2回目と3回目のセッションでも彼(フェルドマン)はまだ「違う、音が大きすぎる、うるさすぎる」と強く主張した。打楽器科の学生だった頃、コンサートが始まる直前のステージで自分たちのパートをいつもどのように練習していたかを突然思い出した。観客に自分たちの練習の音が聴こえないようにスティックではなくて指を使っていたのだ。私はスティックを下に置いて、自分の指だけで練習した。モーティは仰天して「それだ、それだ!」と叫んだ。

In the second or third session, he was still insisting, ‘no, it’s too loud, too loud’. I suddenly remembered how, as percussion students, we used to practice our parts on stage just before a concert started. In order that the audience not hear us, we used our fingers instead of sticks. I put down my sticks and started to play with just my fingers. Morty was dumbstruck, ‘that’s it, that’s it!’ he yelled.[22]

 2人の間での記憶の違いがどうであれ、打楽器曲にもかかわらず「The King of Denmark」ではフェルドマンの他の多くの楽曲と同じく、できるだけ控えめに、ダイナミクスを抑えた演奏が求められる。具体的な楽器の種類が全て特定されていないものの、太鼓類やトライアングルでアタックや音量を曲の間中できるだけ抑えて、しかも可能な限り平坦なダイナミクスで演奏しなければならない。この点からも先に触れた「For Franz Kline」と同じく、この曲はその楽器本来の特性を活かす書法とは逆の方法で書かれているといえる。

 最初から最後までダイナミクスを控えめに静かに演奏しなければならないことの狙いには、実は別の背景がある。エバーハルト・ブルームによれば、フェルドマンはニューヨークでカールハインツ・シュトックハウゼンの「Zyklus」(1959)を聴いた後、自身の打楽器曲(「The King of Denmark」)を「「Zyklus」に対するアメリカ的な返答 the American answer to “Zyklus”」[23]と述べた。シュトックハウゼンの「Zyklus」はトムトムやログドラムの強打が印象的な、どちらかというと「うるさい」類の楽曲だ。一方、「The King of Denmark」は終始アタックとダイナミクスを抑えて演奏される「静かな」類の楽曲である。誰か(シュトックハウゼン)が大きな音の打楽器曲を書いたので、自分(フェルドマン)は大きくない音の打楽器曲を書いてみたといったところだろうか。「Zyklus」の存在を視野に入れることで、打楽器曲にもかかわらずフェルドマンが静かさや最小限のアタックにこだわった理由がより明確になる。

 フェルドマンは作曲が終わってからこの曲に「The King of Denmark」とタイトルをつけた。タイトルについて彼は「長続きしないもの、はかなさ、絶対的に静寂であることへの哀愁があった。There was something about the wistfulness of things not lasting, of impermanence, and of being absolutely quiet.」[24]と語っている。作曲当時のフェルドマンはこれらのイメージと、第二次世界大戦期のナチスに抵抗してダビデの星をつけ、何も言わずに街を歩き回ったデンマーク王クリスチャン10世の逸話とを重ねた[25]。クリスチャン10世の逸話は事実とは異なるという説があるが、ダビデの星をつけた彼の行動は無言の抵抗の象徴として今も語り継がれている。なぜクリスチャン10世がビーチにいたフェルドマンに去来したのか、彼自身その理由を明かしていないが、この2つは「その時の自分の頭の中で強く結びついていた。there was a strong connection in my mind at that time」[26]。一方、ブルームは「The King of Denmark」をフェルドマンの他の楽曲には見られない唯一の政治的な性質を帯びた楽曲だとみなしている[27]。デンマーク王クリスチャン10世にまつわる逸話をふまえると、この曲は音から人間に対する無言の、あるいは小さな声での抵抗とも考えられるのかもしれず、フェルドマンが人の手によって音を操作する、秩序付けることについて逡巡し続けていた作曲家だったことも思い出される。1960年代の彼の創作においても「音そのもの」は引き続き重要な命題として彼につきまとっていた。

 今回は映画音楽、室内楽、図形楽譜の楽曲における音色の観点から1960年代前半のフェルドマンの創作をたどった。ここでとりあげたいくつかの例からわかるように、彼は音色に対しても独自の考え方を持っていた。次回は1960年代の五線譜の楽曲の大半を占める、自由な持続の記譜法について考察する予定である。


[1]Morton Feldman Says: Selected Interviews and Lectures 1964-1987, Edited by Chris Villars, London: Hyphen Press, 2006, p. 265
[2] “Untitled film music”としてCD, Morton Feldman: Something Wild-Music for Film(KAI0012292, 2003)に収録されている。この映画音楽集の詳細はhttps://www.gramophone.co.uk/review/feldman-something-wild-music-for-film 参照。
[3] Morton Feldman Page https://www.cnvill.net/mfhome.htm 内の Morton Feldman Film Music https://www.cnvill.net/mffilmmusic.htm に各作品の詳細、映像や音源の抜粋が掲載されている。
[4] Feldman 2006, op. cit., p. 264
[5] Peter Niklas Wilson, “Canvasses and time canvasses: Comments on Morton Feldman’s film music” https://www.cnvill.net/mffilm.htm このテキストは脚注2で言及したアルバムのライナーノーツとして書かれた。
[6] Franz Kline (1910-1962) MoMAによるFranz Klineのページ参照 https://www.moma.org/artists/3148
[7] Jonathan W. Bernard, “Feldman’s Painters,” in The New York Schools of Music and Visual Arts: John Cage, Morton Feldman, Edgard Varèse, Willem de Kooning, Jasper Johns, Robert Rauschenberg, edited by Steven Johnson, New York: Routledge, 2002, p. 196
[8] Ibid., p. 196
[9] Ibid., p. 196
[10] Ibid., p. 196
[11] Ibid., p. 196
[12] Ibid., p. 197
[13] Ibid., p. 197
[14] 原文に“The thick horizontal line”と書いてあるので水平線としたが、スコアではクラスターは太い垂直線で記されている。
[15]The King of Denmark, EP 6963, 1965
[16] Pratt, p. 77
[17] Feldman 2006, op. cit, p. 151
[18] Ibid., p. 151
[19] Ibid., p. 151
[20] Ibid., p. 151
[21] Ibid., p. 152
[22] Max Neuhaus, https://www.cnvill.net/mfneuhaus.htm このテキストはCD The New York School: Nine Realizations by Max Neuhaus (22NMN.052, 2004)のライナーノーツとして書かれた。
[23] Eberhard Blum, “Notes on Morton Feldman’s The King of Denmark,” English translation by Peter Söderberg, https://www.cnvill.net/mftexts.htm
[24] Feldman 2006, op. cit, p. 152
[25] Ibid., p. 152
[26] Ibid., p. 152
[27] Blum, op cit.

高橋智子
1978年仙台市生まれ。Joy DivisionとNew Orderが好きな無職。

(次回更新は10月15日の予定です)