あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(17)-1 フェルドマンの最晩年の楽曲

文:高橋智子

 今回はフェルドマンの晩年に当たる1980年代の活動をたどる。後半はフェルドマンが再びサミュエル・ベケットと関わりを持ったラジオドラマ「Words and Music」、ベケットに捧げた「For Samuel Beckett」、彼の最期の楽曲「Piano, Violin, Viola, Cello」について解説する。

1 晩年の活動とベケット再び――「Words and Music」と「For Samuel Beckett」

 1971年秋にニューヨーク州立大学バッファロー校音楽学部教授に就任し、晴れて専業作曲家となったフェルドマンは、1977年のオペラ「Neither」、いくつかのオーケストラ曲の委嘱、自身のアンサンブルを率いてのアメリカ国内外への演奏旅行、音楽祭での招待講演など、今や国際的な作曲家としてのキャリアを順調に積み重ねていた。その活動範囲はアメリカやヨーロッパに留まらず、フェルドマンは1983年7月に第一南アフリカ放送協会(First South African Broad Corporation: SABC1)主催の現代音楽祭に招かれたフェルドマンは受講者の自作曲を用いた作曲のマスタークラスと、彼がひたすらしゃべり続ける講義を行った。[1] 1984年と1986年にはダルムシュタット夏季現代音楽講習会の講師を務めた。1984年には作曲家のヴァルター・ツィンマーマン Walter Zimmermanが企画した講演「The Future of Local Music」をフランクフルトで行なった。この講演は、ツィンマーマンの編集によるフェルドマンの著作集『Essay』[2] と、もう1つのフェルドマンの著作集『Give My Regards to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman』[3] に同じタイトルで収録されている。大学の学務、講演、演奏旅行などで多忙な日々を送っていたせいなのか、フェルドマンが1984年に作曲したのは前回解説したフルート、打楽器、ピアノ/チェレスタのための「For Philip Guston」だけだった。オランダのミッデルブルクで夏に開催される現代音楽講習会Nieuwe Muziekにて1985年から1987年までの3年間、フェルドマンはゼミナールと講義を行った。1986年にはバニータ・マーカス、ヤニス・クセナキス、ルイ・アンドリーセンが、1987年にはコンラッド・ベーマー、カイヤ・サーリアホがゲスト講師に招かれた。この時の講義のいくつかは『Words on Music Lectures and Conversations: Morton Feldman in Middelburg / Worte üebr Musik Vorträge und Gespräche』[4]1、2巻に収録されている。この講義録を編集したRaoul Mörchenは、「その果てしない大きさ、慣習をものともしない態度、迷宮のように渦巻く思考、自由奔放な展開、精密さと過剰さ、簡潔さと小さなこぼれ話、倫理観と喜劇的挿話による刺激的な組み合わせ its vast scale, its disregard of all conventions, the labyrinthine flow of thoughts, its rhapsodic development, the exciting combination of precision and excess, succinctness and anecdote, moralism and comic relief」[5]と表されるフェルドマンの講義スタイルそのものが彼の後期作品を理解する際の鍵になると述べている。ミッデルブルグではゼミ形式でのディスカッションも行われたはずだったが、Mörchenによれば、極めて雄弁なフェルドマンは時に受講者からの疑問や異論を認めず、彼自身の思考を披瀝し続けたようだ。[6]この連載でも数多く引用してきたフェルドマンの講演、エッセイ、インタヴュー等の言説を振り返ると、自身のゆるぎない信念をもとに熱弁をふるうフェルドマンの様子を想像できる。

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シャルル・ケクラン~フランス音楽黄金期の知られざる巨匠(3)

文:佐藤馨

 アントワーヌ・トードゥの和声クラスに正式に迎えられ、晴れてケクランはパリ音楽院の正規の生徒となった。ここで彼は、作曲家としての後の人生に大きく影響を及ぼす、三人の師と出会うことになる。

ジュール・マスネとの出会い

ジュール・マスネ(Jules Massenet, 1842-1912)はオペラ《タイス》《ウェルテル》《マノン》で有名。保守的とされるが、トマやデュボアが忘れられた一方で、マスネの美しいメロディは今も愛好されている。

 1892年10月、ケクランはジュール・マスネの作曲クラスに進んだ。はじめは聴講生としてクラスに出入りしていたが、トードゥの時と同様に、この2年後には正規の門下生として迎えられている。マスネは1878年からパリ音楽院で教鞭を執っており、ケクラン以前にもすでにガブリエル・ピエルネ、エルネスト・ショーソン、アルベリク・マニャールなどの才能ある作曲家たちが彼の下で学んでいた。
 ケクランは1935年3月に、この当時を振り返って≪Souvenirs de la classe Massenet≫(マスネ・クラスの思い出)と題した一連の回顧録をLe Menestrel誌に寄稿している。それによれば、マスネはアンブロワーズ・トマやテオドール・デュボワといった音楽院の同僚たちとむしろ同じ性質の作曲家であったにもかかわらず、自らとは異なる方向性をもつ弟子たちの音楽に口出しをしないで、むしろそれらを尊重して育む方針を持っていたという。例えば、若きフローラン・シュミットが自作の『サウルの幻影』をマスネに見せると、彼はこのようにコメントしたようである。

 とても興味深い!コンクールで人々に理解されるとは私は言いませんし、そうした方々が少なからず夢中になるということもないでしょうが。しかし、それはあなたにとってどうでもよいことです!そして、私にとってもそうなのです。[1]

 フローラン・シュミットは後に、ケクランと共に反骨精神に富んだ前衛として活動していくことになる。そうした彼の前衛気質に鑑みれば、マスネのこうした理解ある言葉は教師としての度量の広さをよく示しているといえるのではなかろうか。
 またマスネの教えは、何にも忖度せず、自らの音楽的アイディアを躊躇しない堅気な姿勢へとケクランを方向づけることになった。同じ回顧録の中でケクランは、作曲という行為に対する師の助言を紹介している。

 迅速に思考し、あらゆるアイディアをそれらが湧くと共に書き留めなさい。でないと、活用できたかもしれないものを時たま忘れてしまう恐れがある(たとえば、《マリー=マグドレーヌ》のデュオははじめ、私の心の中では、シンプルなリトルネッロでしかなかった)。――そうしてから、アレンジや作曲についてゆっくりと長く熟考しなさい。しかし、湧いてきた考えは決して追い払ってはならない。[2]

 ケクランにとって、マスネは第一級の教育者であった。彼の言葉は、ケクランの長い生涯にわたる膨大な作品群に結実している。その数もさることながら、一つ一つの作品に、彼の作曲上のアイディアが妥協なく満ちている。あるいは、音楽のみならず、執筆や講演などにおける精力的な活動もまた、マスネの言葉に根差したものだといえよう。ケクランが幼年時代に抱いた、最初の音楽への愛にマスネの歌曲が含まれていたことを思い起こせば、パリ音楽院での両者の邂逅には何かしら運命的なものさえ感じられる。

マスネのオラトリオ《マリー=マグドレーヌ》からデュオ

対位法の師、アンドレ・ジュダルジュ

アンドレ・ジュダルジュ(André Gedalge, 1856-1926)はジェダルジュと読まれることもあるが、一部出版譜の綴り間違いが原因の様子。ジャン=ジャック・カントルフがヴァイオリンソナタ2曲を録音し、2019年の東京公演でも披露するなど、再評価の兆しがある。

 マスネ・クラスの聴講生になったのと時を同じくして、ケクランはアンドレ・ジュダルジュから対位法とフーガの指導を受けるようになっていた。1884年に28歳という、ケクランと同じく比較的高い年齢になってからパリ音楽院に入学したジュダルジュは、エルネスト・ギローの下で作曲を学び(同級生にはデュカスとドビュッシーがいた)、1886年にはローマ賞第二等を得ている。ギローの下ではアシスタントも務めていたが、彼が1892年に亡くなると、今度はマスネがジュダルジュを引き取った。マスネもまたギローの教え子の一人であって、ジュダルジュはここでもアシスタントとして働くことになった。そうしてついに、1905年にはフーガと対位法のクラスの教授に就任し、彼は生涯この職を全うした。
 ジュダルジュの教え子にはケクランをはじめ、ラヴェル、フローラン・シュミット、ナディア・ブーランジェ、オネゲル、ミヨー、イベール、ジャン・ヴィエネなど、20世紀のフランス音楽の重要人物が多数含まれている。1926年にジュダルジュが亡くなると、La Revue Musicale誌上では追悼企画が行われ、弟子たちが彼へのオマージュを捧げた。その中で、ラヴェルはこう述べている。

 私にとってジュダルジュという人がどのようなものであったか、あなた方は恐らくご存知ないでしょう。私の一級の作品群に皆さんが見抜いておられる、構築の可能性と努力の数々、これらの実現に着手できるよう後になって私に教えてくれたのが彼なのです。彼の指導には特別な明晰さがありました。そのおかげで、作曲という仕事が学問的な抽象化とは別物だということを即座に理解しました。
 ピアノ三重奏曲を彼に捧げさせたものは、単に親愛の情だけではありません。それは師への直接的な尊敬の念なのです。[3]

 ケクランもまた同誌上で追悼の記事を寄せているが[4]、ジュダルジュがJ.S.バッハから続く対位法の伝統を正しく継承していたこと、そして管弦楽法の的確さや作曲における明晰と均衡への嗜好によって、若い世代の音楽家たちに少なからぬ影響を与えたことがそこでは指摘されている。「論理と明晰が絶対的に必要であると彼には感じられた。同時にそれは、モーツァルトとビゼーの後継であった。彼はぼかし、不明瞭、不器用なアマチュア主義を嫌った」[5]という記述からは、ジュダルジュの音楽が明晰さや均衡といった古典的な良さに根差すものであったことが読み取れる。加えて、世紀末から20世紀初頭にかけて猛威を振るったワーグナーやドビュッシーの流行とはジュダルジュが一線を画していたことも、ここでは含意されていよう[6]。また、簡潔さや明晰さを愛するという点で、後に現れた六人組との親近性さえもケクランはこの記事の中で示唆している。
 ケクランはこの類まれな教師の下で、その後の彼の作品の根幹ともなる、対位法の基礎を仕込まれたのである。

 彼は私[ケクラン]たちにJ.S.バッハへの愛着を抱かせ、偉大なるモーツァルトへの崇敬へと私たちを向かわせました(若い人々はいつもこのことが分かっていません。私もそうした人々の一人だったということです)。もっと後にこの時の歴史を綴る人が、シャルル・ケクランからダリウス・ミヨーまでの、音楽の若手世代の形成における影響という点で――作曲家としての無視できない役割に加えて――もしジュダルジュに触れないのであれば、それはひどい不正でしょう。[7]

あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(16) 1980年代の室内楽曲-2

文:高橋智子

2 1980年代の室内楽曲の記譜法

 フェルドマンの楽曲の変遷には必ずといってよいほど記譜法の変化が伴う。この連載では1950年代の五線譜と図形楽譜に始まり、1960年代のやや複雑になった図形楽譜と自由な持続の記譜法による五線譜、1970年代の五線譜への回帰にいたるまでの道のりをいくつかの楽曲を例にたどってきた。中東地域の絨毯に出会ったフェルドマンの五線譜による記譜法は1970年代後半からさらに緻密になり、微かな差異を伴って繰り返されるパターンとその配置から構成されるスコアの外見は「不揃いなシンメトリー」の概念を体現している。1980年代の記譜法は70年代後半の記譜法の延長線上にあるが、この時期の室内楽曲の記譜法の特徴として小節のレイアウト、パート間で異なる拍子があげられる。

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あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(16) 1980年代の室内楽曲-1

文:高橋智子

 中東地域の絨毯との出会いから編み出した概念「不揃いなシンメトリー」は、1970年代後半から1980年代前半のフェルドマンの作曲や記譜法に大きな影響を与えた。前回解説した1981年のピアノ独奏曲「Triadic Memories」はその影響をうかがえる代表的な楽曲の1つだ。今回は「不揃いなシンメトリー」のその後の展開として、1980年代前半の室内楽曲に焦点を当てる。

1 1980年代の室内楽曲の編成と演奏時間

 フェルドマンの創作変遷を振り返ると、1950年代と1960年代は小・中規模の室内楽曲の時期、1970年代は協奏曲風の編成を含むオーケストラ曲、オペラ「Neither」などの大規模な楽曲の時期として、時代ごとにおおよその傾向を掴むことができる。楽曲様式や技法の変遷に伴って記譜法も変化や発展を遂げている様子は、これまでにこの連載で何度も述べてきた通りである。1980年代に入るとアメリカだけでなくヨーロッパ各地での講演や演奏会に飛び回っていたフェルドマンだったが、惜しくも1987年9月3日に膵臓癌で亡くなってしまう。享年61歳。このような事情から1980年代は既にフェルドマンにとって晩年に当たる。1980年代の楽曲の特徴や傾向をひとことで表すのは難しいので編成、記譜法、技法の観点から概観する。

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2021年7月の新刊情報(ショーソン、シュトラウス/リスレ、ギーゼキング、諸井三郎)

2021年7月の新刊情報をお届けします。

エルネスト・ショーソン:ピアノのためのソナタ
フランスの作曲家であるエルネスト・ショーソンがパリ音楽院(現・パリ国立高等音楽・舞踊学校)に入学した翌年に作曲した「ピアノのためのソナタ (Sonate pour piano)」の楽譜が遂に出版されます。本作品の自筆譜は長らくフランス国立図書館に所蔵されていましたが、なぜかこれまで楽譜が出版されていませんでした。今回は出版にあたって、作曲家・ピアニストであり、ショーソンと同じパリ音楽院を卒業した榎政則が校訂及び解説を担当しています。本作品は、ベートーヴェンやシューベルトの影響を強く受けており、現在知られているショーソンの音楽からは想像もできない意外な一面を覗くことができます。なお、第3楽章の主題は彼のクラリネットとピアノの作品である「アンダンテとアレグロ」でも使用されています。

リヒャルト・シュトラウス/エドゥアール・リスレ編曲:交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」
リヒャルト・シュトラウスが19世紀末に作曲した交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」をドイツ生まれフランスのピアニストであるエドゥアール・リスレがピアノ独奏用に編曲しました。リスレはコルトーの先輩として彼の音楽性に影響を与えました。リヒャルト・シュトラウスの作品はヨーロッパでは2020年まで著作権法により保護されていたためにこれまでは未出版でした。イタリアのピアニスト・作曲家であるフランチェスコ・リベッタがラ・ロックダンデロン音楽祭で本編曲作品を演奏したことをきっかけに楽譜の出版を希望する声が出ていました。今回は、フランチェスコ・リベッタはもちろん、佐藤暖による解説も掲載し大変充実した楽譜となっています。

フランチェスコ・リベッタによる解説から抜粋
シュトラウスの音楽家として人生の軌跡は、ピアノ版においても非常に忠実に再現されている。リスレ版においては、原作の複雑なポリフォニーが鍵盤上で緻密に再現されており、演奏者の卓越した技術、特に高度な指の独立性が前提となっている。また、残響時間のコントロールが難しいピアノでは、オーケストラ特有の音の重なりを再現することは困難である。こうした場合にペダルを用いるとポリフォニーの明確さが失われてしまうため、この版ではカミーユ・サン=サーンス風の素早いオクターブの繰り返しが用いられている。(実際、リスレはサン=サーンスのエチュードの一部を2台ピアノ用に編曲している)。けれども、こうした奏法は各指への負担が非常に大きく、反復する音の数によっては経験豊富なピアニストであっても不自然にテンポを落とさざるを得ない。このような理由からも原曲の再現に大きな困難が伴うことが分かる。(翻訳:国田健)

ヴァルター・ギーゼキング:スカルラッティの主題によるシャコンヌ
ヴァルター・ギーゼキングのピアノ独奏曲「スカルラッティの主題によるシャコンヌ」は、ギーゼキングがドイツから北米大陸への演奏旅行に赴いた際にハンブルク・アメリカ・ライン運航の汽船ニューヨーク号の船中で作曲されました。最近ではドイツのピアニストであるヨゼフ・モーグがOnyxより本作品を含むCDをリリースしましたが、楽譜についてはポートランド州オレゴンに存在したPelisorious Editionsから私家版として非公式に出版されただけでした。今回は、音楽学者である高久暁による解説及び入念な校訂のもと正式な出版となります。なお本作品は著作権の都合により日本を含む一部の国にのみに発送可能です。

諸井三郎:ピアノソナタ ハ長調 第1番 作品5 (1933)
4点目の新刊は、弊社が数年前より継続して出版をしています諸井三郎の作品です。今回は「ピアノソナタ第1番 作品5」の楽譜が出版となります。諸井三郎はこれまでに約10曲ほどのピアノソナタを残しており、後々に新作品番号を自らの作品に割り振る際に本作品は「作品5」として作品表に登場しています。なお、新作品番号内で登場したピアノソナタは本作品を含め2曲のみです。自信を持っていたからこそ作品5となったのでしょう。ピアノソナタ第1番は諸井三郎のベルリン留学中に作曲され、演奏には30分ほどの時間を要し、当時日本人によって書かれたピアノソナタの中では最長の作品でした。

シャルル・ケクラン~フランス音楽黄金期の知られざる巨匠(2)

文:佐藤馨

 今回から、シャルル・ケクランの足跡を辿っていく。彼が生きた19世紀末から20世紀半ばにかけては、フランスという国を揺るがす事件が相次いだが、それらはフランスの音楽界にも少なからぬ影響を与えるものであった。特に1870年に起きた普仏戦争は、それまでオペラ中心主義であった楽壇の姿勢を一変させ、ドイツ・オーストリアに対して器楽分野での競争意識を燃やさせる強烈な一撃となったのである。

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あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(15) 不揃いなシンメトリーと反復技法-3

3 Triadic Memories パターンとその反復

文:高橋智子

 80年代最初のピアノ曲「Triadic Memories」は1981年7月23日に完成し、高橋アキとロジャー・ウッドワードに献呈されている。ウッドワードが1981年10月5日にロンドンで世界初演を、高橋が1982年3月18日にバッファローでアメリカ初演を行なった。標準的な演奏時間は約90分。3/8拍子で始まり、曲の前半は拍子が一定だ。時折、譜表が3段になる。メトロノーム記号によるテンポ表示はないが、フェルドマンの後期作品で慣例とされている63-66のテンポで演奏すると曲全体の長さが90分に満たないことから[1]、これよりも遅く演奏されることがある。反復記号が頻出するが、具体的な反復回数は指定されていない。いくつかの録音を聴いてみると、反復回数には奏者によって2〜6回の幅がある。もう1つ、この曲の演奏で特徴的なのはペダルの使い方だ。ペダルを半分踏み込む、ハーフ・ペダルが曲の間中ずっと指示されている。フェルドマンはハーフ・ペダルのアイディアを友人で画家のサイ・トゥオンブリー[2]のジェッソ(キャンヴァスに塗る下地材)の使い方から得たと語っている。

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あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(15) 不揃いなシンメトリーと反復技法-2

2 フェルドマンのピアノ曲

文:高橋智子

 「Triadic Memories」の考察に入る前に、このセクションでは、これまでのフェルドマンの楽曲におけるピアノ曲の位置付けと変遷について概観する。現在までに作曲年代が判明しているフェルドマンのピアノ曲をSebastian Clarenの著書Neither[1]とウェブサイト Morton Feldman Pageの「Works」[2]を参照して下記にまとめた。ここにまとめたのはピアノ独奏曲か複数ピアノによる楽曲で、ピアノと他の楽器による楽曲は含まれない。1950年以降の楽曲の( )の数字は演奏者の人数およびピアノの台数を表す。同じ( )に記されているのは初演時のピアニストの名前で、Tはデイヴィッド・チュードア、Cはジョン・ケージ、Fはフェルドマンを表す。

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あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(15) 不揃いなシンメトリーと反復技法-1

文:高橋智子

 前回は、中東の絨毯との出会いをきっかけに1977年頃からフェルドマンの音楽が新たな局面を迎えたことを解説した。前回に引き続き、絨毯にまつわる知識の深まりと熱意から生まれた概念「不揃いなシンメトリー」を参照しながらフェルドマンの楽曲における反復技法を考察する。

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吉池拓男の迷盤・珍盤百選(35) 文豪、鍵豪、二足の草鞋

THE 19 HUNGARIAN RHAPSODIES Played by 19 Great Pianists – VAI AUDIO VAIA/IPA 1066-2 1994年
Strauss Waltz Transcriptions Janice Weber(p) – ASV C DCA 540 (LP)1985年
WIEN, WEBER und STRAUSS Janice Weber(p) – IMP Masters MCD 12 1989年
RACHMANINOV transcriptions – Janice Weber(p) IMP Masters PCD 1051 1993年
Lola Astanova: Beautiful Classical Pianist, the Original Anti-Anxiety Adult Coloring Book 2020年

「正気だった6人の大人がセックス台風に巻き込まれる」、
「疲弊したシニシズムを笑いとセックスと陰謀の陽気な行列で着飾っている」、
「深い思考を刺激しないが雨の日の良い伴侶となるようなテンポの良いサスペンス」
「映画化権を譲渡!」━━━

 米amazonのBooksサイトにこんな内容紹介や書評が躍っている女性作家がいます。彼女の公式サイトでは7冊の小説が紹介されています。中でも、表の顔はヴァイオリニスト、しかしてその実態は米国秘密諜報員というLeslie Frostを主人公にしたちょいお色気スパイアクション小説はシリーズ化されています。残念ながら日本で邦訳出版されたものはありませんが、映画化権も売り買いされているようなので、米国ではそれなりに人気の大衆小説家なのでしょう。作家の名はジャニス・ウェーバー(Janice Weber)。小説の主人公さながらに彼女にももう一つの顔があります。それはピアスニトです。彼女の公式サイトには「作家」と「ピアニスト」の2つのページが用意されています。トップページでは「作家」の方が左側、「ピアニスト」が右側に並んでいるので、「左の方により重要なものを配置する」というホームページデザイン原則に則れば、彼女は「作家」としての自分をより重視しているように思えます。

Lola Astanovaの本は本当に塗り絵のようです

 ジャニス・ウェーバーのように二足の草鞋を履いたピアニストは沢山います。音楽関係のエッセイや教育本や自伝などを著した人は数知れずでしょうが、特大の草鞋はなんといってもイグナツィ・ヤン・パデレヅスキ(Ignacy Jan Paderewski)。第1次大戦中からポーランド独立のために活動し、ポーランド共和国第二共和政の第2代首相になっています。政界進出中はピアニストとしては活動しなかったようですが、引退後復帰。第2次大戦中は亡命政府の首相にもなっています。まさに音楽史上空前の二足目草鞋でした。20世紀前半の最高のピアニストとして語り継がれるヨゼフ・ホフマン(Josef Hoffman)は発明家としても活躍し、自動車の装置などを開発して特許を取りまくり、かなり儲けたといいます。俳優業ではピアニスト役(しかも本人役)が多いものの美貌で人気を博したアイリーン・ジョイス(Eileen Joyce)がいますし、かのスヴャトスラフ・リヒテル(Sviatoslav Richter)はグリンカの伝記映画でロン毛のフランツ・リスト役を務めていて大いに笑えます。ちなみにリヒテルは絵も得意だったそうで一時は画家を目指していたそうです。珍しいところでは週刊誌で水着グラビアを披露したリューボフ・チモフェーエワ(Lubov Timofeyeva)。どこかの海岸の岩の上で撮影したショットを今でも覚えています。クラシックのアルバムも出しているローラ・アスタノヴァ(Lola Astanova)はオトナの塗り絵本モデルを務めています。タイトルは「Beautiful Classical Pianist, the Original Anti-Anxiety Adult Coloring Book」、スゴいですねぇ。著作権の関係で中身はお見せできませんが、彼女の肉体美を全面的に展開したオトナの塗り絵が満載です。塗り絵本の表紙には「100% SATISFACTION」などと意味深な文字が躍っています。

THE 19 HUNGARIAN RHAPSODIES Played by 19 Great Pianists

 さてジャニス・ウェーバーに戻りましょう。彼女はピアニストとしてはどうなのか。その力量を如実に示すのは、VAIから1994年にリリースされた「THE 19 HUNGARIAN RHAPSODIES Played by 19 Great Pianists」でしょう。これは歴史上の有名ピアニストの録音を一人一曲ずつ選んで全曲盤に仕立てた企画アルバムで、グレゴリー・ベンコ(Gregor Benko)とウォード・マーストン(Ward Marston)というピアノマニア界の大巨頭がプロデュースしています。ここで錚々たる歴史的ピアニストたちと並んで大トリの第19番の演奏を務めているのがジャニス・ウェーバーなのです。しかも、この企画のために大巨頭たちからの要請で新録音をしています。いかに”そのスジの人”の間で彼女が評価されているかお分かりかと思います。

 彼女はマニアの間でもう一つの記録の持ち主としても知られています。ゴドフスキーのシュトラウス両手用編曲全3曲を1985年と1989年の2度録音しているのです。この複雑な難曲の全曲盤を複数回リリースしたのは彼女しかいません。2回とも他にローゼンタールやフリードマンのシュトラウス編曲ものも併せて弾いていて、しかも全く同じ選曲(収録曲順は違う)です。録音の演奏時間データは下記の通りです。

 ASV DCA 540 (LP)  1985IMP Masters MCD 12 1989
Rosenthal: Fantasia on Johann Strauss7:4711:16
Godowsky: Wein, Weib, und Gesang8:0813:21
Friedman: Frühlingsstimmen7:139:03
Godowsky: Kunstlerleben13:1916:51
Friedman: O Schöner Mai8:089:11
Godowsky: Fledermaus8:5011:59

 演奏時間が大きく違うのは、ASV盤の方では曲中の繰り返しをほとんど行っていないためです。演奏自体もASV盤の方がテンポが速めで勢いがあります。IMP Masters盤は音楽の潤い重視の大らかアプローチで、最初に聴いたときは別人かと思ったものです。確かに5年という短いインターバルで同じ収録曲のアルバムを出す場合には、こうした差異をわかりやすく演出するのも手でしょう。ASV盤はおそらくCD化されていません。シュトラウス=ゴドフスキーの両手用全3曲が入ったアルバムでは、完成度の点からはアムランに軍配が上がるでしょうが、ウェーバーのASV盤も多少粗削りな情熱に彩られた魅力ある1枚といえるでしょう。

 ジャニス・ウェーバーは1993年にユニークなラフマニノフ編曲集をリリースします。「愛の喜び」「愛の悲しみ」といった定番の編曲以外に、歌劇「アレコ」から「若いジプシー乙女の踊り」「ジプシーの男の踊り」の作曲者によるピアノ独奏版という珍しいものも弾いています。特に「ジプシーの男の踊り」のノリノリキレキレの突っ走り演奏は呆気にとられます。で、このアルバムの最も珍なるは最後に収められた「イタリアン・ポルカ」。この曲は1906年に作曲者本人による2台ピアノ版が出版されています。ここで演奏されているのは1938年にそれを改訂したバージョン。2台ピアノに加えてトランペット独奏が入ります。このトランペットのおマヌケな付け足し感と言ったら相当なもので、これまた呆気にとられます。CDの解説によればラフマニノフのマネージャーの企画発案だったようですが、うーーーむ、やめておいた方が良かったかと。ま、おかげでジャニス・ウェーバーのアルバムの忘れらない想い出とはなりました。

 ジャニス・ウェーバーはこの他にも演奏不可能な難曲として有名なリストの超絶技巧練習曲1838年版の全曲録音、さらにオルンスタイン作品集、最近では「薔薇」とか「海」をテーマにした作品集などをリリースしています。つまり、変な人、なのです。バリバリ系の豪腕を有する鍵豪ピアニストですが、レパートリーがとにかく変。フツーの刺激では我慢できない体質なのかもしれません。このあたりが「正気だった6人の大人がセックス台風に巻き込まれる」小説の作家でもある彼女のこだわりなのでしょうか。

SWIEN, WEBER und STRAUSS Janice Weber(p) –ASV番
IWIEN, WEBER und STRAUSS Janice Weber(p) – IMP Master盤
RACHMANINOV transcriptions – Janice Weber(p)

 マルチな活躍をするアーティストはマルチな刺激によって芸を多角な側面から磨くことがあります。こうした二足の草鞋を履いたピアニストの個性も楽しみの一つです。

【紹介者略歴】
吉池拓男
元クラシックピアノ系ヲタク。聴きたいものがあまり発売されなくなった事と酒におぼれてCD代がなくなった事で、十数年前に積極的マニアを終了。現在、終活+呑み代稼ぎで昔買い込んだCDをどんどん放出中。