黛敏郎:オール・デウーヴル(ピアノ独奏、もしくはピアノとドラムのために)

¥2,160

税込|A4
ピアノ譜:22ページ|パート譜:8ページ
企画製作:スリーシェルズ
発行:風の音ミュージックパブリッシング
浄書・校訂:青島佳祐・助川舞
協力:黛家


商品番号:TSE-002

在庫切れ

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説明

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作曲者の言葉
1947年、東京音楽学校在学中の作品である。当時、私はジャズに非常な興味を持ち、学校には内緒で、ジャズ・バンドのピアノを弾いていた。そのジャズ・バンドが現在“ブルー・コーツ”といっているバンドの前進であったが・・・・・・。 この作品は、そうしたジャズの溌剌たる躍動感、生命力に溢れたヴァイタリティを、純音楽的に表現しようと試みたものである。 第1楽章は、短いイントロダクションとブーギー・ウーギー。これはニグロのラグ・タイムに源を発する1940年代にアメリカで流行したジャズのリズムで、低音部の八分音符の動きが特徴である。『東京ブギ・ウギ』という歌謡曲が一世を風靡したのは、私のこの作品が書かれてから約1年後のことだった。曲中の♪または♪♪というリズムは、当然ジャズ的に“スゥイング”して奏されねばならない(イントロダクションは除く)。 第2楽章はルンバ。この曲は後に、オーケストレーションされ、“シンフォニック・ムード”として発表された。なお、この作品は、作曲者の自演によって東京音楽学校の演奏会で初演されたほか、公開されていない。(1957年 黛 敏郎)

註) この作品は、1948年10月16日に東京音楽学校内奏楽堂で作曲者のピアノソロで初演された。その後、幾つかの演奏会で取り上げられたが最近の研究によってドラムス伴奏によるピアノ曲であることが判明した。作曲から約10年後の出版ではピアノソロ曲としての発表であったが、作曲当時はドラムス伴奏のピアノ曲と認識されていた。その証拠として1948年4月号の『上野』(東京音楽学校関係者による冊子)に掲載された矢代秋雄による黛作品評には「黛君のドラムセット、及びコントラバス伴奏を伴へるピアノ組曲オールデウーブルなる作」があり「これは飛んでもない曲である!」「僕は唖然として、開いた口がふさがらなかつた。」と記載されている。現在、残念ながらコントラバスパートの譜面は発見されていないが、作曲者の最初期の創作を知る意味でも今回のオリジナル版の出版となった。ドラムス付きの初演は、若林千春のピアノ、大家一将のドラムスによる(「黛敏郎個展」2016年6月10日、東京オペラシティリサイタルホール)。作曲から70年を経て、ドラムス付きの出版となる(西 耕一)。


黛 敏郎(1929-1997)
1929年(昭和4年)2月20日、横浜生まれ。東京音楽学校(東京藝術大学)で橋本國彦、池内友次郎、伊福部昭等に師事。1948年(昭和23年)に作曲した「拾個の独奏楽器の為のディヴェルティメント」により才能を認められる。1950年(昭和25年)作曲の「スフェノグラム」は、翌年のISCM国際現代音楽祭に入選して海外でも知られるようになる。1951年(昭和26年)パリ・コンセルヴァトワールへ留学、トニー・オーバン等に学ぶ。フランスから帰国後、ミュージック・コンクレートや日本初の電子音楽を手がけた。1953年(昭和28年)芥川也寸志、團伊玖磨と「3人の会」を結成。また、吉田秀和等と「二十世紀音楽研究所」を設立。雅楽・声明をはじめ、日本の伝統音楽にも造詣を深める一方、交響曲、バレエ、オペラ、映画音楽等の大作を発表した。1964年(昭和39年)より、テレビ番組「題名のない音楽会」の企画、出演。東京藝術大学講師、茶道「裏千家淡交会」顧問、評議員。「日本作曲家協議会」会長、「日本著作権協会」会長などを歴任した。 「涅槃交響曲」(1958)で第7回尾高賞、「BUGAKU」で第15回尾高賞を受賞。 主な作品に「ルンバ・ラプソディ」(1948)、「饗宴」(1954)、「曼荼羅交響曲」(1960)、「シロフォン小協奏曲」(1965)、オペラ「金閣寺」(1976)、「KOJIKI」(1993)、バレエ「The KABUKI」(1986)「M」(1993)他がある。ピアノ曲は、「前奏曲」「金の枝の踊り」「天地創造」などがある。ISCM入選(昭和31、32、38年)。毎日映画コンクール音楽賞(昭和25、32、38、40年)。毎日演劇賞(昭和33年)。ブルーリボン賞(昭和40年)。仏教伝道文化賞(昭和50年)。紫綬褒章(昭和61年)。 1997年(平成9年)4月10日逝去。

追加情報

重さ220 g
サイズ21 × 29.7 × 0.1 mm