Anton Rubinstein Marius van Paassen(p) ATTACCA Babel 8741-4 1988年頃
Live at Carnegie Hall Wibi Soerjadi(p) PHILIPS 456-247-2 1997年
19世紀ロシアの大ピアニストにして作曲家アントン・ルビンシテインのop.93は、「色々な作品集」と題され、おそらくは書き溜めていた大小さまざまな24曲が寄せ集められています。この中に1曲、桁外れに規模が大きく、全曲演奏すると30分近くかかる大変奏曲があります。その名も「Variations sur l’air Yankee Doodle」。和訳しましょう、「アルプス一万尺による変奏曲」です。楽譜はIMSLPにありますのでご覧いただければと思いますが、荘重な序奏に続く主題、そして40くらいの変奏からなる力作です。
作曲のきっかけは1872年のアントン・ルビンシテイン・アメリカ大巡業でした。この時の演奏旅行は8か月に及び、演奏会の数はなんと215回。8か月と言うと240日くらいですから、連投に次ぐ連投の地獄の“営業”だったと思われます。しかし、おかげでしこたま儲けたそうで、帰国後に現地で聴いたメロディを基に気をよくして書いたとされるのがこの変奏曲です。変奏曲というわりには、主題があまり崩されずに繰り返し出てきます。かなりの時間「アルプス一万尺」のてんこ盛りとなります。これが実はなかなかにキツい。
【キツいとこその1】
日本人にはこの曲は「アルプス一万尺 小槍の上で アルペン踊りを踊りましょう」の歌詞が幼時体験的に染みついています。なのでメロディが聴こえるたびに呪文のように歌詞が脳内に木霊し、アルペン踊りを踊りたくなります(*1)。さらに筆者の場合はもっと深刻で、昭和3年生まれの父親が酔っぱらうと「どうせやるなら でっかいことやろう 奈良の大仏 屁で飛ばそう」と歌っていたものですから、大量放屁誘発音楽にしか聴こえません。前述したように変奏曲のくせにメロディーが温存されて繰り返し出てきます。キツいです。さらにこれらの歌詞に続く部分は「らんららんららんらんらん」ですから、脳内御花畑が満開咲き乱れとなります。とてもキツいです。ちなみにWikipediaによれば原詞もあまりろくな内容ではありません。
【キツいとこその2】
かように人口に膾炙されまくった脳天気快晴音楽なので、この曲を人前で弾くこともさることながら、練習することすら……恥ずかしい……感じになります。とはいえアントン・ルビンシテインの作品ですから結構難しいのです。なのにアルペン踊り(筆者は大量放屁)の連呼ですから、「いいのか俺、こんなことしていて本当にいいのか、もっと他にやるべきことがあるのではないか」と、レパートリーにしようと思った自己嫌悪との戦いがピアニストの前に立ちはだかります。ここまでピアニストにその在り方を迫る難曲は、グレインジャー編曲のチャイコフスキーのピアノ協奏曲独奏版(序奏部だけで見事終了)、クルサノフ編曲の「渚のアデリーヌ」くらいかも知れません。
かような困難を克服し(?)、1987年にこの曲を録音したのはオランダのピアニスト、Marius van Paassenです。デビューアルバム「20世紀音楽の中の動物たち」が即完売になった経歴を持ち、最近は自作曲のアルバムなどを出しているようです。1986年にルビンシテイン作品のコンサートを開き、翌年このアルバムを録音します。Paassen氏はその間1年以上アルペン踊りを踊り続けたと思われます。さすがのPaassen氏もこの曲の指示する繰り返しはすべては行いません。全曲を23分30秒で弾いていますが、もし原曲の繰り返しをすべて行っていたら30分程度になったと思われます。だって、無理ですよ、この曲……らんららんららんらんらん……ですからねぇ。ともあれ、よくぞ、ここまでやってくれたものです。
さて、アメリカ巡業から帰国後の作曲なので、ルビンシテイン本人はこの長大変奏曲をアメリカでは弾いていないと思われます。では、こんな感じの曲をアメリカ人の前で弾いたらどんなリアクションになったのか。それを彷彿とさせるアルバムがあります。Paassenと同じオランダのピアニスト、Wibi Soerjadiがルビンシテインのツアーからおよそ120年後の1996年11月22日にカーネギーホールで開いたコンサートのライブ盤です。Soerjadiは19世紀以来の伝統に則り、その場のお客さんにウケそうな曲、たとえば人気ミュージカルナンバー、映画音楽などを豪華絢爛なピアノ曲に仕立てて弾くことを“お約束”にしています。で、この日のコンサートのラストを飾ったのが、Soerjadi自作の「アメリカ幻想曲(*2)」。盛大なアルペジオとオクターブ進行でアメリカの楽曲をド派手に飾り付けた7分弱のお見事お馬鹿ピアノショーピースです。当然この日の演奏会のラストの出し物。19世紀ッぽい盛り上がるイントロに続いて「星条旗よ永遠なれ(国歌の方)」がブ厚い和音と駆け巡るアルペジオで始まると、会場からはやんややんやの歓声と大拍手! その後、アメリカの古典的人気ナンバーが次々と出て、ラスト2分くらいは、いよっ、待ってましたぁ!「Yankee Doodle(アルプス一万尺)」のオンパレード!あの手この手でアルペン踊りをデコレーションしてから最後にもう一度国歌を朗々と歌い上げて、19世紀スタイルの華麗なるエンディングでフィニッシュ。会場は歓喜の絶叫に包まれます。ピアニストも聴衆もいいノリで、この日の演奏会はまさに“熱狂的”だったと伝えられています。ほんと、見事な“営業”です。
筆者にとっては大量放屁の誘発音楽でも、海を越えた世界ではそのパワーは国民のアイデンティティとなり、愛国の坩堝の絶頂へと誘う。音楽というものは本当に奥が深いとしみじみ感じ入る2曲でございました。
(*1)昔から山好きの間では議論となっているが、アルペン踊りがどういう踊りかは全く不明である。また「小槍」は北アルプスの槍ヶ岳の脇に実在する岩峰で標高は3030m、ちょうど一万尺となる。ただし、岩登りの専門家しか登れない急峻な岩峰で、その頂上は極めて狭く、とても踊りを踊ることは出来ないといわれている(ネット上にはチャレンジ動画多数)。なお「小槍」を「子山羊」と聞き間違えて動物虐待ソングと思うのは定番のあるあるである。
(*2)冒頭部分に欠落があるが、Soerjadiが別の機会で弾いた「アメリカ幻想曲」の動画がある。
【紹介者略歴】
吉池拓男
元クラシックピアノ系ヲタク。聴きたいものがあまり発売されなくなった事と酒におぼれてCD代がなくなった事で、十数年前に積極的マニアを終了。現在、終活+呑み代稼ぎで昔買い込んだCDをどんどん放出中。