【新刊情報】山中惇史:翡翠の時 (2021) – ピアノソロ —

この度、作曲家・ピアニストとして活躍する山中惇史のピアノ作品「翡翠の時」を出版いたします。

「翡翠の時」の楽譜表紙

本作品は、2021年に開催されたピティナ・ピアノコンペティションの特級セミファイナルの課題曲として委嘱されたことにより誕生しました。コンクールという極限の状態にいる音楽への愛を携えた演奏者たちと作曲者が幼少期に出会った凛とした翡翠の姿が重なった奇跡的な作品です。こちらのページからご購入いただけます。

「翡翠の時」作品に寄せて
小学校からの帰り道、生茂る木々を分け入った先に小さなほとりがあり、枝の先に翡翠が。息を飲むように、そっと覗き見たエメラルドグリーンの美しさは今でも脳裏に鮮烈に焼き付いています。

コンクールという極限状態にさらされる場に音楽への愛を携え挑もうとする皆さんを思った時、何故かその翡翠の凛とした姿が頭によぎりました。この上なく純で、一瞬で過ぎ去る幻の時。

ファンタジーを持って演奏していただければ幸いです。

商品情報
作品名:「翡翠の時」(2021)
序文(英語・日本語):山中 惇史
ページ数:16ページ
ISBN978-4-90966-88-2
表紙イラスト:Rachel Toll
表紙デザイン&コンセプト:泉 美菜子

今泉響平による演奏

【お知らせ】
なお、こちらの「翡翠の時」は、作曲者である山中惇史によって下記の演奏会にて取り上げられます。
チケットをご希望の方は、①お名前 ②枚数 ③ご連絡先 を明記の上、以下のメールまでお問い合わせください。
山中惇史ピアノ・リサイタル実行委員会:atsushiyamanakapianorecital@gmail.com


山中惇史
東京藝術大学音楽学部作曲科を経て同大学音楽研究科修士課程作曲専攻修了。後に同大学器楽専攻ピアノ科卒業。第26回奏楽堂日本歌曲コンクール作曲部門第1位受賞。器楽、室内楽、合唱など多数がヤマハミュージックメディア、カワイ出版などから出版されている。
またピアニストとしては2018年にリサイタル・デビュー。共演者としても絶大なる信頼を置かれ、国内外の著名なアーティストに指名を受け共演を重ねる。ピアニスト、作曲家、アレンジャーとして参加した各CDはレコード芸術誌にて特選盤、 準特選盤に選出されている。東京交響楽団、東京フィルハーモニー交響楽団、神奈川フィルハーモニー管弦楽団、群馬交響楽団など多数のオーケストラとの共演、作品が演奏されている。2020年にピアニスト・作曲家の高橋優介とのピアノデュオ『176』(アン・セット・シス)を結成。自らの編曲によりオーケストラ作品の演奏に挑み、第1弾として『レスピーギ/ローマ三部作』をメインに演奏会を開催、同時にカワイ出版より楽譜出版、ライブレコーディングもされた。
最新アルバム『ジョン・ウィリアムズ・ピアノコレクション』がエイベックス・クラシックスより2021年10月に発売。今シーズン(2021)では、ピティナ・ピアノコンペティション特級新曲課題曲、朗読音楽劇「シャーロックホームズ」(主演・山寺宏一、脚本/演出/構成・野坂実)の作曲を担当、セントラル愛知交響楽団定期公演に招かれリスト/ピアノ協奏曲第1番を演奏など、活動は多岐にわたる。東京藝術大学非常勤講師。

Twitter: @ginyamagin Instagram: @yamanaka.atsushi

山中惇史
photo ©Imura Shigeto

2022年5月の新刊情報(平野弦、山本純ノ介、レスリー・ハワード、ローガン・スケルトン、ゴドフスキー、カミェニャク、ブランシェ)

2022年5月の新刊情報をお届けします。


平野弦:ピアノ作品集
彼の名前をYouTubeで見かけたことがある方も多いかもしれません。恐らくは、人間離れした驚異的なテクニックで超難曲である一柳慧の「タイム・シークエンス」や「ピアノ・メディア」を演奏している姿をYouTubeでご覧になった方が多いでしょう。これまで、彼の自作曲である「前奏曲とフーガ」や平野弦による「弦楽のためのアダージョ」(作曲:バーバー)のピアノ独奏編曲は、楽譜出版を要望する声が多数上がっていました。今回それらの作品も含め、一部のピアノ愛好家で存在が囁かれていた平野弦によるオリジナルピアノ作品も数曲、そして平野弦による楽曲解説も加えピアノ作品集として登場します。

収録楽曲
練習曲 ヘ短調(第1稿)/ 練習曲 ヘ短調(第2稿) / 前奏曲とフーガ / フーガ ヘ短調 / 夜想曲「壊れた籠」- 左手のために / フーガ 変ホ短調 – 左手のために(或いは両手のために) / 「荒城の月」の主題によるフーガ / サミュエル・バーバー:弦楽のためのアダージョ(ピアノ独奏編曲:平野弦)


山本純ノ介:梅花月下の舞(二十五絃筝のために)
日本を代表する箏曲家の野坂操壽の委嘱によって作曲家の山本純ノ介は二十絃筝の魅力に憑りつかれ約1年半の歳月をかけ、2016年に「梅花月下の舞」を完成させました。この作品は、二十五絃筝による私小説のような交響詩的抒情組曲として生まれ、現代人としての感覚を活かした浪漫的でより抒情的な時間と空間に想いを馳せた作品にしたいという考えが根底にあります。

山本純ノ介の解説より
一曲目「蕾膨らむ」は厳しい寒さの中で新しい芽、命が「存(ある)」場所や意義、主張を感じさせる。その瞬間、喜びや不安が交錯し対峙しはじめる。鼓動その息吹。
二曲目「花見ゆる」は実際の花芯が花神によって何層にも織りなす花弁に変様、変貌する様。成長の喜び、期待であるが「待つこと」への試練、我慢が同時にある。最後の三曲目「散華」は多くの困難なパッセージ群を完奏し最後に短歌を吟じることで、新しい事象に到達したとする。散華は感謝、救い、希望に昇華した音楽に変貌する。吟唱後の結尾では第一曲目冒頭の音列を活かしたフレーズが変容され再現。続いて第三曲冒頭の律動による異なる音律が現れ、新たな息吹の存在を予見して曲は閉じる。

サン=サーンス/ゴドフスキー編曲:白鳥(ピアノ独奏版)
本作品は、ゴドフスキーの数多くの編曲作品の中でも最も演奏の機会に恵まれている編曲作品です。今回、出版にあたってアメリカ議会図書館に所蔵されている自筆譜の情報も取り入れています。新版となって登場です。解説は、日本を代表するゴドフスキーの研究家・演奏家でもある西村英士によるもので、サン=サーンスとゴドフスキーの関係にフォーカスした充実の解説となっています。

西村英士の解説より
...ゴドフスキーはフランス、トルヴィルの港で船を降り、リストの住むワイマールを目指した。しかし汽車が出発して間もなく、彼の目に飛び込んできたのは、何とリストの訃報を知らせる新聞記事だった。ちょうどこの直前、7月31日にリストは74歳でこの世を去ったのだった。あてを失ったゴドフスキーは途方に暮れたに違いない。しばらく彼はパリに滞在し、今後の身の振り方を考えた。フランス語を話せず、お金もなく、生活に苦労する中、アメリカへ戻ることも頭をよぎったが、結局、彼はヨーロッパに残って別の音楽家に師事することを模索した。リスト亡き後、ゴドフスキーが欧州最高の音楽家と考えたのはサン=サーンスだった。...

エミール=ロベール・ブランシェ:エチュード・ポリトナル 作品94
作曲家として、また登山家としても知られるスイス出身のエミール=ローベル・ブランシェの未出版ピアノ作品のひとつであった作品が初の出版となります。「エチュード・ポリトナル」というタイトルの通り”多調”の個性的な作品です。


エミール=ロベール・ブランシェ
スイス生まれのコンポーザー=ピアニスト。音楽の手ほどきをイグナツ・モシュレスの弟子でもあり、教会オルガニストでもあった父シャルル・ブランシェから受ける。また、ドイツに渡り、グスタフ・イェンセンとフリードリヒ・ヴィルヘルム・フランケ、フェルッチョ・ブゾーニの下で学んだ。ドイツから帰国後は、ローザンヌ音楽院でピアノ科の教授を務めるが、1908年以降は、教育活動、作曲活動、コンサート活動や登山に専心した。彼の作品は作品番号が付くものだけで100曲以上、その中で相当の数がピアノ独奏のために書かれている。


レスリー・ハワード:カタラーニのオペラ「ラ・ワリー」の回想 – ピアノのための演奏会用幻想曲
「もしもリストがカタラーニ作曲のオペラ《ラ・ワリー》に基づきパラフレーズを作曲していたなら?」そのような構想のもと、フランツ・リストの作品のスペシャリストであるレスリー・ハワードが幻想曲に仕立て上げました。「ラ・ワリー」の中のアリアである「Ebben’ ne andrô lontano(さようなら、故郷の家よ)」は、この幻想曲の大部分を占めます。ちなみに、このアリアは数年前に人気を博した映画「ディーバ」でも取り上げられたことにより非常に多くの方に知られることになりました。レスリー・ハワード自身の演奏によって英国の音楽レーベルであるHyperionから録音もリリースされています。


チャイコフスキー:ソナタ ヘ短調 第1番 – 遺作(校訂:補筆完成:レスリー・ハワード)
ロシアで出版されたチャイコフスキーのピアノ作品集の中に掲載されたピアノソナタ(作品集の中では”Allegro”と名付けられています)の断片をレスリー・ハワードが補筆・完成させました。このピアノソナタが作曲された経緯や作曲が途中で破棄された理由などは謎に包まれたままです。しかし、レスリー・ハワードは「このソナタは、《ピアノソナタ ハ短調 作品80》とも引けを取らない程の力強さを持った作品」と語っています。なお、ハワード自身の演奏によって英国の音楽レーベルであるHyperionから録音もリリースされています。

レスリー・ハワードの解説より
今回の補筆完成版では、主題回帰の導入、第2主題への移行の導入と第2主題の若干の変更、自筆譜で削除された旋律から続く短いコーダの導入を行いました。コーダについては、チャイコフスキーの初期作品「ロシア風スケルツォ(Scherzo à la russe)」 作品1 第1番を参考にしています。編曲にあたっては、言うまでもなく可能な限り少ない改編を念頭におきました。完成した編曲は338小節から成る約10分のソナタで、自信に満ちた若きチャイコフスキーの修辞的なジェスチャーと旋律的な抒情味が後に成熟した彼の個性を予期させます。(チャイコフスキーはこの作品の第2主題を「スケルツォ」 作品2 第2番のトリオに導入しています)。

レスリー・ハワード:アルバムリーフ & ピアノソナタ 第1番
レスリー・ハワードによるオリジナルのピアノ作品が初出版です。アルバムリーフは、イギリスに永住をした後の1973年にロンドンで作曲され、1曲目は「ドムラとピアノフォルテのためのロシアの主題による小品」(レスリー・ハワード作曲)の旋律を用いた復調の作品。2曲目は、パーシー・グレインジャーの音楽の「未知」の部分に焦点を当てた作品です。ピアノソナタは、21歳の時に作曲された十二音技法的作品です。


W.A. モーツァルト:組曲(補筆:ローガン・スケルトン&ヒョン・ジョン・ウォン)
数々の名曲を生み出してきたW.A. モーツァルトは、意外なことに序曲、アルマンド、クーラントやジーグ、そしてサラバンドの断片といった組曲の様式に模倣した、または組曲の断片と考えることができる鍵盤楽器作品を作曲していました。モーツァルトの死後、妻のコンスタンツェによって彼のスケッチの9割ほどが破棄されたと言われており、これらの組曲の断片は破棄を免れた作品の一部かもしれません。この楽譜は、モーツァルトの未完のバロック組曲、あるいは失われたかもしれない組曲を再構築するための試みが具現化されたものです。ローガン・スケルトンによる4ページに渡る充実した解説、約80ページに渡る2種類の組曲と付録を掲載し、充実した楽譜となっています。

収録楽曲
組曲 – 修正版(序曲、アルマンド、クーラント、ドゥーブルを伴うサラバンド、メヌエットとトリオ、ガヴォット、ジーグ)/ 組曲 – ハ長(序曲、アルマンド、クーラント、ドゥーブルを伴うサラバンド、メヌエットとトリオ、ガヴォット、ジーグ)/ サラバンド(原曲の断片)、モーツァルトによるトリオ 変ロ長調(原調)/ M.シュタードラーによるトリオ ロ短調(原調)/ M.シュタードラーによるトリオ イ短調 / ガヴォット《Les petits rien》より(原調) / ジーグ ト長調(原調)


トマシュ・カミェニャク:ピアノ編曲集(サン=サーンス、グノー、リスト、イギリス国歌&クイーン)
19世紀に目覚ましく発展した「編曲」の伝統。リスト、タールベルク、サン=サーンス、アルカンなどが次々と編曲作品を生み出し、ロマン派時代を語る上で外すことのできない名編曲は数多く存在しています。このピアノ編曲集には、その伝統に対して深い共感と尊敬を持ったカミェニャクによる「ピアニスティック」な編曲作品が収められています。なお、リスト、サン=サーンス、そしてイギリス出身のロックバンドであるQueenの作品の個性的な編曲作品が並びます。演奏会のアンコールピースとしてもピッタリです。

収録楽曲
フランツ・リスト:信頼(Verlassen) / サン=サーンス:もしもあなたが私に何も言うことがないのなら(Si vous n’avez rien à me dire) / カミェニャク:英国国家に基づく幻想曲”Al-Li-Thal” / Queen: Who Wants to Live Forever


トマシュ・カミェニャク:ピアノソナタ 第1番「孤独」 作品39
ベルリンを拠点に活躍するコンポーザー=ピアニストであるトマシュ・カミェニャクがヘンリク・グレツキの娘であるアンナ・ゴレツカの委嘱によって作曲したピアノソナタ第1番が初出版です。カミェニャクは、ピアニストとしてもヨーロッパを中心として活躍し、シャルル=ヴァランタン・アルカンやフランツ・リストなどのロマン派音楽を積極的に演奏しています。このピアノソナタは、アラン・ポーの詩「孤独」からインスピレーションを得て、フランツ・リストの《ピアノソナタ ロ短調》を倣ったものかつ、リヒャルト・ワーグナーの精神をも受け継いだ作品です。カミェニャクによる演奏はコチラで聴くことができます。

シャルル・ケクラン~フランス音楽黄金期の知られざる巨匠(4)

文:佐藤馨

 パリ音楽院第5代院長のアンブロワーズ・トマが1896年に亡くなると、新たな6代目院長には作曲科教授だったテオドール・デュボワが就任した一方、もう一人の作曲科教授であったジュール・マスネは職を辞して音楽院を去ってしまった。ケクランを含む、残された元マスネ・クラスの生徒たちは、この出来事を機に新たな師と出会う――ガブリエル・フォーレ(1845-1924)だ。

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あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(18)-2 (最終回)フェルドマンの音楽がもたらした影響

文:高橋智子

2 フェルドマン没後の受容と評価

 フェルドマン死去の翌日、1987年9月4日の『New York Times』に訃報が掲載された。この記事の冒頭でフェルドマンは「今世紀最も重要な実験作曲家の1人で、ミニマリストと称されている人たちよりも真のミニマリスト、モートン・フェルドマンがバッファロー・ジェネラル・ホスピタルで昨日、膵臓癌で死去した。Morton Feldman, one of the century’s most important experimental composers and a truer minimalist than many so labeled, died of pancreatic cancer early yesterday at Buffalo General Hospital.」[1]と紹介されている。通常、訃報記事はその人物の当時の評価や一般的なイメージを反映して書かれている。この訃報記事は「晩年にはアメリカの支持者や、とりわけヨーロッパから興味を持たれていたにもかかわらず、彼は音楽界からの孤立を感じていた。In his later years, even with continued interest in his work from American champions and, especially, Europeans, he felt cut off from the musical world.」[2]と、やや寂しい論調で締めくくられているが、フェルドマンの当時の音楽界からの評価と受容について次のように記されている。

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あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(18)-1 (最終回)フェルドマンの音楽がもたらした影響

文:高橋智子

1 フェルドマンとクリスチャン・ウォルフ

 1987年3月にラジオドラマ「Words and Music」の録音を終え、その後、6月12日に「For Samuel Beckett」のアムステルダムでの初演を終えたフェルドマンは、7月にオランダのミッデルブルクで連続講義を行い、また、そこで彼の事実上の最期の楽曲となった新作「Piano, Violin, Viola, Cello」を初演した。この慌ただしいスケジュールの合間の6月に彼はバッファロー大学の学生だった作曲家のバーバラ・モンク・フェルドマン[1]と結婚した。その数日後、フェルドマンが膵臓癌に冒されていることが判明する。彼は7月のミッデルブルクでの講義と「Piano, Violin, Viola, Cello」初演に病を押して参加した。バッファローに戻って治療を再開するも1987年9月3日に逝去。[2] 61歳だった。フェルドマンは9月9日にロサンゼルスでジョン・ケージ75歳の誕生日を祝した講演を行う予定だったが、急遽予定が変更され、ケージがフェルドマン追悼として「Scenario for M. F.」を朗読した。この詩はフェルドマンの60歳の誕生日を記念して前年の1986年に書かれたものだった。[3] 同じ日(1987年9月9日)にクイーンズ地区のサイナイ教会にてフェルドマンの葬儀が行われた。その後、彼はニューヨーク州ウェスト・バビロンにあるユダヤ人墓地、Beth Moses Cemeteryに埋葬された。[4]

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あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(17)-3 フェルドマンの最晩年の楽曲

文:高橋智子

3 最期の楽曲 「For Samuel Beckett」(1987)と「Piano, Violin, Viola, Cello」(1987)

 「Words and Music」の後、フェルドマンはもう1つ、ベケットにまつわる曲を書いた。それが1987年のホランド・フェスティヴァルから委嘱された「For Samuel Beckett」である。1987年3月10日、「Words and Music」ラジオ放送用のレコーディング中に行われたインタヴューの最後で、フェルドマンは「ホランド・フェスティヴァルのためものを仕上げているところです。 I’m finishing something up for the Holland Festival」[1]と発言しており、2つの曲がほとんど間を置かずに作曲されたことがわかる。もしかしたら、フェルドマンが2つの曲を同時進行で作曲していた可能性もある。だが、この曲にベケットの名前を付した理由を彼ははっきり語っていない。1つ前のセクションで解説した「Words and Music」がフェルドマンにとって音楽と表現、言葉、情緒との関係を再考するきっかけとなり、フェルドマン最晩年の新境地を切り拓いたことを考えると、「For Samuel Beckett」作曲中の彼の頭の中には常にベケットの存在があったのかもしれない。編成は23人の奏者のための室内アンサンブル。演奏時間は約55分。「For Samuel Beckett」はフェルドマンが生涯のうちで書いた最後から2番目の曲だ。

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あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(17)-2 フェルドマンの最晩年の楽曲

文:高橋智子

2 ラジオドラマ「Words and Music」

 おそらく1985年頃、フェルドマンは自身の2作目となるはずだったオペラを着想し、1977年の「Neither」と同じくサミュエル・ベケットに台本を依頼した。しかし、ベケットから断られてしまった。[1] フェルドマンの2作目のオペラ台本執筆の依頼を断ったベケットだったが、この2人は1986-1987年にラジオドラマ「Words and Music」で再び「共演」することになる。「Words and Music」は晩年のフェルドマンにとって最も大きなプロジェクトだ。

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あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(17)-1 フェルドマンの最晩年の楽曲

文:高橋智子

 今回はフェルドマンの晩年に当たる1980年代の活動をたどる。後半はフェルドマンが再びサミュエル・ベケットと関わりを持ったラジオドラマ「Words and Music」、ベケットに捧げた「For Samuel Beckett」、彼の最期の楽曲「Piano, Violin, Viola, Cello」について解説する。

1 晩年の活動とベケット再び――「Words and Music」と「For Samuel Beckett」

 1971年秋にニューヨーク州立大学バッファロー校音楽学部教授に就任し、晴れて専業作曲家となったフェルドマンは、1977年のオペラ「Neither」、いくつかのオーケストラ曲の委嘱、自身のアンサンブルを率いてのアメリカ国内外への演奏旅行、音楽祭での招待講演など、今や国際的な作曲家としてのキャリアを順調に積み重ねていた。その活動範囲はアメリカやヨーロッパに留まらず、フェルドマンは1983年7月に第一南アフリカ放送協会(First South African Broad Corporation: SABC1)主催の現代音楽祭に招かれたフェルドマンは受講者の自作曲を用いた作曲のマスタークラスと、彼がひたすらしゃべり続ける講義を行った。[1] 1984年と1986年にはダルムシュタット夏季現代音楽講習会の講師を務めた。1984年には作曲家のヴァルター・ツィンマーマン Walter Zimmermanが企画した講演「The Future of Local Music」をフランクフルトで行なった。この講演は、ツィンマーマンの編集によるフェルドマンの著作集『Essay』[2] と、もう1つのフェルドマンの著作集『Give My Regards to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman』[3] に同じタイトルで収録されている。大学の学務、講演、演奏旅行などで多忙な日々を送っていたせいなのか、フェルドマンが1984年に作曲したのは前回解説したフルート、打楽器、ピアノ/チェレスタのための「For Philip Guston」だけだった。オランダのミッデルブルクで夏に開催される現代音楽講習会Nieuwe Muziekにて1985年から1987年までの3年間、フェルドマンはゼミナールと講義を行った。1986年にはバニータ・マーカス、ヤニス・クセナキス、ルイ・アンドリーセンが、1987年にはコンラッド・ベーマー、カイヤ・サーリアホがゲスト講師に招かれた。この時の講義のいくつかは『Words on Music Lectures and Conversations: Morton Feldman in Middelburg / Worte üebr Musik Vorträge und Gespräche』[4]1、2巻に収録されている。この講義録を編集したRaoul Mörchenは、「その果てしない大きさ、慣習をものともしない態度、迷宮のように渦巻く思考、自由奔放な展開、精密さと過剰さ、簡潔さと小さなこぼれ話、倫理観と喜劇的挿話による刺激的な組み合わせ its vast scale, its disregard of all conventions, the labyrinthine flow of thoughts, its rhapsodic development, the exciting combination of precision and excess, succinctness and anecdote, moralism and comic relief」[5]と表されるフェルドマンの講義スタイルそのものが彼の後期作品を理解する際の鍵になると述べている。ミッデルブルグではゼミ形式でのディスカッションも行われたはずだったが、Mörchenによれば、極めて雄弁なフェルドマンは時に受講者からの疑問や異論を認めず、彼自身の思考を披瀝し続けたようだ。[6]この連載でも数多く引用してきたフェルドマンの講演、エッセイ、インタヴュー等の言説を振り返ると、自身のゆるぎない信念をもとに熱弁をふるうフェルドマンの様子を想像できる。

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シャルル・ケクラン~フランス音楽黄金期の知られざる巨匠(3)

文:佐藤馨

 アントワーヌ・トードゥの和声クラスに正式に迎えられ、晴れてケクランはパリ音楽院の正規の生徒となった。ここで彼は、作曲家としての後の人生に大きく影響を及ぼす、三人の師と出会うことになる。

ジュール・マスネとの出会い

ジュール・マスネ(Jules Massenet, 1842-1912)はオペラ《タイス》《ウェルテル》《マノン》で有名。保守的とされるが、トマやデュボアが忘れられた一方で、マスネの美しいメロディは今も愛好されている。

 1892年10月、ケクランはジュール・マスネの作曲クラスに進んだ。はじめは聴講生としてクラスに出入りしていたが、トードゥの時と同様に、この2年後には正規の門下生として迎えられている。マスネは1878年からパリ音楽院で教鞭を執っており、ケクラン以前にもすでにガブリエル・ピエルネ、エルネスト・ショーソン、アルベリク・マニャールなどの才能ある作曲家たちが彼の下で学んでいた。
 ケクランは1935年3月に、この当時を振り返って≪Souvenirs de la classe Massenet≫(マスネ・クラスの思い出)と題した一連の回顧録をLe Menestrel誌に寄稿している。それによれば、マスネはアンブロワーズ・トマやテオドール・デュボワといった音楽院の同僚たちとむしろ同じ性質の作曲家であったにもかかわらず、自らとは異なる方向性をもつ弟子たちの音楽に口出しをしないで、むしろそれらを尊重して育む方針を持っていたという。例えば、若きフローラン・シュミットが自作の『サウルの幻影』をマスネに見せると、彼はこのようにコメントしたようである。

 とても興味深い!コンクールで人々に理解されるとは私は言いませんし、そうした方々が少なからず夢中になるということもないでしょうが。しかし、それはあなたにとってどうでもよいことです!そして、私にとってもそうなのです。[1]

 フローラン・シュミットは後に、ケクランと共に反骨精神に富んだ前衛として活動していくことになる。そうした彼の前衛気質に鑑みれば、マスネのこうした理解ある言葉は教師としての度量の広さをよく示しているといえるのではなかろうか。
 またマスネの教えは、何にも忖度せず、自らの音楽的アイディアを躊躇しない堅気な姿勢へとケクランを方向づけることになった。同じ回顧録の中でケクランは、作曲という行為に対する師の助言を紹介している。

 迅速に思考し、あらゆるアイディアをそれらが湧くと共に書き留めなさい。でないと、活用できたかもしれないものを時たま忘れてしまう恐れがある(たとえば、《マリー=マグドレーヌ》のデュオははじめ、私の心の中では、シンプルなリトルネッロでしかなかった)。――そうしてから、アレンジや作曲についてゆっくりと長く熟考しなさい。しかし、湧いてきた考えは決して追い払ってはならない。[2]

 ケクランにとって、マスネは第一級の教育者であった。彼の言葉は、ケクランの長い生涯にわたる膨大な作品群に結実している。その数もさることながら、一つ一つの作品に、彼の作曲上のアイディアが妥協なく満ちている。あるいは、音楽のみならず、執筆や講演などにおける精力的な活動もまた、マスネの言葉に根差したものだといえよう。ケクランが幼年時代に抱いた、最初の音楽への愛にマスネの歌曲が含まれていたことを思い起こせば、パリ音楽院での両者の邂逅には何かしら運命的なものさえ感じられる。

マスネのオラトリオ《マリー=マグドレーヌ》からデュオ

対位法の師、アンドレ・ジュダルジュ

アンドレ・ジュダルジュ(André Gedalge, 1856-1926)はジェダルジュと読まれることもあるが、一部出版譜の綴り間違いが原因の様子。ジャン=ジャック・カントルフがヴァイオリンソナタ2曲を録音し、2019年の東京公演でも披露するなど、再評価の兆しがある。

 マスネ・クラスの聴講生になったのと時を同じくして、ケクランはアンドレ・ジュダルジュから対位法とフーガの指導を受けるようになっていた。1884年に28歳という、ケクランと同じく比較的高い年齢になってからパリ音楽院に入学したジュダルジュは、エルネスト・ギローの下で作曲を学び(同級生にはデュカスとドビュッシーがいた)、1886年にはローマ賞第二等を得ている。ギローの下ではアシスタントも務めていたが、彼が1892年に亡くなると、今度はマスネがジュダルジュを引き取った。マスネもまたギローの教え子の一人であって、ジュダルジュはここでもアシスタントとして働くことになった。そうしてついに、1905年にはフーガと対位法のクラスの教授に就任し、彼は生涯この職を全うした。
 ジュダルジュの教え子にはケクランをはじめ、ラヴェル、フローラン・シュミット、ナディア・ブーランジェ、オネゲル、ミヨー、イベール、ジャン・ヴィエネなど、20世紀のフランス音楽の重要人物が多数含まれている。1926年にジュダルジュが亡くなると、La Revue Musicale誌上では追悼企画が行われ、弟子たちが彼へのオマージュを捧げた。その中で、ラヴェルはこう述べている。

 私にとってジュダルジュという人がどのようなものであったか、あなた方は恐らくご存知ないでしょう。私の一級の作品群に皆さんが見抜いておられる、構築の可能性と努力の数々、これらの実現に着手できるよう後になって私に教えてくれたのが彼なのです。彼の指導には特別な明晰さがありました。そのおかげで、作曲という仕事が学問的な抽象化とは別物だということを即座に理解しました。
 ピアノ三重奏曲を彼に捧げさせたものは、単に親愛の情だけではありません。それは師への直接的な尊敬の念なのです。[3]

 ケクランもまた同誌上で追悼の記事を寄せているが[4]、ジュダルジュがJ.S.バッハから続く対位法の伝統を正しく継承していたこと、そして管弦楽法の的確さや作曲における明晰と均衡への嗜好によって、若い世代の音楽家たちに少なからぬ影響を与えたことがそこでは指摘されている。「論理と明晰が絶対的に必要であると彼には感じられた。同時にそれは、モーツァルトとビゼーの後継であった。彼はぼかし、不明瞭、不器用なアマチュア主義を嫌った」[5]という記述からは、ジュダルジュの音楽が明晰さや均衡といった古典的な良さに根差すものであったことが読み取れる。加えて、世紀末から20世紀初頭にかけて猛威を振るったワーグナーやドビュッシーの流行とはジュダルジュが一線を画していたことも、ここでは含意されていよう[6]。また、簡潔さや明晰さを愛するという点で、後に現れた六人組との親近性さえもケクランはこの記事の中で示唆している。
 ケクランはこの類まれな教師の下で、その後の彼の作品の根幹ともなる、対位法の基礎を仕込まれたのである。

 彼は私[ケクラン]たちにJ.S.バッハへの愛着を抱かせ、偉大なるモーツァルトへの崇敬へと私たちを向かわせました(若い人々はいつもこのことが分かっていません。私もそうした人々の一人だったということです)。もっと後にこの時の歴史を綴る人が、シャルル・ケクランからダリウス・ミヨーまでの、音楽の若手世代の形成における影響という点で――作曲家としての無視できない役割に加えて――もしジュダルジュに触れないのであれば、それはひどい不正でしょう。[7]

あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(16) 1980年代の室内楽曲-2

文:高橋智子

2 1980年代の室内楽曲の記譜法

 フェルドマンの楽曲の変遷には必ずといってよいほど記譜法の変化が伴う。この連載では1950年代の五線譜と図形楽譜に始まり、1960年代のやや複雑になった図形楽譜と自由な持続の記譜法による五線譜、1970年代の五線譜への回帰にいたるまでの道のりをいくつかの楽曲を例にたどってきた。中東地域の絨毯に出会ったフェルドマンの五線譜による記譜法は1970年代後半からさらに緻密になり、微かな差異を伴って繰り返されるパターンとその配置から構成されるスコアの外見は「不揃いなシンメトリー」の概念を体現している。1980年代の記譜法は70年代後半の記譜法の延長線上にあるが、この時期の室内楽曲の記譜法の特徴として小節のレイアウト、パート間で異なる拍子があげられる。

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