あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(7) 1960年代前半の記譜法−自由な持続の記譜法

(筆者:高橋智子)

 フェルドマンの作品を見渡す際に最も重要と言えるのが記譜法の変化だ。この連載の初回から見てきたように、彼の創作の変遷は記譜法の変化と重なる。1950年から始まる図形楽譜、1950年代後半から見られる音価の定まっていない楽譜や極端に音符の少ない五線譜など、彼が書いた楽譜の数々にはその時期における彼の音楽観が強く反映されている。今回は図形楽譜に次いでユニークな記譜法である1960年代の自由な持続の記譜法を見ていく。

1. 「自由な持続の記譜法」にいたるまで

 これまでのフェルドマンの記譜法の特徴と変遷を簡単に振り返ってみよう。1950年代のフェルドマンの創作は五線譜と図形楽譜の両方で試行錯誤を重ねていた。初期の図形楽譜の狙いについて、フェルドマンは「この曲(訳注:「Projection 2」)での私の願いは「作曲すること」ではなく、音を時間に投影し、ここには必要のない作曲のレトリックから音を解放することだった。My desire here was not to “compose”, but to project sounds into time, free from a compositional rhetoric that had no place here.」[1]と振り返っている。「Projections 1-5」(1950-51)「Intersections 1-4」(1951)といった初期の図形楽譜では慣習的な書法とは全く異なる地平での作曲の可能性を探求した。ただ、これまでも何度か述べてきたように、これら初期図形楽譜の楽曲では音高の選択が演奏者に任されているので即興演奏と混同されることが多く、実際の演奏においてフェルドマンの意図が完全に達成されることはほとんどなかった。この大きな問題を解決するために、前回とりあげた打楽器独奏曲「The King of Denmark」(1964)では演奏方法(この曲ではマレットやスティックの使用が禁じられている)と、曲の中で鳴らすべき音色がこれまでの図形楽譜より具体的に指示されている。一方、フェルドマンの五線譜の記譜法もその段階ごとに異なる様相を見せる。例えば第4回で解説した「Piano Piece 1952」(1952)や第5回で解説した「Piece for 4 Pianos」(1957)には小節線が書かれておらず、どちらの場合も拍節やリズムの感覚が希薄である。さらに「Piece for 4 Pianos」では4人の演奏者が同じ楽譜を見て演奏するが、演奏のペースは各自に委ねられているので偶発的な音の重なりによる響きが具現する。慣習的な五線譜、演奏結果が不確定な図形楽譜、今回解説する自由な持続の記譜法、それぞれの特性の違いがあるものの、フェルドマンの記譜法は3つの要素——作曲家の創造性、演奏者の創造性、音に内在する特性——が決して均等ではない力関係で絡まり合っている。音そのものに着目し、音に内在する特性を最大限引き出すために音高や音価(音の長さ)を不確定にした結果、実際の演奏では演奏者の創造性や個性が予想以上に前面に出てしまうのが1950年代前半の図形楽譜での試みだった。他の作曲家と同じく厳密かつ精密に記譜すれば自分の理想とする響きを得ることができるが、それは「音の解放」や「抽象的な音の冒険」といった自身の理念と矛盾するのだとフェルドマンは自覚していた。このような逡巡が図形楽譜や、小節線のない五線譜といった初期の記譜法に駆り立てたともいえるだろう。

 1953年から58年までフェルドマンは図形楽譜を一旦中止し、「正確さ」を求めて五線譜の楽曲に専念する。しかし、以下の発言から、ここでも彼は満足な結果を得られなかったようだ。

だが、正確さも私にはうまくいかなかった。それ(訳注:五線譜による正確な記譜)はあまりにも一面的だった。まるでその記譜法は、どこかで動きを「生み出さないと」いけない絵を描いているようだった——私が満足できる可塑性はそこでもまだ得られなかった。やはりこの記譜法はあまりにも一面的だった。それは、どこかに常に水平線が引かれている絵を描いているようで、正確に作業しつつも常に「動き」を作り出さなければいけなかった——それでも私は充分な可塑性を得られなかったのだ。2つの管弦楽曲で図形楽譜に戻り、今度は「Atlantis」(1958)と「Out of Last Pieces」(1960)において個々のパッセージが最小限に抑制された、より垂直な構造を用いた。

But precision did not work for me either. It was too one-dimensional. It was like painting a picture where at some place there is had to “generate” the movement—there was still not enough plasticity for me either. It was too one-dimensional. It was like painting a picture where at some place there is always a horizon, working precisely, one always had to “generate” the movement—there was still not enough plasticity for me. I returned to the graph with two orchestral works: Atlantis (1958)[2] and Out of Last Pieces (1960) using now a more vertical structure where soloistic passages would be at a minimum.[3]

 文中でフェルドマンは五線譜による記譜を2度も「あまりにも一面的 too one-dimensional」と評している。それは何を意味するのか。楽譜は音符を紙上に書きとめることによって成り立っており、通常このことは自明とされているし、楽譜は書かれた音符を演奏として具現する機能と役割を持った実用的な側面も備えていないといけない。これに疑問を挟む余地はないだろう。だが、たとえ楽譜の上に記された出来事であっても、何かが書きとめられて静止している状態、または固定された状態は、ジャクソン・ポロックによるドリッピングや、ウィレム・デ・クーニングによる荒々しい筆の動きとその痕跡をキャンヴァスに投影した抽象表現主義絵画に共感していた当時のフェルドマンにとって当たり前のことではなかったようだ。もちろん、実際に鳴り響く音に動きや方向を感じることができるが、フェルドマンは記譜にも可塑性や運動性を求めた。だが、楽譜や記譜に運動性や可塑性を持たせることは可能なのだろうか。楽譜をアニメーションで作成すれば、文字どおり音符が動く楽譜が実現するが、もちろん、ここでフェルドマンが言おうとしていたのはこのような即物的な話ではない。しかも時代は1960年代である。今のように誰もがコンピュータでアニメーションを作成時代できる時代でもない。では、この当時、フェルドマンが記譜に求めた可塑性とはいったい何なのだろうか。

 たいていの五線譜の場合、拍子に即して音符を書き連ねることでリズムが生じ、音楽の輪郭や動きも生まれる。楽譜に記された音符の連なりと、そこから予測される動きや展開は楽曲のあり方、響き方、聴こえ方にも深く結びついている。従って、通常は記譜の精度が高いほど、記譜された音符と、実際の鳴り響きとの隔たりが縮まる。多くの楽譜は音符だけでなく、様々な記号や文言を駆使しながら、このような隔たりを縮めるための工夫がなされている。西洋の近代的な芸術音楽における記譜法の歴史を紐解けば、その歩みが記号や言語で曲のあらましを具体的に記述する方法を模索する歴史だったことがわかるだろう。一方、拍子、音価、音高のどれかを厳密に規定せず、どこかを必ず「開いておく」フェルドマンの記譜法では、五線譜と図形楽譜両方の場合において整数分割にきちんと当てはまらない特性が否応なしに出てきてしまう。むしろ彼自身はこの割り切れない、不合理な特性を1950年代の自分の音楽の独自性を打ち出すために積極的に打ち出してきた。輪郭のはっきりしたフレーズやパッセージといった言葉よりも、出来事やジェスチャーといった刹那的で何かしらの動きや曖昧さを含む言葉の方がフェルドマンの音楽を描写する際に向いている理由もここにある。始まり・中間・終わりのプロットに基づき、周期的な拍節に即した時間とともに展開する五線譜は、一目すれば事の成り行きをある程度、正確に見渡せるので、フェルドマンには「あまりにも一面的」で膠着した慣習に映ったのかもしれない。

 図形楽譜を一旦休止して五線譜に専念し、それからまた図形楽譜に戻ったフェルドマンが作曲した2つの管弦楽曲「Atlantis」と「…Out of ‘Last Pieces’」は、第5回で解説したマース・カニングハムのダンス作品「Summerspace」のための「Ixion」(1958)と同じく、小さな渦のようなジェスチャーが次々と現れては消えていく散発的なテクスチュアの楽曲だ。「Atlantis」の編成はフルート、ピッコロ、クラリネット、バスクラリネット、ファゴット、コントラファゴット、ホルン、トランペット、トロンボーン、チューバ、ハープ、シロフォン、ヴィブラフォン、ピアノ、チェロ、コントラバス。「…Out of ‘Last Pieces’」の編成はオーボエ、バスクラリネット、バストランペット、バストロンボーン、打楽器(テナードラム、大太鼓、アンティーク・シンバル、グロッケンシュピール、ヴィブラフォン、モーター付グロッケンシュピール、シロフォン、テンプル・ブロック)、ハープ、エレクトリック・ギター、ピアノ/チェレスタ、ヴァイオリン、コントラバス。どちらの曲も中規模編成で、前回述べたように同時期の小編成の室内楽曲と同様にあまり見慣れない組み合わせから成っている。これら2曲はマス目に演奏すべき音の数、グリッサンドやピツィカートなどの演奏法、装飾音が記された図形楽譜で書かれている。他の図形楽譜と同じく具体的な音高は指定されていない。楽譜の外観からはフェルドマンが求めた可塑性はほとんど感じられないが、回転するジェスチャー、アタックを最小限に抑えたどこからともなく立ち上がってくる持続音、異なる音色の交差などの現象が、この2曲が生み出す動きの感覚に大きく寄与していることがわかる。これら2曲がもしも五線譜だったら、複雑な拍子とそのめまぐるしい交替、クラスターの頻出、不合理分割による連符が多用された譜面になっていたことだろう。理論上、この曲の記譜は正確で緻密な五線譜でも不可能ではないものの、一筆描きのような音のジェスチャーを実際の演奏で得るには、整数分割に基づいた既存の五線譜のシステムよりも、やはり曖昧さや不合理性に対して間口を開けておく図形楽譜の方が適しているといえる。フェルドマンが自分の楽譜の中に書きたかったのは直線や直角よりも、曲線や滲んだ線のイメージだったのかもしれない。

Feldman/Atlantis(1959)
Feldman/ … Out of ‘Last Pieces’ (1960)

 先の引用で「Atlantis」と「…Out of ‘Last Pieces’」についてフェルドマンは「より垂直な構造 a more vertical structure」と述べているが、音楽における垂直な構造の最もわかりやすい例は、音と音とが同じタイミングで垂直の方向に(縦に)重なってできる和音である。和音は単体では垂直な構造だが、規則に即して和音同士の連結を繰り返しながら全体へと発展する機能和声の場合、和音は連続性を獲得する。同じく旋律も音と音との水平な連続から生まれる。

音が出来事の水平な連なりとみなされるなら、水平な考え方に都合のよいものにするために音の特性すべてを抽出しないといけない。多くの人々にとって、今やいかにこうした音の特性を抽出するのかが作曲の過程となってきている。こんなに間隔が詰まった複雑な時間の秩序を明確にするために、ここでは差異を作り出すことが作曲の最優先事項として強調されていると言い出す人もいるだろう。ある意味、このアプローチから生まれた作品には「音」がないと言えるだろう。私たちが聴くのはむしろ音のレプリカだ。もしもこのアプローチでうまく行ったのならば、マダム・タッソーの有名な美術館の人形のいずれにも劣らず驚くべきことだ

When sound is conceived as a horizontal series of events all its properties must be extracted in order to make it pliable to horizontal thinking. How one extracts these properties now has become for many the compositional process. In order to articulate a complexity of such close temporal ordering one might say differentiation has become here the prime emphasis of the composition. In a way, the work result in from this approach can be said not to have a “sound.” What we hear is rather a replica of sound, and when successfully done, startling as any of the figures in Mme. Tussaud’s celebrated museum.[4]

 ここでのフェルドマンは、水平な、つまり連続的に流れる時間の秩序に即して作曲し、記譜することで音の特性が失われるのだと主張する。このような方法で作曲された音楽の中で鳴る音と聴こえる音は音の複製物(レプリカ)に過ぎず、音そのものを聴いているのではないというのが彼の考えだ。複製物ではない音を追求し、「水平」を忌避したフェルドマンが試みた「より垂直な構造」の中では、音が立ち現れるその都度の出来事やジェスチャーが各自の中で完結する。水平で連続する時間の中での音(ここでのフェルドマンはこれを音とは認めていないが)とは異なり、そこでは前後の論理的なつながりはほとんど重視されない。むしろ、それぞれの音は連続性を生み出すことがないように注意深く配置されている。これは1950年代、1960年代までの彼の多くの楽曲に当てはまり、彼はパターンとして認識できる音の動きをできるだけ回避することで、連続性とは異なる楽曲の進み方と時間の感覚を獲得した。

2. 自由な持続の記譜法の楽曲 「Durations」1-5(1960-1961)

 「より垂直な構造」という新たな概念を見出したフェルドマンは五線譜で書かれた小編成の室内楽曲シリーズ「Durations」1-5を1960年に始める。前回は、この時期のフェルドマンのオーケストレーションと音色の用法が楽器や声の特性を活かすよりもそれぞれの音色の出自を曖昧にする効果を狙っていたことを解説した。様々な音色をほぼ均等に扱う彼のやり方は、一見ランダムな図形楽譜の高・中・低音域が実はほぼ同じ割合で配置されている全面的なアプローチを思い出させる。「Durations」シリーズは全5曲が拍子記号と小節線のない五線譜で書かれている。拍子や拍節がなく、さらには符尾のない音符で占められたこの記譜法では、それぞれの音価(音の長さ、持続)が演奏者に委ねられていることから、「自由な持続の記譜法 free durational notation」と呼ばれている。自由な持続の記譜法は1950年代の図形楽譜に次いでフェルドマンの特筆すべき記譜法である。既に1950年代後半にこの様式の記譜が用いられていたが、「垂直な構造」の発見により、この記譜法は「自由な持続の記譜法」として定着する。この新たなシリーズについてフェルドマンは次のように語っている。

「Piece for Four Pianos」と他の同様の楽曲では、演奏者たち全員が同じパートのスコアを読む——そこで経験するのは、同じ響きの源泉から生じたリヴァーヴの連続のような効果だ。「Durations」では、それぞれの楽器が各自の独立した音の世界の中で自分たちの独立した生を生きる、さらに複雑な様式に到達した。

In “Piece for Four Pianos” and others like it, the instruments all read from the same part—and so what you have there is like a series of reverberations from an identical sound source. In “Durations” I arrived at a more complex style in which each instrument is living out its own individual life in its own individual sound world.[5]

 「Piece for 4(Four) Pianos」や「Two Pianos」(1954)は同じ楽器の複数の奏者が同じ楽譜を用いるが、それぞれのペースで曲を進めていく方法で演奏されるので、ここでフェルドマンが言うように、同じ音色が時間差でリヴァーヴ効果のように聴こえてくる。一方、彼の新たな「さらに複雑な様式a more complex style」の「Durations」は、上記2曲と同じく演奏者が各自のペースで演奏するが、今度は異なる楽器による室内楽曲編成なので、当然そこでは同時に様々な種類の音色が鳴り響く。聴こえてくる音色の種類と幅が増えることによって、響きの構造も複雑さを増すと同時に、聴き手が感じる時間の性質にも変化が生じる。Saniによれば、「Durations」でのフェルドマンの意図は「聴き手の聴覚的な記憶を消し去ること。つまり、その前に起きたことに対する聴き手の音楽的な意識を混乱させること to erase the aural memory of the listener, and that is, to confuse the listener’s musical awareness of what had come before.」[6]にある。通常の楽曲、特に調性音楽ならば曲を聴き進めていくうちに、その旋律などが記憶に残り、曲の途中や後半で再び同じものが現れるとそれを察知できるが、フェルドマンの音楽はそのような慣れや親しみを歓迎しない。一度、曲の中で以前に起きたことは二度と同じかたちで現れないか、もし再び登場したとしても、それ以前の音高と半音1つ分だけ違っていたり、音域や演奏パートが異なっていることがあるので、まったく同じものが現れる可能性はとても低い。彼の音楽はわざと覚えにくく作られていると言ってもよいだろう。楽譜を見ずに耳だけで音を追いかけていると、この覚えられなさ、馴染めなさはさらに強まる。聴き手の感覚や記憶に挑むかのような傾向は1960年代から1980年代の晩年の長大な楽曲に至るまで、彼の創作の中で徐々に増していく。「Durations」シリーズの意図的な記憶抹消効果は「String Quartet II」(1983)、「Piano and String Quartet」(1985)といった後期の演奏時間の長い楽曲の予兆としても考えられる。

Feldman/ Durations 1-5 (1960-61)

 アルトフルート、ピアノ、ヴァイオリン、チェロによる「Durations 1」(1960)は4つのパートの楽譜上での重なりによってできる156種類の和音から構成されている。これらの和音の大半はトーン・クラスターのような半音階的な重なりによってできている。そのうちのどの1つも構成音が完全に一致する同じ和音はない。「Durations 1」の標準的な演奏時間は約10分。この10分間に耳に入ってきた音の響きを記憶し、それらを呼び起こすことはとても難しい。人間の記憶は反復によって強化されるが、この曲ではある音が反復されたとしても常に微細な差異を伴うので、その現象が他の現象と同一であると認識するに至らない場合が多い。

 「Durations」シリーズをはじめとする自由な持続の記譜法で書かれた楽譜の和音は、楽譜の中に記された音符の縦の重なりとしての外見上の和音に過ぎない。実際の演奏の中では、和音としての音のまとまりや重なりよりも、それぞれのパートが各自のペースで鳴らす音の散発的な響きが多数を占め、ここで私たちが主に耳にするのは音の揺らぎと余韻である。「Durations 1」の場合は156種類の音の重なりの瞬間が記譜されているが、それらは全てがタイミングを揃えて鳴らされるわけではないので、楽譜上の音と、聴こえてくる音とは必ずしも一致しない。楽譜に記された音符でたどっている音の動きや楽曲のあらましは楽譜の中の出来事であり、演奏によって現れる響きとは別の次元にあるともいえるだろう。

 「Durations 3」も聴き手に記憶の拠り所を作らせない音楽だ。「Durations 1」同様、聴き手がこの曲の音の動きを追ったり、覚えたりすることは難しい。「Durations 3」の編成はヴァイオリン、チューバ、ピアノ。楽譜には小節線が引かれていない。曲全体はテンポ表示の異なる短い4つの部分——Ⅰ:Slow, Ⅱ: Very Slow, Ⅲ:Slow, Ⅳ:Fast——に分かれている。どのパートもアタックをできるだけ抑えて演奏されるはずだが、筆者はCD等の録音を聴くと、高音域で鳴らされるチューバの音に最も注意を惹かれてしまう。パートⅠは全ての楽器が一斉に音を鳴らすテュッティで始まり、3つの楽器が徐々に中心から離れるように各自のペースで進む。パートⅡはテュッティで始まるのではなく、チューバ、ピアノ、ヴァイオリンの順で始まる。全ての楽器の響きが渾然一体となった「Duration 1」と違い、ここではそれぞれの楽器がある程度の独立性を保っている。パートⅡと、速いテンポで演奏されるパートⅣは比較的それぞれの音の動きを追いやすいが、反復や覚えやすいフレーズが出てくるわけではないので、やはり記憶し難い音楽には変わりない。

 テュッティで始まるパートⅢは4つの部分に分けることができ、DeLioはこれらの部分をジェスチャーと呼んで分析している[7]。表の最上段の数字は3つの楽器の垂直な重なり(楽譜では和音に見える)を示す。このような垂直な重なりから生じる全体的な響きを、DeLioの方法に倣い、曲の進行に伴うテクスチャーの変化に即して4つのジェスチャーに区分けした。ジェスチャー1は1-15番目、ジェスチャー2は16-21番目の、ジェスチャー3は22-29番目の、ジェスチャー4は30-37番目の音の範囲である。表中の塗りつぶしはF#、G、A♭の3音が現れる箇所を示す。

Durations 3 パートⅢ

ジェスチャー1 *( )はヴァイオリンのハーモニクス

 12345678
violinA♭4 (D♭5)A♭4 (D♭5)A♭4 (D♭5)A♭4 (D♭5)A♭4 (D♭5)F#5 (B5)F#5 (B5)F#5 (B5)
tubaF#1F#1F#1F#1F#1G2G2G2
pianoG5G5G5G5G5A♭6A♭6A♭6
 9101112131415
violinG4 (C5)G4(C5)G4 (C5)G4(C5)A♭5 (D♭6)A♭5 (D♭6)A♭5 (D♭6)
tubaA♭3A♭3A♭3A♭3F#2F#2G1
pianoF#2F#2F#2F#2G6G6F#7

ジェスチャー2

 161718192021
violinG4F#5A♭3G3 (C4)F#4A♭6
tubaF#3A♭2F#4G3A♭1G5
pianoA♭2G5G5F#1G5F#3

ジェスチャー3

 2223242526272829
violinD4 F5G♭4A3 (D♭4)G6F4G5 G6(装飾音)
tubaA2G1C#3D2A3 G3B♭3
piano A♭6 F#2G4 A♭6C4 B5B4/A♭4 F#2/G3C1A♭4/G5 F#3A♭4/G5 F#3

ジェスチャー4

 3031323334353637
tubaC3B1D2B♭1E3D#3G#1C2

 表を見ると、ジェスチャー1とジェスチャー2に出てくる音高が半音階的に隣り合った3音——F#、G、A♭——に限られており、曲の半分以上がこの3音で占められている様子がひと目でわかる。ここまでの範囲は各楽器間での3音の受け渡しだけで構成されている。だが、3つの全く異なる種類の楽器の音色と、その都度変わる音域の組み合わせから、ここまでの範囲がたった3つの音でできていることを耳だけで把握するのはあまり簡単ではない。

 ジェスチャー3から曲の様相が徐々に変化する。ピアノの音高は大半が依然としてF#、G、A♭を占め、この曲の響きの枠組みを守っているように見えるが、ヴァイオリンとチューバはこれまで登場しなかった新たな音高を少しずつとりいれ始める。DeLioは「曲のテクスチュアがさらに異質で断片的になる結果として、それぞれの楽器が新たな、より独立した役割を果たし始める。The instruments begin to take on new, more independent roles as a result of which the texture becomes more heterogeneous and fragmented」[8]と指摘する。これは、最初は同質かつ均等に扱われてきたヴァイオリン、ピアノ、チューバの三者の間に微かな関係性の変化が生じていることを意味する。特にチューバはその後も存在感を増して行き、曲を締めくくるジェスチャー4ではついにチューバ独奏となる。ジェスチャー4でのチューバは、ジェスチャー3での極端な跳躍に比べると、旋律のようななめらかな動きさえ見せる。今までの3音による同質的なテクスチャーは、まるでこのチューバ独奏のための序章だったかのようだ。

 「Durations 1」も「Durations 3」も特に劇的な音楽的効果は用いられていない。特に「Durations 3」は一見、同質なテクスチャーが楽器や音域の配置によって微細な差異を獲得しながら静かに進むので、今聴いている音と、その前に聴いたはずの音とがそれほど遠くない関係にあるのだと気づきにくい。複雑でとりとめのない音楽に聴こえるが、楽譜を見てみると限られた音が少しだけ姿を変えて現れるだけで、実はそれほど複雑な構造ではないことがわかる。次にとりあげる「For Franz Kline」ではその傾向が強まり、楽譜と鳴り響きの関係もさらに乖離する。

3. 「For Franz Kline」(1962) スコアを眺める目が泳ぐ曲

 「Durations」シリーズと同じく自由な持続の記譜法で書かれた「For Franz Kline」(1962)の編成はソプラノ(ヴォカリーズ)、ホルン、ピアノ、チャイム、ヴァイオリン、チェロ。前回はこの曲のオーケストレーションが楽器独自の音色を活かすのではなく、むしろそれを消し去ろうとしていることを指摘した。このような音色の抽象化はこの曲が捧げられた画家、フランツ・クラインの黒と白を基調にしたモノトーンの作品と重なる。今回は楽譜と実際に聴こえてくる音との乖離に着目してこの曲を見ていく。

Feldman/ For Franz Kline (1962)

score: https://issuu.com/editionpeters/docs/fm22

 ペータース版のスコア冒頭にはフェルドマンによる演奏指示が書かれている。

最初の音は全ての楽器が同時に鳴らす。それぞれの音の持続は演奏者に任せられている。全ての拍はゆっくりと。全ての音は最小限のアタックで。装飾音をあまりにも速く演奏すべきではない。音と音の間に記された数字は無音の拍を示す。ダイナミクスはとても控えめに。同じ弦で鳴らされる音の時はピツィカートで再び鳴らすのではなく、最初のピツィカートを維持できるよう指を弦の上に強く落とす。ホルンの音については楽譜のとおり。

The first sound with all instruments simultaneously. The duration of each sound is chosen by the performer. All beats are slow. All sounds should be played with a minimum of attack. Grace notes should not be played too quickly. Numbers between sounds indicate silent beat. Dynamics are very low. For sound occurring on the same string, instead of rearticulating pizz., drop finger heavily to carry through the sound of the first pizz. Hn. sounds as written.[9]

 弦楽器やホルンの具体的な演奏指示以外は「Durations」シリーズとほとんど変わらず、ゆっくりとしたテンポ、最小限のアタック、速すぎない装飾音、全休符とほぼ同じ意味を持つ数字が記されたフェルマータ(上記の演奏指示では「音と音の間に記された数字」と表現されている)は、この時期のフェルドマンの楽曲にとっては定番の事柄といってもよいだろう。「Durations」シリーズの一部でも既に用いられていた、同じ音符を結ぶ点線の登場頻度が「For Franz Kline」では格段に増している。この点線は通常の五線譜におけるタイと同じ役割を持ち、点線で結ばれた拍の分だけ音をのばす。点線で結ばれた持続音はその場面に求められている響きの土台を作るともいえるだろう。

 曲の出だしではソプラノのE5(3拍分)、チャイムのD4(5拍分)、チェロのF3(4拍分)が点線で結ばれている。対して、残りのピアノ、ホルン、ヴァイオリンは単音を1つ鳴らす。このように、冒頭では持続音と散発的な音とが対比されている。他の自由な持続の記譜法による楽曲と同じく、全パートが始めにほんの一瞬、揃った後、それぞれが各自のペースで進む。

 スコアをただ眺める限りでは1950年代後半の五線譜の楽曲に並んでなんとも言い難い楽曲なのだが、少し詳しく見ていくと、この曲を構成する3つの要素を見つけることができる。1つ目は点線で結ばれた持続音、2つ目は他の音とつながりを持たない独立した単音または和音、3つ目はいくつかの単音のまとまりからできるジェスチャー[10]。この3つの視点で楽譜を見ると、先に言及した「Durations 3」パートⅢのように曲の進行に伴って徐々に変容するテクスチャーと、さらには先にあげた3つの要素の役割が明確になってくることがわかる。

 スコア1ページ目は3つの要素全てが満遍なく出揃った賑やかな見た目だ(実際の鳴り響きは賑やかではないが)。1ページ目前半では、幅広い跳躍のチェロの3音のジェスチャーに重なるように、ソプラノが7度音程による2音のジェスチャー(A4-B3)を歌う。フェルマータ2つ分の休止を経て、ソプラノの10拍、つまり音符10個からなる長めのジェスチャーが続く。このソプラノのジェスチャーもフェルドマンが好んで用いる7度音程(D4-C5、G5-A♭4、A♭4-B♭3、F4-E5)を主としている。7度音程を基調とするソプラノのジェスチャーは1ページ目後半にもA5-B4-C#4の3音として現れる。ヴォカリーズで声を用いる場合、フェルドマンは声と他の楽器の音色とをほぼ同質に扱う傾向にあるが、ここではピアノ、ヴァイオリン、チャイムが和音を鳴らし、ホルンとチェロが音をひきのばす中でソプラノのジェスチャーが唯一の連続する動きとして際立たせられているように見える。他に目を引くのは、徐々に積み上がっていくチャイムの和音(D4-F4-C#5-E5)と、1ページ目の後半で複数回鳴らされるピアノの和音(D3-F#3-F4-A♭4-E♭5)だ。この和音は3拍分ひきのばされた後、左手の2音が1オクターヴ上に移高し、フェルマータを挟んで3回繰り返される。

 2ページ目に入ると、ソプラノに加えてホルン、ヴァイオリン、チェロがジェスチャーを担う。ピアノとチャイムは引き続き和音に徹し、場面全体の響きの土台を形成している。この2つのはざまで、時折ピアノとチェロが和音を単発で鳴らす。混沌とした1ページ目に比べて、2ページ目以降からは混沌がやや収まり、先に述べた3つの要素を見つけやすい。

 3ページ目のジェスチャーは、ソプラノのE♭5-C5からなる反復的な音型、その後の息の長い10音(B3-E♭4-D4-A♭4-C5-C#4-E4-G5- A♭4-B3)、音域の離れた2度音程を基調としたホルンの4音(G#3-A4-D♭4-C3)、ヴァイオリンによる3音(D5-G-5-F#6)、ページ最後のチェロによる4音(A♭3-D4-A4-F4)の5箇所である。点線で結ばれた持続音は各パートに満遍なく割り当てられている。このページの最後ではチェロ以外の全パートが点線で結ばれた持続音を鳴らす。

 最後となる4ページ目にジェスチャーは現れず、チェロとピアノによるアルペジオの和音以外は持続音が全体を占めている。これまでは3つの要素がそれぞれのページに必ず現れて、動きと静止の両方の性格を曲中に見出すことができた。しかし、4ページ目では持続音が多数を占めるので、曲全体のテクスチュアが同質化し、静止している印象が強まる。

 ここまでの記述は楽譜に書かれた音符だけを頼りに行ってきた。では、実際のこの曲はどのように鳴り響くのだろうか?読譜に慣れていれば、譜面だけで音の鳴り響きをある程度想像して再現できるし、スコアを目で追いながら聴くこともそれほど難しくない。だが、この曲の場合は事情が異なる。いくら曲を熟知していてもスコアを目で追いながら聴くのが難しい。なぜなら、ひとたび曲が始まると6つのパート全てが違うペースで進むので、時間の経過とともに各パート間の差異が明確になってくるからだ。どれか1つのパートが全体のテンポから大きく逸脱することはないものの、アンサンブルやオーケストラ編成での自由な持続の記譜による楽曲では、全てのパートの動向を一度に把握することは容易ではない。随所に挿入されるフェルマータもスコアに基づいた聴き取りを難しくする要因の1つだ。あるパートがフェルマータに記された数字の拍だけ無音でいる間にも、他のパートはそれを関知するはずもなく次々と音が鳴る。他のパートの音に気を取られているうちに、そのパートの無音の部分は終わり、既に新しい音が鳴ってしまっている。どこか1つを見ているだけでは不十分だが、だからと言って全体を見渡そうとしても、常に足並みが揃わないので全てが五里霧中になるような状況に陥ってしまう。加えて、それぞれのパートの音色の特性を活かさないフェルドマンのオーケストレーションがこの状況をさらに難しくする。このことは、普段、私たちが音のどの側面を頼りに音色を特定しているのかを逆説的に明らかにしている。演奏指示に記されているように、この曲で求められているのはアタックを極力抑えた演奏だ。彼の様々な楽曲で目にするこの演奏指示は音に対する彼の考え方を反映している。

音のアタックはその音の特性ではない。実際、私たちが耳にしているのはそのアタックであって音ではない。しかし、減衰は音の去り際の風景であり、音が私たちの聴取のどこに存在するのかを示してくれる——音は私たちに向かっているというより私たちから去り行く。

The attack of a sound is not its character. Actually, what we hear is the attack and not the sound. Decay, however, this departing landscape, this expresses where the sound exists in our hearing—leaving us rather than coming toward us.[11]

 フェルドマンの考えに倣えば、音の特性はアタックではなく減衰、つまり音が消え行くプロセスにある。音の減衰は響きや余韻でもあり、これらは時間の経過と共に存在する。この曲の聴取に際しては無理に音色を特定しようとせず、声と楽器が混ざり合った響き全体を聴けということなのだろうか。だが、この連載では彼の音楽を楽しむだけでなく「知る」ことも目的としているので茫洋と聴き流すのとは違う聴き方を提示したい。

 「For Franz Kline」を聴いていて最もわかりやすい音の目印はチャイムの音である。楽譜の中では声によるジェスチャーがこの曲の中で際立った存在だが、実際の鳴り響きでは楽譜から読み取ることのできる姿とは別の姿が浮かび上がってくる。楽器の特性を加味すると、アタックを極力抑えてもハンマーで打ち鳴らすチャイムからアタックを完全に消し去ることはできず、曲中では思いがけず強い存在感を放つ。チャイムのような、どうしても消し去ることのできない楽器の特性と音色が聴き手に道標を与えてくれる。スコアを見る目が泳いでどのパートがどこを演奏しているのかわからなくなったら、アルペジオのように1音ずつ積み重なるチャイムの響きを探してみてほしい。

 楽譜は概念や創造性を具現し、表現する場であると同時に、演奏や記録のための実用性も備えている。それはもちろん「For Franz Kline」においても同じだ。この曲の出版譜は全6パートの音が垂直に整然と並んでいる。読譜から想像できるのは、6つのパートが一体となって1つの和音を作り、それが次々と鳴らされる響きだろう。しかし、先に見てきたように、「For Franz Kline」を実際に聴いてみると、スコアに整然と並んだ音符からは想像できない混沌が響きとして現れる。自由な持続の記譜法による楽曲では、楽譜と鳴り響きとの隔たりが大きくなる傾向があるが、この曲はその隔たりが「Durations」よりもさらに著しい。スコアを具に見れば見るほど、楽譜の中の音像と実際の演奏から現れる音像との距離がますます開いていくように感じるのだ。自由な持続の記譜法はむしろこの2つの縮まらない隔たりを是とし、聴き手の読譜と聴取の技量を試しているようにも思われる。

4. フェルドマンにとって記譜法とは? 伝統と革新、論理と直感との間

 もしも、フェルドマンが楽譜と鳴り響きとの隔たりを縮めようと試みたならば、どのような記譜がこの曲に適しているのかを想像してみよう。先に見てきたように、アタックをできるだけ抑えて演奏される「Durations」と「For Franz Kline」には、複数の音の響きとその減衰が混ざり合って生まれる効果を聴かせる狙いがあると考えられる。これらの曲の楽譜の外見と実際の鳴り響きのイメージとを一致させようとした場合、均質に色が塗られ、形が整えられた音符の符頭が規則的に配置された楽譜ではなく、ぼやけた輪郭と不均質な濃淡の符頭が不規則な感覚でぽつりぽつりと配置された楽譜が浮かんでくる。演奏のための実用性を考慮しなくても済むのなら、作曲家が求める音のイメージを忠実に再現した楽譜はこのような姿になり、楽曲で求められている音のイメージを演奏者に対して具体的に喚起することもできる。今ここで勝手に想像している楽譜に記された、ぼやけた輪郭と不均質な濃淡の音符はクライン、デ・クーニング、フィリップ・ガストンら、この当時のフェルドマンと親しく付き合っていた画家たちの作風を彷彿させる。彼らの作品もまた、キャンヴァスという固定された媒体に衝動や運動を描きつける方法をそれぞれの方法で模索していた。フェルドマンが五線譜による正確な記譜法を「一面的」で可塑性を欠いているとみなしたことと、抽象表現主義画家がキャンヴァスに動きの要素をもたらそうとしたことは、その根底で同じ方向を希求していたといえるだろう。だが、フェルドマンは絵画に詳しかっただけでジョン・ケージのように絵の才能があったわけではなく[12]、同時代のフルクサスのような実験芸術にもそれほど共感していなかったので、記譜法そのものを根本的に覆す自分独自のセンセーショナルな楽譜を書こうとはしなかった。フェルドマンが楽譜の外観と音の関係に注意を払っていたが、楽譜自体の見た目の美しさや革新性にさほど関心がなかったことは、彼の最晩年に当たる1986年にオランダ南西部の都市、ミデルブルフで行われた連続講義での次の発言からわかる。

私はスコアがどんな風に見えるのかで頭がいっぱいだ——ほとんど数学的ともいえる等式に気付いた。自分の記譜法が狂えば狂うほど、それはよりよく鳴り響くのだった。視覚的な見た目が必ずしもこの種の音響を把握する鍵になるわけではなかった。だから私は記譜法にとても興味があり、図像的な魅力よりも、ポリフォニーから逸した音響的な現実性を記譜から得ようとしている。

I’m very involved with how the score looks—I found an almost mathematical equation: that the crazier my notation was, the better it sounded; that the visual look not necessarily was the key towards that type of sonic comprehension. So I’m very interested in notation, of trying to get the sonic reality of the piece, rather than its graphic attractiveness, which is out of polyphony. [13]

 フェルドマンは例えばバッハが書いたようなポリフォニーの楽譜に見られる秩序や洗練を記譜に求めていなかった。このことは後述する学生への助言でも明らかだ。彼が1950年から始めた図形楽譜は歴史的に見ると革新的だが、左から右へと読むなど五線譜の仕組みを踏襲し、その外観も比較的単純だ。1960年代に本格化した自由な持続の記譜法も1つの曲の中に複数の音楽的な時間を創出する点での革新性を持っているが、五線譜を基調としているのでそれほど突飛な見た目ではない。彼は他の作曲家のように[14]音符そのものの形を変える自分独自の記譜体系を作ろうとはせず、五線譜の基本的な枠組みを維持した。

 1960年代の自由な持続の記譜法では、楽譜の中の音符から符桁ふこう(音符のはたの部分)を取り去り、音符と音符とを連桁れんこう(連符を作るために用いられる音符の旗の部分)で水平方向に繋げず、音符をひとつひとつ楽譜に置いていった。このように音符と音符とを結びつけて束縛せず、せめて見た目だけでも独立させることで、楽譜の中の音符を少しでも自由にしようとしたのかもしれない。自由な持続の記譜法は、小節線の引かれた伝統的で慣習的な五線譜に比べれば革新的ではあるものの、突飛になり過ぎることもない記譜を模索していた彼なりの最良手段だったともいえるだろう。

 より精緻な五線譜による記譜法へと完全に移行した1980年のインタヴューで、フェルドマンは「少なくとも自分にとって、記譜法がその曲の様式を決める notation, at least for me, determined the style of the piece」[15]と発言している。この発言を受けて、図形楽譜または自由な持続の記譜法が五線譜に対する断絶を意味するのかとたずねられた彼は、「私はそれ(訳注:図形楽譜または自由な持続の記譜法)を本当に全く別個のものとして見なしている。ある人が彫刻も作れば絵も描くのと同じようなことだ。I saw it, very, very, differently. I saw it somebody does a sculpture and then does a painting.」[16]と答え、記譜法の選択はその時の自分の創作に適した語彙と手段であることを強調した。彼の作曲にとって記譜は音楽の様式を決める重要な事柄に変わりないが、どれを使うかはその時々によるということなのだろう。だが、実際の彼の作品変遷を見てみると、図形楽譜は1967年頃に終わり、自由な持続の記譜法は1970年代以降ほとんど用いられていない。フェルドマンは「伝統的な記譜法に回帰したことは本当になかった。I never really ‘returned’ traditional notation.」[17]と言っているものの、実際のところ1970年代以降の楽曲に用いられている五線譜の記譜法は年代が進むにつれて精度が上がって正確さが増し、彼がいう「伝統的な記譜法」にどんどん近づいて行っている。このような発言の矛盾はさておき、彼自身が言うように、記譜法がこの作曲家の音楽の様式を決めることはたしかであり、この連載でもこれまでに何度か言及してきた。1950年代、1960年代におよそ10年周期で記譜法を変えてきたフェルドマンは楽譜を書く作業をどのように捉えていたのだろうか。先に引用した1986年のミデルブルフでの講義で彼は学生たちを前にこのように語っている。

記譜法にまつわる考え方の全ては音符の配置についてのなんらかの思いつき、音符をここかあちらかに置いて、それを動かす際のアイディアを授けてくれる。私は何か形式的なことについて話しているわけではない。本能でやってのける人もいるだろうと言っているのだ。ここに音符を書けばあそこにも音符を書く。あなたたちは対位法をあまり勉強しなかったのでは?そうでしょう?ご存知の通り、対位法は楽譜のページ設計を見せてくれる点で役に立つ。すばらしいことだ。あなた方は本能の力を伸ばしている…

The whole idea about notation is to give you some idea of placement, of putting it here or there, moving the note around. I am not talking about anything formal, really. I am talking about one might even do it by instinct. You put it here and you put it there. You didn’t study much counterpoint, did you? No. Well, you see, what counterpoint does is it gives you a look of the design of the page. It’s marvelous. You develop an instinct…[18]

 本能や直感に従って音符を書いていくことと、唐突に出てきた対位法がここで対比されている。これは作曲の基本的な訓練をどれほどしたのかを問うフェルドマンから学生たちへの皮肉のようにも見える発言だが、1960年代の自由な持続の記譜法によるフェルドマンの楽曲も完璧に構築された対位法の楽譜や記譜法とは全く相容れない。従って、上記の発言は学生への皮肉であり、フェルドマン自身に対する自己批判とも解釈できる。

 本能や直感か、それとも規則や論理なのかという問いは、既存の作曲のレトリックの超克を模索したフェルドマンの創作に一貫する命題でもあった。最終的にフェルドマンは、「あなたたちはよい耳を持っている You have a good ear.」[19]と言い、対位法に長けたバッハのような俯瞰的な視野を持たなくとも作曲と記譜を発展させていく方法を学生たちに語る。フェルドマンはその具体的な方法として「正確に記譜し、それを眺めて、その楽譜の均整が取れているかどうか悩め。notate exactly and then you see and worry about the proportions」と学生たちに助言する。「だが、さらにうまくやりたいなら… もっとうまくやる方法を教えよう。とにかくもっと慎重になれ。But if you want to do it better…I tell you how to do it better. Just be more selective.」[20]と続けて彼は学生たちを鼓舞した。上記の発言から、フェルドマンにとっての作曲は、対位法のような音の設計と構築を指すのではなく、音をじっくり聴くことを通して、音を慎重に選び取り、それを楽譜に書き付けていく作業を意味するのだとわかる。だが、ここでの学生たちへの助言も素直に受け止めてよいものではない。「Durations 3」パートⅢの冒頭からしばらく続く3音の受け渡しのように、無作為に抽出されたかに見える音の配置であっても、楽譜を詳細に見ていくとそこになんらかの類縁性や関係性が浮かび上がってくることがよくある。直感的、本能的に書かれたかのように見える自由な持続による記譜でも、そこには音と音とのなんらかの関係性が必ずどこかに隠れているのだ。このことも1960年代前半のフェルドマンの楽曲の中で、楽譜と音の鳴り響きがいかに乖離しているのかを物語っているといえるだろう。

 「垂直」を発見した1960年代のフェルドマンはしばらく自由な持続の記譜法を続ける。だが、「垂直」ばかりに気を取られていては、一見よくわからない楽譜に潜む微かな関係性や類縁性を見落とす危険があり、やはり記譜された音符を水平と垂直の両方向から見ていく必要がある。引き続き、次回は自由な持続の記譜法で書かれた楽曲と、フェルドマンのいう「垂直」についてさらに詳しく考察する予定である。


[1] Morton Feldman, “Autobiography”, in Essays, Kerpen: Beginner Press, 1985, p. 38
[2] ここでフェルドマンは「Atlantis」の作曲年代を1958年、「Out of Last Pieces」の作曲年代を1960年と書いているが、パウル・ザッハー・アーカイヴでの資料調査に基づいてSebastian Clarenが作成した作品カタログ(Claren, Neither: Die Musik Morton Feldmans, Hofheim: Wolke Verlag, 2000に収録)によると、前者の作曲年代は正しくは1959年、後者の作曲年代は正しくは1961年。「Out of Last Pieces」のタイトル表記はカタログ、出版譜、CD等では「…Out of ‘Last Pieces’」とされることが多い。本稿でも引用を除いて「…Out of Last Pieces」と表記する。
[3] Ibid., p. 39
[4] Morton Feldman, Give My Regards to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman, Edited by B. H. Friedman, Cambridge: Exact Change, 2000, p. 12
ここで言及されているマダム・タッソーの美術館とは、歴史上の人物や有名人の蝋人形を展示しているマダム・タッソー蠟人形館である。ロンドンを拠点に世界各国にこの蠟人形館がある。
[5] Feldman 1985, op. cit., p. 39
[6] Frank (Francesco) Sani, “Feldman’s ‘Durations Ⅰ’: a discussion”, in Morton Feldman Page www.cnvill.net/mfsani1.htm
[7] Thomas DeLio, “Toward an Art of Imminence: Morton Feldman’s Durations Ⅲ, #3”, originally published in Interface, vol. 12, 1983, pp. 465-480, published online in Morton Feldman Page https://www.cnvill.net/mftexts.htm in 2008. 今回はオンライン版を参照したので引用した箇所のページ数は不明である。
[8] Ibid.
[9] Feldman, For Franz Kline, Edition Peters, EP 6984, 1962.
[10] ここでの「ジェスチャー」は、先に引用したDeLioの用法(3つの楽器の全体的な響きから生じるテクスチャーの意味)とやや異なり、曲中に現れる各パートの音の連続とその動きを意味する。
[11] Feldman 2000, op. cit., p. 25
[12] フェルドマンの著述や講義録に掲載されているいくつかのイラストや図を見る限り、彼には絵画の才能とセンスがなかったことがわかる。
[13] Morton Feldman, Words on Music: Lectures and Conversations/Worte über Musik: Vorträge und Gespräche, edited by Raoul Mörchen, Band Ⅰ, Köln: MusikTexte, 2008, p. 58
[14] 例えばフェルドマンやケージとも親交のあったヘンリー・カウエル Henry Cowell(1897-1965)は1930年にNew Musical Resourcesを出版し、既存の五線譜とは異なる自分独自の理論と記譜体系の構築を試みた。
[15] Morton Feldman Says: Selected Interviews and Lectures 1964-1987, Edited by Chris Villars, London: Hyphen Press, 2006, p. 91
[16] Ibid., p. 91
[17] Ibid., p. 91
[18] Feldman 2008, op. cit., p. 296
[19] Ibid., p. 298
[20] Ibid., p. 298

高橋智子
1978年仙台市生まれ。Joy DivisionとNew Orderが好きな無職。

(次回更新は11月15日の予定です)

あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(6) 1960年代前半の創作 音色の観点から

(筆者:高橋智子)

 前回は、1954年にケージらニューヨーク・スクールとして近しい関係にあった仲間たちがマンハッタンを離れたことをきっかけに、フェルドマンの音楽にも若干の変化が見られた様子をたどった。彼の音楽様式が記譜法の変遷と連動していることは初回に述べたとおりで、このことは1960年以降の創作を語る際にも当てはまる。連載6回目にしてようやく1960年代に入った今回は、記譜法の議論に入る前に触れておきたい、フェルドマンのこの当時の音楽における音色や楽器編成に焦点を当てる。

1. フェルドマンの映画、映像音楽

 ケージたちが1954年頃を境にマンハッタンを離れてからも、フェルドマンはこの地にとどまった。ハンス・ネイムス監督によるポロックの映像作品へ音楽を書いたり、ヨーロッパ・ツアーに出たケージとチュードアを介して作品が演奏されたり、1962年にペータース社と楽譜出版の契約を結んだりと、この頃のフェルドマンは作曲家としてのキャリアを順調に積み上げているかのように見えるが、実はまだ専業作曲家になってはいなかった。当時も彼は家業である子供服会社で働いて生計を立てていた。1963年のある日、そんな彼の様子を見た作曲家のルーカス・フォスはフェルドマンが作曲に専念できるよう、彼のために大学教員のポストを探すが、この時点ではフォスの尽力は実らなかった[1]。このような事情で、フェルドマンは1960年代のある地点まで昼間は子供服会社で働きながら音楽活動を続けていた。

 1960年代のフェルドマンの創作において看過できないジャンルとして映画や映像のための音楽が挙げられる。フェルドマンは1960年から1969年の間にいくつかの映画音楽と映像作品の音楽を書いている。また、実際には制作されなかった映画のために書かれたと思われるスコアも残存している。[2]

[フェルドマンが1960年代に手がけた映画と映像の音楽][3]

Something Wild (1961) 監督:Jack Garfein 約113分
The Sin of Jesus (1961) 監督:Robert Frank 約37分
Willem De Kooning: The Painter (1961) 監督:Hans Namuth&Paul Falkenberg 約14分
Room Down Under (1964) 監督:Dan Klugherz(1964) 約64分
Time of the Locust (1966) 監督:Peter Gessner 約13分
American Samoa: Paradise Lost? (1969) Dan Klugherz 約55分

 上記のリストの1番目「Something Wild」はブロンクスとマンハッタンを中心に撮影され、当時のニューヨークの街並みを知るうえでも貴重な作品と見なされている。この映画がフェルドマンにとっての本格的な長編映画音楽デビューになるはずだった。だが、彼が書いた音楽はこの映画に採用されなかった。ジャック・ガーフェイン監督の妻だったキャロル・ベイカー演じる主人公、メアリー・アンが映画の冒頭でレイプされるシーンにフェルドマンはチェレスタ、ホルン、弦楽四重奏による変ホ長調の短い曲(「Mary Ann’s Theme」として録音されている)を書いたのだ。この曲がガーフェインの逆鱗に触れて彼はこの映画音楽を降板させられる[4]。彼の代わりを務めたのは既に映画音楽の作曲家としての実績を充分に持っていたアーロン・コープランドだった。

コープランドの音楽によるメアリー・アンのシーン
https://www.cnvill.net/SomethingWild-Copland.mp4

フェルドマンの音楽によるメアリー・アンのシーン
https://www.cnvill.net/SomethingWild-Feldman.mp4

Aaron Copland/ New York Profile (opening theme of Something Wild) (1961)

 当初フェルドマンが書いたサティ風の幻想的な変ホ長調の音楽と、コープランドによる劇的な効果を活かした緊張感の高い音楽を同じシーンで聴き比べてみてほしい。理屈のうえでは、どんな音楽もその映画の映画音楽になりうるのだとしばしば言われるが、フェルドマンとコープランドの音楽を並べてみた場合、生きる目的を失いつつも自分の道を見つけようともがき続ける若者の様子を描いたこの映画にはコープランドが適任だったと思い知らされる。後にコープランドはこの映画音楽を独立した管弦楽曲「Music for a Great City」(1964)として再構成した。

Copland/ Music for a Great City (1964)

 「Something Wild」での降板劇をふまえるとフェルドマンは映画や映像の内容と背景を一切省みず傍若無人に音楽を書いた作曲家のように思えるが、決してそうではない。1951年に制作されたジャクソン・ポロックの短編ドキュメンタリー映像でのフェルドマンの音楽を評価していたハンス・ネイムスとパウル・ファルケンベルクは、ウィレム・デ・クーニングに迫った短編ドキュメンタリーで再び彼に音楽を依頼した。この時のフェルドマンの音楽は無事に映像に使われている。フェルドマンはこの映像のために作曲した「De Kooning」を「(ポロックのドキュメンタリー映像の音楽のチェロのデュオとは対照的に)映像の文脈がなくても独り立ちできる viable even without the film context (as opposed to the Pollock duo)」[5]曲とみなし、その完成度にある程度満足していたようだ。出版された楽譜においてはデ・クーニングのドキュメンタリー映像のことは言及されていない。現に、フェルドマンの楽曲リストの中で「De Kooning」は映画音楽ではなく独立した楽曲として位置付けられている。

 結局は採用されなかった「Something Wild」のサティ風の小曲の例からわかるように、フェルドマンの映画音楽は、音楽における抽象性を探求し続けた彼の「通常の」楽曲とは明らかに趣が違う。職業映画音楽家ではない作曲家にとって、映画や映像の音楽は既に確立された作曲家としてのパブリック・イメージとは違う音楽を書く実験の場でもある。このことはフェルドマンにも当てはまるだろう。これまでこの連載でとりあげてきた彼の楽曲のほとんど全ては、標題を持たず(放棄している、背を向けているともいえる)、旋律(メロディ)や伴奏といった声部間の明確な機能と役割分担もほとんどなく、その概要の説明に骨の折れる類の音楽である。だが、例えばサモア諸島の東側、アメリカ領サモアの人々の生活を追ったドキュメンタリー「American Samoa: Paradise Lost?」のための音楽を聴くと、やはりフェルドマンも映画音楽の中で普段の彼のパブリック・イメージとは違うことを大胆に行っていたのではないかと考えられる。

 「American Samoa: Paradise Lost?」はサモア諸島の人々の暮らしと、アメリカ統治下で彼らが直面している様々な社会問題を扱ったドキュメンタリーだ。当然ながら、フェルドマンはサモアの風土や文化を彷彿させる要素をこの音楽に何一つとりいれていない。青年がカヌーで海に繰り出す冒頭のシーンには、ハープの伴奏によるコルネットの穏やかで素朴な旋律の音楽がつけられている。この旋律にはしばしばフェルドマンが単音楽器に課す1オクターヴ以上にもおよぶ極端な跳躍や、三全音などの不穏な音程がほとんど用いられておらず、人間が無理なく身を委ねることのできる自然な音楽の流れが形成されている。このコルネットの旋律はフルートなど他の楽器でもその都度少しずつ違うかたちで演奏されることから、この映画音楽におけるライトモティーフのような機能を持っているともいえる。コルネットによる旋律の他に、チェロ、トロンボーン、マリンバ、ヴィブラフォン、ピアノで構成された輪郭のはっきりした快活な曲が劇中で何度か聴こえてくる。もしも、このような雰囲気の曲を「Something Wild」のために書いていればフェルドマンは降板させられなかったかもしれないが、「American Samoa」でのフェルドマンによる仕事ぶりから彼は映画音楽の作曲家としての任務を果たしていて、その能力も充分に持っていたことがわかる。従来のフェルドマンの曲に慣れている人にはこの映画における一連の穏やかで、時にロマンティックな音楽がかえって不気味にも聴こえ、裏に何かあるのではないかと勘ぐってしまいたくなるだろう。しかし、何度聴き返してもこの映画音楽には聴き手を不安にさせる要素はほとんどないので最初から最後まで安心して聴くことができるし、映画を観る際の妨げにもならない。

American Samoa: Paradise Lost?
part 1 https://www.youtube.com/watch?v=pF3wieHjtPM
part 2 https://www.youtube.com/watch?v=ssrzxlTePfA

 旋律は従来のよく知られたフェルドマンの音楽において異例で特殊な要素だ。だが、60年代に彼が映画音楽で試みた旋律による実験は一過性のものではない。フェルドマンは映画音楽で初めて旋律を書いたわけではなく、既に1947年、ライナー・マリア・リルケの詩に曲をつけた無伴奏の独唱曲「Only」を作曲している。また、旋律の要素は60年代以降の創作の一部に引き継がれている。未出版だが、フェルドマンは1960年にボリス・パステルナークの詩に曲をつけたピアノ伴奏付き歌曲「Wind」を作曲している。70年代を代表する楽曲「The Viola in My Life 1-4」(1970-71)と「The Rothko Chapel」(1971)にも旋律が現れる。これらの楽曲での旋律はシナゴーグの鐘の音に触発されたといわれているが「American Samoa」でのコルネットの旋律ともそう遠くない関係に聴こえる。映画や映像の音楽に着目すると、その作曲家のこれまでの創作やその後の動向を知る手がかりとなる。映画音楽の中で突然出てきたように見えるフェルドマンの旋律だが、このように視野を広げて見てみると、彼の創作の変遷において旋律の要素が実は密かに連続しているとわかる。

Feldman/ Only (1947)

2. 60年代前半の室内楽曲の編成 

 先に触れた「Something Wild」や「American Samoa」の音楽ではチェレスタ、ヴィブラフォン、コルネット、ハープといった、50年代までの楽曲にはほとんど登場しなかった楽器が用いられている。この傾向はフェルドマンの映画音楽に限ったことではなく、「通常の」彼の音楽も1960年頃から楽器の編成に変化が見られる。むしろ彼の音楽全体が1960年前後を境に新たな段階に突入したといった方がよいかもしれない。1950年代のフェルドマンの楽曲に頻繁に用いられているのはピアノ、チェロ、ヴァイオリン、フルートで、図形楽譜による室内楽編成の楽曲にはトランペット、ホルン、チェレスタがしばしば登場する。1960年に始まる「Durations」シリーズを皮切りに風変わりな編成による室内楽作品がこの時期のフェルドマンの作曲の中心となっていく。1960年以降の室内楽編成の楽曲に頻出する楽器として、主にフルート、アルトフルート、ホルン、トランペット、トロンボーン、チューバ、ヴィブラフォン、打楽器、ハープがあげられる。1961年の図形楽譜の楽曲「The Strait of Magellan」でのエレクトリックギターの使用と1963年の無伴奏の合唱曲「Christian Wolff in Cambridge」も1950年代までのフェルドマンの楽曲には見られなかった試みだ。1960年代前半の主な室内楽作品の編成を見てみると、この時点でフェルドマンが用いた木管楽器は主にフルートとアルトフルートで、オーボエ、クラリネット、ファゴットはほとんど使われていない。弦楽器と金管楽器には偏りがないものの「Durations 3」はヴィオラとピアノにチューバという、やはりあまり見慣れない組み合わせでできている。「Vertical Thoughts」3と5、「For Franz Kline」など、この時期のいくつかの楽曲には声のパートもアンサンブルの一員として登場する。「Vertical Thoughts」3と5ではヘブライ語で書かれたユダヤ教の聖典タルムードTalmudの詩篇 Psalm第144篇からの1節を英訳した「life is a passing shadow」がテキストとして用いられている。「Vertical Thoughts 5」においては、チューバとティンパニと太鼓類が轟く中でソプラノがひきのばされた1音にテキストのうちの1語か2語をのせて歌う。ソプラノが1音ないし1語を歌い終わると、次の音が出てくるのはそれからしばらく間を置いてからだ。このように途切れ途切れの断片としてソプラノの声部が書かれているので、この声は歌の旋律とはいえないかもしれない。通常、楽器の音に対して人間の声は聴き手に特別な注意を引くが、曲が進むにつれて、ソプラノの声色としての認識さえ曖昧になってくる。ここでのソプラノはどちらかというと楽器のパートと同等な一声部の意味合いが強いといえるだろう。打楽器にかんしては、フェルドマンのこの時期の楽曲ではヴィブラフォンが、鍵盤楽器にかんしてはピアノの他にチェレスタが頻繁に用いられている。チェレスタは1970年代以降の楽曲にも特によく登場し、多くの場合、ピアノ奏者がピアノとチェレスタを兼ねている。映画と映像の音楽においてもこの2つの楽器の音が聴こえてくる瞬間がいくつもあり、70年代、80年代の楽曲でもこれらの楽器の登場回数が多い。

Feldman/ The Straits of Magellan (1961)
Feldman/ Christian Wolff in Cambridge (1966)
Feldman/ Vertical Thoughts 5

1960年代の主な室内楽曲の編成
Durations (1960-1961)
1: アルトフルート、フルート、ピアノ、ヴァイオリン、チェロ
2: チェロ、ピアノ
3: ヴィオラ、チューバ、ピアノ
4: ヴィブラフォン、ヴァイオリン、チェロ
5: ホルン、ヴィブラフォン、ハープ、ピアノ/チェレスタ、ヴァイオリン、チェロ

The Straits of Magellan (1961): フルート、ホルン、トランペット、ハープ、エレクトリックギター、ピアノ、コントラバス

Vertical Thoughts (1963)
1 : 2台ピアノ
2 : ヴァイオリン、ピアノ
3 : ソプラノ、フルート/ピッコロ、ホルン、トランペット、トロンボーン、チューバ、打楽器2(トムトム、ティンパニ、アンティーク・シンバル、ゴング、ヴィブラフォン、モーター付きグロッケン)、ピアノ/チェレスタ、ヴァイオリン、チェロ、コントラバス
4 : ピアノ
5 : ソプラノ、チューバ、打楽器(大太鼓、トムトム、ティンパニ、アンティーク・シンバル)、チェレスタ、ヴァイオリン
*6番、7番は未完

For Franz Kline (1962): ソプラノ、グロッケンシュピール、ピアノ、ヴァイオリン、チェロ、チャイム

De Kooning (1963): ホルン、打楽器(テナードラム、大太鼓、アンティーク・シンバル、ヴィブラフォン、モーター付きグロッケン)、ピアノ/チェレスタ、ヴァイオリン、チェロ

 上記の一覧を見ると、たしかにこの時期からフェルドマンの楽曲は編成の幅が広がっている。しかし、彼はこれらの試みを通して楽器や声固有の豊かな音色の世界を探求していたのではない。むしろフェルドマンの場合はその逆で、楽器や声の音の特性を引き出すよりも覆い隠す方に注力する傾向が見られ、それぞれのパートを出どころのわからない音として響かせようとしていた。この傾向は1962年の「For Franz Kline」でも顕著だ。この曲は1961年5月13日に脳卒中で急逝した抽象表現主義の画家、フランツ・クライン[6]を偲んで作曲された。この曲はフェルドマンが親しい友人の名前をタイトルに付けたシリーズの最初の作品でもある。グロッケンシュピールとチャイムが用いられているので、きらびやかな音の響きを期待してしまうが、実際の鳴り響きは必ずしもそうとはいえない。グロッケンシュピールとチャイム、そしてホルンが用いられているにもかかわらず、なぜかくすんだ音色が聴こえてくるのだ。もしもクラインとフェルドマンの創作の態度に通じる事柄があるならば、それは絵画における色彩と音楽における音色の関係に見出すことができるだろう。

Feldman/ For Franz Kline (1962)

 クラインの晩年はあたかも色彩を邪魔者として扱うか[7]のような、黒と白のモノトーンを基調にした作風だった。絵画なのに色彩を邪魔とみなし、用いる色を黒と白に限定するクラインのやり方は、楽器本来の音色の魅力を引き出すのではなく全体的にくすんだ響きを志向したフェルドマンの書法と重なっている。Bernardはこの曲の音色の特徴を楽器の組み合わせ、抑制されたダイナミクスと最小限のアタック、楽器と声との垂直な(和音として重なる音)組み合わせの3つの観点から述べている[8]。1つ目の楽器の組み合わせについては、フェルドマンの楽器法がその楽器の特性を活かす音型をあえて回避していることが指摘されている。たとえば、呼吸に基づいた滑らかな連続と持続は声(ソプラノ)の音楽的な特徴の1つだが、フェルドマンはこの曲において断片的な音型や単音をソプラノのパートに課すことが多い。

ホルン、歌詞のないソプラノ、チャイム、ヴァイオリン、チェロの組み合わせは最大限「カラフルに」することを狙っているように思えるが、実際、この組み合わせはまったくそんな風に鳴り響かないのだとわかる。奇妙なまでに個性が抑制されている効果の理由は、これらの楽器が「通常の」オーケストレーションの中でその楽器だとわかるような固有の音型やパッセージの中で用いられていないからだ。これらの楽器は単音で構成された声部、安定しない時間の中でひきのばされた、あるいは孤立した和音の中に現れる。時間的に隣接しているソプラノの音高は、跳躍によって分断されていて、たいていの場合大きく離されている。

The combination of horn, wordless soprano, piano, chimes, violin, and cello seems destined to be “colorful” in the extreme. Yet somehow it turns out not to sound that way at all. One reason for the curiously neutral effect is that the instruments are not displayed in any of the characteristic figures or passagework that often serve to identify them in “normal” orchestrational situations: the parts consist of single notes, sustained for varying lengths of time, or isolated chords; the soprano’s temporally adjacent pitches are all separated by leaps, usually large ones.[9]

 2つ目の、全体的に低く抑えられたダイナミクスと最小限に留められたアタックは、「パート間に生じるはずの差異を均すことにつながる (which) tends to smooth out the differences that might emerge among the instruments in these dimensions」[10]効果に一役買っている。通常、声、弦楽器、管楽器、打楽器、ピアノといった種類の異なる音色を用いる目的は多様な響きを獲得するためだが、フェルドマンは違う。彼は様々な種類の音色を駆使してモノトーンを目指しているのだ。これは絵の具を何色も混ぜていくと最後には黒や茶色のよくわからない色に行き着いてしまう現象とも似ている。3つ目の楽器と声との垂直な組み合わせは各パートが同時に響くことを意味し、Bernardは3つの中で最も重要な事柄とみなしている。

3つ目の要因はおそらく何よりも重要だ。それは楽器と声が作り出す垂直な組み合わせで、そのどちらも慣習的な楽器や声として認識されない。響きに対するフェルドマンの完全に独創的な耳(訳注:聴き方)は、どのパートが最も低く、どのパートが最も高く、どのパートがその中間なのかをしばしばフラストレーションを感じながら特定しようと試みる練習であることを意味する。

A third factor, perhaps the most important of all, is the kind of vertical combinations that the instruments and voice form, none of which are recognizable as conventional. Feldman’s utterly original ear for sonority means that it is often an exercise in frustration to try to identify which part of lowest, which highest, which in between.[11]

 この3つ目の指摘は若干の説明が必要だ。フェルドマンの多くの曲、特に50年代のピアノ曲によく見られるのが、例えばC4からD3のように隣接した音高間の移行を、あえて1オクターヴかそれ以上の広い間隔で行うことによって音の高低の間隔と感覚両方をあいまいにさせる手法だ。曲中、この手法が和音の重なりとして試みられている。これまで、この手法はある音からある音へ移る際に用いられてきたが、今度は同時に鳴らされるひとまとまりの音の中で音の高・中・低の感覚を混乱させようとしているのだ。実際に、この曲の中でどの音がどのパートによるものなのかをスコアを見ずに聴き分けるのはあまり簡単ではない。冒頭にテュッティで鳴らされる和音でさえ、ホルンとソプラノとチェロという全く違う種類の音なのに、どれがどのパートの音なのかを正確に特定するにはある程度訓練された耳でないと難しい。それぞれの楽器の音色と、その楽器の特性を活かした音楽に慣れてしまった私たちの耳は、この曲のように楽器の個性をできるだけ抑えた響きに対してBernardがいう「フラストレーション」を感じてしまうだろう。「For Franz Kline」を聴いて、それぞれのパートが特定できなければできないほど、この曲でのフェルドマンの試みは成功しているともいえる。

 詳しくは次回に解説する予定だが、この曲のスコアは拍子や小節線のない自由な持続の記譜法で書かれている。曲の随所に記された数字とその上に書かれたフェルマータは通常の五線譜における全休符と同じ役割である。Bernardはフェルマータで記された休止と静止の空間をクラインのモノトーンの絵画における白の部分に、音符を黒の部分に見立てている[12]。しかし、この曲では静寂と音とがはっきりと区分けされておらず、白と黒とが混ざり合った灰色の状態を作り出している。これをBernardは次のように描写する。

実際にこの曲の静寂の性質は音の性質と不可分で、音の響きは1つ、2つ、3つかそれ以上の楽器が同時に鳴っている事実を以ってしても、はっきりと階層付けられるわけではない(おそらくその理由の一部として、同じタイミングでのアタックであれ、楽譜の中の音符が記譜された通りのタイミングで同時に鳴ることがほとんどないからだ)。

The quality of silence in this work, actually, is inseparable from the quality of sound, in which sonorities are not markedly hierarchized by the fact of one, two, three, or more instruments sounding at once (probably in part because notes sounding at the same time are rarely if ever attacked at the same time).[13]

 前回とりあげた「Piece for 4 Pianos」と同じく、この曲でも記譜と実際の鳴り響きが完全に一致しない。一斉に始まる冒頭を除いてそれぞれのパートが各自のペースで進むので、楽譜の上では同じタイミングで垂直に整然と重なっている音やフェルマータであっても実際はそれぞれの出来事が起こるタイミングには微妙なずれが生じる。フェルドマンは各パートの随所にフェルマータを記すことで音の鳴っていない状態を作り出しているが、この曲ではすべてのパートに同じタイミングでフェルマータが付けられている箇所はなく、いくつかのパートにフェルマータが付いていようと常にどこかで音が鳴っている。このようなはっきりしない音と静寂の混ざり合いも、フェルドマンにとってはモノトーンの音楽を具現する1つの手段だったのだろう。

 通常、音楽における豊かな色彩の感覚は概ね肯定的な特性として歓迎されるはずだが、フェルドマンは「For Franz Kline」において「豊かな」音色や色彩という美的価値観とは逆のことを試みているのだ。この曲に見られるように多様な楽器を用いるが、その楽器の特性を活かすのではなくて、できるだけ抑えることで、どっちつかずのよくわからない音響を創出する手法は1960年代のフェルドマンが新たに到達した境地の1つでもある。

3. 打楽器作品における音色へのアプローチ 「The King of Denmark」

 図形楽譜の楽曲でもフェルドマンは楽器法と音色に対する独自のアプローチを追求していた。1964年に作曲された「The King of Denmark」は打楽器の独奏曲で、フェルドマンの楽曲の中では演奏される頻度が高い。この曲のスコアはこれまでに紹介してきた図形楽譜の楽曲――「Intersection」シリーズ(1951)、「Ixion」(1958)――とほとんど同じ形態をとっていて、縦の段が音域、横の方向が時間の経過を示す。他の図形楽譜の楽曲と同じく具体的な音高は記されず、マス目(スコアの指示書では四角形、またはボックスと記されている)に演奏すべき音の数と演奏指示が記されている。テンポは1つのマス目あたり1分間に66-92と幅がある。図形楽譜を約5年ぶりに再開した1958年以降の楽曲ではマス目に装飾音や八分音符も書かれるようになり、50年代前半の図形楽譜よりも緻密になったことは前回解説したとおりだ。「The King of Denmark」の最後はヴィブラフォンと、グロッケンシュピールかアンティーク・シンバルで演奏する音が五線譜で書かれており、フェルドマンの図形楽譜の書法に新たな側面が加わっている。

The King of Denmark (1964) スコアと演奏を同期させた映像
The King of Denmark (1964) 同じ演奏者による演奏の映像

 この曲で興味深いのはやはり打楽器の種類と音色との関係である。予め明記されているゴング、シンバル、トライアングル、ティンパニ、ヴィブラフォン以外の楽器の選択は演奏者に委ねられている。スコア冒頭には以下の演奏指示が記載されている。

  1. グラフに記された高・中・低の四角形1つをMM 66-92のテンポとみなす。最上段あるいはそれより少し上の場所は最高音域。最下段あるいはそれより少し下の場所は最低音域。
  2. 数字は1つの四角の中で演奏される音の数を示す。
  3. 全ての楽器はスティックやマレットを使わずに演奏しなければならない。演奏者は指、手、あるいは腕のどの部分を使って演奏してもよい。
  4. ダイナミクスは極端に抑えてできるだけ均等に。
  5. 太い水平線[14]はクラスターを示す。(可能ならば様々な楽器で演奏すべき)
  6. ローマ数字は同時に鳴らす音の数を示す。
  7. (高・中・低の四角の全部に及ぶ)大きく書かれた数字は全ての音域でどのような時間のシークエンスでも演奏できる単音を示す。
  8. 破線は引きのばす音を示す。
  9. ヴィブラフォンはモーターを使わずに演奏する。
  • 各種記号:
    • B ベルのような音
    • S 膜鳴楽器(訳注:あるいは太鼓類)
    • C シンバル
    • G ゴング(訳注:銅羅)
    • R ロール
    • T. R. ティンパニのロール
    • △ トライアングル
    • G. R. ゴングのロール
  1. Graphed High, Middle and Low, with each box equal to MM 66-92. The top line or slightly above the topline, very high. The bottom line or slightly beneath, very low.
  2. Numbers represent the number of sounds to be played in each box.
  3. All instruments to be played without sticks or mallets. The performer may use fingers, hand, or any part of his arm.
  4. Dynamics are extremely low, and as equal as possible.
  5. The thick horizontal line designates clusters. (instruments should be varied when possible.)
  6. Roman numerals represent simultaneous sounds.
  7. Large numbers (encompassing High, Middle and Low) indicate single sounds to be played in all registers and in any time sequence.
  8. Broken lines indicate sustained sounds.
  9. Vibraphone is played without motor.
  • Symbols Used:
    • B-Bell-like sounds
    • S-Skin instruments
    • C-Cymbal
    • G-Gong
    • R-Roll
    • T. R.-Tympani roll  
    • △- Triangle
    • G. R.-Gong roll [15]

 即興演奏と混同される可能性や、演奏者の手癖やパターンが入り込んでしまう余地のあった50年代の図形楽譜に比べると「The King of Denmark」は具体的で明確な演奏方法が記されているように見える。だが、スコアにはこの演奏指示には含まれていない記号がいくつか存在する。クラスターは太線で示されているが、曲中にはグリッサンドも登場する。斜線がグリッサンドを示し、1つの音域で完結していることもあれば、複数の音域をまたぐこともある。装飾音もしばしば登場するが演奏指示では言及されていない。たいていのフェルドマンの楽曲における装飾音はあまり速すぎないように演奏することが指示されているので、おそらくこの曲の装飾音にも同じ演奏方法が適用される。数字のみが記されている箇所ではその音域に即した楽器を選んで、その数字と同じ数の音を1つのマス目の中に収まるように演奏しなければならない。これは最初期の図形楽譜「Projections」シリーズから一貫した方法だ。初期の図形楽譜はほとんどがチェロ、ピアノ、ヴァイオリンなど音高のある楽器で演奏されるため、マス目に書かれた数字の数だけ指定された音域内で異なる音高を演奏すれば、音高による差異の効果が音楽にもたらされる。打楽器で演奏され、さらに楽器の選択も演奏者に任されているこの曲では、初期の図形楽譜の場合とやや事情が異なる。例えば冒頭の高音域のマス目に7と書かれた場所では、この7つの音を高音域の同じ楽器、同じ音色で演奏しても間違いではない。しかし、できるだけ違った種類の楽器や音色で高音域の7つの音を鳴らした方がより多様な音色による効果が得られるのも事実だ。リンク先の映像では、演奏者はこの7音をガラスの皿、陶器、鈴、カウベル、小型の太鼓など様々な楽器で鳴らしている。選択肢が広がった分、演奏者は効果的な楽器の組み合わせを考える必要がある。

 冒頭の7音のように、異なる楽器の組み合わせによる多様な音色を狙った箇所もあれば、同属の楽器の響きでの演奏が各種記号や文字によって指定されている箇所もある。スコア1ページ目2段目の後半はゴング、2ページ目の2段目の後半は皮(膜鳴楽器)、3段目はシンバルが指定されている。3ページ目1段目はベルのような音がこの段の半分以上を占めている。ゴングとシンバルの場合は大きさや種類の異なるそれぞれの楽器を用意すれば3つの音域に応じた音を出すことができる。だが、3ページ目の「ベルのような音」の指示はやや漠然としていて、演奏者に音のイメージの構築が求められる。リンク先のスコア付きの映像では4分11秒、演奏の映像では4分18秒頃からこの「ベルのような音」の箇所が始まる。この演奏では演奏者は大きなカウベル、アンティーク・シンバル、ヴィブラフォン、金属製のボウルなどを使ってベルのような音を作り出している。この「ベルのような音」は金属の音とも解釈できるが、この曲の演奏とその分析を行った打楽器奏者のDaryl L. Prattは、トライアングルのパートが別個に三角形の記号で書かれているので、ここに含めない方がよいという見解を示している[16]。演奏実践の視点から考えると、この曲では奏法、音色、楽器の属性が響きの性格を決める重要なパラメータとして機能しているといえる。では、フェルドマンは打楽器の音色についてどのように考えていたのだろうか。

 実際のスコアの演奏指示と違いがあるが、1983年のジャン・ウィリアムズによるインタヴューの中で、この曲を作曲した当時フェルドマンは打楽器の音を楽器の大きな一群とみなし、金属、ガラス、木の音に分類した[17]と語っている[18]。だが、これらの分類に基づくそれぞれの音は金属製の楽器で金属の音を出すことや木製の楽器で木の音を出すことを必ずしも意図しているのではなく、どんな種類や素材の打楽器でも「耳にとって金属のように聴こえる音、ガラスや木に聴こえる音sounded like metal, sounded like glass and wood to the ear」[19]を出すことができればこの分類に適った音になる。「The King of Denmark」は奏者が指定された箇所にどの楽器を割り振るかによって演奏の結果生じる音の響きが大きく変わってくる点で不確定性の音楽である。だが、演奏指示とスコア、そして上記の発言から、フェルドマンはどこをどの音色で演奏すべきか、この曲の中で自分が理想とする音色のイメージをある程度具体的に持っていたようにも思われる。おそらくここで彼が求めていたのは、その出自が特定されている「〜という楽器の音」よりも、出どころのあまりはっきりしない「〜のような音」や、既存の楽器から生じる「〜とは思えない音」だったのかもしれない。通常、打楽器は様々な度合いのアタックがその音響や音色を特徴付けるが、スティックとマレットを用いた演奏を禁じたこの曲では、従来の打楽器奏法では得られないアタックの音響的な効果も期待されている。

 フェルドマンによれば「The King of Denmark」はガムラン音楽、ジョン・ケージの1940年代初期の楽曲、ヴァレーズの楽曲をモデルにして書かれた[20]。彼はロングアイランドのビーチに座って数時間でこの曲を書き上げた時の様子を次のようにふりかえっている。

作曲していた時の記憶を実際に呼び起こすことができる――遠くで微かに聴こえる子供たちの声、トランジスターラジオの音、ブランケットを敷いた他の人たちの場所から漂う会話といった音がこの曲に入り込んできたことを覚えている。私が言っているのはこの種の断片のことだ。私はこの断片にとても大きな印象を受けた。長く続かない物事の印象がこの曲のイメージとなった。それは周りで起きていたことのイメージだ。このイメージを補強するために、いかなるマレットも使わず、指と腕を使うことを思いついた。そうすることで全部の音がそこにただ漂っては消え、長い時間そこに残らないのだ。

And I can actually conjure up the memory of doing it—that kind of muffled sound of kids in the distance and transistor radios and drifts of conversation from other pockets of inhabitants on blankets, and I remember that it did come into the piece. By that I mean these kinds of wisps. I was very impressed with the wisp, that things don’t last, and that became an image of the piece: what was happening around. To fortify that, I got the idea of using the fingers and the arms and doing away with all mallets, where sounds are only fleetingly there and disappear and don’t last very long.[21]

 これを読むと、フェルドマンがビーチで見聞きした様々な出来事とその音の断片がこの曲の音の響きのイメージを形成していることがわかる。彼は、打楽器奏者がスティックやマレットを使わず、全ての楽器を自身の指と腕で演奏しなければならないアイディアを作曲中に思いついたといっているが、これについては別の説がある。1964年秋に行われたニューヨーク・アヴァンギャルド・フェスティヴァルでこの曲を初演したマックス・ノイハウスによれば、指や手だけを用いる演奏はフェルドマン立ち合いのもとで行われた練習の中で現れたアイディアだったらしい。

2回目と3回目のセッションでも彼(フェルドマン)はまだ「違う、音が大きすぎる、うるさすぎる」と強く主張した。打楽器科の学生だった頃、コンサートが始まる直前のステージで自分たちのパートをいつもどのように練習していたかを突然思い出した。観客に自分たちの練習の音が聴こえないようにスティックではなくて指を使っていたのだ。私はスティックを下に置いて、自分の指だけで練習した。モーティは仰天して「それだ、それだ!」と叫んだ。

In the second or third session, he was still insisting, ‘no, it’s too loud, too loud’. I suddenly remembered how, as percussion students, we used to practice our parts on stage just before a concert started. In order that the audience not hear us, we used our fingers instead of sticks. I put down my sticks and started to play with just my fingers. Morty was dumbstruck, ‘that’s it, that’s it!’ he yelled.[22]

 2人の間での記憶の違いがどうであれ、打楽器曲にもかかわらず「The King of Denmark」ではフェルドマンの他の多くの楽曲と同じく、できるだけ控えめに、ダイナミクスを抑えた演奏が求められる。具体的な楽器の種類が全て特定されていないものの、太鼓類やトライアングルでアタックや音量を曲の間中できるだけ抑えて、しかも可能な限り平坦なダイナミクスで演奏しなければならない。この点からも先に触れた「For Franz Kline」と同じく、この曲はその楽器本来の特性を活かす書法とは逆の方法で書かれているといえる。

 最初から最後までダイナミクスを控えめに静かに演奏しなければならないことの狙いには、実は別の背景がある。エバーハルト・ブルームによれば、フェルドマンはニューヨークでカールハインツ・シュトックハウゼンの「Zyklus」(1959)を聴いた後、自身の打楽器曲(「The King of Denmark」)を「「Zyklus」に対するアメリカ的な返答 the American answer to “Zyklus”」[23]と述べた。シュトックハウゼンの「Zyklus」はトムトムやログドラムの強打が印象的な、どちらかというと「うるさい」類の楽曲だ。一方、「The King of Denmark」は終始アタックとダイナミクスを抑えて演奏される「静かな」類の楽曲である。誰か(シュトックハウゼン)が大きな音の打楽器曲を書いたので、自分(フェルドマン)は大きくない音の打楽器曲を書いてみたといったところだろうか。「Zyklus」の存在を視野に入れることで、打楽器曲にもかかわらずフェルドマンが静かさや最小限のアタックにこだわった理由がより明確になる。

 フェルドマンは作曲が終わってからこの曲に「The King of Denmark」とタイトルをつけた。タイトルについて彼は「長続きしないもの、はかなさ、絶対的に静寂であることへの哀愁があった。There was something about the wistfulness of things not lasting, of impermanence, and of being absolutely quiet.」[24]と語っている。作曲当時のフェルドマンはこれらのイメージと、第二次世界大戦期のナチスに抵抗してダビデの星をつけ、何も言わずに街を歩き回ったデンマーク王クリスチャン10世の逸話とを重ねた[25]。クリスチャン10世の逸話は事実とは異なるという説があるが、ダビデの星をつけた彼の行動は無言の抵抗の象徴として今も語り継がれている。なぜクリスチャン10世がビーチにいたフェルドマンに去来したのか、彼自身その理由を明かしていないが、この2つは「その時の自分の頭の中で強く結びついていた。there was a strong connection in my mind at that time」[26]。一方、ブルームは「The King of Denmark」をフェルドマンの他の楽曲には見られない唯一の政治的な性質を帯びた楽曲だとみなしている[27]。デンマーク王クリスチャン10世にまつわる逸話をふまえると、この曲は音から人間に対する無言の、あるいは小さな声での抵抗とも考えられるのかもしれず、フェルドマンが人の手によって音を操作する、秩序付けることについて逡巡し続けていた作曲家だったことも思い出される。1960年代の彼の創作においても「音そのもの」は引き続き重要な命題として彼につきまとっていた。

 今回は映画音楽、室内楽、図形楽譜の楽曲における音色の観点から1960年代前半のフェルドマンの創作をたどった。ここでとりあげたいくつかの例からわかるように、彼は音色に対しても独自の考え方を持っていた。次回は1960年代の五線譜の楽曲の大半を占める、自由な持続の記譜法について考察する予定である。


[1]Morton Feldman Says: Selected Interviews and Lectures 1964-1987, Edited by Chris Villars, London: Hyphen Press, 2006, p. 265
[2] “Untitled film music”としてCD, Morton Feldman: Something Wild-Music for Film(KAI0012292, 2003)に収録されている。この映画音楽集の詳細はhttps://www.gramophone.co.uk/review/feldman-something-wild-music-for-film 参照。
[3] Morton Feldman Page https://www.cnvill.net/mfhome.htm 内の Morton Feldman Film Music https://www.cnvill.net/mffilmmusic.htm に各作品の詳細、映像や音源の抜粋が掲載されている。
[4] Feldman 2006, op. cit., p. 264
[5] Peter Niklas Wilson, “Canvasses and time canvasses: Comments on Morton Feldman’s film music” https://www.cnvill.net/mffilm.htm このテキストは脚注2で言及したアルバムのライナーノーツとして書かれた。
[6] Franz Kline (1910-1962) MoMAによるFranz Klineのページ参照 https://www.moma.org/artists/3148
[7] Jonathan W. Bernard, “Feldman’s Painters,” in The New York Schools of Music and Visual Arts: John Cage, Morton Feldman, Edgard Varèse, Willem de Kooning, Jasper Johns, Robert Rauschenberg, edited by Steven Johnson, New York: Routledge, 2002, p. 196
[8] Ibid., p. 196
[9] Ibid., p. 196
[10] Ibid., p. 196
[11] Ibid., p. 196
[12] Ibid., p. 197
[13] Ibid., p. 197
[14] 原文に“The thick horizontal line”と書いてあるので水平線としたが、スコアではクラスターは太い垂直線で記されている。
[15]The King of Denmark, EP 6963, 1965
[16] Pratt, p. 77
[17] Feldman 2006, op. cit, p. 151
[18] Ibid., p. 151
[19] Ibid., p. 151
[20] Ibid., p. 151
[21] Ibid., p. 152
[22] Max Neuhaus, https://www.cnvill.net/mfneuhaus.htm このテキストはCD The New York School: Nine Realizations by Max Neuhaus (22NMN.052, 2004)のライナーノーツとして書かれた。
[23] Eberhard Blum, “Notes on Morton Feldman’s The King of Denmark,” English translation by Peter Söderberg, https://www.cnvill.net/mftexts.htm
[24] Feldman 2006, op. cit, p. 152
[25] Ibid., p. 152
[26] Ibid., p. 152
[27] Blum, op cit.

高橋智子
1978年仙台市生まれ。Joy DivisionとNew Orderが好きな無職。

(次回更新は10月15日の予定です)

あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(5) 1950年代中期、後期の楽曲

(筆者:高橋智子)

 前回はフェルドマンの図形楽譜による楽曲と同時期に作曲された五線譜による楽曲のいくつかをとりあげた。まばらなテクスチュア、特定の音程の繰り返し、2オクターヴ以上に及ぶ極端な跳躍などを主な特徴としてあげてみたが、彼のこの時期の五線譜の楽曲は謎めいていて、なんとも言い難い。今回は1950年代半ばから後半にかけての作品と、彼の周りに起こった出来事をたどる。

1. ニューヨーク・スクールの離散

 1950年にフェルドマンがケージと同じロウアー・イーストサイドのボザ・マンションに移り住んだことをきっかけに発展した、音楽におけるニューク・スクールのコミュニティは1954年に実にあっさりと終焉を迎える。この年、ボザ・マンションの建物が取り壊されることとなり、フェルドマン、ケージ、カニングハムら、ここの住人たちは引越しを余儀なくされた。フェルドマンとブラウンは引き続きマンハッタンにとどまる一方、ケージはチュードアらとともにマンハッタンから1時間15分ほど離れたロックランド郡ストーニー・ポイントに移り住んだ。ケージらの新たな住まいであるストーニー・ポイントの家はブラック・マウンテン・カレッジ[1]時代からのケージの友人で児童文学作家のヴェラ・ウィリアムズと建築家のポール・ウィリアムズ夫妻が作った芸術家コミューン、ザ・ランド The Landと呼ばれていた[2]。1970年にマンハッタンに戻るまでケージたちはここに住み続けた。フェルドマンはストーニー・ポイントの家にケージを訪ねたことがあるが、視力の悪い彼にとってケージの家に続く急斜面はとても危なかった。このような理由から、フェルドマンがここを訪れたのはたった一度だけだった。[3]このグループの中で一番若い、当時まだ10代だったウォルフはハーヴァード大学で古典文学を学ぶため、やはり彼もマンハッタンを去らなければならなかった。ハーヴァードに進学したウォルフがニューヨークを訪れることができたのは長期休暇に限られていたことから、彼と他のニューヨーク・スクールのメンバーとの直接的な交流も当然ながら以前ほど頻繁にできなくなった。作曲に数学的な思考と方法を用いることに否定的だったフェルドマンと、数学を修めた後にシリンガー・システム[4]による作曲を学んだブラウンとの間に音楽をめぐる諍いがあったものの、ニューヨーク・スクールの離散はバンドの解散理由でよく用いられる「音楽性の違い」ではなく、上記のようなそれぞれの生活や進路の事情で互いに密接に付き合っていた時期の終わりを迎えたのだった。

 後にフェルドマンとブラウンは和解し、1966年にユニヴァーサル・エディションが発行したブラウンの作品カタログにフェルドマンは「アール・ブラウンEarle Brown」と題した文章を寄せている。その中でフェルドマンは自身とブラウンとの音楽家、作曲家としての違いをこのように記している。「私自身とケージによる前衛コミュニティに対する影響は主として哲学的だが、ブラウンによる影響はさらに具体的で実践的だ。 While the influence of Cage and myself on the avant-garde community has been largely philosophical, Brown’s has been more tangible and practical.」[5]1950年代、ブラウンはフェルドマンと同じく新たな記譜法を模索していた。「時間記譜法 time-notation」はブラウンが考案した記譜法とその概念の1つである。時間記譜法では音高、音域、ダイナミクスや演奏法が指定されている。音価に関してはたいていの場合、楽譜上の空間的な長さと配置から読み取って演奏する。このようにして、ブラウンは事前に規定された枠組みの中での柔軟性や曖昧さを実現しようとした。音域と演奏される音の数とタイミングをマス目に記して演奏者を困惑させたフェルドマンの初期の図形楽譜よりも、ブラウンの時間記譜法は、先のフェルドマンの文章の引用にあるように具体的で実践的だといえる。「Music for Cello and Piano」(1955)はブラウンの時間記譜法による最初期の楽曲の1つで、拍子記号は書かれていないが、音価は五線譜に引かれた線の長さから読み取ることができる。チェロとピアノのパートがどのように重なるのかは通常の五線譜と同様に視覚的に把握できる。ブラウンは1967年にアテネで行われた現代音楽祭でフェルドマンの「De Kooning」(1963)を指揮していることからも、ニューヨーク・スクール時代の不和とグループの離散を経てもこの2人の付き合いが続いていたようだ。

Earle Brown/ Music for Cello and Piano (1955)

The Earle Brown Music Foundation
http://www.earle-brown.org/works/view/19

2. やはりなんとも言い難い1950年代中期の楽曲 Three Pieces for Piano(1954)

 ボザ・マンションが取り壊された1954年はフェルドマンの音楽にも変化が見られた年だ。1954年から1957年までの4年間、フェルドマンは即興と混同されがちな図形楽譜での試行錯誤を一旦休止して五線譜による楽曲に専念した。前回とりあげた五線譜によるなんとも言い難いいくつかの楽曲から、半音階的な音高操作、特定の音程(2度と7度、完全5度と4度、完全8度[オクターヴ])の頻出と反復、極端に広い幅での跳躍、散発的なテクスチュアといった1950年代前半の彼の音楽のいくつかの傾向を見出すことができた。基本的に1954年代以降の五線譜による楽曲もこれらの特性を引き継いでいるが、さらなる新たな視点が彼の音楽の理解に必要となってくる。それは音楽的な時間である。あるいはもっと正確にいうならば、その楽曲が内包する時間の特性と、それを演奏者や聴き手として経験する際の特殊な感覚ともいえるだろう。

 フェルドマンの音楽が内包する時間と、この音楽をとおして私たちが経験する時間は従来の音楽的な時間や日常生活の時間とどのような点で異なっているのだろうか。フェルドマンの音楽における時間の特性を探る前に、まずは音楽的な時間についてしばしば用いられる基本的な考え方を参照する。なぜなら、フェルドマンの音楽の時間が今までの音楽における音楽的な時間とどう違い、どの点が特殊で風変わりかを知るには彼の音楽以前の「従来の」または「慣習的な」音楽的な時間の考え方について知る必要があるからだ。やや大局的な話ではあるが、20世紀以降の音楽における時間の特性の解明を試みたKramerは近代西洋社会に根ざす進歩的で合目的な価値観に支えられた線的な時間について次のように述べている。

西洋的な思想は何世紀にも渡って著しく線的だ。原因と結果、進歩、目的志向といた概念が少なくともルネサンス期の人文主義の時代から第一世界大戦までの人間生活のあらゆる側面に浸透してきた。技術、神学、哲学は人間生活を向上させるために追求されてきた。資本主義は少なくとも選ばれし者にとって物質的な向上の枠組みをもたらすために追求されてきた。科学はニュートンとダーウィンによる時間の経過に沿った線的な理論に支配されている。私たちの言語でさえゴールと目的に言及する言葉が幅をきかせている。

Western thought has for several centuries been distinctly linear. Ideas of cause and effect, progress, and goal orientation have pervaded every aspect of human life in the West at least from the Age of Humanism to the First World War. Technologies, theologies, and philosophies have sought to improve human life; capitalism has sought to provide a frame- work for material betterment, at least for the few; science has been dominated by the temporally linear theories of Newton and Darwin; even our languages are pervaded by words that refer to goals and purposes. [6]

 ここで述べられている線的な要素や価値観を音楽に見出そうとするならば、それは西洋芸術音楽の礎ともいえる調性であり、「調性の黄金時代は西洋文化の線的思考の高まりと同期している。Tonality’s golden age coincides with the height of linear thinking in Western culture.」[7]厳密にいうと、調性によってもたらされる動きの感覚はメタファーにすぎず、音楽において実際に動くものとは楽器から発せられる振動と私たちの鼓膜に届く空気の分子である[8]。だが、西洋芸術音楽にある程度親しんでいれば、調性音楽の聴き方を知らず知らずに身につけており、音楽によってもたらされる感覚を前進する動きのメタファーとして認識している。

調性音楽の聴き方を身につけている人々は恒常的な動きを知覚する。それは旋律の中での音の動き、カデンツに向かう和声の動き、リズムと拍子の動き、音量と音色の進行だ。調性音楽は恒常的な緊張状態の変化を扱うので決して静止しない。

People who have learn how to listen to tonal music sense constant motion: motion of tones in a melody, motion of harmonies toward cadences, rhythmic and meter motion, and dynamic and timbral progression. Tonal music is never static because it deals with constant changes of tension.[9]

 旋律の動き、様々なリズム、音色や音量の変化も全てが時間の経過とともに起きる。実際には振動数の差異に過ぎない現象であっても、私たちはこれらの旋律やリズムによる出来事が音楽の中に起きて変化しながら進み、最終的にどこかに落ち着くまでの一連のプロセスを期待している(調性音楽の場合、落ち着きや終わりの感覚はカデンツが担っている)。例えばソナタ形式における展開部や遠隔調への転調など、形式的に予定調和を裏切る出来事が曲の途中に予め仕込まれていることが多いが、それでもほぼ期待を裏切ることなく進み、最終的に落ち着くところに落ち着いて聴き手を安心させてくれる。調性音楽の線的な時間はこのような性格の音楽的な時間と運動の感覚を意味する。だが、無調の音楽とともに線的な時間の感覚が希薄になっていき、どこに行くのかわからない旋律、解決しない和音、規則性を見出すのが難しいリズムによる音楽が20世紀前半頃から現れてくる。これに伴って、線のメタファーで音楽的な時間を語ることが困難になり、円環や点や面のメタファーが音楽的な時間について考える際に用いられるようになる。

 調性音楽の「線的な時間」に対して、Kramerは20世紀の無調以降の音楽における時間の性質をいくつかに分類している。カデンツによる明確な終止感を持たない音楽は「無方向の線的性質 nondirected linearity」[10]による音楽的な時間だ。「複合的な時間 multiple time」[11]は、1つの曲の中にいくつかのプロセスが存在し、それらは目的地を目指すが、その目的地は曲の様々な場所にあるため単一ではない複合的な時間を感じることができる時間を指す。カールハインツ・シュトックハウゼンのモメント形式 Moment formに倣い、独立した断片が起承転結とは違った感覚で始まって止む、あるいは単に起きて休止する時間をKramerは「モメント時間 moment time」[12]とした。進行感覚、志向性、運動それ自体と、いくつかの運動がもたらす対照性の感覚が欠けていて、時間の継続的な推移を遮断する音楽の時間は「垂直的な時間 vertical time」[13]と呼ぶことができる。この垂直的な時間はフェルドマンの音楽にも大いに関係のある概念で、今回とりあげる楽曲のいくつかにも当てはまる。音楽と時間に関する議論では、前進する感覚があまりにも希薄で、茫洋と広がるドローンのような音楽には無時間性という言葉もしばしば使われる。密度の極めて低いテクスチュアや無音の部分が多くを占め、とりたてて何も起こらないのに時間だけは長い音楽や、静謐さを主とする音楽には退屈[14]の概念さえも用いられる。音楽的な時間についての議論は恣意的、主観的、経験的な視点がどうしても入り込んでしまう領域であるが、フェルドマンの音楽のように、何かがおかしいけれどそれが何に起因するのかわからない時や楽譜から読み取れる情報に限界がある場合に参照すると有用な視点であり、音楽を現象として捉える際の一助にもなる考え方だ。

 フェルドマンの音楽に話を戻そう。前回と同じく、ここでとりあげる曲もやはりなんとも言い難い。前回はフェルドマン自身の言説にも度々出てくる「音そのもの」に着目して半音階的な音の操作を探った。ここではまずフェルドマンが散発的なテクスチュアの作風をさらに追求する発端となった「Three Pieces for Piano」(1954)を見ていく。

 「Three Pieces for Piano」の第1曲には1954年3月12日、第2曲には1954年2月、第3曲には1954年10月[15]の日付が記されている。作曲から5年後の1959年3月2日にチュードアのピアノでニューヨーク市のサークル・イン・ザ・スクエア・シアターにて初演された。楽譜はペータース社から1962年に出版された。全3曲とも、この時期のフェルドマンの楽曲に特徴的な演奏指示「ゆっくりと――ほんの少しのペダルかペダルを使わずとても控えめに Slow—very soft with little or no pedal」に即して演奏される。拍子記号は記されていないが、3曲とも1小節あたり16分音符3つ分の音価で揃えられているので3/16拍子と見なすことができる。しかし、後述するように、ここでの3/16拍子の拍子記号と、楽譜に規則正しく引かれた小節線は見方を変えると本来の機能を果たしているとはいえない。

 第1曲は単音を中心としていて、曲中で最も音数の多い19小節目は左手3音、右手3音の計6音からなる和音だが、16分音符1つ分の音価で控えめに打鍵されるため、その密度の高さをそれほど実感できない。右手の最高音が単音で同じ音を反復する箇所が見られるものの(25小節目のG#6と27小節目のG#7、26小節目と28小節目のB4)、それぞれの音は非常に断片的で、フレーズどころか流れや継続性を見出すことが難しい。49-50小節目と53-54小節目に右手がオクターヴでA4とA5を、左手がG3とC4を4音同時に鳴らして曲が終わる。前回、このような曲を表す場合には出来事という言葉が便利だと述べたが、この曲の場合も各々の断片がそれ自体で自己完結した出来事のようにも見える。

 この曲を最もよくわからなくしているのが随所に挿入される全休符の小節、つまり演奏される音が記されていない小節である。この全休符の小節によって、音楽が時間の流れとともに動き、変化を遂げながら発展し、途中で盛り上がりを見せて最後はどこかに落ち着いて終わるという感覚が粉砕されている。この曲は楽譜からは3/16拍子と読み取ることができるが、規則的なリズムの変化はなく、楽譜を見ないで聴いているといつ音が鳴るのか、鳴らないのか、全く予想がつかないので盛り上がるどころか聴き手はむしろ緊張感と不安に襲われる。この曲が内包する音楽的な時間はKramerのいう直線的な時間とは対照的な性質だろう。いつ打鍵されるのかわからない音はそれ自体で完結している刹那的なモメント時間の性質を帯びていると同時に、時間の継続的な推移の感覚を遮断する点で垂直的な時間でもあるといえる。下記に第1曲から3曲までの全休符の挿入を図にまとめた。色のある部分は何かしら音符(装飾音と、音を出さずに打鍵して共鳴させる音も含む)が記されている小節、白い部分は全休符の小節である。出版譜のレイアウトに倣い1段あたりの小節数を6小節とした。

Three Pieces for Piano 音のある小節と全休符の小節

Three Pieces for Piano Ⅰ

123456
789101112
131415161718
192021222324
252627282930
313233343536
373839404142
434445464748
495051525354

Three Pieces for Piano Ⅱ

123456
789101112
131415161718
192021222324
252627282930
313233343536
373839404142
434445464748

Three Pieces for Piano Ⅲ

123456
789101112
131415161718
192021222324
252627282930
313233343536
373839404142
43

 第1曲、第2曲に比べて第3曲は息の長いフレーズが展開されるように見えるが、第3曲も他の2曲同様に断片的な部分が次々と現れるため、実際に聴いていると継続や運動の感覚は希薄である。テンポが遅いので聴き手も演奏者と同じく3/16拍子での32分音符や64音符を正確にカウントできないわけではないものの、自然に音楽の流れに身を任せることのできる3拍子の感覚をこの曲の中でつかむのは簡単ではない。先にも述べたように、この曲では拍子の感覚や小節線がほとんど無効化されているともいえる。規則正しく割り付けられた小節の中に書かれた音符は、全休符に阻まれながらも拍節の感覚を飛び越えようと五線譜の中で試行錯誤しているようだ。

Feldman/ Three Pieces for Piano Ⅰ (1954)
Feldman/ Three Pieces for Piano Ⅱ (1954)
Feldman/ Three Pieces for Piano Ⅲ (1954)

3. 交わらない4つの時間 Piece for 4 Pianos (1957)

 休符に遮られる「Three Pieces for Piano」とは異なり、「Piece for 4 Pianos」は曲の最初から最後まで音が響きわたる。1957年に作曲されたこの曲は同年4月30日にニューヨーク市のカール・フィッシャー・コンサートホールで初演された。この時の4人のピアニストはケージ、ウィリアム・マッセロス、グレーテ・スルタン、チュードア。1962年にペータース社から出版された楽譜には以下のような演奏指示が書いてある。

最初の音は全てのピアノが同時に鳴らす。それぞれの音の持続は演奏者の選択に任せられている。全ての拍はゆっくりだが、必ずしも等しくはない。ダイナミクスは最小限のアタックとともに控えめに。装飾音を速く演奏しすぎてはならない。音と音の間に記された数[16]は休符と同じ意味を持つ。

The first sound with all pianos simultaneously. Durations for each sound are chosen by the performer. All beats are slow and not necessarily equal. Dynamics are low with a minimum of attack. Grace notes should not be played too quickly. Numbers between sounds are equal to silent beats.[17]

Feldman/ Piece for 4 Pianos (1957)
この録音ではフェルドマン自身がピアニストの1人として演奏している。

 フェルドマン自身が清書したと思われる「Piece for 4 Pianos」の出版譜は大譜表5段からなる。上記のとおりテンポは「ゆっくり」以外は明示されていない。拍子記号、小節線も記されていない。ピアノ1、ピアノ2といったパート配分はなく、4人の演奏者全員が同じ楽譜を見て演奏する。装飾音が付された音符と符桁(ふこう:音符と音符をつなぐ桁の部分)でつなげられた音符以外は符尾が記されておらず、音価の不確定な楽譜である。符桁でつなげられた数音のまとまりも1つの音あるいは和音と見なして曲中に現れる音の出来事を数えると全部で62となる。途中で何度か挿入されるフェルマータが曲のいくつかの部分に区切る役割を持っている。このフェルマータは音符だけでなく、何も書かれていない箇所(通常の五線譜では全休符の小節に値する)にも記されており、フェルマータ fermataの本来の意味である「停止」や「休止」に近い用いられ方である(現在、楽典の教科書等ではフェルマータは「その音を十分に長くのばす」と記されていることが多い)。フェルマータをもとにしてこの曲を区切ると5つの部分に分割することができるが、4人の奏者がそれぞれのペースで演奏を進めるため、全休符に値する箇所でのフェルマータであっても完全な無音の状態にはならない。

 曲の中で用いられている音の音高に注目してみると、音の垂直の重なり、つまり和音を形成する音の音程は2度と7度、完全4度と完全5度、増減4度と5度、完全8度(オクターヴ)が頻出する。これらは和音の外声部(その和音を縁取る最高音と最低音)として、あるいは14-18までのDのようにユニゾンで配置されていて、この曲の中でも比較的聴き取りやすい特徴的な音程でもある。ただし、曲が進むにつれて前後の音が混ざり合うため、楽譜を見ながら聴いていてもどの部分が演奏されているのかを特定するのはあまり簡単ではない。

Piece for 4 Pianos 音の一覧

 表の1段目は各音(断片、出来事と呼んでもあるいはよいだろう)の通し番号。2段目は右手、3段目は左手に記された音高。ピアノの鍵盤の真ん中にあたるCをC4とし、音名とともに記された数字は音域を表す。

セクション1

12345678910
G4, A5E4, B4G4, A5E4, B4G4, A5E4, B4G4, A♭5G4, A♭5G4, A♭5G4, A♭5
B♭2B2, F#3, G3B♭2B2, F#3, G3B♭2B2, F#3, G3C4C4C4C4
111213 fermata
C5, C6D5, E♭6 
B0D#3, E3F#2  

セクション2

141516171819202122 fermata23
D5, D6D5, D6D5, D6D5, D6D5, D6 A5B♭3  B♭3C6
D4D4D4D4D4C3F#2   
fermata ×3

セクション3

242526 fermata2728fermata ×4
E6, C7F4, A♭4, E5 C6C5
D#3, A#3A3F#1 E♭2

セクション4

2930313233343536
D#5, D#6F4, G7A5A5A5E♭4, F#5, C#7G#3, E♭6, G5, B3E4, G5
E1, B1 A3A3A3F1, F4, E♭1B♭1F3
3738394041424344
C#6E5, E♭6A#4, C#6E♭5, G5, B5, E7F4, D#5G#5 B♭6, G#4
G#4, A4G#3, A3G#2, B3F#3, C#4, D4A#2, C#3, E3G#3E♭2A3

セクション5

4546474849505152
C5, B3E♭5C5, B3E♭5C5, B3E♭5C5, B3E♭5
D♭2, D♭2, D♭2, D♭2, 
5354fermata ×355fermata ×2
C5, B3E♭5A5
D♭2,  
56575859fermatafermata6061 fermata
A3A4B3, C4, D4F7E5, E6E4, G4, B♭4, F#5
E♭3D♭3G♭2, F3B3F#2, B♭2, D♭3, A3A♭2, C#3, E♭3, G3
62 fermata
 
E2

 前回とりあげた「Piece for Piano 1952」同様、この曲も個々の音の響きの特性を活かす曲である。余計な手を加えずにその音が持つ響きの特性を最大限に発揮させようとする手法はフェルドマンの「音そのもの」を追求する態度を反映している。特に音価の定まっていない自由な持続の楽曲の場合、フェルドマンは個々の音を旋律のようなまとまりを形成する際の部分として見なさず、音の響き自体が楽曲を生成する方法を試みている。フェルドマンはこの考え方と手法を実際に自分の教え子にも説いていたようだ。作曲家のトム・ジョンソンは60年代後半に作曲のレッスンのためフェルドマンのもとに通っていた当時の出来事について書いている。ある時、フェルドマンは彼に「トム、提案がある。しばらく曲を書くな。和声をじっと聴き、それについてただ考えるのだ。そして、和音をいくつか集めて持ってくるのだ。”Tom, I have a suggestion. Don’t write any music for a while. Just listen to harmonies and think about them, and bring me a little collection of chords.”」[18]この課題を出されてからジョンソンは毎日のように試行錯誤を重ねるが、彼が見つけた和音はフェルドマンやストラヴィンスキーや他の作曲家の音楽のように聴こえるものばかりだった。[19]それから2、3週間後にジョンソンは7つの和音を書いてフェルドマンのもとに持って行った。この時書いた7つの和音をもとに、1969年にジョンソンはピアノ曲「Spaces」を作曲している。

それらの和音は全部似たような響きだったが、私は全部気に入っていたし、これを上回る解決策はもう見つからなかった。いささか慄きながらも和音をフェルドマンに見せた。彼はこれらの和音を様々な組み合わせで10回以上弾き、しっかりと聴いていた。それは彼のいつものやり方で、私にも求められているやり方でもあった。最後に彼は視線を上げてこう言った。「悪くないね。これは本当にあなたの音楽だ。あなたはこの小さな練習から多くを学んだのです。」フェルドマンは決して生徒を落胆させなかったが、ほめることもめったになかったので、ここでの彼の肯定的な反応は私にとってはとても意義深かった。

They all sounded similar, but I liked them all, and I couldn’t find any better solution. With some trepidation, I showed my chords to Feldman, who played them over about 10 times in different combinations, really listening, the way he always did, and the way he wanted me to. Finally he looked up and said, “You know, that’s not bad. This is really your music. I think you learned a lot from this little exercise.” Feldman was never discouraging, but he did not pass along compliments very often either, and his positive reaction here was very meaningful to me.[20]

Tom Jonson/ Spaces (1969)

 ジョンソンとのレッスンの中でフェルドマンが様々な配置で和音を10回以上弾きながら吟味する光景は、おそらく「Piece for 4 Pianos」のような音の響きに根ざした曲を作曲する際にも見られたはずだ。フェルドマンの楽曲全体にいえることだが、実際に楽譜を詳細に分析していくと特定の音や音程の強調や、音域やパート間の均衡を取るといった操作が行われていることはこれまでこの連載でも何度か指摘してきた。しかし、上記のエピソードから、フェルドマンの作曲にはやはり直感と身体的な感覚も多くを占めているのだと考えられる。作曲の際にピアノを用いていたフェルドマンにとって、ピアノから発せられる音を聴く聴覚と同じくらい、打鍵する時のタッチも音楽の命運を握るほど大事な要素だったのだろう。楽譜上で音価を明確に規定しないでおけば音のアタックと減衰を成り行きに任せることもできる。「Piece for 4 Pianos」はひとたび放たれた音の成り行きを無理に制御しない、邪魔しない音楽だともいえる。しかも4人の奏者がそれぞれのペースで演奏するため、そこには4つの交わらない時間が並存している。この独特の時間を創出するには、どのように演奏すればよいのだろうか。フェルドマンは次のように答えている。

聴かなければうまくいく。多くの人が耳を傾けがちで、そうすればより効果的な時間に入っていけると思っているのだと私は気付いた。だが、この曲の精神は単に効果的な何かを創出することではない。その音を聴き、それを自分自身の参照点の中でできるだけ自然に、美しく演奏するだけでよい。もしも他の演奏者の音を聴いているならば、この曲のリズムも凡庸になってしまう。

It works better if you don’t listen. I noticed that a lot of people would listen and feel that they could come in at a more effective time. But the spirit of the piece is not to make it just something effective. You’re just to listen to the sounds and play it as naturally and as beautifully as you can within your own references. If you’re listening to the other performers then the piece tends also to become rhythmically conventional.[21]

 もしもお互いを聴きながら演奏すると通常のアンサンブルの楽曲のようになんらかの周期性を持った慣習的なリズムが生まれてしまう。それを避けるために、フェルドマンは4人の演奏者に各自のペースで演奏させた。

 フェルドマンがピアニストとして参加している録音(上記のYouTube音源参照)での演奏時間が7分25秒であることから、テンポも音価も具体的に指定されていないこの曲のおおよその演奏方法が推測できる。出だしの和音は4人全員が揃って弾き、それ以降はそれぞれのペースで次の音に移るため、楽譜にその音が1度しか記されていなくても時間差でその音が4回鳴らされる。例えば、14-18の音の部分ではD4(装飾音)、D5(装飾音)、D6からなるユニゾンとしてDが5回書かれているので、これを4人の奏者がそれぞれ演奏すると全部で20回Dの音が聴こえてくることになる。録音では56秒前後からこの部分が始まる。時間がある人はDがどのように鳴らされているのかDを20回数えながら聴いてみてほしい。さらに余裕があれば、途中から前後の音がどのように混ざっているのかにも注意して聴いてみてほしい。56秒前後からの約40秒間はこの曲の中でも最も不思議な時間を感じられる部分のはずだ。ここでは同じ音が矢継ぎ早に不規則な間隔で鳴らされるため、時間が戻っているのか進んでいるのか、あるいは止まっているのかわからない。この曲でフェルドマンがテープ音楽の方法を参照していた可能性は極めて低いが(1954年にケージ、ブラウンとともにフェルドマン唯一のテープ作品「Intersection for Magnetic Tape」を作った時も乗り気ではなかった[22])、ここで聴こえる音響的な効果はテープを狭い範囲で何度も巻き戻して再生させたものと似ている。時間差で同じ楽譜を演奏するという極めて単純な方法であるものの、「Piece for 4 Pianos」は直線的な時間とは明らかに異なる時間を創出している。Kramerによる分類に倣うならば、この曲には音が打鍵されるたびに時間がリセットされるモメント時間と、運動や志向性の希薄な垂直時間の性質を帯びていて直線的な時間とは明らかに異なっている。4人の奏者がそれぞれのペースで演奏する点で、この曲では複数の独立した時間が展開されるといってもよい。

 複数の演奏者が同じスコアを見て演奏するが、曲を進めるペースが各演奏者に委ねられている曲としてフェルドマンの「Piece for 4 Pianos」よりもはるかによく知られているのがテリー・ライリーの「In C」である。この曲は「Piece for 4 Pianos」の7年後、1964年に作曲、初演された。「In C」は53からなる各モジュールの反復回数が基本的に奏者の任意とされているので複数のモジュールが混ざり合う。「(互いの音を)聴かない方がうまくいく」フェルドマンの場合と異なり、アンサンブルによって得られる音楽的な効果を重視したこの曲では、少なくとも1回か2回はユニゾンの状態を作り出すことが望ましいとされ[23]、他の演奏家を完全に無視して自分の演奏だけに集中することは認められていない。[24]どちらの曲も演奏者がそれぞれのペースで同じ楽譜を演奏する点で共通しているが、フェルドマンの「Piece for 4 Pianos」では4人の演奏者による息のあった共同作業はまったく求められておらず、彼らはむしろ孤独を追求しなければならない。

Terry Riley/ In C(1964)

色々な編成による録音があるが、1968年のコロンビアからリリースされたレコードがこの曲の初録音。ライリーはサックスで参加している。

In Cスコア https://nmbx.newmusicusa.org/terry-rileys-in-c/

 フェルドマンの音楽における時間の感覚と概念は「Piece for 4 Pianos」以降も変化すると同時に、彼の創作に付いて回る重要な事柄である。1960年から始まる符尾のない音符のみによって構成された「Durations」シリーズや「Vertical Thoughts」シリーズといった持続の自由な楽譜による楽曲は、線的な時間の感覚から完全に隔絶された独特の時間の感覚を持っている。1970年代後半から始まる長大な作品もフェルドマンの音楽における独特の時間の感覚に基づいている。時間とともに移ろい、展開する音楽は時間芸術の1つとされているが、フェルドマンの音楽における時間は展開も発展もないことが多いので、従来の考え方を疑うところから始めなくてはならない。今回はそのほんの始まりの部分に触れたに過ぎず、時間の問題はこの連載でこれからも言及する。

4 久しぶりの図形楽譜「Ixion」(1958)

 1953年からの数年間、五線譜の作品に専念していたフェルドマンだが(とはいえ上述の「Piece for 4 Pianos」のように風変わりな五線譜も書いていた)、1958年の「Ixion」をきっかけにして図形楽譜を再開させる。その主な理由をClineは次のように論じている。1つは彼の周りの作曲家たちが不確定性の音楽と図形楽譜に関心を持つようになったことだ。[25]既にケージは「Water Music」(1952)、「Music for Piano 1」(1952)、「Music for Piano 2」(1953)など不確定性や図形楽譜による曲を書いていたが、1957年の「Winter Music」(1957)と「Concert for Piano and Orchestra」(1957-58)でより革新的な方向へと発展する。[26]フェルドマンの創作における精神的支柱の1人でもあったエドガー・ヴァレーズは1957年頃に突然ジャズに目覚めてオクテットによるセッションのための図形楽譜を書いてミュージシャンに配り、ブラウンの主催でそれを実際に演奏するワークショップを行った。[27]アメリカ以外での不確定性や図形楽譜への関心の高まりは、1954年と1956年にチュードアがヨーロッパ・ツアーに出てニューヨーク・スクールのメンバーの作品を演奏したことに起因する。フェルドマンは1950年12月に既に図形楽譜のアイディアをスケッチし、1953年には演奏上の様々な問題を解決できなまま図形楽譜をやめてしまっていたが、その間の世の中の趨勢は彼とは逆の方向に流れていたのだった。

John Cage/ Concert for Piano and Orchestra (1957-58)
Edgard Varèse/ Jazz Workshop (1957)

 もう1つの理由はマース・カニングハムからの音楽の依頼だった。1958年、カニングハムは新しいダンス作品「Summerspace」の音楽をフェルドマンに依頼する。この新作ダンスの舞台美術と衣装はロバート・ラウシェンバーグが手がけた。

Summerspace概要
https://dancecapsules.mercecunningham.org/overview.cfm?capid=46033

Summerspace 2001年に行われた上演の様子 ここでの音楽は2台ピアノ版。
https://dancecapsules.mercecunningham.org/player.cfm?capid=46033&assetid=5702&storeitemid=8832&assetnamenoop=Summerspace+%282008+Atlas+film%29+

Feldman/ Ixion (Ensemble version) (1958)

 マース・カニングハム・ダンスカンパニーのメンバーで、当時ブラウンと結婚していたキャロライン・ブラウンは「Summerspace」初演時の苦労を次のように語っている。「(「Summerspace」は)当時の自分にとって極めて難しい演目だった。—ほとんどがターン、ターンの連続で、私の大嫌いなものばかり!彼(カニングハム)はゆっくりとしたターン、すばやいターン、ジャンプしながらのターン、崩れ落ちるターン、ターンの複雑な組み合わせを私に振り付けした。… for me at that time, extremely difficult material—mostly turns, turns, my bete noire! He gave me slow turns, fast turns, jumping turns, turns ending in falls, and complex combinations of turns.」[28]彼女の回想からわかるように、このダンスではターンの動きが重要視されていた。だが、舞台美術と音楽はダンスの動きに呼応していなかった。

 ラウシェンバーグの舞台美術と衣装は「点描的 pointilistic」なイメージで着想された。6人のダンサーはラウシェンバーグが製作した大きなキャンヴァスによる舞台美術と同じ点描的な柄の衣装を着て踊る。舞台美術とダンサーたちの衣装を同じ柄にすることで、彼らの舞台上の存在がカムフラージュされる効果を生む。「点描的」というイメージを伝えられていたフェルドマンは五線譜ではなくて図形楽譜での作曲を選んだ。これを機にフェルドマンは約5年ぶりに図形楽譜での作曲にとりかかる。

 「Ixion」には2つの版があり、1958年8月17日にコネティカット州ニュー・ロンドンでのアメリカン・ダンス・フェルティヴァルで「Summerspace」が初演された際は13から19の奏者によるアンサンブル版が演奏された。アンサンブル版の編成はフルート3、クラリネット、ホルン、トランペット、トロンボーン、ピアノ、チェロ3から7、コントラバス2から4。1960年の再演時には2台ピアノ版がケージとチュードアによって演奏されている。現在、このダンスが上演される際は2台ピアノ版が使用されることが多いようだ。テンポは1つのマス目あたり、当初およそ♩=92が指定されていたが[29]、カニングハムのダンスが15分から20分程度の時間を要するため、実際の演奏の際にはこれより遅いテンポで演奏するか、ある特定の箇所を繰り返すこともあった。

 この曲の楽譜には「Projection」(1950-51)シリーズ、「Intersection」シリーズ(1951-53)などの初期の図形楽譜と同じく、グラフ用紙のマス目に演奏される音の数が書かれている。初期の図形楽譜の楽曲の大半において高・中・低の音域の分布と各パートの分布の均衡が保たれた全面的なアプローチがなされていたが、「Ixion」では中間の短い部分と終結部を除いて全てのパートが高音域のみで演奏するよう指定されている。だが、初期の図形楽譜同様、具体的な音高の決定は奏者に委ねられている。音域を高音域に限定することで演奏者の選択肢が狭まる。こうすることで、理屈上、作曲家が理想とする音響を実現する可能性が高まる。このような演奏者に対する選択肢の限定はフェルドマンの初期の図形楽譜に見られた即興音楽との誤解や、演奏に演奏家の手癖やパターンが反映されることを回避するために取られた策ともいえる。音域を高音域に限定することの利点として、全てのパートが比較的スムーズに1つのテクスチュアを作ることが挙げられる。楽器による音色の違いはあるものの、様々な音色と音域が一緒くたになった初期の図形楽譜の楽曲よりも、音の響きに統一感がもたらされる。

 「Ixion」ではラウシェンバーグの点描的な舞台セットと衣装と同じく、音楽でも点描的な効果を狙っている。「Projection」シリーズもどちらかというと点描的な音楽だが、それぞれの音がはっきりと独立している自己完結した点の集まりだ。対して「Ixion」の場合は個々の点(それぞれのパートの音色)が重なったり、これらの音の境界を曖昧にして混ざりあったような効果を創出する意味での点描的な効果を生み出している。ラウシェンバーグの舞台美術とフェルドマンの音楽はともに遠目に見た時、あるいは聴いた時に1つのテクスチュアが浮かび上がる効果を狙っていたのだろう。

 「Ixion」でも演奏に際して困難が生じる。アンサンブル版の場合、単音楽器である管楽器のパートに7と記されていれば、非常に素早く任意の7音をマス目に収まるように演奏しないといけない。これによって回転するような素早いパッセージが達成できる。ピアノは和音やグリッサンドで即座に対応できるが、単音楽器の場合は演奏の難易度が上がる。当時のフェルドマンは管楽器の事情をそれほど深く考慮しなかった可能性があり、ホルンのパートの1マスに7、トランペットのパートの1マスに10と記されている箇所がある。アンサンブル版で行われた1958年の初演時には、やはり演奏者がこの楽譜に当惑したため、急遽ケージが五線譜に書き直した。ケージはその時の様子を「この楽譜を慣習的な方法に――覚えている?4分音符に――書き換えた。それはこの曲のあらましではなくて、演奏者たちがすぐに演奏できるようにするためだった。I translate it into something conventional—with quarter notes, you remember? —which was not what the piece was but which permitted the musicians to quickly play it.」[30]と語っている。チュードアが「Intersection 2」(1951)、「Intersection 3」(1953)を五線譜に書き換えて演奏したように、「Ixion」においても最終的には演奏の際に五線譜への書き換えが行われたのだが、この曲をきっかけにフェルドマンは図形楽譜の作曲を再開した。だが、これ以降のフェルドマンの図形楽譜には変化が見られ、例えば「… Out of ‘Last Pieces’」(1961)では図形楽譜と五線譜を組み合わせることによって演奏の際の曖昧さを少しでも減らす工夫がなされている。

 1954年からの五線譜による楽曲ではフェルドマンは従来のリズムや拍子とは異なる感覚の音楽を創出する一歩を踏み出したといってもよいだろう。「Piece for 4 Pianos」では音価を不確定にして演奏者に裁量を与える一方、1958年以降の図形楽譜は1950年から1953年までの図形楽譜と比べて記譜にやや具体性が帯び、奏者の選択の幅を狭めている。フェルドマンの楽曲の変遷は記譜法の変化と連動していることは初回に述べたとおりだ。次回とりあげる予定の1960年からの楽曲にはどのような変化が見られるのだろうか。


[1] Black Mountain Collage Museum + Arts Center http://www.blackmountaincollege.org/
[2] John Cage’s Stony Point House https://greg.org/archive/2017/05/03/john-cages-stony-point-house.html
[3] Morton Feldman Says: Selected Interviews and Lectures 1964-1987, Edited by Chris Villars, London: Hyphen Press, 2006, p. 262
[4] 作曲家で理論家のジョゼフ・シリンガーが考案した作曲法。音価などのパラメータを数値化して作曲に援用する。Josph Schillinger Society https://www.schillingersociety.com/
[5] Morton Feldman, Give My Regards to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman, Edited by B. H. Friedman, Cambridge: Exact Change, 2000, p. 43
[6] Jonathan D. Kramer, “New Temporalities in Music,” in Critical Inquiry, Spring, 1981, Vol. 7, No. 3 (Spring, 1981), p. 539
[7] Ibid., p. 539
[8] Ibid., p. 539
[9] Ibid., pp. 539-540
[10] Ibid., p. 542
[11] Ibid., p. 545
[12] Ibid., pp. 546-547
[13] Ibid., p. 549
[14] Elidritch Priest, Boring Formless Nonsense: Experimental Music and the Aesthetics of Failure, : NY: Bloomsbury Academic, 2003 はこの本のタイトルが示す特性を持つ楽曲や音楽実践を例に、聴取や音楽的な時間の問題を論じている。
[15] Morton Feldman: Solo Piano Works 1950-64, Edition C. F. Peters, No. 67976, 1998. Volker Straebelによる巻末の校訂報告より。
[16] フェルマータの下に数字が記されている。
[17] Morton Feldman, Pieace for 4 Pianos, 1962, C.F. Peters Corp., 1962.
[18] Tom Johnson, “Introduction to “Spaces,”” in March, 1994 https://www.cnvill.net/mftomj1.htm
[19] Ibid.
[20] Ibid.
[21] Feldman 2006, op. cit., p. 88
[22] David Cline, The Graph Music of Morton Feldman, Cambridge: Cambridge University Press, 2016, pp. 45-46
[23] Keith Potter, Four Musical Minimalists: La Monte Young, Terry Riley, Steve Reich, Philip Glass, Cambridge: Cambridge University Press, 2000, p. 112
[24] Ibid., p. 113
[25] Cline 2016, op. ct., p. 48
[26] Ibid., p. 48
[27] ヴァレーズのジャズへの関心と彼の図形楽譜についてはOlivia Mattis, “The Physical and the Abstract: Varèse and the New York School,” in The New York Schools of Music and Visual Arts: John Cage, Morton Feldman, Edgard Varèse, Willem de Kooning, Jasper Johns, Robert Rauschenberg, edited by Steven Johnson, New York: Routledge, 2002, pp. 57-74に詳述されている。
[28] Caroline Brown, Chance and Circumstance: Twenty Years with Cage and Cunningham, New York: Alfred A. Knopf, 2007, p. 217
[29] アンサンブル版の演奏の際、ケージは曲中のセクションごとにテンポを変える、特定の箇所を繰り返すなどしてダンスの時間の長さと合わせていた。Cline 2016, op. cit., p. 215
[30] John Cage and Morton Feldman, Radio Happenings Ⅰ-Ⅴ, Köln: Edition Musik Texte, 1993, p. 181

高橋智子
1978年仙台市生まれ。Joy DivisionとNew Orderが好きな無職。

(次回更新は9月15日の予定です)

あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(4) 五線譜による1950年代前半のなんとも言い難い曲

(筆者:高橋智子)

 前回はフェルドマンの図形楽譜の成り立ち、彼が図形楽譜で意図していた音楽、ジャクソン・ポロックの絵画技法との関係、演奏の際に生じる矛盾とデイヴィッド・チュードアによる解決方法などをとりあげた。今回はフェルドマンが図形楽譜作品と並行して作曲した1950年代前半の五線譜で書かれた楽曲について考察する。

1 「出来事」と「音それ自体」による音楽

 図形楽譜の楽曲について考える際は、上述のとおり抽象表現主義絵画からの影響、ジョン・ケージ周辺の人間関係等、耳目をひくエピソードをいくつもあげることができて話題に事欠かない。一方、五線譜で書かれたフェルドマンの1950年代前半の楽曲について考察を試みると、図形楽譜の曲と比べて楽曲とそれにまつわるエピソード共々なんとなく地味な印象だ。はっきり言ってどこから手をつけてよいのかわからない。こういう場合でも、まずはいつもどおりスコアを見ながら曲を聴き、作曲家の言説や先行研究を吟味するしかなく、今回もその手順を踏んだ。突発的に鳴らされる和音、オクターヴで重ねられた音の繰り返しといった「出来事」からフェルドマンの楽曲を基礎づけるなんらかの技法、統一性、見取り図のような要素をこれらの手順を経た先に見つけることができるのだろうか。

 楽曲の中のある部分や要素をとり出して、そこに注釈を加える際に「フレーズ」「パッセージ」「モティーフ」「テーマ」といった語がしばしば用いられるが、フェルドマンの音楽、とりわけ50年代から60年代の曲には上記の言葉よりも「出来事」という言葉が使われることが多い。この「出来事(英語圏の先行研究ではevent)」という言葉には連続する時間の感覚やイメージではなく、断続的で不規則で瞬間的な現象の意味合いが強く、1つの出来事が起きて、次に別の出来事が起きるイメージが連想される。たとえば「Intermission 5」(1952)を事前の情報や楽譜なしで聴けば、この「出来事」の感覚を想像できるだろう。

Feldman/ Intermission 5 (1952)

 この曲の特徴を手短に述べると、最初から最後までダンパー・ペダルとシフト・ペダル(una corda)を踏み続けること、pppからfffにおよぶ極端なダイナミクス、極端に広い音の跳躍をあげることができる。前半はクラスターのような和音が思わぬタイミングでいくつか鳴らされ、後半は反復パターンが9回現れる。この曲はもちろん無調だが、曲の進行に沿って現れるそれぞれの音高を並べたところで音列とその展開を見つけられるわけでもない。やはりこのような場合は「出来事」と位置付けるのが無難なのかもしれない。こうしたなんとも言い難い音楽を言語化する際、「出来事」は便利な言葉である。

 「音それ自体 (the sound itself または the sounds themselves)」もフェルドマンの初期の音楽に関して「出来事」と並んでよく用いられる表現だ。この言葉は作曲のレトリックから音を解放すること、抽象的な音の冒険、時間のキャンヴァスなどのフェルドマンの初期作品の鍵となる音楽観と結びついていて、特定の技法や様式を参照しながら楽曲を解明するのが困難な場合に持ち出される便利な表現でもある。フェルドマンはエッセイ「Predeterminate/ Indeterminate」の中で「曲を作るために伝統的に用いられてきた要素を“解放すること”でしか音はそれ自体として存在することができないだろう――記号としてでもなく、他の音楽を呼び起こす記憶としてでもなく。Only by “unfixing” the elements traditionally used to construct a piece of music could the sounds exist in themselves—not as symbols, or memories which were memories of other music to begin with.」[1]と書いている。フェルドマンがここで述べている「音がそれ自体として存在すること」は、創造行為あるいは作曲から人為性をできるだけ排すことを試み、『易経』から着想を得た偶然性をとりいれたケージの態度とも重なる。音を様々な方法で並べて1つの楽曲を構築する従来の作曲行為を前提とすると、フェルドマンがいう「音それ自体」は作曲とは相容れない概念になりうる可能性も出てくる。

 フェルドマンの初期の楽曲を演奏実践と聴取の両方から分析するHirataは「音それ自体」にまつわる疑問や矛盾を率直に表している。「“音それ自体”。すばらしいアイディアだった。もしも彼または彼女(訳注:作曲家)が慎重で、曲の中に音をどう配置するのかに細心の注意を払うならば、それらの音が曲の中に組み込まれていない場合に聴こえるのと全く同じ音を私たちは聴くことになるはずだ。“The sounds themselves.” It was a fantastic idea. That if the composer were careful, careful about how he or she put the sounds into the composition, we might hear those sounds just as we would hear them if they were not in the composition.」[2]。その後もHirataは独白を続け、「だけど、もちろん“音それ自体”を実際に聴いてはいない。“But of course we never really hear ‘the sounds themselves”」[3]ことに気づく。「本当に私たちは曲の外の音を聴くのと同じように曲の中の音を聴いているわけではない。『その前に起きたこと』は実際のところ私たちの記憶から決して消えない。“We never really hear a sound in a composition just as hear it out of the composition. ‘What happened before’ is never really erased from memory”」[4]。Hirataによるこの独白は「音それ自体」と言い出してしまった途端に従来の作曲と楽曲の概念や枠組みが成り立たなくなってしまうことを示唆している。フェルドマンが書いた音は、たとえそれが単音であっても楽曲の枠組みに収まり、フェルドマンの楽曲の体を為す。特に五線譜に書き込まれた音は、もちろん休符も同じく、どんなものであれ、少なくともそれが演奏されている時間の中では、例えば「フェルドマンの〜という曲のGの音」として認識される。「音それ自体」はフェルドマンによる単なる言葉の綾なのか。それとも後付けによる楽曲分析を交わすための予防線なのか。1950年代前半のなんとも言い難い楽曲の数々を知る近道はそう簡単に見つかりそうもないが、楽曲中の瞬発的な断片を「出来事」として片付けてしまうのではなく、また「音それ自体」という言葉にも惑わされずに、そしてあきらめずに楽曲とその背景を見ていこう。

2 フェルドマンの初期作品と十二音技法

 フェルドマンの図形楽譜の楽曲「Projections 1-5」(1950-1953)と「Intersections 1-5」(1951-1953)には音域や各パートの出現頻度に均等な分布が見られ、この要素がフェルドマンにとっての全面的なアプローチを示唆していることがわかった。前回解説したように、フェルドマンの図形楽譜の楽曲は音域だけが指定されていて、演奏ごとに音の鳴り響きが変わる不確定性の音楽だ。一方、同じ時期に作曲された五線譜の作品の大半は一部の例外を除いて[5]音高、音価、ダイナミクス、奏法などほとんどの要素が楽譜に記された「普通の」楽譜の体裁をとる。全6曲からなる「Intermissions」シリーズ1、2番目「Two Intermissions」(1950)の半音階的な音高の配置、散発的なテクスチュア、極端なくらい広い音程の跳躍は、一体どこに、または誰の音楽に起源があるのだろうか。何人かの作曲家の名前が浮かぶが、ここで真っ先に浮かぶのはアントン・ヴェーベルンだろう。フェルドマンの「Two Intermissions」は例えばヴェーベルンの「Variations op. 27」(1936)第1曲目の記譜上の見た目とよく似ている。また、フェルドマンの「Nature Piece」第5曲目の短い音価での和音、極端なダイナミクスはヴェーベルンの「Variations」第2曲目と音の響きの点で類似しており、さらにどちらの曲も短いという共通点がある。だが、フェルドマンの多くの楽曲の場合、先の「Intermissions 5」と同様、半音階的な音のまとまりを配置する十二音技法に近い要素が確かに見られるが、それらの音のまとまりは音列とは言えない方法で現れるのみで完全な音列技法には発展していない。

Feldman/ Two Intermissions (Intermission 1, Intermission 2) (1950)
Feldman/ Nature Piece 5 (1951)
Webern/ Variations op. 27 (1936)

 当時のアメリカの作曲家に十二音技法がどのような意味と有用性を持っていたのか分析したStrausによれば、彼らは十二音技法に「統一性と一貫性の源泉、局所的な音程とモティーフの整合性の源泉、長い範囲でのゴールと構造的な深さの源泉a source of unity and coherence, of local intervallic and motivic consistency, of long-range goals, and structural depth」[6]を見出した。端的にいうと彼らにとっての十二音技法は「12の音[7]の世界について体系的に考える方法だ。それは音の局所的な組み合わせと網目だけでなく、さらに大きな持続による結合と構造をもたらすアプローチである。a way of thinking systematically about the world of twelve tones. It is an approach that suggests not only local combinations and networks of tones, but also associations and structures of greater duration.」[8]。同時代のヨーロッパの動向とほぼ同じく20世紀中頃以降のアメリカの、どちらかというとアカデミックな作曲家の音楽と、後の実験的な作曲家の音楽は基本的に無調だが、全員が十二音技法の後にトータル・セリーのような急進的な方向に進んだわけではなかった。当時のアメリカの作曲家の多くは好むと好まざると十二音技法の洗礼を受けており、十二音技法ほど厳密ではなくとも何かしらの音列や、列に満たないような少数の音による音群を使った方法で作曲していた。彼らは無調とトータル・セリーの中間地点として、なおかつある程度の自分の独自性を発揮できる方法として十二音技法をとりいれていたのだろう。その背景には当時の音楽教育や徒弟制度が関係していた。もちろん、アルノルト・シェーンベルクが1934年にアメリカに移住したこともこの背景に深く関わっている。フェルドマンに限らず20世紀以降のアメリカの作曲家は西海岸、東海岸ともに音楽学校の授業や教師を通じて十二音技法を習得し、この技法を用いた習作がもはや必須とされていたともいえる。ミニマル音楽で知られるラ・モンテ・ヤングとテリー・ライリーでさえ学生時代を過ごした1950年代後半には音列で作曲していた。このような背景から、彼らの一世代前に当たるフェルドマンの1940年代、1950年代の楽曲にヴェーベルンの面影を見出すことはなんら不思議ではない。フェルドマンが作曲を独習するなかでヴェーベルンら新ヴィーン楽派の音楽に触れてことは想像できるが、彼とヴェーベルンの音楽とのさらなる接点を考えると、おそらくシュテファン・ヴォルペによるレッスンが彼の初期作品の半音階書法に大きな影響を与えたのではないだろうか。ヴォルペとフェルドマンとの師弟関係から、1950年代前半のなんとも言い難い曲を知るためのヒントがいくつか見つかるかもしれない。

3 恩師シュテファン・ヴォルペ

 フェルドマンにとってヴォルペはウォリングフォード・リーガーの次に習った2番目の作曲教師だった。フェルドマンがヴォルペにレッスンを受けていたのは1944年から1949年までで、その後はニューヨークの作曲家仲間としての付き合いが続いた。

ヴォルペ(左)と妻のオラ
By unknown in 1927Public Domain

 シュテファン・ヴォルペ Stefan Wolpe[9]は1902年ベルリンに生まれた。ベルリン高等音楽学校でモスクワ出身の作曲家パウル・ユオンに作曲と理論を学ぶ。その後、彼はヴァイマールに移り、バウハウスのコミュニティで活動した。ヴォルペがバウハウスで過ごした時期は、彼にとって視覚、動力学、聴覚といった総合的な要素で音楽を考えるきっかけとなった。彼はドイツ共産党の正式な党員ではなかったがベルリン・マルクス主義労働学校に通い、マルクス、レーニン、ヘーゲル、エンゲルスなどを読み、1929年から1933年まで社会主義運動に取り組んだ。1931年にヴォルペは労働組合の劇団Die Truppeの音楽監督に就任し、主に労働歌、頌歌、行進曲、劇音楽を作曲した。1933年にナチスが政権を取ると、ヴォルペはベルリンを追放されてヴィーンに移った。ヴィーンではヴェーベルンに十二音技法を習う。1934年にパレスチナに渡り、彼はパレスチナ音楽院で教鞭を執った。パレスチナ時代の彼はアラブ古典音楽を研究し、この頃に書かれた曲にはその要素を見ることができる。1938年のアメリカ亡命後はニューヨークに永住し、フェルドマンやデイヴィッド・チュードアらに私的な作曲レッスンを行うほか、ブラック・マウンテン・カレッジの音楽監督を務めるなど、バウハウス時代に培った異分野との共生の精神をアメリカでも発揮していた。彼はフェルドマンが熱心に通っていたニューヨークの吹き溜まり、ザ・クラブの常連として抽象表現主義の画家や詩人とも親交があった。バウハウスでの経験を持ち、ザ・クラブのような場所にも積極的に顔を出していたヴォルペの経歴と暮らしぶりもニューヨークの音楽家としてのフェルドマンのふるまい方に少なからず影響を与えていたと思われる。

 フェルドマンにとってヴォルペはどのような先生だったのだろうか。彼はヴォルペとのレッスンの様子を次のように振り返る。

シュテファン・ヴォルペのもとで作曲家としての訓練を始めた頃、私たちの全てのレッスンについてまわったテーマは、なぜ私が自分のアイディアを発展させずに、1つのアイディアから別のアイディアへと移っていくのかということだった。ヴォルペはこれを「打ち消し」として説明した。多くの作曲家、特に彼の時代の作曲家と違い、彼は私のアイディアに疑問を挟まなかったし、何らかのシステムを賞揚して私にそれを使わせようともしなかった。私はこのことにとても感謝している。なぜなら、その当時、私は様々な方法の間で揺れていて、これらを用いた戦略的な解決策が自分の直面していた問題にとても大きく貢献するだろうと思っていたことが記憶にあるからだ。

In my early training as a composer with Stefan Wolpe, the one theme persistent in all our lessons was why I did not develop my ideas but went from one thing to another. “Negation” was how Wolpe characterized this. Unlike so many composers, especially of his era, he didn’t question my ideas or extol any systems for me to use. I’m thankful for this, since at that time I remember I was dangling between various procedures whose tactical solutions were to contribute so much to this problem that confronted me.[10]

 この当時のフェルドマンの「自分のアイディアを発展させずに、1つのアイディアから別のアイディアへと移っていく」思考方法は、音列に見せかけて、実はそれを展開させることはなく、その後まったく別の要素を臆面もなくとりいれる「Intermissions 5」の構成(前半は半音階的なクラスターとパッセージ、後半は突如現れた反復パターン)と重なる。ヴォルペとの「打ち消し」に基づく対話はフェルドマンが楽曲を構成する際の思考にも反映されているといえるだろう。彼のアイディアを否定せず、彼に何かを強いることもなかったヴォルペは、まだ自分の音楽を確立できていないこの若い作曲家に何らかの確信と自信をもたらしたのかもしれない。

 フェルドマンから見たヴォルペは「彼の人格の88の音全てを用いたような人物だった。彼はコインの反対側が大好きだった。彼はいつも反対側について話していて、実際、統一された対立項によるヘーゲル的な弁証法は、本質的に、彼の生涯に一貫した作曲の哲学だった。Wolpe was the kind of man who used all eighty-eight notes of his personality. He loved what was on the opposite side of the coin. He always talked about opposites, in fact, the Hegelian dialectic of unified opposites was essentially his compositional philosophy throughout his life.」[11]。表と裏、正と反といった対立概念とその止揚の力学は、例えばヴォルペの「Set of Three Movements for Two Pianos and Six Hands」(1949)に見ることができる。

Wolpe/Set of Three Movements (1949)
*リンク先の映像では作曲年代が1951年と記されているが、Wolpe Societyの作品リストに即してここでは1949年とした。

 この曲は第1パートと第2パートが1台のピアノを共有して演奏し、第3パートがもう1台のピアノを1人で演奏する、ピアノ2台に3人の奏者の編成だ。音を聴くだけではなかなかわからないのだが、Clarksonによる分析によれば、この曲は2つの流れからできていて第1パートと第2パートが1つの流れを一緒に作り、第3パートは第1、2パートと対照的なもう1つの流れを作る[12]。 例えば冒頭の数小節は1、2パートが下行音形、第3パートが上行音形で進み、相対する2つの流れが同時に起きる。こうすることで、この曲ではどちらかの方向に偏ることのない同質的で均衡のとれたテクスチュアを維持できる。ここでの同質性や均衡はポロックやマーク・ロスコやフランツ・クラインの絵画にも通じており、さらにはフェルドマンの図形楽譜作品の音域や楽器の均等な分布にもつながるといえる。実際、フェルドマンはヴォルペのこの「反対側 opposite」と全体的なアプローチが図形楽譜と初期の五線譜の作品に影響を与えたと言っている。

ヴォルペのもとでの勉強を終えてすぐに、私はこの概念を自分の音楽に取り入れた。それは私の図形楽譜の基礎となった。(中略)あるいは、私の五線譜の初期の曲におけるオクターヴと音程の(訳注:記譜上の)外見が全体的な和声言語に対する文脈から外れている。私はこれが正確に相反するものだとは思っていない。だが、ヴォルペはコインの反対側を見るよう私に教えてくれた。

I took this overall concept with me into my own music soon after finishing my studies with Wolpe. It was the basis of my graph music. … Or, in earlier notated pieces of mine the appearance of octaves and tonal intervals out of context to the overall harmonic language. I didn’t exactly think of this as opposites–but Wolpe taught me to look on the other side of the coin.[13]

たしかにここでフェルドマンが言及しているように、彼の初期の五線譜の曲の音程の用い方は特徴的で、特定の音程(フェルドマンお気に入りの音程は7度と2度)を頻出させる傾向がある。

 ヴォルペの作曲における音程について、エリオット・カーターは興味深いエピソードを書いている。自身も講師を務めたカーターは1959年のダーリントン・ホールの夏期講習でヴォルペによる講義を聴いていた。

ピアノに座るとすぐに彼(ヴォルペ)は基本的な素材である音程がいかにすばらしいのかという瞑想に没頭した。彼はそれぞれの音程をピアノで何度もくり返して弾き、歌い、唸り、大きく、柔らかく、すばやく、ゆっくりと、短く、各々の音を別個にあるいは引き離して、それらを表現豊かにハミングしていた。この授業が終わる頃には私たちは皆、時間が経つのを忘れていた。彼が――午後の時間を全てかけて――最小の音程、短2度から最大の音程、長7度へと私たちを連れて行ってくれた時、音楽が生まれ変わり、新しい光が射し始めた。私たちは皆、この時聴いたのと同じ音楽をもう二度と聴けないことはわかっていた。シュテファンは私たちにこれらの基本的な要素の生きた力を直接体験させてくれた。それからというもの(訳注:音程に対する)無関心は考えられなくなった。私たちの多くにとって、このようなレッスンは後にも先にも経験したことがなかったはずだ。

At once, sitting at the piano, he was caught up in a meditation on how wonderful these primary materials, intervals, were; playing each over and over again on the piano, singing, roaring, humming them, loudly, softly, quickly, slowly, short and detached or drawn out and expressive. All of us forgot time passing, when the class was to finish. As he led us from the smallest one, a minor second, to the largest, a major seventh–which took all afternoon–music was reborn, new light dawned, we all knew we would never again listen to music as we had. Stefan had made each of us experience very directly the living power of these primary elements. From then on indifference was impossible. Such a lesson most of us never had before or since, I imagine.[14]

 カーターのこの描写から、ヴォルペが音楽の基本要素の1つである音程を重視していたことがわかる。それぞれの音程を様々なダイナミクスや方法で弾き、歌うことで、その音程の特性について立ち止まって考える行為は、楽曲という連続性を作る一要素としての音程の捉え方と同じではない。ヴォルペはその音程独自の響きに立ち返ることを教えたかったのだろうか。これと同じようなことをヴォルペとフェルドマンがレッスンの際にやっていたかどうかはわからないが、その音程が持つ響きを注視する姿勢はフェルドマンがいうところの「音それ自体」ととても近しい関係にある。ヴォルペのこのエピソードから、「音それ自体」という言葉が、音と音との隔たりや重なり、つまり音程とその響きの意味合いも持っているのではないかと推測される。「音それ自体」という言葉は、楽音以外の音に注意を払ってあらゆる音を聴き取るケージ的な聴取の創造性に着目した考えとも結びつきやすい。だが、ヴォルペの存在を介することで、この言葉に上記の別の可能性を見出すことができた。

 一方、ヴォルペはフェルドマンのことをどのように見ていたのだろうか。1956年のダルムシュタット夏季現代音楽講習会で行った講演の中で、ヴォルペはフェルドマンの音楽がいかにして音楽における明示的な意味や明瞭な音の輪郭を回避しているのかを説明している。

彼(フェルドマン)はできるだけ切り詰めた表面と、遠くからはほとんど聴こえないくらいの音型の痕跡に興味を持っている。おそらくそれでも多すぎるくらいだ。消滅の瀬戸際に追い込まれたこの音楽は美に対する悪魔的な試練だ。こうした理由から、素材をわかりやすく実体化させるものは何も起こらない。音高の配置によるまとまりから生じた状況は、このような曲の中ではあまりにも具体的で、はっきりしすぎていて、物質的だ。ここで素材はその自発的な生成の流れの中でかたち作られる。

He is interested in surfaces that are as spare as possible and in the remnants of shapes that can barely be heard at a distance. Perhaps even these are too many. Brought to the brink of dissolution this music is a diabolic test of beauty. Because of this, nothing happens which could lead to greater substantiation [Verstofflichung] of the material. Situations derived from sets of constellations of pitches would be much too concrete, too specific, too corporeal in such a piece. Here the material is formed in the flow of its spontaneous generation.[15]

この講演が行われた1956年という年代をふまえると、ここでヴォルペが念頭に置いているフェルドマンの楽曲は「Projection」シリーズのような音が散発的に発せられる楽曲、「できるだけやわらかく Soft as possible」と楽譜に記されている「Extensions 3」(1952)のような控えめなダイナミクスによる楽曲だと考えられる。どちらの曲もまとまった音型や輪郭の印象が希薄な音楽だ。「Extensions 3」はオクターヴの反復や7度音程が頻出する点で、当時のフェルドマンの作曲の志向と嗜好の両方を反映している。

Feldman/ Extensions 3 (1952)

 フェルドマンとヴォルペの師弟関係から、1950年代前半の五線譜で書かれたフェルドマンの楽曲の鍵となる要素の1つが音程であることがわかった。音程は取り立てて珍しいものでもなく、むしろ音楽の基本中の基本だが、ここに引用したいくつかのエピソードは「音それ自体」という言葉にさらなる具体性を与えている。

4 実はそれほど単純ではない「Piano Piece 1952」(1952)

 「音それ自体」が1音の響きだけでなく、音と音とが作り出す隔たりの中で生まれる響きの関係、つまり音程も意味するならば、「Piano Piece 1952」はこの言葉が描こうとする音や音楽に近い曲かもしれない。

 タイトルが示す通り「Piano Piece 1952」は1952年に作曲された。出版された楽譜は1曲あるいは1部で完結しているが、パウル・ザッハー財団所蔵とゲッティ・インスティチュート所蔵のいくつかのスケッチによると、この曲は当初2部構成だったようだ[16]。1962年にペータース社から初めて出版された時には既に前半部分が削除されていた。同じくペータース社から1998年に出版されたフェルドマンのピアノ曲集『Morton Feldman Solo Piano Works 1950-64』に収録された際もスケッチにおける前半部分または第1曲目は跡形もなく消えている。曲が完成してまもない1952年に行われた私的な演奏会の中でフェルドマン自身がピアノを弾いた非公式な初演が行われた。公の場での初演は1959年3月2日、ニューヨーク市にてチュードアのピアノで行われた。この2つの場での演奏では、まだ前半部分が残されていた可能性がある。

 1952年の私的な初演の観客にはクリスチャン・ウォルフとルチアーノ・ベリオがいた。その時の演奏についてウォルフは次のように回想している。

彼(フェルドマン)が演奏を終えると、隣に座っていたルチアーノ・ベリオがこの曲を「弁証法的だ」と言った。彼がどの点についてそう言ったのか思い出せないが、私はこの力作に心を打たれた。当時、私にはこの曲が典型的なヨーロッパ風の音楽に聴こえた。この曲が音のこのようなパッセージを、つまりほとんど例外なく右手から左手へと行き来しながら動き、高音域のどこかと低音域のどこかを往来する規則正しい歩調での柔らかな単音の連続を言明し、概念化しているように思えた。

After he finished, Luciano Berio, sitting next to me, said something about the piece’s “dialectic.” I don’t recall just what, but I was struck by the effort, which at the time seemed to me characteristically European, to say something, to conceptualize this passage of sounds, a soft succession, regularly paced, of single notes, moving almost without exception back and forth from right hand to left, somewhere in treble to somewhere in bass and back again.[17]

この場合もやはり「出来事」と呼びたくなる、短い音価でのすばやいパッセージを主体とする第1部[18]、単音の繰り返しによる平坦な第2部(現行の出版譜はこの部分を指す)の特性をふまえると、ベリオが演奏を聴いた直後に言った「弁証法的」という言葉はこの2つの対照関係に言及していると考えられる。ウォルフが「規則正しい歩調での柔らかな単音の連続」と描写したように、現行の「Piano Piece 1952」は拍子も小節線もなく(曲の終わりを示す終止線は引かれている)、全部で171の音符がひたすら付点四分音符で書かれている。具体的なテンポは指定されていないが、楽譜の冒頭に「全ての拍を均等にゆっくりと静かにSlowly and quietly with all beats equal」の演奏指示が記されている。右手と左手が同じ歩調を保ちながら付点四分音符を単音で交互に打鍵する。この曲は最初から最後まで様々な音高の単音が鳴らされるだけの一見極めて単調で平板な曲だが、音高、音程、音域に着目するといくつかの特徴が浮かび上がってくる。

Feldman/ Piano Piece 1952

 全171音は以下の通り。奇数番号の音は右手、偶数番号の音は左手で演奏される。音名の隣の数字は音域を示している。ピアノの鍵盤の真ん中にあたるCをC4とし、その上下のオクターヴにそれぞれ番号をつけた。たとえばC3はC4の1オクターヴ下、C6はC4の2オクターヴ上を示す。この曲の最低音は42のB0、最高音は29のF#7である。隣り合った音のオクターヴ番号が離れていればいるほど音域が離れ、跳躍の幅が広くなる。例えば59番目のC#7と60番目のG1は6オクターヴ離れていて、この曲で最も広い間隔での跳躍である。

[Piano Piece 1952]音高一覧

12345678910
E♭6A2B♭4C4C#7D2F#6F4E5F#2
11121314151617181920
G#6A4B♭5E4C#7G3B4G#2B♭6C3
21222324252627282930
E4E♭3A5B2A#6E♭4E5D3F#7E2
31323334353637383940
C4E♭1D7G#3B♭4E2F#5F3E4C3
41424344454647484950
C#6B0E♭4G♭3G6C3B♭5E4G#4D3
51525354555657585960
F6B♭2B4E3E♭5G#2G4A3C#7G1
61626364656667686970
B♭4A2D6E♭2E4G#3G6D4B4B♭2
71727374757677787980
A3G#4G6C#4E♭5C3F6F#4D5E2
81828384858687888990
A6B♭3D♭6B1A4E3D6E♭4G♭4F3
919293949596979899100
E6F#1G#5B♭2E4D3F5D♭4G4D3
101102103104105106107108109110
E♭5E4C5B3C7D3G#5B♭2D♭5E2
111112113114115116117118119120
F4D4E♭4C#4E4E♭4F6G#2F#2C4
121122123124125126127128129130
B5C#3D4A2B♭5E2A♭5C4B♭6G2
131132133134135136137138139140
C#4F3G4B2E♭5E2D6G#1E5A2
141142143144145146147148149150
G4F#3F6E6E♭7B2C5C#3E♭4E2
151152153154155156157158159160
A5F3B4C4F#6B♭2A4E♭3D6C#2
161162163164165166167168169170171
G4C4B♭3C#3D5A4B♭6E2F#4G3C#6

 実際のところ、どの視点でこれらの音高と音程を見ていくかで、この曲の特性の様相が変わってくる。Nobleの分析では111〜116までの音域の密集した動きの少ない状態を「音高プラトー pitch-plateau」と称し、これら6音が同じオクターヴ内でシンメトリー状に配置されていることを指摘している[19]。音から音へと移る際の動きとその軌跡に着目した視点からは、133〜141までの範囲で右手(奇数番号の音高)がG4からG6まで上行した後、G4に戻るかのように下行する箇所も指摘できる。一方、左手(偶数番号の音高)はB2からG#1まで下行した後、A2に上行する。これらの動きをふまえると、この範囲では右手と左手が互いに反行する線を描いていることがわかる[20]。この曲は一貫して右手が高い方の音を、左手は右手より低い音を交互に打鍵してジグザグ状の軌跡を描くが、右手と左手の音域が逆転する例外的な箇所が2つある。1つ目は71-72(A3-G#4)の2音。この前後の音を含めた70-71-72-73(B♭2-A3- G#4-G6)の4音は一直線に上行する軌跡を描く[21]。2つ目は162-163(C4- B♭3)で、ここでも左右の手が交差する。先の4音とは対照的に161-162-163-164(G4-C4- B♭3-C#3)の4音は一直線に下行する軌跡を描く[22]。このように、相反する要素を曲中に並置して均衡を図るやり方はヴォルペの「Set of Three Movements」における2つの流れを想起させると同時に、フェルドマン自身の図形楽譜の楽曲に見られる音域とパートの均衡な分布とも共通している。

 ウォルフはフェルドマンがこの曲の中で特定の音程を何度も用いていることを指摘している。例えばC#-G(減5度/増4度)は5回、A-B♭(短2度/長7度)は5回、いずれもほとんど毎回異なる音域で登場する[23]。また、彼は3-5-7番目の3音(B♭4-C#7-F#6)がB♭を異名同音のA#に読み替えると嬰ヘ長調の主和音(B♭4-F#-A#-C#)になることに気づいた[24]。これと同様の現象は50-51-52(D6-F6-B♭2)でも起きていて、これら3音は変ロ長調の主和音の構成音だ。だが、既存の方法やシステムとは違う地平での音楽を志していたフェルドマンがここで調性や和声を意識していたとは考えにくい。これらの三和音は偶発的に生まれたと考えるのが適当であろう。

 半音階的な音の配置に注目すると、上述の分析とは異なる特徴が見えてくる。この曲での極端に隔たった跳躍をオクターヴの位置関係を無視して考えた場合、実はいくつかの箇所で半音階的に隣り合った2音、3音、5音からなる3種類のグループを見つけることができる。半音階的な順次進行の箇所は表中の網かけ部分で示されている。

[半音階的に隣り合う2音]
2-3
21-22
24-25
26-27
32-33
40-41
52-53
54-55
56-57
61-62
81-82
87-88
90-91
112-113
115-116
120-121
135-136
149-150
166-167

[半音階的に隣り合う3音]
4-5-6
7-8-9
11-12-13
37-38-39
63-64-65
100-101-102
146-147-148
158-159-160

[半音階的に隣り合う5音]
141-142-143-144-145

 この表から、記譜上では音が乱高下しているように見えても実は半音階的に隣接している箇所がいくつもあることがわかる。これはオクターヴ内の跳躍では得られない音響の効果を狙った配置なのだろうか。このような音域の配置はもともと近かったものを大きく引き離して、あたかも新しい技法や新たな音の響きがもたらされているように見せるフェルドマンの戦略のひとつであるようにも思われる。この曲の内部をさらに精査すれば音列に近い音と音との関係も見えてくるかもしれない。様々な視点が考えられるなかで音高、音程、音域に注目して1950年代前半の五線譜の楽曲の中でも特になんとも言い難い「Piano Piece 1952」を掘り下げてみた。「音それ自体」という言葉にくじけそうになるが、あきらめずに音を聴き、楽譜を見れば、何かしら浮かび上がってくるのだった。

5 最もなんとも言い難い曲「Variations」(1951)

 「Piano Piece 1952」と同じくらいかそれ以上になんとも言い難い曲は他にもたくさんあるのだが、なかでも「Variations」は突出している。このピアノ曲はマース・カニングハムの同題のダンス作品「Variation」のための音楽として作曲され、カニングハムとケージに献呈されている。理由は不明だが、フェルドマンの曲は「Variations」と複数形で書かれているのに対し、カニングハムのダンスは「Variation」と題されている。1951年4月12日シアトルのワシントン大学でこのダンスが初演され、ピアノはケージが弾いた。

 二分音符=64のテンポが指定されたこの曲は1小節を2/4拍子か4/8拍子で数えることができ、ペータース版の出版譜では(4/8)と括弧書きで記されている。小節数は全部で406小節。おそらくダンスの振り付けとの関係だと思われるが、1小節目から18小節目までの全ての小節に全休符が記されている。たしかに曲は始まっているけれど、しばらくの間1音も鳴らない。曲が始まって約19秒後の19小節目にようやく「できるだけ控えめに as soft as possible」の指示とともに5音からなる装飾音が初めての音としてグリッサンドで打鍵される。その後も単音や和音がほとんど不規則な間隔で装飾音として鳴らされる。いつ音が聴こえるのかわからないという点で極めて緊張感の高い曲だともいえる。この不規則な間隔で曲が進んで行くのだが、204-244小節の間では規則正しく8小節置きに同じ和音(右手C#4-A5 左手C#4-B♭4)が6回繰り返される。初め、この和音は突発的に聴こえるが、繰り返されるうちに同じ和音が同じ間隔で反復されていることに気づいてくる。反復はいくつかの他の箇所でも見られる。例えば332-389小節では、左手のF2が1つと右手のF#5が2つからなる3音パターンが連続して3回繰り返される。353-357小節ではF7が3回立て続けに鳴らされた後にA3が挿入されて、また最後にF7が鳴らされる。途中のAは演奏者と聴き手に安住を許さないフェルドマンの思惑かもしれない。曲の終盤、402-406小節は403小節目のF#7を除いて、*のようなマークが記されている。これはピアノで打楽器的な音を出す演奏指示で、最後の5小節間はこの打撃音が4回鳴らされる。この曲ではフェルドマンが同じ要素の反復を意識的に用いていることがわかる。この反復はカニングハムのダンスの振り付けと何か関係ありそうだが、あいにくこのダンスの詳細は判明していない。この時点でのフェルドマンの反復技法は主に単音や1つの和音といった断片的な要素の反復に限られており、70年代後半以降の彼の楽曲の大きな特徴である、徐々に変化しながら繰り返されるパターンとは性格が異なる。

 数えてみたところ、全406小節中、何かしらの音や記号が書かれていて音が鳴るのは合計90小節だった。1950年代前半の楽曲におけるこのような密度の低さもフェルドマンの音楽の特徴の1つといってよいだろう。

Feldman/ Variations

 次回は1950年代後半からの楽曲をとりあげる予定だ。1950年代前半の数々の試みがその後の彼の音楽をどう変えていったのだろうか。


[1] Morton Feldman, Give My Regards to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman, Edited by B. H. Friedman, Cambridge: Exact Change, 2000, p. 35
[2] Catherine Costello Hirata, “The Sounds of the Sounds Themselves: Analyzing the Early Music of Morton Feldman”, in Perspectives of New Music, Vol. 34. No. 1 (Winter, 1996), pp. 6-7
[3] Ibid., p. 7
[4] Ibid., p. 7
[5] 1台または2台のピアノのための「Intermissions 6」(1953)は五線譜に記された15個の断片の演奏順を演奏者が決める不確定性の音楽に分類される。この五線譜は通常と違い、それぞれの断片が上下左右の全方向からランダムに配置されたモビールのような外見をしている。楽譜の上ではこれらの断片は前後のつながりを持たないので、それぞれの断片を出来事と言い換えることができる。
[6] Joseph N. Straus, Twelve-Tone Music in America, Cambridge: Cambridge University Press, 2009, p. 237
[7] 1オクターヴ内に含まれる半音の数。
[8] Straus 2009, op. cit., p. 237
[9] ヴォルペの作品リストや資料はStefan Wolpe Societyのサイトで公開されている。 http://www.wolpe.org/
[10] Feldman 2000, op. cit., p. 146
[11] この文章はWolpe Societyのサイト に、また一部がMorton Feldman Page の中でも公開されている。おそらく1983年にバッファロー大学でフェルドマンが主催したヴォルペ作品のコンサートの際のレクチャーかプログラムがこの文章の出典の可能性が高い。
[12] Austin Clarkson, “Stefan Wolpe and Abstract Expressionism”, in The New York Schools of Music and Visual Arts: John Cage, Morton Feldman, Edgard Varèse, Willem de Kooning, Jasper Johns, Robert Rauschenberg, edited by Steven Johnson, New York: Routledge, 2002, p. 86
[13] Feldman, op. cit.
[14] 1982年12月10にニューヨーク市でAustin Clarksonによって行われたインタヴュー。Wolpe Societyのサイトで公開されている。
[15] Stefan Wolpe and Austin Clarkson, “On New (And Not-so-New) Music in America”, in Journal of Music Theory, Vol. 28, No. 1, 1984, p. 25
[16] Alistair Noble, Composing Ambiguity: The Early Music of Morton Feldman, Surrey: Ashgate Publishing, 2013, p. 74
[17] Christian Wolff, “The Sound Doesn’t Look Back: On Morton Feldman’s Piano Piece 1952“, 1988/1995. https://www.cnvill.net/mfwolff2.htm#wolff5
[18] Noble 2013, op. cit., p. 75 Nobleが破棄された第1部のスケッチを復元している。
[19] Ibid., p. 88
[20] Ibid., p. 88
[21] Ibid., p. 84
[22] Ibid., p. 84
[23] Wolff 1988/1988, op. cit.
[24] Ibid.

高橋智子
1978年仙台市生まれ。Joy DivisionとNew Orderが好きな無職。

(次回更新は8月25日の予定です)

あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(3) 1950年から1953年までの図形楽譜

(筆者:高橋智子)

 前回は1951年頃からニューヨーク・スクールのサークルに出入りするようになったモートン・フェルドマンの周りで起きた出来事が彼の創作に大きな影響を及ぼした様子を振り返った。今回はフェルドマンが1950年末から1953年の間に書いた図形楽譜の作品について、いくつかの側面から考察する。

1. 図形楽譜の始まり ワイルドライスを待ちながら Waiting for wild rice

 音楽史の書籍や教科書においてフェルドマンは図形楽譜を最も早くに始めた作曲家として紹介されることが多い。特にフェルドマンの「Projection 1」(1950)とアール・ブラウンの「December 1952」(1952)は第二次世界大戦後のアメリカ音楽に関する項目での掲載頻度が高い。

Earle Brown/ December 1952

 ブラウンの「December 1952」は音高、拍子、テンポ、編成といった要素が指定されていない。

 1950年12月の末、ケージがワイルドライス[1]を料理している間、フェルドマンは後に「Projections 1」として結実する図形楽譜のスケッチを書いた。その時の様子をフェルドマンは1983年に行われたインタヴューの中で次のように振り返る。

それがどのように起こったのかわからない。実際、ジョン・ケージと同じ建物に住んでいて、彼が私をディナーに招待してくれた。ディナーの準備はまだできていなかった。ジョンは誰も知る由がないような方法でワイルドライスを料理していた。お湯が沸騰するのをひたすら待って、新たに沸騰したお湯をワイルドライスに注ぎ、それからポットもう一杯分のお湯を追加し、ワイルドライスを湯切りするなどをしていて、ワイルドライスができるまでの長い時間を私たちは待っていた。ワイルドライスを待っている間、私はケージの机にちょっと腰掛けてノートの1ページを取り出し、そこになんの考えもなしに書き始めた。私が書いたのは気ままに書きなぐったグラフ用紙の1ページだった――そこに現れたのは高・中・低のカテゴリーだった。それはまったくの無意識だった――ゆえにもちろんのこと、これについて語ったこともなかった――議論したこともなかった。

I have no idea how it came about. Actually, I was living in the same building as John Cage and he invited me to dinner. And it wasn’t ready yet. John was making wild rice the way most people don’t know how it should be made. That is, just waiting for boiling water and then putting new boiling water into the rice and then having another pot boiling and then draining the rice, etc, etc, so we were waiting a long time for the wild rice to be ready. It was while waiting for the wild rice that I just sat down at his desk and picked up a piece of notepaper and started to doodle. And what I doodled was a freely drawn page of graph paper—and what emerged were high, middle, and low categories. It was just automatic—I never had any conversation about it heretofore you know—never discussed it.[2]

 1966年に行われたフェルドマンとケージの対談によれば、この時のスケッチは同じくその日のディナーに呼ばれていたデイヴィッド・チュードアがすぐにケージのピアノで演奏した。[3] 「Projection 1」は最終的にチェロ独奏の曲として完成するが、この時点ではまだ楽器が特定されていなかったと推測できる。それからフェルドマンはこのアイディアを基にした一連の図形楽譜楽曲の作曲に取り掛かり、1950年12月末に「Projection 1」が完成する。彼の図形楽譜のアイディアに興奮したケージは約1週間かけてフェルドマンのさらに2つのスケッチを清書した。そこでできたのが2台ピアノのための「Projection 3」[4]と、ヴァイオリンとピアノのための「Projection 4」の2曲だ。この2つのスコアを見れば「ジョン・ケージの筆跡と彼が当時使っていたペンだとわかるだろう。If you look at these scores of mine, you will recognize John Cage’s handwriting and the pen he used it at that time.」[5]。以上の経緯でフェルドマンは図形楽譜のアイディアを自分の作品へと仕上げていった。「実のところ、私にはいかなる類の理論もなく、それがどのように現れようとしているのかも考えつかなかったが、もしもあの時ワイルドライスを待っていなかったら、あのようなワイルドな(突飛な)アイディアを思いつかなかっただろう。Actually I didn’t have any kind of theory and I had no idea what was going to emerge, but if I wasn’t waiting for that wild rice, I wouldn’t have had those wild ideas.」[6]とフェルドマンが言うように、図形楽譜の誕生の現場にはいくつかの偶然性が働いていたが、ここでの最大の貢献者は、おそらく一般的なレシピを無視した謎の調理方法でワイルドライスにやたら時間を費やしたケージかもしれない。もしもこの夜のメニューがすぐにできあがる料理だったら、フェルドマンの図形楽譜は生まれていなかった可能性もある。このエピソードに倣い、私たちは手持ち無沙汰の時間を大事にしなければならない。

 現在までに確認されているフェルドマンの図形楽譜による楽曲は全部で17曲。作曲年代は1950年から1953年と、1958年から1967年の2つの時期に分けられる。1954年からの約4年間の空白は、フェルドマンが図形楽譜の在り方に疑問を抱き、図形楽譜にまつわる諸問題を再考していた時期とみなされる。図形楽譜の空白期間とその間の彼の葛藤は後で改めて検討することにして、今回は1953年までの図形楽譜の楽曲を対象とする。

[図形楽譜によるフェルドマンの楽曲]

Projection 1(1950):チェロ独奏 約2分50秒
Projection 2(1951年1月3日):フルート、トランペット、ヴァイオリン、チェロ、ピアノ 約4分40秒
Projection 3(1951年1月5日):2台ピアノ 約1分30秒
Projection 4(1951年1月16日):ヴァイオリン、ピアノ 約4分40秒
Projection 5(1951年):フルート3、トランペット、チェロ3、ピアノ2 約2分10秒
Intersection 1(1951年2月):打楽器なしの管弦楽 約12分30秒
Marginal Intersection (1951年7月):管弦楽、エレクトリック・ギター、オシレーター2、事前に録音されたノイズ 約5分50秒
Intersection 2(1951年8月):ピアノ独奏 約9分
Intersection 3(1953年4月):ピアノ独奏 約2分20秒
Intersection 4(1953年11月22日):チェロ独奏 約3分

  1954年から1957年の間、図形楽譜は一時中断される。

Ixion(1958年8月):室内アンサンブル 約20分20秒
Atlantis(1959年9月28日):室内アンサンブル(2種類の編成で演奏可能) 約8分
Ixion (1960年1月):2台ピアノ 約7分20秒
…Out of ‘Last Pieces’(1961年3月):管弦楽とエレクトリック・ギター 約8分50秒
The Straits of Magellan(1961年12月):フルート、ホルン、トランペット、ピアノ、エレクトリック・ギター、コントラバス 約4分50秒
The King of Denmark(1964年8月):打楽器独奏 約5分10秒
In Search of an Orchestration(1967年):管弦楽 約7分40秒

 半数以上の楽曲の演奏時間が3〜5分程度だが、「Intersection 1」「Intersection 2」「…Out of ‘Last Pieces’」といった10分前後を要する作品も見られ、全体的にばらつきがある。「Projection」 1-5と「Intersection」 1-5は独奏と小規模なアンサンブルを中心としている。この中で最も大きな編成の「Marginal Intersection」では高周波と低周波のオシレーター2つが用いられている。フェルドマンはこの2つのオシレーターを「聞こえないが「感じ」られる。These cannot be heard, but are “felt.”」と説明している[7]。タイトルにある「marginal へりの、辺境の」もふまえると、2つのオシレーターは可聴域の際(きわ)の、聴こえるか聴こえないかの周波数に合わせるのがふさわしいのではないかとClineは指摘する[8]。だが、この曲の唯一の録音「Feldman Edition Vol. 9 Composing by Number: The Barton Workshop plays graphic scores」[9]に収録されている演奏ではオシレーターがはっきりと聴こえる周波数と音量で演奏に用いられていることから、どちらがより正統な演奏方法なのかはすぐに結論を出せない。電気による増幅や伝統的な楽器以外の音源に対して積極的ではなかったフェルドマンは「…Out of ‘Last Pieces’」「The Straits of Magellan」「Marginal Intersection」でエレクトリック・ギターを用いるなど、音色や編成の点で五線譜による楽曲には見られない試みが図形楽譜の楽曲の中でなされている。

2. 中心のない、時間のキャンヴァス

 他の作曲家による意匠に工夫を凝らした図形楽譜に比べて、グラフ用紙のマス目を基本とするフェルドマンの図形楽譜はだいぶ単純で簡素に見える。最もよく知られた「Projection 1」の冒頭はこのサイト「The art of visualizing music」で見ることができる。フェルドマンの図形楽譜におけるグラフ用紙のマス目は大抵がメトローム記号によるテンポ表示と対応している。「Projection」シリーズの場合、このマス目はさらに内部で4分割されていると見なすことができ、1つのマス目を4拍子の1小節分、その内部が1拍として数えられる。グラフ用紙の垂直方向は高・中・低の音域を指示している。具体的な音高の選択は奏者に任せられているので、奏者は指定された音域内ならどの音高を鳴らしてもよい。内部の小さなマス目にはピチカートや開放弦などの演奏記号や、そこで鳴らされるべき音の数がアラビア数字で記されていることもある。このように具体的な音高は指定されず、音域と音が鳴らされるタイミングのみが記されているフェルドマンの図形楽譜の楽曲は、方法は決まっているが結果がその都度異なる不確定性の音楽に分類される。以下の演奏では「Projection 1」の中で鳴らされる音とスコアとが同期しており、これを見ればフェルドマンの図形楽譜のおおよその読み方と、その結果生じる音響の概要をつかむことができる。実際のスコアはモノクロだが、この映像では高音域が黄色系、中音域が赤系、低音域が青系の色に色分けされている。

Projection 1

 先の「Marginal Intersection」のオシレーターの例からもわかるように、彼の図形楽譜は簡素なだけに解釈や分析に対して開かれているともいえる。フェルドマンの図形楽譜について考える場合、史実と美学の両側面からの成り立ち、主に音域の分布と音の持続に注視した楽曲の構造、解釈と演奏実践の可能性といった複数の視点が必要だ。史実については上述のワイルドライスのエピソードと前回とりあげたザ・クラブやセダー・タヴァーンでの出来事が図形楽譜の成立を考察する際のヒントとなる。美学については、前回触れた抽象表現主義絵画、とりわけキャンヴァスを床に置いてそこに絵の具や塗料を直接垂らすジャクソン・ポロックの技法がフェルドマンの図形楽譜の作業手順に直接的な影響をもたらしたと考えられる。以下は1981年に書かれたフェルドマンのエッセイ「Crippled Symmetry」からの引用である。

当時を振り返ると、私の1951年の音楽的な理念が彼の創作方法と類似していたことを今になって実感している。ポロックはキャンヴァスを床に置き、その周りを歩きながら描いた。私はグラフ用紙を壁に貼った。グラフ用紙の1枚1枚が同じ長さの時間の持続の枠にはめられ、実際に視覚的なリズム構造でもあった。ポロックと似ていたのは時間のキャンヴァスに対する私の「全面的な」アプローチだった。通常の左から右へと走るページではなくて、グラフ用紙の横方向のマス目はテンポを表している。――マス目の中のそれぞれの四角形は予め設定された音の入り[10]と等しい。垂直方向の四角形はこの曲の編成を表している。

In thinking back to that time, I realize now how much the musical ideal I had in 1951 paralleled his mode of working. Pollock placed his canvas on the ground and painted as he walked around it. I put sheets of graph paper on the wall; each sheet framed the same time duration and was, in effect, a visual rhythmic structure. What resembled Pollock was my “allover” approach to the time-canvas. Rather than the usual left-to-right passage across the page, the horizontal squares of the graph paper represented the tempo—with each box equal to a preestablished ictus; and the vertical squares were the instrumentation of the composition.[11]

 ここでフェルドマンはポロックと自身の図形楽譜との類似性を明言している。「時間のキャンヴァス」の表現に注目すると、フェルドマンが五線譜ではない媒体に音楽を書き付けた理由の一端が推測できる。一般的に、五線譜は時間の経過を左から右へと可視化する媒体だ。これまで当たり前と思われてきた五線譜の中で左から右へと流れる時間と、それに沿って音の連続体を構成することとは違う方法で音楽を作る1つの策としてフェルドマンはグラフ用紙を壁に貼ってみたのだろうか。フェルドマンがグラフ用紙で行ったのは、キャンヴァスに見立てたグラフ用紙に音を投げつける作業だったのかもしれない。グラフ用紙1枚1枚は一定の長さの時間の枠組みが規定されていて、その中で様々な方向に視線を動かすことができる。グラフ用紙のマス目を行きつ戻りつしながら音を書き付けるフェルドマンの姿はキャンヴァスの周りを歩きながら絵の具を垂らすポロックと重なる。このように考えると、フェルドマンの初めての図形楽譜作品が「Projection 投影」と題されたのも納得できるだろう。

 これまで引用してきたフェルドマンの言葉をここでもう一度考えてみると、彼は図形楽譜の誕生が無作為で、直感的で、衝動的だったと言いたげな主張を繰り返していることがわかる。一見、直感的で衝動的なポロックの絵画技法はこの当時のフェルドマンの意図と一致しているともいえる。フェルドマンは自身の音楽的な時間へのアプローチを「全面的 allover」という言葉で説明していることも、ポロックの1940年代からの作品における中心の欠如の影響だと考えられるだろう。だが、ポロックのポーリングやドリッピングの技法が全くの直感でランダムに行われていたのではなく、実は腕を動かすスピードや高さが意識されていたことを実証する研究結果が絵画研究や物理学の領域においていくつか出ている[12]。同様にフェルドマンの「Projection」シリーズと「Intersection」シリーズには、「全面的なアプローチ」と中心点の欠如を達成するための作者による微調整の痕跡を見ることができる。

 これまでフェルドマンの図形楽譜にまつわる研究といえば抽象表現主義絵画との同時代性や類似性で語られることが多かったが、Clineの『The Graph Music of Morton Feldman』はスケッチと出版譜を徹底的に分析する実証的な手法で一連の図形楽譜作品を解き明かしている。彼の分析によれば、「Projection」シリーズ、「Intersection」シリーズ、「Marginal Intersection」のそれぞれにおける音域の分布と、アンサンブルや管弦楽編成の場合はパートごとの出現頻度にある程度の均衡が見られる[13]。たとえば、ヴァイオリンとピアノのための「Projection 4」の両パート合わせた音域の分布は高音域34%、中音域34%、低音域32%。わずかな差があるものの、3つはほぼ同じ割合と言える[14]。さらにヴァイオリンとピアノとにそれぞれ割り当てられた音の数の割合はヴァイオリン52%、ピアノ48%と、ここでもやはり均衡が見られる[15]。さらにミクロな視点から、Clineの分析は「Projection 4」の全8ページの見開き2ページごとの音域とパートの分布にも同様の均衡が見られることも明らかにしている[16]。この傾向は同時期の他の図形楽譜の作品にも観測される。だが、この分析はフェルドマンが実際に各パートの記号の数を数えていたことを裏付けるわけではない[17]。「むしろ彼は幅広く均整のとれたやり方で記号(訳注:数字や音符もここでの「記号 symbols」に含まれる)を配置しようとしていて、おそらくそれぞれの音域や楽器のパートに1つずつ順番に記号を書き足していった。 It is, instead, that he meant to distribute symbols in a broadly balanced fashion, possibly by adding one symbol to each register location or instrumental part in turn. 」[18] ことがこの分析から推測される。図形楽譜における音域とパートの均衡のとれた分布から、フェルドマンが志向した「全面的なアプローチ」は演奏として鳴り響く音よりも、作曲と記譜の過程において到達されていると考えられる。

Projection 4

Projection 4

 この曲の記譜法は「Projection 1」とほぼ同じ方法で書かれているが、マス目の中に演奏すべき音の数がアラビア数字で記されている。

 慣習的な五線譜の中での一方向の流れに沿っていたら、フェルドマンが言う全面的なアプローチはできない。瞬間的、衝動的に生じた音を拾い上げて書き付けるには、彼にとっては五線譜よりグラフ用紙の方がやりやすかったのだろう。ポロックの腕のコントロールやフェルドマンの音域の均等な分布のように、たとえその実践において作者が実用的な理由で何らかの方策を内に秘めていようと、第二次世界大戦後のアメリカの芸術思潮は即興的な直感と衝動を創作の源泉としていたともいえる。このような傾向についてBelgradは自発性と間主観性の観点から次のように分析している。

戦後の自発性の主流は実存主義的な哲学の欠点をうまく回避し、主観性にまつわるより急進的な場の理論に対する支持の表れとして、実存主義的な精神と肉体の二項対立の痕跡を拒絶する。間主観性の信条と矛盾することなく、自発性は自分の素材との即興的な対話に入り込む戦略を具現した。抽象表現主義の作品に特徴的な閉じられた感覚の欠如を説明しているのは、このような対話――ギヴ・アンド・テイクが決して完結することはなく、完全な理解にも到達しない――の感覚だった。

The mainstream of postwar spontaneity eluded the shortcomings of existentialist philosophy, rejecting its vestiges of a mind/body/dichotomy in favor of a more radical field theory of subjectivity. Consistent with the tenet of intersubjectivity, spontaneity embodied a strategy of entering into improvisational dialogue with one’s materials. It was this sense of dialogue –of give-and-take never completely ended, and full understanding never completely accomplished—that accounted for the characteristic lack of closure in abstract expressionist works.[19] 

 ここで言われている間主観性は人間と人間との関係に限定されるのではなく、人間とその人の創作の素材や方法との関係だと解釈した方がこの文脈に適合すると考えられる。自分の素材と対話し、その対話を完結させず開いておく態度はフェルドマンの創作の中で「音の解放」として現れている。彼は「Projection 2」の解説で「私のここでの欲望は“作曲すること”ではなくて、音を時間に投影し、ここには必要がなかった作曲のレトリックから音を解放することだ。my desire here was not to “compose,” but to project sounds into time, free from a compositional rhetoric that had no place here.」[20]と書いている。彼の一連の図形楽譜の楽曲は演奏の場で鳴り響く音の可能性が開かれている不確定性の音楽だ。楽曲や作品の体裁を取るからには楽譜に記されて固定されているが、フェルドマンが目指していたのは、音があたかも自発的にそこに現れ、あるいは天啓のように作曲家のもとに降臨し、それをすかさず彼がグラフ用紙に書き付ける一連の流れだと想像できる。彼の図形楽譜の作品では演奏ごとに実際に聴こえてくる音が変わるので、その曲は楽曲として固定されていながらも流動性を持ち、開かれた状態を維持することができる。だが、実際の演奏の現場では作曲家が描いたこのような理想的な状況はそう簡単に実現しなかった。

3. 図形楽譜の理想と現実

 フェルドマンの意図を十分に理解し、彼が書いた通りに演奏すれば図形楽譜は当時彼が目指していた音楽を実現するのに最適な方法になるはずだったが、スムーズにことが運んだわけではなかった。図形楽譜はむしろ作曲や演奏にまつわる議論を提起している。フェルドマンの図形楽譜の楽曲に限らず、不確定性の音楽についてしばしば問題になるのが即興との違いだ。フェルドマンは図形楽譜による自分の楽曲が即興ではないことを明言している。

図形楽譜の音楽を何年か書いてみて、最も重要な欠点に気づき始めた。私は音を自由にさせているだけではなかった――演奏者にも自由を与えていたのだった。図形楽譜を即興の芸術と考えたことは一度もなく、むしろ完全に抽象的な音の冒険と思っていた。もしも演奏者がうまく演奏できなかったら、それは彼らの存在を感じさせるパッセージと連続性に私がまだ関与しているせいではないとその時理解したので、このことに気づけたのは重要だった。

After several years of writing graph music I began to discover its most important flaw. I was not only allowing the sounds to be free – I was also liberating the performer. I had never thought of the graph as an art of improvisation, but more as a totally abstract sonic adventure. This realization was important because I now understood that if the performers sounded bad it was less because I was still involved with passages and continuity that allowed their presence to be felt. [21]

 フェルドマンは作曲家と演奏者それぞれの記憶の中で固定されたパターンや連続性、演奏者の手癖を完全に排した抽象的な音楽を目指していたが、音高の選択を演奏者の任意にするだけでは彼が描いた抽象性に到達できなかった。上記の引用の中でフェルドマンは演奏の成否にも言及しているが、いったい何を基準にそれが決まるのだろうか。もしかしてフェルドマンが求めていた具体的な音の響きがあったのだろうか。理想とする音を常に鳴らしたいならば、音高を指定することによって問題はすぐに解決するはずだ。だが、それでは図形楽譜における不確定性の意味がなくなってしまう。着想と創作の段階ではさほど矛盾なく理解して共感できるフェルドマンの図形楽譜は、演奏の段階になると概念と実践両方においての課題が生じる。フェルドマンの図形楽譜のピアノ曲の初演を手がけたチュードアは当時どのようにして演奏したのだろうか。

 チュードアに献呈されたピアノ独奏のための「Intersection 3」はマス目1つあたりのテンポが176に指定されている。高・中・低それぞれの音域のマス目に書かれた数字は一度に演奏する音の数を示している。3/3、6/2といった分数の箇所では1つの音域内で2つの音の塊を作る必要がある。冒頭の中音域の3/3は中音域で3音、もう1つ別の3音の、合計6音を演奏する。曲が終盤にさしかかった369番目のマス目では高音域で10/10、中音域11/9と書かれており、速いテンポの中で一度に40の音を鳴らさないといけないことを意味する。実際の演奏では、この曲は速いテンポでのトーン・クラスターが次々展開されるわけだが、図形楽譜だけを見て、そこに記された数の音を即座に打鍵するのは超絶技巧のピアニストでも不可能だろう。チュードアはこの曲の演奏に先立って五線譜に書き換えた自分用の楽譜を作成していた[22]。チュードアがしたようにあらかじめ五線譜に書き換えておけば、時間をかけて何度も練習してすばやく精確にクラスターを打鍵することができる。これは実用的でとてもよいアイディアだが、作曲家や演奏者の記憶に束縛されない完全に抽象的な音の冒険というフェルドマンの理念との矛盾が出てきてしまう。しかし、演奏家にとっては五線譜に書き換えた楽譜があれば演奏の際の困難さが解消されるのはたしかだ。精確に演奏しようとすればするほど、五線譜に書き換えた楽譜が必須になってくる。もしも五線譜なしにこの超絶技巧の楽曲を演奏しようとするならば、速いテンポの中で指定された数の音を精確に打鍵するのは途端に困難になる。実のところ、聴き手には何が正しくて何が間違っているのか判断できないが、図形楽譜だけの演奏だとこの曲の記譜上の精確さが失われてしまうし、フェルドマンが回避しようとした即興演奏に近づいてしまうかもしれない。「Intersection 3」は作曲家が理想とする、この曲のあり方――作曲家や演奏者の記憶に束縛されない完全に抽象的な音の冒険――を追求すると、ここで要求される超絶技巧ゆえ楽譜通りの正しさから遠のいてしまうという皮肉な結果になる。

Intersection 3

 ピエール・ブーレーズは1951年12月にケージに宛てた手紙の中で、フェルドマンの図形楽譜を「退化 a regression」として批判している[23]。 特にブーレーズが批判したのはフェルドマンの図形楽譜におけるリズムの単純さだ。ブーレーズが指摘するように、指定されたテンポに即してグラフ用紙のマス目に書かれたタイミングで音を鳴らすだけでは複雑なリズムを創出することができない。フェルドマンの図形楽譜に対するブーレーズの率直な感想は「現在、私たちは音楽家であって画家ではありません。絵画は演奏されるために描かれているわけではないのです。Now, we are musicians and not painters, and pictures are not made to be performed.」[24]という一文に集約されている。

 おそらくフェルドマンも上記の矛盾や困難さを十分に自覚していたはずだ。彼はこれらをどのように解決しようとしたのだろうか。次回は同時期に書かれた五線譜の楽曲に焦点を当てて、図形楽譜作品との共通点や違いについて考えたい。


[1] イネ科マコモ属の一年草。可食部である黒い種子が米に似ているためワイルドライスと呼ばれている。
[2] Morton Feldman Says: Selected Interviews and Lectures 1964-1987, Edited by Chris Villars, London: Hyphen Press, 2006, p. 153
[3] John Cage and Morton Feldman, Radio Happenings: Conversations, Köln: Musik Texte, 1993, p. 17
[4] Morton Feldman Says, p. 153 フェルドマンは2台ピアノのための「Intersections」を挙げているが、作曲時期と編成から判断するとこの時ケージが清書したのは「Projection 3」の可能性が高い。
[5] Ibid., p. 153
[6] Ibid., p. 153
[7] Morton Feldman, Give My Regards to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman, Edited by B. H. Friedman, Cambridge: Exact Change, 2000, p. 10
[8] David Cline, The Graph Music of Morton Feldman, Cambridge: Cambridge University Press, 2016, p. 30
[9] mode 146, 2005
[10] 自身の図形楽譜に関してフェルドマンはictus(強音、アクセント)という言葉を好んで用いた。彼は音の入りやアタックを意図していたと考えられる。
[11] Feldman 2000, op. cit., p. 147
[12] ポロックの絵画技法と力学との関係についてはブラウン大学のこの記事が参考になる。Scientists reveal the physics of Jackson Pollock, https://phys.org/news/2019-10-scientists-reveal-physics-jackson-pollock.html October 30, 2019.
[13] Cline 2016, op. cit., Chapter 5, “Holism,” pp. 140-162
[14] Ibid., p. 141
[15] Ibid., p. 141
[16] Ibid., p. 156
[17] Ibid., p. 142
[18] Ibid., p. 143
[19] Daniel Belgrad, The Culture of Spontaneity: Improvisation and the Arts in Postwar America, Chicago: The University of Chicago Press, 1998, p. 10
[20] Feldman 2000, op. cit., p. 6
[21] Ibid., p. 6
[22] チュードア研究家のJohn Holzaepfelがチュードアによる五線譜の詳細を論じている。John Holzaepfel, “Painting by Numbers: The Intersections of Morton Feldman and David Tudor,” in The New York Schools of Music and Visual Arts: John Cage, Morton Feldman, Edgard Varèse, Willem de Kooning, Jasper Johns, Robert Rauschenberg, edited by Steven Johnson, New York: Routledge, 2002, pp. 159-172
[23] The Boulez-Cage Correspondence, English version, Edited by Jean-Jacques Nattiez, translated and edited by Robert Samuels, Cambridge: The Press Syndicate of the University of Cambridge, 1993, p. 115
[24] Ibid., p. 116

高橋智子
1978年仙台市生まれ。Joy DivisionとNew Orderが好きな無職。

(次回更新は7月15日の予定です)

あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(2) フェルドマンの1951年

(筆者:高橋智子)

 前回はモートン・フェルドマンがジョン・ケージと出会い、彼が当時住んでいたロウアー・マンハッタンにあったアパートメント、ボッサ・マンションに引っ越した1950年までの歩みをたどった。1950年からの数年間はフェルドマンの創作の美学、そして彼が生涯にわたって追求したと思われる「抽象的な経験」という理念(同時にそれは大きなジレンマでもあった)の礎を築いた重要な時期だ。今回は、この時期に彼が足繁く通った場所とそこで出会った人々がどれほど強烈に彼の創作に刺激を与えたかを見ていく。

1950年12月17日

 フェルドマンは1950年12月17日に「Piece for Violin and Piano」を完成させた。大部分が柔らかなタッチで打鍵されるピアノの和音と単音にヴァイオリンが呼応しながら進む、この2分足らずの小曲はシュテファン・ヴォルペのもとで作曲家修行を続けてきたフェルドマンが自身の作曲様式を前面に打ち出した作品として位置づけることができる。この曲は全体的に抑制されたダイナミクスで書かれているが、これまでの抑制された雰囲気をうち破るかのごとく、曲の終盤で突然ピアノが強烈な和音を打鍵する。楽曲の途中でのこのような突然の変化や衝撃の効果は1970年代後期からの長大な作品においてもよく見られる。

Feldman/ Piece for Violin and Piano(1950)

 1950年12月17日の出来事はこれだけではなかった。この日は作曲家連盟 League of Composerの演奏会がカーネギー・ホールで行われた。(プログラムの詳細はカーネギー・ホールのサイトを参照)このコンサートではフェルドマンの楽曲は演奏されていないが、彼はアメリカ初演されたピエール・ブーレーズの「2ème sonate pour piano」(1947)に関わっていたことがケージとブーレーズの手紙のやりとりからわかる。1949年11月頃から1954年の間、ケージとブーレーズは往復書簡のような手紙を交わしていた。2人の手紙はジャン=ジャック・ナティエの編集によって『ブーレーズ/ケージ往復書簡集 Pierre Boulez/John Cage: Correspondance et documents[1]として出版されている。自身の創作のアイディアをケージに熱く語る若きブーレーズと、フェルドマンをはじめとする当時のニューヨークの音楽シーンを紹介するケージの様子がこれらの手紙から読み取ることができる。2人の手紙から推測すると、ケージは既に1949年には「2ème sonate pour piano」の楽譜をブーレーズから受け取っていたようだ。当初ケージはウィリアム・マッセロスにこのソナタの演奏を依頼した。しかし楽曲の難易度の高さと準備期間の短さからマッセロスはこの依頼を断ってしまった。具体的な経緯は不明だが、おそらくフェルドマン経由でチュードアは既にこのソナタの楽譜を入手して練習も始めていた。彼はこのソナタの練習だけではなく、ブーレーズの論文を原語で読むためにフランス語を勉強していた。さらに彼はこの時期のブーレーズの音楽の理解の鍵となるアントナン・アルトーの本も読んでいたといわれている[2]。この事実をフェルドマンから知ったケージはチュードアにソナタの演奏を依頼する。演奏会の翌日にケージからブーレーズに書かれた手紙には、チュードアは「君と同じ25歳の、モートン・フェルドマンの友人 twenty-five, like you, and he is a friend of Morton Feldman」[3]と紹介されている。ブーレーズ不在で行われたこの演奏会の夜、興奮冷めやらぬケージ、フェルドマン、チュードアらは明け方4時まで音楽について語り合ったという。

 ブーレーズの「2ème sonate pour piano」アメリカ初演とフェルドマンとの関係はこの時期のケージ周辺のニューヨークの音楽家の状況を物語るエピソードの一端に過ぎないが、フェルドマンはケージを介して当時のダウンタウンのアーティスト・コミューンでもあり、彼らの自宅でもあったボッサ・マンションの外でも作曲家、音楽家としての人脈と活動の幅を広げていく。来たる1951年はフェルドマンの音楽家人生がさらに大きく揺さぶられる。

フェルドマンとニューヨーク・スクールの画家たち

 1951年1月、フェルドマンはMoMA(ニューヨーク近代美術館)で行われた「アメリカの抽象絵画と彫刻展 Abstract Painting and Sculpture in America」で抽象表現主義の作品を鑑賞する。展覧会の展示室の写真とカタログはMoMAのサイトから見ることができる。この展覧会は印象主義、表現主義、キュビスム、ダダイズム、未来派、デ・ステイル、構成主義、バウハウスといった19世紀末期から20世紀前半までの西洋近代絵画と芸術の潮流を概観し、その流れの行く先としてアメリカの抽象絵画を位置付けた構成だった。その後まもなく、フェルドマンはここに作品が展示されていた画家たち――フィリップ・ガストン、ウィレム・デ・クーニング、リチャード・リッポルド、ロバート・マザウェル、ジャクソン・ポロック、アド・ラインハルト、マーク・ロスコーと実際に出会い、親交を深めることとなる。以下の5曲は特にフェルドマンと親しかった画家たちの名前がタイトルに付されている。

「For Franz Kline」(1962)
「Piano Piece (Philip Guston)」(1963)
「De Kooning 」(1963)
「The Rothko Chapel」(1972)
「For Philip Guston」 (1984)

 具体的な日付はわからないが、1951年、フェルドマンはケージの誘いでセダー・タヴァーン Cedar Tavernとザ・クラブ The Clubに通い始める。先に名前をあげた画家たちの存在が彼にとって急に身近になり、フェルドマンの音楽が、よりフェルドマンらしい音楽へと発展していく。 ザ・ クラブはワシントン・スクエア・パークとニューヨーク大学に近い39 East 8th Streetに位置し、彫刻家で当時のニューヨーク前衛シーンのオーガナイザーの1人でもあったフィリップ・パヴィアやデ・クーニングらを中心として創設されたバー兼芸術家サロンだった。 ザ・ クラブから数ブロック南下するとセダー・タヴァーンがあり、距離を考えると一晩にこれら両方に行くこともできただろう。

 フェルドマンとケージがどれくらいの頻度でここに姿を現したのか、彼はエッセイ「自伝 Autobiography」の中で次のように語っている。

 ジョン(訳注:ケージ)とは音楽の話をほとんどしなかった。物事があまりにも速く動いているので、それについて話す暇もなかったくらいだ。だが、絵画については途方もなくたくさんのことを話した。ジョンと私は午後6時にセダー・タヴァーンを訪れ、ここが閉まるまでおしゃべりして、閉まってからもおしゃべりしていた。これは決して大げさな言い方ではなくて、私たちはこの生活を5年間毎日送っていた。

There was very little talk about music with John. Things were moving too fast to even talk about. But there was an incredible amount of talk about painting. John and I would drop in at the Cedar Bar at six in the afternoon and talk until it closed and after it closed. I can say without exaggeration that we did this every day for five years of our lives.[4]

彼が語る当時の様子から、フェルドマンとケージは昼夜逆転していたのかと心配になってしまう。もしもここでフェルドマンが書いていることが事実ならば、彼らにとってセダー・タヴァーンと ザ・クラブはもはや生活の一部になっていたともいえる。この特別な場所と時間について、フェルドマンは1960年頃から自身のエッセイや講演で頻繁に振り返っている。

 1950年頃から、画家のマザウェルは ザ・クラブとセダー・タヴァーンに集い、自身も含めた「創作のプロセスを通して芸術とはなんたるかを正確に見出そうとするアーティストのグループ as a group of artists that tries to find out what art is precisely through the process of making art」[5]をニューヨーク・スクール New York Schoolと名付けた。美術におけるニューヨーク・スクールの流れを受けたのが前回の終盤で少し言及したケージ、フェルドマン、クリスチャン・ウォルフ、アール・ブラウン、チュードアからなる音楽版のニューヨーク・スクール(楽派)である。個々の信念の違いはあれども、彼らは同時代に同じ場所に出入りし、根底に共通した開拓精神と実験精神を持っていた。そこで交わされたとりとめのない会話や酔った挙句の口論も含めて、彼らがアイディアを交換する場として ザ・クラブとセダー・タヴァーンは機能していたのだった。

セダー・タヴァーンの喧騒

 当時のマンハッタンには芸術家が集うサロンのような場所がいくつかあった。ブリーカー・ストリートにあったサン・レモ San Remoにはディラン・トマス、アレン・ギンズバーグ、ウィリアム・バロウズ、マイルス・デイヴィスといった面々が集っていた。サン・レモに比べて ザ・クラブやセダー・タヴァーンはどちらかというとマッチョでストレートな人々が来ていて、文学よりも美術を志向していた[6]。詩人、キュレーターで彼の理解者でもあったフランク・オハラは「サン・レモでは私たちは議論と噂話をしていて、セダーでは画家たちの議論と噂話を聞きながらよく詩を書いていた。In the San Remo we argued and gossiped: in the Cedar we often wrote poems while listening to the painters argue and gossip」[7]と当時の様子を振り返る。オハラと同じくこの空気にすっかり浸かっていたフェルドマンは、自身の創作の拠り所を音楽よりもニューヨーク・スクールの画家たちとその作品に求めるようになっていく。

 フェルドマン曰く、「新しい絵画はこれまで存在したあらゆるものより直接的、即時的、身体的な音の世界に対する欲望をかき立てた The new painting made me desired of a sound world more direct, more immediate, more physical than anything that had existed heretofore.」[8]。この中の「直接的、即時的、身体的な音の世界」を1950年代から1960年代のフェルドマンの楽曲に見出そうとするならば、旋律などの素材が有機的に結びついて生成される統一性や構造とは本質的に異なる地平の音楽だと解釈できる。フェルドマンは自分が理想とする音楽のあり方を「完全に抽象的な音の冒険 totally abstract sonic adventure」[9]とし、図形楽譜をはじめとする様々な手法でこの理想を追求した。だが、図形楽譜に関していうならば、彼は既に1950年12月末には初めての図形楽譜の楽曲「Projection 1」(1950)を作曲しているので、時系列で考えると抽象表現主義絵画とニューヨーク・スクールの画家たちとの出会いが図形楽譜考案の発端となったとは言い切れない。むしろ、自身の音楽を発展させるために彼がこれまで頭の中で渦巻いていたアイディアが抽象表現主義絵画との出会いによって言語化され、音楽として具現されたのだと考えられる(もちろん、その成否をめぐって彼は常に葛藤していたが)。その現れの一端が1950年代はじめの図形楽譜と、同時期の五線譜で書かれた散発的なテクスチュアの楽曲だと見なすことができる。

「無についてのレクチャー」と「何かについてのレクチャー」

  ザ・クラブでは毎週水曜日と金曜日の夜に公開討論会、講演、ポエトリー・リーディング、コンサートなどが行われていた。1951年2月[10]にケージは直接的にも間接的にもフェルドマンの音楽に言及した「無についてのレクチャー Lecture on Nothing」と「Lecture on Something」をここで行なった。

「無についてのレクチャー」
 「無についてのレクチャー」のテキストはケージの1940年代から50年代はじめの楽曲にしばしば見られる、数小節の和で構成されたまとまりを楽曲の1単位と見なしてそれらを配置するリズム構造の原理に基づいている。この講演は聴衆の前で原稿を読み上げる点では通常のそれと変わりないが、ケージはリズム構造を用いて自分が言葉を発する時間を制御し、加えて随所に挿入される無言の沈黙の時間と空間を用いて、この講演自体を完全に構造化している。つまり、この講演のテキストを読み上げる行為は演劇的であるともいえ、テキストは台本や脚本の性格を帯びている。2012年のケージ生誕100年にちなんで、演出家のロバート・ウィルソンはこのレクチャーを再現するパフォーマンスを行っているhttp://www.robertwilson.com/lecture-on-nothing

 「この壇上にいて 、私にはいうべきことが何もない 。」[11]から始まる「無についてのレクチャー」は全体的につかみどころのない内容だが、ケージは得意の小噺風の逸話を交えながら主に沈黙 silence、構造 structure、素材 material、ノイズ noise、方法 methodについて語る。これらはケージとフェルドマンのどちらにとっても、おそらく生涯をかけて追求した関心事であり、時に創作における大きな困難となって彼らに降りかかってきた。リズム構造によるケージ自身の楽曲と、ちょうどこの頃から始まったフェルドマンの図形楽譜の楽曲を想定すると「音楽をつくるのが 簡単だ ということは 構造の限界を受け入れ よう という意思 からきている。 構造は 考案 し理解し 計測することが できるため 簡単だ 。 」[12]の一節における「構造」に2つの意味を読み取ることができる。1つは、このレクチャーのテキスト自体にケージが施した時間と空間の制御を介して得られる完成された有機的な構造。もう1つは、西洋近代音楽の弁証法的な修辞とは異なる音楽の構造、あるいは構造の不在。前者はケージを、後者はフェルドマンを示唆している。

 全部を読み上げると約1時間を要する「無についてのレクチャー」の中にフェルドマンの名前は一度も出てこない。だが、ここでケージは、一見してわかる明瞭な構造(または何らかの規則に基づいた構造)を持たず、音の鳴らない間(ま)による沈黙が不意に現れ、どのような方法で作られているのか判然としないフェルドマンの楽曲を頭の中でイメージしていたのだろう。たしかに、たとえば「Two Intermissions for piano」(1950)を聴くと、彼の音楽は何かを表現するのではなく、何かを打ち消そうとしているように思えてくる。

Two Intermissions for piano (1950)

「何かについてのレクチャー」
 「何かと無が どうしたら対立せず、互いに必要と しあっていけるかについてだ 。」[13]とケージが冒頭で述べるように、「無についてのレクチャー」は「何かについてのレクチャー」に呼応している。ここでは無 nothing、連続性 continuity、無連続性 non-continuity、受け入れること acceptanceといった言葉が頻出する。ケージは、フェルドマンがこの時取り組んでいた図形楽譜の楽曲「Intersections」シリーズをとりあげてロマンティックな調子で賛辞を送っている。

フェルドマンは 無音について 語り 広い範囲のなかで 最初に現れる 幾音かをとりあげる。 彼は作曲家の 責任を つくることから 受け入れること へと変えた。 結果いかんに かかわらず 生じるもの を受け入れることは あらゆるもの との同一性の感覚 から もたらされる 愛を恐れぬこと あるいはその愛 で満たされる ことである。 このことによって、 フェルドマンが音の すべてと関係するというとき、意味していることが明かになり、 また 他の作曲家 がするように 特定の音符を書き込ま なくとも、何が 起こるか が予見できる。[14]

 「作曲家の責任をつくることから受け入れることへと変えた」の箇所は、不確定性の音楽においては、作曲家が主に演奏方法を楽譜や何らかの方法で指示するが、その結果がどんなものであれ作曲家は自分の作品として受け入れるという態度と解釈できる。この「受け入れること」は後のフェルドマンに不確定性の音楽と即興との境界に関する葛藤を引き起こし、1967年の図形楽譜及び不確定性の音楽の中止へとつながるのだが、1951年当時、まだフェルドマンはこのような作曲に希望と可能性を感じていた。そんな彼の姿をそばで見ていたケージは、ある種の檄文や宣伝のような意味合いを含ませながら、このレクチャーでフェルドマンを英雄的に描写している。このレクチャーをケージが催した背景をRyan Dohoneyは「ケージ、フェルドマン、ローゼンバーグと画家たちに共通する生気論の美学を共有していた証拠としてだけでなく、ケージからフェルドマンに対する友情を表すジェスチャーでもあった as not only evidence of a shared vitalist aesthetics common to Cage, Feldman, Rosenberg, and the painters, but also a gesture of friendship on Cage’s part offered to Feldman.」[15]と考えている。2人の親密な交流を通して「ケージはフェルドマンの ザ・クラブへの加入を世話して、彼の音楽を ザ・クラブに周知させた。Cage midwifed Feldman’s initiation into the Club and made his music intelligible to it.」[16] 。 Dohoneyの視点を踏まえると、この2つのレクチャーには新進作曲家モートン・フェルドマンをダウンタウンのシーンに知らしめようとしたケージの戦略的な意図が見えてくる。実際、1951年以降、このシーンにおけるフェルドマンの存在感が増していき、画家たちとの交流もさらに盛んになる。このレクチャーからしばらくした頃、フェルドマンのもとにポロックのドキュメンタリー映像の音楽の仕事が舞い込んできたのだった。

「ジャクソン・ポロックJackson Pollock」(1951)の音楽

 写真家のハンス・ネイムスは抽象表現主義の画家たちを被写体としていたが、彼らの創作過程における身体性をより鮮烈に捉えるようと映像の領域に足を踏み入れる。このシリーズの第一弾がポロックを題材として制作された約11分の映像「Jackson Pollock」で、映像プロデューサーのパウル・ファルケンベルクも制作者として名を連ねている。フェルドマンにとってはこれが初めての映画音楽となった。

Hans Namuth and Paul Falkenberg/ Jackson Pollock (1951)

 ニューヨーク州スプリングのポロックのアトリエ兼自宅の外で撮影されたこの映像は、床の上に直接置いたキャンヴァス上に、筆や棒につけた顔料を滴らせるドリッピング dripping、顔料を流し込むポーリング pouringと呼ばれるポロックの技法に焦点を当てている。ネイムスの狙いは、ポロックの作品の意味を解釈することではなくて、ポロックの作品の意味とその創作過程とを同一と見なすことだった[17]。「過程(プロセス)を作品と見なす」この考え方は、絵筆のストロークの痕跡そのものを作品とする当時の抽象表現主義絵画の様式の1つであると同時に、後に1960年代半ばからのミニマル・アートとミニマル・ミュージックに引き継がれていく。作品を生み出す過程を克明に映像に収めるため、この映像でポロックは撮影用にガラスをキャンヴァスに見立てて描いている。

 フェルドマンはこの映像のために2挺のチェロによる音楽を書いた。フェルドマンの友人、ダニエル・スターンが演奏したチェロの2つのパートが録音され、映像の中で用いられている。フェルドマンは映像のシークエンスの長さを精確に測りながら、「まるでダンス音楽を作るかのようにこの音楽を作曲した wrote the score as if I were writing music for choreography.」[18]。フェルドマンの音楽はポロック自身による独白のようなナレーションと重ならないタイミングで用いられ、以下の箇所に9回現れる。音楽のないいくつかのシーンによって映像全体に緊張感がもたらされている。いずれの場合も音楽は1〜2分の非常に短い断片で構成されている。

0:18-0:30 ポロックがガラスに自分に名前を書き込んでいる。2音の反復パターンと開放弦による持続音が非常に短いプロローグを奏でる。

3:08-4:05 高音域でのピチカートと開放弦による持続音。ポロックが素早い身のこなしで顔料をキャンヴァスに放つ様子をカメラが追う。

4:07-4:45 キャンヴァスとポロックの影が交互に切り替わるカメラの動きに音楽が同期する。長回しのシーンではチェロが音をひきのばす。

4:54-5:18 ポロックのキャンヴァスが接写される。冒頭の2音パターンの反復と類似した断片が聴こえる。

6:00-7:20 ポロックが一切のためらいも見せずガラスに筆で描いている。高音域でのピチカートが不規則な間隔でせわしなく鳴らされる。

7:28-7:52 ポロックがガラスに上に紐のようなものを配置している。持続音とピチカートが交互に鳴らされる。

7:55-8:13 ポロックがガラスの上に様々な物体を配置している。ピチカートによる和音がほぼ等間隔で鳴らされる。

8:16-8:40 ポロックが顔料を缶から直接キャンヴァスに流し込んでいる。高音域での持続音と激しく打弦されるピチカートが交互に鳴らされる。

8:41-10:01 引き続き、ポロックは素早く筆を動かす。ピチカートによる和音が激しく打弦される。ガラスに書かれたエンドロールが映し出される。

 フェルドマンがこの映像のために書いた音楽は、唐突な反復やアルコでの持続音とピチカートとの対照的な効果など、ほぼ同時期に作曲された「Structures for String Quartet」の書法と重なる部分が多い。違いを1つあげるとすれば両者のダイナミクスにある。前者(ポロックの映像のための音楽)は強めのダイナミクス、後者(「Structures for String Quartet」)は全体的に抑制されたダイナミクスが指示されている。

Structures for String Quartet(1951)

 フェルドマンがこの音楽を完成させたのは、パウル・ザッハー財団が所蔵しているスコアに記されている「1951年5月 May 1951」[19]だとわかる。音楽の依頼がフェルドマンに来た経緯には2つの説が指摘されている[20] 。1つはケージの評伝[21]に書かれているように、1941年4月頃、ポロックの妻で画家のリー・クラスナーが当初ケージに音楽を依頼したが彼は断り、その代案として彼がフェルドマンに持ちかけた説。もう1つは、フェルドマンが1981年のエッセイ「Crippled Symmetry」にて、彼がポロックから直接、音楽の依頼を受けたと書いている[22] 。どちらが正しいのか今となってはわからないが、フェルドマンが「自分のキャリアが始まったばかりだったので、これ(映画音楽の仕事)はとても光栄だった。I was very pleased about this since it was just the very beginning of my career.」[23]と述べていることから、彼にとってこの映画音楽の仕事は率直にうれしかったようだ。

 1951年はフェルドマンの周りでたくさんの出来事が起きた年である。ザ・クラブやセダー・タヴァーンでの人脈と活動はフェルドマンの創作をさらに強烈に突き動かしていく。だが、これだけではない。この年、フェルドマンは彼の名を20世紀後半のアメリカ音楽史に知らしめることになった一連の図形楽譜作品に本格的に着手する。その様子は次回とりあげる。


[1] オリジナルは Pierre Boulez/John Cage: Correspondance et documents, Winterthur: Amedeus Verlag, 1990. 1993年に英訳版が出版された。本稿が参照しているのは1999年にPress Syndicate of the University of Cambridgeから出版された英訳版。2018年には日本語訳『ブーレーズ/ケージ往復書簡集』(笠羽映子訳、みすず書房)が出版された。
[2] Morton Feldman Says: Selected Interviews and Lectures 1964-1987, edited by Chris Villars, London: Hyphen Press, 2006, p. 258
[3] The Boulez-Cage Correspondence, English version, Edited by Jean-Jacques Nattiez, translated and edited by Robert Samuels, Cambridge: The Press Syndicate of the University of Cambridge, 1993, p. 77
[4] Morton Feldman, Essays, Kerpen: Beginner Press, 1985, p. 38
[5] Jonathan W. Bernard, “Feldman’s Painters,” in The New York Schools of Music and Visual Arts: John Cage, Morton Feldman, Edgard Varèse, Willem de Kooning, Jasper Johns, Robert Rauschenberg, edited by Steven Johnson, New York: Routledge, 2002, p. 175
[6] Brad Gooch, City Poet: The Life and Times of Frank O’Hara, New York: Alfred A. Knopf, Inc, 2014, pp. 201-202
[7] Ibid., p. 202
[8] Morton Feldman, Give My Regards to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman, Edited by B. H. Friedman, Cambridge: Exact Change, 2000, p. 4
[9] Feldman 1985, op. cit., p. 38
[10] 「何かについてのレクチャー」が1951年2月9日に行われたことはケージの評伝等で明らかになっているが、「無についてのレクチャー」の日付は定かではない。ケージは「何かについてのレクチャー」において「無についてのレクチャー」に言及する際に「先週」と述べていることから、「無についてのレクチャー」が2月9日の前の週(2月の第1週)に行われたと推測できる。
[11] ケージ、前掲書p. 189。「無についてのレクチャー」「何かについてのレクチャー」ともに原書と日本語版では改行、語句の間を隔てる空間、空白のページの挿入など独自のレイアウトがなされているが、本稿では簡易的なレイアウトに留めた。
[12] 同前、p. 194
[13] 同前、p. 227
[14] 同前 pp. 228-229
[15] Ryan Dohoney, “Spontaneity, Intimacy, and Friendship in Morton Feldman’s Music of the 1950s,” Sep. 27, 2017, https://modernismmodernity.org/articles/morton-feldman, accessed April 19, 2020.
[16] Ibid.
[17] Michael Schreyach, Intention and Interpretation in Hans Namuth’s Film, Jackson Pollock, in Art and Art History Faculty Research, Trinity University, 2012, p. 3, https://digitalcommons.trinity.edu/art_faculty/?utm_source=digitalcommons.trinity.edu%2Fart_faculty%2F2&utm_medium=PDF&utm_campaign=PDFCoverPages, accessed April 29, 2020
[18] Olivia Mattis, “Morton Feldman: Music for the film Jackson Pollock (1951),” 1998, https://www.cnvill.net/mfmattis.htm accessed on April 30, 2020 におけるB.H. Friedman, Jackson Pollock: Energy Made Visible, New York, 1972; repr. 1995, p. 173.からの引用。
[19] Ibid.
[20] Ibid.
[21] David Revil, The Roaring Silence John Cage: A Life, New York: Arcade Publishing, 1992, p. 141
[22] Feldman 2000, op. cit., p. 147
[23] Feldman 2000, op. cit., p. 147

高橋智子
1978年仙台市生まれ。Joy DivisionとNew Orderが好きな無職。

(次回更新は6月15日の予定です)

あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(1)

(筆者:高橋智子)

次の一節は1951年にジョン・ケージがモートン・フェルドマンの音楽について語った「何かについてのレクチャー Lecture on something」からの抜粋である。ここでケージが言おうとしていることの真意をどう解釈すべきか、すぐに答えは出ないが、彼の言葉には妙な説得力がある。

人生はモーティ・ フェルドマンの 曲のように進む。
偶然鳴った 音が面白くなかったと 異論を唱える人も いるかもしれない。
言わせておけ。 今度その曲を聴いた時には、 もっと面白くないか、
突然興奮 するか、いずれにせよ 違っているだろう 。 たぶん
悲惨だろう。 誰がかって ? その人だ。 フェルドマンのことじゃない。 

柿沼敏江訳『サイレンス』水声社、1996年、p. 232より

Feldman/ For Bunita Marcus (1985)

フェルドマンの音楽は難しい

 いうまでもなく、音楽の聴き方や解釈(ここには楽譜を読むことや演奏も含まれる)の方法や可能性は無限だ。ある楽曲や音響に第一印象で心を奪われる場合もあるし、何度か聴いていくうちにどんどんはまり込むこともあるだろう。もちろんこれは本稿でとりあげるモートン・フェルドマンの音楽についても同じだ。たとえば1950年代に書かれたフェルドマンのピアノ独奏曲や1960年代の比較的小規模な室内楽曲に接して、聴き手は、最小限に抑えられたダイナミクスを伴って展開される繊細で官能的な音の世界に魅了されるかもしれない。あるいは、深い黙想に誘う音楽として聴かれるかもしれない。フェルドマンの音楽に対して私たちが抱く印象は様々だが、筆者には、彼の音楽が右から左へと聴き流すことは到底できない、ひっかかりのようなものを常に投げかけてくるように感じられる。この「ひっかかりのようなもの」は、少数の音で構成された音型や、特定の音程の反復などの技術的な特性と、それによる音響的な効果に由来するのだと頭の中ではわかっているはずだ。だが、なぜ「For Bunita Marcus」(1985) 冒頭のC#とDの連打がフェルドマンの音楽として響くのか、その根拠は実のところよくわからない。その響きは作曲家が直感で書き、その結果として偶発的に生じたものなのか。それとも綿密な計算を経て結実したものなのか。彼が記した一音一音には、さらには音と音との空白や沈黙にさえ、理論や技法を論じただけでは量り得ない、だからといって安易な言葉のレトリックに逃げるのを許さない強固で厳しい何かがある。先にフェルドマンの音楽について「最小限に抑えられたダイナミクスを伴って展開される繊細で官能的な音の世界」と書いてしまったが、言葉を尽くして説明しようとすればするほど核心から遠ざかっていくような無力感に襲われる。さすが、サミュエル・ベケットを敬愛した作曲家だ。
 作曲家の発言を鵜呑みにするのは得策ではないものの、フェルドマンは「自分自身についていえば、私の楽曲にまつわる言説のほとんどは後付けであって、方法論についての技術的な議論も大きな誤解を招くだろう。For myself, most of my observations about my work are after the fact, and a technical discussion of my methodology would be quite misleading.」*1と記し、自発的あるいは、少しまじめに彼の音楽を聴いたり、演奏したり、研究しようとする人々を挑発する。だが、実際には既に多くの研究書や論文が刊行されており、楽曲分析にはピッチクラス理論などの分析手法が用いられている。したがって、フェルドマンの楽曲を分析することは不可能ではないし、珍しいことでもない。フェルドマンにとっての「誤解」が誰かにとっての理解の助けになっているのは確かだ。
 今ここで書いている内容とこれから書こうとしている事柄もフェルドマン自身にとっては誤解のひとつに過ぎないかもしれない。しかし、この作曲家とその音楽について、彼が書いた楽曲とそこからかろうじて観察できるなんらかの技術的、理論的な側面だけでなく、交友関係や好きな画家といった情報も合わせて知っておくことは決して無駄ではないと信じたい。
 無調からさらに発展した、およそ第二次世界大戦後からの芸術音楽(広い意味でのクラシック音楽といってもよいし、いわゆる現代音楽の枠組みで語ることもできる)にはその時代、地域、技法等に基づくいくつかの潮流が見られる。たとえばトータル・セリー主義の視点からこの時代を俯瞰した場合、真っ先に浮かぶのはピエール・ブーレーズ、ルイジ・ノーノ、カールハインツ・シュトックハウゼンらのダルムシュタット楽派だろう。
 彼らとほぼ同時代のフェルドマンについて考える場合、作曲家としての活動を始めた1940年代から没年の1987年までの年代、アメリカ合衆国の主に東海岸(ニューヨーク市とバッファロー市)、図形楽譜や持続の自由な楽曲(音符の符尾が記されておらず、奏者の任意で音の長さが定められる)における不確定性などが挙げられる。彼が自身のスタイルを確立する上で頻繁に言及される音楽関連の人物は、主にアントン・ヴェーベルン、エドガー・ヴァレーズ、シュテファン・ヴォルペ、デイヴィッド・チュードア、クリスチャン・ウォルフ、ジョン・ケージ、アール・ブラウン、ピエール・ブーレーズ、カールハインツ・シュトックハウゼンといった面々だ。また、フェルドマンはニューヨーク・スクールおよび抽象表現主義の美術家から創作のインスピレーションを得ていた。彼にとって、その影響はもしかしすると音楽家よりも大きなものだったかもしれない。フェルドマンはジャクソン・ポロック、ウィレム・デ・クーニング、フィリップ・ガストン、マーク・ロスコ、フランツ・クラインにまつわる楽曲を書いている。フェルドマンの音楽の理解者として、詩人のフランク・オハラの存在も忘れることができない。文学ではベケットからの影響が最も大きく、フェルドマン唯一のオペラ『Neither』(1977) のテキスト(脚本と呼ぶにはとても短い散文詩のようなもの)は彼のたっての願いでベケットが書いている。また、1970年代後半から始まる長時間の楽曲は、彼が1976年に訪れたイランを中心とする中東地域の絨毯の存在なしに語れないだろう。
 以上、フェルドマンの音楽と結びつきの深い人物と事物をごく簡単に列挙してみた。これらは彼の音楽に関する基礎知識に過ぎないのだが、それ故に逐一立ち止まる必要がある。この連載でそれぞれをどの程度とりあげることができるのか、まだはっきりとわからないが、筆者はどの一つも省けないほど全てが大事だと考えている。

記譜法と作品年代

 現時点でわかっているフェルドマンの楽曲数は未発表や未完成のおよそ50曲も含めると約200。本稿が参照した作品リストの最新版はクリス・ヴィラーズ Chris Villarsが運営しているMorton Feldman Page(https://www.cnvill.net/mfhome.htm)に
掲載されており、このリストは現在も更新されている。ピアノ独奏曲が36、デュオ、あるいは3台または3人以上のピアノによるアンサンブルによる楽曲が11曲、ピアノと他の楽器との室内楽編成の楽曲が51と、全体的にピアノを用いた楽曲の割合が高い。あまり知られていないがフェルドマンはテープ音楽「Intersection for Magnetic Tape」(1953) を1つ作っている。作品を年代ごとに大まかに区切ると、1943−49年頃までを習作期とみなすことができる。それ以降は1950−56年頃、1957−62年頃、1963−69年頃、1970−1977年頃、1978年から没年の1987年。この区分の根拠は様式の変化に基づいているが、特にフェルドマンの場合は記譜法が作品変遷を検討する際の鍵となる。

Feldman / Intersection for Magnetic Tape

[習作期]
1943-1949
作曲年代が確定されている最も古いものは1943年(フェルドマン16歳)にさかのぼるが、この年に作曲された4曲のうち「First Piano Sonata[to Bela Bartok]」(1943) 以外は未出版、未録音である。

[初期]
1950−56年
この時期は五線譜によるピアノの小品が多いと同時にフェルドマンは図形楽譜の楽曲を書き始める。グラフ用紙の升目による『Projections 1-5』(1950-51)はおそらく最もよく知られているフェルドマンの楽譜の1つだろう。

1957-62年
「Piece for four Pianos」(1957)、「Piano Four Hands 」(1958)、『Durations 1-5』 (1960-61)など、1957年頃から持続の自由な楽譜が頻繁に用いられる。

[中期]
1963−69年
この時期は持続の自由な楽譜がさらに発展し、『Vertical Thoughts 1-5』(1963)のようにそれぞれの音(パート)の演奏順番を破線で記した記譜法が用いられる。「The King of Denmark」(1964)など、図形楽譜は奏法や音色を細かく指定することで50年代よりも複雑になった。フェルドマンは様々な限界と疑問から「In Search of an Orchestration」(1967)で図形楽譜をやめてしまう。

1970-77年
この時期以降から晩年までの記譜法はほとんどが通常の五線譜である。ここでの大きな変化は『Viola in My Life 1-4』(1970-71)、『The Rothko Chapel』(1971)。「String Quartet and Orchestra」(1973)、「Piano and Orchestra」(1975)、といった、ソロ楽器や独立したセクションとオーケストラによる編成のシリーズが始まる。

[後期]
1978−82年
楽譜の外見のテクスチュアがさらに緻密になり、フェルドマンが収集していた中東の絨毯の影響が顕著になる。「String Quartet No. l」(1979)、「Patterns in a Chromatic Field」(1981)、「For John Cage」(1982)など演奏を時間が1時間を超える作品が書かれる。

1983−87年
約5〜7時間の「String Quartet No. 2」(1983)、約4時間半の「For Philip Guston」(1984) など、さらに長時間の楽曲が書かれる。

 様々な視点があるが、記譜法に着目してフェルドマンの楽曲とその様式変遷をごく簡単に概観してみた。もちろん、この変化の様子は当時のフェルドマンが暮らした環境、出会った人物、夢中になっていたものなどと深く関わっている。

生い立ちからジョン・ケージに出会うまで

Morton Feldman, Amsterdam 1976

 今回はフェルドマンの1950年代前半、つまりケージらと出会った当時までたどる。執筆にあたりSebastian Claren, Neither: Die Musik Morton Feldmans, Berlin: Wolke Verlag, 2000巻末のフェルドマン年表と、その英訳版(インタヴューとレクチャー集、Morton Feldman Says: Selected Interviews and Lectures 1964-1987, Edited by Chris Villars, London: Hyphen Press, 2006所収)を参照した。
 モートン・フェルドマン Morton Feldmanは1926年1月12日ニューヨーク市マンハッタン区で生まれ、ブロンクス区で育った。両親は子供の頃にニューヨークに移住したロシア系ユダヤ人。父アーヴィングは兄(フェルドマンの叔父にあたる)が経営する子供服工場で働いていたが途中で独立した。1972年にニューヨーク大学バッファロー校の教授職に就くまで、フェルドマンは父が起した子供用マント会社で働いて生計を立てていた。彼が家業と作曲家業とを掛け持ちしていたことは、フェルドマン自身のインタヴューやエッセイであまり語られていない。
 1935年、9歳のフェルドマンは作曲を始める。これがどんな曲だったのか、具体的な手がかりは今のところ明らかではない。同時期にマンハッタンのロウアー・イースト・サイドでピアノを習い始める。本格的なピアノのレッスンは1938年、フェルドマンが12歳になってからで、彼にとっての初めてのピアノ教師はヴェラ・モーリナ・プレスだった。彼女はロシアでフェルッチョ・ブゾーニなどにピアノを師事した後、ニューヨークに亡命したピアニストだ。フェルドマンは自分のやりたいように音楽をやらせてくれたプレスを尊敬しており、1970年には彼女への追悼として「Madame Press died last week at ninety」を作曲した。1941年、15歳のフェルドマンはアメリカにおける十二音技法の先駆者の一人、ウォーリングフォード・リーガーに作曲を習い始め、対位法などを勉強した。当時通っていた芸術高校 Music and Arts High School 時代のクラスメイトにはシーモア・シフリンがいた。彼は後にUCLAバークレー校時代のラ・モンテ・ヤングの指導教員になった。ここに1950年代半ば以降のアメリカ実験音楽界隈の奇妙なつながりの一端を見ることができる。
 高校卒業後、フェルドマンはニューヨーク大学の入学試験を受けに行くも、他の受験生を見て自分には合わないと感じ、試験を受けずに部屋から出て行ってしまう。以降、フェルドマンは引き続きプライヴェート・レッスンで作曲を学んだ。1944年頃からフェルドマンはシュテファン・ヴォルペのもとに通い始める。彼は途中からヴォルペに月謝を払うのをやめたが、それでも作曲のレッスンは数年間続いたらしい。初期のジョン・ケージの作品のみならず、同時代の実験音楽界隈の初演を数多く手がけたデイヴィット・チュードアもヴォルペのレッスンに通っていた。フェルドマンはエドガー・ヴァレーズからも作曲のレッスンを受けようとしたが断られてしまった。だが、月に一度程度、彼のもとを訪れていたようだ。1958年、フェルドマンは「サウンド、ノイズ、ヴァレーズ、ブーレーズ “Sound, Noise, Varèse, Boulez”」という短い文章を書いている。このエッセイは、1950年代に偶然性をとりいれたブーレーズを「…きっと彼(ブーレーズ)の成功のおかげで、ヴァレーズ、ジョン・ケージ、クリスチャン・ウォルフ、そして自分(フェルドマン)自身について耳にする機会が増えるだろう。 … and it will be thanks that we will able to hear more of Varèse, John Cage, Christian Wolff and myself.」*2 と挑発し、ヴァレーズを音ないし音響soundの物理的な現実性を知らしめてくれた唯一の音楽家として讃えている。

制御を失うその瞬間にクリスタルのような音響が地平を成す。その地平を押しわけた先には響きもなく、音色もなく、感傷もない。最初の一呼吸以外に大事なものは何も残らない−これがヴァレーズの音楽だ。ヴァレーズただ一人が、このような優雅さ、物理的な実体、音楽が作曲されるというより、むしろ人類について書き表している感覚を私たちに与えている。

And those moments when one loses control, and sound like crystals forms its own planes, and with a thrust, there is no sound, no tone, no sentiment, nothing left but the significance of our first breath—such the music of Varèse. He alone has given us this elegance, this physical reality, this impression that the music is writing about mankind rather than being composed.

Morton Feldman, Give My Regards to The Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman, Edited by B. H. Friedman, Cambridge: Exact Change, 2000, p. 2より

ここで引用した部分に限らず、フェルドマンの文章は高度な皮肉と批判精神に満ちていて、時に理解に時間を要する。彼はある意味きわめて雄弁な作曲家だったと言えるだろう。
 「Journey to the End of the Night」(1947)はフェルドマンがヴォルペのもとに通っていた時期に書かれた楽曲だと推測される。起伏の多い表出的なソプラノの旋律とアンサンブルの書法から、当時のフェルドマンが第二次ウィーン楽派の無調の語法を研究していたと想像できる。

Feldman/ Journey to the End of the Night (1947)

 フェルドマンにとって、ヴァレーズと並ぶ、もしかしするとそれ以上の重要な音楽家はやはりケージだろう。フェルドマンがケージと初めて出会ったのは1950年1月26日か27日、カーネギー・ホールでニューヨーク・フィルハーモニックの定期演奏会が行われた日である。この定期演奏会のプログラムはニューヨーク・フィルハーモニックのデジタル・アーカイヴ で見ることができる。前半がケルビーニとベートーヴェン、休憩を挟んだ後半がヴェーベルンとラフマニノフからなる、現在のオーケストラの演奏会ではあまり見られない構成だ。この中で唯一ヴェーベルンの「Symphony Op. 21 for chamber orchestra」(1927/28) が観客の大半から大きな不評を買ったようだ。しかし、フェルドマンとケージはこの曲の演奏に感銘を受けた。興奮気味のフェルドマンは以前ヴォルペの家で見かけたことのあるケージに思わず「すばらしかったですよね?Wasn’t that beautiful?」*3 と声をかけた。ヴェーベルンの曲に対する失望と退屈のあまりブーイングを送った大半の観客と異なり、ケージもこの時のフェルドマンと同じ雰囲気を発していたのだろうか。この様子を自身の文章「ライナーノート Liner Notes」*4 の中で振り返るフェルドマンの筆致がドラマティックなのでどこまで真実なのかわからないが、この瞬間にふたりは出会い、意気投合した。一方、ケージはヴェーベルンの「Symphony Op. 21 for chamber orchestra」が当時の彼にとってとても強い関心の対象だったと、1950年2月にブーレーズに宛てた手紙*5 の中で書いている。作曲家としてのフェルドマンの活動は1950年1月のケージとの出会いによって一気に加速したようにも見える。

Webern/ Symphony op. 21 for chamber orchestra (1927/28)

 フェルドマンと知り合った頃のケージは、ロウアー・マンハッタンの326モンロー・ストリートに位置するボザ・マンション Bozza Mansion(このロフトの大家の名前にちなんでこのように呼ばれていた)に住んでいた。ケージと同じ階には彫刻家のリチャード・リッポルド、詩人で画家のソニア・セクラが、その下の階にはニューヨークのネオ・ダダ芸術家レイ・ジョンソンも住んでいた。ケージと知り合ってまもなくフェルドマンはここの2階に引っ越した。やがてボザ・マンションは、美術家のロバート・ラウシェンバーグ、サリ・ディエネス、ダンサーで振付師のマース・カニングハム、詩人のM. C. リチャーズ、マース・カニングハム・ダンス・カンパニーのダンサー、キャロライン・ブラウンなど、様々な分野の芸術家が行き来する場所となった。もしかしたら、当時のボザ・マンションの様子は日本でいうところのトキワ荘(手塚治虫、赤塚不二夫、藤子不二雄、石ノ森章太郎らが住んでいた東京都豊島区南長崎にあったアパート)に近かったのかもしれない。

 作曲のレッスンのためケージのもとを訪れていたクリスチャン・ウォルフは、ボザ・マンションを訪れていた中でおそらく最年少だと思われる。フェルドマンは当時16歳だった高校生の彼を「テニスシューズのオルフェウス」と呼んでいた。彼の父親が経営する出版社パンテオン・ブックスは『易経』の英訳版を出版していた。ウォルフがケージにプレゼントした『易経』英訳版が「Music for Changes」(1951)をはじめとする偶然性の音楽誕生の一役を担ったことはよく知られたエピソードである。ケージとチュードアがボザ・マンションで出会ったことも、ここでの重要な出来事だ。1950年代から1960年代にかけてのケージのピアノ作品に欠かせない存在であるチュードアをケージに引き合わせたのは他でもなくフェルドマンだった。ケージとフェルドマンを中心に、ボザ・マンションのコミュニティは徐々に音楽版のニューヨーク・スクール結成の機運を高めていく。ケージとカニングハムの勧めで1952年にデンヴァーからアール・ブラウンがニューヨークに移り住み、ニューヨーク・スクールのメンバーが全員揃った。だが、コンピュータや電子音楽に批判的だったフェルドマンはエンジニア畑出身のブラウンを快く思っていなかったようだ。
 ボザ・マンションに集う芸術家、音楽家はコミュニティ形成にとどまらず、創作にとって実践的な影響をもたらし始めた。とりわけ音楽に関して、ここの住人だったケージとフェルドマンを介した人脈とその交流から派生した出来事は、直接的であれ間接的であれ、現時点でわかっている以外にも数多く見られたのではないかと推測できる。ボザ・マンションから外に出ると、当時のフェルドマンにはもう1つの大事な場所があった。それについては次回とりあげる。

*1 Morton Feldman, Give My Regard to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman, Edited by B. H. Friedman, Cambridge: Exact Change, 2000, p. 17
*2 Feldman, op. cit., p. 1
*3 Feldman, ibid., p. 4
*4 初出は雑誌Kulchur, Vol. 2, No. 6, summer 1962 https://fromasecretlocation.com/kulchur/ また1963年にTime Recordsから発売されたアルバム『Feldman/ Brown』のライナーノーツとして用いられた。フェルドマンの著作集 Give My Regards to The Eighth Streetに同じ文章が収録されている。
*5 The Boulez-Cage Correspondence, English version, Edited by Jean-Jacques Nattiez, translated and edited by Robert Samuels, Cambridge: The Press Syndicate of the University of Cambridge, 1993, p. 55

高橋智子
1978年仙台市生まれ。Joy DivisionとNew Orderが好きな無職。

(次回更新は5月15日の予定です)