あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(4) 五線譜による1950年代前半のなんとも言い難い曲

(筆者:高橋智子)

 前回はフェルドマンの図形楽譜の成り立ち、彼が図形楽譜で意図していた音楽、ジャクソン・ポロックの絵画技法との関係、演奏の際に生じる矛盾とデイヴィッド・チュードアによる解決方法などをとりあげた。今回はフェルドマンが図形楽譜作品と並行して作曲した1950年代前半の五線譜で書かれた楽曲について考察する。

1 「出来事」と「音それ自体」による音楽

 図形楽譜の楽曲について考える際は、上述のとおり抽象表現主義絵画からの影響、ジョン・ケージ周辺の人間関係等、耳目をひくエピソードをいくつもあげることができて話題に事欠かない。一方、五線譜で書かれたフェルドマンの1950年代前半の楽曲について考察を試みると、図形楽譜の曲と比べて楽曲とそれにまつわるエピソード共々なんとなく地味な印象だ。はっきり言ってどこから手をつけてよいのかわからない。こういう場合でも、まずはいつもどおりスコアを見ながら曲を聴き、作曲家の言説や先行研究を吟味するしかなく、今回もその手順を踏んだ。突発的に鳴らされる和音、オクターヴで重ねられた音の繰り返しといった「出来事」からフェルドマンの楽曲を基礎づけるなんらかの技法、統一性、見取り図のような要素をこれらの手順を経た先に見つけることができるのだろうか。

 楽曲の中のある部分や要素をとり出して、そこに注釈を加える際に「フレーズ」「パッセージ」「モティーフ」「テーマ」といった語がしばしば用いられるが、フェルドマンの音楽、とりわけ50年代から60年代の曲には上記の言葉よりも「出来事」という言葉が使われることが多い。この「出来事(英語圏の先行研究ではevent)」という言葉には連続する時間の感覚やイメージではなく、断続的で不規則で瞬間的な現象の意味合いが強く、1つの出来事が起きて、次に別の出来事が起きるイメージが連想される。たとえば「Intermission 5」(1952)を事前の情報や楽譜なしで聴けば、この「出来事」の感覚を想像できるだろう。

Feldman/ Intermission 5 (1952)

 この曲の特徴を手短に述べると、最初から最後までダンパー・ペダルとシフト・ペダル(una corda)を踏み続けること、pppからfffにおよぶ極端なダイナミクス、極端に広い音の跳躍をあげることができる。前半はクラスターのような和音が思わぬタイミングでいくつか鳴らされ、後半は反復パターンが9回現れる。この曲はもちろん無調だが、曲の進行に沿って現れるそれぞれの音高を並べたところで音列とその展開を見つけられるわけでもない。やはりこのような場合は「出来事」と位置付けるのが無難なのかもしれない。こうしたなんとも言い難い音楽を言語化する際、「出来事」は便利な言葉である。

 「音それ自体 (the sound itself または the sounds themselves)」もフェルドマンの初期の音楽に関して「出来事」と並んでよく用いられる表現だ。この言葉は作曲のレトリックから音を解放すること、抽象的な音の冒険、時間のキャンヴァスなどのフェルドマンの初期作品の鍵となる音楽観と結びついていて、特定の技法や様式を参照しながら楽曲を解明するのが困難な場合に持ち出される便利な表現でもある。フェルドマンはエッセイ「Predeterminate/ Indeterminate」の中で「曲を作るために伝統的に用いられてきた要素を“解放すること”でしか音はそれ自体として存在することができないだろう――記号としてでもなく、他の音楽を呼び起こす記憶としてでもなく。Only by “unfixing” the elements traditionally used to construct a piece of music could the sounds exist in themselves—not as symbols, or memories which were memories of other music to begin with.」[1]と書いている。フェルドマンがここで述べている「音がそれ自体として存在すること」は、創造行為あるいは作曲から人為性をできるだけ排すことを試み、『易経』から着想を得た偶然性をとりいれたケージの態度とも重なる。音を様々な方法で並べて1つの楽曲を構築する従来の作曲行為を前提とすると、フェルドマンがいう「音それ自体」は作曲とは相容れない概念になりうる可能性も出てくる。

 フェルドマンの初期の楽曲を演奏実践と聴取の両方から分析するHirataは「音それ自体」にまつわる疑問や矛盾を率直に表している。「“音それ自体”。すばらしいアイディアだった。もしも彼または彼女(訳注:作曲家)が慎重で、曲の中に音をどう配置するのかに細心の注意を払うならば、それらの音が曲の中に組み込まれていない場合に聴こえるのと全く同じ音を私たちは聴くことになるはずだ。“The sounds themselves.” It was a fantastic idea. That if the composer were careful, careful about how he or she put the sounds into the composition, we might hear those sounds just as we would hear them if they were not in the composition.」[2]。その後もHirataは独白を続け、「だけど、もちろん“音それ自体”を実際に聴いてはいない。“But of course we never really hear ‘the sounds themselves”」[3]ことに気づく。「本当に私たちは曲の外の音を聴くのと同じように曲の中の音を聴いているわけではない。『その前に起きたこと』は実際のところ私たちの記憶から決して消えない。“We never really hear a sound in a composition just as hear it out of the composition. ‘What happened before’ is never really erased from memory”」[4]。Hirataによるこの独白は「音それ自体」と言い出してしまった途端に従来の作曲と楽曲の概念や枠組みが成り立たなくなってしまうことを示唆している。フェルドマンが書いた音は、たとえそれが単音であっても楽曲の枠組みに収まり、フェルドマンの楽曲の体を為す。特に五線譜に書き込まれた音は、もちろん休符も同じく、どんなものであれ、少なくともそれが演奏されている時間の中では、例えば「フェルドマンの〜という曲のGの音」として認識される。「音それ自体」はフェルドマンによる単なる言葉の綾なのか。それとも後付けによる楽曲分析を交わすための予防線なのか。1950年代前半のなんとも言い難い楽曲の数々を知る近道はそう簡単に見つかりそうもないが、楽曲中の瞬発的な断片を「出来事」として片付けてしまうのではなく、また「音それ自体」という言葉にも惑わされずに、そしてあきらめずに楽曲とその背景を見ていこう。

2 フェルドマンの初期作品と十二音技法

 フェルドマンの図形楽譜の楽曲「Projections 1-5」(1950-1953)と「Intersections 1-5」(1951-1953)には音域や各パートの出現頻度に均等な分布が見られ、この要素がフェルドマンにとっての全面的なアプローチを示唆していることがわかった。前回解説したように、フェルドマンの図形楽譜の楽曲は音域だけが指定されていて、演奏ごとに音の鳴り響きが変わる不確定性の音楽だ。一方、同じ時期に作曲された五線譜の作品の大半は一部の例外を除いて[5]音高、音価、ダイナミクス、奏法などほとんどの要素が楽譜に記された「普通の」楽譜の体裁をとる。全6曲からなる「Intermissions」シリーズ1、2番目「Two Intermissions」(1950)の半音階的な音高の配置、散発的なテクスチュア、極端なくらい広い音程の跳躍は、一体どこに、または誰の音楽に起源があるのだろうか。何人かの作曲家の名前が浮かぶが、ここで真っ先に浮かぶのはアントン・ヴェーベルンだろう。フェルドマンの「Two Intermissions」は例えばヴェーベルンの「Variations op. 27」(1936)第1曲目の記譜上の見た目とよく似ている。また、フェルドマンの「Nature Piece」第5曲目の短い音価での和音、極端なダイナミクスはヴェーベルンの「Variations」第2曲目と音の響きの点で類似しており、さらにどちらの曲も短いという共通点がある。だが、フェルドマンの多くの楽曲の場合、先の「Intermissions 5」と同様、半音階的な音のまとまりを配置する十二音技法に近い要素が確かに見られるが、それらの音のまとまりは音列とは言えない方法で現れるのみで完全な音列技法には発展していない。

Feldman/ Two Intermissions (Intermission 1, Intermission 2) (1950)
Feldman/ Nature Piece 5 (1951)
Webern/ Variations op. 27 (1936)

 当時のアメリカの作曲家に十二音技法がどのような意味と有用性を持っていたのか分析したStrausによれば、彼らは十二音技法に「統一性と一貫性の源泉、局所的な音程とモティーフの整合性の源泉、長い範囲でのゴールと構造的な深さの源泉a source of unity and coherence, of local intervallic and motivic consistency, of long-range goals, and structural depth」[6]を見出した。端的にいうと彼らにとっての十二音技法は「12の音[7]の世界について体系的に考える方法だ。それは音の局所的な組み合わせと網目だけでなく、さらに大きな持続による結合と構造をもたらすアプローチである。a way of thinking systematically about the world of twelve tones. It is an approach that suggests not only local combinations and networks of tones, but also associations and structures of greater duration.」[8]。同時代のヨーロッパの動向とほぼ同じく20世紀中頃以降のアメリカの、どちらかというとアカデミックな作曲家の音楽と、後の実験的な作曲家の音楽は基本的に無調だが、全員が十二音技法の後にトータル・セリーのような急進的な方向に進んだわけではなかった。当時のアメリカの作曲家の多くは好むと好まざると十二音技法の洗礼を受けており、十二音技法ほど厳密ではなくとも何かしらの音列や、列に満たないような少数の音による音群を使った方法で作曲していた。彼らは無調とトータル・セリーの中間地点として、なおかつある程度の自分の独自性を発揮できる方法として十二音技法をとりいれていたのだろう。その背景には当時の音楽教育や徒弟制度が関係していた。もちろん、アルノルト・シェーンベルクが1934年にアメリカに移住したこともこの背景に深く関わっている。フェルドマンに限らず20世紀以降のアメリカの作曲家は西海岸、東海岸ともに音楽学校の授業や教師を通じて十二音技法を習得し、この技法を用いた習作がもはや必須とされていたともいえる。ミニマル音楽で知られるラ・モンテ・ヤングとテリー・ライリーでさえ学生時代を過ごした1950年代後半には音列で作曲していた。このような背景から、彼らの一世代前に当たるフェルドマンの1940年代、1950年代の楽曲にヴェーベルンの面影を見出すことはなんら不思議ではない。フェルドマンが作曲を独習するなかでヴェーベルンら新ヴィーン楽派の音楽に触れてことは想像できるが、彼とヴェーベルンの音楽とのさらなる接点を考えると、おそらくシュテファン・ヴォルペによるレッスンが彼の初期作品の半音階書法に大きな影響を与えたのではないだろうか。ヴォルペとフェルドマンとの師弟関係から、1950年代前半のなんとも言い難い曲を知るためのヒントがいくつか見つかるかもしれない。

3 恩師シュテファン・ヴォルペ

 フェルドマンにとってヴォルペはウォリングフォード・リーガーの次に習った2番目の作曲教師だった。フェルドマンがヴォルペにレッスンを受けていたのは1944年から1949年までで、その後はニューヨークの作曲家仲間としての付き合いが続いた。

ヴォルペ(左)と妻のオラ
By unknown in 1927Public Domain

 シュテファン・ヴォルペ Stefan Wolpe[9]は1902年ベルリンに生まれた。ベルリン高等音楽学校でモスクワ出身の作曲家パウル・ユオンに作曲と理論を学ぶ。その後、彼はヴァイマールに移り、バウハウスのコミュニティで活動した。ヴォルペがバウハウスで過ごした時期は、彼にとって視覚、動力学、聴覚といった総合的な要素で音楽を考えるきっかけとなった。彼はドイツ共産党の正式な党員ではなかったがベルリン・マルクス主義労働学校に通い、マルクス、レーニン、ヘーゲル、エンゲルスなどを読み、1929年から1933年まで社会主義運動に取り組んだ。1931年にヴォルペは労働組合の劇団Die Truppeの音楽監督に就任し、主に労働歌、頌歌、行進曲、劇音楽を作曲した。1933年にナチスが政権を取ると、ヴォルペはベルリンを追放されてヴィーンに移った。ヴィーンではヴェーベルンに十二音技法を習う。1934年にパレスチナに渡り、彼はパレスチナ音楽院で教鞭を執った。パレスチナ時代の彼はアラブ古典音楽を研究し、この頃に書かれた曲にはその要素を見ることができる。1938年のアメリカ亡命後はニューヨークに永住し、フェルドマンやデイヴィッド・チュードアらに私的な作曲レッスンを行うほか、ブラック・マウンテン・カレッジの音楽監督を務めるなど、バウハウス時代に培った異分野との共生の精神をアメリカでも発揮していた。彼はフェルドマンが熱心に通っていたニューヨークの吹き溜まり、ザ・クラブの常連として抽象表現主義の画家や詩人とも親交があった。バウハウスでの経験を持ち、ザ・クラブのような場所にも積極的に顔を出していたヴォルペの経歴と暮らしぶりもニューヨークの音楽家としてのフェルドマンのふるまい方に少なからず影響を与えていたと思われる。

 フェルドマンにとってヴォルペはどのような先生だったのだろうか。彼はヴォルペとのレッスンの様子を次のように振り返る。

シュテファン・ヴォルペのもとで作曲家としての訓練を始めた頃、私たちの全てのレッスンについてまわったテーマは、なぜ私が自分のアイディアを発展させずに、1つのアイディアから別のアイディアへと移っていくのかということだった。ヴォルペはこれを「打ち消し」として説明した。多くの作曲家、特に彼の時代の作曲家と違い、彼は私のアイディアに疑問を挟まなかったし、何らかのシステムを賞揚して私にそれを使わせようともしなかった。私はこのことにとても感謝している。なぜなら、その当時、私は様々な方法の間で揺れていて、これらを用いた戦略的な解決策が自分の直面していた問題にとても大きく貢献するだろうと思っていたことが記憶にあるからだ。

In my early training as a composer with Stefan Wolpe, the one theme persistent in all our lessons was why I did not develop my ideas but went from one thing to another. “Negation” was how Wolpe characterized this. Unlike so many composers, especially of his era, he didn’t question my ideas or extol any systems for me to use. I’m thankful for this, since at that time I remember I was dangling between various procedures whose tactical solutions were to contribute so much to this problem that confronted me.[10]

 この当時のフェルドマンの「自分のアイディアを発展させずに、1つのアイディアから別のアイディアへと移っていく」思考方法は、音列に見せかけて、実はそれを展開させることはなく、その後まったく別の要素を臆面もなくとりいれる「Intermissions 5」の構成(前半は半音階的なクラスターとパッセージ、後半は突如現れた反復パターン)と重なる。ヴォルペとの「打ち消し」に基づく対話はフェルドマンが楽曲を構成する際の思考にも反映されているといえるだろう。彼のアイディアを否定せず、彼に何かを強いることもなかったヴォルペは、まだ自分の音楽を確立できていないこの若い作曲家に何らかの確信と自信をもたらしたのかもしれない。

 フェルドマンから見たヴォルペは「彼の人格の88の音全てを用いたような人物だった。彼はコインの反対側が大好きだった。彼はいつも反対側について話していて、実際、統一された対立項によるヘーゲル的な弁証法は、本質的に、彼の生涯に一貫した作曲の哲学だった。Wolpe was the kind of man who used all eighty-eight notes of his personality. He loved what was on the opposite side of the coin. He always talked about opposites, in fact, the Hegelian dialectic of unified opposites was essentially his compositional philosophy throughout his life.」[11]。表と裏、正と反といった対立概念とその止揚の力学は、例えばヴォルペの「Set of Three Movements for Two Pianos and Six Hands」(1949)に見ることができる。

Wolpe/Set of Three Movements (1949)
*リンク先の映像では作曲年代が1951年と記されているが、Wolpe Societyの作品リストに即してここでは1949年とした。

 この曲は第1パートと第2パートが1台のピアノを共有して演奏し、第3パートがもう1台のピアノを1人で演奏する、ピアノ2台に3人の奏者の編成だ。音を聴くだけではなかなかわからないのだが、Clarksonによる分析によれば、この曲は2つの流れからできていて第1パートと第2パートが1つの流れを一緒に作り、第3パートは第1、2パートと対照的なもう1つの流れを作る[12]。 例えば冒頭の数小節は1、2パートが下行音形、第3パートが上行音形で進み、相対する2つの流れが同時に起きる。こうすることで、この曲ではどちらかの方向に偏ることのない同質的で均衡のとれたテクスチュアを維持できる。ここでの同質性や均衡はポロックやマーク・ロスコやフランツ・クラインの絵画にも通じており、さらにはフェルドマンの図形楽譜作品の音域や楽器の均等な分布にもつながるといえる。実際、フェルドマンはヴォルペのこの「反対側 opposite」と全体的なアプローチが図形楽譜と初期の五線譜の作品に影響を与えたと言っている。

ヴォルペのもとでの勉強を終えてすぐに、私はこの概念を自分の音楽に取り入れた。それは私の図形楽譜の基礎となった。(中略)あるいは、私の五線譜の初期の曲におけるオクターヴと音程の(訳注:記譜上の)外見が全体的な和声言語に対する文脈から外れている。私はこれが正確に相反するものだとは思っていない。だが、ヴォルペはコインの反対側を見るよう私に教えてくれた。

I took this overall concept with me into my own music soon after finishing my studies with Wolpe. It was the basis of my graph music. … Or, in earlier notated pieces of mine the appearance of octaves and tonal intervals out of context to the overall harmonic language. I didn’t exactly think of this as opposites–but Wolpe taught me to look on the other side of the coin.[13]

たしかにここでフェルドマンが言及しているように、彼の初期の五線譜の曲の音程の用い方は特徴的で、特定の音程(フェルドマンお気に入りの音程は7度と2度)を頻出させる傾向がある。

 ヴォルペの作曲における音程について、エリオット・カーターは興味深いエピソードを書いている。自身も講師を務めたカーターは1959年のダーリントン・ホールの夏期講習でヴォルペによる講義を聴いていた。

ピアノに座るとすぐに彼(ヴォルペ)は基本的な素材である音程がいかにすばらしいのかという瞑想に没頭した。彼はそれぞれの音程をピアノで何度もくり返して弾き、歌い、唸り、大きく、柔らかく、すばやく、ゆっくりと、短く、各々の音を別個にあるいは引き離して、それらを表現豊かにハミングしていた。この授業が終わる頃には私たちは皆、時間が経つのを忘れていた。彼が――午後の時間を全てかけて――最小の音程、短2度から最大の音程、長7度へと私たちを連れて行ってくれた時、音楽が生まれ変わり、新しい光が射し始めた。私たちは皆、この時聴いたのと同じ音楽をもう二度と聴けないことはわかっていた。シュテファンは私たちにこれらの基本的な要素の生きた力を直接体験させてくれた。それからというもの(訳注:音程に対する)無関心は考えられなくなった。私たちの多くにとって、このようなレッスンは後にも先にも経験したことがなかったはずだ。

At once, sitting at the piano, he was caught up in a meditation on how wonderful these primary materials, intervals, were; playing each over and over again on the piano, singing, roaring, humming them, loudly, softly, quickly, slowly, short and detached or drawn out and expressive. All of us forgot time passing, when the class was to finish. As he led us from the smallest one, a minor second, to the largest, a major seventh–which took all afternoon–music was reborn, new light dawned, we all knew we would never again listen to music as we had. Stefan had made each of us experience very directly the living power of these primary elements. From then on indifference was impossible. Such a lesson most of us never had before or since, I imagine.[14]

 カーターのこの描写から、ヴォルペが音楽の基本要素の1つである音程を重視していたことがわかる。それぞれの音程を様々なダイナミクスや方法で弾き、歌うことで、その音程の特性について立ち止まって考える行為は、楽曲という連続性を作る一要素としての音程の捉え方と同じではない。ヴォルペはその音程独自の響きに立ち返ることを教えたかったのだろうか。これと同じようなことをヴォルペとフェルドマンがレッスンの際にやっていたかどうかはわからないが、その音程が持つ響きを注視する姿勢はフェルドマンがいうところの「音それ自体」ととても近しい関係にある。ヴォルペのこのエピソードから、「音それ自体」という言葉が、音と音との隔たりや重なり、つまり音程とその響きの意味合いも持っているのではないかと推測される。「音それ自体」という言葉は、楽音以外の音に注意を払ってあらゆる音を聴き取るケージ的な聴取の創造性に着目した考えとも結びつきやすい。だが、ヴォルペの存在を介することで、この言葉に上記の別の可能性を見出すことができた。

 一方、ヴォルペはフェルドマンのことをどのように見ていたのだろうか。1956年のダルムシュタット夏季現代音楽講習会で行った講演の中で、ヴォルペはフェルドマンの音楽がいかにして音楽における明示的な意味や明瞭な音の輪郭を回避しているのかを説明している。

彼(フェルドマン)はできるだけ切り詰めた表面と、遠くからはほとんど聴こえないくらいの音型の痕跡に興味を持っている。おそらくそれでも多すぎるくらいだ。消滅の瀬戸際に追い込まれたこの音楽は美に対する悪魔的な試練だ。こうした理由から、素材をわかりやすく実体化させるものは何も起こらない。音高の配置によるまとまりから生じた状況は、このような曲の中ではあまりにも具体的で、はっきりしすぎていて、物質的だ。ここで素材はその自発的な生成の流れの中でかたち作られる。

He is interested in surfaces that are as spare as possible and in the remnants of shapes that can barely be heard at a distance. Perhaps even these are too many. Brought to the brink of dissolution this music is a diabolic test of beauty. Because of this, nothing happens which could lead to greater substantiation [Verstofflichung] of the material. Situations derived from sets of constellations of pitches would be much too concrete, too specific, too corporeal in such a piece. Here the material is formed in the flow of its spontaneous generation.[15]

この講演が行われた1956年という年代をふまえると、ここでヴォルペが念頭に置いているフェルドマンの楽曲は「Projection」シリーズのような音が散発的に発せられる楽曲、「できるだけやわらかく Soft as possible」と楽譜に記されている「Extensions 3」(1952)のような控えめなダイナミクスによる楽曲だと考えられる。どちらの曲もまとまった音型や輪郭の印象が希薄な音楽だ。「Extensions 3」はオクターヴの反復や7度音程が頻出する点で、当時のフェルドマンの作曲の志向と嗜好の両方を反映している。

Feldman/ Extensions 3 (1952)

 フェルドマンとヴォルペの師弟関係から、1950年代前半の五線譜で書かれたフェルドマンの楽曲の鍵となる要素の1つが音程であることがわかった。音程は取り立てて珍しいものでもなく、むしろ音楽の基本中の基本だが、ここに引用したいくつかのエピソードは「音それ自体」という言葉にさらなる具体性を与えている。

4 実はそれほど単純ではない「Piano Piece 1952」(1952)

 「音それ自体」が1音の響きだけでなく、音と音とが作り出す隔たりの中で生まれる響きの関係、つまり音程も意味するならば、「Piano Piece 1952」はこの言葉が描こうとする音や音楽に近い曲かもしれない。

 タイトルが示す通り「Piano Piece 1952」は1952年に作曲された。出版された楽譜は1曲あるいは1部で完結しているが、パウル・ザッハー財団所蔵とゲッティ・インスティチュート所蔵のいくつかのスケッチによると、この曲は当初2部構成だったようだ[16]。1962年にペータース社から初めて出版された時には既に前半部分が削除されていた。同じくペータース社から1998年に出版されたフェルドマンのピアノ曲集『Morton Feldman Solo Piano Works 1950-64』に収録された際もスケッチにおける前半部分または第1曲目は跡形もなく消えている。曲が完成してまもない1952年に行われた私的な演奏会の中でフェルドマン自身がピアノを弾いた非公式な初演が行われた。公の場での初演は1959年3月2日、ニューヨーク市にてチュードアのピアノで行われた。この2つの場での演奏では、まだ前半部分が残されていた可能性がある。

 1952年の私的な初演の観客にはクリスチャン・ウォルフとルチアーノ・ベリオがいた。その時の演奏についてウォルフは次のように回想している。

彼(フェルドマン)が演奏を終えると、隣に座っていたルチアーノ・ベリオがこの曲を「弁証法的だ」と言った。彼がどの点についてそう言ったのか思い出せないが、私はこの力作に心を打たれた。当時、私にはこの曲が典型的なヨーロッパ風の音楽に聴こえた。この曲が音のこのようなパッセージを、つまりほとんど例外なく右手から左手へと行き来しながら動き、高音域のどこかと低音域のどこかを往来する規則正しい歩調での柔らかな単音の連続を言明し、概念化しているように思えた。

After he finished, Luciano Berio, sitting next to me, said something about the piece’s “dialectic.” I don’t recall just what, but I was struck by the effort, which at the time seemed to me characteristically European, to say something, to conceptualize this passage of sounds, a soft succession, regularly paced, of single notes, moving almost without exception back and forth from right hand to left, somewhere in treble to somewhere in bass and back again.[17]

この場合もやはり「出来事」と呼びたくなる、短い音価でのすばやいパッセージを主体とする第1部[18]、単音の繰り返しによる平坦な第2部(現行の出版譜はこの部分を指す)の特性をふまえると、ベリオが演奏を聴いた直後に言った「弁証法的」という言葉はこの2つの対照関係に言及していると考えられる。ウォルフが「規則正しい歩調での柔らかな単音の連続」と描写したように、現行の「Piano Piece 1952」は拍子も小節線もなく(曲の終わりを示す終止線は引かれている)、全部で171の音符がひたすら付点四分音符で書かれている。具体的なテンポは指定されていないが、楽譜の冒頭に「全ての拍を均等にゆっくりと静かにSlowly and quietly with all beats equal」の演奏指示が記されている。右手と左手が同じ歩調を保ちながら付点四分音符を単音で交互に打鍵する。この曲は最初から最後まで様々な音高の単音が鳴らされるだけの一見極めて単調で平板な曲だが、音高、音程、音域に着目するといくつかの特徴が浮かび上がってくる。

Feldman/ Piano Piece 1952

 全171音は以下の通り。奇数番号の音は右手、偶数番号の音は左手で演奏される。音名の隣の数字は音域を示している。ピアノの鍵盤の真ん中にあたるCをC4とし、その上下のオクターヴにそれぞれ番号をつけた。たとえばC3はC4の1オクターヴ下、C6はC4の2オクターヴ上を示す。この曲の最低音は42のB0、最高音は29のF#7である。隣り合った音のオクターヴ番号が離れていればいるほど音域が離れ、跳躍の幅が広くなる。例えば59番目のC#7と60番目のG1は6オクターヴ離れていて、この曲で最も広い間隔での跳躍である。

[Piano Piece 1952]音高一覧

12345678910
E♭6A2B♭4C4C#7D2F#6F4E5F#2
11121314151617181920
G#6A4B♭5E4C#7G3B4G#2B♭6C3
21222324252627282930
E4E♭3A5B2A#6E♭4E5D3F#7E2
31323334353637383940
C4E♭1D7G#3B♭4E2F#5F3E4C3
41424344454647484950
C#6B0E♭4G♭3G6C3B♭5E4G#4D3
51525354555657585960
F6B♭2B4E3E♭5G#2G4A3C#7G1
61626364656667686970
B♭4A2D6E♭2E4G#3G6D4B4B♭2
71727374757677787980
A3G#4G6C#4E♭5C3F6F#4D5E2
81828384858687888990
A6B♭3D♭6B1A4E3D6E♭4G♭4F3
919293949596979899100
E6F#1G#5B♭2E4D3F5D♭4G4D3
101102103104105106107108109110
E♭5E4C5B3C7D3G#5B♭2D♭5E2
111112113114115116117118119120
F4D4E♭4C#4E4E♭4F6G#2F#2C4
121122123124125126127128129130
B5C#3D4A2B♭5E2A♭5C4B♭6G2
131132133134135136137138139140
C#4F3G4B2E♭5E2D6G#1E5A2
141142143144145146147148149150
G4F#3F6E6E♭7B2C5C#3E♭4E2
151152153154155156157158159160
A5F3B4C4F#6B♭2A4E♭3D6C#2
161162163164165166167168169170171
G4C4B♭3C#3D5A4B♭6E2F#4G3C#6

 実際のところ、どの視点でこれらの音高と音程を見ていくかで、この曲の特性の様相が変わってくる。Nobleの分析では111〜116までの音域の密集した動きの少ない状態を「音高プラトー pitch-plateau」と称し、これら6音が同じオクターヴ内でシンメトリー状に配置されていることを指摘している[19]。音から音へと移る際の動きとその軌跡に着目した視点からは、133〜141までの範囲で右手(奇数番号の音高)がG4からG6まで上行した後、G4に戻るかのように下行する箇所も指摘できる。一方、左手(偶数番号の音高)はB2からG#1まで下行した後、A2に上行する。これらの動きをふまえると、この範囲では右手と左手が互いに反行する線を描いていることがわかる[20]。この曲は一貫して右手が高い方の音を、左手は右手より低い音を交互に打鍵してジグザグ状の軌跡を描くが、右手と左手の音域が逆転する例外的な箇所が2つある。1つ目は71-72(A3-G#4)の2音。この前後の音を含めた70-71-72-73(B♭2-A3- G#4-G6)の4音は一直線に上行する軌跡を描く[21]。2つ目は162-163(C4- B♭3)で、ここでも左右の手が交差する。先の4音とは対照的に161-162-163-164(G4-C4- B♭3-C#3)の4音は一直線に下行する軌跡を描く[22]。このように、相反する要素を曲中に並置して均衡を図るやり方はヴォルペの「Set of Three Movements」における2つの流れを想起させると同時に、フェルドマン自身の図形楽譜の楽曲に見られる音域とパートの均衡な分布とも共通している。

 ウォルフはフェルドマンがこの曲の中で特定の音程を何度も用いていることを指摘している。例えばC#-G(減5度/増4度)は5回、A-B♭(短2度/長7度)は5回、いずれもほとんど毎回異なる音域で登場する[23]。また、彼は3-5-7番目の3音(B♭4-C#7-F#6)がB♭を異名同音のA#に読み替えると嬰ヘ長調の主和音(B♭4-F#-A#-C#)になることに気づいた[24]。これと同様の現象は50-51-52(D6-F6-B♭2)でも起きていて、これら3音は変ロ長調の主和音の構成音だ。だが、既存の方法やシステムとは違う地平での音楽を志していたフェルドマンがここで調性や和声を意識していたとは考えにくい。これらの三和音は偶発的に生まれたと考えるのが適当であろう。

 半音階的な音の配置に注目すると、上述の分析とは異なる特徴が見えてくる。この曲での極端に隔たった跳躍をオクターヴの位置関係を無視して考えた場合、実はいくつかの箇所で半音階的に隣り合った2音、3音、5音からなる3種類のグループを見つけることができる。半音階的な順次進行の箇所は表中の網かけ部分で示されている。

[半音階的に隣り合う2音]
2-3
21-22
24-25
26-27
32-33
40-41
52-53
54-55
56-57
61-62
81-82
87-88
90-91
112-113
115-116
120-121
135-136
149-150
166-167

[半音階的に隣り合う3音]
4-5-6
7-8-9
11-12-13
37-38-39
63-64-65
100-101-102
146-147-148
158-159-160

[半音階的に隣り合う5音]
141-142-143-144-145

 この表から、記譜上では音が乱高下しているように見えても実は半音階的に隣接している箇所がいくつもあることがわかる。これはオクターヴ内の跳躍では得られない音響の効果を狙った配置なのだろうか。このような音域の配置はもともと近かったものを大きく引き離して、あたかも新しい技法や新たな音の響きがもたらされているように見せるフェルドマンの戦略のひとつであるようにも思われる。この曲の内部をさらに精査すれば音列に近い音と音との関係も見えてくるかもしれない。様々な視点が考えられるなかで音高、音程、音域に注目して1950年代前半の五線譜の楽曲の中でも特になんとも言い難い「Piano Piece 1952」を掘り下げてみた。「音それ自体」という言葉にくじけそうになるが、あきらめずに音を聴き、楽譜を見れば、何かしら浮かび上がってくるのだった。

5 最もなんとも言い難い曲「Variations」(1951)

 「Piano Piece 1952」と同じくらいかそれ以上になんとも言い難い曲は他にもたくさんあるのだが、なかでも「Variations」は突出している。このピアノ曲はマース・カニングハムの同題のダンス作品「Variation」のための音楽として作曲され、カニングハムとケージに献呈されている。理由は不明だが、フェルドマンの曲は「Variations」と複数形で書かれているのに対し、カニングハムのダンスは「Variation」と題されている。1951年4月12日シアトルのワシントン大学でこのダンスが初演され、ピアノはケージが弾いた。

 二分音符=64のテンポが指定されたこの曲は1小節を2/4拍子か4/8拍子で数えることができ、ペータース版の出版譜では(4/8)と括弧書きで記されている。小節数は全部で406小節。おそらくダンスの振り付けとの関係だと思われるが、1小節目から18小節目までの全ての小節に全休符が記されている。たしかに曲は始まっているけれど、しばらくの間1音も鳴らない。曲が始まって約19秒後の19小節目にようやく「できるだけ控えめに as soft as possible」の指示とともに5音からなる装飾音が初めての音としてグリッサンドで打鍵される。その後も単音や和音がほとんど不規則な間隔で装飾音として鳴らされる。いつ音が聴こえるのかわからないという点で極めて緊張感の高い曲だともいえる。この不規則な間隔で曲が進んで行くのだが、204-244小節の間では規則正しく8小節置きに同じ和音(右手C#4-A5 左手C#4-B♭4)が6回繰り返される。初め、この和音は突発的に聴こえるが、繰り返されるうちに同じ和音が同じ間隔で反復されていることに気づいてくる。反復はいくつかの他の箇所でも見られる。例えば332-389小節では、左手のF2が1つと右手のF#5が2つからなる3音パターンが連続して3回繰り返される。353-357小節ではF7が3回立て続けに鳴らされた後にA3が挿入されて、また最後にF7が鳴らされる。途中のAは演奏者と聴き手に安住を許さないフェルドマンの思惑かもしれない。曲の終盤、402-406小節は403小節目のF#7を除いて、*のようなマークが記されている。これはピアノで打楽器的な音を出す演奏指示で、最後の5小節間はこの打撃音が4回鳴らされる。この曲ではフェルドマンが同じ要素の反復を意識的に用いていることがわかる。この反復はカニングハムのダンスの振り付けと何か関係ありそうだが、あいにくこのダンスの詳細は判明していない。この時点でのフェルドマンの反復技法は主に単音や1つの和音といった断片的な要素の反復に限られており、70年代後半以降の彼の楽曲の大きな特徴である、徐々に変化しながら繰り返されるパターンとは性格が異なる。

 数えてみたところ、全406小節中、何かしらの音や記号が書かれていて音が鳴るのは合計90小節だった。1950年代前半の楽曲におけるこのような密度の低さもフェルドマンの音楽の特徴の1つといってよいだろう。

Feldman/ Variations

 次回は1950年代後半からの楽曲をとりあげる予定だ。1950年代前半の数々の試みがその後の彼の音楽をどう変えていったのだろうか。


[1] Morton Feldman, Give My Regards to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman, Edited by B. H. Friedman, Cambridge: Exact Change, 2000, p. 35
[2] Catherine Costello Hirata, “The Sounds of the Sounds Themselves: Analyzing the Early Music of Morton Feldman”, in Perspectives of New Music, Vol. 34. No. 1 (Winter, 1996), pp. 6-7
[3] Ibid., p. 7
[4] Ibid., p. 7
[5] 1台または2台のピアノのための「Intermissions 6」(1953)は五線譜に記された15個の断片の演奏順を演奏者が決める不確定性の音楽に分類される。この五線譜は通常と違い、それぞれの断片が上下左右の全方向からランダムに配置されたモビールのような外見をしている。楽譜の上ではこれらの断片は前後のつながりを持たないので、それぞれの断片を出来事と言い換えることができる。
[6] Joseph N. Straus, Twelve-Tone Music in America, Cambridge: Cambridge University Press, 2009, p. 237
[7] 1オクターヴ内に含まれる半音の数。
[8] Straus 2009, op. cit., p. 237
[9] ヴォルペの作品リストや資料はStefan Wolpe Societyのサイトで公開されている。 http://www.wolpe.org/
[10] Feldman 2000, op. cit., p. 146
[11] この文章はWolpe Societyのサイト に、また一部がMorton Feldman Page の中でも公開されている。おそらく1983年にバッファロー大学でフェルドマンが主催したヴォルペ作品のコンサートの際のレクチャーかプログラムがこの文章の出典の可能性が高い。
[12] Austin Clarkson, “Stefan Wolpe and Abstract Expressionism”, in The New York Schools of Music and Visual Arts: John Cage, Morton Feldman, Edgard Varèse, Willem de Kooning, Jasper Johns, Robert Rauschenberg, edited by Steven Johnson, New York: Routledge, 2002, p. 86
[13] Feldman, op. cit.
[14] 1982年12月10にニューヨーク市でAustin Clarksonによって行われたインタヴュー。Wolpe Societyのサイトで公開されている。
[15] Stefan Wolpe and Austin Clarkson, “On New (And Not-so-New) Music in America”, in Journal of Music Theory, Vol. 28, No. 1, 1984, p. 25
[16] Alistair Noble, Composing Ambiguity: The Early Music of Morton Feldman, Surrey: Ashgate Publishing, 2013, p. 74
[17] Christian Wolff, “The Sound Doesn’t Look Back: On Morton Feldman’s Piano Piece 1952“, 1988/1995. https://www.cnvill.net/mfwolff2.htm#wolff5
[18] Noble 2013, op. cit., p. 75 Nobleが破棄された第1部のスケッチを復元している。
[19] Ibid., p. 88
[20] Ibid., p. 88
[21] Ibid., p. 84
[22] Ibid., p. 84
[23] Wolff 1988/1988, op. cit.
[24] Ibid.

高橋智子
1978年仙台市生まれ。Joy DivisionとNew Orderが好きな無職。

(次回更新は8月20日の予定です)

あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(3) 1950年から1953年までの図形楽譜

(筆者:高橋智子)

 前回は1951年頃からニューヨーク・スクールのサークルに出入りするようになったモートン・フェルドマンの周りで起きた出来事が彼の創作に大きな影響を及ぼした様子を振り返った。今回はフェルドマンが1950年末から1953年の間に書いた図形楽譜の作品について、いくつかの側面から考察する。

1. 図形楽譜の始まり ワイルドライスを待ちながら Waiting for wild rice

 音楽史の書籍や教科書においてフェルドマンは図形楽譜を最も早くに始めた作曲家として紹介されることが多い。特にフェルドマンの「Projection 1」(1950)とアール・ブラウンの「December 1952」(1952)は第二次世界大戦後のアメリカ音楽に関する項目での掲載頻度が高い。

Earle Brown/ December 1952

 ブラウンの「December 1952」は音高、拍子、テンポ、編成といった要素が指定されていない。

 1950年12月の末、ケージがワイルドライス[1]を料理している間、フェルドマンは後に「Projections 1」として結実する図形楽譜のスケッチを書いた。その時の様子をフェルドマンは1983年に行われたインタヴューの中で次のように振り返る。

それがどのように起こったのかわからない。実際、ジョン・ケージと同じ建物に住んでいて、彼が私をディナーに招待してくれた。ディナーの準備はまだできていなかった。ジョンは誰も知る由がないような方法でワイルドライスを料理していた。お湯が沸騰するのをひたすら待って、新たに沸騰したお湯をワイルドライスに注ぎ、それからポットもう一杯分のお湯を追加し、ワイルドライスを湯切りするなどをしていて、ワイルドライスができるまでの長い時間を私たちは待っていた。ワイルドライスを待っている間、私はケージの机にちょっと腰掛けてノートの1ページを取り出し、そこになんの考えもなしに書き始めた。私が書いたのは気ままに書きなぐったグラフ用紙の1ページだった――そこに現れたのは高・中・低のカテゴリーだった。それはまったくの無意識だった――ゆえにもちろんのこと、これについて語ったこともなかった――議論したこともなかった。

I have no idea how it came about. Actually, I was living in the same building as John Cage and he invited me to dinner. And it wasn’t ready yet. John was making wild rice the way most people don’t know how it should be made. That is, just waiting for boiling water and then putting new boiling water into the rice and then having another pot boiling and then draining the rice, etc, etc, so we were waiting a long time for the wild rice to be ready. It was while waiting for the wild rice that I just sat down at his desk and picked up a piece of notepaper and started to doodle. And what I doodled was a freely drawn page of graph paper—and what emerged were high, middle, and low categories. It was just automatic—I never had any conversation about it heretofore you know—never discussed it.[2]

 1966年に行われたフェルドマンとケージの対談によれば、この時のスケッチは同じくその日のディナーに呼ばれていたデイヴィッド・チュードアがすぐにケージのピアノで演奏した。[3] 「Projection 1」は最終的にチェロ独奏の曲として完成するが、この時点ではまだ楽器が特定されていなかったと推測できる。それからフェルドマンはこのアイディアを基にした一連の図形楽譜楽曲の作曲に取り掛かり、1950年12月末に「Projection 1」が完成する。彼の図形楽譜のアイディアに興奮したケージは約1週間かけてフェルドマンのさらに2つのスケッチを清書した。そこでできたのが2台ピアノのための「Projection 3」[4]と、ヴァイオリンとピアノのための「Projection 4」の2曲だ。この2つのスコアを見れば「ジョン・ケージの筆跡と彼が当時使っていたペンだとわかるだろう。If you look at these scores of mine, you will recognize John Cage’s handwriting and the pen he used it at that time.」[5]。以上の経緯でフェルドマンは図形楽譜のアイディアを自分の作品へと仕上げていった。「実のところ、私にはいかなる類の理論もなく、それがどのように現れようとしているのかも考えつかなかったが、もしもあの時ワイルドライスを待っていなかったら、あのようなワイルドな(突飛な)アイディアを思いつかなかっただろう。Actually I didn’t have any kind of theory and I had no idea what was going to emerge, but if I wasn’t waiting for that wild rice, I wouldn’t have had those wild ideas.」[6]とフェルドマンが言うように、図形楽譜の誕生の現場にはいくつかの偶然性が働いていたが、ここでの最大の貢献者は、おそらく一般的なレシピを無視した謎の調理方法でワイルドライスにやたら時間を費やしたケージかもしれない。もしもこの夜のメニューがすぐにできあがる料理だったら、フェルドマンの図形楽譜は生まれていなかった可能性もある。このエピソードに倣い、私たちは手持ち無沙汰の時間を大事にしなければならない。

 現在までに確認されているフェルドマンの図形楽譜による楽曲は全部で17曲。作曲年代は1950年から1953年と、1958年から1967年の2つの時期に分けられる。1954年からの約4年間の空白は、フェルドマンが図形楽譜の在り方に疑問を抱き、図形楽譜にまつわる諸問題を再考していた時期とみなされる。図形楽譜の空白期間とその間の彼の葛藤は後で改めて検討することにして、今回は1953年までの図形楽譜の楽曲を対象とする。

[図形楽譜によるフェルドマンの楽曲]

Projection 1(1950):チェロ独奏 約2分50秒
Projection 2(1951年1月3日):フルート、トランペット、ヴァイオリン、チェロ、ピアノ 約4分40秒
Projection 3(1951年1月5日):2台ピアノ 約1分30秒
Projection 4(1951年1月16日):ヴァイオリン、ピアノ 約4分40秒
Projection 5(1951年):フルート3、トランペット、チェロ3、ピアノ2 約2分10秒
Intersection 1(1951年2月):打楽器なしの管弦楽 約12分30秒
Marginal Intersection (1951年7月):管弦楽、エレクトリック・ギター、オシレーター2、事前に録音されたノイズ 約5分50秒
Intersection 2(1951年8月):ピアノ独奏 約9分
Intersection 3(1953年4月):ピアノ独奏 約2分20秒
Intersection 4(1953年11月22日):チェロ独奏 約3分

  1954年から1957年の間、図形楽譜は一時中断される。

Ixion(1958年8月):室内アンサンブル 約20分20秒
Atlantis(1959年9月28日):室内アンサンブル(2種類の編成で演奏可能) 約8分
Ixion (1960年1月):2台ピアノ 約7分20秒
…Out of ‘Last Pieces’(1961年3月):管弦楽とエレクトリック・ギター 約8分50秒
The Straits of Magellan(1961年12月):フルート、ホルン、トランペット、ピアノ、エレクトリック・ギター、コントラバス 約4分50秒
The King of Denmark(1964年8月):打楽器独奏 約5分10秒
In Search of an Orchestration(1967年):管弦楽 約7分40秒

 半数以上の楽曲の演奏時間が3〜5分程度だが、「Intersection 1」「Intersection 2」「…Out of ‘Last Pieces’」といった10分前後を要する作品も見られ、全体的にばらつきがある。「Projection」 1-5と「Intersection」 1-5は独奏と小規模なアンサンブルを中心としている。この中で最も大きな編成の「Marginal Intersection」では高周波と低周波のオシレーター2つが用いられている。フェルドマンはこの2つのオシレーターを「聞こえないが「感じ」られる。These cannot be heard, but are “felt.”」と説明している[7]。タイトルにある「marginal へりの、辺境の」もふまえると、2つのオシレーターは可聴域の際(きわ)の、聴こえるか聴こえないかの周波数に合わせるのがふさわしいのではないかとClineは指摘する[8]。だが、この曲の唯一の録音「Feldman Edition Vol. 9 Composing by Number: The Barton Workshop plays graphic scores」[9]に収録されている演奏ではオシレーターがはっきりと聴こえる周波数と音量で演奏に用いられていることから、どちらがより正統な演奏方法なのかはすぐに結論を出せない。電気による増幅や伝統的な楽器以外の音源に対して積極的ではなかったフェルドマンは「…Out of ‘Last Pieces’」「The Straits of Magellan」「Marginal Intersection」でエレクトリック・ギターを用いるなど、音色や編成の点で五線譜による楽曲には見られない試みが図形楽譜の楽曲の中でなされている。

2. 中心のない、時間のキャンヴァス

 他の作曲家による意匠に工夫を凝らした図形楽譜に比べて、グラフ用紙のマス目を基本とするフェルドマンの図形楽譜はだいぶ単純で簡素に見える。最もよく知られた「Projection 1」の冒頭はこのサイト「The art of visualizing music」で見ることができる。フェルドマンの図形楽譜におけるグラフ用紙のマス目は大抵がメトローム記号によるテンポ表示と対応している。「Projection」シリーズの場合、このマス目はさらに内部で4分割されていると見なすことができ、1つのマス目を4拍子の1小節分、その内部が1拍として数えられる。グラフ用紙の垂直方向は高・中・低の音域を指示している。具体的な音高の選択は奏者に任せられているので、奏者は指定された音域内ならどの音高を鳴らしてもよい。内部の小さなマス目にはピチカートや開放弦などの演奏記号や、そこで鳴らされるべき音の数がアラビア数字で記されていることもある。このように具体的な音高は指定されず、音域と音が鳴らされるタイミングのみが記されているフェルドマンの図形楽譜の楽曲は、方法は決まっているが結果がその都度異なる不確定性の音楽に分類される。以下の演奏では「Projection 1」の中で鳴らされる音とスコアとが同期しており、これを見ればフェルドマンの図形楽譜のおおよその読み方と、その結果生じる音響の概要をつかむことができる。実際のスコアはモノクロだが、この映像では高音域が黄色系、中音域が赤系、低音域が青系の色に色分けされている。

Projection 1

 先の「Marginal Intersection」のオシレーターの例からもわかるように、彼の図形楽譜は簡素なだけに解釈や分析に対して開かれているともいえる。フェルドマンの図形楽譜について考える場合、史実と美学の両側面からの成り立ち、主に音域の分布と音の持続に注視した楽曲の構造、解釈と演奏実践の可能性といった複数の視点が必要だ。史実については上述のワイルドライスのエピソードと前回とりあげたザ・クラブやセダー・タヴァーンでの出来事が図形楽譜の成立を考察する際のヒントとなる。美学については、前回触れた抽象表現主義絵画、とりわけキャンヴァスを床に置いてそこに絵の具や塗料を直接垂らすジャクソン・ポロックの技法がフェルドマンの図形楽譜の作業手順に直接的な影響をもたらしたと考えられる。以下は1981年に書かれたフェルドマンのエッセイ「Crippled Symmetry」からの引用である。

当時を振り返ると、私の1951年の音楽的な理念が彼の創作方法と類似していたことを今になって実感している。ポロックはキャンヴァスを床に置き、その周りを歩きながら描いた。私はグラフ用紙を壁に貼った。グラフ用紙の1枚1枚が同じ長さの時間の持続の枠にはめられ、実際に視覚的なリズム構造でもあった。ポロックと似ていたのは時間のキャンヴァスに対する私の「全面的な」アプローチだった。通常の左から右へと走るページではなくて、グラフ用紙の横方向のマス目はテンポを表している。――マス目の中のそれぞれの四角形は予め設定された音の入り[10]と等しい。垂直方向の四角形はこの曲の編成を表している。

In thinking back to that time, I realize now how much the musical ideal I had in 1951 paralleled his mode of working. Pollock placed his canvas on the ground and painted as he walked around it. I put sheets of graph paper on the wall; each sheet framed the same time duration and was, in effect, a visual rhythmic structure. What resembled Pollock was my “allover” approach to the time-canvas. Rather than the usual left-to-right passage across the page, the horizontal squares of the graph paper represented the tempo—with each box equal to a preestablished ictus; and the vertical squares were the instrumentation of the composition.[11]

 ここでフェルドマンはポロックと自身の図形楽譜との類似性を明言している。「時間のキャンヴァス」の表現に注目すると、フェルドマンが五線譜ではない媒体に音楽を書き付けた理由の一端が推測できる。一般的に、五線譜は時間の経過を左から右へと可視化する媒体だ。これまで当たり前と思われてきた五線譜の中で左から右へと流れる時間と、それに沿って音の連続体を構成することとは違う方法で音楽を作る1つの策としてフェルドマンはグラフ用紙を壁に貼ってみたのだろうか。フェルドマンがグラフ用紙で行ったのは、キャンヴァスに見立てたグラフ用紙に音を投げつける作業だったのかもしれない。グラフ用紙1枚1枚は一定の長さの時間の枠組みが規定されていて、その中で様々な方向に視線を動かすことができる。グラフ用紙のマス目を行きつ戻りつしながら音を書き付けるフェルドマンの姿はキャンヴァスの周りを歩きながら絵の具を垂らすポロックと重なる。このように考えると、フェルドマンの初めての図形楽譜作品が「Projection 投影」と題されたのも納得できるだろう。

 これまで引用してきたフェルドマンの言葉をここでもう一度考えてみると、彼は図形楽譜の誕生が無作為で、直感的で、衝動的だったと言いたげな主張を繰り返していることがわかる。一見、直感的で衝動的なポロックの絵画技法はこの当時のフェルドマンの意図と一致しているともいえる。フェルドマンは自身の音楽的な時間へのアプローチを「全面的 allover」という言葉で説明していることも、ポロックの1940年代からの作品における中心の欠如の影響だと考えられるだろう。だが、ポロックのポーリングやドリッピングの技法が全くの直感でランダムに行われていたのではなく、実は腕を動かすスピードや高さが意識されていたことを実証する研究結果が絵画研究や物理学の領域においていくつか出ている[12]。同様にフェルドマンの「Projection」シリーズと「Intersection」シリーズには、「全面的なアプローチ」と中心点の欠如を達成するための作者による微調整の痕跡を見ることができる。

 これまでフェルドマンの図形楽譜にまつわる研究といえば抽象表現主義絵画との同時代性や類似性で語られることが多かったが、Clineの『The Graph Music of Morton Feldman』はスケッチと出版譜を徹底的に分析する実証的な手法で一連の図形楽譜作品を解き明かしている。彼の分析によれば、「Projection」シリーズ、「Intersection」シリーズ、「Marginal Intersection」のそれぞれにおける音域の分布と、アンサンブルや管弦楽編成の場合はパートごとの出現頻度にある程度の均衡が見られる[13]。たとえば、ヴァイオリンとピアノのための「Projection 4」の両パート合わせた音域の分布は高音域34%、中音域34%、低音域32%。わずかな差があるものの、3つはほぼ同じ割合と言える[14]。さらにヴァイオリンとピアノとにそれぞれ割り当てられた音の数の割合はヴァイオリン52%、ピアノ48%と、ここでもやはり均衡が見られる[15]。さらにミクロな視点から、Clineの分析は「Projection 4」の全8ページの見開き2ページごとの音域とパートの分布にも同様の均衡が見られることも明らかにしている[16]。この傾向は同時期の他の図形楽譜の作品にも観測される。だが、この分析はフェルドマンが実際に各パートの記号の数を数えていたことを裏付けるわけではない[17]。「むしろ彼は幅広く均整のとれたやり方で記号(訳注:数字や音符もここでの「記号 symbols」に含まれる)を配置しようとしていて、おそらくそれぞれの音域や楽器のパートに1つずつ順番に記号を書き足していった。 It is, instead, that he meant to distribute symbols in a broadly balanced fashion, possibly by adding one symbol to each register location or instrumental part in turn. 」[18] ことがこの分析から推測される。図形楽譜における音域とパートの均衡のとれた分布から、フェルドマンが志向した「全面的なアプローチ」は演奏として鳴り響く音よりも、作曲と記譜の過程において到達されていると考えられる。

Projection 4

Projection 4

 この曲の記譜法は「Projection 1」とほぼ同じ方法で書かれているが、マス目の中に演奏すべき音の数がアラビア数字で記されている。

 慣習的な五線譜の中での一方向の流れに沿っていたら、フェルドマンが言う全面的なアプローチはできない。瞬間的、衝動的に生じた音を拾い上げて書き付けるには、彼にとっては五線譜よりグラフ用紙の方がやりやすかったのだろう。ポロックの腕のコントロールやフェルドマンの音域の均等な分布のように、たとえその実践において作者が実用的な理由で何らかの方策を内に秘めていようと、第二次世界大戦後のアメリカの芸術思潮は即興的な直感と衝動を創作の源泉としていたともいえる。このような傾向についてBelgradは自発性と間主観性の観点から次のように分析している。

戦後の自発性の主流は実存主義的な哲学の欠点をうまく回避し、主観性にまつわるより急進的な場の理論に対する支持の表れとして、実存主義的な精神と肉体の二項対立の痕跡を拒絶する。間主観性の信条と矛盾することなく、自発性は自分の素材との即興的な対話に入り込む戦略を具現した。抽象表現主義の作品に特徴的な閉じられた感覚の欠如を説明しているのは、このような対話――ギヴ・アンド・テイクが決して完結することはなく、完全な理解にも到達しない――の感覚だった。

The mainstream of postwar spontaneity eluded the shortcomings of existentialist philosophy, rejecting its vestiges of a mind/body/dichotomy in favor of a more radical field theory of subjectivity. Consistent with the tenet of intersubjectivity, spontaneity embodied a strategy of entering into improvisational dialogue with one’s materials. It was this sense of dialogue –of give-and-take never completely ended, and full understanding never completely accomplished—that accounted for the characteristic lack of closure in abstract expressionist works.[19] 

 ここで言われている間主観性は人間と人間との関係に限定されるのではなく、人間とその人の創作の素材や方法との関係だと解釈した方がこの文脈に適合すると考えられる。自分の素材と対話し、その対話を完結させず開いておく態度はフェルドマンの創作の中で「音の解放」として現れている。彼は「Projection 2」の解説で「私のここでの欲望は“作曲すること”ではなくて、音を時間に投影し、ここには必要がなかった作曲のレトリックから音を解放することだ。my desire here was not to “compose,” but to project sounds into time, free from a compositional rhetoric that had no place here.」[20]と書いている。彼の一連の図形楽譜の楽曲は演奏の場で鳴り響く音の可能性が開かれている不確定性の音楽だ。楽曲や作品の体裁を取るからには楽譜に記されて固定されているが、フェルドマンが目指していたのは、音があたかも自発的にそこに現れ、あるいは天啓のように作曲家のもとに降臨し、それをすかさず彼がグラフ用紙に書き付ける一連の流れだと想像できる。彼の図形楽譜の作品では演奏ごとに実際に聴こえてくる音が変わるので、その曲は楽曲として固定されていながらも流動性を持ち、開かれた状態を維持することができる。だが、実際の演奏の現場では作曲家が描いたこのような理想的な状況はそう簡単に実現しなかった。

3. 図形楽譜の理想と現実

 フェルドマンの意図を十分に理解し、彼が書いた通りに演奏すれば図形楽譜は当時彼が目指していた音楽を実現するのに最適な方法になるはずだったが、スムーズにことが運んだわけではなかった。図形楽譜はむしろ作曲や演奏にまつわる議論を提起している。フェルドマンの図形楽譜の楽曲に限らず、不確定性の音楽についてしばしば問題になるのが即興との違いだ。フェルドマンは図形楽譜による自分の楽曲が即興ではないことを明言している。

図形楽譜の音楽を何年か書いてみて、最も重要な欠点に気づき始めた。私は音を自由にさせているだけではなかった――演奏者にも自由を与えていたのだった。図形楽譜を即興の芸術と考えたことは一度もなく、むしろ完全に抽象的な音の冒険と思っていた。もしも演奏者がうまく演奏できなかったら、それは彼らの存在を感じさせるパッセージと連続性に私がまだ関与しているせいではないとその時理解したので、このことに気づけたのは重要だった。

After several years of writing graph music I began to discover its most important flaw. I was not only allowing the sounds to be free – I was also liberating the performer. I had never thought of the graph as an art of improvisation, but more as a totally abstract sonic adventure. This realization was important because I now understood that if the performers sounded bad it was less because I was still involved with passages and continuity that allowed their presence to be felt. [21]

 フェルドマンは作曲家と演奏者それぞれの記憶の中で固定されたパターンや連続性、演奏者の手癖を完全に排した抽象的な音楽を目指していたが、音高の選択を演奏者の任意にするだけでは彼が描いた抽象性に到達できなかった。上記の引用の中でフェルドマンは演奏の成否にも言及しているが、いったい何を基準にそれが決まるのだろうか。もしかしてフェルドマンが求めていた具体的な音の響きがあったのだろうか。理想とする音を常に鳴らしたいならば、音高を指定することによって問題はすぐに解決するはずだ。だが、それでは図形楽譜における不確定性の意味がなくなってしまう。着想と創作の段階ではさほど矛盾なく理解して共感できるフェルドマンの図形楽譜は、演奏の段階になると概念と実践両方においての課題が生じる。フェルドマンの図形楽譜のピアノ曲の初演を手がけたチュードアは当時どのようにして演奏したのだろうか。

 チュードアに献呈されたピアノ独奏のための「Intersection 3」はマス目1つあたりのテンポが176に指定されている。高・中・低それぞれの音域のマス目に書かれた数字は一度に演奏する音の数を示している。3/3、6/2といった分数の箇所では1つの音域内で2つの音の塊を作る必要がある。冒頭の中音域の3/3は中音域で3音、もう1つ別の3音の、合計6音を演奏する。曲が終盤にさしかかった369番目のマス目では高音域で10/10、中音域11/9と書かれており、速いテンポの中で一度に40の音を鳴らさないといけないことを意味する。実際の演奏では、この曲は速いテンポでのトーン・クラスターが次々展開されるわけだが、図形楽譜だけを見て、そこに記された数の音を即座に打鍵するのは超絶技巧のピアニストでも不可能だろう。チュードアはこの曲の演奏に先立って五線譜に書き換えた自分用の楽譜を作成していた[22]。チュードアがしたようにあらかじめ五線譜に書き換えておけば、時間をかけて何度も練習してすばやく精確にクラスターを打鍵することができる。これは実用的でとてもよいアイディアだが、作曲家や演奏者の記憶に束縛されない完全に抽象的な音の冒険というフェルドマンの理念との矛盾が出てきてしまう。しかし、演奏家にとっては五線譜に書き換えた楽譜があれば演奏の際の困難さが解消されるのはたしかだ。精確に演奏しようとすればするほど、五線譜に書き換えた楽譜が必須になってくる。もしも五線譜なしにこの超絶技巧の楽曲を演奏しようとするならば、速いテンポの中で指定された数の音を精確に打鍵するのは途端に困難になる。実のところ、聴き手には何が正しくて何が間違っているのか判断できないが、図形楽譜だけの演奏だとこの曲の記譜上の精確さが失われてしまうし、フェルドマンが回避しようとした即興演奏に近づいてしまうかもしれない。「Intersection 3」は作曲家が理想とする、この曲のあり方――作曲家や演奏者の記憶に束縛されない完全に抽象的な音の冒険――を追求すると、ここで要求される超絶技巧ゆえ楽譜通りの正しさから遠のいてしまうという皮肉な結果になる。

Intersection 3

 ピエール・ブーレーズは1951年12月にケージに宛てた手紙の中で、フェルドマンの図形楽譜を「退化 a regression」として批判している[23]。 特にブーレーズが批判したのはフェルドマンの図形楽譜におけるリズムの単純さだ。ブーレーズが指摘するように、指定されたテンポに即してグラフ用紙のマス目に書かれたタイミングで音を鳴らすだけでは複雑なリズムを創出することができない。フェルドマンの図形楽譜に対するブーレーズの率直な感想は「現在、私たちは音楽家であって画家ではありません。絵画は演奏されるために描かれているわけではないのです。Now, we are musicians and not painters, and pictures are not made to be performed.」[24]という一文に集約されている。

 おそらくフェルドマンも上記の矛盾や困難さを十分に自覚していたはずだ。彼はこれらをどのように解決しようとしたのだろうか。次回は同時期に書かれた五線譜の楽曲に焦点を当てて、図形楽譜作品との共通点や違いについて考えたい。


[1] イネ科マコモ属の一年草。可食部である黒い種子が米に似ているためワイルドライスと呼ばれている。
[2] Morton Feldman Says: Selected Interviews and Lectures 1964-1987, Edited by Chris Villars, London: Hyphen Press, 2006, p. 153
[3] John Cage and Morton Feldman, Radio Happenings: Conversations, Köln: Musik Texte, 1993, p. 17
[4] Morton Feldman Says, p. 153 フェルドマンは2台ピアノのための「Intersections」を挙げているが、作曲時期と編成から判断するとこの時ケージが清書したのは「Projection 3」の可能性が高い。
[5] Ibid., p. 153
[6] Ibid., p. 153
[7] Morton Feldman, Give My Regards to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman, Edited by B. H. Friedman, Cambridge: Exact Change, 2000, p. 10
[8] David Cline, The Graph Music of Morton Feldman, Cambridge: Cambridge University Press, 2016, p. 30
[9] mode 146, 2005
[10] 自身の図形楽譜に関してフェルドマンはictus(強音、アクセント)という言葉を好んで用いた。彼は音の入りやアタックを意図していたと考えられる。
[11] Feldman 2000, op. cit., p. 147
[12] ポロックの絵画技法と力学との関係についてはブラウン大学のこの記事が参考になる。Scientists reveal the physics of Jackson Pollock, https://phys.org/news/2019-10-scientists-reveal-physics-jackson-pollock.html October 30, 2019.
[13] Cline 2016, op. cit., Chapter 5, “Holism,” pp. 140-162
[14] Ibid., p. 141
[15] Ibid., p. 141
[16] Ibid., p. 156
[17] Ibid., p. 142
[18] Ibid., p. 143
[19] Daniel Belgrad, The Culture of Spontaneity: Improvisation and the Arts in Postwar America, Chicago: The University of Chicago Press, 1998, p. 10
[20] Feldman 2000, op. cit., p. 6
[21] Ibid., p. 6
[22] チュードア研究家のJohn Holzaepfelがチュードアによる五線譜の詳細を論じている。John Holzaepfel, “Painting by Numbers: The Intersections of Morton Feldman and David Tudor,” in The New York Schools of Music and Visual Arts: John Cage, Morton Feldman, Edgard Varèse, Willem de Kooning, Jasper Johns, Robert Rauschenberg, edited by Steven Johnson, New York: Routledge, 2002, pp. 159-172
[23] The Boulez-Cage Correspondence, English version, Edited by Jean-Jacques Nattiez, translated and edited by Robert Samuels, Cambridge: The Press Syndicate of the University of Cambridge, 1993, p. 115
[24] Ibid., p. 116

高橋智子
1978年仙台市生まれ。Joy DivisionとNew Orderが好きな無職。

(次回更新は7月15日の予定です)

あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(2) フェルドマンの1951年

(筆者:高橋智子)

 前回はモートン・フェルドマンがジョン・ケージと出会い、彼が当時住んでいたロウアー・マンハッタンにあったアパートメント、ボッサ・マンションに引っ越した1950年までの歩みをたどった。1950年からの数年間はフェルドマンの創作の美学、そして彼が生涯にわたって追求したと思われる「抽象的な経験」という理念(同時にそれは大きなジレンマでもあった)の礎を築いた重要な時期だ。今回は、この時期に彼が足繁く通った場所とそこで出会った人々がどれほど強烈に彼の創作に刺激を与えたかを見ていく。

1950年12月17日

 フェルドマンは1950年12月17日に「Piece for Violin and Piano」を完成させた。大部分が柔らかなタッチで打鍵されるピアノの和音と単音にヴァイオリンが呼応しながら進む、この2分足らずの小曲はシュテファン・ヴォルペのもとで作曲家修行を続けてきたフェルドマンが自身の作曲様式を前面に打ち出した作品として位置づけることができる。この曲は全体的に抑制されたダイナミクスで書かれているが、これまでの抑制された雰囲気をうち破るかのごとく、曲の終盤で突然ピアノが強烈な和音を打鍵する。楽曲の途中でのこのような突然の変化や衝撃の効果は1970年代後期からの長大な作品においてもよく見られる。

Feldman/ Piece for Violin and Piano(1950)

 1950年12月17日の出来事はこれだけではなかった。この日は作曲家連盟 League of Composerの演奏会がカーネギー・ホールで行われた。(プログラムの詳細はカーネギー・ホールのサイトを参照)このコンサートではフェルドマンの楽曲は演奏されていないが、彼はアメリカ初演されたピエール・ブーレーズの「2ème sonate pour piano」(1947)に関わっていたことがケージとブーレーズの手紙のやりとりからわかる。1949年11月頃から1954年の間、ケージとブーレーズは往復書簡のような手紙を交わしていた。2人の手紙はジャン=ジャック・ナティエの編集によって『ブーレーズ/ケージ往復書簡集 Pierre Boulez/John Cage: Correspondance et documents[1]として出版されている。自身の創作のアイディアをケージに熱く語る若きブーレーズと、フェルドマンをはじめとする当時のニューヨークの音楽シーンを紹介するケージの様子がこれらの手紙から読み取ることができる。2人の手紙から推測すると、ケージは既に1949年には「2ème sonate pour piano」の楽譜をブーレーズから受け取っていたようだ。当初ケージはウィリアム・マッセロスにこのソナタの演奏を依頼した。しかし楽曲の難易度の高さと準備期間の短さからマッセロスはこの依頼を断ってしまった。具体的な経緯は不明だが、おそらくフェルドマン経由でチュードアは既にこのソナタの楽譜を入手して練習も始めていた。彼はこのソナタの練習だけではなく、ブーレーズの論文を原語で読むためにフランス語を勉強していた。さらに彼はこの時期のブーレーズの音楽の理解の鍵となるアントナン・アルトーの本も読んでいたといわれている[2]。この事実をフェルドマンから知ったケージはチュードアにソナタの演奏を依頼する。演奏会の翌日にケージからブーレーズに書かれた手紙には、チュードアは「君と同じ25歳の、モートン・フェルドマンの友人 twenty-five, like you, and he is a friend of Morton Feldman」[3]と紹介されている。ブーレーズ不在で行われたこの演奏会の夜、興奮冷めやらぬケージ、フェルドマン、チュードアらは明け方4時まで音楽について語り合ったという。

 ブーレーズの「2ème sonate pour piano」アメリカ初演とフェルドマンとの関係はこの時期のケージ周辺のニューヨークの音楽家の状況を物語るエピソードの一端に過ぎないが、フェルドマンはケージを介して当時のダウンタウンのアーティスト・コミューンでもあり、彼らの自宅でもあったボッサ・マンションの外でも作曲家、音楽家としての人脈と活動の幅を広げていく。来たる1951年はフェルドマンの音楽家人生がさらに大きく揺さぶられる。

フェルドマンとニューヨーク・スクールの画家たち

 1951年1月、フェルドマンはMoMA(ニューヨーク近代美術館)で行われた「アメリカの抽象絵画と彫刻展 Abstract Painting and Sculpture in America」で抽象表現主義の作品を鑑賞する。展覧会の展示室の写真とカタログはMoMAのサイトから見ることができる。この展覧会は印象主義、表現主義、キュビスム、ダダイズム、未来派、デ・ステイル、構成主義、バウハウスといった19世紀末期から20世紀前半までの西洋近代絵画と芸術の潮流を概観し、その流れの行く先としてアメリカの抽象絵画を位置付けた構成だった。その後まもなく、フェルドマンはここに作品が展示されていた画家たち――フィリップ・ガストン、ウィレム・デ・クーニング、リチャード・リッポルド、ロバート・マザウェル、ジャクソン・ポロック、アド・ラインハルト、マーク・ロスコーと実際に出会い、親交を深めることとなる。以下の5曲は特にフェルドマンと親しかった画家たちの名前がタイトルに付されている。

「For Franz Kline」(1962)
「Piano Piece (Philip Guston)」(1963)
「De Kooning 」(1963)
「The Rothko Chapel」(1972)
「For Philip Guston」 (1984)

 具体的な日付はわからないが、1951年、フェルドマンはケージの誘いでセダー・タヴァーン Cedar Tavernとザ・クラブ The Clubに通い始める。先に名前をあげた画家たちの存在が彼にとって急に身近になり、フェルドマンの音楽が、よりフェルドマンらしい音楽へと発展していく。 ザ・ クラブはワシントン・スクエア・パークとニューヨーク大学に近い39 East 8th Streetに位置し、彫刻家で当時のニューヨーク前衛シーンのオーガナイザーの1人でもあったフィリップ・パヴィアやデ・クーニングらを中心として創設されたバー兼芸術家サロンだった。 ザ・ クラブから数ブロック南下するとセダー・タヴァーンがあり、距離を考えると一晩にこれら両方に行くこともできただろう。

 フェルドマンとケージがどれくらいの頻度でここに姿を現したのか、彼はエッセイ「自伝 Autobiography」の中で次のように語っている。

 ジョン(訳注:ケージ)とは音楽の話をほとんどしなかった。物事があまりにも速く動いているので、それについて話す暇もなかったくらいだ。だが、絵画については途方もなくたくさんのことを話した。ジョンと私は午後6時にセダー・タヴァーンを訪れ、ここが閉まるまでおしゃべりして、閉まってからもおしゃべりしていた。これは決して大げさな言い方ではなくて、私たちはこの生活を5年間毎日送っていた。

There was very little talk about music with John. Things were moving too fast to even talk about. But there was an incredible amount of talk about painting. John and I would drop in at the Cedar Bar at six in the afternoon and talk until it closed and after it closed. I can say without exaggeration that we did this every day for five years of our lives.[4]

彼が語る当時の様子から、フェルドマンとケージは昼夜逆転していたのかと心配になってしまう。もしもここでフェルドマンが書いていることが事実ならば、彼らにとってセダー・タヴァーンと ザ・クラブはもはや生活の一部になっていたともいえる。この特別な場所と時間について、フェルドマンは1960年頃から自身のエッセイや講演で頻繁に振り返っている。

 1950年頃から、画家のマザウェルは ザ・クラブとセダー・タヴァーンに集い、自身も含めた「創作のプロセスを通して芸術とはなんたるかを正確に見出そうとするアーティストのグループ as a group of artists that tries to find out what art is precisely through the process of making art」[5]をニューヨーク・スクール New York Schoolと名付けた。美術におけるニューヨーク・スクールの流れを受けたのが前回の終盤で少し言及したケージ、フェルドマン、クリスチャン・ウォルフ、アール・ブラウン、チュードアからなる音楽版のニューヨーク・スクール(楽派)である。個々の信念の違いはあれども、彼らは同時代に同じ場所に出入りし、根底に共通した開拓精神と実験精神を持っていた。そこで交わされたとりとめのない会話や酔った挙句の口論も含めて、彼らがアイディアを交換する場として ザ・クラブとセダー・タヴァーンは機能していたのだった。

セダー・タヴァーンの喧騒

 当時のマンハッタンには芸術家が集うサロンのような場所がいくつかあった。ブリーカー・ストリートにあったサン・レモ San Remoにはディラン・トマス、アレン・ギンズバーグ、ウィリアム・バロウズ、マイルス・デイヴィスといった面々が集っていた。サン・レモに比べて ザ・クラブやセダー・タヴァーンはどちらかというとマッチョでストレートな人々が来ていて、文学よりも美術を志向していた[6]。詩人、キュレーターで彼の理解者でもあったフランク・オハラは「サン・レモでは私たちは議論と噂話をしていて、セダーでは画家たちの議論と噂話を聞きながらよく詩を書いていた。In the San Remo we argued and gossiped: in the Cedar we often wrote poems while listening to the painters argue and gossip」[7]と当時の様子を振り返る。オハラと同じくこの空気にすっかり浸かっていたフェルドマンは、自身の創作の拠り所を音楽よりもニューヨーク・スクールの画家たちとその作品に求めるようになっていく。

 フェルドマン曰く、「新しい絵画はこれまで存在したあらゆるものより直接的、即時的、身体的な音の世界に対する欲望をかき立てた The new painting made me desired of a sound world more direct, more immediate, more physical than anything that had existed heretofore.」[8]。この中の「直接的、即時的、身体的な音の世界」を1950年代から1960年代のフェルドマンの楽曲に見出そうとするならば、旋律などの素材が有機的に結びついて生成される統一性や構造とは本質的に異なる地平の音楽だと解釈できる。フェルドマンは自分が理想とする音楽のあり方を「完全に抽象的な音の冒険 totally abstract sonic adventure」[9]とし、図形楽譜をはじめとする様々な手法でこの理想を追求した。だが、図形楽譜に関していうならば、彼は既に1950年12月末には初めての図形楽譜の楽曲「Projection 1」(1950)を作曲しているので、時系列で考えると抽象表現主義絵画とニューヨーク・スクールの画家たちとの出会いが図形楽譜考案の発端となったとは言い切れない。むしろ、自身の音楽を発展させるために彼がこれまで頭の中で渦巻いていたアイディアが抽象表現主義絵画との出会いによって言語化され、音楽として具現されたのだと考えられる(もちろん、その成否をめぐって彼は常に葛藤していたが)。その現れの一端が1950年代はじめの図形楽譜と、同時期の五線譜で書かれた散発的なテクスチュアの楽曲だと見なすことができる。

「無についてのレクチャー」と「何かについてのレクチャー」

  ザ・クラブでは毎週水曜日と金曜日の夜に公開討論会、講演、ポエトリー・リーディング、コンサートなどが行われていた。1951年2月[10]にケージは直接的にも間接的にもフェルドマンの音楽に言及した「無についてのレクチャー Lecture on Nothing」と「Lecture on Something」をここで行なった。

「無についてのレクチャー」
 「無についてのレクチャー」のテキストはケージの1940年代から50年代はじめの楽曲にしばしば見られる、数小節の和で構成されたまとまりを楽曲の1単位と見なしてそれらを配置するリズム構造の原理に基づいている。この講演は聴衆の前で原稿を読み上げる点では通常のそれと変わりないが、ケージはリズム構造を用いて自分が言葉を発する時間を制御し、加えて随所に挿入される無言の沈黙の時間と空間を用いて、この講演自体を完全に構造化している。つまり、この講演のテキストを読み上げる行為は演劇的であるともいえ、テキストは台本や脚本の性格を帯びている。2012年のケージ生誕100年にちなんで、演出家のロバート・ウィルソンはこのレクチャーを再現するパフォーマンスを行っているhttp://www.robertwilson.com/lecture-on-nothing

 「この壇上にいて 、私にはいうべきことが何もない 。」[11]から始まる「無についてのレクチャー」は全体的につかみどころのない内容だが、ケージは得意の小噺風の逸話を交えながら主に沈黙 silence、構造 structure、素材 material、ノイズ noise、方法 methodについて語る。これらはケージとフェルドマンのどちらにとっても、おそらく生涯をかけて追求した関心事であり、時に創作における大きな困難となって彼らに降りかかってきた。リズム構造によるケージ自身の楽曲と、ちょうどこの頃から始まったフェルドマンの図形楽譜の楽曲を想定すると「音楽をつくるのが 簡単だ ということは 構造の限界を受け入れ よう という意思 からきている。 構造は 考案 し理解し 計測することが できるため 簡単だ 。 」[12]の一節における「構造」に2つの意味を読み取ることができる。1つは、このレクチャーのテキスト自体にケージが施した時間と空間の制御を介して得られる完成された有機的な構造。もう1つは、西洋近代音楽の弁証法的な修辞とは異なる音楽の構造、あるいは構造の不在。前者はケージを、後者はフェルドマンを示唆している。

 全部を読み上げると約1時間を要する「無についてのレクチャー」の中にフェルドマンの名前は一度も出てこない。だが、ここでケージは、一見してわかる明瞭な構造(または何らかの規則に基づいた構造)を持たず、音の鳴らない間(ま)による沈黙が不意に現れ、どのような方法で作られているのか判然としないフェルドマンの楽曲を頭の中でイメージしていたのだろう。たしかに、たとえば「Two Intermissions for piano」(1950)を聴くと、彼の音楽は何かを表現するのではなく、何かを打ち消そうとしているように思えてくる。

Two Intermissions for piano (1950)

「何かについてのレクチャー」
 「何かと無が どうしたら対立せず、互いに必要と しあっていけるかについてだ 。」[13]とケージが冒頭で述べるように、「無についてのレクチャー」は「何かについてのレクチャー」に呼応している。ここでは無 nothing、連続性 continuity、無連続性 non-continuity、受け入れること acceptanceといった言葉が頻出する。ケージは、フェルドマンがこの時取り組んでいた図形楽譜の楽曲「Intersections」シリーズをとりあげてロマンティックな調子で賛辞を送っている。

フェルドマンは 無音について 語り 広い範囲のなかで 最初に現れる 幾音かをとりあげる。 彼は作曲家の 責任を つくることから 受け入れること へと変えた。 結果いかんに かかわらず 生じるもの を受け入れることは あらゆるもの との同一性の感覚 から もたらされる 愛を恐れぬこと あるいはその愛 で満たされる ことである。 このことによって、 フェルドマンが音の すべてと関係するというとき、意味していることが明かになり、 また 他の作曲家 がするように 特定の音符を書き込ま なくとも、何が 起こるか が予見できる。[14]

 「作曲家の責任をつくることから受け入れることへと変えた」の箇所は、不確定性の音楽においては、作曲家が主に演奏方法を楽譜や何らかの方法で指示するが、その結果がどんなものであれ作曲家は自分の作品として受け入れるという態度と解釈できる。この「受け入れること」は後のフェルドマンに不確定性の音楽と即興との境界に関する葛藤を引き起こし、1967年の図形楽譜及び不確定性の音楽の中止へとつながるのだが、1951年当時、まだフェルドマンはこのような作曲に希望と可能性を感じていた。そんな彼の姿をそばで見ていたケージは、ある種の檄文や宣伝のような意味合いを含ませながら、このレクチャーでフェルドマンを英雄的に描写している。このレクチャーをケージが催した背景をRyan Dohoneyは「ケージ、フェルドマン、ローゼンバーグと画家たちに共通する生気論の美学を共有していた証拠としてだけでなく、ケージからフェルドマンに対する友情を表すジェスチャーでもあった as not only evidence of a shared vitalist aesthetics common to Cage, Feldman, Rosenberg, and the painters, but also a gesture of friendship on Cage’s part offered to Feldman.」[15]と考えている。2人の親密な交流を通して「ケージはフェルドマンの ザ・クラブへの加入を世話して、彼の音楽を ザ・クラブに周知させた。Cage midwifed Feldman’s initiation into the Club and made his music intelligible to it.」[16] 。 Dohoneyの視点を踏まえると、この2つのレクチャーには新進作曲家モートン・フェルドマンをダウンタウンのシーンに知らしめようとしたケージの戦略的な意図が見えてくる。実際、1951年以降、このシーンにおけるフェルドマンの存在感が増していき、画家たちとの交流もさらに盛んになる。このレクチャーからしばらくした頃、フェルドマンのもとにポロックのドキュメンタリー映像の音楽の仕事が舞い込んできたのだった。

「ジャクソン・ポロックJackson Pollock」(1951)の音楽

 写真家のハンス・ネイムスは抽象表現主義の画家たちを被写体としていたが、彼らの創作過程における身体性をより鮮烈に捉えるようと映像の領域に足を踏み入れる。このシリーズの第一弾がポロックを題材として制作された約11分の映像「Jackson Pollock」で、映像プロデューサーのパウル・ファルケンベルクも制作者として名を連ねている。フェルドマンにとってはこれが初めての映画音楽となった。

Hans Namuth and Paul Falkenberg/ Jackson Pollock (1951)

 ニューヨーク州スプリングのポロックのアトリエ兼自宅の外で撮影されたこの映像は、床の上に直接置いたキャンヴァス上に、筆や棒につけた顔料を滴らせるドリッピング dripping、顔料を流し込むポーリング pouringと呼ばれるポロックの技法に焦点を当てている。ネイムスの狙いは、ポロックの作品の意味を解釈することではなくて、ポロックの作品の意味とその創作過程とを同一と見なすことだった[17]。「過程(プロセス)を作品と見なす」この考え方は、絵筆のストロークの痕跡そのものを作品とする当時の抽象表現主義絵画の様式の1つであると同時に、後に1960年代半ばからのミニマル・アートとミニマル・ミュージックに引き継がれていく。作品を生み出す過程を克明に映像に収めるため、この映像でポロックは撮影用にガラスをキャンヴァスに見立てて描いている。

 フェルドマンはこの映像のために2挺のチェロによる音楽を書いた。フェルドマンの友人、ダニエル・スターンが演奏したチェロの2つのパートが録音され、映像の中で用いられている。フェルドマンは映像のシークエンスの長さを精確に測りながら、「まるでダンス音楽を作るかのようにこの音楽を作曲した wrote the score as if I were writing music for choreography.」[18]。フェルドマンの音楽はポロック自身による独白のようなナレーションと重ならないタイミングで用いられ、以下の箇所に9回現れる。音楽のないいくつかのシーンによって映像全体に緊張感がもたらされている。いずれの場合も音楽は1〜2分の非常に短い断片で構成されている。

0:18-0:30 ポロックがガラスに自分に名前を書き込んでいる。2音の反復パターンと開放弦による持続音が非常に短いプロローグを奏でる。

3:08-4:05 高音域でのピチカートと開放弦による持続音。ポロックが素早い身のこなしで顔料をキャンヴァスに放つ様子をカメラが追う。

4:07-4:45 キャンヴァスとポロックの影が交互に切り替わるカメラの動きに音楽が同期する。長回しのシーンではチェロが音をひきのばす。

4:54-5:18 ポロックのキャンヴァスが接写される。冒頭の2音パターンの反復と類似した断片が聴こえる。

6:00-7:20 ポロックが一切のためらいも見せずガラスに筆で描いている。高音域でのピチカートが不規則な間隔でせわしなく鳴らされる。

7:28-7:52 ポロックがガラスに上に紐のようなものを配置している。持続音とピチカートが交互に鳴らされる。

7:55-8:13 ポロックがガラスの上に様々な物体を配置している。ピチカートによる和音がほぼ等間隔で鳴らされる。

8:16-8:40 ポロックが顔料を缶から直接キャンヴァスに流し込んでいる。高音域での持続音と激しく打弦されるピチカートが交互に鳴らされる。

8:41-10:01 引き続き、ポロックは素早く筆を動かす。ピチカートによる和音が激しく打弦される。ガラスに書かれたエンドロールが映し出される。

 フェルドマンがこの映像のために書いた音楽は、唐突な反復やアルコでの持続音とピチカートとの対照的な効果など、ほぼ同時期に作曲された「Structures for String Quartet」の書法と重なる部分が多い。違いを1つあげるとすれば両者のダイナミクスにある。前者(ポロックの映像のための音楽)は強めのダイナミクス、後者(「Structures for String Quartet」)は全体的に抑制されたダイナミクスが指示されている。

Structures for String Quartet(1951)

 フェルドマンがこの音楽を完成させたのは、パウル・ザッハー財団が所蔵しているスコアに記されている「1951年5月 May 1951」[19]だとわかる。音楽の依頼がフェルドマンに来た経緯には2つの説が指摘されている[20] 。1つはケージの評伝[21]に書かれているように、1941年4月頃、ポロックの妻で画家のリー・クラスナーが当初ケージに音楽を依頼したが彼は断り、その代案として彼がフェルドマンに持ちかけた説。もう1つは、フェルドマンが1981年のエッセイ「Crippled Symmetry」にて、彼がポロックから直接、音楽の依頼を受けたと書いている[22] 。どちらが正しいのか今となってはわからないが、フェルドマンが「自分のキャリアが始まったばかりだったので、これ(映画音楽の仕事)はとても光栄だった。I was very pleased about this since it was just the very beginning of my career.」[23]と述べていることから、彼にとってこの映画音楽の仕事は率直にうれしかったようだ。

 1951年はフェルドマンの周りでたくさんの出来事が起きた年である。ザ・クラブやセダー・タヴァーンでの人脈と活動はフェルドマンの創作をさらに強烈に突き動かしていく。だが、これだけではない。この年、フェルドマンは彼の名を20世紀後半のアメリカ音楽史に知らしめることになった一連の図形楽譜作品に本格的に着手する。その様子は次回とりあげる。


[1] オリジナルは Pierre Boulez/John Cage: Correspondance et documents, Winterthur: Amedeus Verlag, 1990. 1993年に英訳版が出版された。本稿が参照しているのは1999年にPress Syndicate of the University of Cambridgeから出版された英訳版。2018年には日本語訳『ブーレーズ/ケージ往復書簡集』(笠羽映子訳、みすず書房)が出版された。
[2] Morton Feldman Says: Selected Interviews and Lectures 1964-1987, edited by Chris Villars, London: Hyphen Press, 2006, p. 258
[3] The Boulez-Cage Correspondence, English version, Edited by Jean-Jacques Nattiez, translated and edited by Robert Samuels, Cambridge: The Press Syndicate of the University of Cambridge, 1993, p. 77
[4] Morton Feldman, Essays, Kerpen: Beginner Press, 1985, p. 38
[5] Jonathan W. Bernard, “Feldman’s Painters,” in The New York Schools of Music and Visual Arts: John Cage, Morton Feldman, Edgard Varèse, Willem de Kooning, Jasper Johns, Robert Rauschenberg, edited by Steven Johnson, New York: Routledge, 2002, p. 175
[6] Brad Gooch, City Poet: The Life and Times of Frank O’Hara, New York: Alfred A. Knopf, Inc, 2014, pp. 201-202
[7] Ibid., p. 202
[8] Morton Feldman, Give My Regards to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman, Edited by B. H. Friedman, Cambridge: Exact Change, 2000, p. 4
[9] Feldman 1985, op. cit., p. 38
[10] 「何かについてのレクチャー」が1951年2月9日に行われたことはケージの評伝等で明らかになっているが、「無についてのレクチャー」の日付は定かではない。ケージは「何かについてのレクチャー」において「無についてのレクチャー」に言及する際に「先週」と述べていることから、「無についてのレクチャー」が2月9日の前の週(2月の第1週)に行われたと推測できる。
[11] ケージ、前掲書p. 189。「無についてのレクチャー」「何かについてのレクチャー」ともに原書と日本語版では改行、語句の間を隔てる空間、空白のページの挿入など独自のレイアウトがなされているが、本稿では簡易的なレイアウトに留めた。
[12] 同前、p. 194
[13] 同前、p. 227
[14] 同前 pp. 228-229
[15] Ryan Dohoney, “Spontaneity, Intimacy, and Friendship in Morton Feldman’s Music of the 1950s,” Sep. 27, 2017, https://modernismmodernity.org/articles/morton-feldman, accessed April 19, 2020.
[16] Ibid.
[17] Michael Schreyach, Intention and Interpretation in Hans Namuth’s Film, Jackson Pollock, in Art and Art History Faculty Research, Trinity University, 2012, p. 3, https://digitalcommons.trinity.edu/art_faculty/?utm_source=digitalcommons.trinity.edu%2Fart_faculty%2F2&utm_medium=PDF&utm_campaign=PDFCoverPages, accessed April 29, 2020
[18] Olivia Mattis, “Morton Feldman: Music for the film Jackson Pollock (1951),” 1998, https://www.cnvill.net/mfmattis.htm accessed on April 30, 2020 におけるB.H. Friedman, Jackson Pollock: Energy Made Visible, New York, 1972; repr. 1995, p. 173.からの引用。
[19] Ibid.
[20] Ibid.
[21] David Revil, The Roaring Silence John Cage: A Life, New York: Arcade Publishing, 1992, p. 141
[22] Feldman 2000, op. cit., p. 147
[23] Feldman 2000, op. cit., p. 147

高橋智子
1978年仙台市生まれ。Joy DivisionとNew Orderが好きな無職。

(次回更新は6月15日の予定です)

あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(1)

(筆者:高橋智子)

次の一節は1951年にジョン・ケージがモートン・フェルドマンの音楽について語った「何かについてのレクチャー Lecture on something」からの抜粋である。ここでケージが言おうとしていることの真意をどう解釈すべきか、すぐに答えは出ないが、彼の言葉には妙な説得力がある。

人生はモーティ・ フェルドマンの 曲のように進む。
偶然鳴った 音が面白くなかったと 異論を唱える人も いるかもしれない。
言わせておけ。 今度その曲を聴いた時には、 もっと面白くないか、
突然興奮 するか、いずれにせよ 違っているだろう 。 たぶん
悲惨だろう。 誰がかって ? その人だ。 フェルドマンのことじゃない。 

柿沼敏江訳『サイレンス』水声社、1996年、p. 232より

Feldman/ For Bunita Marcus (1985)

フェルドマンの音楽は難しい

 いうまでもなく、音楽の聴き方や解釈(ここには楽譜を読むことや演奏も含まれる)の方法や可能性は無限だ。ある楽曲や音響に第一印象で心を奪われる場合もあるし、何度か聴いていくうちにどんどんはまり込むこともあるだろう。もちろんこれは本稿でとりあげるモートン・フェルドマンの音楽についても同じだ。たとえば1950年代に書かれたフェルドマンのピアノ独奏曲や1960年代の比較的小規模な室内楽曲に接して、聴き手は、最小限に抑えられたダイナミクスを伴って展開される繊細で官能的な音の世界に魅了されるかもしれない。あるいは、深い黙想に誘う音楽として聴かれるかもしれない。フェルドマンの音楽に対して私たちが抱く印象は様々だが、筆者には、彼の音楽が右から左へと聴き流すことは到底できない、ひっかかりのようなものを常に投げかけてくるように感じられる。この「ひっかかりのようなもの」は、少数の音で構成された音型や、特定の音程の反復などの技術的な特性と、それによる音響的な効果に由来するのだと頭の中ではわかっているはずだ。だが、なぜ「For Bunita Marcus」(1985) 冒頭のC#とDの連打がフェルドマンの音楽として響くのか、その根拠は実のところよくわからない。その響きは作曲家が直感で書き、その結果として偶発的に生じたものなのか。それとも綿密な計算を経て結実したものなのか。彼が記した一音一音には、さらには音と音との空白や沈黙にさえ、理論や技法を論じただけでは量り得ない、だからといって安易な言葉のレトリックに逃げるのを許さない強固で厳しい何かがある。先にフェルドマンの音楽について「最小限に抑えられたダイナミクスを伴って展開される繊細で官能的な音の世界」と書いてしまったが、言葉を尽くして説明しようとすればするほど核心から遠ざかっていくような無力感に襲われる。さすが、サミュエル・ベケットを敬愛した作曲家だ。
 作曲家の発言を鵜呑みにするのは得策ではないものの、フェルドマンは「自分自身についていえば、私の楽曲にまつわる言説のほとんどは後付けであって、方法論についての技術的な議論も大きな誤解を招くだろう。For myself, most of my observations about my work are after the fact, and a technical discussion of my methodology would be quite misleading.」*1と記し、自発的あるいは、少しまじめに彼の音楽を聴いたり、演奏したり、研究しようとする人々を挑発する。だが、実際には既に多くの研究書や論文が刊行されており、楽曲分析にはピッチクラス理論などの分析手法が用いられている。したがって、フェルドマンの楽曲を分析することは不可能ではないし、珍しいことでもない。フェルドマンにとっての「誤解」が誰かにとっての理解の助けになっているのは確かだ。
 今ここで書いている内容とこれから書こうとしている事柄もフェルドマン自身にとっては誤解のひとつに過ぎないかもしれない。しかし、この作曲家とその音楽について、彼が書いた楽曲とそこからかろうじて観察できるなんらかの技術的、理論的な側面だけでなく、交友関係や好きな画家といった情報も合わせて知っておくことは決して無駄ではないと信じたい。
 無調からさらに発展した、およそ第二次世界大戦後からの芸術音楽(広い意味でのクラシック音楽といってもよいし、いわゆる現代音楽の枠組みで語ることもできる)にはその時代、地域、技法等に基づくいくつかの潮流が見られる。たとえばトータル・セリー主義の視点からこの時代を俯瞰した場合、真っ先に浮かぶのはピエール・ブーレーズ、ルイジ・ノーノ、カールハインツ・シュトックハウゼンらのダルムシュタット楽派だろう。
 彼らとほぼ同時代のフェルドマンについて考える場合、作曲家としての活動を始めた1940年代から没年の1987年までの年代、アメリカ合衆国の主に東海岸(ニューヨーク市とバッファロー市)、図形楽譜や持続の自由な楽曲(音符の符尾が記されておらず、奏者の任意で音の長さが定められる)における不確定性などが挙げられる。彼が自身のスタイルを確立する上で頻繁に言及される音楽関連の人物は、主にアントン・ヴェーベルン、エドガー・ヴァレーズ、シュテファン・ヴォルペ、デイヴィッド・チュードア、クリスチャン・ウォルフ、ジョン・ケージ、アール・ブラウン、ピエール・ブーレーズ、カールハインツ・シュトックハウゼンといった面々だ。また、フェルドマンはニューヨーク・スクールおよび抽象表現主義の美術家から創作のインスピレーションを得ていた。彼にとって、その影響はもしかしすると音楽家よりも大きなものだったかもしれない。フェルドマンはジャクソン・ポロック、ウィレム・デ・クーニング、フィリップ・ガストン、マーク・ロスコ、フランツ・クラインにまつわる楽曲を書いている。フェルドマンの音楽の理解者として、詩人のフランク・オハラの存在も忘れることができない。文学ではベケットからの影響が最も大きく、フェルドマン唯一のオペラ『Neither』(1977) のテキスト(脚本と呼ぶにはとても短い散文詩のようなもの)は彼のたっての願いでベケットが書いている。また、1970年代後半から始まる長時間の楽曲は、彼が1976年に訪れたイランを中心とする中東地域の絨毯の存在なしに語れないだろう。
 以上、フェルドマンの音楽と結びつきの深い人物と事物をごく簡単に列挙してみた。これらは彼の音楽に関する基礎知識に過ぎないのだが、それ故に逐一立ち止まる必要がある。この連載でそれぞれをどの程度とりあげることができるのか、まだはっきりとわからないが、筆者はどの一つも省けないほど全てが大事だと考えている。

記譜法と作品年代

 現時点でわかっているフェルドマンの楽曲数は未発表や未完成のおよそ50曲も含めると約200。本稿が参照した作品リストの最新版はクリス・ヴィラーズ Chris Villarsが運営しているMorton Feldman Page(https://www.cnvill.net/mfhome.htm)に
掲載されており、このリストは現在も更新されている。ピアノ独奏曲が36、デュオ、あるいは3台または3人以上のピアノによるアンサンブルによる楽曲が11曲、ピアノと他の楽器との室内楽編成の楽曲が51と、全体的にピアノを用いた楽曲の割合が高い。あまり知られていないがフェルドマンはテープ音楽「Intersection for Magnetic Tape」(1953) を1つ作っている。作品を年代ごとに大まかに区切ると、1943−49年頃までを習作期とみなすことができる。それ以降は1950−56年頃、1957−62年頃、1963−69年頃、1970−1977年頃、1978年から没年の1987年。この区分の根拠は様式の変化に基づいているが、特にフェルドマンの場合は記譜法が作品変遷を検討する際の鍵となる。

Feldman / Intersection for Magnetic Tape

[習作期]
1943-1949
作曲年代が確定されている最も古いものは1943年(フェルドマン16歳)にさかのぼるが、この年に作曲された4曲のうち「First Piano Sonata[to Bela Bartok]」(1943) 以外は未出版、未録音である。

[初期]
1950−56年
この時期は五線譜によるピアノの小品が多いと同時にフェルドマンは図形楽譜の楽曲を書き始める。グラフ用紙の升目による『Projections 1-5』(1950-51)はおそらく最もよく知られているフェルドマンの楽譜の1つだろう。

1957-62年
「Piece for four Pianos」(1957)、「Piano Four Hands 」(1958)、『Durations 1-5』 (1960-61)など、1957年頃から持続の自由な楽譜が頻繁に用いられる。

[中期]
1963−69年
この時期は持続の自由な楽譜がさらに発展し、『Vertical Thoughts 1-5』(1963)のようにそれぞれの音(パート)の演奏順番を破線で記した記譜法が用いられる。「The King of Denmark」(1964)など、図形楽譜は奏法や音色を細かく指定することで50年代よりも複雑になった。フェルドマンは様々な限界と疑問から「In Search of an Orchestration」(1967)で図形楽譜をやめてしまう。

1970-77年
この時期以降から晩年までの記譜法はほとんどが通常の五線譜である。ここでの大きな変化は『Viola in My Life 1-4』(1970-71)、『The Rothko Chapel』(1971)。「String Quartet and Orchestra」(1973)、「Piano and Orchestra」(1975)、といった、ソロ楽器や独立したセクションとオーケストラによる編成のシリーズが始まる。

[後期]
1978−82年
楽譜の外見のテクスチュアがさらに緻密になり、フェルドマンが収集していた中東の絨毯の影響が顕著になる。「String Quartet No. l」(1979)、「Patterns in a Chromatic Field」(1981)、「For John Cage」(1982)など演奏を時間が1時間を超える作品が書かれる。

1983−87年
約5〜7時間の「String Quartet No. 2」(1983)、約4時間半の「For Philip Guston」(1984) など、さらに長時間の楽曲が書かれる。

 様々な視点があるが、記譜法に着目してフェルドマンの楽曲とその様式変遷をごく簡単に概観してみた。もちろん、この変化の様子は当時のフェルドマンが暮らした環境、出会った人物、夢中になっていたものなどと深く関わっている。

生い立ちからジョン・ケージに出会うまで

Morton Feldman, Amsterdam 1976

 今回はフェルドマンの1950年代前半、つまりケージらと出会った当時までたどる。執筆にあたりSebastian Claren, Neither: Die Musik Morton Feldmans, Berlin: Wolke Verlag, 2000巻末のフェルドマン年表と、その英訳版(インタヴューとレクチャー集、Morton Feldman Says: Selected Interviews and Lectures 1964-1987, Edited by Chris Villars, London: Hyphen Press, 2006所収)を参照した。
 モートン・フェルドマン Morton Feldmanは1926年1月12日ニューヨーク市マンハッタン区で生まれ、ブロンクス区で育った。両親は子供の頃にニューヨークに移住したロシア系ユダヤ人。父アーヴィングは兄(フェルドマンの叔父にあたる)が経営する子供服工場で働いていたが途中で独立した。1972年にニューヨーク大学バッファロー校の教授職に就くまで、フェルドマンは父が起した子供用マント会社で働いて生計を立てていた。彼が家業と作曲家業とを掛け持ちしていたことは、フェルドマン自身のインタヴューやエッセイであまり語られていない。
 1935年、9歳のフェルドマンは作曲を始める。これがどんな曲だったのか、具体的な手がかりは今のところ明らかではない。同時期にマンハッタンのロウアー・イースト・サイドでピアノを習い始める。本格的なピアノのレッスンは1938年、フェルドマンが12歳になってからで、彼にとっての初めてのピアノ教師はヴェラ・モーリナ・プレスだった。彼女はロシアでフェルッチョ・ブゾーニなどにピアノを師事した後、ニューヨークに亡命したピアニストだ。フェルドマンは自分のやりたいように音楽をやらせてくれたプレスを尊敬しており、1970年には彼女への追悼として「Madame Press died last week at ninety」を作曲した。1941年、15歳のフェルドマンはアメリカにおける十二音技法の先駆者の一人、ウォーリングフォード・リーガーに作曲を習い始め、対位法などを勉強した。当時通っていた芸術高校 Music and Arts High School 時代のクラスメイトにはシーモア・シフリンがいた。彼は後にUCLAバークレー校時代のラ・モンテ・ヤングの指導教員になった。ここに1950年代半ば以降のアメリカ実験音楽界隈の奇妙なつながりの一端を見ることができる。
 高校卒業後、フェルドマンはニューヨーク大学の入学試験を受けに行くも、他の受験生を見て自分には合わないと感じ、試験を受けずに部屋から出て行ってしまう。以降、フェルドマンは引き続きプライヴェート・レッスンで作曲を学んだ。1944年頃からフェルドマンはシュテファン・ヴォルペのもとに通い始める。彼は途中からヴォルペに月謝を払うのをやめたが、それでも作曲のレッスンは数年間続いたらしい。初期のジョン・ケージの作品のみならず、同時代の実験音楽界隈の初演を数多く手がけたデイヴィット・チュードアもヴォルペのレッスンに通っていた。フェルドマンはエドガー・ヴァレーズからも作曲のレッスンを受けようとしたが断られてしまった。だが、月に一度程度、彼のもとを訪れていたようだ。1958年、フェルドマンは「サウンド、ノイズ、ヴァレーズ、ブーレーズ “Sound, Noise, Varèse, Boulez”」という短い文章を書いている。このエッセイは、1950年代に偶然性をとりいれたブーレーズを「…きっと彼(ブーレーズ)の成功のおかげで、ヴァレーズ、ジョン・ケージ、クリスチャン・ウォルフ、そして自分(フェルドマン)自身について耳にする機会が増えるだろう。 … and it will be thanks that we will able to hear more of Varèse, John Cage, Christian Wolff and myself.」*2 と挑発し、ヴァレーズを音ないし音響soundの物理的な現実性を知らしめてくれた唯一の音楽家として讃えている。

制御を失うその瞬間にクリスタルのような音響が地平を成す。その地平を押しわけた先には響きもなく、音色もなく、感傷もない。最初の一呼吸以外に大事なものは何も残らない−これがヴァレーズの音楽だ。ヴァレーズただ一人が、このような優雅さ、物理的な実体、音楽が作曲されるというより、むしろ人類について書き表している感覚を私たちに与えている。

And those moments when one loses control, and sound like crystals forms its own planes, and with a thrust, there is no sound, no tone, no sentiment, nothing left but the significance of our first breath—such the music of Varèse. He alone has given us this elegance, this physical reality, this impression that the music is writing about mankind rather than being composed.

Morton Feldman, Give My Regards to The Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman, Edited by B. H. Friedman, Cambridge: Exact Change, 2000, p. 2より

ここで引用した部分に限らず、フェルドマンの文章は高度な皮肉と批判精神に満ちていて、時に理解に時間を要する。彼はある意味きわめて雄弁な作曲家だったと言えるだろう。
 「Journey to the End of the Night」(1947)はフェルドマンがヴォルペのもとに通っていた時期に書かれた楽曲だと推測される。起伏の多い表出的なソプラノの旋律とアンサンブルの書法から、当時のフェルドマンが第二次ウィーン楽派の無調の語法を研究していたと想像できる。

Feldman/ Journey to the End of the Night (1947)

 フェルドマンにとって、ヴァレーズと並ぶ、もしかしするとそれ以上の重要な音楽家はやはりケージだろう。フェルドマンがケージと初めて出会ったのは1950年1月26日か27日、カーネギー・ホールでニューヨーク・フィルハーモニックの定期演奏会が行われた日である。この定期演奏会のプログラムはニューヨーク・フィルハーモニックのデジタル・アーカイヴ で見ることができる。前半がケルビーニとベートーヴェン、休憩を挟んだ後半がヴェーベルンとラフマニノフからなる、現在のオーケストラの演奏会ではあまり見られない構成だ。この中で唯一ヴェーベルンの「Symphony Op. 21 for chamber orchestra」(1927/28) が観客の大半から大きな不評を買ったようだ。しかし、フェルドマンとケージはこの曲の演奏に感銘を受けた。興奮気味のフェルドマンは以前ヴォルペの家で見かけたことのあるケージに思わず「すばらしかったですよね?Wasn’t that beautiful?」*3 と声をかけた。ヴェーベルンの曲に対する失望と退屈のあまりブーイングを送った大半の観客と異なり、ケージもこの時のフェルドマンと同じ雰囲気を発していたのだろうか。この様子を自身の文章「ライナーノート Liner Notes」*4 の中で振り返るフェルドマンの筆致がドラマティックなのでどこまで真実なのかわからないが、この瞬間にふたりは出会い、意気投合した。一方、ケージはヴェーベルンの「Symphony Op. 21 for chamber orchestra」が当時の彼にとってとても強い関心の対象だったと、1950年2月にブーレーズに宛てた手紙*5 の中で書いている。作曲家としてのフェルドマンの活動は1950年1月のケージとの出会いによって一気に加速したようにも見える。

Webern/ Symphony op. 21 for chamber orchestra (1927/28)

 フェルドマンと知り合った頃のケージは、ロウアー・マンハッタンの326モンロー・ストリートに位置するボザ・マンション Bozza Mansion(このロフトの大家の名前にちなんでこのように呼ばれていた)に住んでいた。ケージと同じ階には彫刻家のリチャード・リッポルド、詩人で画家のソニア・セクラが、その下の階にはニューヨークのネオ・ダダ芸術家レイ・ジョンソンも住んでいた。ケージと知り合ってまもなくフェルドマンはここの2階に引っ越した。やがてボザ・マンションは、美術家のロバート・ラウシェンバーグ、サリ・ディエネス、ダンサーで振付師のマース・カニングハム、詩人のM. C. リチャーズ、マース・カニングハム・ダンス・カンパニーのダンサー、キャロライン・ブラウンなど、様々な分野の芸術家が行き来する場所となった。もしかしたら、当時のボザ・マンションの様子は日本でいうところのトキワ荘(手塚治虫、赤塚不二夫、藤子不二雄、石ノ森章太郎らが住んでいた東京都豊島区南長崎にあったアパート)に近かったのかもしれない。

 作曲のレッスンのためケージのもとを訪れていたクリスチャン・ウォルフは、ボザ・マンションを訪れていた中でおそらく最年少だと思われる。フェルドマンは当時16歳だった高校生の彼を「テニスシューズのオルフェウス」と呼んでいた。彼の父親が経営する出版社パンテオン・ブックスは『易経』の英訳版を出版していた。ウォルフがケージにプレゼントした『易経』英訳版が「Music for Changes」(1951)をはじめとする偶然性の音楽誕生の一役を担ったことはよく知られたエピソードである。ケージとチュードアがボザ・マンションで出会ったことも、ここでの重要な出来事だ。1950年代から1960年代にかけてのケージのピアノ作品に欠かせない存在であるチュードアをケージに引き合わせたのは他でもなくフェルドマンだった。ケージとフェルドマンを中心に、ボザ・マンションのコミュニティは徐々に音楽版のニューヨーク・スクール結成の機運を高めていく。ケージとカニングハムの勧めで1952年にデンヴァーからアール・ブラウンがニューヨークに移り住み、ニューヨーク・スクールのメンバーが全員揃った。だが、コンピュータや電子音楽に批判的だったフェルドマンはエンジニア畑出身のブラウンを快く思っていなかったようだ。
 ボザ・マンションに集う芸術家、音楽家はコミュニティ形成にとどまらず、創作にとって実践的な影響をもたらし始めた。とりわけ音楽に関して、ここの住人だったケージとフェルドマンを介した人脈とその交流から派生した出来事は、直接的であれ間接的であれ、現時点でわかっている以外にも数多く見られたのではないかと推測できる。ボザ・マンションから外に出ると、当時のフェルドマンにはもう1つの大事な場所があった。それについては次回とりあげる。

*1 Morton Feldman, Give My Regard to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman, Edited by B. H. Friedman, Cambridge: Exact Change, 2000, p. 17
*2 Feldman, op. cit., p. 1
*3 Feldman, ibid., p. 4
*4 初出は雑誌Kulchur, Vol. 2, No. 6, summer 1962 https://fromasecretlocation.com/kulchur/ また1963年にTime Recordsから発売されたアルバム『Feldman/ Brown』のライナーノーツとして用いられた。フェルドマンの著作集 Give My Regards to The Eighth Streetに同じ文章が収録されている。
*5 The Boulez-Cage Correspondence, English version, Edited by Jean-Jacques Nattiez, translated and edited by Robert Samuels, Cambridge: The Press Syndicate of the University of Cambridge, 1993, p. 55

高橋智子
1978年仙台市生まれ。Joy DivisionとNew Orderが好きな無職。

(次回更新は5月15日の予定です)