あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(14) 不揃いなシンメトリー -2

2. 絨毯からの影響 1970年代後半から1980年にかけての楽曲の変化

 絨毯の結び目の種類、織り方、染色、パターンによる構成についての知識が深まるにつれて、フェルドマンは絨毯の技術や製法に引きつけて自分の創作を思索し始める。先のセクションに引き続き、「不揃いなシンメトリー Crippled Symmetry」の概念の解釈の可能性を探りながら、絨毯が彼の楽曲に与えた影響を考える。

 オペラ「Neither」のローマでの初演を終えた1977年夏にイランのシラーズを訪れて以来、フェルドマンが絨毯に熱中し始めたのは既述した通りだ。「Neither」以降のフェルドマンのどの楽曲に絨毯の影響が現れてきたのだろうか。フェルドマンは1983年に行われたインタヴューで次のように語っている。

古い中東の絨毯では染料が少量しか作られないので、これらの染料の色の変化によって絨毯全体に不完全さが広がってしまう。ほとんどの人はこれらの色の変化を不完全だと感じている。それにもかかわらず、絨毯をすばらしいものにしているのは、これらの少量の染料の群がりの上にできる光の反映だ。私はこれを、調子を合わせることと調子を外すこととして解釈している。絨毯のこのやり方には名前がある――アブラッシュと呼ばれている――色の変化は「Instruments III」[1](1977)のような曲へと導く。この曲は私の絨毯のアイディアの始まりだった。

In older oriental rugs the dyes are made in small amounts and so what happens is that there is an imperfection throughout the rug of changing colors of these dyes. Most people feel that they are imperfections. Actually it is the refraction of the light on these small dye batches that makes the rugs wonderful. I interpreted this as going in and out of tune. There is a name for that in rugs – it’s called abrash – a change of colors that leads us into pieces like Instruments 3 [1977] which was the beginning of my rug idea.[2]

 ここでフェルドマンは「Instrumental 3」が絨毯に着想を得た最初の曲だと明言している。この曲で彼は、少量の染料が醸し出すグラデーション効果、アブラッシュの技術を音楽で初めて試みる。

Feldman/ Instrumental 3
https://www.universaledition.com/morton-feldman-220/works/instruments-3-2898
Universal Editionのサイトで2分間試聴できる。

 編成はフルート(アルト・フルートとピッコロ兼)、オーボエ(コール・アングレ兼)、打楽器(グロッケンシュピール、トライアングル、サスペンド・シンバル3)で、3人の奏者で演奏される。演奏時間は約15分。UEのサイトで聴くことのできる2分間では、サスペンド・シンバルのトレモロ風の連打とその残響が滲み出るグラデーションのイメージを掻き立てる。アルト・フルートとイングリッシュ・ホルンの音の引きのばし、重なり、行き交わしはサスペンド・シンバルによるグラデーションの上で展開される柄やパターンに喩えられる。木管楽器の後を追うように鳴らされる煌びやかなグロッケンシュピールの音色は光の反映だろうか。やや強引ではあるが、絨毯におけるアブラッシュの効果をふまえると、この曲を以上のように描写できる。

 オペラ「Neither」の作曲を経て、「Instruments 3」と同じく1977年に作曲されたピアノ独奏曲、その名も「Piano」にも絨毯からの影響がうかがわれる。この曲の演奏時間は約25分。フェルドマンがピアノ独奏曲を作曲するのは1964年の「Piano Piece (1964)」以来13年ぶりだ。

Feldman/ Piano

 「Piano」でのフェルドマンの主な関心事として、パターンとその配置、ヴァリエーションと反復、不揃いなシンメトリー crippled symmetryの概念があげられる。Paula Kopstic Amesは絨毯がこの曲に与えた影響について次のように述べている。「絨毯の配色がフェルドマンの反復とヴァリエーションに類似性を見出している。後者は声部の再構成、半音階的な変更、音域の再配置を含む。絨毯のパターンの不規則な配置が音楽の不規則な足取りへと変換されている。The rugs’ coloration finds its analogue in Feldman’s repetitions and variations. The latter include revoicings, chromatic alterations and reregistrations. The irregular placement of the rugs’ patterns translates into irregular musical pacing.」[3] 1つの和音やモティーフを繰り返すたびに構成音の音域や音高を微かに変化させる手法は、これまでのフェルドマンの楽曲にもとても頻繁に見られた。絨毯との出会いによってこれらに新たに加わった特徴があるならば、それはフェルドマン独自のシンメトリーの概念だろう。フェルドマンが提唱する「不揃いなシンメトリー」は、シンメトリーの枠組み内での不規則、不完全、不均衡といった、シンメトリーの概念と矛盾する要素をむしろ肯定的に内包しているのだった。

フェルドマンにとって、シンメトリーは2つの意味を持っていた。ひとつは、完璧に均整のとれた対象(または構造やパターン)。もうひとつの見方は、他の対象との位置関係。規則的な間隔に見えたならば、それは対称的だ。このようなシンメトリーは周期性を示し、音楽の場合は予測可能なリズムのパルスを意味する。この文脈は強力な参照基準を聴き手にもたらす。フェルドマンがシンメトリーを「不揃いにした」時、彼は対象(パターン)とその配置両方に関してそれを行ったのだ。「不規則な時間の間隔は……パターン作りの際の緊密な結びつきの側面を弱めてしまう」ので、予測不可能性の要素をもたらす。しかしながら、シンメトリーを変えるには限度がある。特定の範囲を超えると、参照点が消滅してしまう。

To Feldman, symmetry had two meanings: the standard view of a perfectly balanced object (or structure or pattern), and an additional view of its placement in relation to other objects. If it appears at regular intervals, it is symmetric. Such symmetry implies periodicity, and in music, a predictable rhythmic pulse. This context provides a strong standard of reference for the listener. When Feldman “crippled” the symmetry he did so with regards to both the object (pattern) and its placement. Placement at “irregular time intervals… diminish(es) the close-knit aspect of patterning,” and provides the element of unpredictability. However, symmetry can be altered only so much; beyond a certain limit, the standard of reference dissipates.[4]

 前のセクションで、音楽におけるシンメトリーの概念は聴取よりも記譜や楽譜の中で捉える視覚的な性格が強いのではないかと考察した。だが、フェルドマンの発言(引用文中「 」および“  ”はAmesによるインタヴューでのフェルドマンの発言)をふまえたAmesの解釈を読むと、彼のシンメトリーの概念は必ずしも記譜や楽譜の外見に限ったことではない。フェルドマンのシンメトリーの概念は、その音楽に対する記憶や期待(文中では「参照点」と呼ばれている)と結びつけられた規則性と不規則性、予測可能性と予測不可能性の要素に関わっているのだとわかる。これらの要素は、聴き手がその音楽を聴いている時に経験する時間と空間の性質にも関わっているといえるだろう。絨毯におけるシンメトリーは外見、つまり視覚に関わる、どちらかというと即物的、物理的な事柄だ。一方、音楽におけるシンメトリーは聴き手の記憶に依拠しているので把握し難い。フェルドマンが絨毯の技術から学んだのは、シンメトリーの枠組みを維持しながら最大限に逸脱する際のさじ加減だったのかもしれない。

 「Piano」のテンポは♩=約63。全29ページで構成される出版譜には小節番号や練習番号が付されていないが、フェルドマンのスケッチと1982年に行ったフェルドマンへのインタヴューに基づいたAmesによる分析では、スケッチの段階でフェルドマンが全体を55に区切っていたことが明らかにされている。[5] Amesはこれらの区切りを「システム system」と呼ぶ(本稿では曲中での個々のシステムの範囲については省略する)。Amesはこれら55のシステムをグループとしてまとめ、「Piano」にA-B-C-コーダの構成を見出している[6]

A:スコア1ページ、1小節目(システム1)から16ページ、8小節目(システム28)まで
B:16ページ、9小節目(システム29)から20ページ、12小節目(システム36)まで
C:20ページ、13小節目(システム37)から27ページ最後(システム50)まで
coda:28ページ、1小節目(システム51)から29ページ最後(システム55)まで[7]

 各セクションの長さは、セクションAが最長、Bが最短、CはAとBの中間くらいの長さ、コーダはその性質上Bよりもさらに短い。セクション間の長さを比べると、もしもAとCの長さがほぼ同じだったら、AとCがBを囲むシンメトリー構造になっているといえるが、ここではそうはなっておらず、A-B-Cとコーダの長さの比は不均衡だ。

 曲中の音の動きは以下の8種類に分類できる。下の一覧はこれらの動きの特性と、これらが登場する主な箇所をセクションAを例に記している。

①不規則に動く和音:1ページ目1小節目から2ページ目5小節目など
②左手のB5-C6と右手のD♭6とによって形成されるオシレーションのような動き:2ページ目、5-9小節
③同一和音の連打:5ページ目、6-9小節
④構成音の配置をその都度変えて打鍵される同一和音:3ページ目、9小節目から4ページ目、1小節目まで(右手:F#-G-A♭、左手:D#-E-F)
⑤両手で交互に打鍵される単音:9、10、14、16ページ目
⑥和音の半音階的な下行:4ページ目、5-11小節
⑦コラール風の和音の揺れ動き:5ページ目、10小節目から6ページ目、9小節目まで
⑧同じペースで打鍵される和音:6ページ目、13小節目から7ページ目、5小節目まで

 セクションAでは、上記で言及されなかった範囲の音の動きの大部分が①不規則に動く和音に分類されるといってもよい。①は時に幅広い跳躍を伴い、前後のつながりを考慮せずランダムに和音や単音が配置された1950年代のピアノ曲を思い出させる。この中で比較的、耳でシンメトリーの感覚を捉えやすいのは②のオシレーションのような動き、③の同一和音の連打、④の異なる配置で打鍵される同一和音の響きだと思われる。なぜなら、これら3つは、同じ、またはよく似たものを繰り返すうちに聴き手に記憶の参照点を与えているからだ。最初はなんだかわからなかったパターンや響きに対して、聴き手は反復の過程でそれらに慣れてきて、いつのまにか自分自身の記憶の中になんらかの参照点を作り出す。シンメトリーを形成する明確な中心点の把握にいたらなくとも、聴き覚えのあるパターンや響きの中に規則性の感覚を抱くことも可能だろう。このような一連の聴取の過程を、耳で捉えるシンメトリーということができる。既に述べたように、フェルドマンにとってのシンメトリーの概念は規則性と不規則性、予測可能性と予測不可能性に関わっている。文字で読むだけではこれらの感覚を実感しにくい。「Piano」が生み出す響きと、それを聴く行為を通して、これらの感覚が実体験として現実味を帯びてくる。スコアを見てみると、②③④のいずれも同じものをそっくりそのまま繰り返しているわけではないことがわかる。むしろスコア3ページ目に起きる④は、その都度、和音が転回し、さらには音価も異なるので、この範囲の和音が実は全て同じ構成音の和音であることに気付きにくい。これまでのフェルドマンの楽曲にもしばしば見られたが、記譜、つまり視覚から得る印象と、実際に音を聴いた際に得る印象の乖離がこの曲でも起きている。

 スコア7ページの6小節目からは大譜表が2つ重ねられている。さらには11-14ページの半分までの範囲では大譜表が3つ重ねられている。これらの大譜表の重なりをAmesは「層 layers」とみなして分析している。大譜表の重なりについてAmesがフェルドマンに質問したところ、彼はこれを「機能的なコラージュ functional collage」とみなしたが、後日、次のように解説してくれたという。[8]

実際のところそれはコラージュではない。私のコラージュの定義は2つの明らかに異なる(種類の)素材を持っている場合をいう。私はこれらをさらに深い(テクスチュア)を生み出す垂直な構造だと思っている。コラージュというよりも、「重ね合わせ」が適切に見える……ある意味、私はそれを層よりも対位法や和声の構造に結びつけて考えている……フーガとそっくりな。

It’s not really a collage. My definition of a collage is when you have two obviously different (kind of) material. I feel that these are vertical structures creating a more dense (texture). Rather than collage, I think the word ‘superimposition’ is more apt… in a sense I see it more related to counterpoint and harmonic textures rather than layering… very much like a fugue.[9]

 フェルドマンはひとりのピアニストのために複数の大譜表を重ね合わせて、より深いテクスチュアを作ろうとした。もちろん「Piano」には対位法や、和音間の声部連結法の意味での和声構造は見られない。フーガの要素も希薄だ。ここでフェルドマンが言おうとしているのは、これらの技法そのものではなく、複数の要素を同時に重ねることでできる複雑な構造のことだろう。その喩えとして「フーガ」という言葉が出てきた。絨毯のことを思い出すと、細かいパターンによってできた複数のブロックが寄り集まって1つの面を構成している様子も、ブロック間の重なりや絡まり合いの点でフーガにたとえることができる。スコア13ページの4小節目から14ページ前半までの重なりの様子を見てみると、上から1段目は①の不規則な動き。2段目は④で、13ページでの和音は3ページの9小節目から4ページ、1小節目までの和音と同じで(右手:F#-G-A♭、左手:D#-E-F)、14ページからはこれらの和音の構成音が若干変わる。3段目は⑤の単音の動きを次のページまで続ける。3段とも拍子は同じだが、全く違う3つの流れが同時進行しているといってもよい。極端に速いパッセージではないものの、音域、音の長さ、動きが三者三様のこの箇所をひとりのピアニストが同時に弾くには相応の技術が必要だろう。

 スコア16ページ目の後半から始まるセクションBは、④構成音の配置をその都度変える和音を中心としている。このセクションの冒頭から3小節間は、左手の1つ目の和音に含まれるF#3を例外として、G-G#/A♭-A-B-C-C#-Dの7音でできている。これらの音が様々な組み合わせで配置されている。ここでは交互に記された強弱記号fffとpppもパターンを作る。fffとpppとの交換によるパターンは17ページ後半から18ページ3小節目までの2段目の大譜表、19ページ3段目の大譜表の最終小節から20ページ4小節目までの範囲にも見られる。これらのfffとpppとの交換は強弱の対照的な効果だけでなく、fffでの強力なアタックの残響と余韻をpppが受け止めて、fffから波紋のように広がる音響のイメージを喚起させる。その様子は、絨毯の色のグラデーション効果をもたらすアブラッシュの技術を思い出させる。

 上述の通り、セクションBは7つの構成音の様々な組み合わせから始まる。その後、徐々に構成音が変化し、別の和音やパターンが始まる。耳では把握しにくいが、17ページ2-3小節目の右手和音の最低音E4-B♭4、5-6小節目と7小節目の最高音E5-B♭5は減5度、つまり3全音が3回繰り返されている。フェルドマンがここで3全音の跳躍を繰り返した意図や理由は不明だが、スコアからはっきりと読み取ることができるので指摘しておく。

 セクションBでは拍子記号、小節の配列、休符もシンメトリーの形成に寄与している。1つの大譜表に戻った20ページ、6-12小節間の拍子は3/4 | 5/8 | 3/4 | 5/8 | 3/4 | 5/8 | 3/4 |の順に並んでいる。全休符の9小節目を中心軸に、6小節目と12小節目、7小節目と11小節目、8小節目と11小節目が鏡像形、つまりシンメトリーを形成している。ここで重要なのは対応関係にあるそれぞれの小節が完全に同一ではないことだ。例えば6小節目はG♭1、12小節目はG4-A♭4なので、Gの周辺の音で共通しているが、完全に同じではない。8小節目と11小節目の関係も同じで、この2小節の和音を比べてみると、構成音をいくつか共有しているが完全に同じではない。このようなわずかな差異や逸脱を含んだシンメトリーを「不揃いなシンメトリー」と呼ぶことができるだろう。

 セクションBを締め括る不揃いなシンメトリーの直後、スコア20ページ、13小節目からセクションCが始まる。セクションBも拍子が頻繁に変化したが、セクションCでは拍子がさらにめまぐるしく変化する。例えば、このセクションの始まりから21ページ目までの23小節間では1小節ごとに拍子が変わり、同じ拍子が2小節以上続くことはない。拍子のめまぐるしい変化の一方、この部分にはパターン化された動きが見られる。このパターンの始まり(20ページ、13小節目、5/16拍子)は左手のB1、右手のC4-D6。この3音を中心として、16分音符でのE♭-A4(減5度、3全音)が右手のC4-D6に対する前打音のように打鍵される。この装飾音のようなパターンは3回鳴らされる。左手は20ページ、15小節目ではA#1-B2、続く16小節目では先の2音がB1-A#2へと入れ替わる。同じ入れ替わりは21ページの2小節目と4小節目でも行われている。次いで21ページ目、5小節目から14小節目まで、右手が4度か5度の2音を、左手が9度(E2-G♭3を異名同音のE2-F#3に読み替えている)の2音を不規則な間隔で鳴らす。スコアを見ると、拍子、和音、音価が全て1小節ごとに異なるので非常に不安定で忙しなく感じるが、この範囲の鳴り響きは比較的安定したペースで進んでいるように聴こえる。

 22ページ、8小節目からのアルペジオは、これまでとは異なる素早い身振りの感覚をこの曲にもたらす。今までと性格の異なる要素を突然挿入する書法はフェルドマンが得意とするところだろう。アルペジオを伴う一連のパッセージが23ページの2小節目で終わると、曲は和音の引きのばしを中心とするテクスチュアに戻る。

 24ページの後半から再び大譜表が層状に重なる。ここで重ねられているそれぞれの大譜表は曲中で既に現れた素材からできている。

p. 24 後半

1段目p. 20, mm. 13-16, p. 21, mm. 1-2
2段目p. 21, mm. 4-8

p. 25 前半

1段目p. 21, mm. 3-4, p. 20, mm. 13-15
2段目p. 21, mm. 13-15の途中まで(全休符の2小節間を除く)
3段目p. 21, mm. 9-10, p. 21mm. 4-5
*1段目3小節目(7/16拍子、全休符)は20ページ、15小節目(7/16拍子)から派生。

p. 25 後半

1段目p. 20, mm. 15-16, p. 21, mm.1-4
2段目p. 22, mm. 15-17, p. 23, mm. 1-3
3段目p. 21, mm. 6-9
*1段目6小節目(3/16拍子、全休符)は21ページ、4小節目(3/8拍子)の変化形。
*2段目6小節目(7/16拍子、全休符)は23ページ、3小節目(7/8拍子)の変化形。
*3段目3小節目G#3-A3-E5-B5と、21ページ、8小節目G#3-A4- B5-E6は、配置は異なるが構成音が同じ和音。

p. 26 前半

1段目p. 23, mm. 3-5
2段目p. 23, mm. 10-13
3段目p. 23, mm. 17-20の途中まで
*1段目3小節目(8/7拍子、全休符)は23ページ、5小節目(11/8拍子、全休符)の変化形。

p. 26 後半

1段目p. 23, mm. 6-10
2段目p. 23, mm. 14-18
3段目p. 23, m. 20(p. 26, m. 4からの続き), p. 24, mm. 1-3
*3段目2小節目A♭3-G3-D5-E♭5は、24ページ、1小節目のA♭3-G3-D5-E♭6の最高音を1オクターヴ低くした和音
*3段目4小節目A♭3-F#4-D5-E5- E♭6は24ページ3小節目のA♭3-F#4-G4- D5-E5- E♭6の変化形とも解釈できるが、ここで23ページの方の和音からG4を省く理由を考えにくい。このG4の欠如はフェルドマンか出版社による書き間違いの可能性もある。

p. 27 前半

1段目p. 23, mm. 17-20の途中まで(p. 26前半3段目と同じ)
2段目p. 23, mm. 10-13(p. 26前半2段目と同じ)
3段目p. 19, mm. 6-9
*3段目と19ページ目6-9小節間の和音は同じだが、拍子が異なる

p. 27 後半

1段目p. 23, m. 20(p. 27前半4小節目からの続き), p. 24, mm. 1-3(p. 26後半3段目と同じ)
2段目p. 23, mm. 14-18(p. 26後半2段目と同じ)
3段目p. 16, m. 10, p. 16, m. 12, p. 16, m. 9
*3段目1小節目の和音は16ページ、10小節目1つ目の和音に、2小節目の和音は16ページ10小節目2つ目の和音に対応している。
*3段目3小節目は16ページ、12小節目1つ目の左手和音を1オクターヴ低くした和音。右手は16ページの同じ右手和音のオクターヴと構成音の配置を入れ替えた和音。
*3段目4小節目の右手和音A4-B♭4-A♭5は16ページ、9小節目の右手和音A4-B♭4-G#5と異名同音の関係にある。

 スコア24ページからの大譜表の重なりの様子から、スコアの1ページ内の譜表を解体し、それらを2つか3つの大譜表に割り当てている傾向がわかる。これは譜表および小節の水平な流れを垂直な重なりに再構成する作業ともいえ、同じページ内の素材を再構成することで、本来ならば同時に鳴ることのなかった音同士が一斉に鳴らされる。この再構成が巧妙なのは、ここに用いられている素材が24ページ目以降とそれほど離れていないことだ。ほとんどの素材が「すぐそこにある過去」の再出現なので、それらをはっきり覚えているわけでなくとも、完全に忘れ去ったわけでもない。27ページになると、その直前の26ページと同じことを繰り返し、自己反復によって過去がもっと近くなる。24ページ後半から27ページまでの大譜表の重なりは、既存の素材を並べ替えただけの単純な作業に過ぎないかもしれないが、何かをほんの少しずらしたり、繰り返したりするだけで、そこから思いがけず大きな差異が生まれる可能性を示唆している。

 スコア28ページから始まるコーダの和音のいくつかはセクションBの和音に由来する。[10]セクションCの最終ページである27ページ目後半の3段目の大譜表がセクションBの和音を先取りしていたため、セクションCとコーダの連結はスコアの上ではスムーズに見える。コーダの和音は最高音がG5またはA♭5。この2音の揺れ動きが繰り返される構成だ。この2音以下の音の組み合わせはその都度変化する。

 セクションBの和音がコーダでどのように用いられているのかを概観すると、例えば、ここで頻出する和音の1つである28ページ、1小節目の和音B2-C3-C#3-D3-G#4-A4-B♭-G5は異名同音や転回を用いながら様々なかたちで現れる。2小節目の和音B2-C3-D3-C#4-G4-A4-B♭-A♭5もこの和音と構成音を共有している。この和音のルーツはセクションBが始まって間もない、16ページ、10小節目の2つの和音C#4-D4-B4-C5-G#5-A5-B♭5-G6とB2-C3-D3-C#4-G4-A4-B♭4-A♭5にたどることができる。もう1つの例をあげると、28ページ7小節目の和音A#2-B2-C3-D3-F4-D♭5-F#5-G5の和音は、16ページ12小節目の1つ目の和音、A#3-B3-D4-C5-F5-G5-F5-G5-D♭5-F#6と構成音を共有している。この2つの和音も構成音の配置が違うので同定しにくい。G5またはA♭5を最高音とする同じような2種類の和音が内部の構成音を少しずつ変えながら打鍵される様子は、微妙な差異を持つ糸の色合いから創出される絨毯のアブラッシュ技法を思い出させる。ここで言及したのはたった2つの例だが、コーダ全体がセクションBという現在地からやや遠い過去の素材と記憶を再構成している部分だとわかる。すぐそこにある過去を呼び戻したセクションC後半の大譜表の重なりと比べると、離れて位置するコーダとセクションBとを関連づける記憶の参照点の効力は若干、弱めかもしれない。

 フェルドマンが絨毯の作業手順や考え方から着想した概念「不揃いなシンメトリー」を「Piano」の様々な側面から探った。この概念は、既に出てきた素材を複数の大譜表で重ねる手法とその視覚的な効果(ピアノを弾く人にとってはかなりインパクトのある譜面である)、小節の配列、和声の構成音の操作などに作用している。絨毯から得た着想を音楽に採り入れた最初期の楽曲「Piano」のなかで、フェルドマンは基準、中心点、参照点といったものからどの程度まで逸脱できるのかどうかを試行錯誤したのだろう。1980年頃から始まる、パターンとその反復を中心とした楽曲においても絨毯からの影響と「不揃いなシンメトリー」の概念が色濃く反映されている。

 次回は、引き続き「不揃いなシンメトリー」の概念を考察しながら1980年代前半の楽曲について取り上げる予定である。


[1] 「Instruments 3」はThe Barton Workshopによる演奏で1997年に録音されている。CD番号はETCEITERA KTC3003。
[2] Morton Feldman Says: Selected Interviews and Lectures 1964-1987, Edited by Chris Villars, London: Hyphen Press, 2006, p. 155
[3] Paula Kopstick Ames, “Piano,” The Music of Morton Feldman, Edited by Thomas DeLio, New York: Excelsior Publishing Company, 1996, p. 100
[4] Ibid., p. 100
[5] Ibid., p. 102
[6] Ibid., p. 102
[7] Ibid., p. 102
[8] Ibid., p. 104
[9] Ibid., p. 104
[10] Ibid., p. 104

高橋智子
1978年仙台市生まれ。Joy DivisionとNew Orderが好きな音楽学者。
(次回掲載は6月24日の予定です)

あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(14) 不揃いなシンメトリー -1

文:高橋智子

 1976年のベケット三部作、1977年の唯一のオペラ「Neither」を経たフェルドマンの音楽はその後どのように変化したのだろうか。今回は「Neither」以降の彼の音楽を知るうえで欠かせない事柄の1つ、中東地域の絨毯からの影響と、フェルドマンの後期作品を物語る概念「不揃いなシンメトリー」を考察する。

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あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(13) ベケット三部作とオペラ「Neither」-2

文:高橋智子

2. オペラ「Neither」

 1976年7月に「ベケット三部作」による一通りの試作を終えたフェルドマンは1976年9月18日に行われた「Orchestra」初演のためグラスゴーに滞在していた。[1]グラスゴーでの初演の後フェルドマンはベルリンに赴き、9月20日の昼頃シラー劇場で「あしあと Footfalls」と「あのとき That Time」のリハーサルをしていたベケットと初めて会う。[2]劇場の中は照明が暗転して真っ暗だった。暗闇の中でベケットはフェルドマンの親指に握手した。[3]これが彼らの初対面の瞬間だ。フェルドマンはベケットを劇場近くのレストランにランチに誘い、ここで彼は自身のオペラについて話した。[4]「自分の考えだけでなく彼(訳注:ベケット)の考えにひれ伏したかった I wanted slavishly to adhere to his feelings as well as mine.」[5]と語り、ベケットを信奉していたフェルドマンはベルリンで交わした会話を次のように回想している。

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あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(13) ベケット三部作とオペラ「Neither」-1

文:高橋智子

 前回は1975年の楽曲「Piano and Orchestra」を中心に、フェルドマンのオーケストレーションと協奏曲について考察した。今回は彼の1970年代の楽曲のハイライトともいえるオペラ「Neither」と、このオペラのための習作として位置付けられているベケット三部作をとりあげる。

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あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(12) フェルドマンとオーケストラ-2

文:高橋智子

2 反協奏曲 Piano and Orchestra

 その曲を構成する音または音符に楽器の選択、音域、ダイナミクス、タイミングといったあらゆる要素の必然性を求めたフェルドマンの態度は、1970年代に集中的に書かれたオーケストラ曲にどのように反映されているのだろうか。このセクションでは独奏楽器とオーケストラによる協奏曲編成の楽曲を中心に、フェルドマンのオーケストラ曲とオーケストレーションの特徴を考察する。

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あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(12) フェルドマンとオーケストラ-1

文:高橋智子

1 1970年代の楽曲の編成とオーケストレーション

 前回は、バッファロー大学の教授就任をきっかけにバッファローへ転居したフェルドマンの環境が変わり、それに伴ういくつかの要因から曲の長さが次第に長くなっていったことと、楽曲の編成も大きくなってきた様子を概観した。1950年代、60年代のフェルドマンの楽曲は長くとも12分前後の室内楽や独奏曲が主流だったが、1970年代は管弦楽(オーケストラ)曲が増える。オーケストラやオーケストレーションに対するフェルドマンの考えを参照しながら、1970年代の管弦楽曲のなかでも独奏楽器と組み合わさった協奏曲編成の楽曲に焦点を当てて考察する。

 1970年代の主要な楽曲は時期、編成、様式に基づいて次の4つに分類することができる。1. 独奏ヴィオラの旋律を用いた楽曲 2. 小規模または中規模の室内楽曲 3. 独奏パートと管弦楽による協奏曲風の楽曲 4. ベケット三部作。1の独奏ヴィオラの旋律を用いた楽曲には前回解説した「The Viola in My Life」1-4(1970-71)と、このシリーズといくつかの素材を共有する「Rothko Chapel」(1971)が当てはまる。これらの楽曲は、旋律を前面に打ち出した点でフェルドマンの楽曲リストの中で特殊な場所に位置付けられると同時に、1970年以降の新たな境地を開拓するきっかけとなったといえる。なかでもフル・オーケストラ編成の「The Viola in My Life 4」(1971)はその後のフェルドマンの管弦楽書法を考えるうえでの大きな手がかりとなることから、前回はこの曲もとりあげた。今回は3の協奏曲編成の管弦楽曲を中心にフェルドマンの70年代の音楽の特徴を考察するが、必要に応じて2の室内楽曲にも言及する。分析と考察をする前に今回の結論を先に書くと、下記4つのグループに分類される楽曲のほとんど全ては、1977年に完成されたフェルドマン唯一のオペラ「Neither」のための準備や実験とみなすことができる。これまでの本連載での方法と同じく、今回も特定の楽曲について解説するが、視野を広げて考えると、ここで導き出された展望や結論はオペラ「Neither」への布石だといえる。

1970年代の4種類の楽曲

1. 独奏ヴィオラの旋律を用いた楽曲
The Viola in My Life 1-4 (1970-71), Rothko Chapel (1971)

2. 小規模または中規模の室内楽曲
Voices and Instruments 1 (1972), Voices and Instruments 2 (1972), For Frank O’Hara (1973), Instruments 1(1974), Instruments 2 (1974), Instruments 2 (1975), Voice, Violin and Piano (1976), Instruments 3 (1977)

3. 独奏パートあるいは合奏パートとオーケストラによる協奏曲風の楽曲
Chorus and Orchestra 1 (1971), Chorus and Orchestra 2 (1972), Cello and Orchestra (1972), String Quartet and Orchestra (1973), Piano and Orchestra(1975), Oboe and Orchestra (1976), Flute and Orchestra (1978), Violin and Orchestra (1979)

4. ベケット三部作
Orchestra (1976), Elemental Procedures (1976), Routine Investigations (1976)

 1960年代の楽曲を自由な持続の記譜法による音楽的な時間の探求とみなすならば、五線譜に戻った1970年代の楽曲では音色の探求が行われているといえるだろう。例えば、この連載の第6回、第7回で解説したソプラノ、グロッケンシュピール、ピアノ、ヴァイオリン、チェロ、チャイムによる1962年の室内楽曲「For Franz Kline」は、それぞれのパートの音色の特性を活かした色彩豊かな音響を引き出すことではなく、できるだけ個々の音色の特性を抑えたモノトーンの世界を描こうとした。このモノトーンの音の世界は、黒と白を基調とした晩年のフランツ・クラインの作品を想起させる。1960年代の大半の楽曲の演奏指示には、音の出だしのアタックをできる限り抑制し、曲全体のダイナミクスを最小限にすることが記されている。音色、アタック、ダイナミクスに関するこの傾向は第10回で解説した同一編成のアンサンブル2群による室内楽曲「Between Categories」(1969)まで続く。1970年代に入ると楽器や声の特性を抑制する傾向は徐々に薄まり、「The Viola in My Life」1-4のような楽器の特性に根ざした曲が書かれるようになる。この頃から編成や曲の長さも拡張傾向にあるのは前回述べたとおりだ。もちろん、これまでのフェルドマンの楽曲の変化と同じく、楽曲の変化は記譜法の変化も意味し、1970年代以降の楽曲は拍子、音価、ダイナミクスが具体的に記されている。「The Viola in My Life」1-4での独奏ヴィオラのほぼ全ての音に細かく記されたクレシェンドやデクレシェンドは、引きのばされた音が消えゆく様子を見届ける1960年代の自由な持続の記譜法との大きな違いでもある。

 1970年代のフェルドマンの音楽はどのようにして音色を探求していたのだろうか。その様子を解き明かす鍵は彼のオーケストレーション(管弦楽法)に対する態度と考え方にある。フェルドマン自身の発言をたどると、彼は1972年に作曲された5台ピアノと5人の女声による「Pianos and Voices」[1]初演のプログラムノートに「“オーケストレーション”と“作曲”は本質的に同じだ “Ochestrierung” und “Komposition” seinen im wesentlichen das Gleiche」[2]と記している。「Pianos and Voices」は自由な持続の記譜法で書かれている点で、五線譜による正確な記譜法が大半を占める1970年代の楽曲において例外といってもよい曲だが、5台のピアノの和音や単音の引きのばしと5人の女声があえて同期しないことで、響きによるグラデーションの効果が引き出されている。このような音の引きのばしによるグラデーション効果を狙った書法は前回とりあげた「The Viola in My Life 4」での管楽器と弦楽器にも頻出しているので、記譜法は違うものの「Pianos and Voices」もそれぞれのパートの音色とその響き自体が曲を形成する点でそう遠くない関係にある。独奏ヴィオラの旋律を含む「The Viola in My Life」シリーズと「Rothko Chapel」を除けば、フェルドマンの1970年代の室内楽作品、管弦楽作品ともに、個々の声部の出だしのタイミングのずれと、その内部で生じる微妙な差異そのものを曲の実体とする傾向が見られる。絵画にたとえるならば、背景と対象、つまり地と図の境界の曖昧なマーク・ロスコの全面絵画の構成原理に近いだろう。音の引きのばしを主とするフェルドマンのこの時期の楽曲は一見、平坦で変化に乏しい表層を形成しているが、その表層下には無数の差異が蠢いている。5台のピアノと5人の女声が行き交う「Pianos and Voices」を聴けば、これらの絶え間なく織りなすグラデーションの様子が想像できるはずだ。個々の楽器や声の特性をよく理解し、それらの特徴や魅力を最大限に引き出す効果的な声部配置の技術をオーケストレーションの技術のひとつとするならば、彼の70年代の楽曲のどの側面にフェルドマンのオーケストレーションの特徴が表れているのだろうか。オーケストレーションと作曲とを同一とみなしていたフェルドマンの考え方をさらに掘り下げていこう。

Feldman/ Pianos and Voices (1972)

 フェルドマンは1972年頃の自身のエッセイの中で「“ベルリン時代”の楽曲タイトル[3](Three Clarinets, Cello and Piano; Chorus and Orchestra; Cello and Orchestra; etc.)は単にその曲のオーケストレーションを言っているだけだ The titles from my “Berlin Period” (Three Clarinets, Cello and Piano; Chorus and Orchestra; Cello and Orchestra; etc.)simply state the compositions’ orchestration.」[4]と書いている。バッファロー大学着任の直前、フェルドマンが1971年秋から1年間DAADの奨学金でベルリンに滞在していたのは前回のこの連載で述べたとおりだ。この時期に書かれた室内楽曲や協奏曲風編成の楽曲はフェルドマンにオーケストレーションの意味や役割を再考させるきっかけとなったと推測できる。彼は次のように続ける。

 オーケストレーションとはなんだろう?音楽を聴こえるようにする手段がオーケストレーションの定義なのかもしれない。オーケストレーションは作曲である。他のすべての音楽的なアイディアは最終的にどうでもよくなってしまう――まるごと飲み込まれるか、私たちの足元にある地面のような堆積物へ踏み固められる。

 What is orchestration? The means by which music becomes audible might be a definition of orchestration. Orchestration is composition. All other musical ideas eventually become unimportant—swallowed whole or pounded into sediments like the ground beneath us.[5]

 先の引用と同じく、ここでも彼はオーケストレーションと作曲とをほぼ同一視している。オーケストレーションさえ決まっていれば、曲はできたも同然と言いたげだ。ここで注目したいのは、フェルドマンはオーケストレーションの定義を「音楽を聴こえるようにする手段」と提起していることだ。彼の考えに即して言い換えると、音を概念的な存在から、人間の耳に入ってくる現実的、物理的な存在へと媒介する実践的な手段がオーケストレーションの定義であり役割だとも解釈できる。一聴してなんとも言い難いフェルドマンの音楽は概して抽象的な性質の音楽だが、これまで彼が音のアタックや減衰に注意を払ってきたことを考えると、彼の音楽は実際の響きが聴き手に与える効果に根ざした身体的な性質を持っているともいえる。フェルドマンは自分が実際にどのような方法で音符を書いているのかを具体的に説明しながら、作曲の際の音の物理的、身体的な側面に対する考えを述べている。

 私がピアノで作曲し続ける理由の1つは、ピアノが自分を「イマジネーション」から救い出してくれるからだ。物理的な事実としてひっきりなしに現れる音はある種の知的な白昼夢から目を覚まさせてくれる。音があれば十分なのだ。これらの音を現実のものにする楽器は十分過ぎて辟易してしまう。ところで楽器か音か、どちらが先にやってくるのだろう?ベルリンのテレビ[6]が言うように、これが問いだ。

 One of the reasons I continue to write at the piano is to help me from the “imagination.” Having the sounds continually appearing as a physical fact wakens me from a sort of intellectual daydream. The sounds are enough. The instruments that realize them are more than enough. But what comes first, the instrument or the sound? This, as they say on Berlin television, is the frage (sic.)[7]

 編成がなんであれピアノの前に座り、鍵盤の感触と音を実際に確かめながらフェルドマンは曲を書き進めていく。彼にとってピアノは概念を物理的な事実や存在に具現させる身近な道具だった。ピアノはフェルドマンをイマジネーションから現実に引き戻してくれるのだ。ここでの現実とイマジネーションとの関係は、第10回でとりあげた「音楽の表面」の議論を思い出させる。この議論でフェルドマンは、音楽の表面を作曲家がそこに音を置いていく錯覚とみなし、現実に聴こえる音である聴覚的な地平と区別していた。この議論をふまえると、ピアノを触りながら白昼夢から抜け出した彼は、聴覚的な地平に立って、つまり現実世界の中で音を聴きながら音符を書きつけていたと想像できる。ここでのピアノの音は確かにピアノの音色かもしれないが、彼は特定の楽器の特徴を持たない、無名の単なる音としてこれらの音を扱いたいと思っていたのだろう。まるでコロンブスの卵のような「楽器か音か、どちらが先なのか」をフェルドマンは自問自答し、作曲と楽器との関係からオーケストレーションに対する考えを述べている。

 音楽の長い歴史の中では音が最初にやってきて、楽器にあまり関心が払われてこなかったと思っている。それから音楽が、あるいは「作曲技法」が発展するにつれて、どの楽器を最もうまく用いることができるのか、またはどんな楽器が発明される必要があるのかに、さらに注意が払われるようになった。この新たな役割とともに楽器は作曲に絶対不可欠な側面となった。近年、作曲とはいったいなんなのかという概念が問われ始めるにつれ、楽器の超絶技巧が増長し、忘れられた音や忘れられた曲よりも重要になった。音楽を聴こえるようにする手段という(訳注:オーケストレーションの)私の定義に合致しているように見えるが、これ(訳注:超絶技巧)はオーケストレーションではない。楽器は音かもしれないが、音は楽器ではないはずだ。遠回しにいうと、作曲の専門的な技術であれ、楽器の「可能性」を見せるのであれ、どんな超絶技巧も軌を一にする。どんな超絶技巧もまったく同じだ。近代的な楽器の用法の超絶技巧は音に対する親密さからではなく、作曲から生まれた。

 I think that in the music long past, the sounds came first, and there was not too much concern for the instrument. Then as music, or the “art of composition” developed, more attention was given to what instruments could be best utilized or need be invented. With this new role, the instrument became an integral aspect of the musical composition. As notions about what composition actually is began to be questioned in recent years, the virtuosity of the instrument increased and became more important than either the forgotten sound or the forgotten composition. This is nor orchestration, though it appears to fit my definition: the means by which sound becomes audible. The instrument might be the sound but the sound might not be the instrument. What I obliquely mean is that any virtuosity, whether compositional expertise or in showing what the instrument “can do,” is one and the same thing. That the virtuosity of modern instrumental usage came out of composition and not out of a closeness to sound.[8]

 作曲技法の発展が楽器の発明や改良を促し、それに応じて超絶技巧(virtuosity)も発展してきた。今や超絶技巧が音の響きや作曲行為を押しのけているのだとフェルドマンは批判している。彼はこのような状況を演奏技術が楽曲に従属していると捉えていたのかもしれない。オーケストレーションを「音楽を聴こえるようにする手段」と定義するフェルドマンは、楽器演奏による超絶技巧ありきのオーケストレーションに対して否定的な立場を取っている。彼は音楽における楽器の存在や役割と、楽器(場合によっては声も)から生じる音とをわけて考えている。ここから導き出された暫定的な結論は「楽器は音かもしれないが、音は楽器ではないはずだ。」と、音と楽器との非対称性を認めている。この非対称性は「楽器か音か、どちらが先なのか」の問いにもつながるだろう。これまで参照してきた言説を振り返ると、このような二者択一や二項対立の疑問が生じた場合、どちらでもない「カテゴリーの間 between categories」の立場を取るのがフェルドマンの流儀に近い。だが、このエッセイの後の段落でのフェルドマンの態度はいつもと違った。彼は「私がを選んだわけではなくて、その音が選んだ楽器が曲(訳注:Pianos and Voices)になった。こういうわけで、自分の音楽の多くでは音高もリズムも自由にできたのだ。その曲の“オーケストレーション”… The choice of mine was not the sound but the sound’s preference for certain instruments became the composition. This is why I could then leave either the pitches or rhythms free in so much of my music. The composition’s “orchestration”[…][9] 」と、あたかも作曲者である自分が楽器を選んだのではなく、曲中の音に楽器を選ばせたのかのようなそぶりを見せる。実際のところ、どのような楽器を用いるかは作曲家が決める。しかし、ここでのフェルドマンは人知を超えたある種の降霊術のような機能を音に期待していたのかもしれない。この段落は途中で切れたまま掲載されているので「その曲の「オーケストレーション」The composition’s “orchestration”」以降、どのような論が展開されたのかを知ることができないが、1986年7月に行われた講義を参照して楽器、音、音色の関係に対するフェルドマンの考えをさらに見ていこう。

音色に常につきまとっていた問題のひとつは、本質的に平坦な音楽であろうと、音色が、ひとつの楽器と別の楽器との時間の隔たりによる幻影を作り出すことです。私は幻影としての音では作曲できません。ご存知のように、もしもその音が特定の音域から生じているなら、その音がその音域から鳴っているかのように聴こえないといけないのです。恣意的にはなり得ません。その音符はその音域、そのダイナミクス、その楽器でしかよく鳴り響かない音符にならないといけません。したがって、ここでは然るべきタイミング、然るべき音域、然るべき楽器で音符を選ばないといけません。言うならば、それは全てが一体となった状態です。

One of the problems that always had with Klangfarben is that it created an illusion of time space between one instrument and another, when essentially it was flat music, and I cannot work with sound as illusion. If it comes from a certain register it has to sound as if it’s from that register, you see. It can’t be arbitrary. The note has to be a note that sounds only good in that instrument in that dynamic in that register. So the choice of notes here has to be for the right instrument in the right register in the right time. Alles zusammen, as they say down there.[10]

この講義の中でもフェルドマンは音の幻影よりも実体に即した音の物理的なあり方を重んじ、音の優位性をさらに強調している。上記の日本語訳では原文中の“sound”を音の響きの意味での「音」、“note”は楽譜に記された音の意味での「音符」とした。「音」(この時点ではどの楽器のどのような音色かは決まっていない)が現実の世界に鳴り響く契機または手段としての「音符」に変換される時、そこに恣意性の入り込む余地はなく、音色、ダイナミクス、タイミングといったあらゆる要素が必然性を持ち、それらが一体となった状態を目指さないといけない。これがここでのフェルドマンのおおよその主張である。フェルドマンが音に抱く理想はどれくらい自身の楽曲の中で実現されていただろうか。1960年代の楽曲を振り返ってみると、室内楽曲が多かったこの時期はフルート、ホルン、チューバ、ヴィオラ、チェロ、チャイム、ヴィブラフォン、チェレスタ、ピアノが特によく登場し、「Durations 3」(1960)のようなヴィオラ、チューバ、ピアノという風変わりな編成もよく見られた。このような風変わりな編成もフェルドマンが考えるところの、その音の必然性から引き出されたものなのだろう。

 今までの引用からフェルドマンのオーケストレーションにまつわる問題意識として、作曲過程における概念上の音、楽器とその音色、演奏技術(フェルドマンは超絶技巧を避ける傾向)の3つの事柄が浮かび上がってきた。これら3つは1970年代の楽曲の中でどのような問題を投げかけ、楽曲として具現化されているのだろうか。次のセクションでは独奏楽器と管弦楽による協奏曲風の楽曲について考察する。


[1] 「Pianos and Voices」の当初のタイトルは「Pianos and Voices 2」だった。この曲に先立って作曲された同じ編成(5台ピアノと5人の女声)の曲のタイトルは「Pianos and Voices 1」だったが、後に「Five Pianos」に改題されたため、「Pianos and Voices 2」が繰り上がって「Pianos and Voices」となった。
[2] Feldman, Handschriftlicher Entwurf eines Einführungstextes zu Pianos and Voices (1972), Morton Feldman Archives, State University of New York at Buffalo (unpublished), Claren, Neither:Die Musik Morton Feldmans, Hofheim: Wolke Verlag, 2000, S. 93からの引用。英語による原文は未公開のため、Clarenによるドイツ語訳を引用した。
[3] フェルドマンのベルリン時代 (1971秋-1972秋)の楽曲:Chorus and Orchestra 1(10 Dec. 1971), Cello and Orchestra (19 Jan. 1972), Five Pianos (31 Jan. 1972), Piano and Voices (13 Feb. 1972), Composition for 3 Flutes (5 Mar. 1972), Voices and Instruments (Jun. 1972)、Chorus and Orchestra 2 (May-Jul. 1972), Voice and Instruments (Oct. 1972, バッファローで完成した)
[4] Morton Feldman, Give My Regards to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman, Edited by B. H. Friedman, Cambridge: Exact Change, 2000, p. 205
[5] Ibid., p. 205
[6] ここで言及されている「ベルリンのテレビ」とは、フェルドマンがベルリン滞在時に当地で放送されていたテレビ番組での決まり文句だと推測されるが詳細不明。
[7] Ibid., p. 206
[8] Ibid., p. 206
[9] Ibid., p. 207 ここで文章が切れたまま掲載されている。
[10] Morton Feldman, Words on Music: Lectures and Conversations/Worte über Musik: Vorträge und Gespräche, edited by Raoul Mörchen, Band Ⅰ&Ⅱ, Köln: MusikTexte, 2008, p. 216

あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(11) 1970年代前半の出来事と楽曲-3

文:高橋智子

3 フェルドマンの新たな境地 The Viola in My Life 1-4

 1970年から1971年にかけて作曲された4曲からなる「The Viola in My Life」は1970年代の楽曲の中だけでなく、フェルドマンの楽曲全体を見渡してみても特殊な位置にある作品だ。この当時のフェルドマンの楽曲には珍しく、「The Viola in My Life」では明確に認識できる旋律が登場する。フェルドマンはこれまでに1947年に作曲した独唱曲「Only」や、1950年代、60年代に手がけたいくつかの映画や映像の音楽でも旋律のある曲を書いてきたが、旋律ともパターンともいえない概して抽象的な作風が彼の本分とみなされてきた。だが、1970年に入るとフェルドマンは五線譜の記譜に戻り、「The Viola in My Life」1-4を書いて叙情的な旋律を惜しげもなく披露する。前のセクションで解説した1970年代の楽曲のおおよその傾向を思い出しながら「The Viola in My Life」1-4がフェルドマンの作品変遷の中でどのような位置にあるのかを見ていこう。

 ポール・グリフィスによるインタヴューでタイトル「The Viola in My Life」について訊ねられたフェルドマンは「それが単にすてきなタイトルだと思ったからです。I thought it was just a pretty title.」[1]とだけ答えている。また、独奏楽器としてヴィオラを選んだ理由も特にないと言っている。[2]ここでのフェルドマンの受け答えは実にそっけないが、当時、彼がヴィオラ奏者のカレン・フィリップス[3]と親しくしていたことが独奏パートとしてのヴィオラに関係している。[4]フェルドマン自身によるプログラムノートによると、ハワイ大学での講義のために滞在していたホノルルで1970年7月に「The Viola in My Life」の作曲が始まった。[5]楽曲の特徴については次のように解説されている。

楽曲の形式はとても単純だ。私の大半の音楽と異なり、「The Viola in My Life」の全曲は音高とテンポに関して慣習的な方法で記譜されている。ヴィオラが鳴らすミュートされた全ての音特有の、ゆるやかで微かなクレシェンドの根底にある正確な時間のかたちが私に必要だった。このような側面が音の出来事のリズムによる連続性を決定づけた。

1958年以来(ミニマル絵画の一側面とたいして違わず)、私の音楽の表面は非常に「平坦」だった。ヴィオラのクレシェンドは、行き交う音楽的な着想の相互作用によって決められる音楽の展望ではなく――むしろ限られた風景の中で鳥が羽ばたこうとしている様子にも似た、音楽の展望に再び夢中になったことを意味する。

The compositional format is quite simple. Unlike most of my music, the complete cycle of The Viola in My Life is conventionally notated as regards pitches and tempo. I needed the exact time proportion underlying the gradual and slight crescendo characteristic of all the muted sounds the viola plays. It was this aspect that determined the rhythmic sequences of events.

 Since 1958 (not unlike an aspect of minimal painting) the surface of my music was quite “flat.” The viola’s crescendos are a return to a preoccupation with a musical perspective which is not determined by an interaction of corresponding musical ideas—but rather like a bird trying to soar in a confined landscape.[6]

 「The Viola in My Life」1-4の全てのスコアは、テンポ、拍子、音高、音価(音の長さ)、ダイナミクスといった音楽のパラメータが五線譜で具体的に記されている。とりわけフェルドマンは、クレシェンドを用いたダイナミクスの操作から引き出される音の微妙なカーヴ(文中では「正確な時間のかたち」と呼ばれている)に着目した。音楽においてテンポ、拍子、小節は時間と関わり、時間に規定されている。フェルドマンはクレシェンドを事細かく書き記して、ダイナミクスをも音楽的な時間に関係させようとしたのではないだろうか。1960年代の自由な持続の記譜法の楽曲では、拍子記号や音符では正確に記すことのできない音楽的な時間を具現するものとして、音の減衰が重んじられてきた。「普通の」五線譜に戻った今、フェルドマンは音の減衰だけでなくダイナミクスそのものを掌握し、「平坦」といわれてきた自分の音楽の表面にグラデーションのような効果を加えようとした。だが、ここで求められているのは拍子と小節によって明確に規定された範囲内での微妙なゆらぎである。これまでのフェルドマンの楽曲、例えば前回解説した「Between Categories」は2つのアンサンブルの交わらない時間を敢えて描くことで、不確定で不安定な要素を音楽のどこかに残していた。しかし、ここでの鳥のたとえからわかるように「The Viola in My Life」にはそのような不安定で不確定な要素が入り込む余地はない。

The Viola in My Life 1

 これまでのフェルドマンの楽曲とは異なり、「The Viola in My Life」1-4には音高や音価に関して不確定な要素は一切なく、「開かれた」要素が希薄だ。「The Viola in My Life 1」の編成は独奏ヴィオラ、フルート、ヴァイオリン、チェロ、ピアノ、打楽器(テナードラム、大太鼓、ティンパニ、テンプル・ブロック、ウッドブロック、ヴィブラフォン、グロッケンシュピール)の6人編成。ヴィオラ以外の各パートも奏者は1人だが、このシリーズではヴィオラを独奏パートとみなし、他のパートとは違う特別な地位にあることが明示されている。独奏ヴィオラ、ヴァイオリン、チェロは終始ミュート(弱音器)をつけて演奏する。UE(Universal Edition)のスコアに記載された演奏時間は9分45秒。テンポは二分音符1つ=58で曲の最初から最後まで変わらないが、拍子は不規則に変化する。曲の様相の変化に応じて全体を次の10の部分に区切ることができる。これらは音楽の形式的な区切りというよりも、それぞれの部分で完結している絵本や紙芝居の1ページごとの場面の感覚に近い。

1: mm. 1-19
2: mm. 20-38
3: mm. 39-50
4: mm. 51-71
5: mm. 72-85
6: mm. 86-92
7: mm. 93-98
8: mm. 99-108
9: mm. 109-124
10: mm. 125-126

Feldman/ The Viola in My Life 1

score https://www.universaledition.com/morton-feldman-220/works/the-viola-in-my-life-1-5335

 たとえ通常の五線譜で記譜されていようと、やはりフェルドマンの曲なので「The Viola in My Life 1」も一聴、あるいはスコアを一見してもよくわからない。ここではヴィオラと他のパートとの関係に注目して曲の内容を見てみよう。先に引用したフェルドマンによる楽曲解説のとおり、ヴィオラのすべての音にクレシェンドとデクレシェンドが記されている。ここでのヴィオラは他のパートと同じく1-3小節分の長さで音を引きのばすだけなのだが、ダイナミクスの変化がこれらのフレーズに旋律のような感覚をもたらす。上記の区切りの1-3まではヴィオラによる音の引きのばしに他のパートが続くという、おおよそのパターンに基づいている。このパターンに基づいた平坦なテクスチュアがしばらく続くなか、不意に聴こえてくるチェロのピツィカートによる断片がテクスチュアに変化と驚きをもたらす。例えば、曲が始まってすぐの3小節目にピツィカートで鳴らされるアルペジオは特に注意を引く。また、他のパートの音が鳴らない箇所に随時挿入される打楽器類のトレモロやロールも、この平坦なテクスチュアに異質な要素をもたらす。これらの打楽器を音の陰影のようなイメージとして解釈することもできるだろう。

 3番目と4番目の場面の境界にあたる50小節目の最後にヴィオラがピツィカートでアルペジオを鳴らすと曲が少し動き出す。これまでは同じ音を引きのばすだけだったヴィオラが上行形のパッセージを鳴らし始め、聴き手は旋律に近い音のまとまりを感じることができる。59-61小節目のヴィオラのパッセージ(D3-F3-E4-G♭4-C5-E♭5)は、その直後に65-69でフルート(D4-A4-G#5-D6)に引き継がれる。音の鳴り響きとスコア両方に関して、ここでのヴィオラとフルートに類縁性を見出す理由として、ヴィオラのG♭4-C5とフルートのG#5-D6が増4度と減5度で転回音程の関係をなしていることがあげられる。加えて64-70小節の息の長いヴィオラのパッセージもD#4-G4による減4度を含むため、ここでは増減音程特有の響きがさらに強く印象付けられる。

 6番目の場面(84小節目)からはピアノとヴィブラフォンを中心とした新しいパターンが現れ、ヴィブラフォンのC#4を伴ってピアノは装飾音A5とB4-F#5のパターンを4回繰り返す。このピアノにヴィオラはG3で、チェロはピツィカートのF5でその都度反応する。ピアノのこの短いフレーズは「The Viola in My Life」シリーズの直前の1970年7月に作曲された「Madame Press Died Last Week at Ninety」で既に用いられている。

Feldman/ Madame Press Died Last Week at Ninety (1970)

 7番目の場面(93-98小節)でもさらに曲の様相が変わり、ヴィブラフォン、ピアノ、ヴァイオリン、チェロに続いてヴィオラが、そして少し間を置いてフルートがA♭5を鳴らすパターンを3回繰り返す。8番目でも新たなパターンへと変化し、チェロ、ヴィオラ、ヴァイオリンの順に受け渡されるパターンが繰り返される。ここからは拍子が3/8で一定しているので規則的なリズムの感覚も微かに生じる。9番目の場面(109-124小節)は6と8番目を合体させたパターンで構成されている。ピアノは6番目にも出てきた装飾音と和音、ヴィオラは8番目と同じ音型、フルートは8番目のA♭5より1オクターヴ低いA♭4を鳴らす。ヴァイオリンとチェロのピツィカートはピアノの和音を1拍目と3拍目で縁取るかのように配置されている。最後となる10番目の場面(125-126小節)でグロッケン、ピアノ、チェロが一斉に和音を鳴らすと、ヴィオラが開放弦でE♭3とG3の2音を鳴らし、思わせぶりな仕草で曲が終わる。

 1960年代の楽曲と同じく「The Viola in My Life 1」でも以前出てきたパッセージが不意に再び現れる手法が取られていることがわかった。「The Viola in My Life 1」ではヴィオラに独奏パートとして特別な地位が与えられているが、演奏者6人による比較的小規模な室内楽編成のため、時にピアノなど他のパートが楽曲の中心を担う場面も見られる。続く「The Viola in My Life 2」ではヴィオラと他の楽器はどのような関係を築いているのだろうか。

The Viola in My Life 2

Feldman/ The Viola in My Life 2

 「The Viola in My Life 2」は独奏ヴィオラとフルート、クラリネット、チェレスタ、打楽器(ヴィブラフォン、ティンパニ、カスタネット、マラカス、スネアドラム、テナードラム)、ヴァイオリン、チェロの合計7人の奏者による室内楽編成。1番と同じく独奏ヴィオラ、ヴァイオリン、チェロは終始ミュートを着けて演奏される。スコアに記載されている演奏時間は約10分。楽曲の冒頭にはテンポと全体的な曲想「♩=c 66極めて静かに。全てのアタックはビートの感覚を出さず最小限に抑えて。♩=c 66 Extremely quiet, all attacks at a minimum with no feeling of a beat.」[7]が記されている。先の「The Viola in My Life 1」ではダイナミクス記号は独奏ヴィオラのパートに限られていたが、「The Viola in My Life 2」ではヴィオラ以外のパートにもダイナミクスが細かく記されている。

 曲全体を区切ると9つの場面に分けられる。1-4(1-99小節)の場面までは3/4拍子で一定しているが、5(100小節目以降)からはヴィオラの旋律のゆらぎや、合間に挿入される全休符での沈黙の時間の長さに伴って拍子が目まぐるしく変わる。

1: mm. 1-23
2: mm. 24-34
3: mm. 35-57
4: mm. 58-99
5: mm. 100-117
6: mm. 118-129
7: mm. 130-138
8: mm. 139-173
9: mm. 174-187

 ダイナミクスの他に「The Viola in My Life 1」と異なる点として、それぞれのパートの役割がより明確になっていることがあげられる。このことはスコアの譜表の配置にも反映されている。「The Viola in My Life 1」ではヴィオラは弦楽セクションの一部として配置されていたが、「The Viola in My Life 2」ではヴィオラは独奏パートとして譜表の最上段に記されている。譜表の配置は些細な事柄かもしれないが、このことから、ヴィオラの独奏パートとしての性格が「The Viola in My Life 2」においてさらに強まっていると考えられる。

 ヴィオラ以外のパートの性格と、それらによって生み出される音楽的な役割と効果もここでははっきりしている。Saxerはこの曲の1ページ目が3つの層で構成されていると指摘する。1つ目は「絶えず動き続ける弦楽器の持続音 durchgeende, dynamisch bewegt Haltetöne der Streicher」[8]、2つ目は「フルート、クラリネット、カスタネットによるパターン Pattern aus Flöte, Klarinette und Castagnetten」[9]、3つ目は「ヴィオラの独立した旋律 individualle Melodik der Viola」[10]。これら3つの層によるテクスチュアは1-4(1-99小節)まで概ね変わらない。さらに細かく各パートの動きを見て行くと、ヴァイオリンとチェロはSaxerの指摘どおり音の引きのばしによる持続音で構成されている。だが、「The Viola in My Life 1」と同じく時折チェロがピツィカートを鳴らし、持続音によるテクスチュアとは異なる音色をここに加える。例えば、27-41小節目でのチェロはピツィカートでトレモロを鳴らして打楽器のような効果を出している。84-93小節目でもチェロのピツィカートが現れる。ここでは先ほどの打楽器的な効果とは違い、ヴィオラの旋律を思い出させるゆるやかな音型を作っている。

 木管楽器、すなわちフルートとクラリネットに関していうならば、この2つの楽器はSaxerの指摘どおり一対としてパターンを形成している。フルートの持続音に数拍遅れてクラリネットが追従するパターンはスコアでも耳でも把握しやすい。5番目の場面が始まる箇所からしばらく(100-115小節)、「The Viola in My Life 1」のピアノに、そして「Madame Press Died Last Week at Ninety」にも用いられているパターンと同じパターンが音高を変えてフルートで6回繰り返される。もしも「The Viola in My Life 1」を知っていれば、このフルートのパターンから「The Viola in My Life 1」の記憶が一瞬よみがえるような錯覚に陥るかもしれない。

 打楽器の用法も独特だ。この曲でフェルドマンはカスタネットとマラカスのトレモロを頻繁に用いている。今までのフェルドマンの楽曲の中でこれほどカスタネットとマラカスが聴こえてくる曲は他にない。カスタネットとマラカスに限らず、この曲ではスネアドラム、テナードラム、ティンパニのロールが頻繁に現れる。多くの場合、これらは他のパートに呼応して鳴らされるが、音色の性質上、他の楽器に埋もれることなく強い印象を与えている。

 ヴィオラは「The Viola in My Life 1」よりも息の長いフレーズを奏でる。ここでの一連のヴィオラは旋律といってもよいだろう。この曲ではヴィオラが、木管楽器による反復パターン、弦楽器の持続音とたまに聴こえるチェロのピツィカート、チェレスタの和音、打楽器類のトレモロやロールといったあらゆる要素から抜きん出た存在として扱われているのはたしかだ。旋律とその他のパートというはっきりした関係がヴィオラとその他のパートの間で構築されているともいえる。これまでのフェルドマンの楽曲を振り返ると、各パートや声部間の関係が判然としない楽曲が多くを占めたが、「The Viola in My Life 2」は多層的でありながらも比較的わかりやすい構成でできている。

 独奏ヴィオラによる旋律とそれぞれの楽器の層からなる関係は8番目の場面(139-173小節)から一変する。ここからはチェロの伴奏にのせてヴィオラが旋律を奏でる(この旋律は後に「Rothko Chapel」(1971)の独奏ヴィオラにも登場する)。時折スネアドラムが挿入されるが、ここはヴィオラとチェロの二重奏といってもよいだろう。チェロはF3-G2の2音パターンと、D3-C#4-F4のアルペジオをヴィオラの伴奏としてピツィカートで鳴らす。曲の最後となる9番目の場面(174-187小節)からヴィオラのパートナーはヴィブラフォンに変わる。ここからはヴィオラは旋律ではなく、先ほどチェロが鳴らしていたアルペジオと同じ和音D3-C#4-Fを鳴らす。その直前まで劇的な盛り上がりを見せたヴィオラの旋律が姿を潜め、曲の終わりへゆっくり着地する筋書きだ。これまでこの連載ではフェルドマンの音楽を概して「何とも言い難い」と表してきたが、「The Viola in My Life 2」を見る限りもはやそれは当てはまらない。フェルドマンは物語性さえも感じさせるロマンティックな音楽を書いている。

The Viola in My Life 3

 「The Viola in My Life 3」はヴィオラとピアノの編成。スコア記載の演奏時間は6分10秒。前の2曲が6〜7人の奏者による室内楽だったのに対し、編成も曲の長さも急に縮小する。曲の構成も単純で、半音階的な和音を中心としたピアノ伴奏にのせてヴィオラがダイナミクスを変化させながら持続音を弾く。前の2曲にも登場したヴィオラによるゆるやかに上行、下行する音型も登場する。ヴィオラは持続音の合間に2/3拍子、8分音符で記された12音(G♭3-C4-B3-E4-E♭-C#4-D4-A♭-C5-E5-A5-B5)からなる特徴的なパッセージを3回奏でる。ひと筆書きのように演奏される、音域の広いこのパッセージは増4度(G♭3-C4)と減5度(D4-A♭)を含んでいるせいなのか、聞き流そうとしても印象に残ってしまう奇妙な性格を持つ。実はこのパッセージは既に「The Viola in My Life 2」の83、105小節目に登場している。

 曲中のヴィオラ、ピアノともに全休符の小節は全てテンポ♩=66、2/2拍子で統一されている。このように音の鳴らない時間と空間も具体的に規定することで、フェルドマンは測られた沈黙の状態をここに作り出している。また、不意に現れる全休符による沈黙はヴィオラの持続音が旋律に発展するのを邪魔しているようにも見える。「The Viola in My Life」シリーズは全体的に旋律の性格が強い楽曲だが、フェルドマンは思いだけないタイミングで沈黙を挟むことによって連続する感覚を希薄にしようとしたのではないだろうか。「垂直」の概念に囚われていた1960年代半ばにも、彼は水平に連続する音楽的な時間の感覚に抗おうとしていた。そのことが今ここでも思い出される。

Feldman/ The Viola in My Life 3

score https://www.universaledition.com/morton-feldman-220/works/the-viola-in-my-life-3-5337

The Viola in My Life 4

 「The Viola in My Life」シリーズの最後となる「The Viola in My Life 4」は独奏ヴィオラと管弦楽による最も大きな編成。スコア記載の演奏時間は20分。シリーズの中で最も長い。管弦楽の編成は木管6部、バストロンボーンも加わった金管5部、打楽器奏者2人、ハープ、チェレスタ兼ピアノ、弦楽という一般的なものである。今度は二手に分かれた打楽器には、1番と2番で目立っていたカスタネットとマラカス等の他にチャイムやアンティーク・シンバルも加わり、「The Viola in My Life 4」ではより幅広い種類の打楽器の音色を聴くことができる。1番、2番と同じく鍵盤打楽器以外の打楽器は大半がトレモロやロールとして現れる。

Feldman/ The Viola in My Life 4

score https://www.universaledition.com/morton-feldman-220/works/the-viola-in-my-life-4-5338

「The Viola in My Life 4」作曲の経緯や、ここでのヴィオラの旋律についてフェルドマンは次のように解説している。

 The Viola in My Life Ⅳは1971年開催のヴェニス・ビエンナーレによる委嘱作品で、この曲に先立つ3つの室内楽曲で用いられた素材の管弦楽への「翻訳」と言えるだろう。私のここでの意図は旋律とモティーフの断片について考えることと―—ロバート・ラウシェンバーグが彼の絵画の中に写真を使うように—―私の楽曲にさらに特徴的な静的な音の世界にそれを重ねることだった。

 多少なりとも「ありきたりな」響きに聴こえそうな曲なのに、そこに形式的な思考が欠けていることは伝わりにくい。

 周期的に現れる旋律は構造的な機能を持たない。この旋律はこの曲に沿って動くものというより「記憶」として戻ってくる。状況は発展というより微かな変化を伴って繰り返す。静止は期待とその実現との間で発展する。夢の中のように、私たちが目を覚ますまでそこから逃れられない。だが、その夢が終わってしまったからというわけではない。

 The Viola in My Life Ⅳ was commissioned by the Venice Biennale for its 1971 Festival, and could be described as an orchestral “translation” of material used in the three chamber pieces preceding it. My intention was to think of melody and motivic fragments—somewhat the way Robert Rauschenberg uses photographs in his painting[11]—and superimpose this on a static sound world more characteristic of my music.

 What is difficult to convey is the absence of formal ideas on what appears to be a more or less “conventional” sounding composition.

 The recurrent melody serves no structural function. It comes back more as “memory” than as something that moves the work along. Situations repeat themselves with subtle changes rather than developing. A stasis develops between expectance and its realization. As in a dream, there is no release until we wake up, and not because the dream has ended.[12]

 ここでフェルドマンが言及しているラウシェンバーグの写真を使った作品とは、新聞や雑誌の写真を溶液やテレピン油に浸水させ、それを擦って紙に転写するトランスファー・ドローイング、あるいはソルヴェント・トランスファーと呼ばれる技法だと推測できる。[13]この技法を用いて写真をフロッタージュのような方法で擦り付けて紙に転写することで、その写真の持っていた元来の意味や歴史が失われる、またはもとのものとは違う存在として浮かび上がる。これも時間、歴史、記憶に関係する異化効果の1つだといってもよいだろう。このような異化効果と記憶の作用は、場合によっては微かに姿を変えて、少し前に現れた旋律や断片が思いがけない箇所で再び突然現れるフェルドマンの音楽と共通している。「The Viola in My Life」1-3を管弦楽に翻訳した「The Viola in My Life 4」は、これら3曲から曲中の素材や断片が引き出され、全体が再構成されている。フェルドマンがここでラウシェンバーグに言及しているとおり、このような構成方法は絵画におけるコラージュやフォトモンタージュに例えることも可能だろう。

 スコアの概要を見ていこう。スコア冒頭に「♩=c 63極めて静かに。全てのアタックはビートの感覚を出さず最小限に抑えて。♩=c 63 Extremely quiet, all attacks at a minimum with no feeling of a beat.」と、テンポと全体の曲想が記されている。テンポが♩=c 66から♩=c 63へとほんの少し遅くなった点以外、この文言は「The Viola in My Life 2」と同じだ。独奏ヴィオラのパートは弦楽セクションの一番上に配置されている。独奏ヴィオラ、金管楽器と弦楽器(ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ)にはミュート装着の指示が記されている。だが、169-175小節の独奏ヴィオラでは、この曲のシリーズの中で初めてヴィオラがミュートを外して演奏する。ダイナミクスに関する表記は、この曲でもほぼ全パートに渡って細かく指示されていて、前の3曲に続いてダイナミクスの変化が楽曲の中で重要視されていることがわかる。めまぐるしく変化する拍子は独奏ヴィオラの持続音と旋律に基づいており、独奏ヴィオラと他のパートとの従属関係はここでも明白だ。

 場面の変化に応じて全体を12に区切ることができる。下線が引かれているのは、「The Viola in My Life 2」118-129小節目の独奏ヴィオラが旋律を奏で、チェロがその伴奏を担う箇所をそっくりそのまま転用した部分である。先に引用したフェルドマンがラウシェンバーグのトランスファー・ドローイングに言及したと思われる楽曲解説を思い出すと、これらの部分は「The Viola in My Life 2」からのコラージュともいえる。

1: mm. 1-22
2: mm. 23-52
3: mm. 53-65
4: mm. 66-83
5: mm. 84-96
6: mm. 97-132
7: mm. 133-168
8: mm. 169-175
9: mm. 176-187
10: mm. 188-234
11: mm. 235-251
12: mm. 252-259
13: mm. 260-278

 「The Viola in My Life 2」でのヴィオラの旋律だけではなく、「The Viola in My Life 4」は前の3つの曲と素材を共有している。あるいは前の3つの曲に由来する旋律やパッセージをこの曲の中に見つけることができる。それぞれのパッセージの初出はどこなのかをいくつか探してみよう。例えば、曲が始まってすぐの独奏ヴィオラによるG5-B♭5-A5-B5の4音(2-4小節目)は、「The Viola in My Life 1」の中で最も息の長いパッセージを構成する67-69小節目の4音C-5-E5-C#5-F5を想起させる。この2つのパッセージは跳躍の幅、つまり各音の間の音程がまったく同じではないものの、どちらも4音の動きが上行-下行-上行による山と谷を描いており、類似する音型とみなしてよいだろう。2番目の場面にあたる23小節目からは独奏ヴィオラが6〜7音からなる上行形のパッセージをその都度、音高を変えて5回繰り返す。これらのパッセージは、音の数や増減音程を含む点で、そのルーツを「The Viola in My Life 2」の58小節目に現れるG♭3-C4-E4-F4-B4-E♭5にさかのぼることができる。もう1つ、「The Viola in My Life 2」からの引用として、105小節目の独奏ヴィオラの12音からなるパッセージ(G♭3-C4-B3-E4-E♭-C#4-D4-A♭-C5-E5-A5-B5)をあげることができる。「The Viola in My Life 2」83小節目の、この印象深いパッセージは「The Viola in My Life 3」にもそっくりそのまま登場することは既に述べた。「The Viola in My Life 4」では、このパッセージが少しずつかたちを変えながら113、154、225、227、229、231、241小節目で鳴らされる。特に225-231では短いスパンでこのパッセージが繰り返されるので、緊張感を伴う劇的な効果が曲にもたらされている。

 独奏ヴィオラ以外にも前の3曲からのコラージュ、あるいは引用が行われている。6番目の場面にあたる97-99小節の間にピッコロがG4-E♭4の、フルートがG5-E♭5のフレーズを2回繰り返す。この2音は「The Viola in My Life」シリーズの前身ともいえる「Madame Press…」からの引用であり、また「The Viola in My Life 2」100-137小節の間でフルートのB5-G#5として何度も繰り返されるフレーズと同類のものである。「The Viola in My Life 4」では曲の後半になるとフルート以外のパートにもこのフレーズが敷衍されていて、151、153小節では他の木管楽器全てとホルン、トランペット、ヴィオラ、チェロがこのフレーズを鳴らす。

 管弦楽の書法については、9番目の場面にあたる176-187小節がこの曲の中で特筆すべき箇所である。チェロの伴奏を伴わない純然たる独奏ヴィオラの直後、オーケストラのトゥッティが突然始まり、E♭-D-G-Fのフレーズがユニゾンで繰り返される。ダイナミクスのppからfffへの変化もあいまって、まるで映画音楽のようでもある。曲の進行と同じく唐突だが、ここで1つ仮説を立ててみよう。この管弦楽の書法は、ユニゾンを基調としながらもいくつかのパートの内声部によって響きにグラデーションがもたらされていること、2拍3連符によるゆるやかな音型、ダイナミクスの細かな変化といった点で、武満徹の「弦楽のためのレクイエム」(1955-1957)の冒頭と類似しているのではないだろうか(奇しくも「弦楽のためのレクイエム」では短いが独奏ヴィオラが入る)。もちろん「The Viola in My Life 4」の作曲に際してフェルドマンが武満の「弦楽のためのレクイエム」を参照していた確証はまったくないし、これまでのインタヴューやその他資料でも触れられていない。さらには、この2人の直接的な交流が始まったのは1977年代後半[14]からなので、1971年の時点でフェルドマンがどれくらい武満の音楽を知っていたのかもわからない。しかし、「The Viola in My Life 4」の176-187小節間に聴こえる響きは「弦楽のためのレクイエム」との何かしらのつながりや共通点を感じさせる。

武満徹/弦楽のためのレクイエム(1957)

 トゥッティでの劇的な身振りを経て、10番目の場面から(189小節目)、再び独奏ヴィオラの旋律が聴こえてくるが、今度は先の9番目の場面のユニゾンのフレーズから派生した3音のフレーズを鳴らすピッコロとフルートが加わる。この3音は2-3小節目の独奏ヴィオラのフレーズとも同じ音型である。今まではピツィカートだったチェロの伴奏形もここで変わり、旋律と伴奏というこれまでの関係がやや複雑になる。11番目の場面以降もこの3音のフレーズは様々なパートに敷衍される。12番目(252-259小節)での独奏ヴィオラとチェロの二重奏を経て、13番目の場面が始まる。274小節目から再び独奏ヴィオラの旋律が始まる。だが、繰り返し聴こえてきた独奏ヴィオラの旋律で静かに幕を閉じるという予想はあっさり裏切られる。283小節目でピアノが和音を強打し、これまでの叙情的な雰囲気が突然断ち切られるのだ。ピアノの和音の響きの中で独奏ヴィオラが力強くA♭4とD3の2音を鳴らし、これに続いてコントラバスがA♭2をひっそりとpppで引きのばして曲が終わる。

 フェルドマンが楽曲解説で述べていたように、「The Viola in My Life」1-3を管弦楽に翻訳した「The Viola in My Life 4」は先の3曲からの引用やコラージュで構成されていることがわかった。フェルドマンには珍しい要素である旋律を前面に出した曲として特殊な楽曲とみなされるものの、「The Viola in My Life 4」は楽曲の長さや協奏曲風の編成の点で1970年以降の彼の音楽の行く末を予示している。

 次回は1970年代中頃から頻繁に見られるようになった独奏楽器とアンサンブルによる協奏曲風の楽曲についてとりあげる予定である。


[1] Morton Feldman Says: Selected Interviews and Lectures 1964-1987, Edited by Chris Villars, London: Hyphen Press, 2006, p. 47
[2] Ibid., p. 47
[3] Karen Ann Phillipsは1942年ダラス生まれのヴィオラ奏者、ピアニスト、音楽教師。1979年頃に演奏活動を休止している。詳しい経歴はMorton Feldman Page https://www.cnvill.net/mftexts.htmのテキスト・リストにある”Karen Phillips- A Chronology”参照。
[4] Ibid., p. 269
[5] Morton Feldman, “I Met Heine on the Rue Fürstemberg,” Give My Regards to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman, Edited by B. H. Friedman, Cambridge: Exact Change, 2000, p. 90
[6] Ibid., p. 90
[7] Morton Feldman, The Viola in My Life 2, UE 15399, 1972
[8] Marion Saxer, Between Categories: Studium zum Komponieren Morton Feldmans von 1951 bis 1977, Saarbrücken, Pfau, 1998, s. 181
[9] Ibid., s. 181
[10] Ibid., s. 181
[11] トランスファー・ドローイング、あるいはソルヴェント・ドローイングの概要は以下のサイトに解説されている。Robert Rauschenberg Foundation https://www.rauschenbergfoundation.org/art/lightboxes/transfer-drawings
滋賀県立近代美術館 http://www.shiga-kinbi.jp/db/?p=11967
[12] Feldman 2000, op. cit., pp. 90-91
[13] 前掲の滋賀県立美術館の解説を参照した。http://www.shiga-kinbi.jp/db/?p=11967
[14] 1977年に武満徹はバッファロー大学に招かれて講演を行い、彼の曲も演奏された。フェルドマンは東京で行われたインター・リンク・フェスティヴァルのために1985年に来日し、武満と対談を行った。

高橋智子
1978年仙台市生まれ。Joy DivisionとNew Orderが好きな無職。
(次回は3月18日更新予定です)

あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(11) 1970年代前半の出来事と楽曲-2

文:高橋智子

2 1970年代の楽曲の主な特徴

 同じニューヨーク州内とはいえ、人口密度の高い大都市ニューヨーク市から、ナイアガラの滝に接するバッファロー市への引越しはフェルドマンの人生に劇的な変化をもたらしたと想像できる。この環境の変化は彼の音楽にも大きく影響し、とりわけ曲の長さや編成に反映されている。1972年にバッファローに拠点を移したフェルドマンの音楽の新たな境地はどのように受け止められたのだろうか。ニューヨーク時代のフェルドマンのかつての教え子で作曲家のトム・ジョンソンは、1973年2月14日にカーネギー・ホールで行われたバッファロー大学のThe Center of the Creative and Performing Artsの演奏会評を『Village Voice』に寄稿している。この演奏会ではフェルドマンの「Voices and Instruments 2」が演奏された。

 とても柔らかなこの曲(訳注: Voices and Instruments 2)は独立した音と和音で構成されていて、その大半が引きのばされており、いわゆる旋律やリズムにまつわる着想はない。音高と音色は注意深く選び抜かれていて、そこから生じた絶えず揺れ動く響きがこの曲での重要な事柄だ。この曲ではアンサンブルはフルート、2人のチェロ、コントラバス、曲の大部分を高音域のハミングで歌う3人の歌手で構成されている。

 この新しい曲はフェルドマンの典型的な楽曲よりもかなり長いのだが、1つの感覚を最初から最後まで維持するというよりも、曲の性格を著しく変化させている。ある箇所では、1つの和音が、その和音の構成音が再び変化するまでしばらく引きのばされる。1つか2つのパートがしばらく演奏しない時もある。この曲の響きの感覚も曲中の別の箇所では違っているように見える。だが、これらの変化は極めて微かだったので、一度聴いただけでは指摘できない。

 今ではフェルドマンはさらに長い形式へと移っていて、時間に対する彼の鋭敏な感覚、響きと音色に対する絶妙な(ぎりぎりの)操作はこれまで以上に目を引いた。フェルドマンを一風変わった細密画家とみなしていた人々は再考を迫られるだろう。

The piece is very soft and consists of individual notes and chords, mostly sustained, without any melodies or rhythmic ideas, to speak of. The pitches and colors are carefully chosen, and there is great concern for the constantly fluctuating harmonies which result from them. In this case, the ensemble consists of flute, two cellos, bass, and three singers who hum, mostly in the upper register.

 The new piece, however, is much longer than the typical Feldman piece, and it changes character noticeably, rather than maintaining one feeling from beginning to end. At one point, a single chord is sustained for quite a while before the notes start to change again. Sometimes one or two instruments will not play for a while. The harmonic feeling of the music also seems to be different in different parts of the piece, though these changes were too subtle for me to put my finger on in one hearing.

 Now that Feldman is moving into longer forms, his sensitivity to time and his exquisite (oops) control over harmonies and tone colors are more apparent than ever. Those who have considered Feldman a quaint miniaturist will be forced to take a second look.[1]

 フェルドマンの元教え子だけあり、ジョンソンによる「Voices and Instruments 2」の描写は的確だ。各パートの音の引きのばしで構成されているこの曲のテクスチュアは動きが少なく平坦に感じられる。ジョンソンが書いているように、この曲は一聴しただけではそれぞれの和音の変化など細部を指摘するのが難しい。スコアを見てみると、彼が言及していないいくつかの特徴を見つけることができる。この曲では平坦なテクスチュアの合間にいくつかの異質な出来事が随所に起きている。6ページの後半からフルートのパートが音のまとまりを感じさせる動きを見せる。また、チェロとコントラバスが予期せぬタイミングでピツィカートによる単音を鳴らす。これらは平坦なテクスチュアに異質な要素を密かにさし挟む役割を担っている。時間の感覚と拍子について補足すると、スコア中央部に配置されたフルートのパートに拍子記号が記されていて、他のパートもこの記号に倣う。1960年代後半の楽曲と同じく、ここでも拍子がめまぐるしく変化する。このコンサートでの演奏についてジョンソンは「彼らはとても柔らかく演奏していたので演奏中の大半は制御を失うかどうかの瀬戸際に立っており、さらにはチェロの弓や歌い手の声がほんの一瞬、制御不能に陥った。They played so softly that they were right on the brink of losing control most of the time, and occasionally a cello bow or a singer’s voice did go out of control briefly.」[2]と描写するが、この曲に対する演奏家たちのアプローチを概ね高く評価している。

Feldman/ Voices and Instruments 2 (1972)

score https://www.universaledition.com/morton-feldman-220/works/voices-and-instruments-2-5700

 ジョンソンは1970年代のフェルドマンの音楽に起きた変化について、音の引きのばしによる音色の絶妙な操作と長さを指摘した。これまでにこの連載で何度か解説したように、1950年代、1960年代のフェルドマンの音楽は記譜法とともに変遷してきたことも看過できない。1967年に図形楽譜の使用をやめ、1969年に自由な持続の記譜法による最後の楽曲「Between Categories」を書いて以来、1970年代から1987年のフェルドマン最晩年の楽曲に至るまで、ほとんどすべての楽曲が慣習的な五線譜による記譜法で書かれている。ポール・グリフィスによる1972年のインタヴューの中で、図形楽譜を再びやめて五線譜に戻った理由を訊ねられたフェルドマンは「それがどんな記譜法であれ、その曲が必要としていると思った記譜法でいつも作曲しているのです。I always worked with whatever notation I felt the work called for.」[3]と答えている。五線譜による正確な記譜法を用いるようになった技術的な理由として、フェルドマンはクレシェンドの用法をあげている。

例えば「The viola in my life」では、ヴィオラのほとんどすべての音の下に微かなクレシェンドが記されています。もはや自由な持続の記譜法ではクレシェンドを書くことができません。リズムのかたちは様々な種類のクレシェンドの長さからもたらされたのです。今では私は正確な記譜法に魅了されるようになりました。なぜなら、私はこの記譜法を他の事柄を測るためにも用いているからです。普通ならこんなことを考えもしなかったでしょう。この2年間の私の音楽の大半は正確に記譜されていますが、曲ごとに違う理由があるのです。

For example, in The viola in my life underlying almost every viola sound there is a slight crescendo. Now in a free duration you cannot write a crescendo, so the rhythmic proportions were brought about because of the durations of the various types of crescendo. I’ve become fascinated with precise notation now, because I use it to measure other things, which ordinarily I would never have thought of. Most of my music of the past two years is precisely notated, but each piece for a different reason.[4]

 1960年代の自由な持続の記譜法による大半の楽曲では、スコアの冒頭に曲全体に対するダイナミクスとアタックの指示「「極端なくらい柔らかくExtremely soft.」(「De Kooning」の演奏指示)や「それぞれの音は最小限のアタックでEach sound with a minimum of attack.」(「Chorus and Instruments」の演奏指示)が書かれるだけだったが、1970年代の楽曲にはクレシェンド、デクレシェンドが細かく書き付けられ、強弱記号も使われるようになる。「The Viola in My Life」1-4 (1970-71)がその顕著な例で、これらの楽曲ではクレシェンドによる音の強弱の変化から音の輪郭を引き出す試みがなされている。五線譜による正確な記譜法はダイナミクスやリズム以外の音楽の側面を測りうるともフェルドマンは言っている。おそらくこれは、細かな指示のダイナミクスと並ぶこの時期の楽曲の特徴のひとつ、拍子の頻繁な変化を指しているのだと考えられる。緻密な記譜の傾向はこの頃から徐々に強まり、やがて1970年代後半からの反復による長大な楽曲へと行き着く。

 1960年代の楽曲は珍しい組み合わせによる室内楽編成が中心だったが、1970年代からは独唱、混声合唱、弦楽四重奏、管弦楽による楽曲も増えてくる。新しい音楽に理解のあるバッファロー大学の同僚や学生による演奏の機会に恵まれたことと、フェルドマンが楽団や組織等から楽曲の委嘱を受けるようになったことが編成の変化にも関係していたはずだ。例えば1973年作曲、1975年1月初演の「String Quartet and Orchestra」は当時バッファロー・フィルハーモニクの音楽監督を務めていた指揮者のマイケル・ティルソン・トーマスと同楽団からの委嘱作品だ。タイトルが示すとおり、この曲は弦楽四重奏と管弦楽による大規模な編成である。1970年代には独奏や独唱と弦楽四重奏、独奏と管弦楽などの一見、協奏曲風の編成の楽曲群も始まる。ここで「協奏曲風」と書いたのは、これらの編成の楽曲では、独奏パートによるカデンツァ、独奏楽器とアンサンブルとの対比などの慣習的な協奏曲の原理とはやや異なる様相でそれぞれのパートが位置付けられている場合が少なくないからだ。フェルドマンの協奏曲編成の楽曲についてはいずれこの連載で考察する予定である。

Feldman/ String Quartet and Orchestra (1973)

score https://www.universaledition.com/morton-feldman-220/works/string-quartet-and-orchestra-5015

 1970年代からは曲も長くなる。フェルドマンは演奏に5~7時間を要する「String Quartet 2」(1983)などの長時間の楽曲で知られているが、この傾向も1970年代から始まる。しかし、ある日突然フェルドマンの音楽が長くなったわけではない。また、曲の長さだけが延びたのではなく、音楽の書法そのものにも変化が伴っている。先に引用した演奏会評の約2年後にあたる1975年3月24日発行の『Village Voice』に掲載されたフェルドマンの「Instruments 1」(1974)について書いた文章の中で、ジョンソンはこの曲の特徴を次のように描写している。

フェルドマンのすべての曲と同様に、概して楽器は孤立した音と和音を演奏し、テクスチュアも比較的まばらだ。だが、初期の楽曲には起きたことのない多くのジェスチュアも見られる。ミュート付きのトロンボーンは時折グリッサンドを演奏する。オーボエの音によるシークエンスは旋律のような性質に近づいているともいえるだろう。柔らかなティンパニとバスドラムのロールがたまに挿入される。とある箇所でマラカスの静かなさざめきが始まる。その穏やかさにもかかわらず畏怖さえ感じさせる背景のなかで、それはとても劇的だ。

As in all Feldman’s works, the instruments generally play isolated tones and chords, and the texture is relatively sparse. But there are also a number of gestures which never occurred in earlier pieces. The muted trombone plays occasional glissandos. A sequence of oboe tones may become almost melodic in character. Soft-timpani and bass-drum rolls occasionally intrude. At one point a quiet swish of maracas comes in, so dramatic in the context that it seems almost scary for all its gentleness.[5]

 「Instruments 1」はアルト・フルート兼ピッコロ、オーボエ兼コール・アングレ、トロンボーン、チェレスタ、打楽器奏者2人による6人編成の室内楽曲だ。演奏時間は約18分。記譜法は「Voices and Instruments 2」とほぼ同じ形式で書かれているが、ここでジョンソンが解説しているように、トロンボーンの低音域でのグリッサンド、オーボエの音型、打楽器の用法などの点でこれまでのフェルドマンの楽曲にはない要素が新たに加わっている。この文章の終盤では、ジョンソンはフェルドマンの楽曲が響きによる空間と実際の演奏時間両方において規模が大きくなっていると指摘する。

今や彼はこれまで以上の大きさで作曲しているが、大きなキャンヴァスの使い方を語っていたことがある。大きなキャンヴァスにはマラカスの奇妙なグリッサンドや風を切るような音が絵の中に入り込む可能性もおおいにあるのだと。60年代の彼の曲は全面絵画とみなすことができ、最初から最後まで一定のムードを保っていた。しかし、今は音楽の残りの部分からむしろ著しく際立った領域を彼のキャンヴァスに見出すこともある。これもまた色の問題だ。60年代の彼の作品の大半がパステルで描かれていたが、現在、彼は茶色やグレーもたまに使う。

He talked about how, now that he was working on a larger scale, using larger canvases, there was a greatest possibility that a strange glissando or a swish of maracas would enter the picture. One could say that his pieces of the ‘60s were all-over paintings, which maintained a constant mood from beginning to end. But now, one sometimes finds areas in his canvases which stand out rather sharply from the rest of the music. It is also a question of color. While his work in the ‘60s was done largely in pastels, he now uses occasional browns and greys as well.[6]

 ここではキャンヴァスが曲の長さや規模にたとえられていて、60年代の楽曲をパステルで描かれた全面絵画とみなすならば、70年代前半の楽曲はグレーや茶色の色彩にマラカスによるグラデーションが加わった、より微細な変化を描いた大きなキャンヴァスの絵画ということができるだろう。ここでジョンソンが書いているとおり、60年代後半から70年代前半にかけてのフェルドマンの楽曲には太鼓類、マラカス、カスタネットなど打楽器のトレモロやロールが頻繁に現れる。次のセクションで解説する「The Viola in My Life」の1、2、4番でもこれらの打楽器が用いられており、弦楽器、管楽器、鍵盤楽器、声の音色に陰影や奥行きを感じさせる効果をもたらしている。70年代前半の楽曲によく見られる打楽器のトレモロは音の空間的な広がりに寄与しているとも考えられる。

Feldman/ Instruments 1 (1974)

score https://www.universaledition.com/morton-feldman-220/works/instruments-1-2896

 「Instruments 1」に見られたような音の響きの余韻や広がりを受けて、フェルドマンの音楽が次第に長くなっていったのではないだろうか。楽譜が出版されている70年代の主な楽曲の演奏時間とその変遷を見てみよう。これらの演奏時間はUniversal Editionのスコアに記載されている演奏時間を参照した。

1970年に作曲された楽曲

  • Madame Press Died Last Week at Ninety: 4分
  • The Viola in My Life 1: 9分45分
  • The Viola in My Life 2: 12分
  • The Viola in My Life 3: 6分10秒

1971年に作曲された楽曲

  • The Viola in My Life 4: 20分
  • I Met Heine on the Rue Fürstemberg: 10分
  • Rothko Chapel: 30分
  • Chorus and Orchestra 1: 15分

1972年に作曲された楽曲

  • Cello and Orchestra: 19分
  • Chorus and Orchestra 2: 22分
  • Voice and Instruments 1: 15分

1973年に作曲された楽曲

  • String Quartet and Orchestra: 22分
  • Voice and Cello: 7分

1974年に作曲された楽曲

  • Voice and Instruments 2: 12分
  • Instruments 1: 18分

1975年に作曲された楽曲

  • Piano and Orchestra: 21分
  • Instruments 2: 18分
  • Four Instruments: 6分

1976年に作曲された楽曲

  • Oboe and Orchestra: 18分
  • Voice, Violin and Piano: 5分
  • Orchestra: 18分
  • Elemental Procedures: 20分
  • Routine Investigations: 9分

1977年に作曲された楽曲

  • Neither: 55分
  • Piano: 25分
  • Instruments 3: 15分
  • Spring of Chosroes: 12分

1978年に作曲された楽曲

  • Flute and Orchestra: 35分
  • Why Patterns?: 35分

1979年に作曲された楽曲

  • Violin and Orchestra: 65分
  • String Quartet No. 1: 100分

 1971年の「The Viola in My Life 4」20分、「Rothko Chapel」30分を皮切りに、1972年以降から「Cello and Orchestra」(1972)、「String Quartet and Orchestra」(1973)をはじめとする20分前後の曲が増えてくる。その後、依然として1973年から76年までの間も20分前後の曲が続く。1977年の1幕編成、演奏時間55分のオペラ『Neither』を経た1978年から「Flute and Orchestra」35分、「Why Patterns?」35分、「Violin and Orchestra」65分と、以前よりさらに曲が長くなり、1979年には100分を要する「String Quartet No. 1」に行き着く。80年代以降はよく知られているように、さらに長い大曲が生み出されることとなる。本稿で既に述べたバッファローへの転居によって作曲に集中できるようになったことや委嘱の増加が、フェルドマンの曲が長くなった環境的な要因として考えられる。また、1976年にバッファロー大学 Center of the Creative and Performing Artsの演奏旅行でイランのシラズを訪問した際、フェルドマンが現地で絨毯の世界に目覚めたことも1970年代後半以降の長時間の楽曲と大きく関係している。中東の絨毯と後期の楽曲についてはこの連載で後に解説する予定だが、ここでごく簡単にまとめると、連綿と続く細かな織のパターンが1970年代後半以降のフェルドマンの記譜法や時間の感覚に大きな影響を与えたといわれている。

 このセクションでは「普通の」五線譜に戻った1970年代のフェルドマンを取り巻く環境と彼の音楽の変化を概説した。次のセクションでは、1970年代前半の彼の楽曲のなかでもやや特殊な性格の「The Viola in My Life」1-4について解説する。


[1] Tom Johnson, “On the soft and wild sides,” Village Voice, February 22, 1973
[2] Ibid.
[3] Morton Feldman Says: Selected Interviews and Lectures 1964-1987, Edited by Chris Villars, London: Hyphen Press, 2006, p. 47
[4] Ibid., p. 47
[5] 記事の初出は1975年3月24日発行の『Village Voice』。Tom Johnson, “Morton Feldman’s Instruments,” The Voice of New Musicにも収録されている。この著作集にはページ番号が打たれていない。
[6] Ibid.

高橋智子
1978年仙台市生まれ。Joy DivisionとNew Orderが好きな無職。
(次回は3月4日更新予定です)

あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(11) 1970年代前半の出来事と楽曲-1

文:高橋智子

1 1970年代前半の出来事と楽曲

 これまでのフェルドマンの創作の歩みをごく簡単に振り返ってみよう。1950年代のフェルドマンは、ジョン・ケージを介して出会った抽象表現主義の画家や詩人たちとの交流の中から創作の着想を得て試行錯誤を重ねた。1960年代に入っても彼の創作はニューヨークを中心とする画家や詩人との交友関係が重要な役割を果たしていた。「For Franz Kline」(1962)や「De Kooning」(1963)は彼の友人でもある画家たちに捧げられた楽曲だ。1964年にはレナード・バーンスタイン指揮、ニューヨーク・フィルによって自身の楽曲が演奏され(第8回でとりあげたように、この演奏会の評判は芳しくなかったが)、「ニューヨークの気鋭作曲家」としての地位が徐々に確立されてきた。楽譜出版に関しては、1962年にフェルドマンはペータース Edition Petersと契約し、1950年代、1960年代のほとんどの楽曲はここから出版されている。1969年にフェルドマンはウニヴェルザール(またはユニヴァーサル)Universal Edition(以下、UE)と契約した。彼の最後の図形楽譜となった「In search of an orchestration」(1967)がUEから初めて出版された楽譜だ。以降フェルドマンの楽譜はUE[1]から出版されている。1970年代前半は出版社だけでなく、フェルドマンの周りの環境も音楽も大きく変わった時期である。

 1970年代前半にフェルドマンに起きた主な出来事として、ヨーロッパでの評価の高まり、教師としてのキャリアの始まり、バッファローへの転居があげられる。1950年代、60年代に既にヨーロッパ各地で演奏や講演活動をしていたケージとデヴィッド・チュードア、そして彼のライバルだったカールハインツ・シュトックハウゼンとピエール・ブーレーズをとおしてフェルドマンの存在と音楽はヨーロッパでも注目され始めていた。60年代後半から特にイギリスの現代音楽界で注目され、1966年にフェルドマンはイギリスでの2週間の講演ツアーを行った。また、フェルドマンは1950年代後半頃から既にコーネリアス・カーデューとも親交があった。フェルドマンとイギリスの現代音楽界との関係が1970年代に入るとますます強まる一方、彼は地元ニューヨークに対する失望と苛立ちを見せるようになる。1973年に書かれたエッセイ「I Met Heine on the Rue Fürstemberg」[2]の中で、1950年代、60年代当時のニューヨークのシーンのやや閉じた雰囲気について回想している。

その時ヴィレッジ[3]で、私たちは一般的に世界にまだ知られていなかった芸術の何かを共有しているのだと感じていた。それは一種の袋小路だったが、それでも私はその気分を楽しんでいる。私は同時代の音楽を聴くことがほとんどできなかった時代に育った。もしもそういう音楽を聴くことができた人に出会ったなら、その人はその音楽に関わっている人だった。

We had the feeling, then in the Village, of sharing something in art that was unknown to the world at large. It was a kind of cul-de-sac, and I still enjoy the feeling. I grew up in an era when there was very little ability to hear contemporary music. And when you met someone who could, there was that kinship.[4]

 このシーンの渦中にいた本人たちはそれなりに満足していただろうが、刺激や新しさの点でフェルドマンは物足りなさを感じていたのかもしれない。また、自分の音楽はもっと注目され、評価されてしかるべきという気持ちもあったのだと推測できる。そんな彼の苛立ちを少し和らげたのはイギリスの音楽界との接点だった。

 私はほぼ同時にイギリスの知識層とアングラに注目された。1950年後半にはコーネリアス・カーデューに、1960年代前半はウィルフリッド・メラーズ[5]によって。
 1966年から私は年に2、3ヶ月をイギリスで過ごしていて、おそらくバッファローの後にロンドンに行くだろう。イギリスの観客は他の観客とは違う。最高の雰囲気だ。私は変わり者だとまったく思われていない。
 例えば1972年にB.B.C(訳註:BBC)で「The Viola in My Life」と「Rothko Chapel」のオーケストラ演奏に加えて、自分ひとりによる3時間の番組を2回行った。私はイギリスの音楽生活の一部となった。アメリカでは「音楽生活の一部」になるようなことはありえない。

I was picked up in England by the establishment and the underground at about the same time. By Cornelius Cardew in the late fifties and by Wilfrid Mellers in the early sixties.
From 1966 on I’ve spent two or three months of the year in England, and I’ll probably go to London after Buffalo. They listen like no other audience. It’s the best atmosphere. I’m not really considered far-out.
In 1972, for instance, I had two three-hour one-man shows on the B.B.C.[sic], plus orchestral performances of The Viola in My Life and Rothko Chapel. I’ve become part of musical life in England. In America there’s really no such thing as “part of musical life.”[6]

 ここでフェルドマンは、集団即興の可能性を追求していたカーデューをイギリスの「アングラ」、音楽批評家として同時代の音楽を積極的に紹介していたメラーズを「知識層」と位置付けている。自分の音楽がイギリスの実験音楽界隈と現代音楽界隈の両方で受容されていることにフェルドマンは満足げだ。当時、彼はロンドンにフラットの一室を借りていてロンドンのシーンに直接的に関わっていた。また、この頃の楽曲のいくつかはイギリスのアンサンブル・グループ Fires of Londonや作曲家アラン・ハッカーのグループ Matrixに献呈されている。[7]ニューヨーク以外の場所とのつながりや評価が増していくにつれて、フェルドマンのニューヨークに対する想いが冷めていく。詳しくは後述するが、このエッセイが書かれた1973年当時、彼は既にバッファローに転居していた。

 ニューヨークとの接点を失ってしまった。私はいつもある種の部外者だったし、よい批評もされなかった。知ってのとおり、ニューヨークはパリと同じく現代音楽の街ではなかった。観客は忘れっぽく、作曲家についてもっと知ろうとする興味も抱かない。
 (ニューヨーク・フィルハーモニックの指揮者としての)ブーレーズのプログラムは実験的ではない。むしろ予測できる反応とともに、どこかで最初になされた事例を華麗に示してくれる。
 だから私は決まった音楽サークルに近づかなかった。実際バッファローでこうしていることが私にとっての初めてのアカデミックな状況だ。
 革新的な作曲家と人々は言う。だが、私は常に大きな歴史意識、つまり伝統や継続性の感覚を持っている。

  I’ve lost contact with New York. I was always sort of Odd Man Out, not good reviews. New York, you know, was never a modern music city, any more than Paris. The audience has no memory, not interested in getting to know more about a composer.
  Boulez’s programs[as conductor of New York Philharmonic]are not experimental. Rather glamorous samples of things done first somewhere else, with a known reaction.
 So I didn’t come up through regular music circles. In fact, this thing in Buffalo is my first academic situation.
 Radical composer, they say. But you see I’ve always had this big sense of history, the feeling of tradition, continuity.[8]

 1950年末頃から数年続いたケージ、デヴィット・チュードア、アール・ブラウン、クリスチャン・ウォルフとのニューヨーク・スクールとしての活動、ジャクソン・ポロック、フランツ・クライン、デ・クーニングらとのクラブやセダー・タヴァーンでの芸術談義はフェルドマンにとってもはや過去のものとなり、心情的にも彼とニューヨークのシーンとの隔たりは1970年代頃から顕著になっていく。ニューヨークのシーンに対するフェルドマンの想いをさらに複雑にさせた出来事があった。それは1970年10月にニューヨークのマルボロ・ギャラリーで開催されたフィリップ・ガストンの個展だ。この個展が開かれるまでフェルドマンとガストンは親友同士だった。1950年から1966年頃までのガストンの抽象時代[9]の作品は、キャンヴァスに描かれたくすんだ色彩による微かなかたちを特徴とする。まるで何かの痕跡のようにも見えるガストンのこの時期の作品は、破線を用いて楽譜の中に音楽の痕跡を描こうとしたフェルドマンの自由な持続の記譜法に少なからず影響を与えたと推測できる。前回解説した「Between Categories」(1969)をはじめとする1960年代に書かれたフェルドマンのエッセイにガストンが度々登場し、フェルドマンの音楽における時間や空間の概念に大きな示唆を与えていた。1964年にはフェルドマンは自由な持続の記譜法によるピアノ小品「Piano Piece (to Philip Guston)」を作曲している。だが、2人の友情は1970年10月のガストンの個展をきっかけに、しかもフェルドマンから一方的に終わってしまう。[10]

 マルボロ・ギャラリーで開かれたガストンの個展は主に1967年から1970年までに描かれた作品[11]で構成されていた。この頃からガストンは1950年代から1966年頃までの抽象とは全く異なる、具象というより漫画や戯画のような作風に転じる。この作風の変化がフェルドマンを大きく失望させ、彼はガストンとの友情にも終止符を打つ。この個展は当時どのように受けとめられたのだろうか。1970年11月5日発行の『Village Voice』に掲載された批評を見てみよう。

ガストンの新しい絵は漫画調で、変てこで、哀れで、社会的だ。頭巾をかぶって(KKK?)、切れ長の目をした人物がガタガタの車でうろつき、絵を描き、互いに殴り合い、たばこを吸う。時計、電球、指さし、ぶかぶかの靴は戯画化された姿で責め立ててくる。それはまるでデ・キリコが二日酔いでベッドに入り、アメリカが崩壊する話のクレイジー・カット[12]の夢を見ているようだった。過剰なのだ。彼のくすんだピンク色は私を打ちのめす強烈な絵画特有の色彩の流れとして、今もなお目に焼き付いている。だが、それは専らあやまちや恐怖による悲喜劇に寄与している。この変化をゲームの後半戦に持ってくるのは大変な勇気を必要とした。なぜなら、多くの人々がこれらをひどく嫌うのは自明だからだ。私は違うが。

Guston’s new paintings are cartoony, looney, moving, and social. Hooded (KKK?), slot-eyed figures rumble around in cars, paint paintings, beat each other, smoke cigars. Clocks, light bulbs, pointing hands, and out-sized shoes spoof and accuse. It’s as if De Chirico went to bed with a hangover and had a Krazy Kat dream about America falling apart. Too much. His smoky pinks are still in sight, as are terrific painterly passages that knock me out. But it’s all in the service of a tragi-comedy of errors or terrors. It really took guts to make this shift this late in the game, because a lot of people are going to hate these things, these paintings. Not me.[13]

 この批評から、KKK(クー・クラックス・クラン)を彷彿させる白頭巾のキャラクターや漫画調の作風がフェルドマンだけでなく当時の多くの人々に落胆と衝撃を与えたのだと想像できる。ガストンと絶交状態にあったものの、フェルドマンは1980年にガストンが亡くなった際には追悼文を書き、1984年には長時間の楽曲の1つでもある「For Philip Guston」を作曲する。一方、ガストンは1978年に「Friend – To M. F.」のタイトルでフェルドマンのポートレートを描いており、この絵はフェルドマンの著作集『Essays』[14](1985)と『Give My Regards to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman』(2000)の表紙に使われている。

 この時期のフェルドマンと画家との関わりとして、マーク・ロスコとの交友と「Rothko Chapel」委嘱もあげられる。ロスコもフェルドマンと親しく付き合っていた画家の1人だ。キャンヴァス一面に色を塗り重ねたロスコの全面絵画といわれる様式は、フェルドマンが音楽の「表面」について思索するきっかけともなった。1965年、ロスコはメニル財団からテキサス州ヒューストンに建設予定の無宗教の礼拝堂[15](今日「ロスコ・チャペル」として知られている)に設置される壁画の委嘱を受ける。ロスコは1967年に礼拝堂の壁画を完成させるが、礼拝堂の完成を見ぬまま1970年2月25日に自殺。67歳だった。1971年2月27日のロスコ・チャペル建立を記念してメニル財団はフェルドマンに楽曲を委嘱した。フェルドマンは作曲に集中するため1971年春にデ・メニル夫妻が所有するフランスのポンポワンの別荘で過ごした。[16]その結果生まれたのがソプラノ独唱、混声合唱、室内楽による「Rothko Chapel」[17]である。この曲はフェルドマンの楽曲には珍しく叙情性にあふれた旋律が用いられており、その少し前に作曲された「Viola in My Life」1-4と同じ作品群と見なされる。

Feldman/ Rothko Chapel (1971)

 友人との別れも人生に大きな悲しみや変化をもたらすが、さらに直接的な環境の変化がフェルドマンに起こる。それは教師としてのキャリアの始まりである。1970年からフェルドマンは画家のメルセデス・マッターが創設したニューヨーク・スタジオ・スクール New York Studio School of Drawing, Painting and Sculpture[18]の学科長を務める。おそらくこれが彼にとって初めての教職のはずだ。以前、この連載の第1回と第6回でも少し触れたが、フェルドマンは家業の子供服工場を手伝いながら音楽活動を続けていた。フェルドマンが作業着姿でアイロンをかける様子を見た作曲家で指揮者のルーカス・フォスは1964年頃からフェルドマンのために大学のポストを見つけようと奔走していた。[19]その間、フェルドマンはドイツ学術交流会 DAADの奨学金で1971年9月から1972年10月までベルリンに滞在していた。ベルリン滞在時は「Cello and Orchestra」(1972)、「Voices and Instruments」(1972)など、編成がそのままタイトルとなっている楽曲が作曲された。

 フォスの数年にわたる尽力が実り、1972年秋にフェルドマンはニューヨーク州立大学バッファロー校(以下、バッファロー大学)音楽学部作曲科のスリー教授 Slee Professor[20]に就任する。フェルドマンは約1年のベルリン滞在を終えるとバッファローに直行した。バッファロー大学教授就任に伴い、ついにフェルドマンはニューヨークを離れた。生まれも育ちもニューヨークで、生粋のニューヨーカーのフェルドマンはニューヨーク以外の街で暮らせるはずがないと思われており、フェルドマンのバッファローへの転居は当時、彼の友人たちをたいへん驚かせた。[21]マンハッタンの喧騒から離れたフェルドマンは新天地バッファローで作曲に集中し、これが結果として1970年代後半頃から現れる長時間の楽曲にもつながる。ニューヨーク以外の土地で無事にやっていけるのかという周囲の不安をよそに、安定した収入、快適な住居、そして何よりも学生や多くの一流の演奏家による演奏の機会を得たフェルドマンはバッファローでの暮らしを楽しんでいた。[22]当初フェルドマンの教授職は1年ごとの契約制だったが1974年には任期なしに変わり、ポストの名称もフェルドマン自らの希望でエドガー・ヴァレーズ教授 Edgard Varèse Chairとなった。

 フェルドマンは大学で作曲を教えることについてどのように考えていたのだろうか。バッファローに移る直前の1972年8月にポール・グリフィスによって行われたインタヴューでフェルドマンは次のように発言している。

グリフィス:音楽教育に対するあなたの考えをぜひともお聞かせください。たしか、今年の夏にダーティントンのサマースクール[23]にいらっしゃる予定ですね。

フェルドマン:その予定です。音楽教育で非常に残念なことのひとつは、音楽教育が作曲家を生み出していないことです。1、2年前にとてもよい条件の仕事の話を断りました。なぜなら、教えることに対する私の考えは大学の学科で起きているようなものとは違うからです。自分の学生には演奏グループに関わってほしくないし、演奏のために作曲してほしくもありませんでした。

Griffiths: I would be interested to hear your views on music education, as I believe you are coming to Dartington this summer.

Feldman: Yes I am. Well, one of the tragedies of music education is that it doesn’t produce composers. I turned down a very good job a year or two ago, because my idea of teaching just isn’t what’s happening in departments. I didn’t want my students involved in performance groups, or in writing music for performance.[24]

ここでのフェルドマンは音楽教育、とりわけ大学で作曲を教えることに対して否定的な立場を取っているように見える。最終的に彼は教職に就くが、その直前まで大学での音楽教育には懐疑的だった。こうした態度の背景には、音楽院や大学ではなく、シュテファン・ヴォルペやケージらの私的なレッスンをとおして作曲を学んできたフェルドマン自身の経験が反映されているとも考えられるだろう。

グリフィス:では、音楽教育は何をすべきなのでしょう?

フェルドマン:音楽教育は専ら演奏家向けにすべきだと思います。作曲が教えられるべきものだとは思いません。今のアメリカで4人の最も影響力のある作曲家たち――私自身、アール・ブラウン、ケージ、実は古典学者だという理由でクリスチャン・ウォルフ――が音楽学科と一切関係せず、音楽学科での訓練も受けてこなかったことは興味深いです。私の態度はこう言えるでしょう。できる限り人間らしく全てをやり続けなさい。バランス感覚、作品に対して好ましい雰囲気、平穏さを作り出し、それらが必要な時に助けてくれる素晴らしい人々との関係を作ること。こうした事柄がもたらした一時的な関わり合いに対して彼らを密かに落胆させ、そしてそこから彼らを解放しなさい。なんらかのユートピアを作るのではなくて。

Griffiths: So what should music education be doing?

Feldman: I think it should just be for performers; I don’t think composition should be taught. It’s interesting that the four most influential composers in America today—myself, Earle and Cage, and Christian Wolff really because he’s a classicist—had no connections and no training in music departments. So my attitude is: keep everything as human as possible, create a sense of proportion, good atmosphere to work, quietude, fantastic people there to help when they need them, and let them quietly get discouraged and get out of this tentative commitment they made; rather than creating some kind of Utopia.[25]

 音楽教育は作曲家ではなく演奏家に向けて行うべきというのがフェルドマンのこの時点での持論だったようだ。おそらくここでフェルドマンが問題にしているのは、音楽に関する技術や考え方というより、作曲家と演奏家との間に構築される関係性のことだろう。ある一定のコミュニティや場がひとたび構築されると、そこからなかなか踏み出せない。フェルドマンはそのような「ユートピア」に安住してはいけないと言っている。だが、このような発言を生んだフェルドマンの状況はバッファロー大学着任後に一変したように思われる。フェルドマンは、同時代の様々な上演芸術に特化した音楽学部の組織 The Center of the Creative and Performing Arts(以下、CA)での活動に精力的に取り組んでいた。当時、このセンターにはジュリアス・イーストマン[26]、ジャン・ウィリアムス[27]、デヴィッド・デル・トレディチ[28]らを中心とする気鋭の演奏家や作曲家たちが在籍していた。フェルドマンは彼らとアメリカ国内外へツアーを行い、バッファローを当時のアメリカにおける現代音楽の拠点のひとつにしようと力を注いだ。演奏会ではフェルドマンの作品だけでなく、他の教員や学生、ゲストとして招いた様々な音楽家の作品が演奏された。フェルドマンがバッファロー大学での音楽活動に大きく貢献したことは確かで、1975年6月には音楽祭 June in Buffaloを始める。この音楽祭はCAの後続組織 The Center for 21st Century Music主催でレクチャー、ワークショップ、演奏会を含む行事としてバッファロー大学で現在も毎年行われている。[29] 第1回のJune in Buffaloではフェルドマンのかつてのニューヨーク・スクール仲間である、ケージ、ブラウン、ウォルフの作品がとりあげられた。

 着任前は「作曲は大学で教えられべきではない」と言っていたフェルドマンだが、もちろん実際は後進の指導に取り組んだ。バッファロー大学でのフェルドマンの著名な教え子としてバニータ・マーカス[30]とバーバラ・モンク・フェルドマン[31]の名前があげられる。1980年代に入るとフェルドマンはカナダ、オランダ、南アフリカ、ドイツ、日本など音楽祭やワークショップの講師を務めるようになり、行く先々で当時の若手音楽家や学生たちと対話を重ねた。例えばフェルドマンの講義録『Words on Music: Lectures and Conversations/Worte über Musik: Vorträge und Gespräche』[32]には、難解な比喩や音楽以外のエピソードを用い、時に受講生を困惑させながら自身の音楽観を説くフェルドマンのいくつかの講義が収められている。

 次のセクションでは1970年代のフェルドマンの音楽の変化について解説する。


[1] Universal Editionのフェルドマンのページ https://www.universaledition.com/morton-feldman-220
[2] 初出は1973年4月21日発行Buffalo Evening News。本稿はフェルドマンのエッセイ集Morton Feldman, Give My Regards to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman, Edited by B. H. Friedman, Cambridge: Exact Change, 2000に収録されているものを参照した。
[3] ここでフェルドマンが言っている「ヴィレッジ」はマンハッタン南西部のグリニッジ・ヴィレッジのこと。この界隈にはアーティストが集うクラブやバーが軒を連ねていた。
[4] Morton Feldman, “I Met Heine on the Rue Fürstemberg,” Give My Regards to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman, Edited by B. H. Friedman, Cambridge: Exact Change, 2000, p. 116
[5] Wilfrid Mellers (1914-2008)イギリスの音楽学者、批評家、作曲家。http://www.mvdaily.com/mellers/
[6] Ibid., p. 117
[7] Morton Feldman Says: Selected Interviews and Lectures 1964-1987, Edited by Chris Villars, London: Hyphen Press, 2006, p. 43
[8] Feldman 2000, op. cit., p. 120
[9] ガストン財団 The Guston Foundationの作品カタログの時代区分に基づく。 https://www.gustoncrllc.org/home/catalogue_raisonne
[10] Feldman 2006, op. cit., p. 268
[11] ガストン財団のカタログでこの時期の作品を見ることができる。
https://www.gustoncrllc.org/home/search_result?search%5Btag%5D=Figurative 1968〜1972年代にかけてのガストンの作品に登場するKKKのキャラクターをめぐっては今日も主にレイシズムの観点から議論されている。ワシントンD.C.のナショナル・ギャラリーなど4つの美術館を2021年1月から巡回予定だったガストンの大規模な回顧展はBLMなどの社会機運を考慮し、展示内容を再考したうえで2024年に延期されることとなった。
National Art Gallery of Artの声明文https://www.nga.gov/press/exh/5235.html
[12] Krazy Kat 1913年から1944年まで新聞に連載されたコミック・ストリップ。
[13] John Perreault, “Art”, Village Voice, November 5, 1970
[14] Morton Feldman, Morton Feldman Essays, edited by Walter Zimmermann, Kerpen: Beginner Press, 1985
[15] Rothko Chapel http://www.rothkochapel.org/
[16] Feldman 2006, op. cit., p. 268
[17] フェルドマンの「Rothko Chapel」の概要は拙論参照。 https://geidai.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=435&item_no=1&page_id=13&block_id=17
[18] https://nyss.org/
[19] Ibid., p. 265
[20] Ibid., p. 270
[21] バッファローの音楽コミュニティ形成に貢献した、弁護士でアマチュア音楽家のFrederick Sleeと、その妻Alice Sleeからの寄付によって創設された教授ポスト。バッファロー大学には彼らの名前を付したSlee Hallもある。http://www.buffalo.edu/administrative-services/managing-facilities/planning-designing-and-construction/building-profiles/profile-host-page.host.html/content/shared/university/page-content/facilities/slee.detail.html
[22] Renée Levine Packer, This Life of Sounds: Evening for New Music in Buffalo, New York: Oxford University Press, 2010, p. 118
[23] Dartington Summer School https://www.dartington.org/about/our-history/summer-school/
[24] Feldman 2006, op. cit., pp. 48-49
[25] Ibid., p. 49
[26] Julius Eastman https://www.wisemusicclassical.com/composer/5055/Julius-Eastman/
[27] Jan Williams https://peoplepill.com/people/jan-williams
[28] David Del Tredici https://www.daviddeltredici.com/
[29] June in Buffalo https://arts-sciences.buffalo.edu/music21c.html
[30] Bunita Marcus http://www.bunitamarcus.com/index.html
[31] Barbara Monk Feldman http://www.composers21.com/compdocs/monkfelb.htm 1987年6月にフェルドマンと結婚した。
[32] Morton Feldman, Words on Music: Lectures and Conversations/Worte über Musik: Vorträge und Gespräche, edited by Raoul Mörchen, Band Ⅰ&Ⅱ, Köln: MusikTexte, 2008

高橋智子
1978年仙台市生まれ。Joy DivisionとNew Orderが好きな無職。
(次回は2月25日更新予定です)

あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(10) 音楽の表面-3

(文:高橋智子)

3 自由な持続の記譜法の独自性と類似例

 これまでこの連載で数回にわたって解説してきたとおり、自由な持続の記譜法は1960年代のフェルドマンの楽曲の大半を占めている。持続または音価を具体的に定めずに演奏者に最終的な決定をある程度委ねることで、フェルドマンは拍子やリズムに従属しない可変的な時間を描こうと試みた。このような記譜法が生まれた背景には、連続性ではなくて積み重なる時間をイメージした「垂直」の概念が大きく関係している。フェルドマンが音楽的な時間にまつわる思索を深めていくにつれて「垂直」の概念はやがて「表面」の概念へと変化した。1960年代中頃から自由な持続の記譜法に小節線や拍子記号が加わり始め、音符が記されている部分と音符が記されていない沈黙の部分との違いが明らかになってきた。この変化の様子は第9回でとりあげた「De Kooning」やセクション2で解説した「Between Categories」のスコアを見ればはっきりとわかる。フェルドマンは1986年に行われた講演の中で1960年代後半の自由な持続の記譜法を次のように振り返っている。

1960年代の後半の私の曲のいくつかは、沈黙の曖昧さゆえに、音の持続に関して多かれ少なかれ偶数拍子のゆっくりとしたテンポで音が鳴る状況を作り、さらに続けるならば、5/4拍子で、例えば四分音符1つあたり76かそのくらいのテンポの沈黙の小節を書いたものだった。私は沈黙が記された小節を測り始めたが、音の素材を依然として測らずにそのままにしておいた。なぜならそれ(訳注:音の素材)は耳に入ってくる音の状況の中にあったからだ。この曲を演奏しようとする人はこの曲をちゃんとわかっていると思っていた。

There are some pieces of mine in the late sixties because of the ambiguity of the silence, I would have the sound situation in terms of its durations more or less in a slow tempo on even beats, if you will, and then I would have the silent measures like five-four and the crotchet equals, say, seventy-six or something. I started to measure the silence and had the sound material still unmeasured. Because it was in an acoustical situation. So I felt the person that’s going to play has a sense of the piece.[1]

 自由な持続の記譜法における小節線、拍子、メトロノーム記号を伴う沈黙、つまり全休符の小節では時間が測られているが、音の鳴る箇所では時間が測られていない。実際は「Between Categories」では音符が記されている箇所にも拍子やメトロノーム記号が散見されるが、フェルドマンの全休符小節の扱い方は曲中に計測された沈黙を配置する目的だったことがわかり、「Between Categories」1ページ目アンサンブル2に測られた沈黙の実例が見られる。このように考えると、エッセイ「Between Categories」での「時間をただそのままにしておくべきなのだ。Time simple must be left alone.」[2]は、音が鳴り響いている時間に言及しているのだと解釈できる。このエッセイでフェルドマンは音や時間の構造と対立する概念として「表面」を掲げ、「表面」を構成されていない錯覚や幻影のようなものと位置付けた。この考え方も「時間をそのままにしておくこと」とつながるのだが、構成や構造を放棄すれば「構成する、組み立てるcompose」から派生した「作曲 composition」の根幹が揺らいでしまうのではないだろうか。もちろんフェルドマンもそれを自覚しており、エッセイ「Between Categories」の終盤での彼の議論は「作曲すること」と「音や時間をそのままにしておくこと」とのジレンマに苛まれる。この議論と逡巡の結果として、当座の答えとして引き出されたのが「時間と空間の間。絵画と音楽の間。音楽の構造と音楽の表面の間 Between Time and Space. Between painting and music. Between the music’s construction, and its surface.」[3]だった。彼は音楽家で作曲家だが、自分の創作を音楽という1つのカテゴリーに限定するのではなく、音楽と音楽以外の別のカテゴリーとの間(あいだ)に位置付けようとしている。ここでのフェルドマンは絵画に問題解決の手がかりを見出そうとしているというより、もはや絵画への思慕を表しているのではないだろうか。彼の絵画への憧憬や思慕は既に1967年のエッセイ「Some Elementary Questions」でも記されていた。

例えば、モンドリアンの特定のドローイングに比肩するものは音楽には何もない。モンドリアンのドローイングの場合、代替案が上書きされているが、消されてしまった輪郭やリズムはまだ見える。音楽の悲劇は完璧さから始まることだ。

There is nothing in music, for example, to compare with certain drawings of Mondrian, where we still see the contours and rhythms that have been erased, while another alternative has been drawn on top of them. Music’s tragedy is that it begins with perfection.[4]

 絵画と違って音楽は完璧さで始まる。それは音楽の悲劇である。これは何を意味しているのだろうか。ここでフェルドマンが音楽の悲劇と称している「完璧さ」は作曲家が楽譜に書いた音符と、そこから生じる鳴り響きを指す。モンドリアンのドローイングには彼が試行錯誤した痕跡が消えることなく残っており、その過程を私たちがキャンヴァスの中に見て取ることができる。一方、作曲家が書き記した音符には作曲家の試行錯誤の過程をたどることはできない。これがここでの「完璧さ」にまつわる絵画と音楽との大きな違いだ。フェルドマンはさらにルノワール、自分、ベリオを引き合いに出して、絵画と音楽における「ためらい」の要素の違いを述べる。

かつてルノワールは、同じ色が2つの違う手で塗りつけられれば、2つの異なる色調が得られるだろうと言った。音楽の場合、同じ音符が2人の違う作曲家に書かれていようと、それがもたらすのは――やはり音符だ。私がB♭を書くとする。ベリオもB♭を書く。そこで得られるのは常にB♭だ。画家は制作する時に自分の媒体を創り出さないといけない。それが彼の作品にもたらすのはためらい、つまり絵画にとって致命的ともいえる不安感だ。作曲家は既に存在している媒体で創作する。絵画におけるためらいは不朽の名声に寄与する。音楽におけるためらいは負けを意味する。

Renoir once said the same color, applied by two different hands, would give us two different tones. In music, the same note, written by two different composers, gives us—the same note. When I write a B flat, and Berio writes a B flat, what you get is always B flat. The painter must create his medium as he works. That’s what gives his work that hesitancy, that insecurity so crucial to painting. The composer works in a preexistent medium. In painting if you hesitate, you become immortal. In music if you hesitate, you are lost.[5]

 画家は自分の創作に際して色彩や色調を自分自身で試行錯誤して作り出す。しかし、楽曲の概念を持ち、既存の楽器で演奏される類の音楽を作る作曲家は既存の媒体としての音を使わざるを得ない。フェルドマンであろうとベリオであろうとB♭はB♭である。複数の音の組み合わせなどによって作曲家は自分の音楽を作り出す。ここにフェルドマンは絵画と音楽との大きな違いを見出している。少なくとも楽譜に書かれた音符からは、作曲家の試行錯誤やためらいを読み取ることはできない。たとえそれが演奏に際して不確定な音楽であろうとも、そのスコアができるまでの創作の過程をドローイングに何重にも描きつけられた線のように読み取ることはできない。完成された楽曲は、常にスコアとして完成された完璧な体裁で私たちの前に提示される。

 自由な持続の記譜法における破線、垂直線、矢印付き垂直線は通常の五線譜とは大きく異なる外見だ。見ようによっては、これらの線は楽譜の書きかけやスケッチにも思える。これまで本稿で述べてきたように、自由な持続の記譜法におけるそれぞれの線は実用的な機能を持っている。だが、もしかしたらフェルドマンはこのような線を自身のスコアの中に残しておくことで音楽の悲劇である「完璧さ」に抵抗しようとしたのではないだろうか。絵画のためらいの痕跡である何重もの上塗りをフェルドマンは音楽の中で試みようとした。その結果が、あの一見奇怪な線でつなげられた自由な持続の記譜法なのだと考えられる。

 1960年代のフェルドマンの音楽は小節線の全くない、あるいは部分的に小節線の引かれた自由な持続の記譜法なしには語れない。だが、19世紀末から20世紀中頃までの西洋芸術音楽の歩みの中で、ルネサンス以前の多声音楽を想起させる小節線のない五線譜による記譜を再び使い始めた先駆者がフェルドマンだったというわけではない。時代をさかのぼると既にエリック・サティが似たような記譜法を実践している。サティは初期のピアノ曲の1つである「Quatre Ogives」(1889, 1965)で既に小節線のない五線譜を用いていた。よく知られているサティのピアノ曲「Trois Gnossiennes nos. 1-3」 (1889-1890)も小節線のない五線譜で書かれている。だが、サティによる小節線のない楽譜の意図はもちろんフェルドマンと異なる。例えば「Quatre Ogives」は、拍子の感覚と概念がまだ希薄だったグレゴリオ聖歌の単線旋律を思わせる旋律ゆえに小節線も拍子もない。ここでは小節線と拍子を欠くものの、この曲では旋律のまとまりを示唆するスラーが記されている。一方、フェルドマンの小節線のない楽譜にはサティのような歴史意識はほとんど見られず、彼の関心は専ら音の減衰や音楽的な時間に当てられている。そしてその背後には彼が敬愛してきた画家たちと絵画の存在がある。

Satie/ Quatre Ogives no. 1(1889, 1965)
Satie/ Trois Gnossiennes no. 1 (1889-90)

 「Between Categories」は2つの同じ編成のアンサンブルが別々のことをしながら同時に走り出す曲だ。1つの曲の中に複数の異なる時間や出来事が起こる楽曲のアイディアもフェルドマンが起源ではない。チャールズ・アイヴズは管弦楽曲「Central Park in the Dark」(1906)の中で既にこの状態を記譜によって具現していた。

Ives/ Central Park in the Dark (1906)

 セントラル・パーク内での夕方の風景を描写したこの曲の編成は木管楽器(フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット)、金管楽器(トランペット、トロンボーン)、弦楽5部、ピアノ(1人あるいは2人)、打楽器。管楽器+打楽器+ピアノで1つのアンサンブルを、弦楽器がもう1つのアンサンブルを作っている。公園での夜の微かな音と暗闇の静寂を描写した弦楽器によるアンサンブルは「きわめてゆるやかに Molt Adagio」のテンポ指示のもとでコラール風のフレーズを終始繰り返す。この静寂は喧騒を描く管楽器、打楽器、ピアノによってしばしば妨げられる。管楽器、打楽器、ピアノは公園の池の向こうのカジノの騒音、ストリート・バンド、新聞売りの少年の声、あちらこちらのアパートメントで繰り広げられるピアノラ(自動演奏ピアノ)によるラグタイム合戦など[6]、弦楽器による夜の静寂とは対照的な音の世界を次々と繰り広げる。いくらこのアンサンブルが騒々しくとも、弦楽器は若干のテンポの変化を伴いつつも決して取り乱すことなく淡々とコラール風のフレーズに徹する。この曲にはある種の並行世界が描かれているとも言える。もちろん、サティの小節線のない記譜法の場合と同じく、フェルドマンがアイヴズのこの種の楽曲を念頭に置いていたとは到底考えられないが、フェルドマンの「Between Categories」における記譜や音楽的時間に関する様々な試みについて少し視野を広げて考えると、類似する例をいくつか見つけることができる。フェルドマンに関していえば、それぞれのパートの音がメトロノームでは測り得ないテンポと時間の感覚で混ざり合う自由な持続の記譜法は、絵画の作法を参照しているがアイヴズのような具体的な風景や心象風景の要素は一切ない。

 フェルドマンの1960年代後半の自由な持続の記譜法の楽曲に見られる複数の時間と出来事が同時に作り出す混沌とした状態に近い作品のひとつとして、ジョン・ケージが1961年に行ったレクチャー「われわれはどこへ行くのか、そして何をするのか。 Where Are We Going? and What are We Doing?」[7]をあげることができる。この講演のテキストは「全部一緒に、あるいはその一部を水平及び垂直に用いる」。[8]また、この講演は4つの講演が同時に聞こえるように構成されていて、講演者は1人で4つ全ての講演を行わなくてはならず、ライブで、つまりその場で後援者が4つの講演を読み上げてもよいし、予め録音した素材を用いてもよい。[9]講演の際に音量を変化せることもでき、もしそうするのならばケージの作品「WBAI」(1960)[10]のスコアを用いてほしい[11]と、ケージ自身が講演の前書きで記している。講演を収録したケージの著作集『Silence』の中で、この講演は英語による原書と日本語翻訳版(日本語版のレイアウトは文字が縦書き)ともに4つの異なるフォントで書き分けられている。英語で読んでも日本語で読んでもこの講演を1行ずつ追っていくと目が泳いでしまう。この混乱はフェルドマンの「For Franz Kline」(1962)をスコアを見ながら聴いている時の、スコアと演奏とのずれの只中に放り込まれた経験に近い。複数の異なる出来事が同時に走る点では「Between Categories」の2つのアンサンブルの関係にも似ているだろう。後者の場合は互いに素材を共有していることが徐々に明らかになってくる。一方、ケージのこの講演の中で4つの出来事は交わることなく進む。

 ケージはこの講演の狙いについて前書きで「われわれの経験というものは、一度に全部与えられると、理解を超えるものになってしまうことを、私は言おうとしていたからである。」[12]と述べている。講演原稿を記した文章と五線譜に書かれた楽曲はそれぞれ違う媒体から成り立ち、違うカテゴリーに属している。さらには、当然ながらフェルドマンはケージのこの講演について自身のエッセイその他において言及していない。しかし、両者を並べてみると、フェルドマンの「Between Categories」の記譜法と音楽的な時間にまつわる考え方はケージの講演「われわれはどこへ行くのか、そして何をするのか。」と全く無関係でもなさそうだ。

 1960年代のフェルドマンの創作は音楽的な時間に対する関心と問題意識から生じた自由な持続の記譜法によって実践された。1970年代に入ると、フェルドマンは五線譜による慣習的な「普通の」記譜法に戻る。この変化は一体何に発端するのだろうか。次回は1970年代前半の楽曲について考察する予定である。


[1] Morton Feldman, Words on Music: Lectures and Conversations/Worte über Musik: Vorträge und Gespräche, edited by Raoul Mörchen, Band Ⅰ, Köln: MusikTexte, 2008, p. 292
[2] Morton Feldman, “Between Categories” Give My Regards to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman, Edited by B. H. Friedman, Cambridge: Exact Change, 2000, p. 85
[3] Ibid., p. 88
[4] Morton Feldman, “Some Elementary Questions,” Give My Regards to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman, Edited by B. H. Friedman, Cambridge: Exact Change, 2000, p. 65
[5] Ibid., p. 65
[6] Charles Ives, “Note”, Central Park in the Dark, New York: Boelke-Bomart, Inc., 1973
[7] ジョン・ケージ「われわれはどこへ行くのか、そして何をするのか。」、『サイレンス』 柿沼敏江訳、東京:水声社、1996年、311-406頁(John Cage, “Where Are We Going? and What are We Doing?”, Silence, Middletown: Wesleyan University Press, 1961, pp. 194-259)
[8] 同前、311頁
[9] 同前、311頁
[10] John Cage/ WBAI https://johncage.org/pp/John-Cage-Work-Detail.cfm?work_ID=243
[11] 前掲書、311頁
[12] 同前、311頁

高橋智子
1978年仙台市生まれ。Joy DivisionとNew Orderが好きな無職。
(次回は2月18日更新予定です)