吉池拓男の迷盤・珍盤百選 (7) なぞなぞ怪獣と喰われそうな44人の旅人 (Google様ありがとう)

前回、アレクサンドル・ブラージェの弾くシューマンの謝肉祭の事を書いたら、この曲の演奏についていろいろ知りたくなってしまいました……)

YAMAHA MUSIC MEDIA CORPORATION ブライトコップ社ライセンス版「シューマンピアノ作品集3」より

この奇妙な譜面はシューマンの謝肉祭op.9の8曲目と9曲目の間におかれた「Sphinxes(スフィンクス)」です。Sphinxesといってもピラミッドの隣に座ってるのではなく、おそらくはなぞなぞに答えられない旅人を喰ってしまうギリシャ神話系の怪物の方です。シューマンは本当に困った作曲家で、Sphinxesは弾かなくてもよいとし(弾くな、とは言っていない)、仮に弾く場合はこの変な譜面をどう弾くのか全く指示がありません。謝肉祭の随所で使われまくる音列(しかも毎度おなじみ女がらみ)ではあるのですが、実際に弾いても曲らしい曲にはならず、まさに答えづらい謎。謝肉祭を弾くピアニストの多くは作曲者の提言通り、弾かずに済ませます。下手に答えたら喰われちゃいますからね。ただ、そもそも曲集全体で使われている音列の提示なら曲集の冒頭か最後にあってもよいのに、なぜ8曲目と9曲目の間にあるのかなどと考えたら、やはりこの場所にある存在意義としてここで弾いた方が良いのではないか、となる気持ちも生れ出づる悩みでしょう。実際のところ、弾かなくてもよい、と作曲家が言っているにもかかわらず、謎から逃げずに色々工夫してこの奇妙な譜面に挑戦する演奏家は沢山いました。

さて、便利な時代になりました。たとえば音楽配信サービスの中で曲の検索能力に長けているGoogle Play Music(GPM)で「Schumann Sphinxes」と入力すると、瞬時にして44種類ものSphinxesの演奏が出てきます(2020年4月20日時点)。曲が曲だけに44種類も聴くと暗鬱な気分になりますが、歴代のピアニストたちがどのようにSphinxesの謎に取り組んだがわかります。もちろんGPMにあるもの以外にも謝肉祭の演奏は沢山あるとは思いますが、とりあえずこの44種類を分類してみました。

分類 演奏者名(GPMの表記のまま) 人数
楽譜通り
単音
ビレット、エマール、Passamonte、ル・ゲ、Chow、Jacquinot、Mazmanishvili 7
楽譜通り
単音
内部奏法
Ciocarlie 1
楽譜通り
オクターブ拡大
ギーゼキング、Barere、コルトー、Slåtterbrekk、フィオレンティーノ、Uchida、Hagiwara、Pompa-Baldi、ローズ、ソコロフ、ペシャ、Strub、ラディッチ、Cabassi、Shamray、Siciliano、Kobrin、Kuschnerova、ニージェルスキ、ソフロニツキー、Schmitt-Leonardy、エゴロフ、ショアラー、Hautzig、マガロフ、アンダ 26
楽譜通り
トレモロ風オクターブ拡大
カッチェン、ガヴリーロフ、Hegedus、Callaghan 4
ラフマニノフ系
独自編曲
ラフマニノフ、スコダ、カルロス、ハミー 4
独自編曲 Schuch、コースティック 2

録音史的に見れば初期の録音であるコルトー(1928年)はオクターブで弾き、ラフマニノフ(1929年)は作曲家ならではの独自の改変を加えてスフィンクスの謎に挑んでいます。弾かんでもいいというシューマンのいうことを聞いていない演奏家は昔からいたわけですね。

Schumann、Lagidze
Dudana Mazmanishvili (p)

さて、この中で面白い(=変)なのは「楽譜通り 単音」に分類しているMazmanishvili。弦を直接叩く奏法を使っている可能性のあるような音ですが、1分30秒もかけてスフィンクスを弾きます。いくらなんでも音11個で1分30秒は長い。とりわけ3つの音列の間があまりに長い。謝肉祭全体の流れやバランスから見ても不思議な演出です。トイレタイムでしょうかねぇ。トイレに行って帰ってきてもまだ弾いてたって感じですけどね。同じ「楽譜通り 単音」ではエマールがピアノの響きを応用した面白い奏法を聴かせてくれます。

もはや禅問答?な現代音楽系アプローチも

ROBERT SCHUMANN
Michael Korstick (p)

さらにヘンなもの好きの私が注目したのは独自編曲に分類した2人。このうちコースティックの解釈は明解。なんにも弾きません。CDのトラック上は「Sphinxes」としてちゃんと5秒間存在してるのですが、なにも弾かないのです。謎は謎のまま、手も足も音も出ませんという面白い解釈です。ではなぜ5秒なのかという新たな謎と疑問がふつふつと沸き上がります。あえて無音にするならもう少し長い方が良かったかも。4分33秒やれとは言いませんが、5秒では単なるCDの曲間にしか思えませんからね。

Sehnsuchts Walzer
Herbert Schuch (p)

もう1人はHerbert Schuch。彼は古典作品と現代作品を組み合わせたアルバムをいくつか発表しているのですが、謝肉祭ではSphinxesを現代作品風に仕立てて弾いています。最初の4つの音はエマールの単音アプローチにも似てますが、次の3音はピアノ弦を直接擦る内部奏法、曲の終わりの残響もペダルをわざとゆっくり離すことによる弦の音響変化を取り入れています。この改編はドイツの現代作曲家ラッヘンマンの響きにつながるものとして作られたそうです。ただ、シューマンの曲の真ん中でいきなりこの世界が始まることの違和感は相当なものです。音楽は何やろうと自由ですが、もともとが「貴女を想う音列3つから20曲もの曲集作っちゃいました()。凄いでしょ、こんなボクに惚れるでしょ。」という女がらみの自己顕示的かつ独善的な“謎”なので、こんなに時空を超えた拡大をしてしまうと、それこそ作曲者の意図である「狙ったオネエチャンのハートに届け」からは遠く遠く離れて行ってしまう気がします。ま、どうでもいいですけどね。大元が若者の単なる下心なので。

いずれにしろGoogle様のおかげでSphinxesの謎に対する44もの答えが月額980円であっという間に出てきます。Google様が検知しない答えはほかにもあることでしょう(ブラージェとかね)。けれどもひとまず44種もあれば、げっぷが出てお釣りが来ます。ほんといい時代です。ところで、シューマンの時代には、このSphinxesの謎に挑んだ人はどのくらいいたのでしょうか。ギリシャ神話のSphinxesは「朝は4本足、昼は2本足、夜は3本足、これはなんだ?」という問いを旅人に投げかけ、やがてオイディプスが「人間」という正解を出したら身を投げて自ら命を絶ったといわれています。まさかシューマンのライン川事件の真相は……???

《引用と補記》
謝肉祭の全ての曲にSphinxesの音列が使われているわけではない。Wikipediaの曲解説では20曲中18曲に使用されたとある。

参考CD:
・Schumann、Lagidze – Dudana Mazmanishvili (p) Cugate Classics CGC042 2017年
・ROBERT SCHUMANN – Michael Korstick (p) Oehms OC757 2011年
・Sehnsuchts Walzer – Herbert Schuch (p) Oehms OC754 2011年

【紹介者略歴】
吉池拓男
元クラシックピアノ系ヲタク。聴きたいものがあまり発売されなくなった事と酒におぼれてCD代がなくなった事で、十数年前に積極的マニアを終了。現在、終活+呑み代稼ぎで昔買い込んだCDをどんどん放出中。

あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(2) フェルドマンの1951年

(筆者:高橋智子)

 前回はモートン・フェルドマンがジョン・ケージと出会い、彼が当時住んでいたロウアー・マンハッタンにあったアパートメント、ボッサ・マンションに引っ越した1950年までの歩みをたどった。1950年からの数年間はフェルドマンの創作の美学、そして彼が生涯にわたって追求したと思われる「抽象的な経験」という理念(同時にそれは大きなジレンマでもあった)の礎を築いた重要な時期だ。今回は、この時期に彼が足繁く通った場所とそこで出会った人々がどれほど強烈に彼の創作に刺激を与えたかを見ていく。

1950年12月17日

 フェルドマンは1950年12月17日に「Piece for Violin and Piano」を完成させた。大部分が柔らかなタッチで打鍵されるピアノの和音と単音にヴァイオリンが呼応しながら進む、この2分足らずの小曲はシュテファン・ヴォルペのもとで作曲家修行を続けてきたフェルドマンが自身の作曲様式を前面に打ち出した作品として位置づけることができる。この曲は全体的に抑制されたダイナミクスで書かれているが、これまでの抑制された雰囲気をうち破るかのごとく、曲の終盤で突然ピアノが強烈な和音を打鍵する。楽曲の途中でのこのような突然の変化や衝撃の効果は1970年代後期からの長大な作品においてもよく見られる。

Feldman/ Piece for Violin and Piano(1950)

 1950年12月17日の出来事はこれだけではなかった。この日は作曲家連盟 League of Composerの演奏会がカーネギー・ホールで行われた。(プログラムの詳細はカーネギー・ホールのサイトを参照)このコンサートではフェルドマンの楽曲は演奏されていないが、彼はアメリカ初演されたピエール・ブーレーズの「2ème sonate pour piano」(1947)に関わっていたことがケージとブーレーズの手紙のやりとりからわかる。1949年11月頃から1954年の間、ケージとブーレーズは往復書簡のような手紙を交わしていた。2人の手紙はジャン=ジャック・ナティエの編集によって『ブーレーズ/ケージ往復書簡集 Pierre Boulez/John Cage: Correspondance et documents[1]として出版されている。自身の創作のアイディアをケージに熱く語る若きブーレーズと、フェルドマンをはじめとする当時のニューヨークの音楽シーンを紹介するケージの様子がこれらの手紙から読み取ることができる。2人の手紙から推測すると、ケージは既に1949年には「2ème sonate pour piano」の楽譜をブーレーズから受け取っていたようだ。当初ケージはウィリアム・マッセロスにこのソナタの演奏を依頼した。しかし楽曲の難易度の高さと準備期間の短さからマッセロスはこの依頼を断ってしまった。具体的な経緯は不明だが、おそらくフェルドマン経由でチュードアは既にこのソナタの楽譜を入手して練習も始めていた。彼はこのソナタの練習だけではなく、ブーレーズの論文を原語で読むためにフランス語を勉強していた。さらに彼はこの時期のブーレーズの音楽の理解の鍵となるアントナン・アルトーの本も読んでいたといわれている[2]。この事実をフェルドマンから知ったケージはチュードアにソナタの演奏を依頼する。演奏会の翌日にケージからブーレーズに書かれた手紙には、チュードアは「君と同じ25歳の、モートン・フェルドマンの友人 twenty-five, like you, and he is a friend of Morton Feldman」[3]と紹介されている。ブーレーズ不在で行われたこの演奏会の夜、興奮冷めやらぬケージ、フェルドマン、チュードアらは明け方4時まで音楽について語り合ったという。

 ブーレーズの「2ème sonate pour piano」アメリカ初演とフェルドマンとの関係はこの時期のケージ周辺のニューヨークの音楽家の状況を物語るエピソードの一端に過ぎないが、フェルドマンはケージを介して当時のダウンタウンのアーティスト・コミューンでもあり、彼らの自宅でもあったボッサ・マンションの外でも作曲家、音楽家としての人脈と活動の幅を広げていく。来たる1951年はフェルドマンの音楽家人生がさらに大きく揺さぶられる。

フェルドマンとニューヨーク・スクールの画家たち

 1951年1月、フェルドマンはMoMA(ニューヨーク近代美術館)で行われた「アメリカの抽象絵画と彫刻展 Abstract Painting and Sculpture in America」で抽象表現主義の作品を鑑賞する。展覧会の展示室の写真とカタログはMoMAのサイトから見ることができる。この展覧会は印象主義、表現主義、キュビスム、ダダイズム、未来派、デ・ステイル、構成主義、バウハウスといった19世紀末期から20世紀前半までの西洋近代絵画と芸術の潮流を概観し、その流れの行く先としてアメリカの抽象絵画を位置付けた構成だった。その後まもなく、フェルドマンはここに作品が展示されていた画家たち――フィリップ・ガストン、ウィレム・デ・クーニング、リチャード・リッポルド、ロバート・マザウェル、ジャクソン・ポロック、アド・ラインハルト、マーク・ロスコーと実際に出会い、親交を深めることとなる。以下の5曲は特にフェルドマンと親しかった画家たちの名前がタイトルに付されている。

「For Franz Kline」(1962)
「Piano Piece (Philip Guston)」(1963)
「De Kooning 」(1963)
「The Rothko Chapel」(1972)
「For Philip Guston」 (1984)

 具体的な日付はわからないが、1951年、フェルドマンはケージの誘いでセダー・タヴァーン Cedar Tavernとザ・クラブ The Clubに通い始める。先に名前をあげた画家たちの存在が彼にとって急に身近になり、フェルドマンの音楽が、よりフェルドマンらしい音楽へと発展していく。 ザ・ クラブはワシントン・スクエア・パークとニューヨーク大学に近い39 East 8th Streetに位置し、彫刻家で当時のニューヨーク前衛シーンのオーガナイザーの1人でもあったフィリップ・パヴィアやデ・クーニングらを中心として創設されたバー兼芸術家サロンだった。 ザ・ クラブから数ブロック南下するとセダー・タヴァーンがあり、距離を考えると一晩にこれら両方に行くこともできただろう。

 フェルドマンとケージがどれくらいの頻度でここに姿を現したのか、彼はエッセイ「自伝 Autobiography」の中で次のように語っている。

 ジョン(訳注:ケージ)とは音楽の話をほとんどしなかった。物事があまりにも速く動いているので、それについて話す暇もなかったくらいだ。だが、絵画については途方もなくたくさんのことを話した。ジョンと私は午後6時にセダー・タヴァーンを訪れ、ここが閉まるまでおしゃべりして、閉まってからもおしゃべりしていた。これは決して大げさな言い方ではなくて、私たちはこの生活を5年間毎日送っていた。

There was very little talk about music with John. Things were moving too fast to even talk about. But there was an incredible amount of talk about painting. John and I would drop in at the Cedar Bar at six in the afternoon and talk until it closed and after it closed. I can say without exaggeration that we did this every day for five years of our lives.[4]

彼が語る当時の様子から、フェルドマンとケージは昼夜逆転していたのかと心配になってしまう。もしもここでフェルドマンが書いていることが事実ならば、彼らにとってセダー・タヴァーンと ザ・クラブはもはや生活の一部になっていたともいえる。この特別な場所と時間について、フェルドマンは1960年頃から自身のエッセイや講演で頻繁に振り返っている。

 1950年頃から、画家のマザウェルは ザ・クラブとセダー・タヴァーンに集い、自身も含めた「創作のプロセスを通して芸術とはなんたるかを正確に見出そうとするアーティストのグループ as a group of artists that tries to find out what art is precisely through the process of making art」[5]をニューヨーク・スクール New York Schoolと名付けた。美術におけるニューヨーク・スクールの流れを受けたのが前回の終盤で少し言及したケージ、フェルドマン、クリスチャン・ウォルフ、アール・ブラウン、チュードアからなる音楽版のニューヨーク・スクール(楽派)である。個々の信念の違いはあれども、彼らは同時代に同じ場所に出入りし、根底に共通した開拓精神と実験精神を持っていた。そこで交わされたとりとめのない会話や酔った挙句の口論も含めて、彼らがアイディアを交換する場として ザ・クラブとセダー・タヴァーンは機能していたのだった。

セダー・タヴァーンの喧騒

 当時のマンハッタンには芸術家が集うサロンのような場所がいくつかあった。ブリーカー・ストリートにあったサン・レモ San Remoにはディラン・トマス、アレン・ギンズバーグ、ウィリアム・バロウズ、マイルス・デイヴィスといった面々が集っていた。サン・レモに比べて ザ・クラブやセダー・タヴァーンはどちらかというとマッチョでストレートな人々が来ていて、文学よりも美術を志向していた[6]。詩人、キュレーターで彼の理解者でもあったフランク・オハラは「サン・レモでは私たちは議論と噂話をしていて、セダーでは画家たちの議論と噂話を聞きながらよく詩を書いていた。In the San Remo we argued and gossiped: in the Cedar we often wrote poems while listening to the painters argue and gossip」[7]と当時の様子を振り返る。オハラと同じくこの空気にすっかり浸かっていたフェルドマンは、自身の創作の拠り所を音楽よりもニューヨーク・スクールの画家たちとその作品に求めるようになっていく。

 フェルドマン曰く、「新しい絵画はこれまで存在したあらゆるものより直接的、即時的、身体的な音の世界に対する欲望をかき立てた The new painting made me desired of a sound world more direct, more immediate, more physical than anything that had existed heretofore.」[8]。この中の「直接的、即時的、身体的な音の世界」を1950年代から1960年代のフェルドマンの楽曲に見出そうとするならば、旋律などの素材が有機的に結びついて生成される統一性や構造とは本質的に異なる地平の音楽だと解釈できる。フェルドマンは自分が理想とする音楽のあり方を「完全に抽象的な音の冒険 totally abstract sonic adventure」[9]とし、図形楽譜をはじめとする様々な手法でこの理想を追求した。だが、図形楽譜に関していうならば、彼は既に1950年12月末には初めての図形楽譜の楽曲「Projection 1」(1950)を作曲しているので、時系列で考えると抽象表現主義絵画とニューヨーク・スクールの画家たちとの出会いが図形楽譜考案の発端となったとは言い切れない。むしろ、自身の音楽を発展させるために彼がこれまで頭の中で渦巻いていたアイディアが抽象表現主義絵画との出会いによって言語化され、音楽として具現されたのだと考えられる(もちろん、その成否をめぐって彼は常に葛藤していたが)。その現れの一端が1950年代はじめの図形楽譜と、同時期の五線譜で書かれた散発的なテクスチュアの楽曲だと見なすことができる。

「無についてのレクチャー」と「何かについてのレクチャー」

  ザ・クラブでは毎週水曜日と金曜日の夜に公開討論会、講演、ポエトリー・リーディング、コンサートなどが行われていた。1951年2月[10]にケージは直接的にも間接的にもフェルドマンの音楽に言及した「無についてのレクチャー Lecture on Nothing」と「Lecture on Something」をここで行なった。

「無についてのレクチャー」
 「無についてのレクチャー」のテキストはケージの1940年代から50年代はじめの楽曲にしばしば見られる、数小節の和で構成されたまとまりを楽曲の1単位と見なしてそれらを配置するリズム構造の原理に基づいている。この講演は聴衆の前で原稿を読み上げる点では通常のそれと変わりないが、ケージはリズム構造を用いて自分が言葉を発する時間を制御し、加えて随所に挿入される無言の沈黙の時間と空間を用いて、この講演自体を完全に構造化している。つまり、この講演のテキストを読み上げる行為は演劇的であるともいえ、テキストは台本や脚本の性格を帯びている。2012年のケージ生誕100年にちなんで、演出家のロバート・ウィルソンはこのレクチャーを再現するパフォーマンスを行っているhttp://www.robertwilson.com/lecture-on-nothing

 「この壇上にいて 、私にはいうべきことが何もない 。」[11]から始まる「無についてのレクチャー」は全体的につかみどころのない内容だが、ケージは得意の小噺風の逸話を交えながら主に沈黙 silence、構造 structure、素材 material、ノイズ noise、方法 methodについて語る。これらはケージとフェルドマンのどちらにとっても、おそらく生涯をかけて追求した関心事であり、時に創作における大きな困難となって彼らに降りかかってきた。リズム構造によるケージ自身の楽曲と、ちょうどこの頃から始まったフェルドマンの図形楽譜の楽曲を想定すると「音楽をつくるのが 簡単だ ということは 構造の限界を受け入れ よう という意思 からきている。 構造は 考案 し理解し 計測することが できるため 簡単だ 。 」[12]の一節における「構造」に2つの意味を読み取ることができる。1つは、このレクチャーのテキスト自体にケージが施した時間と空間の制御を介して得られる完成された有機的な構造。もう1つは、西洋近代音楽の弁証法的な修辞とは異なる音楽の構造、あるいは構造の不在。前者はケージを、後者はフェルドマンを示唆している。

 全部を読み上げると約1時間を要する「無についてのレクチャー」の中にフェルドマンの名前は一度も出てこない。だが、ここでケージは、一見してわかる明瞭な構造(または何らかの規則に基づいた構造)を持たず、音の鳴らない間(ま)による沈黙が不意に現れ、どのような方法で作られているのか判然としないフェルドマンの楽曲を頭の中でイメージしていたのだろう。たしかに、たとえば「Two Intermissions for piano」(1950)を聴くと、彼の音楽は何かを表現するのではなく、何かを打ち消そうとしているように思えてくる。

Two Intermissions for piano (1950)

「何かについてのレクチャー」
 「何かと無が どうしたら対立せず、互いに必要と しあっていけるかについてだ 。」[13]とケージが冒頭で述べるように、「無についてのレクチャー」は「何かについてのレクチャー」に呼応している。ここでは無 nothing、連続性 continuity、無連続性 non-continuity、受け入れること acceptanceといった言葉が頻出する。ケージは、フェルドマンがこの時取り組んでいた図形楽譜の楽曲「Intersections」シリーズをとりあげてロマンティックな調子で賛辞を送っている。

フェルドマンは 無音について 語り 広い範囲のなかで 最初に現れる 幾音かをとりあげる。 彼は作曲家の 責任を つくることから 受け入れること へと変えた。 結果いかんに かかわらず 生じるもの を受け入れることは あらゆるもの との同一性の感覚 から もたらされる 愛を恐れぬこと あるいはその愛 で満たされる ことである。 このことによって、 フェルドマンが音の すべてと関係するというとき、意味していることが明かになり、 また 他の作曲家 がするように 特定の音符を書き込ま なくとも、何が 起こるか が予見できる。[14]

 「作曲家の責任をつくることから受け入れることへと変えた」の箇所は、不確定性の音楽においては、作曲家が主に演奏方法を楽譜や何らかの方法で指示するが、その結果がどんなものであれ作曲家は自分の作品として受け入れるという態度と解釈できる。この「受け入れること」は後のフェルドマンに不確定性の音楽と即興との境界に関する葛藤を引き起こし、1967年の図形楽譜及び不確定性の音楽の中止へとつながるのだが、1951年当時、まだフェルドマンはこのような作曲に希望と可能性を感じていた。そんな彼の姿をそばで見ていたケージは、ある種の檄文や宣伝のような意味合いを含ませながら、このレクチャーでフェルドマンを英雄的に描写している。このレクチャーをケージが催した背景をRyan Dohoneyは「ケージ、フェルドマン、ローゼンバーグと画家たちに共通する生気論の美学を共有していた証拠としてだけでなく、ケージからフェルドマンに対する友情を表すジェスチャーでもあった as not only evidence of a shared vitalist aesthetics common to Cage, Feldman, Rosenberg, and the painters, but also a gesture of friendship on Cage’s part offered to Feldman.」[15]と考えている。2人の親密な交流を通して「ケージはフェルドマンの ザ・クラブへの加入を世話して、彼の音楽を ザ・クラブに周知させた。Cage midwifed Feldman’s initiation into the Club and made his music intelligible to it.」[16] 。 Dohoneyの視点を踏まえると、この2つのレクチャーには新進作曲家モートン・フェルドマンをダウンタウンのシーンに知らしめようとしたケージの戦略的な意図が見えてくる。実際、1951年以降、このシーンにおけるフェルドマンの存在感が増していき、画家たちとの交流もさらに盛んになる。このレクチャーからしばらくした頃、フェルドマンのもとにポロックのドキュメンタリー映像の音楽の仕事が舞い込んできたのだった。

「ジャクソン・ポロックJackson Pollock」(1951)の音楽

 写真家のハンス・ネイムスは抽象表現主義の画家たちを被写体としていたが、彼らの創作過程における身体性をより鮮烈に捉えるようと映像の領域に足を踏み入れる。このシリーズの第一弾がポロックを題材として制作された約11分の映像「Jackson Pollock」で、映像プロデューサーのパウル・ファルケンベルクも制作者として名を連ねている。フェルドマンにとってはこれが初めての映画音楽となった。

Hans Namuth and Paul Falkenberg/ Jackson Pollock (1951)

 ニューヨーク州スプリングのポロックのアトリエ兼自宅の外で撮影されたこの映像は、床の上に直接置いたキャンヴァス上に、筆や棒につけた顔料を滴らせるドリッピング dripping、顔料を流し込むポーリング pouringと呼ばれるポロックの技法に焦点を当てている。ネイムスの狙いは、ポロックの作品の意味を解釈することではなくて、ポロックの作品の意味とその創作過程とを同一と見なすことだった[17]。「過程(プロセス)を作品と見なす」この考え方は、絵筆のストロークの痕跡そのものを作品とする当時の抽象表現主義絵画の様式の1つであると同時に、後に1960年代半ばからのミニマル・アートとミニマル・ミュージックに引き継がれていく。作品を生み出す過程を克明に映像に収めるため、この映像でポロックは撮影用にガラスをキャンヴァスに見立てて描いている。

 フェルドマンはこの映像のために2挺のチェロによる音楽を書いた。フェルドマンの友人、ダニエル・スターンが演奏したチェロの2つのパートが録音され、映像の中で用いられている。フェルドマンは映像のシークエンスの長さを精確に測りながら、「まるでダンス音楽を作るかのようにこの音楽を作曲した wrote the score as if I were writing music for choreography.」[18]。フェルドマンの音楽はポロック自身による独白のようなナレーションと重ならないタイミングで用いられ、以下の箇所に9回現れる。音楽のないいくつかのシーンによって映像全体に緊張感がもたらされている。いずれの場合も音楽は1〜2分の非常に短い断片で構成されている。

0:18-0:30 ポロックがガラスに自分に名前を書き込んでいる。2音の反復パターンと開放弦による持続音が非常に短いプロローグを奏でる。

3:08-4:05 高音域でのピチカートと開放弦による持続音。ポロックが素早い身のこなしで顔料をキャンヴァスに放つ様子をカメラが追う。

4:07-4:45 キャンヴァスとポロックの影が交互に切り替わるカメラの動きに音楽が同期する。長回しのシーンではチェロが音をひきのばす。

4:54-5:18 ポロックのキャンヴァスが接写される。冒頭の2音パターンの反復と類似した断片が聴こえる。

6:00-7:20 ポロックが一切のためらいも見せずガラスに筆で描いている。高音域でのピチカートが不規則な間隔でせわしなく鳴らされる。

7:28-7:52 ポロックがガラスに上に紐のようなものを配置している。持続音とピチカートが交互に鳴らされる。

7:55-8:13 ポロックがガラスの上に様々な物体を配置している。ピチカートによる和音がほぼ等間隔で鳴らされる。

8:16-8:40 ポロックが顔料を缶から直接キャンヴァスに流し込んでいる。高音域での持続音と激しく打弦されるピチカートが交互に鳴らされる。

8:41-10:01 引き続き、ポロックは素早く筆を動かす。ピチカートによる和音が激しく打弦される。ガラスに書かれたエンドロールが映し出される。

 フェルドマンがこの映像のために書いた音楽は、唐突な反復やアルコでの持続音とピチカートとの対照的な効果など、ほぼ同時期に作曲された「Structures for String Quartet」の書法と重なる部分が多い。違いを1つあげるとすれば両者のダイナミクスにある。前者(ポロックの映像のための音楽)は強めのダイナミクス、後者(「Structures for String Quartet」)は全体的に抑制されたダイナミクスが指示されている。

Structures for String Quartet(1951)

 フェルドマンがこの音楽を完成させたのは、パウル・ザッハー財団が所蔵しているスコアに記されている「1951年5月 May 1951」[19]だとわかる。音楽の依頼がフェルドマンに来た経緯には2つの説が指摘されている[20] 。1つはケージの評伝[21]に書かれているように、1941年4月頃、ポロックの妻で画家のリー・クラスナーが当初ケージに音楽を依頼したが彼は断り、その代案として彼がフェルドマンに持ちかけた説。もう1つは、フェルドマンが1981年のエッセイ「Crippled Symmetry」にて、彼がポロックから直接、音楽の依頼を受けたと書いている[22] 。どちらが正しいのか今となってはわからないが、フェルドマンが「自分のキャリアが始まったばかりだったので、これ(映画音楽の仕事)はとても光栄だった。I was very pleased about this since it was just the very beginning of my career.」[23]と述べていることから、彼にとってこの映画音楽の仕事は率直にうれしかったようだ。

 1951年はフェルドマンの周りでたくさんの出来事が起きた年である。ザ・クラブやセダー・タヴァーンでの人脈と活動はフェルドマンの創作をさらに強烈に突き動かしていく。だが、これだけではない。この年、フェルドマンは彼の名を20世紀後半のアメリカ音楽史に知らしめることになった一連の図形楽譜作品に本格的に着手する。その様子は次回とりあげる。


[1] オリジナルは Pierre Boulez/John Cage: Correspondance et documents, Winterthur: Amedeus Verlag, 1990. 1993年に英訳版が出版された。本稿が参照しているのは1999年にPress Syndicate of the University of Cambridgeから出版された英訳版。2018年には日本語訳『ブーレーズ/ケージ往復書簡集』(笠羽映子訳、みすず書房)が出版された。
[2] Morton Feldman Says: Selected Interviews and Lectures 1964-1987, edited by Chris Villars, London: Hyphen Press, 2006, p. 258
[3] The Boulez-Cage Correspondence, English version, Edited by Jean-Jacques Nattiez, translated and edited by Robert Samuels, Cambridge: The Press Syndicate of the University of Cambridge, 1993, p. 77
[4] Morton Feldman, Essays, Kerpen: Beginner Press, 1985, p. 38
[5] Jonathan W. Bernard, “Feldman’s Painters,” in The New York Schools of Music and Visual Arts: John Cage, Morton Feldman, Edgard Varèse, Willem de Kooning, Jasper Johns, Robert Rauschenberg, edited by Steven Johnson, New York: Routledge, 2002, p. 175
[6] Brad Gooch, City Poet: The Life and Times of Frank O’Hara, New York: Alfred A. Knopf, Inc, 2014, pp. 201-202
[7] Ibid., p. 202
[8] Morton Feldman, Give My Regards to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman, Edited by B. H. Friedman, Cambridge: Exact Change, 2000, p. 4
[9] Feldman 1985, op. cit., p. 38
[10] 「何かについてのレクチャー」が1951年2月9日に行われたことはケージの評伝等で明らかになっているが、「無についてのレクチャー」の日付は定かではない。ケージは「何かについてのレクチャー」において「無についてのレクチャー」に言及する際に「先週」と述べていることから、「無についてのレクチャー」が2月9日の前の週(2月の第1週)に行われたと推測できる。
[11] ケージ、前掲書p. 189。「無についてのレクチャー」「何かについてのレクチャー」ともに原書と日本語版では改行、語句の間を隔てる空間、空白のページの挿入など独自のレイアウトがなされているが、本稿では簡易的なレイアウトに留めた。
[12] 同前、p. 194
[13] 同前、p. 227
[14] 同前 pp. 228-229
[15] Ryan Dohoney, “Spontaneity, Intimacy, and Friendship in Morton Feldman’s Music of the 1950s,” Sep. 27, 2017, https://modernismmodernity.org/articles/morton-feldman, accessed April 19, 2020.
[16] Ibid.
[17] Michael Schreyach, Intention and Interpretation in Hans Namuth’s Film, Jackson Pollock, in Art and Art History Faculty Research, Trinity University, 2012, p. 3, https://digitalcommons.trinity.edu/art_faculty/?utm_source=digitalcommons.trinity.edu%2Fart_faculty%2F2&utm_medium=PDF&utm_campaign=PDFCoverPages, accessed April 29, 2020
[18] Olivia Mattis, “Morton Feldman: Music for the film Jackson Pollock (1951),” 1998, https://www.cnvill.net/mfmattis.htm accessed on April 30, 2020 におけるB.H. Friedman, Jackson Pollock: Energy Made Visible, New York, 1972; repr. 1995, p. 173.からの引用。
[19] Ibid.
[20] Ibid.
[21] David Revil, The Roaring Silence John Cage: A Life, New York: Arcade Publishing, 1992, p. 141
[22] Feldman 2000, op. cit., p. 147
[23] Feldman 2000, op. cit., p. 147

高橋智子
1978年仙台市生まれ。Joy DivisionとNew Orderが好きな無職。

(次回更新は6月15日の予定です)

吉池拓男の迷盤・珍盤百選 (6) B級グルメな謝肉祭〜芸の道は他と違ってナンボ

〇:history’s carnival  Alexandre Bragé (p) art classics ART-171 2009年
×:The Sound of Time  Alexandre Brazhe(p) art classics ART-060 2004年

history’s carnival – Alexandre Bragé (art classics ART-171)

音楽配信やYouTubeで有名無名の演奏家の音源が大量に聴ける時代になりました。で、ひとつ確信したことがあるのですが、この世の中、ピアノが技術的に上手く弾ける輩は山ほどいるということです。なのに多くの人が無名のまま消えていく。栄枯盛衰の違いは何なのでしょう。イケメン度か、スカートの丈の短さか、単なる運か。そんな中、状況を打破すべく「他人様とわかりやすく違ってなんぼ」という主張をぶつけてくる演奏家が私は大好きです。今回ご紹介するブラージェ(綴りは盤によって違う)もそんな一人です。

手持ちの2枚のCDにはなんとブラージェの経歴が一切書かれていません。わかることと言えばたぶんロシア人で今35歳くらいだろうということ。YouTubeには10年前の演奏映像があります。で、彼が2009年に発表した「history’s carnival」が面白い。弾いているのはC.P.E.バッハのソナタが3曲、ショパンのスケルツォ1番、マズルカ2曲、ワルツop.64、シューマンの謝肉祭、シュヴァルツのPas-de-Patineursによる自作の編曲ものです。C.P.E.バッハのソナタは、CD解説に「Guldの息子」(たぶんGouldの息子の間違い)と評されているように、キレの良いリズム感で快適に演奏されています。これはこれで見事。続くショパンはどうってことない演奏で、強いて言えば子犬のワルツのテンポの緩急が激しいことくらい。

で、ちょっとびっくりのシューマン謝肉祭が始まります。アルバムタイトルと関係した選曲が実はこれ1曲だけであることからして、ブラージェがいかにこの演奏に賭けていたかわかります。「前口上」からキレが良く、表情付けも豊かなわりと良い演奏だなと思ってると、ラスト3小節で低音部に聴きなれないゴロゴロトリルがっ! 続く「ピエロ」では中間で楽譜にない右手のキラキラフレーズ(Good!)を加え、「高貴なワルツ」では譜面にない繰り返しをして17小節目からはイイ感じの内声旋律を浮かび上がらせます。「浮気女」の緩急は振れ幅が大きくてユニーク。そして「スフィンクス」。これ、音が多い!ラフマニノフ版よりも遥かに多い。低音のトリルに始まり鍵盤を広く駆け巡る完全自作曲。さらに、想定外の手を加えてくるのが続く「パピヨン」。後半の一部フレーズを4分の2拍子ではなく8分の6拍子風にリズムを変え、さらに曲終了直前で音楽を止めて自作「スフィンクス」の冒頭を一瞬弾いて終わります。これには呆気にとられました。しかも不思議とこの「スフィンクス」の無理矢理挿入は納得感があります。いや、面白い。演奏も音楽がキラッキラッ活きている。お見事。「ショパン」は繰り返し2回目の10小節目は当然のように1回目とは違う装飾フレーズを弾き、「パンタロンとコロンビーヌ」では中間部のMeno Prestoの繰り返しを、続くTempo Iに2小節進んでから行います。これはこれでまたまた妙に納得。よくこんなこと考えたものです。そのあとは多少ネタ切れなのか、低音のオクターブ下げ強調が入るくらいですが、終曲の最後で前口上と同じ低音トリルをゴロゴロ追加して多めの音で終わります。

シューマンの作品はショパンと比べれば手を加えて弾く人が少なく、ブラージェのアプローチは凄く新鮮です。演奏自体も生気に溢れてて楽しい。このアルバムは最後、あまり聴いたことのないポルカっぽい曲の重音ごちゃごちゃ自作編曲で終わります。この編曲はラフマニノフの「W.R.のポルカ」へのオマージュな感じがします。かなり難しそうですが、悪くないナンバーです。

無理筋の改変か果敢な挑戦か? ブラージェ版ラコッツィ行進曲

The Sound of Time ( art classics ART-060 )

さて、ブラージェは2004年にも「The Sound of Time」というアルバムを出しています。収録曲はショパンのマズルカop.63、ソナタの2番、夜想曲18番、リストのメフィストワルツ第1番と小人の踊り。実はここまではなんということのない普通の演奏です。注目するのは、その次の自分で編曲したハンガリー狂詩曲第15番「ラコッツィ行進曲」と「サウンド・オブ・ミュージック」によるパラフレーズです。ラコッツィはホロヴィッツやワイルドといった先人の圧倒的編曲がある中、ブラージェの採った戦略はというと、リストのハンガリー狂詩曲15番の原曲の尊重でした。全体進行・構成はほぼリストのまま。冒頭から楽譜で1ページ半くらいはリストの原曲を弾いている感じですが、だんだん和声や装飾をいじりだし、「いやいや、そりゃやりすぎでしょ」「そんなにするなら原曲のままでよくね?」と突っ込みたくなるような無理筋の改編が延々と続きます。その割に中間部終わりのカデンツァ風のところやエンディングの盛り上がる所はほぼリストのママだったりします。なんともゴクローサンな編曲で、どちらかと言うと「色々考えたんですけど肝心なところを思いつかなくてダメになってしまいました」の典型のような大変お勉強になる仕上がりです。こうなると期待は最後の「サウンド・オブ・ミュージック」によるパラフレーズに移ります。これはおなじみのメロディが次から次に出てきて、ピアノ書法的にもチープめの華麗さに彩られ、素人さんの会のアンコールには最適です。ただ、尺がたったの2分42秒。ちょっと短いかなぁ。どうせならリスト並みに10分くらいのパラフレーズにした方が良かった感じですね。

つまりこの「The Sound of Time」は明らかな失敗作。特に個性を開陳しようとしたところが、ことごとくうまくいっていません。ですが、それもまたCD集めの楽しみ。名盤だけじゃオモシロくない。

ブラージェはこのほかに2枚くらいアルバム(「remakes & variations 」「Kreisleriana」)を出していますが、特に前者は中古市場にもなく、入手が大変そうです。「Kreisleriana」は手に入りそうですので、万が一オモシロかったらまたご紹介いたしましょう。なかなかに問題のあるピアニストですが、少なくともシューマンの謝肉祭は他に例を見ない面白さに溢れ、C.P.E.バッハのソナタも一聴に値します。

やはり人前で芸をする人の基本は“他人と違ってなんぼ”ですね。結果の良し悪しは別として……。

【紹介者略歴】
吉池拓男
元クラシックピアノ系ヲタク。聴きたいものがあまり発売されなくなった事と酒におぼれてCD代がなくなった事で、十数年前に積極的マニアを終了。現在、終活+呑み代稼ぎで昔買い込んだCDをどんどん放出中。

吉池拓男の迷盤・珍盤百選 (5) 里帰り子分の独白

CARNEGIE HALL presents Ronald Turini (p) January 23, 1961
The Great Moment at CARNEGIE HALL(43枚組)よりCD 10/11 – SONY Classical 2016年

いえ、私は破門されてはいません。組の代紋をかつぐことは認められています。ただ、もうすっかり無沙汰をしてまして、しのぎ、いやいや、お仕事もあまり目立つことはしていません。

親父には本当によくしていただきました。親父の下で修業させていただいたのは昭和32年から37年まで。七人いた子分の中では一番長かったんじゃないかなぁ。昭和36年の金木会館かーねぎーほーるでの御披露目興行も親父に準備していただきました。他所のお国のショバにかちこみ、いやいやいや、武者修行にも行かせてもらいました。まぁ、てなことしてる内に「そろそろ独り立ちしたらどうだ?」と親父に言われてお暇した次第です。円満卒業、ですよ。その後も親父がいろいろ仕事を世話してくれたんですが、なんか里心がついてしまいまして、故郷の加奈陀かなだに帰りました。故郷じゃ、若いもんに仕事を教えるのが好きになりましてね、もっぱらそれで食べさせてもらってます。独り仕事ですか? いやぁ、独りで大舞台に立つのはちょっと。誰かと室内で楽しく演るのが性に合ってますね。井田いだの姐御とはよく演らせてもらってます。「あいつは腕は確かだが、度胸がなくていけねぇ」ですって? ああ、親父が私のことをそう言ってましたか。何でもお見通しですね。

The Great Moment at CARNEGIE HALLのCD10と11に収録

そういえば金木会館の125周年記念記録盤全43巻に、私の御披露目興行が2巻に渡って入ったそうですね。畏れ多いことです。だって親父も入ってますし、親父の義理の親父さんも入ってる、露西亜ろしあ組の有名な御仁たちもいらっしゃる、そんな中に加えていただけたなんて身に余る光栄ですよ。

え、出来を紹介してくれって? うーーん、一言でいうと若気の至り。若い力と感激に 燃えよ若人 胸を張れ、って感じですかね。親父の愛弟子の御披露目ということで各界の方々に注目していただきましたし、親父からも徹底的にしごかれましたから、すごい緊張感ですよ。最初の臭満しゅーまん短編小説のゔぇれって其の壱もこんな瑞々しく生気に溢れた仕上がりは珍しいでしょ。同じ臭満の奏鳴曲そなた第弐も全力で突っ走っりましたよ。活きの良さなら負けないですからね。あ、最終章ふぃなーれは親父の大好きな捨てられた最初の奴(遺作)で演らせてもらってます。当時は珍しい試みだったと思いますよ。

それから勺旁しょぱんをいくつか演りました。特に訓練曲えちゅーど拾之壱は1分41秒で駆け抜けました。これはちょいと自慢です。ここまでの切れ味はそうそうないですよ。もちろん勢いだけでないところは訓練曲廿伍之七でお出ししてますがね。え、所々威勢の良さが顔を出すって? 言ったでしょ、若気の至りだって。続けて勺旁は譚詩曲ばらーど第壱も演りました。細かいしくじりはありますが、なかなかの勢いでしょう。そのあとの貧出水戸ひんでみっとの奏鳴曲第弐は私の大得意。同じ近世ものでは親父得意の救狸夜瓶すくりゃーびんの訓練曲を親父がバリバリの頃よりも速く演ってます。続く一覧表りすと拾四行詩そねっと佰四をこんなに想いのこもったキレの良さで演った例は滅多にないんではないでしょうか。興行のトリは親父譲りの洪牙利はんがりー狂詩曲。親父に敬意を表して親父の演ってない拾弐番目を献上いたしました。速いでしょ。活きがいいでしょ。熱さと激しさなら前人未到かも、なんてね。若かったなぁ……親父は弟子が親父流の改変をするとお怒りになることがあるので、なるべく帳面通りに演りました。

お聴きのようにお客さんは大喜び。奏鳴曲の途中だっつうのにどっかんどっかん拍手来るんだから吃驚でしたよ。こんだけ喜んでいただいたんですから、調子に乗ってもう四つ舞台で演ってしまいました。最後の解れ端らゔぇる接触曲とっかーたはちょっと飛ばしすぎましたかね。いや、お恥ずかしい。ただねぇ、この興行、残念なことに記録の具合が良くないんですよ。昭和36年でこの状態というのは申し訳ない限りですね。普通はもう少し綺麗な感じになるんですがねぇ。ま、それでも私の灼熱の若気はわかってもらえると思います。

え、親父の名前ですか? ウラディミール・ホロヴィッツですよ。私ですか? 私はロナルド・トゥリーニです。親父が認めた三人の弟子のうちの一人です。


以上、グレン・プラスキン著「ホロヴィッツ」第19章:九十四丁目の音楽学校、から筆者による勝手な翻案。

補記:
・「若い力と感激に 燃えよ若人 胸を張れ、」 作詞:佐伯孝夫(1947)「若い力」から引用
・「臭満」 某大学ピアノサークルのY氏の発案(1972頃)から引用
・「貧出水戸」…この物語はフィクションであり 実在の人名団体名 特に地名とはまったく関係ありませんので そこんとこよろしく (補記の説明:魔夜峰央「翔んで埼玉」(1982)から引用)

【紹介者略歴】
吉池拓男
元クラシックピアノ系ヲタク。聴きたいものがあまり発売されなくなった事と酒におぼれてCD代がなくなった事で、十数年前に積極的マニアを終了。現在、終活+呑み代稼ぎで昔買い込んだCDをどんどん放出中。

吉池拓男の迷盤・珍盤百選 (4) 破門された子分の独白

Coleman Blumfield piano – SONORIS SCD5151 1993年

Coleman Blumfield piano

へい、組を破門されたコールマンっつうのは確かにあっしの事です。組に居たのは昭和31年から2年ほどっすね。厳しい親父で、子分は7人くらいいたんですが、次々破門されちまいまして、組に残れたのはジャニス兄貴、グラフマン兄貴、あと弟分のトゥリーニの野郎くらいでっさ。あっし含めて破門された奴らは、組に居たことを名乗ることも許されねえし、その後のしのぎもさんざんでさぁ。あ、デイヴィスの野郎だけは、組に入った時点でもう一端の仕事人だったんで破門されても上手くやってたな。

組に入ったいきさつですかい? まぁ、親父もあの世に行っちまったんでお話ししますよ。

あっしは最初は別の組にいたんでさぁ。その別の組でも冴えねえ下っ端だったんですが、大姐御の紹介で親父に会わせていただき、ラッキーなことに仕事っぷりが気に入られてお世話になることになったんですわ。親父と言えば雲の上の上の上のお人でしたから、その時は天にも昇るような、ほんとに夢のような気持ちになりやした。そこから2年、みっちりしのぎを叩き込まれたんっすが、どうも覚えが悪くて親父に見限られたっていうとこでさ。無理ないっすよ、親父は超天才っす。化け物っす。誰も親父のようにはできないっす。しかも親父は教え方が気まぐれで、散々振り回されましたわ。恨んでるかって? うーーーん、確かにわだかまりはありやすが、親父の仕事が凄すぎて破門されてからも憧れの的でしたっすね。とにかくあの親父は別格っす。誰もかなわないっす。いや、もう逝っちまったんで、誰もかなわなかった、っすね。

平成の元年に親父が亡くなったんで、破門されたあっしですが、ま、怒るお方もおりやせんので、勝手に追善興行をさせていただきやした。世間様は情け深い人が多ござんして、こんな破門されたあっしの興行を結構褒めてもらえましてね。それで今度しぃーでーを出そうかって話になりまして、追善興行の演目で演らせていただきやした。おや、よくよく考えたら、あっしの初アルバムですかねぇ。南米の熱帯雨林でもあっしの過去仕事は見つからないそうで。ま、嬉しいやら、悲しいやら、ってとこっすかね。

追善興行しぃーでーの内容ですかい? 嬉しいですねぇ、聞いてくださるんすか。お話ししやしょう。

まずは親父お得意のすかるらってぃから3つ。皆親父が演ってたもの(L.23,203,164)でっさ。親父ほどキリッとは演れませんが綺麗でっしゃろ。続きますはしうべるとの90-3。親父は2種類演ってたんですが、あっしは変止の方で演りやした。お次は親父の肝煎り、展覧会の絵っす。親父は帳面に仔細を残してくれなかったんで苦労しやしたよ。でも、だいたい親父の作法で演ってやすよ。最後もちゃんとデレデデレデデレデデレデって思いっきり演りやしたよ。細けえこと言やあ、ちょこちょこ違うところはありやすが、ま、破門された身なんでご愛敬ということでご勘弁を。親父の好きだったしよぱんからは、ばらあどのピンを演らせていただきやした。親父みたいに低音ドカーンと、しかも中入りでかまさせていただきやした。ちょっと雑? へっ、しょせん破門された野郎ですよ。最後は親父がバリバリだった頃の十八番、さんさんすの死の舞踏。追善のケツにはうってつけですわな。もちろん親父のようには行かんかったですが、結構気張らせていただきやした。南無阿弥陀仏。

へ? 親父の名前ですか? ウラディミール・ホロヴィッツいいます。あっしですか? あっしの名前はコールマン・ブルムフィールドっす。ま、ほとんどどなたもご存じないですがね。


以上、グレン・プラスキン著「ホロヴィッツ」第19章:九十四丁目の音楽学校、から筆者による勝手な翻案。

補足資料:Wikipedia英語版 Vladimir Horowitz よりStudentsの項に掲載された7人の弟子。カッコ内は弟子入りしていた時期。晩年には何人かのお友達的門人(ペライアなど)を受け入れている。

この7人のうちピアニストとして華々しいキャリアを築けたのは、ジャニスとグラフマンのみ。デイヴィスは(Wikiによれば)生涯に12枚のアルバムを発表する程度の活躍は続けられた。

【紹介者略歴】
吉池拓男
元クラシックピアノ系ヲタク。聴きたいものがあまり発売されなくなった事と酒におぼれてCD代がなくなった事で、十数年前に積極的マニアを終了。現在、終活+呑み代稼ぎで昔買い込んだCDをどんどん放出中。

吉池拓男の迷盤・珍盤百選 (3) 散財報告書~シューマン第3ソナタ、謎のフィナーレ

Schumann: Beethoven Studies – Olivier Chauzu(p) NAXOS, 8.573540, 2016年
(参考1) Schumann: Concert pour Piano seul – Florian Henschel(p) ARS MUSICI, AM 1306-2, 2002年
(参考2) Schumann and the Sonata 1 – Florian Uhlig(p) 独Hänssler CD 98.603, 2010年

Schumann: Beethoven Studies, Olivier Chauzu(p)

Naxosから出たChauzuの弾くシューマン作品集は衝撃でした。

聴いたこともない曲がピアノソナタ第3番の「廃棄されたフィナーレ」として弾かれていたのです。確かにラスト20秒くらいは現行の第3ソナタと同じなので、間違いなく第3ソナタでしょう。でもこれ何? Wikipediaにもピティナの曲解説にもシューマンマニアのHPにも言及がないし、IMSLPに譜面もないし、最も根性の入った楽譜と思われるヘンレ版「1836年版+1853年版+削除された楽章と変奏付き2冊セット」にもない。同じヘンレ版の新シューマン全集にもない。なんだこれ、誰か教えてくれ。Naxos盤の解説にも「廃棄されたもの」としか書かれていない。うーーーーむ。

そして始まる散財の旅~フィナーレは6つあった?

一般的な曲目解説によれば、シューマンの第3ソナタは1836年春に5楽章のソナタとして自筆譜(初稿)が出来上がりました。ところが出版社の意向で2つのスケルツォ楽章を削り、同年秋に3楽章からなる「管弦楽のない協奏曲」として世に出ます。これが1836年版(初版)といわれるものです。月日は流れて1853年、シューマンは第1楽章とフィナーレに手を入れ、削除されたスケルツォ楽章の1つを復活させて4楽章形式の「グランドソナタ(1853年版:改訂版)」として出版します。初版と改訂版はヘンレ版で譜面確認ができます。

詳細な説明をさらに探し求めました。すると上述した“根性の入った”ヘンレ版楽譜の解説のところに、「このソナタの自筆譜のフィナーレはoriginal versionのbeginningだけが書かれている。new versionは別の紙に書かれた。」とありました。これか?これなのか?でも「beginning」しかないというのにNaxos盤は見事に完結してるぞ。Naxos盤の謎のフィナーレは何なのだ。

そして散財が始まりました。新たに2種類のCD盤を購入。老眼をこらえて解説をむさぼり読み、シューマンの第3ソナタには少なくとも6種類のフィナーレがあることがわかったのです。

【散財のその1: 自筆譜(初稿)の確認】

Schumann: Concert pour Piano seul / Fantaisiestücke op. 12 – Florian Henschel (p)

自筆譜(初稿)はおそらく出版されていませんが、大英図書館にある自筆譜を基に演奏をしたというFlorian Henschelの録音盤があったので、まずこれを購入。聴くと、従来言われていた「初稿からスケルツォ楽章を2つ削ったのが初版」が違うことがわかりました。正確には「初稿からスケルツォ楽章2つを省き、第1・5楽章のところどころ書き換え、変奏曲形式の第4楽章の変奏6つから2つ省いて変奏の順番を入れ替えたのが初版」でした。ただし終楽章はNaxos盤の曲ではなく、初版や改訂版とほぼ同じもの。ヘンレ版解説にある「original versionのbeginning」については何の記載も演奏もありません。どうやら第5楽章は “別の紙に書かれたnew version=初版のフィナーレの自筆譜”を引っ張り出して弾いたと推察されます。確かにこのCDでは「自筆譜で弾いた」とあるので嘘ではないですね。

【散財その2:Florian Uhligによるシューマン全集録音の管弦楽のない協奏曲op.14】

Schumann and the Sonata I – Florian Uhlig(p)

あっけなくもNaxos盤の謎の終楽章はここにありました。シューマンが1829年(?)に作曲したロマンス(断片)を基にソナタのフィナーレを書き始め、4ページだけ書いて止めた“断片”があったというのです。このCDではその“断片”からJoachim Draheimと演奏者が完成版を作って演奏していました。このCDの解説によると「初稿から初版になるときに新しいフィナーレを書いた」とありますので、ヘンレ版の解説の記述とも矛盾しません。ただこの「4ページの断片」はストックホルムにある音楽財団が所有しており、大英図書館の自筆譜にある「beginning」との関係はどこにも記載がなく、確認が取れません。実際に演奏されている曲はとても「beginning」だけなんていうレベルではなく、後述するようにユニークな全体構成を持っていますので、たった4ページ(フィナーレはテンポが速いので初版を基に推測すれば500小節≒15ページくらいあって不思議はない)というのも違和感は残ります。でもまぁ、謎のフィナーレはこれ、ですかね。

とりあえず謎は解決、と思いきや……問題はさらに勃発! Uhlig盤のフィナーレとNaxos盤のフィナーレは最後まで聴くと全然違ったのです。Naxos盤は最後の2~30秒間、初版以降のフィナーレと同じ終わり方をしますが、Uhligのは全く独自のもの。もうこれ以上資料がありません。お手上げです。

ひとまず6つの「フィナーレ」のわかっているデータを載せてみましょう。

 発想記号拍子小節数演奏時間
1836年初稿(自筆譜。Beginningのみ)不明不明不明不明
1836年初稿(別の紙の自筆譜)Prestissimo possibile不明不明7分02秒
1836年初版Prestissimo possibile16分の6拍子714小節7~8分
1853年改訂版Prestissimo possibile4分の2拍子359小節7~8分
Naxos盤のFinale*不明(vivacissimo )不明不明5分13秒
Uhlig盤のFinalePresto possibile16分の6拍子不明5分38秒
Naxos盤の解説にはvivacissimoの発想記号はないが、CDをリッピングするとこの発想記号が曲名表示に現れる

「Beginningのみ」は結局どういう曲だかわかりませんでした。ただ、Uhligが全く弾いていないところから推察するに、4ページ断片と同じ曲なのではないかと思われます。あと、初版と改訂版で小節数が大きく違うのは拍子の取り方の違いによるものです。4分の3拍子の曲を8分の6拍子で書いたら小節数が半分になるのと同じです。細部の違いはあれど初稿(別の紙の自筆譜)と初版と改訂版はだいたい同じ曲です。NaxosのとUhligのはコーダ部分以外は(たぶん)同じ曲です。

ここいらで散財の結果をまとめてドンと私見(偏見)で解決してしまいましょう。音楽学者でもない人間がCD集めだけで得た知識の範囲内ですから、信用しちゃだめよ

極私的見解~シューマン第3ソナタの真実!?

シューマンは1835年頃、第3ソナタを書くにあたって、以前書きかけで止めてたピアノ曲「ロマンス」を引っ張り出して、第5楽章フィナーレとして大改作し始めた。が、なんか気に入らないことがあって放棄。書き始めた自筆譜も最初の辺りだけ書いてそのまんま。試行錯誤した4ページくらいの断片譜面もお蔵入り。気を取り直して新たなフィナーレを速攻で作曲して初稿を完成させる。初稿から出版するにあたり、これにちょこっと手を入れて初版とし、改訂版を作る時にどさっと手を入れる。150年後、シューマン全集録音で一発当てようとしたUhligおよびCD企画者が、シリーズ第1弾の目玉企画として第3ソナタの放棄されたフィナーレ断片(とその原曲のロマンス)を引っ張り出して補作して完成して弾いた。ところがその(たぶん補作者が創った)コーダ部分があまりにダサいため、おそらくはNaxos盤で弾いてるChauzuか誰かがその部分を初版以降のコーダと同じ進行に変えて弾いた。

……ということかな。ま、Chauzuさんにお手紙書けば一発で解決するんですがね。

ようやく喉のつかえが自分勝手に取れました。では最後にこの「廃棄されたフィナーレ」がどういう曲かをお伝えしておきましょう。

シューマンの直筆譜~British Library Music CollectionsのTwitterより

まず、第3ソナタ冒頭から使われる下降音型を含んだ急速で曖昧模糊とした主題で始まり、しばらくすると第2主題っぽいのが出ます。この主題、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」の有名な「お手をどうぞ」そっくり。ちょっとびっくりします。(ただし、この主題は原曲といわれるロマンスにもあります。)その後いろいろ展開して中間部で静かになり、「クララの主題による変奏曲」楽章の第1変奏がゆったりと奏でられ、その後再び盛り上がってNaxos盤は1836年版、1853年版と同じ音型で終わります

で、ふと気づきます。この曲、第2ソナタの廃棄された終楽章(アレグロ・パッショナート、遺作)と印象が似ているのです。最初の主題の急速で模糊とした感じ、そして途中の主題が過去の有名曲にそっくりなところが。ちなみに第2ソナタの廃棄終楽章ではベートーヴェンのクロイツェルソナタ終楽章にそっくりの主題が中間に現れて展開します。この廃棄された2つのソナタ終楽章の類似が偶然なのかどうか、ちゃんと研究した人の意見を待ちたいものです。ちなみに私の超勝手な妄想は、クララ・ヴィークが「なんかこの終楽章、もごもごしてるし、難しいしで嫌い。それに盗作っぽいわよ。恥ずかしくなくなくない?」みたいなことを言ったのではないかな、と。少なくとも第2ソナタの終楽章を廃棄して書き換えさせたのがクララの意見であることは有名な事実です。

散財によってようやくここまで来ました。ちなみに散財のきっかけを与えてくれたNaxos盤は、この曲のほかにもシューマンの珍品が多数収められています。びっくりするのは「シューベルトの主題による変奏曲」。シューベルトの主題提示がなく、いきなり「謝肉祭 op.9」の冒頭部分が始まります。シューベルトの主題(ワルツ D.365-2)が出るのは、謝肉祭に続いて実質10の変奏(正確にはVariationとRitornellがそれぞれ5曲ずつ)のあと、つまり曲の最後。不思議な構成です。そのほかも珍曲揃いですが、「トッカータ op.7」の原曲「練習曲(1830)」は面白い。よくぞこの「練習曲」から「トッカータ」にまで昇華させたものだと感心します。ちなみに「ショパンの夜想曲による変奏曲」は夜想曲第6番ト短調 op.15 no.3が主題です。

演奏者のOlivier Chauzuはパリ音楽院出。技術的な安定度も高く、割とクールに各曲を攻めていて、この手の珍曲弾きとしてはうってつけです。

以上。

【紹介者略歴】
吉池拓男
元クラシックピアノ系ヲタク。聴きたいものがあまり発売されなくなった事と酒におぼれてCD代がなくなった事で、十数年前に積極的マニアを終了。現在、終活+呑み代稼ぎで昔買い込んだCDをどんどん放出中。

あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(1)

(筆者:高橋智子)

次の一節は1951年にジョン・ケージがモートン・フェルドマンの音楽について語った「何かについてのレクチャー Lecture on something」からの抜粋である。ここでケージが言おうとしていることの真意をどう解釈すべきか、すぐに答えは出ないが、彼の言葉には妙な説得力がある。

人生はモーティ・ フェルドマンの 曲のように進む。
偶然鳴った 音が面白くなかったと 異論を唱える人も いるかもしれない。
言わせておけ。 今度その曲を聴いた時には、 もっと面白くないか、
突然興奮 するか、いずれにせよ 違っているだろう 。 たぶん
悲惨だろう。 誰がかって ? その人だ。 フェルドマンのことじゃない。 

柿沼敏江訳『サイレンス』水声社、1996年、p. 232より

Feldman/ For Bunita Marcus (1985)

フェルドマンの音楽は難しい

 いうまでもなく、音楽の聴き方や解釈(ここには楽譜を読むことや演奏も含まれる)の方法や可能性は無限だ。ある楽曲や音響に第一印象で心を奪われる場合もあるし、何度か聴いていくうちにどんどんはまり込むこともあるだろう。もちろんこれは本稿でとりあげるモートン・フェルドマンの音楽についても同じだ。たとえば1950年代に書かれたフェルドマンのピアノ独奏曲や1960年代の比較的小規模な室内楽曲に接して、聴き手は、最小限に抑えられたダイナミクスを伴って展開される繊細で官能的な音の世界に魅了されるかもしれない。あるいは、深い黙想に誘う音楽として聴かれるかもしれない。フェルドマンの音楽に対して私たちが抱く印象は様々だが、筆者には、彼の音楽が右から左へと聴き流すことは到底できない、ひっかかりのようなものを常に投げかけてくるように感じられる。この「ひっかかりのようなもの」は、少数の音で構成された音型や、特定の音程の反復などの技術的な特性と、それによる音響的な効果に由来するのだと頭の中ではわかっているはずだ。だが、なぜ「For Bunita Marcus」(1985) 冒頭のC#とDの連打がフェルドマンの音楽として響くのか、その根拠は実のところよくわからない。その響きは作曲家が直感で書き、その結果として偶発的に生じたものなのか。それとも綿密な計算を経て結実したものなのか。彼が記した一音一音には、さらには音と音との空白や沈黙にさえ、理論や技法を論じただけでは量り得ない、だからといって安易な言葉のレトリックに逃げるのを許さない強固で厳しい何かがある。先にフェルドマンの音楽について「最小限に抑えられたダイナミクスを伴って展開される繊細で官能的な音の世界」と書いてしまったが、言葉を尽くして説明しようとすればするほど核心から遠ざかっていくような無力感に襲われる。さすが、サミュエル・ベケットを敬愛した作曲家だ。
 作曲家の発言を鵜呑みにするのは得策ではないものの、フェルドマンは「自分自身についていえば、私の楽曲にまつわる言説のほとんどは後付けであって、方法論についての技術的な議論も大きな誤解を招くだろう。For myself, most of my observations about my work are after the fact, and a technical discussion of my methodology would be quite misleading.」*1と記し、自発的あるいは、少しまじめに彼の音楽を聴いたり、演奏したり、研究しようとする人々を挑発する。だが、実際には既に多くの研究書や論文が刊行されており、楽曲分析にはピッチクラス理論などの分析手法が用いられている。したがって、フェルドマンの楽曲を分析することは不可能ではないし、珍しいことでもない。フェルドマンにとっての「誤解」が誰かにとっての理解の助けになっているのは確かだ。
 今ここで書いている内容とこれから書こうとしている事柄もフェルドマン自身にとっては誤解のひとつに過ぎないかもしれない。しかし、この作曲家とその音楽について、彼が書いた楽曲とそこからかろうじて観察できるなんらかの技術的、理論的な側面だけでなく、交友関係や好きな画家といった情報も合わせて知っておくことは決して無駄ではないと信じたい。
 無調からさらに発展した、およそ第二次世界大戦後からの芸術音楽(広い意味でのクラシック音楽といってもよいし、いわゆる現代音楽の枠組みで語ることもできる)にはその時代、地域、技法等に基づくいくつかの潮流が見られる。たとえばトータル・セリー主義の視点からこの時代を俯瞰した場合、真っ先に浮かぶのはピエール・ブーレーズ、ルイジ・ノーノ、カールハインツ・シュトックハウゼンらのダルムシュタット楽派だろう。
 彼らとほぼ同時代のフェルドマンについて考える場合、作曲家としての活動を始めた1940年代から没年の1987年までの年代、アメリカ合衆国の主に東海岸(ニューヨーク市とバッファロー市)、図形楽譜や持続の自由な楽曲(音符の符尾が記されておらず、奏者の任意で音の長さが定められる)における不確定性などが挙げられる。彼が自身のスタイルを確立する上で頻繁に言及される音楽関連の人物は、主にアントン・ヴェーベルン、エドガー・ヴァレーズ、シュテファン・ヴォルペ、デイヴィッド・チュードア、クリスチャン・ウォルフ、ジョン・ケージ、アール・ブラウン、ピエール・ブーレーズ、カールハインツ・シュトックハウゼンといった面々だ。また、フェルドマンはニューヨーク・スクールおよび抽象表現主義の美術家から創作のインスピレーションを得ていた。彼にとって、その影響はもしかしすると音楽家よりも大きなものだったかもしれない。フェルドマンはジャクソン・ポロック、ウィレム・デ・クーニング、フィリップ・ガストン、マーク・ロスコ、フランツ・クラインにまつわる楽曲を書いている。フェルドマンの音楽の理解者として、詩人のフランク・オハラの存在も忘れることができない。文学ではベケットからの影響が最も大きく、フェルドマン唯一のオペラ『Neither』(1977) のテキスト(脚本と呼ぶにはとても短い散文詩のようなもの)は彼のたっての願いでベケットが書いている。また、1970年代後半から始まる長時間の楽曲は、彼が1976年に訪れたイランを中心とする中東地域の絨毯の存在なしに語れないだろう。
 以上、フェルドマンの音楽と結びつきの深い人物と事物をごく簡単に列挙してみた。これらは彼の音楽に関する基礎知識に過ぎないのだが、それ故に逐一立ち止まる必要がある。この連載でそれぞれをどの程度とりあげることができるのか、まだはっきりとわからないが、筆者はどの一つも省けないほど全てが大事だと考えている。

記譜法と作品年代

 現時点でわかっているフェルドマンの楽曲数は未発表や未完成のおよそ50曲も含めると約200。本稿が参照した作品リストの最新版はクリス・ヴィラーズ Chris Villarsが運営しているMorton Feldman Page(https://www.cnvill.net/mfhome.htm)に
掲載されており、このリストは現在も更新されている。ピアノ独奏曲が36、デュオ、あるいは3台または3人以上のピアノによるアンサンブルによる楽曲が11曲、ピアノと他の楽器との室内楽編成の楽曲が51と、全体的にピアノを用いた楽曲の割合が高い。あまり知られていないがフェルドマンはテープ音楽「Intersection for Magnetic Tape」(1953) を1つ作っている。作品を年代ごとに大まかに区切ると、1943−49年頃までを習作期とみなすことができる。それ以降は1950−56年頃、1957−62年頃、1963−69年頃、1970−1977年頃、1978年から没年の1987年。この区分の根拠は様式の変化に基づいているが、特にフェルドマンの場合は記譜法が作品変遷を検討する際の鍵となる。

Feldman / Intersection for Magnetic Tape

[習作期]
1943-1949
作曲年代が確定されている最も古いものは1943年(フェルドマン16歳)にさかのぼるが、この年に作曲された4曲のうち「First Piano Sonata[to Bela Bartok]」(1943) 以外は未出版、未録音である。

[初期]
1950−56年
この時期は五線譜によるピアノの小品が多いと同時にフェルドマンは図形楽譜の楽曲を書き始める。グラフ用紙の升目による『Projections 1-5』(1950-51)はおそらく最もよく知られているフェルドマンの楽譜の1つだろう。

1957-62年
「Piece for four Pianos」(1957)、「Piano Four Hands 」(1958)、『Durations 1-5』 (1960-61)など、1957年頃から持続の自由な楽譜が頻繁に用いられる。

[中期]
1963−69年
この時期は持続の自由な楽譜がさらに発展し、『Vertical Thoughts 1-5』(1963)のようにそれぞれの音(パート)の演奏順番を破線で記した記譜法が用いられる。「The King of Denmark」(1964)など、図形楽譜は奏法や音色を細かく指定することで50年代よりも複雑になった。フェルドマンは様々な限界と疑問から「In Search of an Orchestration」(1967)で図形楽譜をやめてしまう。

1970-77年
この時期以降から晩年までの記譜法はほとんどが通常の五線譜である。ここでの大きな変化は『Viola in My Life 1-4』(1970-71)、『The Rothko Chapel』(1971)。「String Quartet and Orchestra」(1973)、「Piano and Orchestra」(1975)、といった、ソロ楽器や独立したセクションとオーケストラによる編成のシリーズが始まる。

[後期]
1978−82年
楽譜の外見のテクスチュアがさらに緻密になり、フェルドマンが収集していた中東の絨毯の影響が顕著になる。「String Quartet No. l」(1979)、「Patterns in a Chromatic Field」(1981)、「For John Cage」(1982)など演奏を時間が1時間を超える作品が書かれる。

1983−87年
約5〜7時間の「String Quartet No. 2」(1983)、約4時間半の「For Philip Guston」(1984) など、さらに長時間の楽曲が書かれる。

 様々な視点があるが、記譜法に着目してフェルドマンの楽曲とその様式変遷をごく簡単に概観してみた。もちろん、この変化の様子は当時のフェルドマンが暮らした環境、出会った人物、夢中になっていたものなどと深く関わっている。

生い立ちからジョン・ケージに出会うまで

Morton Feldman, Amsterdam 1976

 今回はフェルドマンの1950年代前半、つまりケージらと出会った当時までたどる。執筆にあたりSebastian Claren, Neither: Die Musik Morton Feldmans, Berlin: Wolke Verlag, 2000巻末のフェルドマン年表と、その英訳版(インタヴューとレクチャー集、Morton Feldman Says: Selected Interviews and Lectures 1964-1987, Edited by Chris Villars, London: Hyphen Press, 2006所収)を参照した。
 モートン・フェルドマン Morton Feldmanは1926年1月12日ニューヨーク市マンハッタン区で生まれ、ブロンクス区で育った。両親は子供の頃にニューヨークに移住したロシア系ユダヤ人。父アーヴィングは兄(フェルドマンの叔父にあたる)が経営する子供服工場で働いていたが途中で独立した。1972年にニューヨーク大学バッファロー校の教授職に就くまで、フェルドマンは父が起した子供用マント会社で働いて生計を立てていた。彼が家業と作曲家業とを掛け持ちしていたことは、フェルドマン自身のインタヴューやエッセイであまり語られていない。
 1935年、9歳のフェルドマンは作曲を始める。これがどんな曲だったのか、具体的な手がかりは今のところ明らかではない。同時期にマンハッタンのロウアー・イースト・サイドでピアノを習い始める。本格的なピアノのレッスンは1938年、フェルドマンが12歳になってからで、彼にとっての初めてのピアノ教師はヴェラ・モーリナ・プレスだった。彼女はロシアでフェルッチョ・ブゾーニなどにピアノを師事した後、ニューヨークに亡命したピアニストだ。フェルドマンは自分のやりたいように音楽をやらせてくれたプレスを尊敬しており、1970年には彼女への追悼として「Madame Press died last week at ninety」を作曲した。1941年、15歳のフェルドマンはアメリカにおける十二音技法の先駆者の一人、ウォーリングフォード・リーガーに作曲を習い始め、対位法などを勉強した。当時通っていた芸術高校 Music and Arts High School 時代のクラスメイトにはシーモア・シフリンがいた。彼は後にUCLAバークレー校時代のラ・モンテ・ヤングの指導教員になった。ここに1950年代半ば以降のアメリカ実験音楽界隈の奇妙なつながりの一端を見ることができる。
 高校卒業後、フェルドマンはニューヨーク大学の入学試験を受けに行くも、他の受験生を見て自分には合わないと感じ、試験を受けずに部屋から出て行ってしまう。以降、フェルドマンは引き続きプライヴェート・レッスンで作曲を学んだ。1944年頃からフェルドマンはシュテファン・ヴォルペのもとに通い始める。彼は途中からヴォルペに月謝を払うのをやめたが、それでも作曲のレッスンは数年間続いたらしい。初期のジョン・ケージの作品のみならず、同時代の実験音楽界隈の初演を数多く手がけたデイヴィット・チュードアもヴォルペのレッスンに通っていた。フェルドマンはエドガー・ヴァレーズからも作曲のレッスンを受けようとしたが断られてしまった。だが、月に一度程度、彼のもとを訪れていたようだ。1958年、フェルドマンは「サウンド、ノイズ、ヴァレーズ、ブーレーズ “Sound, Noise, Varèse, Boulez”」という短い文章を書いている。このエッセイは、1950年代に偶然性をとりいれたブーレーズを「…きっと彼(ブーレーズ)の成功のおかげで、ヴァレーズ、ジョン・ケージ、クリスチャン・ウォルフ、そして自分(フェルドマン)自身について耳にする機会が増えるだろう。 … and it will be thanks that we will able to hear more of Varèse, John Cage, Christian Wolff and myself.」*2 と挑発し、ヴァレーズを音ないし音響soundの物理的な現実性を知らしめてくれた唯一の音楽家として讃えている。

制御を失うその瞬間にクリスタルのような音響が地平を成す。その地平を押しわけた先には響きもなく、音色もなく、感傷もない。最初の一呼吸以外に大事なものは何も残らない−これがヴァレーズの音楽だ。ヴァレーズただ一人が、このような優雅さ、物理的な実体、音楽が作曲されるというより、むしろ人類について書き表している感覚を私たちに与えている。

And those moments when one loses control, and sound like crystals forms its own planes, and with a thrust, there is no sound, no tone, no sentiment, nothing left but the significance of our first breath—such the music of Varèse. He alone has given us this elegance, this physical reality, this impression that the music is writing about mankind rather than being composed.

Morton Feldman, Give My Regards to The Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman, Edited by B. H. Friedman, Cambridge: Exact Change, 2000, p. 2より

ここで引用した部分に限らず、フェルドマンの文章は高度な皮肉と批判精神に満ちていて、時に理解に時間を要する。彼はある意味きわめて雄弁な作曲家だったと言えるだろう。
 「Journey to the End of the Night」(1947)はフェルドマンがヴォルペのもとに通っていた時期に書かれた楽曲だと推測される。起伏の多い表出的なソプラノの旋律とアンサンブルの書法から、当時のフェルドマンが第二次ウィーン楽派の無調の語法を研究していたと想像できる。

Feldman/ Journey to the End of the Night (1947)

 フェルドマンにとって、ヴァレーズと並ぶ、もしかしするとそれ以上の重要な音楽家はやはりケージだろう。フェルドマンがケージと初めて出会ったのは1950年1月26日か27日、カーネギー・ホールでニューヨーク・フィルハーモニックの定期演奏会が行われた日である。この定期演奏会のプログラムはニューヨーク・フィルハーモニックのデジタル・アーカイヴ で見ることができる。前半がケルビーニとベートーヴェン、休憩を挟んだ後半がヴェーベルンとラフマニノフからなる、現在のオーケストラの演奏会ではあまり見られない構成だ。この中で唯一ヴェーベルンの「Symphony Op. 21 for chamber orchestra」(1927/28) が観客の大半から大きな不評を買ったようだ。しかし、フェルドマンとケージはこの曲の演奏に感銘を受けた。興奮気味のフェルドマンは以前ヴォルペの家で見かけたことのあるケージに思わず「すばらしかったですよね?Wasn’t that beautiful?」*3 と声をかけた。ヴェーベルンの曲に対する失望と退屈のあまりブーイングを送った大半の観客と異なり、ケージもこの時のフェルドマンと同じ雰囲気を発していたのだろうか。この様子を自身の文章「ライナーノート Liner Notes」*4 の中で振り返るフェルドマンの筆致がドラマティックなのでどこまで真実なのかわからないが、この瞬間にふたりは出会い、意気投合した。一方、ケージはヴェーベルンの「Symphony Op. 21 for chamber orchestra」が当時の彼にとってとても強い関心の対象だったと、1950年2月にブーレーズに宛てた手紙*5 の中で書いている。作曲家としてのフェルドマンの活動は1950年1月のケージとの出会いによって一気に加速したようにも見える。

Webern/ Symphony op. 21 for chamber orchestra (1927/28)

 フェルドマンと知り合った頃のケージは、ロウアー・マンハッタンの326モンロー・ストリートに位置するボザ・マンション Bozza Mansion(このロフトの大家の名前にちなんでこのように呼ばれていた)に住んでいた。ケージと同じ階には彫刻家のリチャード・リッポルド、詩人で画家のソニア・セクラが、その下の階にはニューヨークのネオ・ダダ芸術家レイ・ジョンソンも住んでいた。ケージと知り合ってまもなくフェルドマンはここの2階に引っ越した。やがてボザ・マンションは、美術家のロバート・ラウシェンバーグ、サリ・ディエネス、ダンサーで振付師のマース・カニンガム、詩人のM. C. リチャーズ、マース・カニンガム・ダンス・カンパニーのダンサー、キャロライン・ブラウンなど、様々な分野の芸術家が行き来する場所となった。もしかしたら、当時のボザ・マンションの様子は日本でいうところのトキワ荘(手塚治虫、赤塚不二夫、藤子不二雄、石ノ森章太郎らが住んでいた東京都豊島区南長崎にあったアパート)に近かったのかもしれない。

 作曲のレッスンのためケージのもとを訪れていたクリスチャン・ウォルフは、ボザ・マンションを訪れていた中でおそらく最年少だと思われる。フェルドマンは当時16歳だった高校生の彼を「テニスシューズのオルフェウス」と呼んでいた。彼の父親が経営する出版社パンテオン・ブックスは『易経』の英訳版を出版していた。ウォルフがケージにプレゼントした『易経』英訳版が「Music for Changes」(1951)をはじめとする偶然性の音楽誕生の一役を担ったことはよく知られたエピソードである。ケージとチュードアがボザ・マンションで出会ったことも、ここでの重要な出来事だ。1950年代から1960年代にかけてのケージのピアノ作品に欠かせない存在であるチュードアをケージに引き合わせたのは他でもなくフェルドマンだった。ケージとフェルドマンを中心に、ボザ・マンションのコミュニティは徐々に音楽版のニューヨーク・スクール結成の機運を高めていく。ケージとカニンガムの勧めで1952年にデンヴァーからアール・ブラウンがニューヨークに移り住み、ニューヨーク・スクールのメンバーが全員揃った。だが、コンピュータや電子音楽に批判的だったフェルドマンはエンジニア畑出身のブラウンを快く思っていなかったようだ。
 ボザ・マンションに集う芸術家、音楽家はコミュニティ形成にとどまらず、創作にとって実践的な影響をもたらし始めた。とりわけ音楽に関して、ここの住人だったケージとフェルドマンを介した人脈とその交流から派生した出来事は、直接的であれ間接的であれ、現時点でわかっている以外にも数多く見られたのではないかと推測できる。ボザ・マンションから外に出ると、当時のフェルドマンにはもう1つの大事な場所があった。それについては次回とりあげる。

*1 Morton Feldman, Give My Regard to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman, Edited by B. H. Friedman, Cambridge: Exact Change, 2000, p. 17
*2 Feldman, op. cit., p. 1
*3 Feldman, ibid., p. 4
*4 初出は雑誌Kulchur, Vol. 2, No. 6, summer 1962 https://fromasecretlocation.com/kulchur/ また1963年にTime Recordsから発売されたアルバム『Feldman/ Brown』のライナーノーツとして用いられた。フェルドマンの著作集 Give My Regards to The Eighth Streetに同じ文章が収録されている。
*5 The Boulez-Cage Correspondence, English version, Edited by Jean-Jacques Nattiez, translated and edited by Robert Samuels, Cambridge: The Press Syndicate of the University of Cambridge, 1993, p. 55

高橋智子
1978年仙台市生まれ。Joy DivisionとNew Orderが好きな無職。

(次回更新は5月15日の予定です)

吉池拓男の迷盤・珍盤百選 (2) 先生、本当に生徒に聴かせて良いのですか?

The Weil Recital Hall Morey Hall(p) Morey Hall Recordings MH-01

Morey Hall Recordings
MH-01

2016年にSteinway & SonsのTop Teacher Awardを受賞し、今もニューヨークでピアノ教師・ピアニスト・作曲家として活動を続けるMorey Hall 先生が、1996年にカーネギーホールで開いたリサイタルの直後に同じプログラムで一発録りしたアルバムです。Steinway & SonsのTop Teacher Awardという賞がどれほど素晴らしいものかは不勉強で知りませんが、天下のSteinway & Sonsが年間のTop Teacher だと賞賛したのですから、さぞや素晴らしい教育者なのでしょう。

でも、Hall先生、これヤバくないですか? 生徒さんに聴かせて商売大丈夫ですか? 本当にこれでカーネギーホールでリサイタルしたのですか??? うーーーむ。

最初のモーツァルト(K.475、457)から、よれまくるテンポ、破綻しまくる細かなフレーズ、これ、先生の解釈なのでしょうか。前代未聞のモーツァルト演奏になっていませんか。そして、リスト。愛の夢第3番中間部。これ4分の6拍子ですよ。8分の7拍子×2じゃないですよ。そして葬送曲。不意打ちのような急速テンポ変化は先生の得意技なのですね。あと、そこらじゅうで妙なフレーズ弾いてますね。暗譜、飛びましたか? 忘れたらその場で作っちゃだめですよ。ここまでこれだけスゴければハンガリー狂詩曲第2番への期待は膨らむばかり。冒頭から3拍子っぽいリズム取り、やってくれますね。変わらぬ急発進も慣れました。ラッサンの難しいところ、ことごとく弾けてませんね、期待通りです。おっと、ラッサン終わりからフリスカのところで自作のカデンツァ入れてますね。これは洒落てるなぁ。さぁフリスカ。凄いなぁ、これ。6分06秒(194小節)から20秒にかけての珍妙なフレージング、6分50秒(236小節)の全身の生命力を奪い去るような情けないミスタッチ(確信犯なら天才)、そして8分10秒(322小節)からのリズムもテンポも楽譜も伸縮自在の泥酔したようなトンデモフレージング、ここは技巧的には簡単なのでHall先生、完全に意図的ですね……あぁ、もうきりがない。短いながらも自作のカデンツァを弾いて全曲終了、11分20秒間、お疲れさんでした。人類の録音史上、おそらくは最畸のハンガリー狂詩曲体験をありがとうございました。

CDの解説によるとBlue Sky Recordingの1996年最優秀CDにもなったそうですね。いやぁ、素晴らしい。で、Blue Sky Recordingって何?

ピアノマニアを40年くらいやってきましたが、こんなCDには他でめぐり逢っていません。「ピアノ界のジェンキンス夫人」とお呼びしましょう。ここまでやれば大したもんです。何よりもいまだに音楽活動を続け、Steinway & SonsのTop Teacher Awardに輝くところまで来たのですから感動しかありません。

で、Hall先生、改めて言いますが、本当に生徒に聴かせて良いのですか?

豪華対位法的オケ編曲! シュレーカー作「リストのハンガリー狂詩曲第2番」ほか

コダーイ/シュレーカー管弦楽作品集 ギュンター・ノイホルト指揮ブレーメン州立フィルハーモニー管弦楽団 ANTES  BM-CD 31.9084 1996年

ANTES  BM-CD 31.9084
1996年

くらくらするHall先生のハンガリー狂詩曲の後は、シュレーカー渾身のオケ版で耳掃除。歌劇作曲家として20世紀初頭のドイツでR.シュトラウスに次いで高く評価されていたシュレーカーは、リストのハンガリー狂詩曲第2番のオケ版を作ります。シュレーカー本人の興奮気味の曲紹介文がCDブックレットに載っていますが、早い話、ワインガルトナーやゴドフスキがウェーバーの「舞踏への勧誘」でやった“対位法的編曲”をハンガリー狂詩曲で徹底的にかましたぞ!というものです。ストコフスキ編の上を行っていると自画自賛もしてます。1953年にホロヴィッツが同曲の旋律を複数同時演奏するバージョンを披露していますが、その先駆的作品であり、比較にならないほどゴテゴテに対旋律で飾り立てたオミゴトなバージョンです。

曲の進行自体はほぼリストの原曲通りで、開始から2分間くらいはなんとなく対旋律っぽいのもありますが普通のオケ編曲です。衝撃は2分40秒(ピアノ版62小節目)。世代の古い私は、ラジオの混信か?CDの編集ミスで別の曲を重ね焼きしたか?と思わず再生機を確認してしまいました。有名な冒頭のフレーズに乗せてちょっとビミョーな対旋律がもわーんと始まるのです。その後、4分00秒付近やフリスカ以降は対旋律のオンパレード。曲中の旋律を使うこともありますが、シュレーカー自作のが多いですね。一番の聴き所は8分39秒(344小節)からフリスカの進行にラッサン冒頭のフレーズが朗々と重ねられ、続く8分55秒から全旋律揃い組の大カオスとなるところでしょう。計算されつくしたハチャメチャで本当に楽しい。素敵なお祭り騒ぎです。さぁ、カデンツァはどうする?と思っていると、なんとピアノ独奏。シュレーカー本人の指示ではオイゲン・ダルベール作のカデンツァを弾け、とのこと。面白いこと考えますねぇ。この演奏でもダルベールのカデンツァを弾いてますが、前半部分だけです。後半は主要旋律の重ね合わせ(ほとんど後のホロヴィッツ)なのでオケ本編とかぶると思ったのでしょうね。

このCDにはコダーイの伽藍多舞曲(よい変換だ)とハーリ・ヤーノシュ組曲も入っています。ただCDブックレットの解説の長さからしてシュレーカー1曲がコダーイ2曲の3倍くらいありますので、このアルバムの制作陣がいかにこのハンガリー狂詩曲に賭けているのか如実にわかります。そのくらい面白い対位法的編曲作品です。

【紹介者略歴】
吉池拓男
元クラシックピアノ系ヲタク。聴きたいものがあまり発売されなくなった事と酒におぼれてCD代がなくなった事で、十数年前に積極的マニアを終了。現在、終活+呑み代稼ぎで昔買い込んだCDをどんどん放出中。

海外配信音源を聴いてみよう(1) ベルギーRTBF

日本ではまだあまり放送局やラジオ局がネットで直に番組の配信を行っていませんが、海外、特にヨーロッパでは非常に盛んです。クラシック音楽のコンサートなどのライブ音源は特に貴重で、なかなか演奏されることのないレパートリーが配信されていることも。大抵はCD化されないので、これを聴かない手はありません。

とはいえ、英語ですら大変なのに、ほかの言語でどうやって視聴したらいいの?という方もいらっしゃるでしょう。そこで各配信サイトを紹介するとともに、どうやって視聴・会員登録したらよいかを説明するのがこの連載です。

ラジオ&テレビ・ベルギー・フランス語放送

最初に紹介するのがこちらRTBF(Radio télévision belge de la communauté française)です。ベルギーの公共放送局です(Wikipedia)。こちらのコンテンツは会員登録さえすれば無料で視聴できます。音楽コンテンツは全ジャンルありますが、クラシックのヨーロッパ開催コンサート録音がやはり注目どころです。ただし、ベルギー国内からしか見られないものも(特に動画)や、ほとんどが視聴期間が限られています。いつも巡回できない、という方は、おすすめコンテンツをツイッターでご紹介しますので、ぜひフォローしてみてください。

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吉池拓男の迷盤・珍盤百選 (1) 幻のピアノ秘技 必殺!クラスターチョップ ~よいこはぜったいまねをしてはいけません~

Landmarks of Recorded Pianism vol.2(米Marston 52075-2, 2020年3月)*定期購入会員先行販売
(参考)Moriz Rosenthal The Complete Recordings (英APR APR 7503, 2012年

衝撃の瞬間はハンガリー狂詩曲第2番開始から6分22秒後、フリスカの序奏部の後にやってきます。この小節の2拍めの左手、ゴワッシャア!という凄まじい轟濁音!派手なミスタッチか?いや違う、そこから7小節間、2拍めごとに計8発の轟濁音が打たれます。

Landmarks of Recorded Pianism Vol.2
Landmarks of Recorded Pianism vol.2

これは紛れもない確信犯。そのエゲツない轟濁音はおそらく手のひらで鍵盤をチョップ、いや、そんなものではない。エルボーか、いや、ヘッドバットか、ストンピングか。そうだ、尻だ、雷電ドロップに違いない。右手はリストの譜面通りを弾いているから、その体勢は!?超人業だっ!!!……などアホなことを夢想してしまわせるほど、とんでもない音のする怪演が、モーリッツ・ローゼンタールが1929年に放送録音したハンガリー狂詩曲 第2番(しかも今回初出)です。

そして7分33秒。音楽は前代未聞の轟濁音に包まれます。嗚呼、この瞬間、私の中のクラシック音楽の何か大切ものが崩れ落ちてしまった……そんな陶酔的絶望に胸は震えます。さらにローゼンタールは自作のカデンツァからエンディングでもどっかんどっかん轟濁音を振り下ろします。敬意をこめてこの奏法を「クラスターチョップ」と私は命名しました。素晴らしい(かも)。現代ではもうだれもやらない(というか、やれない)幻のピアノ秘技です。

Moriz Rosenthal - The Complete Recordings(5CD)
Moriz Rosenthal – The Complete Recordings

ローゼンタールは翌年に同曲をスタジオ録音していて、CDには続けて収録されています。が、こちらはクラスターチョップは控えめ。控えめ過ぎると盛大なミスタッチに聴こえるので使用法は気を付けないといけませんね。2012年にAPRから出ていたローゼンタール全録音(5枚組:今回のハンガリー狂詩曲は新発見なので入っていません)ではヨハン・シュトラウスの編曲もので時折「クラスターチョップ」を使っています。ただその使用頻度において今回のハンガリー狂詩曲は別格。こんなピアノ演奏も「あり」だったのかと目から鱗が大瀑布です。

Mark Hambourg ベートーヴェン:ピアノソナタ「悲愴」(日Green Door GDFS-0016, 2005年)

Mark Hambourg ベートーヴェン ピアノソナタ「悲愴」日Green Door GDFS-0016
Mark Hambourg – ベートーヴェン:ピアノソナタ「悲愴」

と、ここで他のクラスターチョッパーにも参戦してもらいましょう。その名はマーク・ハンブルク。ショーンバーグの名著『ピアノ音楽の巨匠たち』で「ハンブルクのスタイルには火山のような激しさがあった。テクニック的な正確さといったつまらないことにこだわることを潔しとせず、響の上に響きを重ねるのだった。」と言われた怪物ピアニストです。とにかく20世紀前半は大人気だったようで、2,000曲以上録音したと言われています。YouTubeには爆笑モノの演奏映画映像もあります。本当に人気者だったのですね。そのミスをいとわぬスタイル故か、死後すっかり忘れられ、録音曲数の割に復刻も多くありません。

で、日本のGreen Doorから2005年に出たハンブルクの復刻アルバムが彼のチョップを記録しています。曲はシューベルト(タウジッヒ編曲)の軍隊行進曲。ハンブルクにはこの曲の録音が複数ありますが、ここに収められた1927年録音のものが強烈。快適なテンポで“テクニック的な正確さといったつまらないことにこだわらず”弾き進められ、まず1分00秒頃にクラスターチョップの香りがします。ただ、タウジッヒ編の元々の譜面が濁りっぽいのでここは看過。そして来ました、3分19秒と24秒、ここは明らかなクラスターチョップ! ショーンバーグの言う通り、まさに火山の爆発、マグマの噴出です。ま、ローゼンタールに言わせればハンブルクのは単なる盛大なミスタッチと片づけられるかもしれませんがね。(補記:ちなみにのGreen Door盤の最大衝撃はあまりに自由に弾いてるショパンのワルツ5番です)

これらの演奏は、技巧的全盛期を過ぎた技巧派ピアニストの悲しき咆哮と思う人もいるでしょう。しかし、このクラスターチョップという表現は、あまりに危険ですが、たまに聴くには確かに面白い。現代のピアノ演奏からは失われたピアノ演出を見つけて楽しむのもCD集めの大きな楽しみです。

追記:お父さま、お母さまへ
お子様にこれらの録音をお聴かせして、万が一「いいね!」となりますと、お子様の腕力ではあの音は出ず、おそらくお尻で弾くことになると推察いたします。そんなことでは清く正しいピアニストにはなれませんので、決してまねをしないよう厳しいご指導をよろしくお願いいたします。

【紹介者略歴】
吉池拓男
元クラシックピアノ系ヲタク。聴きたいものがあまり発売されなくなった事と酒におぼれてCD代がなくなった事で、十数年前に積極的マニアを終了。現在、終活+呑み代稼ぎで昔買い込んだCDをどんどん放出中。