シャルル・ケクラン~フランス音楽黄金期の知られざる巨匠(6)

 1902年3月、ケクランの私生活には変化の兆しが見えていた。彼はそれまで8年ほど住んでいたパリ16区のプラス・ディエナ(Place d’Iéna)を後にして、同じ区内のオートゥイユにあるヴィラ・モンモランシー(Villa Montmorency)へと居を移す。16区といえば、現在でも富裕層が多く集まる高級住宅地として知られているが、アルザス地方のブルジョワ家系を出自とするシャルル・ケクランが生まれたのもこの地区だった。豊かな家庭環境に生まれ育った彼にしてみれば、この高級な地域の雰囲気は居心地の良いものだったのか、何度かこれ以後も同じ区内で引っ越しを繰り返している。

 まさに同じ頃、隣接する17区のカルディネ通り58番地では、歌劇《ペレアスとメリザンド》の初演を約1カ月後に控えて、ドビュッシーが最終段階の作業を行っていた。この時にはまだ力ある多くの作曲家の一人でしかなかった彼も、フランスを代表する作曲家としての名声が確立されてからの1905年には、16区のブローニュの森にほど近い一軒家へと移り住んでいる。

 まさかもうすぐ、たった一つの歌劇が楽壇を震撼させフランス音楽の歴史を塗り替えることになろうとはつゆ知らず、ヴィラ・モンモランシーに引っ越したケクランは、ここで一人の女性と出会う。

エッフェル塔から見下ろした16区の風景。奥の森がブローニュの森。
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シャルル・ケクラン~フランス音楽黄金期の知られざる巨匠(5)

 パリ音楽院のフォーレ・クラスの仲間たちについてはすでに述べた。若き才能のるつぼの中で切磋琢磨する日々が、作曲家としての形成期にあったケクランに与えた影響は計り知れない。彼がフォーレの門下生となってから2年後の1898年、新たな仲間がこのクラスに加わった。若者の名はモーリス・ラヴェルであった。

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シャルル・ケクラン~フランス音楽黄金期の知られざる巨匠(4)

文:佐藤馨

 パリ音楽院第5代院長のアンブロワーズ・トマが1896年に亡くなると、新たな6代目院長には作曲科教授だったテオドール・デュボワが就任した一方、もう一人の作曲科教授であったジュール・マスネは職を辞して音楽院を去ってしまった。ケクランを含む、残された元マスネ・クラスの生徒たちは、この出来事を機に新たな師と出会う――ガブリエル・フォーレ(1845-1924)だ。

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あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(18)-2 (最終回)フェルドマンの音楽がもたらした影響

文:高橋智子

2 フェルドマン没後の受容と評価

 フェルドマン死去の翌日、1987年9月4日の『New York Times』に訃報が掲載された。この記事の冒頭でフェルドマンは「今世紀最も重要な実験作曲家の1人で、ミニマリストと称されている人たちよりも真のミニマリスト、モートン・フェルドマンがバッファロー・ジェネラル・ホスピタルで昨日、膵臓癌で死去した。Morton Feldman, one of the century’s most important experimental composers and a truer minimalist than many so labeled, died of pancreatic cancer early yesterday at Buffalo General Hospital.」[1]と紹介されている。通常、訃報記事はその人物の当時の評価や一般的なイメージを反映して書かれている。この訃報記事は「晩年にはアメリカの支持者や、とりわけヨーロッパから興味を持たれていたにもかかわらず、彼は音楽界からの孤立を感じていた。In his later years, even with continued interest in his work from American champions and, especially, Europeans, he felt cut off from the musical world.」[2]と、やや寂しい論調で締めくくられているが、フェルドマンの当時の音楽界からの評価と受容について次のように記されている。

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あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(18)-1 (最終回)フェルドマンの音楽がもたらした影響

文:高橋智子

1 フェルドマンとクリスチャン・ウォルフ

 1987年3月にラジオドラマ「Words and Music」の録音を終え、その後、6月12日に「For Samuel Beckett」のアムステルダムでの初演を終えたフェルドマンは、7月にオランダのミッデルブルクで連続講義を行い、また、そこで彼の事実上の最期の楽曲となった新作「Piano, Violin, Viola, Cello」を初演した。この慌ただしいスケジュールの合間の6月に彼はバッファロー大学の学生だった作曲家のバーバラ・モンク・フェルドマン[1]と結婚した。その数日後、フェルドマンが膵臓癌に冒されていることが判明する。彼は7月のミッデルブルクでの講義と「Piano, Violin, Viola, Cello」初演に病を押して参加した。バッファローに戻って治療を再開するも1987年9月3日に逝去。[2] 61歳だった。フェルドマンは9月9日にロサンゼルスでジョン・ケージ75歳の誕生日を祝した講演を行う予定だったが、急遽予定が変更され、ケージがフェルドマン追悼として「Scenario for M. F.」を朗読した。この詩はフェルドマンの60歳の誕生日を記念して前年の1986年に書かれたものだった。[3] 同じ日(1987年9月9日)にクイーンズ地区のサイナイ教会にてフェルドマンの葬儀が行われた。その後、彼はニューヨーク州ウェスト・バビロンにあるユダヤ人墓地、Beth Moses Cemeteryに埋葬された。[4]

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あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(17)-3 フェルドマンの最晩年の楽曲

文:高橋智子

3 最期の楽曲 「For Samuel Beckett」(1987)と「Piano, Violin, Viola, Cello」(1987)

 「Words and Music」の後、フェルドマンはもう1つ、ベケットにまつわる曲を書いた。それが1987年のホランド・フェスティヴァルから委嘱された「For Samuel Beckett」である。1987年3月10日、「Words and Music」ラジオ放送用のレコーディング中に行われたインタヴューの最後で、フェルドマンは「ホランド・フェスティヴァルのためものを仕上げているところです。 I’m finishing something up for the Holland Festival」[1]と発言しており、2つの曲がほとんど間を置かずに作曲されたことがわかる。もしかしたら、フェルドマンが2つの曲を同時進行で作曲していた可能性もある。だが、この曲にベケットの名前を付した理由を彼ははっきり語っていない。1つ前のセクションで解説した「Words and Music」がフェルドマンにとって音楽と表現、言葉、情緒との関係を再考するきっかけとなり、フェルドマン最晩年の新境地を切り拓いたことを考えると、「For Samuel Beckett」作曲中の彼の頭の中には常にベケットの存在があったのかもしれない。編成は23人の奏者のための室内アンサンブル。演奏時間は約55分。「For Samuel Beckett」はフェルドマンが生涯のうちで書いた最後から2番目の曲だ。

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ショータの楽譜探訪記(3)「ピアニスト探訪(1)」

こんにちは、ショータです。前回の記事から随分と期間が空いてしまいました。楽譜の蒐集に励んでかれこれ13年ほど経ちますが、この世の中にはまだ出会ったことの無い楽譜が沢山あります。去年、私の友人の紹介により素敵なご縁があり、明治~昭和の激動の時代を生きたピアニストが遺した歴史と貴重な楽譜を拝見する機会がありました。

ご遺族から詳しいお話をお伺いすることができました。今回、ご紹介する方はピアノ教師・ピアニストの池田春江さんです。

池田春江 (1901-1984)

1901年(明治34年)4月5日、横浜で生まれ、東洋英和女学院(東京都)を卒業後、神戸女子学院に入学するも直後に母親の急逝に伴い中退し、横浜に戻ることとなりました。

その後は、YMCA(キリスト教青年会)などで音楽や英語など学び、ピアノはルーマニアから亡命したカテリーナ・トドロヴィチ(Katerina Todorović)女史に師事しました(トドロヴィチ女子は後にアメリカに亡命)。その後は、ピアノ教室を横浜を拠点に主宰し、1927年からは池田春江門下生によるピアノ発表会(白百合会)を戦時中も中断することなく毎春に半世紀に渡り主催しました。また、ご長男が結核で早世してから熱心なキリスト教徒となって以来、日曜日の礼拝ではオルガニストも務めました。教会のチャペルや納骨堂の建築にも援助してたそうです。

海外には渡航したことが無かったそうですが、英語が大変堪能だったということと、横浜という土地柄もあり、戦中を除き戦前・戦後を通じて半数近くの生徒が外国人でした。門下生発表のプログラムによると、池田春江さん自身も発表会の最後に恩師のトドロヴィチ女史と共にグリーグやアントン・ルービンシュタインなどのピアノ協奏曲を2台ピアノで演奏することもあったそうです。1984年(昭和59)7月3日に横浜で83歳の生涯を閉じました。

カテリーナ・トドロヴィチと池田春江
池田春江門下生 ピアノ演奏会 プログラム

ピアノ演奏会では、トドロヴィチ女史の伴奏で難曲として知られるアントン・ルービンシュタインのピアノ協奏曲第4番の第1楽章を演奏しています。当時は(今も!)滅多に聴くことができない作品だったでしょう!

池田春江門下生 ピアノ演奏会 プログラム

先述したように横浜という土地柄、そして米軍関係者並びにその家族にピアノを教えていたこともあり、門下生演奏会のプログラムにはアメリカのピアノ作品も数多く並びました。また、池田春江さんの遺品の中にはアメリカのピアノ雑誌「ETUDE」もあり、アメリカのピアノ事情には大変詳しかったことでしょう。それらの雑誌や貴重な楽譜は、幸運なことに横浜空襲などの戦火から逃れ、ご遺族によって大切に保管されていました。

今回、ご遺族より譲り受けました池田春江さんが所蔵していた楽譜を紹介いたします。

レオポルド・ゴドフスキー:F. ショパンの作品25-4の左手のための編曲 (G. Schirmer)
1899年に刊行された初版。後に出版されたLienau(Schlesinger)版とは異なるプレートです。
松平頼則:ミュジック・ボックス(チェレプニン・コレクション:龍吟社)
本楽譜は1000部のみ印刷。チェレプニン・コレクションは滅多に流通しない超貴重な楽譜です。
ハインリヒ・ヴェルクマイスター:ピアノ作品集 第2番「間奏曲」(初版)
なんと作曲者本人による献辞付き!池田春江さんに贈られています。
左)アントン・ルービンシュタイン:ピアノ協奏曲第5番(初版・Bartholf Senff)
右)ツェルニー:トッカータ(Kistner)

2021年現在から見ても、あまり知られていない隠れた作品の楽譜も多く、お歳を召されてからも多種多様な作品の楽譜を手に取っていたことが池田春江さんによって楽譜の表紙に書かれた西暦から伺えました。生涯にわたって探究心を持って学び続ける姿勢に頭が下がる思いです。

現在はインターネットを使えば容易に楽譜の注文ができ、1週間も経てば楽譜が手元に届きます。当時はどのようにしてこれらの楽譜を入手していたのでしょう?楽器店で注文できたとしても数ヵ月は平気で待つことになったことでしょう。また当時出版されていた楽譜が必ず入手できるとは限りませんし、社会情勢にも大きく影響されたことでしょう。これらの初版を含む貴重なコレクションを池田春江さんがどのように入手されていたかは分かりません。楽譜には池田春江さんのサインも書き込まれ、楽譜に対する愛着を感じます。

今回、池田春江さんのご遺族から譲り受けた楽譜は次の世代に残すために大切に保管することにします。本記事の執筆のために写真やプログラム等の資料を快くご提供いただきました池田春江さんのご遺族に心より感謝申し上げます。

孫たちと共に

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記事作成:ショータこと江崎昭汰


江崎昭汰
福岡県出身。大分県立芸術短期大学を卒業後、ベルギーのリエージュ王立音楽院ピアノ科に入学。5年間に渡るベルギー滞在中において、ヨーロッパ各国でピアニスト及び伴奏家として演奏活動の傍ら、各国の図書館や中古楽譜店を巡り楽譜の蒐集を行った。修士課程を卒業後は日本へ帰国。現在はIT関係の仕事に従事しつつ、休日には演奏活動や合同会社ミューズ・プレスの共同代表を務める。これまでにCD『黛敏郎の秘曲/江﨑昭汰のピアノ演奏による』(スリーシェルズ)をリリース。

あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(17)-2 フェルドマンの最晩年の楽曲

文:高橋智子

2 ラジオドラマ「Words and Music」

 おそらく1985年頃、フェルドマンは自身の2作目となるはずだったオペラを着想し、1977年の「Neither」と同じくサミュエル・ベケットに台本を依頼した。しかし、ベケットから断られてしまった。[1] フェルドマンの2作目のオペラ台本執筆の依頼を断ったベケットだったが、この2人は1986-1987年にラジオドラマ「Words and Music」で再び「共演」することになる。「Words and Music」は晩年のフェルドマンにとって最も大きなプロジェクトだ。

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あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(17)-1 フェルドマンの最晩年の楽曲

文:高橋智子

 今回はフェルドマンの晩年に当たる1980年代の活動をたどる。後半はフェルドマンが再びサミュエル・ベケットと関わりを持ったラジオドラマ「Words and Music」、ベケットに捧げた「For Samuel Beckett」、彼の最期の楽曲「Piano, Violin, Viola, Cello」について解説する。

1 晩年の活動とベケット再び――「Words and Music」と「For Samuel Beckett」

 1971年秋にニューヨーク州立大学バッファロー校音楽学部教授に就任し、晴れて専業作曲家となったフェルドマンは、1977年のオペラ「Neither」、いくつかのオーケストラ曲の委嘱、自身のアンサンブルを率いてのアメリカ国内外への演奏旅行、音楽祭での招待講演など、今や国際的な作曲家としてのキャリアを順調に積み重ねていた。その活動範囲はアメリカやヨーロッパに留まらず、フェルドマンは1983年7月に第一南アフリカ放送協会(First South African Broad Corporation: SABC1)主催の現代音楽祭に招かれたフェルドマンは受講者の自作曲を用いた作曲のマスタークラスと、彼がひたすらしゃべり続ける講義を行った。[1] 1984年と1986年にはダルムシュタット夏季現代音楽講習会の講師を務めた。1984年には作曲家のヴァルター・ツィンマーマン Walter Zimmermanが企画した講演「The Future of Local Music」をフランクフルトで行なった。この講演は、ツィンマーマンの編集によるフェルドマンの著作集『Essay』[2] と、もう1つのフェルドマンの著作集『Give My Regards to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman』[3] に同じタイトルで収録されている。大学の学務、講演、演奏旅行などで多忙な日々を送っていたせいなのか、フェルドマンが1984年に作曲したのは前回解説したフルート、打楽器、ピアノ/チェレスタのための「For Philip Guston」だけだった。オランダのミッデルブルクで夏に開催される現代音楽講習会Nieuwe Muziekにて1985年から1987年までの3年間、フェルドマンはゼミナールと講義を行った。1986年にはバニータ・マーカス、ヤニス・クセナキス、ルイ・アンドリーセンが、1987年にはコンラッド・ベーマー、カイヤ・サーリアホがゲスト講師に招かれた。この時の講義のいくつかは『Words on Music Lectures and Conversations: Morton Feldman in Middelburg / Worte üebr Musik Vorträge und Gespräche』[4]1、2巻に収録されている。この講義録を編集したRaoul Mörchenは、「その果てしない大きさ、慣習をものともしない態度、迷宮のように渦巻く思考、自由奔放な展開、精密さと過剰さ、簡潔さと小さなこぼれ話、倫理観と喜劇的挿話による刺激的な組み合わせ its vast scale, its disregard of all conventions, the labyrinthine flow of thoughts, its rhapsodic development, the exciting combination of precision and excess, succinctness and anecdote, moralism and comic relief」[5]と表されるフェルドマンの講義スタイルそのものが彼の後期作品を理解する際の鍵になると述べている。ミッデルブルグではゼミ形式でのディスカッションも行われたはずだったが、Mörchenによれば、極めて雄弁なフェルドマンは時に受講者からの疑問や異論を認めず、彼自身の思考を披瀝し続けたようだ。[6]この連載でも数多く引用してきたフェルドマンの講演、エッセイ、インタヴュー等の言説を振り返ると、自身のゆるぎない信念をもとに熱弁をふるうフェルドマンの様子を想像できる。

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シャルル・ケクラン~フランス音楽黄金期の知られざる巨匠(3)

文:佐藤馨

 アントワーヌ・トードゥの和声クラスに正式に迎えられ、晴れてケクランはパリ音楽院の正規の生徒となった。ここで彼は、作曲家としての後の人生に大きく影響を及ぼす、三人の師と出会うことになる。

ジュール・マスネとの出会い

ジュール・マスネ(Jules Massenet, 1842-1912)はオペラ《タイス》《ウェルテル》《マノン》で有名。保守的とされるが、トマやデュボアが忘れられた一方で、マスネの美しいメロディは今も愛好されている。

 1892年10月、ケクランはジュール・マスネの作曲クラスに進んだ。はじめは聴講生としてクラスに出入りしていたが、トードゥの時と同様に、この2年後には正規の門下生として迎えられている。マスネは1878年からパリ音楽院で教鞭を執っており、ケクラン以前にもすでにガブリエル・ピエルネ、エルネスト・ショーソン、アルベリク・マニャールなどの才能ある作曲家たちが彼の下で学んでいた。
 ケクランは1935年3月に、この当時を振り返って≪Souvenirs de la classe Massenet≫(マスネ・クラスの思い出)と題した一連の回顧録をLe Menestrel誌に寄稿している。それによれば、マスネはアンブロワーズ・トマやテオドール・デュボワといった音楽院の同僚たちとむしろ同じ性質の作曲家であったにもかかわらず、自らとは異なる方向性をもつ弟子たちの音楽に口出しをしないで、むしろそれらを尊重して育む方針を持っていたという。例えば、若きフローラン・シュミットが自作の『サウルの幻影』をマスネに見せると、彼はこのようにコメントしたようである。

 とても興味深い!コンクールで人々に理解されるとは私は言いませんし、そうした方々が少なからず夢中になるということもないでしょうが。しかし、それはあなたにとってどうでもよいことです!そして、私にとってもそうなのです。[1]

 フローラン・シュミットは後に、ケクランと共に反骨精神に富んだ前衛として活動していくことになる。そうした彼の前衛気質に鑑みれば、マスネのこうした理解ある言葉は教師としての度量の広さをよく示しているといえるのではなかろうか。
 またマスネの教えは、何にも忖度せず、自らの音楽的アイディアを躊躇しない堅気な姿勢へとケクランを方向づけることになった。同じ回顧録の中でケクランは、作曲という行為に対する師の助言を紹介している。

 迅速に思考し、あらゆるアイディアをそれらが湧くと共に書き留めなさい。でないと、活用できたかもしれないものを時たま忘れてしまう恐れがある(たとえば、《マリー=マグドレーヌ》のデュオははじめ、私の心の中では、シンプルなリトルネッロでしかなかった)。――そうしてから、アレンジや作曲についてゆっくりと長く熟考しなさい。しかし、湧いてきた考えは決して追い払ってはならない。[2]

 ケクランにとって、マスネは第一級の教育者であった。彼の言葉は、ケクランの長い生涯にわたる膨大な作品群に結実している。その数もさることながら、一つ一つの作品に、彼の作曲上のアイディアが妥協なく満ちている。あるいは、音楽のみならず、執筆や講演などにおける精力的な活動もまた、マスネの言葉に根差したものだといえよう。ケクランが幼年時代に抱いた、最初の音楽への愛にマスネの歌曲が含まれていたことを思い起こせば、パリ音楽院での両者の邂逅には何かしら運命的なものさえ感じられる。

マスネのオラトリオ《マリー=マグドレーヌ》からデュオ

対位法の師、アンドレ・ジュダルジュ

アンドレ・ジュダルジュ(André Gedalge, 1856-1926)はジェダルジュと読まれることもあるが、一部出版譜の綴り間違いが原因の様子。ジャン=ジャック・カントルフがヴァイオリンソナタ2曲を録音し、2019年の東京公演でも披露するなど、再評価の兆しがある。

 マスネ・クラスの聴講生になったのと時を同じくして、ケクランはアンドレ・ジュダルジュから対位法とフーガの指導を受けるようになっていた。1884年に28歳という、ケクランと同じく比較的高い年齢になってからパリ音楽院に入学したジュダルジュは、エルネスト・ギローの下で作曲を学び(同級生にはデュカスとドビュッシーがいた)、1886年にはローマ賞第二等を得ている。ギローの下ではアシスタントも務めていたが、彼が1892年に亡くなると、今度はマスネがジュダルジュを引き取った。マスネもまたギローの教え子の一人であって、ジュダルジュはここでもアシスタントとして働くことになった。そうしてついに、1905年にはフーガと対位法のクラスの教授に就任し、彼は生涯この職を全うした。
 ジュダルジュの教え子にはケクランをはじめ、ラヴェル、フローラン・シュミット、ナディア・ブーランジェ、オネゲル、ミヨー、イベール、ジャン・ヴィエネなど、20世紀のフランス音楽の重要人物が多数含まれている。1926年にジュダルジュが亡くなると、La Revue Musicale誌上では追悼企画が行われ、弟子たちが彼へのオマージュを捧げた。その中で、ラヴェルはこう述べている。

 私にとってジュダルジュという人がどのようなものであったか、あなた方は恐らくご存知ないでしょう。私の一級の作品群に皆さんが見抜いておられる、構築の可能性と努力の数々、これらの実現に着手できるよう後になって私に教えてくれたのが彼なのです。彼の指導には特別な明晰さがありました。そのおかげで、作曲という仕事が学問的な抽象化とは別物だということを即座に理解しました。
 ピアノ三重奏曲を彼に捧げさせたものは、単に親愛の情だけではありません。それは師への直接的な尊敬の念なのです。[3]

 ケクランもまた同誌上で追悼の記事を寄せているが[4]、ジュダルジュがJ.S.バッハから続く対位法の伝統を正しく継承していたこと、そして管弦楽法の的確さや作曲における明晰と均衡への嗜好によって、若い世代の音楽家たちに少なからぬ影響を与えたことがそこでは指摘されている。「論理と明晰が絶対的に必要であると彼には感じられた。同時にそれは、モーツァルトとビゼーの後継であった。彼はぼかし、不明瞭、不器用なアマチュア主義を嫌った」[5]という記述からは、ジュダルジュの音楽が明晰さや均衡といった古典的な良さに根差すものであったことが読み取れる。加えて、世紀末から20世紀初頭にかけて猛威を振るったワーグナーやドビュッシーの流行とはジュダルジュが一線を画していたことも、ここでは含意されていよう[6]。また、簡潔さや明晰さを愛するという点で、後に現れた六人組との親近性さえもケクランはこの記事の中で示唆している。
 ケクランはこの類まれな教師の下で、その後の彼の作品の根幹ともなる、対位法の基礎を仕込まれたのである。

 彼は私[ケクラン]たちにJ.S.バッハへの愛着を抱かせ、偉大なるモーツァルトへの崇敬へと私たちを向かわせました(若い人々はいつもこのことが分かっていません。私もそうした人々の一人だったということです)。もっと後にこの時の歴史を綴る人が、シャルル・ケクランからダリウス・ミヨーまでの、音楽の若手世代の形成における影響という点で――作曲家としての無視できない役割に加えて――もしジュダルジュに触れないのであれば、それはひどい不正でしょう。[7]