あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(14) 不揃いなシンメトリー -2

2. 絨毯からの影響 1970年代後半から1980年にかけての楽曲の変化

 絨毯の結び目の種類、織り方、染色、パターンによる構成についての知識が深まるにつれて、フェルドマンは絨毯の技術や製法に引きつけて自分の創作を思索し始める。先のセクションに引き続き、「不揃いなシンメトリー Crippled Symmetry」の概念の解釈の可能性を探りながら、絨毯が彼の楽曲に与えた影響を考える。

 オペラ「Neither」のローマでの初演を終えた1977年夏にイランのシラーズを訪れて以来、フェルドマンが絨毯に熱中し始めたのは既述した通りだ。「Neither」以降のフェルドマンのどの楽曲に絨毯の影響が現れてきたのだろうか。フェルドマンは1983年に行われたインタヴューで次のように語っている。

古い中東の絨毯では染料が少量しか作られないので、これらの染料の色の変化によって絨毯全体に不完全さが広がってしまう。ほとんどの人はこれらの色の変化を不完全だと感じている。それにもかかわらず、絨毯をすばらしいものにしているのは、これらの少量の染料の群がりの上にできる光の反映だ。私はこれを、調子を合わせることと調子を外すこととして解釈している。絨毯のこのやり方には名前がある――アブラッシュと呼ばれている――色の変化は「Instruments III」[1](1977)のような曲へと導く。この曲は私の絨毯のアイディアの始まりだった。

In older oriental rugs the dyes are made in small amounts and so what happens is that there is an imperfection throughout the rug of changing colors of these dyes. Most people feel that they are imperfections. Actually it is the refraction of the light on these small dye batches that makes the rugs wonderful. I interpreted this as going in and out of tune. There is a name for that in rugs – it’s called abrash – a change of colors that leads us into pieces like Instruments 3 [1977] which was the beginning of my rug idea.[2]

 ここでフェルドマンは「Instrumental 3」が絨毯に着想を得た最初の曲だと明言している。この曲で彼は、少量の染料が醸し出すグラデーション効果、アブラッシュの技術を音楽で初めて試みる。

Feldman/ Instrumental 3
https://www.universaledition.com/morton-feldman-220/works/instruments-3-2898
Universal Editionのサイトで2分間試聴できる。

 編成はフルート(アルト・フルートとピッコロ兼)、オーボエ(コール・アングレ兼)、打楽器(グロッケンシュピール、トライアングル、サスペンド・シンバル3)で、3人の奏者で演奏される。演奏時間は約15分。UEのサイトで聴くことのできる2分間では、サスペンド・シンバルのトレモロ風の連打とその残響が滲み出るグラデーションのイメージを掻き立てる。アルト・フルートとイングリッシュ・ホルンの音の引きのばし、重なり、行き交わしはサスペンド・シンバルによるグラデーションの上で展開される柄やパターンに喩えられる。木管楽器の後を追うように鳴らされる煌びやかなグロッケンシュピールの音色は光の反映だろうか。やや強引ではあるが、絨毯におけるアブラッシュの効果をふまえると、この曲を以上のように描写できる。

 オペラ「Neither」の作曲を経て、「Instruments 3」と同じく1977年に作曲されたピアノ独奏曲、その名も「Piano」にも絨毯からの影響がうかがわれる。この曲の演奏時間は約25分。フェルドマンがピアノ独奏曲を作曲するのは1964年の「Piano Piece (1964)」以来13年ぶりだ。

Feldman/ Piano

 「Piano」でのフェルドマンの主な関心事として、パターンとその配置、ヴァリエーションと反復、不揃いなシンメトリー crippled symmetryの概念があげられる。Paula Kopstic Amesは絨毯がこの曲に与えた影響について次のように述べている。「絨毯の配色がフェルドマンの反復とヴァリエーションに類似性を見出している。後者は声部の再構成、半音階的な変更、音域の再配置を含む。絨毯のパターンの不規則な配置が音楽の不規則な足取りへと変換されている。The rugs’ coloration finds its analogue in Feldman’s repetitions and variations. The latter include revoicings, chromatic alterations and reregistrations. The irregular placement of the rugs’ patterns translates into irregular musical pacing.」[3] 1つの和音やモティーフを繰り返すたびに構成音の音域や音高を微かに変化させる手法は、これまでのフェルドマンの楽曲にもとても頻繁に見られた。絨毯との出会いによってこれらに新たに加わった特徴があるならば、それはフェルドマン独自のシンメトリーの概念だろう。フェルドマンが提唱する「不揃いなシンメトリー」は、シンメトリーの枠組み内での不規則、不完全、不均衡といった、シンメトリーの概念と矛盾する要素をむしろ肯定的に内包しているのだった。

フェルドマンにとって、シンメトリーは2つの意味を持っていた。ひとつは、完璧に均整のとれた対象(または構造やパターン)。もうひとつの見方は、他の対象との位置関係。規則的な間隔に見えたならば、それは対称的だ。このようなシンメトリーは周期性を示し、音楽の場合は予測可能なリズムのパルスを意味する。この文脈は強力な参照基準を聴き手にもたらす。フェルドマンがシンメトリーを「不揃いにした」時、彼は対象(パターン)とその配置両方に関してそれを行ったのだ。「不規則な時間の間隔は……パターン作りの際の緊密な結びつきの側面を弱めてしまう」ので、予測不可能性の要素をもたらす。しかしながら、シンメトリーを変えるには限度がある。特定の範囲を超えると、参照点が消滅してしまう。

To Feldman, symmetry had two meanings: the standard view of a perfectly balanced object (or structure or pattern), and an additional view of its placement in relation to other objects. If it appears at regular intervals, it is symmetric. Such symmetry implies periodicity, and in music, a predictable rhythmic pulse. This context provides a strong standard of reference for the listener. When Feldman “crippled” the symmetry he did so with regards to both the object (pattern) and its placement. Placement at “irregular time intervals… diminish(es) the close-knit aspect of patterning,” and provides the element of unpredictability. However, symmetry can be altered only so much; beyond a certain limit, the standard of reference dissipates.[4]

 前のセクションで、音楽におけるシンメトリーの概念は聴取よりも記譜や楽譜の中で捉える視覚的な性格が強いのではないかと考察した。だが、フェルドマンの発言(引用文中「 」および“  ”はAmesによるインタヴューでのフェルドマンの発言)をふまえたAmesの解釈を読むと、彼のシンメトリーの概念は必ずしも記譜や楽譜の外見に限ったことではない。フェルドマンのシンメトリーの概念は、その音楽に対する記憶や期待(文中では「参照点」と呼ばれている)と結びつけられた規則性と不規則性、予測可能性と予測不可能性の要素に関わっているのだとわかる。これらの要素は、聴き手がその音楽を聴いている時に経験する時間と空間の性質にも関わっているといえるだろう。絨毯におけるシンメトリーは外見、つまり視覚に関わる、どちらかというと即物的、物理的な事柄だ。一方、音楽におけるシンメトリーは聴き手の記憶に依拠しているので把握し難い。フェルドマンが絨毯の技術から学んだのは、シンメトリーの枠組みを維持しながら最大限に逸脱する際のさじ加減だったのかもしれない。

 「Piano」のテンポは♩=約63。全29ページで構成される出版譜には小節番号や練習番号が付されていないが、フェルドマンのスケッチと1982年に行ったフェルドマンへのインタヴューに基づいたAmesによる分析では、スケッチの段階でフェルドマンが全体を55に区切っていたことが明らかにされている。[5] Amesはこれらの区切りを「システム system」と呼ぶ(本稿では曲中での個々のシステムの範囲については省略する)。Amesはこれら55のシステムをグループとしてまとめ、「Piano」にA-B-C-コーダの構成を見出している[6]

A:スコア1ページ、1小節目(システム1)から16ページ、8小節目(システム28)まで
B:16ページ、9小節目(システム29)から20ページ、12小節目(システム36)まで
C:20ページ、13小節目(システム37)から27ページ最後(システム50)まで
coda:28ページ、1小節目(システム51)から29ページ最後(システム55)まで[7]

 各セクションの長さは、セクションAが最長、Bが最短、CはAとBの中間くらいの長さ、コーダはその性質上Bよりもさらに短い。セクション間の長さを比べると、もしもAとCの長さがほぼ同じだったら、AとCがBを囲むシンメトリー構造になっているといえるが、ここではそうはなっておらず、A-B-Cとコーダの長さの比は不均衡だ。

 曲中の音の動きは以下の8種類に分類できる。下の一覧はこれらの動きの特性と、これらが登場する主な箇所をセクションAを例に記している。

①不規則に動く和音:1ページ目1小節目から2ページ目5小節目など
②左手のB5-C6と右手のD♭6とによって形成されるオシレーションのような動き:2ページ目、5-9小節
③同一和音の連打:5ページ目、6-9小節
④構成音の配置をその都度変えて打鍵される同一和音:3ページ目、9小節目から4ページ目、1小節目まで(右手:F#-G-A♭、左手:D#-E-F)
⑤両手で交互に打鍵される単音:9、10、14、16ページ目
⑥和音の半音階的な下行:4ページ目、5-11小節
⑦コラール風の和音の揺れ動き:5ページ目、10小節目から6ページ目、9小節目まで
⑧同じペースで打鍵される和音:6ページ目、13小節目から7ページ目、5小節目まで

 セクションAでは、上記で言及されなかった範囲の音の動きの大部分が①不規則に動く和音に分類されるといってもよい。①は時に幅広い跳躍を伴い、前後のつながりを考慮せずランダムに和音や単音が配置された1950年代のピアノ曲を思い出させる。この中で比較的、耳でシンメトリーの感覚を捉えやすいのは②のオシレーションのような動き、③の同一和音の連打、④の異なる配置で打鍵される同一和音の響きだと思われる。なぜなら、これら3つは、同じ、またはよく似たものを繰り返すうちに聴き手に記憶の参照点を与えているからだ。最初はなんだかわからなかったパターンや響きに対して、聴き手は反復の過程でそれらに慣れてきて、いつのまにか自分自身の記憶の中になんらかの参照点を作り出す。シンメトリーを形成する明確な中心点の把握にいたらなくとも、聴き覚えのあるパターンや響きの中に規則性の感覚を抱くことも可能だろう。このような一連の聴取の過程を、耳で捉えるシンメトリーということができる。既に述べたように、フェルドマンにとってのシンメトリーの概念は規則性と不規則性、予測可能性と予測不可能性に関わっている。文字で読むだけではこれらの感覚を実感しにくい。「Piano」が生み出す響きと、それを聴く行為を通して、これらの感覚が実体験として現実味を帯びてくる。スコアを見てみると、②③④のいずれも同じものをそっくりそのまま繰り返しているわけではないことがわかる。むしろスコア3ページ目に起きる④は、その都度、和音が転回し、さらには音価も異なるので、この範囲の和音が実は全て同じ構成音の和音であることに気付きにくい。これまでのフェルドマンの楽曲にもしばしば見られたが、記譜、つまり視覚から得る印象と、実際に音を聴いた際に得る印象の乖離がこの曲でも起きている。

 スコア7ページの6小節目からは大譜表が2つ重ねられている。さらには11-14ページの半分までの範囲では大譜表が3つ重ねられている。これらの大譜表の重なりをAmesは「層 layers」とみなして分析している。大譜表の重なりについてAmesがフェルドマンに質問したところ、彼はこれを「機能的なコラージュ functional collage」とみなしたが、後日、次のように解説してくれたという。[8]

実際のところそれはコラージュではない。私のコラージュの定義は2つの明らかに異なる(種類の)素材を持っている場合をいう。私はこれらをさらに深い(テクスチュア)を生み出す垂直な構造だと思っている。コラージュというよりも、「重ね合わせ」が適切に見える……ある意味、私はそれを層よりも対位法や和声の構造に結びつけて考えている……フーガとそっくりな。

It’s not really a collage. My definition of a collage is when you have two obviously different (kind of) material. I feel that these are vertical structures creating a more dense (texture). Rather than collage, I think the word ‘superimposition’ is more apt… in a sense I see it more related to counterpoint and harmonic textures rather than layering… very much like a fugue.[9]

 フェルドマンはひとりのピアニストのために複数の大譜表を重ね合わせて、より深いテクスチュアを作ろうとした。もちろん「Piano」には対位法や、和音間の声部連結法の意味での和声構造は見られない。フーガの要素も希薄だ。ここでフェルドマンが言おうとしているのは、これらの技法そのものではなく、複数の要素を同時に重ねることでできる複雑な構造のことだろう。その喩えとして「フーガ」という言葉が出てきた。絨毯のことを思い出すと、細かいパターンによってできた複数のブロックが寄り集まって1つの面を構成している様子も、ブロック間の重なりや絡まり合いの点でフーガにたとえることができる。スコア13ページの4小節目から14ページ前半までの重なりの様子を見てみると、上から1段目は①の不規則な動き。2段目は④で、13ページでの和音は3ページの9小節目から4ページ、1小節目までの和音と同じで(右手:F#-G-A♭、左手:D#-E-F)、14ページからはこれらの和音の構成音が若干変わる。3段目は⑤の単音の動きを次のページまで続ける。3段とも拍子は同じだが、全く違う3つの流れが同時進行しているといってもよい。極端に速いパッセージではないものの、音域、音の長さ、動きが三者三様のこの箇所をひとりのピアニストが同時に弾くには相応の技術が必要だろう。

 スコア16ページ目の後半から始まるセクションBは、④構成音の配置をその都度変える和音を中心としている。このセクションの冒頭から3小節間は、左手の1つ目の和音に含まれるF#3を例外として、G-G#/A♭-A-B-C-C#-Dの7音でできている。これらの音が様々な組み合わせで配置されている。ここでは交互に記された強弱記号fffとpppもパターンを作る。fffとpppとの交換によるパターンは17ページ後半から18ページ3小節目までの2段目の大譜表、19ページ3段目の大譜表の最終小節から20ページ4小節目までの範囲にも見られる。これらのfffとpppとの交換は強弱の対照的な効果だけでなく、fffでの強力なアタックの残響と余韻をpppが受け止めて、fffから波紋のように広がる音響のイメージを喚起させる。その様子は、絨毯の色のグラデーション効果をもたらすアブラッシュの技術を思い出させる。

 上述の通り、セクションBは7つの構成音の様々な組み合わせから始まる。その後、徐々に構成音が変化し、別の和音やパターンが始まる。耳では把握しにくいが、17ページ2-3小節目の右手和音の最低音E4-B♭4、5-6小節目と7小節目の最高音E5-B♭5は減5度、つまり3全音が3回繰り返されている。フェルドマンがここで3全音の跳躍を繰り返した意図や理由は不明だが、スコアからはっきりと読み取ることができるので指摘しておく。

 セクションBでは拍子記号、小節の配列、休符もシンメトリーの形成に寄与している。1つの大譜表に戻った20ページ、6-12小節間の拍子は3/4 | 5/8 | 3/4 | 5/8 | 3/4 | 5/8 | 3/4 |の順に並んでいる。全休符の9小節目を中心軸に、6小節目と12小節目、7小節目と11小節目、8小節目と11小節目が鏡像形、つまりシンメトリーを形成している。ここで重要なのは対応関係にあるそれぞれの小節が完全に同一ではないことだ。例えば6小節目はG♭1、12小節目はG4-A♭4なので、Gの周辺の音で共通しているが、完全に同じではない。8小節目と11小節目の関係も同じで、この2小節の和音を比べてみると、構成音をいくつか共有しているが完全に同じではない。このようなわずかな差異や逸脱を含んだシンメトリーを「不揃いなシンメトリー」と呼ぶことができるだろう。

 セクションBを締め括る不揃いなシンメトリーの直後、スコア20ページ、13小節目からセクションCが始まる。セクションBも拍子が頻繁に変化したが、セクションCでは拍子がさらにめまぐるしく変化する。例えば、このセクションの始まりから21ページ目までの23小節間では1小節ごとに拍子が変わり、同じ拍子が2小節以上続くことはない。拍子のめまぐるしい変化の一方、この部分にはパターン化された動きが見られる。このパターンの始まり(20ページ、13小節目、5/16拍子)は左手のB1、右手のC4-D6。この3音を中心として、16分音符でのE♭-A4(減5度、3全音)が右手のC4-D6に対する前打音のように打鍵される。この装飾音のようなパターンは3回鳴らされる。左手は20ページ、15小節目ではA#1-B2、続く16小節目では先の2音がB1-A#2へと入れ替わる。同じ入れ替わりは21ページの2小節目と4小節目でも行われている。次いで21ページ目、5小節目から14小節目まで、右手が4度か5度の2音を、左手が9度(E2-G♭3を異名同音のE2-F#3に読み替えている)の2音を不規則な間隔で鳴らす。スコアを見ると、拍子、和音、音価が全て1小節ごとに異なるので非常に不安定で忙しなく感じるが、この範囲の鳴り響きは比較的安定したペースで進んでいるように聴こえる。

 22ページ、8小節目からのアルペジオは、これまでとは異なる素早い身振りの感覚をこの曲にもたらす。今までと性格の異なる要素を突然挿入する書法はフェルドマンが得意とするところだろう。アルペジオを伴う一連のパッセージが23ページの2小節目で終わると、曲は和音の引きのばしを中心とするテクスチュアに戻る。

 24ページの後半から再び大譜表が層状に重なる。ここで重ねられているそれぞれの大譜表は曲中で既に現れた素材からできている。

p. 24 後半

1段目p. 20, mm. 13-16, p. 21, mm. 1-2
2段目p. 21, mm. 4-8

p. 25 前半

1段目p. 21, mm. 3-4, p. 20, mm. 13-15
2段目p. 21, mm. 13-15の途中まで(全休符の2小節間を除く)
3段目p. 21, mm. 9-10, p. 21mm. 4-5
*1段目3小節目(7/16拍子、全休符)は20ページ、15小節目(7/16拍子)から派生。

p. 25 後半

1段目p. 20, mm. 15-16, p. 21, mm.1-4
2段目p. 22, mm. 15-17, p. 23, mm. 1-3
3段目p. 21, mm. 6-9
*1段目6小節目(3/16拍子、全休符)は21ページ、4小節目(3/8拍子)の変化形。
*2段目6小節目(7/16拍子、全休符)は23ページ、3小節目(7/8拍子)の変化形。
*3段目3小節目G#3-A3-E5-B5と、21ページ、8小節目G#3-A4- B5-E6は、配置は異なるが構成音が同じ和音。

p. 26 前半

1段目p. 23, mm. 3-5
2段目p. 23, mm. 10-13
3段目p. 23, mm. 17-20の途中まで
*1段目3小節目(8/7拍子、全休符)は23ページ、5小節目(11/8拍子、全休符)の変化形。

p. 26 後半

1段目p. 23, mm. 6-10
2段目p. 23, mm. 14-18
3段目p. 23, m. 20(p. 26, m. 4からの続き), p. 24, mm. 1-3
*3段目2小節目A♭3-G3-D5-E♭5は、24ページ、1小節目のA♭3-G3-D5-E♭6の最高音を1オクターヴ低くした和音
*3段目4小節目A♭3-F#4-D5-E5- E♭6は24ページ3小節目のA♭3-F#4-G4- D5-E5- E♭6の変化形とも解釈できるが、ここで23ページの方の和音からG4を省く理由を考えにくい。このG4の欠如はフェルドマンか出版社による書き間違いの可能性もある。

p. 27 前半

1段目p. 23, mm. 17-20の途中まで(p. 26前半3段目と同じ)
2段目p. 23, mm. 10-13(p. 26前半2段目と同じ)
3段目p. 19, mm. 6-9
*3段目と19ページ目6-9小節間の和音は同じだが、拍子が異なる

p. 27 後半

1段目p. 23, m. 20(p. 27前半4小節目からの続き), p. 24, mm. 1-3(p. 26後半3段目と同じ)
2段目p. 23, mm. 14-18(p. 26後半2段目と同じ)
3段目p. 16, m. 10, p. 16, m. 12, p. 16, m. 9
*3段目1小節目の和音は16ページ、10小節目1つ目の和音に、2小節目の和音は16ページ10小節目2つ目の和音に対応している。
*3段目3小節目は16ページ、12小節目1つ目の左手和音を1オクターヴ低くした和音。右手は16ページの同じ右手和音のオクターヴと構成音の配置を入れ替えた和音。
*3段目4小節目の右手和音A4-B♭4-A♭5は16ページ、9小節目の右手和音A4-B♭4-G#5と異名同音の関係にある。

 スコア24ページからの大譜表の重なりの様子から、スコアの1ページ内の譜表を解体し、それらを2つか3つの大譜表に割り当てている傾向がわかる。これは譜表および小節の水平な流れを垂直な重なりに再構成する作業ともいえ、同じページ内の素材を再構成することで、本来ならば同時に鳴ることのなかった音同士が一斉に鳴らされる。この再構成が巧妙なのは、ここに用いられている素材が24ページ目以降とそれほど離れていないことだ。ほとんどの素材が「すぐそこにある過去」の再出現なので、それらをはっきり覚えているわけでなくとも、完全に忘れ去ったわけでもない。27ページになると、その直前の26ページと同じことを繰り返し、自己反復によって過去がもっと近くなる。24ページ後半から27ページまでの大譜表の重なりは、既存の素材を並べ替えただけの単純な作業に過ぎないかもしれないが、何かをほんの少しずらしたり、繰り返したりするだけで、そこから思いがけず大きな差異が生まれる可能性を示唆している。

 スコア28ページから始まるコーダの和音のいくつかはセクションBの和音に由来する。[10]セクションCの最終ページである27ページ目後半の3段目の大譜表がセクションBの和音を先取りしていたため、セクションCとコーダの連結はスコアの上ではスムーズに見える。コーダの和音は最高音がG5またはA♭5。この2音の揺れ動きが繰り返される構成だ。この2音以下の音の組み合わせはその都度変化する。

 セクションBの和音がコーダでどのように用いられているのかを概観すると、例えば、ここで頻出する和音の1つである28ページ、1小節目の和音B2-C3-C#3-D3-G#4-A4-B♭-G5は異名同音や転回を用いながら様々なかたちで現れる。2小節目の和音B2-C3-D3-C#4-G4-A4-B♭-A♭5もこの和音と構成音を共有している。この和音のルーツはセクションBが始まって間もない、16ページ、10小節目の2つの和音C#4-D4-B4-C5-G#5-A5-B♭5-G6とB2-C3-D3-C#4-G4-A4-B♭4-A♭5にたどることができる。もう1つの例をあげると、28ページ7小節目の和音A#2-B2-C3-D3-F4-D♭5-F#5-G5の和音は、16ページ12小節目の1つ目の和音、A#3-B3-D4-C5-F5-G5-F5-G5-D♭5-F#6と構成音を共有している。この2つの和音も構成音の配置が違うので同定しにくい。G5またはA♭5を最高音とする同じような2種類の和音が内部の構成音を少しずつ変えながら打鍵される様子は、微妙な差異を持つ糸の色合いから創出される絨毯のアブラッシュ技法を思い出させる。ここで言及したのはたった2つの例だが、コーダ全体がセクションBという現在地からやや遠い過去の素材と記憶を再構成している部分だとわかる。すぐそこにある過去を呼び戻したセクションC後半の大譜表の重なりと比べると、離れて位置するコーダとセクションBとを関連づける記憶の参照点の効力は若干、弱めかもしれない。

 フェルドマンが絨毯の作業手順や考え方から着想した概念「不揃いなシンメトリー」を「Piano」の様々な側面から探った。この概念は、既に出てきた素材を複数の大譜表で重ねる手法とその視覚的な効果(ピアノを弾く人にとってはかなりインパクトのある譜面である)、小節の配列、和声の構成音の操作などに作用している。絨毯から得た着想を音楽に採り入れた最初期の楽曲「Piano」のなかで、フェルドマンは基準、中心点、参照点といったものからどの程度まで逸脱できるのかどうかを試行錯誤したのだろう。1980年頃から始まる、パターンとその反復を中心とした楽曲においても絨毯からの影響と「不揃いなシンメトリー」の概念が色濃く反映されている。

 次回は、引き続き「不揃いなシンメトリー」の概念を考察しながら1980年代前半の楽曲について取り上げる予定である。


[1] 「Instruments 3」はThe Barton Workshopによる演奏で1997年に録音されている。CD番号はETCEITERA KTC3003。
[2] Morton Feldman Says: Selected Interviews and Lectures 1964-1987, Edited by Chris Villars, London: Hyphen Press, 2006, p. 155
[3] Paula Kopstick Ames, “Piano,” The Music of Morton Feldman, Edited by Thomas DeLio, New York: Excelsior Publishing Company, 1996, p. 100
[4] Ibid., p. 100
[5] Ibid., p. 102
[6] Ibid., p. 102
[7] Ibid., p. 102
[8] Ibid., p. 104
[9] Ibid., p. 104
[10] Ibid., p. 104

高橋智子
1978年仙台市生まれ。Joy DivisionとNew Orderが好きな音楽学者。
(次回掲載は6月24日の予定です)

あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(14) 不揃いなシンメトリー -1

文:高橋智子

 1976年のベケット三部作、1977年の唯一のオペラ「Neither」を経たフェルドマンの音楽はその後どのように変化したのだろうか。今回は「Neither」以降の彼の音楽を知るうえで欠かせない事柄の1つ、中東地域の絨毯からの影響と、フェルドマンの後期作品を物語る概念「不揃いなシンメトリー」を考察する。

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シャルル・ケクラン~フランス音楽黄金期の知られざる巨匠(1)

文:佐藤馨

 1950年12月31日、地中海を望む南仏のカナデルにて、一人の音楽家がその生涯に幕を下ろした。同地に建てられたこの人物の墓には、「私の作品の精神と私の生涯を全うする精神は、何よりも自由の精神である」[1]という言葉の後に、「シャルル・ケクラン――作曲家」と墓碑銘が刻まれている。この「作曲家」という肩書は、彼自身が生前にそう呼ばれることを望んだものだった。しかし、83年にわたる長い生涯の中で、その望みが十分に果たされたとは言い難い。

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吉池拓男の名盤・珍盤百選(34) 絶滅危惧の罵詈雑言芸

クラシック名曲「酷評」事典(上・下) ニコラス・スロニムスキー編 YAMAHA(書籍) 
d‘Indy Orchestral Works 2  Symphony No.2 etc.  Rumon Gamba/Iceland so.  CHANDOS CHAN10514

 ミューズプレスの細谷代表から本が送られてきました。『クラシック名曲「酷評」事典』。この本について好きに書いてほしいとのこと。どうやら私の事を黒豹組(良い変換だ)の一員だと思っているらしいのです。無礼千万雨霰、私には「人と違う何かをやろうとしたアーティストへの愛」があります。ただその愛情表現がちょっとゆがんで下手なだけです。この本の酷評群にはそのような「愛」がほとんど感じられません。何のためにこれほどの「酷評」を書いたのか不思議なほどです。(お前には言われたくはないというツッコミは謝絶)

 もっとも酷いのは、編者のスロニムスキーも前書きで特筆していますが、1903年にニューヨーク・サン紙に載ったドビュッシーの作品に関しての評で(要約すると)

「この前ドビュッシー本人に会ったけど、東洋のお化けのようなチョーキモイ顔した奴で、着てるもんもチョーダサ。こんな顔した奴の曲だもんでチョーヒデェ。」

というものでしょう。書いたのはJames Gibbons Haneker (1857-1921) という人物でWikipediaにも長々と経歴があるように、あらゆる芸術ジャンルの評論家として大変に高名だった人です。おそらく当時のアメリカで有数の文化人でした。大正13年に日本で刊行された「ショパンの藝術:全作品解説」の著者ジェームス・ハネカーもこの人ではないかと思われます。これほどの人物が公表したドビュッシー評が先ほどのもの。元の文章には顔のディテールの悪口がもっと細かく書かれています。今の時代なら、大炎上一発レッド。ネット上の匿名の書き込みでもこんなレベルのものは少ないでしょう。時代的にロンブローゾの影響でもあったのでしょうか。ま、ファッションのダサい奴の作品はアカンというのは、なんとなく首肯できますが……。マーラーに関する1909年の批評も酷いもんです。(要約すると)「こんなユダヤ人訛りのドイツ語を話しているような音楽は意味なしで空っぽ」です。書いたのはRudolf Louis(1870-1914)という指揮者兼評論家。まぁ、今の時代ならモサドに抹殺されそうですよね。

 本に収録されている多くの「酷評」は罵詈雑言ではありますがさすがにこれらほど酷いのはあまりありません。真面目に音楽解析的に書いているものも(少ないですが)あります。しかし、正直、大多数の酷評は、その音楽がどういうものだったのかもよくわからないようなひたすらの酷評。酷評そのものを一つの文学ジャンルとして切磋琢磨しているとしか思えないクリエイティブな罵詈雑言のオンパレード。まさに “酷評芸”とでもいうべき世界です。そこに「他人の不幸は蜜の味」という人類共通のニーズがマッチし、酷評芸合戦というべき醜態が繰り広げられています。もう、サイコパス映画のように悪意のエンターテインメントとして楽しむしかありません。ま、残念ながら勧善懲悪はありませんが。

Vincent d’Indy: Orchestral Works, Volume 2

 この本の罵詈雑言がどの程度正鵠を射ているか、試せる曲が1つあります。上巻のp.148~9にダンディの交響曲第2番の酷評がずらっと並んでいます。ダンディの交響曲第2番と聞いて音楽がすぐ思い浮かぶ人はおそらく日本では特殊な数人しかいないでしょうから、かなりコアなクラシックファンでもCDもしくは配信で聴けば、当時の評論家の気持ちで「初演」を体験することができます。どうですか? そこに書いてある酷評の数々、納得できましたか? 確かに当時よりは不協和音だらけの世界に慣れた私たちの耳ですが、虚心坦懐、ダンディの交響曲第2番をどうお感じになったか、お聞きしたいものです。

 さて、この本を読み進めていくと、少し残念な情報の欠落に気付きます。それは酷評が書かれた経済的な背景です。評論家(もしくは文化部系記者)といえどもお仕事です。お仕事で罵詈雑言を書く場合はかなりの覚悟が要ります。狭い業界で罵詈雑言をまくしたてていては、次のお仕事が来なくなって、あっという間に失業してしまいます。雑誌や新聞は広告や情報が頂けなくなるでしょう。演奏会にご招待ではなく自費で行き続けるのも結構な負担になります。罵詈雑言を公言するからには、必ず経済的保証があるはずなのです。例えば世を二分するような芸術運動のどちらかの流派に寄稿先が属していて、どんなに他派の罵詈雑言を書いても自分の属する流派からはお仕事が約束されている(ハンスリックはこれかな?)とか、音楽家本人のいる地域社会から物凄く遠いので何言ってもたぶん報復は来ない(アメリカの新聞社はこれか?)とか、音楽とは無縁の本業があって原稿依頼が来なくなってもなんとでもなるとか、某新聞や某週刊誌のように記事の正しさなんてどうでもよくって滅茶滅茶なことをウケ狙いで書いて売るのが営業方針とか。いずれにしろそのあたりの情報が全くないのがなんとも残念です。人間の行動には多くの場合経済的事情があります。その経済的事情にまで踏み込んだ考察が欲しかったですね。例えばリヒャルト・シュトラウスの「ドン・ファン」をボロクソに酷評した評論家が11年後に一転して絶賛している例が取り上げられています。これは評論家の耳が新しい音楽に慣れたからだと編者は語っていますが、本当にそんな単純な理由でしょうか? 前言撤回もほどがある場合、なんかウラがありそうに思えます。ま、評論家なんてもともと節操がないもんよ、と切り捨てることもありでしょうがね。この本はあくまでも「事典」なので列記表記に留まらせていると思います。が、どなたかさらに一歩踏み込んで、音楽評論業界の歴史的な業を抉り出していただけないでしょうか。

 今の時代、ここまでの酷評はなくなりました。下手に酷評なんぞしたら訴訟に巻き込まれる世になったのかもしれません。ましてや人の生まれ持った容姿や人種などをネタにして嘲るなどもってのほか。ネットの炎上は一歩間違うと社会的生命(時には本当の生命)を失うことになりかねません。なによりも業界がますます狭くなって、評論家やライターの経済的背景が濃密になり、音楽雑誌への寄稿やCDや演奏会の解説書きのお仕事をいただくためには、滅多なことでは酷評なんてできないというシガラミ地獄が一層顕著になっているのかもしれません。少し前の話ですが、某評論家氏は時折匿名で音楽業界や演奏への強烈な批判記事を非音楽系雑誌に書いていました。彼にはそういう道しかなかったのだと思います。ま、その記事は非常に面白かったですがね。

 絶賛も酷評も心の汚れた私はみなウラがあると思っていますので一概に信じることはできません。しかし、絶賛や酷評そのものを一つのエンターテインメントとして受け止めれば、それはそれで成立する……あ、だからこの本で取り上げられるような「酷評芸」が華開いたのかな。しかし、本書で取り上げているような酷評はもう絶滅危惧種です。最も使われている非難語は「不協和音」と思われますが、すでに「不協和音」の使用は何の非難の対象でもなくなっています。「旋律がない」も多用されていますが、これだって今どきは珍しくもない。「不道徳」だって様々な芸術ジャンルで人類交尾くらい描かれるのは当たり前。本書で「なじみなきものへの拒否反応」(編者の前書きより引用)として罵詈雑言の原動力となった要素が現代では批判の対象になりません。ポリコレとかコンプライアンスとかSDGsとかの御旗が高らかに振られている現代において、新たなるクリエイティブな罵詈雑言=ちょっと口の悪い建設的進言の道はどこにあるのか、人としてあまり美しくはないですが、探し求めるのも現代文化ライターの課題なのかもしれません。

【紹介者略歴】
吉池拓男
元クラシックピアノ系ヲタク。聴きたいものがあまり発売されなくなった事と酒におぼれてCD代がなくなった事で、十数年前に積極的マニアを終了。現在、終活+呑み代稼ぎで昔買い込んだCDをどんどん放出中。

あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(13) ベケット三部作とオペラ「Neither」-2

文:高橋智子

2. オペラ「Neither」

 1976年7月に「ベケット三部作」による一通りの試作を終えたフェルドマンは1976年9月18日に行われた「Orchestra」初演のためグラスゴーに滞在していた。[1]グラスゴーでの初演の後フェルドマンはベルリンに赴き、9月20日の昼頃シラー劇場で「あしあと Footfalls」と「あのとき That Time」のリハーサルをしていたベケットと初めて会う。[2]劇場の中は照明が暗転して真っ暗だった。暗闇の中でベケットはフェルドマンの親指に握手した。[3]これが彼らの初対面の瞬間だ。フェルドマンはベケットを劇場近くのレストランにランチに誘い、ここで彼は自身のオペラについて話した。[4]「自分の考えだけでなく彼(訳注:ベケット)の考えにひれ伏したかった I wanted slavishly to adhere to his feelings as well as mine.」[5]と語り、ベケットを信奉していたフェルドマンはベルリンで交わした会話を次のように回想している。

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あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(13) ベケット三部作とオペラ「Neither」-1

文:高橋智子

 前回は1975年の楽曲「Piano and Orchestra」を中心に、フェルドマンのオーケストレーションと協奏曲について考察した。今回は彼の1970年代の楽曲のハイライトともいえるオペラ「Neither」と、このオペラのための習作として位置付けられているベケット三部作をとりあげる。

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あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(12) フェルドマンとオーケストラ-2

文:高橋智子

2 反協奏曲 Piano and Orchestra

 その曲を構成する音または音符に楽器の選択、音域、ダイナミクス、タイミングといったあらゆる要素の必然性を求めたフェルドマンの態度は、1970年代に集中的に書かれたオーケストラ曲にどのように反映されているのだろうか。このセクションでは独奏楽器とオーケストラによる協奏曲編成の楽曲を中心に、フェルドマンのオーケストラ曲とオーケストレーションの特徴を考察する。

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吉池拓男の名盤・珍盤百選(33) 寸劇「迷走・CD企画会議」~黒人ピアニストたちの肖像~

George Walker in Recital George Walker(p) Albany TROY 117  (1994年)
JOHANN STRAUSS by LEOPOLD GODOWKY  Antony Rollé(p) FINNADAR RECORDS 90298-1 (1985年、LP)
A LONG WAY FROM NORMAL Awadagin Pratt(p)  EMI CLASSICS  CDC 5 55025 2 0 (1994年)

○弱小クラシックCDレーベル 魔煮悪classics 本社会議室

部長:50代男性  年々下がる売り上げに悩み続ける中間管理職
社員A:25歳男性 クラシックが何となく好きなニートっぽい兄ちゃん
社員B:36歳女性 入社10年を超えた中堅社員

部長:それでは企画会議を始める。皆もわかっていると思うが、クラシック音楽産業は衰退の一途にある。その大きな要因はやはりスターの不在だ。昭和の頃は道端のオッサンでもクラシックの指揮者は?と聞かれれば「カラヤン」くらいの名前は出てきた。新入社員のA君、今のベルリンフィルの常任は誰かな?

社員A:え、、、、、えっと、えっと……ぺ?……プ?……ペトルーシュカ、じゃないし……

部長:まぁ、そんなもんだ。私も先日、クラシック音楽酒場に行ったが即答できた奴はいなかった(筆者実話)。それほど今はスター不在なのだ。しかぁし、そんなことは言っていられない。何としてでもリスナーの財布のひもを緩めるスターを探し出すのだ。

社員B:よろしいでしょうか、部長。

部長:おお、Bくん、逸材に心当たりがあるかい?

社員B:クラシックといえど、古よりスターは美男美女もしくは夭折の天才と相場は決まっています。昔よりは演奏の腕はハイレベルになったと思いますが、正直、みな似たり寄ったり。さっそく音大に行って虚弱な美男美女プレイヤーを探してきます。

部長:いやいや、そのコンセプトはちょっとルイ風(※)かなぁ。確かにみてくれは大事だが、もう少し新しいコンセプトはないかね。

社員B:では、困難と闘う感動のストーリー性という点で、独裁的な国家から政治的迫害を受けている芸術闘士はいかがでしょうか?

部長:タコ・ロストロ路線だね。しかし、今、それほどに顕著な政治的迫害は(ピーーッ)国でもない限りいないんじゃないか? (ピーーッ)は演奏家へのコンタクトも大変だろう。それに芸術的自由だとか政治思想路線の闘争系はもう流行らないのではないかね。

社員B:では、感動のストーリーという点では(ピーーッ)でしょう。既に(ピーーッ)や(ピーーッ)という先例がありますから、市場は安定しています。

部長:こらこら、企画会議での発言は気を付けたまえ。最近オリンピックの演出で内部のブレスト的なやり取りが漏れて大変な事態になったことを忘れたか。間違っても(ピーーッ)とか(ピーーッ)とか(ピーーッ)とか言ってはいかんぞ。

社員B:では(ピーーッ)との闘いはどうですか?それを前面に出したセールスは過去に例はありませんから、斬新なのでは?

部長:ぶぁっかもん!!うちを潰す気か。(ピーーッ)はなし、なし、なし。

社員A:あのぉ……最近のネットの流行りで「ポリコレ」っていうのがあるみたいなんですけどぉ……

社員B:ポリコレ、いいわね、それ。部長、最近の流行りでは人種問題やジェンダー問題などが世界的にもホットなムーヴメントね。

部長:確かに。批判する奴がいたらポリコレ攻撃をかませばよいしな。

社員B:なんか全体的にポリコレの捉え方が間違っているようには思いますが……まぁ、音楽的価値以上の有無を言わせない価値が付加されることにはなりますね。

社員A:それって(ピーーッ)と同じですね?

部長:だから、(ピーーッ)とか口にするなって。お願いしますよ、ほんとにもう。

社員B:まずはより一般的な所から人種問題を取り扱うのはどうでしょう。

部長:ジェンダー問題はダメなのかね?

社員B:それも重要ですが、音楽業界はもともと(ピーーッ)ですし、今更殊更(ピーーッ)を主張しても割とスルーされてしまうのではないかと。

部長:確かに。では人種問題で行くか。

社員A:少し前、ネットニュースでよく見たのは「Black Lives Matter」ですね。やっぱ黒人の人たちへの問題が世界のトレンドかな。そういえば、黒人のピアニストってクラシックではほとんど見ないですね。

社員B:私もほとんど知らない。部長は?

部長:ジャズなら山ほど知っているが、確かにクラシックはあまり聞かないなぁ。その辺を調べてみる必要があるな。きっと知られざる素晴らしい演奏家が沢山いるに違いない。よし、今日は解散だ。次回のmtgまでに二人は色々調べてきてくれ。

社員A・B:了解しました。

~a few days later~

部長:では企画会議を始める。クラシックの黒人ピアニストについて調べてきたかね?

George Walker in Recital George Walker(p)

社員A:はい、部長。僕はGeorge Walkerっていう人を見つけました。めちゃクールなキャリアの人です。彼のホームページに経歴が書いてあって、そこらじゅうに「黒人で初めて first black」という言葉があふれています。音楽学校を出た最初の黒人ピアニストとか、大手の交響楽団や演奏会場に出演した最初の黒人とか、ピューリッツァー賞を取った最初の黒人とか、まさに黒人クラシック音楽家のパイオニアです。

部長:CDは出ているのかね?

社員A:amazonで検索したんですけど5~6種類はありました。ここにあるのは「George Walker in recital」です。1曲目のスカルラッティのソナタL.S.39、びっくりしますよ。

社員B:この曲って、こんなスイング感のあるリズムなの?

クリックで拡大

社員A:いやいや、もともとはかっちりとした2分の2拍子(譜例1)ですよ。Walkerの演奏はまるで8分の6拍子(譜例2)。さすがのリズム感っていう感じでしょ?

部長:ほかにもショパンや、ベートーヴェンを弾いてるようだが、スイングするのかね?

社員A:この曲だけです。

部長・社員B:えっ?

社員A:こんな不思議なリズムアプローチはこの曲だけです。あとは極めてまともです。同じスカルラッティももう5曲弾いてますが、極めてまともです。

社員B:なんで? これだけ……でも、面白いわ。これ。

部長:確かにこの1曲目は衝撃的に面白いが、インパクトが続かないなぁ。B君の方は誰か見つけたかい?

社員B:幻のピアニスト見つけました。

部長:なに、幻。そりゃよい宣伝文句だ。

社員B:名前はAntony Rollé。弾いているのはゴドフスキのシュトラウス編曲もの全4曲です。

JOHANN STRAUSS by LEOPOLD GODOWKY  Antony Rollé(p)

部長:シュトラウス=ゴドフスキのあの超難曲を、しかも全曲だとぉ。良く見つけた、偉い!

社員B:しかもこの録音、1985年にLPで出たきりでCD化されていません。

部長:ますますレア感upだねぇ。で、幻というのは?

社員B:この人、その後消息不明なんです。ネットでいくら検索しても出てきません。ピアノはアール・ワイルドに師事したらしいです。そしてデビューアルバムは1980年のメットネル作品集。2枚目がこのゴドフスキです。このアルバムを最後に消息不明です。

部長:消息不明か……交渉が大変そうだが、面白い。で、出来は?

社員B:いたって普通です。下手ではないですが、特に際立ったものはありません。

部長:あの難曲を普通に弾くだけでも大したもんだが、「いたって普通」かぁ……

社員B:で、そんなこともあろうかと、もう一人見つけてきました。どうです?このジャケット。

A LONG WAY FROM NORMAL Awadagin Pratt(p)

社員A:WOW 、Cooooool!

部長:インパクト特大だねぇ。しかもアルバムタイトルが「A Long Way from Normal」、正常からの遠い道のり。イイね、イイね、イイね。そそられるねぇ。

社員B:部長、違います。正常から遠いのではありません。

部長:はぁ? このジャケ写なんだから、どう見てもそうだろう。

社員B:このAwadagin Prattというピアニストは、イリノイ州のNormalという町の出身なんです。だからその故郷を遠く離れて随分と来たもんだという意味です。

部長:なんだ、それ。半分サギじゃないか。で、演奏は?この風体だけのことはあるだろうね?

社員B:極めてまともです。正統派の極みです。コンクールで優勝もしていますが、そりゃ優勝するだろうなという見事なNormal仕上がりです。技巧的にも安定しています。

部長:リストもバッハもフランクもブラームスも、みな真っ当か?

社員B:ひたすらに真っ当です。これはこれで素晴らしいことです。

部長:みてくれで過度な期待をしてはいけないということか……他にはいないかね?

社員A:すみません、今回は見つかりませんでした。

社員B:クラシック音楽が盛んな欧米ではもともと黒人人口は比率的にそれほど多くはありません。おそらくは歴史的・経済的問題も絡んでクラシックミュージシャンは絶対数が意外と少ないのだと思います。

部長:そうか。うーーーん、黒人ピアニストならではのリズム感とかノリとかを期待したのだが、Walkerの1曲を除いて真っ当路線か……

社員A:あのぉ……これって結局、人種とかに関係なく、真っ当に勉強した人は真っ当な結果を出すことができるということではないですか?

社員B:まずは中心値的な部分がきちんとできるということね。変な思い込みは禁物ね。

部長:なんか少しいい話でまとまったねぇ。けど、うちの企画としてはどうしたらよいのかますますわからなくなった。困った。

社員B:うちもまずは真っ当な路線を大事にしましょう、部長。

社員A:ですよ、部長。

部長:いや、真っ当路線は往年の巨匠たちが極上の結果を残してしまっているから、もう今更なんだよなぁ。やはり生き残りを賭けて過去にない斬新な企画を考えねばならないと思うんだよ。

社員A:じゃあ、やっぱ(ピーーッ)とか(ピーーッ)で行きましょうよ。

部長:ぶぁかもんっ!!!だから、そういうことは言ってはいかんって。

補記: 
※ルイ風……「古い」の実在した業界用語。ふるい ⇒ るいふ ⇒ るいふー。ルイ風は筆者による当て字。

【紹介者略歴】
吉池拓男
元クラシックピアノ系ヲタク。聴きたいものがあまり発売されなくなった事と酒におぼれてCD代がなくなった事で、十数年前に積極的マニアを終了。現在、終活+呑み代稼ぎで昔買い込んだCDをどんどん放出中。

あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(12) フェルドマンとオーケストラ-1

文:高橋智子

1 1970年代の楽曲の編成とオーケストレーション

 前回は、バッファロー大学の教授就任をきっかけにバッファローへ転居したフェルドマンの環境が変わり、それに伴ういくつかの要因から曲の長さが次第に長くなっていったことと、楽曲の編成も大きくなってきた様子を概観した。1950年代、60年代のフェルドマンの楽曲は長くとも12分前後の室内楽や独奏曲が主流だったが、1970年代は管弦楽(オーケストラ)曲が増える。オーケストラやオーケストレーションに対するフェルドマンの考えを参照しながら、1970年代の管弦楽曲のなかでも独奏楽器と組み合わさった協奏曲編成の楽曲に焦点を当てて考察する。

 1970年代の主要な楽曲は時期、編成、様式に基づいて次の4つに分類することができる。1. 独奏ヴィオラの旋律を用いた楽曲 2. 小規模または中規模の室内楽曲 3. 独奏パートと管弦楽による協奏曲風の楽曲 4. ベケット三部作。1の独奏ヴィオラの旋律を用いた楽曲には前回解説した「The Viola in My Life」1-4(1970-71)と、このシリーズといくつかの素材を共有する「Rothko Chapel」(1971)が当てはまる。これらの楽曲は、旋律を前面に打ち出した点でフェルドマンの楽曲リストの中で特殊な場所に位置付けられると同時に、1970年以降の新たな境地を開拓するきっかけとなったといえる。なかでもフル・オーケストラ編成の「The Viola in My Life 4」(1971)はその後のフェルドマンの管弦楽書法を考えるうえでの大きな手がかりとなることから、前回はこの曲もとりあげた。今回は3の協奏曲編成の管弦楽曲を中心にフェルドマンの70年代の音楽の特徴を考察するが、必要に応じて2の室内楽曲にも言及する。分析と考察をする前に今回の結論を先に書くと、下記4つのグループに分類される楽曲のほとんど全ては、1977年に完成されたフェルドマン唯一のオペラ「Neither」のための準備や実験とみなすことができる。これまでの本連載での方法と同じく、今回も特定の楽曲について解説するが、視野を広げて考えると、ここで導き出された展望や結論はオペラ「Neither」への布石だといえる。

1970年代の4種類の楽曲

1. 独奏ヴィオラの旋律を用いた楽曲
The Viola in My Life 1-4 (1970-71), Rothko Chapel (1971)

2. 小規模または中規模の室内楽曲
Voices and Instruments 1 (1972), Voices and Instruments 2 (1972), For Frank O’Hara (1973), Instruments 1(1974), Instruments 2 (1974), Instruments 2 (1975), Voice, Violin and Piano (1976), Instruments 3 (1977)

3. 独奏パートあるいは合奏パートとオーケストラによる協奏曲風の楽曲
Chorus and Orchestra 1 (1971), Chorus and Orchestra 2 (1972), Cello and Orchestra (1972), String Quartet and Orchestra (1973), Piano and Orchestra(1975), Oboe and Orchestra (1976), Flute and Orchestra (1978), Violin and Orchestra (1979)

4. ベケット三部作
Orchestra (1976), Elemental Procedures (1976), Routine Investigations (1976)

 1960年代の楽曲を自由な持続の記譜法による音楽的な時間の探求とみなすならば、五線譜に戻った1970年代の楽曲では音色の探求が行われているといえるだろう。例えば、この連載の第6回、第7回で解説したソプラノ、グロッケンシュピール、ピアノ、ヴァイオリン、チェロ、チャイムによる1962年の室内楽曲「For Franz Kline」は、それぞれのパートの音色の特性を活かした色彩豊かな音響を引き出すことではなく、できるだけ個々の音色の特性を抑えたモノトーンの世界を描こうとした。このモノトーンの音の世界は、黒と白を基調とした晩年のフランツ・クラインの作品を想起させる。1960年代の大半の楽曲の演奏指示には、音の出だしのアタックをできる限り抑制し、曲全体のダイナミクスを最小限にすることが記されている。音色、アタック、ダイナミクスに関するこの傾向は第10回で解説した同一編成のアンサンブル2群による室内楽曲「Between Categories」(1969)まで続く。1970年代に入ると楽器や声の特性を抑制する傾向は徐々に薄まり、「The Viola in My Life」1-4のような楽器の特性に根ざした曲が書かれるようになる。この頃から編成や曲の長さも拡張傾向にあるのは前回述べたとおりだ。もちろん、これまでのフェルドマンの楽曲の変化と同じく、楽曲の変化は記譜法の変化も意味し、1970年代以降の楽曲は拍子、音価、ダイナミクスが具体的に記されている。「The Viola in My Life」1-4での独奏ヴィオラのほぼ全ての音に細かく記されたクレシェンドやデクレシェンドは、引きのばされた音が消えゆく様子を見届ける1960年代の自由な持続の記譜法との大きな違いでもある。

 1970年代のフェルドマンの音楽はどのようにして音色を探求していたのだろうか。その様子を解き明かす鍵は彼のオーケストレーション(管弦楽法)に対する態度と考え方にある。フェルドマン自身の発言をたどると、彼は1972年に作曲された5台ピアノと5人の女声による「Pianos and Voices」[1]初演のプログラムノートに「“オーケストレーション”と“作曲”は本質的に同じだ “Ochestrierung” und “Komposition” seinen im wesentlichen das Gleiche」[2]と記している。「Pianos and Voices」は自由な持続の記譜法で書かれている点で、五線譜による正確な記譜法が大半を占める1970年代の楽曲において例外といってもよい曲だが、5台のピアノの和音や単音の引きのばしと5人の女声があえて同期しないことで、響きによるグラデーションの効果が引き出されている。このような音の引きのばしによるグラデーション効果を狙った書法は前回とりあげた「The Viola in My Life 4」での管楽器と弦楽器にも頻出しているので、記譜法は違うものの「Pianos and Voices」もそれぞれのパートの音色とその響き自体が曲を形成する点でそう遠くない関係にある。独奏ヴィオラの旋律を含む「The Viola in My Life」シリーズと「Rothko Chapel」を除けば、フェルドマンの1970年代の室内楽作品、管弦楽作品ともに、個々の声部の出だしのタイミングのずれと、その内部で生じる微妙な差異そのものを曲の実体とする傾向が見られる。絵画にたとえるならば、背景と対象、つまり地と図の境界の曖昧なマーク・ロスコの全面絵画の構成原理に近いだろう。音の引きのばしを主とするフェルドマンのこの時期の楽曲は一見、平坦で変化に乏しい表層を形成しているが、その表層下には無数の差異が蠢いている。5台のピアノと5人の女声が行き交う「Pianos and Voices」を聴けば、これらの絶え間なく織りなすグラデーションの様子が想像できるはずだ。個々の楽器や声の特性をよく理解し、それらの特徴や魅力を最大限に引き出す効果的な声部配置の技術をオーケストレーションの技術のひとつとするならば、彼の70年代の楽曲のどの側面にフェルドマンのオーケストレーションの特徴が表れているのだろうか。オーケストレーションと作曲とを同一とみなしていたフェルドマンの考え方をさらに掘り下げていこう。

Feldman/ Pianos and Voices (1972)

 フェルドマンは1972年頃の自身のエッセイの中で「“ベルリン時代”の楽曲タイトル[3](Three Clarinets, Cello and Piano; Chorus and Orchestra; Cello and Orchestra; etc.)は単にその曲のオーケストレーションを言っているだけだ The titles from my “Berlin Period” (Three Clarinets, Cello and Piano; Chorus and Orchestra; Cello and Orchestra; etc.)simply state the compositions’ orchestration.」[4]と書いている。バッファロー大学着任の直前、フェルドマンが1971年秋から1年間DAADの奨学金でベルリンに滞在していたのは前回のこの連載で述べたとおりだ。この時期に書かれた室内楽曲や協奏曲風編成の楽曲はフェルドマンにオーケストレーションの意味や役割を再考させるきっかけとなったと推測できる。彼は次のように続ける。

 オーケストレーションとはなんだろう?音楽を聴こえるようにする手段がオーケストレーションの定義なのかもしれない。オーケストレーションは作曲である。他のすべての音楽的なアイディアは最終的にどうでもよくなってしまう――まるごと飲み込まれるか、私たちの足元にある地面のような堆積物へ踏み固められる。

 What is orchestration? The means by which music becomes audible might be a definition of orchestration. Orchestration is composition. All other musical ideas eventually become unimportant—swallowed whole or pounded into sediments like the ground beneath us.[5]

 先の引用と同じく、ここでも彼はオーケストレーションと作曲とをほぼ同一視している。オーケストレーションさえ決まっていれば、曲はできたも同然と言いたげだ。ここで注目したいのは、フェルドマンはオーケストレーションの定義を「音楽を聴こえるようにする手段」と提起していることだ。彼の考えに即して言い換えると、音を概念的な存在から、人間の耳に入ってくる現実的、物理的な存在へと媒介する実践的な手段がオーケストレーションの定義であり役割だとも解釈できる。一聴してなんとも言い難いフェルドマンの音楽は概して抽象的な性質の音楽だが、これまで彼が音のアタックや減衰に注意を払ってきたことを考えると、彼の音楽は実際の響きが聴き手に与える効果に根ざした身体的な性質を持っているともいえる。フェルドマンは自分が実際にどのような方法で音符を書いているのかを具体的に説明しながら、作曲の際の音の物理的、身体的な側面に対する考えを述べている。

 私がピアノで作曲し続ける理由の1つは、ピアノが自分を「イマジネーション」から救い出してくれるからだ。物理的な事実としてひっきりなしに現れる音はある種の知的な白昼夢から目を覚まさせてくれる。音があれば十分なのだ。これらの音を現実のものにする楽器は十分過ぎて辟易してしまう。ところで楽器か音か、どちらが先にやってくるのだろう?ベルリンのテレビ[6]が言うように、これが問いだ。

 One of the reasons I continue to write at the piano is to help me from the “imagination.” Having the sounds continually appearing as a physical fact wakens me from a sort of intellectual daydream. The sounds are enough. The instruments that realize them are more than enough. But what comes first, the instrument or the sound? This, as they say on Berlin television, is the frage (sic.)[7]

 編成がなんであれピアノの前に座り、鍵盤の感触と音を実際に確かめながらフェルドマンは曲を書き進めていく。彼にとってピアノは概念を物理的な事実や存在に具現させる身近な道具だった。ピアノはフェルドマンをイマジネーションから現実に引き戻してくれるのだ。ここでの現実とイマジネーションとの関係は、第10回でとりあげた「音楽の表面」の議論を思い出させる。この議論でフェルドマンは、音楽の表面を作曲家がそこに音を置いていく錯覚とみなし、現実に聴こえる音である聴覚的な地平と区別していた。この議論をふまえると、ピアノを触りながら白昼夢から抜け出した彼は、聴覚的な地平に立って、つまり現実世界の中で音を聴きながら音符を書きつけていたと想像できる。ここでのピアノの音は確かにピアノの音色かもしれないが、彼は特定の楽器の特徴を持たない、無名の単なる音としてこれらの音を扱いたいと思っていたのだろう。まるでコロンブスの卵のような「楽器か音か、どちらが先なのか」をフェルドマンは自問自答し、作曲と楽器との関係からオーケストレーションに対する考えを述べている。

 音楽の長い歴史の中では音が最初にやってきて、楽器にあまり関心が払われてこなかったと思っている。それから音楽が、あるいは「作曲技法」が発展するにつれて、どの楽器を最もうまく用いることができるのか、またはどんな楽器が発明される必要があるのかに、さらに注意が払われるようになった。この新たな役割とともに楽器は作曲に絶対不可欠な側面となった。近年、作曲とはいったいなんなのかという概念が問われ始めるにつれ、楽器の超絶技巧が増長し、忘れられた音や忘れられた曲よりも重要になった。音楽を聴こえるようにする手段という(訳注:オーケストレーションの)私の定義に合致しているように見えるが、これ(訳注:超絶技巧)はオーケストレーションではない。楽器は音かもしれないが、音は楽器ではないはずだ。遠回しにいうと、作曲の専門的な技術であれ、楽器の「可能性」を見せるのであれ、どんな超絶技巧も軌を一にする。どんな超絶技巧もまったく同じだ。近代的な楽器の用法の超絶技巧は音に対する親密さからではなく、作曲から生まれた。

 I think that in the music long past, the sounds came first, and there was not too much concern for the instrument. Then as music, or the “art of composition” developed, more attention was given to what instruments could be best utilized or need be invented. With this new role, the instrument became an integral aspect of the musical composition. As notions about what composition actually is began to be questioned in recent years, the virtuosity of the instrument increased and became more important than either the forgotten sound or the forgotten composition. This is nor orchestration, though it appears to fit my definition: the means by which sound becomes audible. The instrument might be the sound but the sound might not be the instrument. What I obliquely mean is that any virtuosity, whether compositional expertise or in showing what the instrument “can do,” is one and the same thing. That the virtuosity of modern instrumental usage came out of composition and not out of a closeness to sound.[8]

 作曲技法の発展が楽器の発明や改良を促し、それに応じて超絶技巧(virtuosity)も発展してきた。今や超絶技巧が音の響きや作曲行為を押しのけているのだとフェルドマンは批判している。彼はこのような状況を演奏技術が楽曲に従属していると捉えていたのかもしれない。オーケストレーションを「音楽を聴こえるようにする手段」と定義するフェルドマンは、楽器演奏による超絶技巧ありきのオーケストレーションに対して否定的な立場を取っている。彼は音楽における楽器の存在や役割と、楽器(場合によっては声も)から生じる音とをわけて考えている。ここから導き出された暫定的な結論は「楽器は音かもしれないが、音は楽器ではないはずだ。」と、音と楽器との非対称性を認めている。この非対称性は「楽器か音か、どちらが先なのか」の問いにもつながるだろう。これまで参照してきた言説を振り返ると、このような二者択一や二項対立の疑問が生じた場合、どちらでもない「カテゴリーの間 between categories」の立場を取るのがフェルドマンの流儀に近い。だが、このエッセイの後の段落でのフェルドマンの態度はいつもと違った。彼は「私がを選んだわけではなくて、その音が選んだ楽器が曲(訳注:Pianos and Voices)になった。こういうわけで、自分の音楽の多くでは音高もリズムも自由にできたのだ。その曲の“オーケストレーション”… The choice of mine was not the sound but the sound’s preference for certain instruments became the composition. This is why I could then leave either the pitches or rhythms free in so much of my music. The composition’s “orchestration”[…][9] 」と、あたかも作曲者である自分が楽器を選んだのではなく、曲中の音に楽器を選ばせたのかのようなそぶりを見せる。実際のところ、どのような楽器を用いるかは作曲家が決める。しかし、ここでのフェルドマンは人知を超えたある種の降霊術のような機能を音に期待していたのかもしれない。この段落は途中で切れたまま掲載されているので「その曲の「オーケストレーション」The composition’s “orchestration”」以降、どのような論が展開されたのかを知ることができないが、1986年7月に行われた講義を参照して楽器、音、音色の関係に対するフェルドマンの考えをさらに見ていこう。

音色に常につきまとっていた問題のひとつは、本質的に平坦な音楽であろうと、音色が、ひとつの楽器と別の楽器との時間の隔たりによる幻影を作り出すことです。私は幻影としての音では作曲できません。ご存知のように、もしもその音が特定の音域から生じているなら、その音がその音域から鳴っているかのように聴こえないといけないのです。恣意的にはなり得ません。その音符はその音域、そのダイナミクス、その楽器でしかよく鳴り響かない音符にならないといけません。したがって、ここでは然るべきタイミング、然るべき音域、然るべき楽器で音符を選ばないといけません。言うならば、それは全てが一体となった状態です。

One of the problems that always had with Klangfarben is that it created an illusion of time space between one instrument and another, when essentially it was flat music, and I cannot work with sound as illusion. If it comes from a certain register it has to sound as if it’s from that register, you see. It can’t be arbitrary. The note has to be a note that sounds only good in that instrument in that dynamic in that register. So the choice of notes here has to be for the right instrument in the right register in the right time. Alles zusammen, as they say down there.[10]

この講義の中でもフェルドマンは音の幻影よりも実体に即した音の物理的なあり方を重んじ、音の優位性をさらに強調している。上記の日本語訳では原文中の“sound”を音の響きの意味での「音」、“note”は楽譜に記された音の意味での「音符」とした。「音」(この時点ではどの楽器のどのような音色かは決まっていない)が現実の世界に鳴り響く契機または手段としての「音符」に変換される時、そこに恣意性の入り込む余地はなく、音色、ダイナミクス、タイミングといったあらゆる要素が必然性を持ち、それらが一体となった状態を目指さないといけない。これがここでのフェルドマンのおおよその主張である。フェルドマンが音に抱く理想はどれくらい自身の楽曲の中で実現されていただろうか。1960年代の楽曲を振り返ってみると、室内楽曲が多かったこの時期はフルート、ホルン、チューバ、ヴィオラ、チェロ、チャイム、ヴィブラフォン、チェレスタ、ピアノが特によく登場し、「Durations 3」(1960)のようなヴィオラ、チューバ、ピアノという風変わりな編成もよく見られた。このような風変わりな編成もフェルドマンが考えるところの、その音の必然性から引き出されたものなのだろう。

 今までの引用からフェルドマンのオーケストレーションにまつわる問題意識として、作曲過程における概念上の音、楽器とその音色、演奏技術(フェルドマンは超絶技巧を避ける傾向)の3つの事柄が浮かび上がってきた。これら3つは1970年代の楽曲の中でどのような問題を投げかけ、楽曲として具現化されているのだろうか。次のセクションでは独奏楽器と管弦楽による協奏曲風の楽曲について考察する。


[1] 「Pianos and Voices」の当初のタイトルは「Pianos and Voices 2」だった。この曲に先立って作曲された同じ編成(5台ピアノと5人の女声)の曲のタイトルは「Pianos and Voices 1」だったが、後に「Five Pianos」に改題されたため、「Pianos and Voices 2」が繰り上がって「Pianos and Voices」となった。
[2] Feldman, Handschriftlicher Entwurf eines Einführungstextes zu Pianos and Voices (1972), Morton Feldman Archives, State University of New York at Buffalo (unpublished), Claren, Neither:Die Musik Morton Feldmans, Hofheim: Wolke Verlag, 2000, S. 93からの引用。英語による原文は未公開のため、Clarenによるドイツ語訳を引用した。
[3] フェルドマンのベルリン時代 (1971秋-1972秋)の楽曲:Chorus and Orchestra 1(10 Dec. 1971), Cello and Orchestra (19 Jan. 1972), Five Pianos (31 Jan. 1972), Piano and Voices (13 Feb. 1972), Composition for 3 Flutes (5 Mar. 1972), Voices and Instruments (Jun. 1972)、Chorus and Orchestra 2 (May-Jul. 1972), Voice and Instruments (Oct. 1972, バッファローで完成した)
[4] Morton Feldman, Give My Regards to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman, Edited by B. H. Friedman, Cambridge: Exact Change, 2000, p. 205
[5] Ibid., p. 205
[6] ここで言及されている「ベルリンのテレビ」とは、フェルドマンがベルリン滞在時に当地で放送されていたテレビ番組での決まり文句だと推測されるが詳細不明。
[7] Ibid., p. 206
[8] Ibid., p. 206
[9] Ibid., p. 207 ここで文章が切れたまま掲載されている。
[10] Morton Feldman, Words on Music: Lectures and Conversations/Worte über Musik: Vorträge und Gespräche, edited by Raoul Mörchen, Band Ⅰ&Ⅱ, Köln: MusikTexte, 2008, p. 216

吉池拓男の名盤・珍盤百選(32) 一人芝居「さびれた音楽工務店の情景」 ~イタリアのへんなやつ2~

COMPOSIZIONI OSSESSIVE  Marco Falossi(p)  VELUT LUNA  CVLD 184 2009年
romantic pieces for piano Igor Roma(p)  Challenge classics CC72154  2006年
ENCORES  Igor Roma(p)  STEMRA IR2 2009年

○どこの町にもありそうな小さな工務店
 ただし、机の上には設計図ではなく楽譜や五線紙が散乱している
 どうやら“音楽工事”を請け負う特殊な工務店のようだ
 ヲタクっぽい営業担当のおっさん(吉池主任)がお客さんの電話に対応している

(♬電話着信音~)

『はいは~い、こちらはサクサク改作、貴方のミュージックライフを斬新リノベーションの伊太利音楽工務店でございます。はぁ? いやいや、カ・イ・ザ・ンではなく、カ・イ・サ・ク、改作を承っております。私、改作推進部営業の吉池と申します。移調、短縮、左手用、連弾化などなどお客様のご希望の工事を縦横無尽に承っております。本日はどういった改作工事のご要望でございましょうか? はい……はい……えっ、それは難題ですなぁ。ショパンと映画音楽が大好きで多忙なリスナーに超効率的に楽しめる音楽を提供したいと。ほぉほぉ、なるほど……うん、お任せください! 弊社にはそんじょそこらの工事業者を超えた発想と力量を有する選りすぐりの職人が在籍しております。このお仕事ですと……適任がいますよ。名前はMarco Falossiと言います。え、聞いたことない。いやいや、彼は楽譜絵師として知る人ぞ知る存在、大作「モーツァルト」をはじめ、最近では「ピアノ」とか「フォーク」などを仕上げておりますよ。その楽譜絵で培った匠の技でご要望にお応えいたしましょう。で、映画音楽はどのような曲をご希望で? はい……はい……シンドラーのリスト、チャップリンのライムライト、そういったあたりですね。で、ショパンは…あ、おまかせですね。わかりました。早速、Falossiに取り掛からせますので、どうぞご安心ください。では完成しましたらご連絡いたします。伊太利音楽工務店、吉池が承りました。』

  ~a few days later~

COMPOSIZIONI OSSESSIVE  Marco Falossi(p) 

『お客様、お待たせいたしまた。弊社ならではの合体工事で最高の効率化を実現いたしました。タイトルは「ショパンの変装」。「変奏」ではないですよ、「変装」です。ショパンは練習曲op.10-6をセレクトさせていただきました。どうです。ご希望の映画音楽たちとショパンを同時に演奏してしまうという最高度の効率化合体工法をご提示させていただきました。如何ですか?……えっ……はぁ……ただ同時に弾いてるだけで、いまいち調和していない? どこが楽譜絵で培った実力なのかわからない? しかも弾くのが難しすぎる? いやいやいやいや、お好きな音楽をいっぺんにお楽しみいただける弊社自慢の仕上がりですよ。まさに職人Falossiの真骨頂。ん~~~、そうだ、職人Falossiの別の作品「強迫的な作品」をサービスでお付けしましょう。いやいやそうおっしゃらず、お受け取り下さい。ええいっ、「情緒不安定な作品」「雄弁な作品」「修辞的な作品」「不確実な作品」「退行した作品」「無意味な作品」などもドドンとまとめて35曲お付けしましょう。ニクいね旦那、もってけドロボー。テレフォンショッピングでも滅多にお目にかかれない大盤振る舞いですよ。どうですか。え、そんな面倒くさいタイトルのゲンダイオンガクはなんぼあっても疲れるだけ? いやいやお客さま、お客さま、そうおっしゃらずに、ぜひぜひご笑納をっ、毎度のご贔屓をっ……』

○どこの町にもありそうな小さな工務店
 前回の受注からしばらくたったある日の午後
 ニッチ過ぎる業種のせいか、ヒマで眠そうな営業担当。
 そのとき、久々の電話が鳴り響く。

(♬電話着信音~)

『ふぁいふぁ~い、こちらはサクサク改作、貴方のミュージックライフを斬新リノベーションの伊太利音楽工務店でございます。ほぁ? あのですね、カ・イ・ザ・ンではなく、カ・イ・サ・ク、改作ですってば。私、改作推進部営業の吉池と申します。移調、短縮、左手用、連弾化などなどお客様のご希望の工事を縦横無尽に承っております。本日はどういった改作工事のご要望でございましょうか? はい……はい……えっ、それは超難題でございますな。かの魔神Hお得意のモシュコフスキ作品に魔神がビビるくらいの難化工事を施してほしいと。うううむ、難化による魔神超えですか……これは、お高くつきますよ。え、音の量には糸目をつけないと。これは頼もしいお言葉。わかりました。弊社にはうってつけの職人がおります。名前はIgor Romaと申します。え、聞いたことがない。ま、そうでしょうね。これまで50年以上の人生で作品集は2回しか発表しておりません。とにかく指さばきとキレ味ならば当代随一の匠でございます。モシュコフスキはどれを? 火花op.36 no.6と練習曲ヘ長調op.72 no.6ですね。お客さん、攻めますねぇ。魔神Hの十八番中の十八番じゃないですか。ようございましょう。早速仕事に取り掛からせていただきますので、どうぞご安心ください。では完成しましたらご連絡いたします。伊太利音楽工務店、吉池が承りました。』

 ~a few days later~

ENCORES 
Igor Roma(p) 

『お客様、お待たせいたしまた。弊社渾身の難化工事で前人未到の世界を構築いたしました。まずは火花 op.36 no.6。最初の32小節とそれの繰り返しは素晴らしく快速なだけで特に施工はしておりません。そこ過ぎたあたりから左右にナイスなアタックを入れ始め、36秒目くらいからは右手の原曲にある8分音符を消し、職人Romaお得意の急速な16分音符(もしくはそれ以上)の暴走乱発つむじ風状態といたしました。これぞ弊社が自信もってお届けする難化工事の極み。お客様のご要望通り右手の音数はトンデモなく増幅され、魔神H越えを実現しております。で、ラストはジャズコードを使ったなかなかオトナの仕上がりにさせていただきました。続きましては練習曲ヘ長調 op.72 no.6。どうです、この音増量。お客様の創造をはるかに超えた世界を実現させていただきました。ほぼ音数倍増の特種難化工事と自負しております。もちろん火花のラストで装飾いたしましたジャズテイストは今回は中ほどで披露させていただいています。……え?……はぁ……いくらなんでもやりすぎだと。これではとても常人では弾くことができないと。いやぁ。そうは申されましても、希代の指さばき職人Romaの技ですのでこれくらいはご勘弁いただかないと。納品に際しては火花のライブ動画仕様書、練習曲のライブ動画仕様書はお付けしましたので再度ご確認ください。

romantic pieces for piano
Igor Roma(p)

そうだ、サービスでRomaの若いころの作品集「romantic pieces for piano」から難化工事を施したアルカンのサルタレッロop.23をお付けしますよ。もちろんアルカンですから原曲は急速な上に同音連打が多くてかなり難しい8分の6拍子の舞曲です。冒頭から20秒間はアルカンの原曲のままにしてありますが、それが繰り返される所から音を分厚く加え、なんじゃこれ!の世界を開陳させていただいています。しかも急速なテンポはひるまず保ち、アルカンの狂気を孕んだイタリア舞曲をキレ良く快走。曲の進行はほぼ原曲通りで、ラストはヴォロドスのトルコ行進曲とほぼ同じ和音連打瀑布。見事な施工でしょう?どうです?……え……原曲が無名すぎて「これが難化です」と言われてもピンと来ない? 誰も知らない曲ですごいでしょと言われても困るって? いやいやそうおっしゃらずに、ひとつよろしくお願いしますよ。そうだ、Romaの新作、ラテンナンバー工法を大胆に使用した超拡大版バッハ=シロティ前奏曲ロ短調もお付けしましょう。Romaが一人二役で施工しまくったダブル難化工事の名作ですよ。さあ、ぜひお受け取りを。お客さん?お客さん? もしもーし、もしもーーし。ではでは、イタリアン・ポルカの連弾難化工事もオマケしちゃおうかな。もしもーし、もしもーーーし、お客さ~~んっ……』 

○吹きすさぶ寒風、飛び散る五線紙、そこはかとなく漂う倒産の予感

【紹介者略歴】
吉池拓男
元クラシックピアノ系ヲタク。聴きたいものがあまり発売されなくなった事と酒におぼれてCD代がなくなった事で、十数年前に積極的マニアを終了。現在、終活+呑み代稼ぎで昔買い込んだCDをどんどん放出中。