あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(13) ベケット三部作とオペラ「Neither」-2

文:高橋智子

2. オペラ「Neither」

 1976年7月に「ベケット三部作」による一通りの試作を終えたフェルドマンは1976年9月18日に行われた「Orchestra」初演のためグラスゴーに滞在していた。[1]グラスゴーでの初演の後フェルドマンはベルリンに赴き、9月20日の昼頃シラー劇場で「あしあと Footfalls」と「あのとき That Time」のリハーサルをしていたベケットと初めて会う。[2]劇場の中は照明が暗転して真っ暗だった。暗闇の中でベケットはフェルドマンの親指に握手した。[3]これが彼らの初対面の瞬間だ。フェルドマンはベケットを劇場近くのレストランにランチに誘い、ここで彼は自身のオペラについて話した。[4]「自分の考えだけでなく彼(訳注:ベケット)の考えにひれ伏したかった I wanted slavishly to adhere to his feelings as well as mine.」[5]と語り、ベケットを信奉していたフェルドマンはベルリンで交わした会話を次のように回想している。

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あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(13) ベケット三部作とオペラ「Neither」-1

文:高橋智子

 前回は1975年の楽曲「Piano and Orchestra」を中心に、フェルドマンのオーケストレーションと協奏曲について考察した。今回は彼の1970年代の楽曲のハイライトともいえるオペラ「Neither」と、このオペラのための習作として位置付けられているベケット三部作をとりあげる。

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あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(12) フェルドマンとオーケストラ-2

文:高橋智子

2 反協奏曲 Piano and Orchestra

 その曲を構成する音または音符に楽器の選択、音域、ダイナミクス、タイミングといったあらゆる要素の必然性を求めたフェルドマンの態度は、1970年代に集中的に書かれたオーケストラ曲にどのように反映されているのだろうか。このセクションでは独奏楽器とオーケストラによる協奏曲編成の楽曲を中心に、フェルドマンのオーケストラ曲とオーケストレーションの特徴を考察する。

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吉池拓男の名盤・珍盤百選(33) 寸劇「迷走・CD企画会議」~黒人ピアニストたちの肖像~

George Walker in Recital George Walker(p) Albany TROY 117  (1994年)
JOHANN STRAUSS by LEOPOLD GODOWKY  Antony Rollé(p) FINNADAR RECORDS 90298-1 (1985年、LP)
A LONG WAY FROM NORMAL Awadagin Pratt(p)  EMI CLASSICS  CDC 5 55025 2 0 (1994年)

○弱小クラシックCDレーベル 魔煮悪classics 本社会議室

部長:50代男性  年々下がる売り上げに悩み続ける中間管理職
社員A:25歳男性 クラシックが何となく好きなニートっぽい兄ちゃん
社員B:36歳女性 入社10年を超えた中堅社員

部長:それでは企画会議を始める。皆もわかっていると思うが、クラシック音楽産業は衰退の一途にある。その大きな要因はやはりスターの不在だ。昭和の頃は道端のオッサンでもクラシックの指揮者は?と聞かれれば「カラヤン」くらいの名前は出てきた。新入社員のA君、今のベルリンフィルの常任は誰かな?

社員A:え、、、、、えっと、えっと……ぺ?……プ?……ペトルーシュカ、じゃないし……

部長:まぁ、そんなもんだ。私も先日、クラシック音楽酒場に行ったが即答できた奴はいなかった(筆者実話)。それほど今はスター不在なのだ。しかぁし、そんなことは言っていられない。何としてでもリスナーの財布のひもを緩めるスターを探し出すのだ。

社員B:よろしいでしょうか、部長。

部長:おお、Bくん、逸材に心当たりがあるかい?

社員B:クラシックといえど、古よりスターは美男美女もしくは夭折の天才と相場は決まっています。昔よりは演奏の腕はハイレベルになったと思いますが、正直、みな似たり寄ったり。さっそく音大に行って虚弱な美男美女プレイヤーを探してきます。

部長:いやいや、そのコンセプトはちょっとルイ風(※)かなぁ。確かにみてくれは大事だが、もう少し新しいコンセプトはないかね。

社員B:では、困難と闘う感動のストーリー性という点で、独裁的な国家から政治的迫害を受けている芸術闘士はいかがでしょうか?

部長:タコ・ロストロ路線だね。しかし、今、それほどに顕著な政治的迫害は(ピーーッ)国でもない限りいないんじゃないか? (ピーーッ)は演奏家へのコンタクトも大変だろう。それに芸術的自由だとか政治思想路線の闘争系はもう流行らないのではないかね。

社員B:では、感動のストーリーという点では(ピーーッ)でしょう。既に(ピーーッ)や(ピーーッ)という先例がありますから、市場は安定しています。

部長:こらこら、企画会議での発言は気を付けたまえ。最近オリンピックの演出で内部のブレスト的なやり取りが漏れて大変な事態になったことを忘れたか。間違っても(ピーーッ)とか(ピーーッ)とか(ピーーッ)とか言ってはいかんぞ。

社員B:では(ピーーッ)との闘いはどうですか?それを前面に出したセールスは過去に例はありませんから、斬新なのでは?

部長:ぶぁっかもん!!うちを潰す気か。(ピーーッ)はなし、なし、なし。

社員A:あのぉ……最近のネットの流行りで「ポリコレ」っていうのがあるみたいなんですけどぉ……

社員B:ポリコレ、いいわね、それ。部長、最近の流行りでは人種問題やジェンダー問題などが世界的にもホットなムーヴメントね。

部長:確かに。批判する奴がいたらポリコレ攻撃をかませばよいしな。

社員B:なんか全体的にポリコレの捉え方が間違っているようには思いますが……まぁ、音楽的価値以上の有無を言わせない価値が付加されることにはなりますね。

社員A:それって(ピーーッ)と同じですね?

部長:だから、(ピーーッ)とか口にするなって。お願いしますよ、ほんとにもう。

社員B:まずはより一般的な所から人種問題を取り扱うのはどうでしょう。

部長:ジェンダー問題はダメなのかね?

社員B:それも重要ですが、音楽業界はもともと(ピーーッ)ですし、今更殊更(ピーーッ)を主張しても割とスルーされてしまうのではないかと。

部長:確かに。では人種問題で行くか。

社員A:少し前、ネットニュースでよく見たのは「Black Lives Matter」ですね。やっぱ黒人の人たちへの問題が世界のトレンドかな。そういえば、黒人のピアニストってクラシックではほとんど見ないですね。

社員B:私もほとんど知らない。部長は?

部長:ジャズなら山ほど知っているが、確かにクラシックはあまり聞かないなぁ。その辺を調べてみる必要があるな。きっと知られざる素晴らしい演奏家が沢山いるに違いない。よし、今日は解散だ。次回のmtgまでに二人は色々調べてきてくれ。

社員A・B:了解しました。

~a few days later~

部長:では企画会議を始める。クラシックの黒人ピアニストについて調べてきたかね?

George Walker in Recital George Walker(p)

社員A:はい、部長。僕はGeorge Walkerっていう人を見つけました。めちゃクールなキャリアの人です。彼のホームページに経歴が書いてあって、そこらじゅうに「黒人で初めて first black」という言葉があふれています。音楽学校を出た最初の黒人ピアニストとか、大手の交響楽団や演奏会場に出演した最初の黒人とか、ピューリッツァー賞を取った最初の黒人とか、まさに黒人クラシック音楽家のパイオニアです。

部長:CDは出ているのかね?

社員A:amazonで検索したんですけど5~6種類はありました。ここにあるのは「George Walker in recital」です。1曲目のスカルラッティのソナタL.S.39、びっくりしますよ。

社員B:この曲って、こんなスイング感のあるリズムなの?

クリックで拡大

社員A:いやいや、もともとはかっちりとした2分の2拍子(譜例1)ですよ。Walkerの演奏はまるで8分の6拍子(譜例2)。さすがのリズム感っていう感じでしょ?

部長:ほかにもショパンや、ベートーヴェンを弾いてるようだが、スイングするのかね?

社員A:この曲だけです。

部長・社員B:えっ?

社員A:こんな不思議なリズムアプローチはこの曲だけです。あとは極めてまともです。同じスカルラッティももう5曲弾いてますが、極めてまともです。

社員B:なんで? これだけ……でも、面白いわ。これ。

部長:確かにこの1曲目は衝撃的に面白いが、インパクトが続かないなぁ。B君の方は誰か見つけたかい?

社員B:幻のピアニスト見つけました。

部長:なに、幻。そりゃよい宣伝文句だ。

社員B:名前はAntony Rollé。弾いているのはゴドフスキのシュトラウス編曲もの全4曲です。

JOHANN STRAUSS by LEOPOLD GODOWKY  Antony Rollé(p)

部長:シュトラウス=ゴドフスキのあの超難曲を、しかも全曲だとぉ。良く見つけた、偉い!

社員B:しかもこの録音、1985年にLPで出たきりでCD化されていません。

部長:ますますレア感upだねぇ。で、幻というのは?

社員B:この人、その後消息不明なんです。ネットでいくら検索しても出てきません。ピアノはアール・ワイルドに師事したらしいです。そしてデビューアルバムは1980年のメットネル作品集。2枚目がこのゴドフスキです。このアルバムを最後に消息不明です。

部長:消息不明か……交渉が大変そうだが、面白い。で、出来は?

社員B:いたって普通です。下手ではないですが、特に際立ったものはありません。

部長:あの難曲を普通に弾くだけでも大したもんだが、「いたって普通」かぁ……

社員B:で、そんなこともあろうかと、もう一人見つけてきました。どうです?このジャケット。

A LONG WAY FROM NORMAL Awadagin Pratt(p)

社員A:WOW 、Cooooool!

部長:インパクト特大だねぇ。しかもアルバムタイトルが「A Long Way from Normal」、正常からの遠い道のり。イイね、イイね、イイね。そそられるねぇ。

社員B:部長、違います。正常から遠いのではありません。

部長:はぁ? このジャケ写なんだから、どう見てもそうだろう。

社員B:このAwadagin Prattというピアニストは、イリノイ州のNormalという町の出身なんです。だからその故郷を遠く離れて随分と来たもんだという意味です。

部長:なんだ、それ。半分サギじゃないか。で、演奏は?この風体だけのことはあるだろうね?

社員B:極めてまともです。正統派の極みです。コンクールで優勝もしていますが、そりゃ優勝するだろうなという見事なNormal仕上がりです。技巧的にも安定しています。

部長:リストもバッハもフランクもブラームスも、みな真っ当か?

社員B:ひたすらに真っ当です。これはこれで素晴らしいことです。

部長:みてくれで過度な期待をしてはいけないということか……他にはいないかね?

社員A:すみません、今回は見つかりませんでした。

社員B:クラシック音楽が盛んな欧米ではもともと黒人人口は比率的にそれほど多くはありません。おそらくは歴史的・経済的問題も絡んでクラシックミュージシャンは絶対数が意外と少ないのだと思います。

部長:そうか。うーーーん、黒人ピアニストならではのリズム感とかノリとかを期待したのだが、Walkerの1曲を除いて真っ当路線か……

社員A:あのぉ……これって結局、人種とかに関係なく、真っ当に勉強した人は真っ当な結果を出すことができるということではないですか?

社員B:まずは中心値的な部分がきちんとできるということね。変な思い込みは禁物ね。

部長:なんか少しいい話でまとまったねぇ。けど、うちの企画としてはどうしたらよいのかますますわからなくなった。困った。

社員B:うちもまずは真っ当な路線を大事にしましょう、部長。

社員A:ですよ、部長。

部長:いや、真っ当路線は往年の巨匠たちが極上の結果を残してしまっているから、もう今更なんだよなぁ。やはり生き残りを賭けて過去にない斬新な企画を考えねばならないと思うんだよ。

社員A:じゃあ、やっぱ(ピーーッ)とか(ピーーッ)で行きましょうよ。

部長:ぶぁかもんっ!!!だから、そういうことは言ってはいかんって。

補記: 
※ルイ風……「古い」の実在した業界用語。ふるい ⇒ るいふ ⇒ るいふー。ルイ風は筆者による当て字。

【紹介者略歴】
吉池拓男
元クラシックピアノ系ヲタク。聴きたいものがあまり発売されなくなった事と酒におぼれてCD代がなくなった事で、十数年前に積極的マニアを終了。現在、終活+呑み代稼ぎで昔買い込んだCDをどんどん放出中。

あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(12) フェルドマンとオーケストラ-1

文:高橋智子

1 1970年代の楽曲の編成とオーケストレーション

 前回は、バッファロー大学の教授就任をきっかけにバッファローへ転居したフェルドマンの環境が変わり、それに伴ういくつかの要因から曲の長さが次第に長くなっていったことと、楽曲の編成も大きくなってきた様子を概観した。1950年代、60年代のフェルドマンの楽曲は長くとも12分前後の室内楽や独奏曲が主流だったが、1970年代は管弦楽(オーケストラ)曲が増える。オーケストラやオーケストレーションに対するフェルドマンの考えを参照しながら、1970年代の管弦楽曲のなかでも独奏楽器と組み合わさった協奏曲編成の楽曲に焦点を当てて考察する。

 1970年代の主要な楽曲は時期、編成、様式に基づいて次の4つに分類することができる。1. 独奏ヴィオラの旋律を用いた楽曲 2. 小規模または中規模の室内楽曲 3. 独奏パートと管弦楽による協奏曲風の楽曲 4. ベケット三部作。1の独奏ヴィオラの旋律を用いた楽曲には前回解説した「The Viola in My Life」1-4(1970-71)と、このシリーズといくつかの素材を共有する「Rothko Chapel」(1971)が当てはまる。これらの楽曲は、旋律を前面に打ち出した点でフェルドマンの楽曲リストの中で特殊な場所に位置付けられると同時に、1970年以降の新たな境地を開拓するきっかけとなったといえる。なかでもフル・オーケストラ編成の「The Viola in My Life 4」(1971)はその後のフェルドマンの管弦楽書法を考えるうえでの大きな手がかりとなることから、前回はこの曲もとりあげた。今回は3の協奏曲編成の管弦楽曲を中心にフェルドマンの70年代の音楽の特徴を考察するが、必要に応じて2の室内楽曲にも言及する。分析と考察をする前に今回の結論を先に書くと、下記4つのグループに分類される楽曲のほとんど全ては、1977年に完成されたフェルドマン唯一のオペラ「Neither」のための準備や実験とみなすことができる。これまでの本連載での方法と同じく、今回も特定の楽曲について解説するが、視野を広げて考えると、ここで導き出された展望や結論はオペラ「Neither」への布石だといえる。

1970年代の4種類の楽曲

1. 独奏ヴィオラの旋律を用いた楽曲
The Viola in My Life 1-4 (1970-71), Rothko Chapel (1971)

2. 小規模または中規模の室内楽曲
Voices and Instruments 1 (1972), Voices and Instruments 2 (1972), For Frank O’Hara (1973), Instruments 1(1974), Instruments 2 (1974), Instruments 2 (1975), Voice, Violin and Piano (1976), Instruments 3 (1977)

3. 独奏パートあるいは合奏パートとオーケストラによる協奏曲風の楽曲
Chorus and Orchestra 1 (1971), Chorus and Orchestra 2 (1972), Cello and Orchestra (1972), String Quartet and Orchestra (1973), Piano and Orchestra(1975), Oboe and Orchestra (1976), Flute and Orchestra (1978), Violin and Orchestra (1979)

4. ベケット三部作
Orchestra (1976), Elemental Procedures (1976), Routine Investigations (1976)

 1960年代の楽曲を自由な持続の記譜法による音楽的な時間の探求とみなすならば、五線譜に戻った1970年代の楽曲では音色の探求が行われているといえるだろう。例えば、この連載の第6回、第7回で解説したソプラノ、グロッケンシュピール、ピアノ、ヴァイオリン、チェロ、チャイムによる1962年の室内楽曲「For Franz Kline」は、それぞれのパートの音色の特性を活かした色彩豊かな音響を引き出すことではなく、できるだけ個々の音色の特性を抑えたモノトーンの世界を描こうとした。このモノトーンの音の世界は、黒と白を基調とした晩年のフランツ・クラインの作品を想起させる。1960年代の大半の楽曲の演奏指示には、音の出だしのアタックをできる限り抑制し、曲全体のダイナミクスを最小限にすることが記されている。音色、アタック、ダイナミクスに関するこの傾向は第10回で解説した同一編成のアンサンブル2群による室内楽曲「Between Categories」(1969)まで続く。1970年代に入ると楽器や声の特性を抑制する傾向は徐々に薄まり、「The Viola in My Life」1-4のような楽器の特性に根ざした曲が書かれるようになる。この頃から編成や曲の長さも拡張傾向にあるのは前回述べたとおりだ。もちろん、これまでのフェルドマンの楽曲の変化と同じく、楽曲の変化は記譜法の変化も意味し、1970年代以降の楽曲は拍子、音価、ダイナミクスが具体的に記されている。「The Viola in My Life」1-4での独奏ヴィオラのほぼ全ての音に細かく記されたクレシェンドやデクレシェンドは、引きのばされた音が消えゆく様子を見届ける1960年代の自由な持続の記譜法との大きな違いでもある。

 1970年代のフェルドマンの音楽はどのようにして音色を探求していたのだろうか。その様子を解き明かす鍵は彼のオーケストレーション(管弦楽法)に対する態度と考え方にある。フェルドマン自身の発言をたどると、彼は1972年に作曲された5台ピアノと5人の女声による「Pianos and Voices」[1]初演のプログラムノートに「“オーケストレーション”と“作曲”は本質的に同じだ “Ochestrierung” und “Komposition” seinen im wesentlichen das Gleiche」[2]と記している。「Pianos and Voices」は自由な持続の記譜法で書かれている点で、五線譜による正確な記譜法が大半を占める1970年代の楽曲において例外といってもよい曲だが、5台のピアノの和音や単音の引きのばしと5人の女声があえて同期しないことで、響きによるグラデーションの効果が引き出されている。このような音の引きのばしによるグラデーション効果を狙った書法は前回とりあげた「The Viola in My Life 4」での管楽器と弦楽器にも頻出しているので、記譜法は違うものの「Pianos and Voices」もそれぞれのパートの音色とその響き自体が曲を形成する点でそう遠くない関係にある。独奏ヴィオラの旋律を含む「The Viola in My Life」シリーズと「Rothko Chapel」を除けば、フェルドマンの1970年代の室内楽作品、管弦楽作品ともに、個々の声部の出だしのタイミングのずれと、その内部で生じる微妙な差異そのものを曲の実体とする傾向が見られる。絵画にたとえるならば、背景と対象、つまり地と図の境界の曖昧なマーク・ロスコの全面絵画の構成原理に近いだろう。音の引きのばしを主とするフェルドマンのこの時期の楽曲は一見、平坦で変化に乏しい表層を形成しているが、その表層下には無数の差異が蠢いている。5台のピアノと5人の女声が行き交う「Pianos and Voices」を聴けば、これらの絶え間なく織りなすグラデーションの様子が想像できるはずだ。個々の楽器や声の特性をよく理解し、それらの特徴や魅力を最大限に引き出す効果的な声部配置の技術をオーケストレーションの技術のひとつとするならば、彼の70年代の楽曲のどの側面にフェルドマンのオーケストレーションの特徴が表れているのだろうか。オーケストレーションと作曲とを同一とみなしていたフェルドマンの考え方をさらに掘り下げていこう。

Feldman/ Pianos and Voices (1972)

 フェルドマンは1972年頃の自身のエッセイの中で「“ベルリン時代”の楽曲タイトル[3](Three Clarinets, Cello and Piano; Chorus and Orchestra; Cello and Orchestra; etc.)は単にその曲のオーケストレーションを言っているだけだ The titles from my “Berlin Period” (Three Clarinets, Cello and Piano; Chorus and Orchestra; Cello and Orchestra; etc.)simply state the compositions’ orchestration.」[4]と書いている。バッファロー大学着任の直前、フェルドマンが1971年秋から1年間DAADの奨学金でベルリンに滞在していたのは前回のこの連載で述べたとおりだ。この時期に書かれた室内楽曲や協奏曲風編成の楽曲はフェルドマンにオーケストレーションの意味や役割を再考させるきっかけとなったと推測できる。彼は次のように続ける。

 オーケストレーションとはなんだろう?音楽を聴こえるようにする手段がオーケストレーションの定義なのかもしれない。オーケストレーションは作曲である。他のすべての音楽的なアイディアは最終的にどうでもよくなってしまう――まるごと飲み込まれるか、私たちの足元にある地面のような堆積物へ踏み固められる。

 What is orchestration? The means by which music becomes audible might be a definition of orchestration. Orchestration is composition. All other musical ideas eventually become unimportant—swallowed whole or pounded into sediments like the ground beneath us.[5]

 先の引用と同じく、ここでも彼はオーケストレーションと作曲とをほぼ同一視している。オーケストレーションさえ決まっていれば、曲はできたも同然と言いたげだ。ここで注目したいのは、フェルドマンはオーケストレーションの定義を「音楽を聴こえるようにする手段」と提起していることだ。彼の考えに即して言い換えると、音を概念的な存在から、人間の耳に入ってくる現実的、物理的な存在へと媒介する実践的な手段がオーケストレーションの定義であり役割だとも解釈できる。一聴してなんとも言い難いフェルドマンの音楽は概して抽象的な性質の音楽だが、これまで彼が音のアタックや減衰に注意を払ってきたことを考えると、彼の音楽は実際の響きが聴き手に与える効果に根ざした身体的な性質を持っているともいえる。フェルドマンは自分が実際にどのような方法で音符を書いているのかを具体的に説明しながら、作曲の際の音の物理的、身体的な側面に対する考えを述べている。

 私がピアノで作曲し続ける理由の1つは、ピアノが自分を「イマジネーション」から救い出してくれるからだ。物理的な事実としてひっきりなしに現れる音はある種の知的な白昼夢から目を覚まさせてくれる。音があれば十分なのだ。これらの音を現実のものにする楽器は十分過ぎて辟易してしまう。ところで楽器か音か、どちらが先にやってくるのだろう?ベルリンのテレビ[6]が言うように、これが問いだ。

 One of the reasons I continue to write at the piano is to help me from the “imagination.” Having the sounds continually appearing as a physical fact wakens me from a sort of intellectual daydream. The sounds are enough. The instruments that realize them are more than enough. But what comes first, the instrument or the sound? This, as they say on Berlin television, is the frage (sic.)[7]

 編成がなんであれピアノの前に座り、鍵盤の感触と音を実際に確かめながらフェルドマンは曲を書き進めていく。彼にとってピアノは概念を物理的な事実や存在に具現させる身近な道具だった。ピアノはフェルドマンをイマジネーションから現実に引き戻してくれるのだ。ここでの現実とイマジネーションとの関係は、第10回でとりあげた「音楽の表面」の議論を思い出させる。この議論でフェルドマンは、音楽の表面を作曲家がそこに音を置いていく錯覚とみなし、現実に聴こえる音である聴覚的な地平と区別していた。この議論をふまえると、ピアノを触りながら白昼夢から抜け出した彼は、聴覚的な地平に立って、つまり現実世界の中で音を聴きながら音符を書きつけていたと想像できる。ここでのピアノの音は確かにピアノの音色かもしれないが、彼は特定の楽器の特徴を持たない、無名の単なる音としてこれらの音を扱いたいと思っていたのだろう。まるでコロンブスの卵のような「楽器か音か、どちらが先なのか」をフェルドマンは自問自答し、作曲と楽器との関係からオーケストレーションに対する考えを述べている。

 音楽の長い歴史の中では音が最初にやってきて、楽器にあまり関心が払われてこなかったと思っている。それから音楽が、あるいは「作曲技法」が発展するにつれて、どの楽器を最もうまく用いることができるのか、またはどんな楽器が発明される必要があるのかに、さらに注意が払われるようになった。この新たな役割とともに楽器は作曲に絶対不可欠な側面となった。近年、作曲とはいったいなんなのかという概念が問われ始めるにつれ、楽器の超絶技巧が増長し、忘れられた音や忘れられた曲よりも重要になった。音楽を聴こえるようにする手段という(訳注:オーケストレーションの)私の定義に合致しているように見えるが、これ(訳注:超絶技巧)はオーケストレーションではない。楽器は音かもしれないが、音は楽器ではないはずだ。遠回しにいうと、作曲の専門的な技術であれ、楽器の「可能性」を見せるのであれ、どんな超絶技巧も軌を一にする。どんな超絶技巧もまったく同じだ。近代的な楽器の用法の超絶技巧は音に対する親密さからではなく、作曲から生まれた。

 I think that in the music long past, the sounds came first, and there was not too much concern for the instrument. Then as music, or the “art of composition” developed, more attention was given to what instruments could be best utilized or need be invented. With this new role, the instrument became an integral aspect of the musical composition. As notions about what composition actually is began to be questioned in recent years, the virtuosity of the instrument increased and became more important than either the forgotten sound or the forgotten composition. This is nor orchestration, though it appears to fit my definition: the means by which sound becomes audible. The instrument might be the sound but the sound might not be the instrument. What I obliquely mean is that any virtuosity, whether compositional expertise or in showing what the instrument “can do,” is one and the same thing. That the virtuosity of modern instrumental usage came out of composition and not out of a closeness to sound.[8]

 作曲技法の発展が楽器の発明や改良を促し、それに応じて超絶技巧(virtuosity)も発展してきた。今や超絶技巧が音の響きや作曲行為を押しのけているのだとフェルドマンは批判している。彼はこのような状況を演奏技術が楽曲に従属していると捉えていたのかもしれない。オーケストレーションを「音楽を聴こえるようにする手段」と定義するフェルドマンは、楽器演奏による超絶技巧ありきのオーケストレーションに対して否定的な立場を取っている。彼は音楽における楽器の存在や役割と、楽器(場合によっては声も)から生じる音とをわけて考えている。ここから導き出された暫定的な結論は「楽器は音かもしれないが、音は楽器ではないはずだ。」と、音と楽器との非対称性を認めている。この非対称性は「楽器か音か、どちらが先なのか」の問いにもつながるだろう。これまで参照してきた言説を振り返ると、このような二者択一や二項対立の疑問が生じた場合、どちらでもない「カテゴリーの間 between categories」の立場を取るのがフェルドマンの流儀に近い。だが、このエッセイの後の段落でのフェルドマンの態度はいつもと違った。彼は「私がを選んだわけではなくて、その音が選んだ楽器が曲(訳注:Pianos and Voices)になった。こういうわけで、自分の音楽の多くでは音高もリズムも自由にできたのだ。その曲の“オーケストレーション”… The choice of mine was not the sound but the sound’s preference for certain instruments became the composition. This is why I could then leave either the pitches or rhythms free in so much of my music. The composition’s “orchestration”[…][9] 」と、あたかも作曲者である自分が楽器を選んだのではなく、曲中の音に楽器を選ばせたのかのようなそぶりを見せる。実際のところ、どのような楽器を用いるかは作曲家が決める。しかし、ここでのフェルドマンは人知を超えたある種の降霊術のような機能を音に期待していたのかもしれない。この段落は途中で切れたまま掲載されているので「その曲の「オーケストレーション」The composition’s “orchestration”」以降、どのような論が展開されたのかを知ることができないが、1986年7月に行われた講義を参照して楽器、音、音色の関係に対するフェルドマンの考えをさらに見ていこう。

音色に常につきまとっていた問題のひとつは、本質的に平坦な音楽であろうと、音色が、ひとつの楽器と別の楽器との時間の隔たりによる幻影を作り出すことです。私は幻影としての音では作曲できません。ご存知のように、もしもその音が特定の音域から生じているなら、その音がその音域から鳴っているかのように聴こえないといけないのです。恣意的にはなり得ません。その音符はその音域、そのダイナミクス、その楽器でしかよく鳴り響かない音符にならないといけません。したがって、ここでは然るべきタイミング、然るべき音域、然るべき楽器で音符を選ばないといけません。言うならば、それは全てが一体となった状態です。

One of the problems that always had with Klangfarben is that it created an illusion of time space between one instrument and another, when essentially it was flat music, and I cannot work with sound as illusion. If it comes from a certain register it has to sound as if it’s from that register, you see. It can’t be arbitrary. The note has to be a note that sounds only good in that instrument in that dynamic in that register. So the choice of notes here has to be for the right instrument in the right register in the right time. Alles zusammen, as they say down there.[10]

この講義の中でもフェルドマンは音の幻影よりも実体に即した音の物理的なあり方を重んじ、音の優位性をさらに強調している。上記の日本語訳では原文中の“sound”を音の響きの意味での「音」、“note”は楽譜に記された音の意味での「音符」とした。「音」(この時点ではどの楽器のどのような音色かは決まっていない)が現実の世界に鳴り響く契機または手段としての「音符」に変換される時、そこに恣意性の入り込む余地はなく、音色、ダイナミクス、タイミングといったあらゆる要素が必然性を持ち、それらが一体となった状態を目指さないといけない。これがここでのフェルドマンのおおよその主張である。フェルドマンが音に抱く理想はどれくらい自身の楽曲の中で実現されていただろうか。1960年代の楽曲を振り返ってみると、室内楽曲が多かったこの時期はフルート、ホルン、チューバ、ヴィオラ、チェロ、チャイム、ヴィブラフォン、チェレスタ、ピアノが特によく登場し、「Durations 3」(1960)のようなヴィオラ、チューバ、ピアノという風変わりな編成もよく見られた。このような風変わりな編成もフェルドマンが考えるところの、その音の必然性から引き出されたものなのだろう。

 今までの引用からフェルドマンのオーケストレーションにまつわる問題意識として、作曲過程における概念上の音、楽器とその音色、演奏技術(フェルドマンは超絶技巧を避ける傾向)の3つの事柄が浮かび上がってきた。これら3つは1970年代の楽曲の中でどのような問題を投げかけ、楽曲として具現化されているのだろうか。次のセクションでは独奏楽器と管弦楽による協奏曲風の楽曲について考察する。


[1] 「Pianos and Voices」の当初のタイトルは「Pianos and Voices 2」だった。この曲に先立って作曲された同じ編成(5台ピアノと5人の女声)の曲のタイトルは「Pianos and Voices 1」だったが、後に「Five Pianos」に改題されたため、「Pianos and Voices 2」が繰り上がって「Pianos and Voices」となった。
[2] Feldman, Handschriftlicher Entwurf eines Einführungstextes zu Pianos and Voices (1972), Morton Feldman Archives, State University of New York at Buffalo (unpublished), Claren, Neither:Die Musik Morton Feldmans, Hofheim: Wolke Verlag, 2000, S. 93からの引用。英語による原文は未公開のため、Clarenによるドイツ語訳を引用した。
[3] フェルドマンのベルリン時代 (1971秋-1972秋)の楽曲:Chorus and Orchestra 1(10 Dec. 1971), Cello and Orchestra (19 Jan. 1972), Five Pianos (31 Jan. 1972), Piano and Voices (13 Feb. 1972), Composition for 3 Flutes (5 Mar. 1972), Voices and Instruments (Jun. 1972)、Chorus and Orchestra 2 (May-Jul. 1972), Voice and Instruments (Oct. 1972, バッファローで完成した)
[4] Morton Feldman, Give My Regards to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman, Edited by B. H. Friedman, Cambridge: Exact Change, 2000, p. 205
[5] Ibid., p. 205
[6] ここで言及されている「ベルリンのテレビ」とは、フェルドマンがベルリン滞在時に当地で放送されていたテレビ番組での決まり文句だと推測されるが詳細不明。
[7] Ibid., p. 206
[8] Ibid., p. 206
[9] Ibid., p. 207 ここで文章が切れたまま掲載されている。
[10] Morton Feldman, Words on Music: Lectures and Conversations/Worte über Musik: Vorträge und Gespräche, edited by Raoul Mörchen, Band Ⅰ&Ⅱ, Köln: MusikTexte, 2008, p. 216

吉池拓男の名盤・珍盤百選(32) 一人芝居「さびれた音楽工務店の情景」 ~イタリアのへんなやつ2~

COMPOSIZIONI OSSESSIVE  Marco Falossi(p)  VELUT LUNA  CVLD 184 2009年
romantic pieces for piano Igor Roma(p)  Challenge classics CC72154  2006年
ENCORES  Igor Roma(p)  STEMRA IR2 2009年

○どこの町にもありそうな小さな工務店
 ただし、机の上には設計図ではなく楽譜や五線紙が散乱している
 どうやら“音楽工事”を請け負う特殊な工務店のようだ
 ヲタクっぽい営業担当のおっさん(吉池主任)がお客さんの電話に対応している

(♬電話着信音~)

『はいは~い、こちらはサクサク改作、貴方のミュージックライフを斬新リノベーションの伊太利音楽工務店でございます。はぁ? いやいや、カ・イ・ザ・ンではなく、カ・イ・サ・ク、改作を承っております。私、改作推進部営業の吉池と申します。移調、短縮、左手用、連弾化などなどお客様のご希望の工事を縦横無尽に承っております。本日はどういった改作工事のご要望でございましょうか? はい……はい……えっ、それは難題ですなぁ。ショパンと映画音楽が大好きで多忙なリスナーに超効率的に楽しめる音楽を提供したいと。ほぉほぉ、なるほど……うん、お任せください! 弊社にはそんじょそこらの工事業者を超えた発想と力量を有する選りすぐりの職人が在籍しております。このお仕事ですと……適任がいますよ。名前はMarco Falossiと言います。え、聞いたことない。いやいや、彼は楽譜絵師として知る人ぞ知る存在、大作「モーツァルト」をはじめ、最近では「ピアノ」とか「フォーク」などを仕上げておりますよ。その楽譜絵で培った匠の技でご要望にお応えいたしましょう。で、映画音楽はどのような曲をご希望で? はい……はい……シンドラーのリスト、チャップリンのライムライト、そういったあたりですね。で、ショパンは…あ、おまかせですね。わかりました。早速、Falossiに取り掛からせますので、どうぞご安心ください。では完成しましたらご連絡いたします。伊太利音楽工務店、吉池が承りました。』

  ~a few days later~

COMPOSIZIONI OSSESSIVE  Marco Falossi(p) 

『お客様、お待たせいたしまた。弊社ならではの合体工事で最高の効率化を実現いたしました。タイトルは「ショパンの変装」。「変奏」ではないですよ、「変装」です。ショパンは練習曲op.10-6をセレクトさせていただきました。どうです。ご希望の映画音楽たちとショパンを同時に演奏してしまうという最高度の効率化合体工法をご提示させていただきました。如何ですか?……えっ……はぁ……ただ同時に弾いてるだけで、いまいち調和していない? どこが楽譜絵で培った実力なのかわからない? しかも弾くのが難しすぎる? いやいやいやいや、お好きな音楽をいっぺんにお楽しみいただける弊社自慢の仕上がりですよ。まさに職人Falossiの真骨頂。ん~~~、そうだ、職人Falossiの別の作品「強迫的な作品」をサービスでお付けしましょう。いやいやそうおっしゃらず、お受け取り下さい。ええいっ、「情緒不安定な作品」「雄弁な作品」「修辞的な作品」「不確実な作品」「退行した作品」「無意味な作品」などもドドンとまとめて35曲お付けしましょう。ニクいね旦那、もってけドロボー。テレフォンショッピングでも滅多にお目にかかれない大盤振る舞いですよ。どうですか。え、そんな面倒くさいタイトルのゲンダイオンガクはなんぼあっても疲れるだけ? いやいやお客さま、お客さま、そうおっしゃらずに、ぜひぜひご笑納をっ、毎度のご贔屓をっ……』

○どこの町にもありそうな小さな工務店
 前回の受注からしばらくたったある日の午後
 ニッチ過ぎる業種のせいか、ヒマで眠そうな営業担当。
 そのとき、久々の電話が鳴り響く。

(♬電話着信音~)

『ふぁいふぁ~い、こちらはサクサク改作、貴方のミュージックライフを斬新リノベーションの伊太利音楽工務店でございます。ほぁ? あのですね、カ・イ・ザ・ンではなく、カ・イ・サ・ク、改作ですってば。私、改作推進部営業の吉池と申します。移調、短縮、左手用、連弾化などなどお客様のご希望の工事を縦横無尽に承っております。本日はどういった改作工事のご要望でございましょうか? はい……はい……えっ、それは超難題でございますな。かの魔神Hお得意のモシュコフスキ作品に魔神がビビるくらいの難化工事を施してほしいと。うううむ、難化による魔神超えですか……これは、お高くつきますよ。え、音の量には糸目をつけないと。これは頼もしいお言葉。わかりました。弊社にはうってつけの職人がおります。名前はIgor Romaと申します。え、聞いたことがない。ま、そうでしょうね。これまで50年以上の人生で作品集は2回しか発表しておりません。とにかく指さばきとキレ味ならば当代随一の匠でございます。モシュコフスキはどれを? 火花op.36 no.6と練習曲ヘ長調op.72 no.6ですね。お客さん、攻めますねぇ。魔神Hの十八番中の十八番じゃないですか。ようございましょう。早速仕事に取り掛からせていただきますので、どうぞご安心ください。では完成しましたらご連絡いたします。伊太利音楽工務店、吉池が承りました。』

 ~a few days later~

ENCORES 
Igor Roma(p) 

『お客様、お待たせいたしまた。弊社渾身の難化工事で前人未到の世界を構築いたしました。まずは火花 op.36 no.6。最初の32小節とそれの繰り返しは素晴らしく快速なだけで特に施工はしておりません。そこ過ぎたあたりから左右にナイスなアタックを入れ始め、36秒目くらいからは右手の原曲にある8分音符を消し、職人Romaお得意の急速な16分音符(もしくはそれ以上)の暴走乱発つむじ風状態といたしました。これぞ弊社が自信もってお届けする難化工事の極み。お客様のご要望通り右手の音数はトンデモなく増幅され、魔神H越えを実現しております。で、ラストはジャズコードを使ったなかなかオトナの仕上がりにさせていただきました。続きましては練習曲ヘ長調 op.72 no.6。どうです、この音増量。お客様の創造をはるかに超えた世界を実現させていただきました。ほぼ音数倍増の特種難化工事と自負しております。もちろん火花のラストで装飾いたしましたジャズテイストは今回は中ほどで披露させていただいています。……え?……はぁ……いくらなんでもやりすぎだと。これではとても常人では弾くことができないと。いやぁ。そうは申されましても、希代の指さばき職人Romaの技ですのでこれくらいはご勘弁いただかないと。納品に際しては火花のライブ動画仕様書、練習曲のライブ動画仕様書はお付けしましたので再度ご確認ください。

romantic pieces for piano
Igor Roma(p)

そうだ、サービスでRomaの若いころの作品集「romantic pieces for piano」から難化工事を施したアルカンのサルタレッロop.23をお付けしますよ。もちろんアルカンですから原曲は急速な上に同音連打が多くてかなり難しい8分の6拍子の舞曲です。冒頭から20秒間はアルカンの原曲のままにしてありますが、それが繰り返される所から音を分厚く加え、なんじゃこれ!の世界を開陳させていただいています。しかも急速なテンポはひるまず保ち、アルカンの狂気を孕んだイタリア舞曲をキレ良く快走。曲の進行はほぼ原曲通りで、ラストはヴォロドスのトルコ行進曲とほぼ同じ和音連打瀑布。見事な施工でしょう?どうです?……え……原曲が無名すぎて「これが難化です」と言われてもピンと来ない? 誰も知らない曲ですごいでしょと言われても困るって? いやいやそうおっしゃらずに、ひとつよろしくお願いしますよ。そうだ、Romaの新作、ラテンナンバー工法を大胆に使用した超拡大版バッハ=シロティ前奏曲ロ短調もお付けしましょう。Romaが一人二役で施工しまくったダブル難化工事の名作ですよ。さあ、ぜひお受け取りを。お客さん?お客さん? もしもーし、もしもーーし。ではでは、イタリアン・ポルカの連弾難化工事もオマケしちゃおうかな。もしもーし、もしもーーーし、お客さ~~んっ……』 

○吹きすさぶ寒風、飛び散る五線紙、そこはかとなく漂う倒産の予感

【紹介者略歴】
吉池拓男
元クラシックピアノ系ヲタク。聴きたいものがあまり発売されなくなった事と酒におぼれてCD代がなくなった事で、十数年前に積極的マニアを終了。現在、終活+呑み代稼ぎで昔買い込んだCDをどんどん放出中。

あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(11) 1970年代前半の出来事と楽曲-3

文:高橋智子

3 フェルドマンの新たな境地 The Viola in My Life 1-4

 1970年から1971年にかけて作曲された4曲からなる「The Viola in My Life」は1970年代の楽曲の中だけでなく、フェルドマンの楽曲全体を見渡してみても特殊な位置にある作品だ。この当時のフェルドマンの楽曲には珍しく、「The Viola in My Life」では明確に認識できる旋律が登場する。フェルドマンはこれまでに1947年に作曲した独唱曲「Only」や、1950年代、60年代に手がけたいくつかの映画や映像の音楽でも旋律のある曲を書いてきたが、旋律ともパターンともいえない概して抽象的な作風が彼の本分とみなされてきた。だが、1970年に入るとフェルドマンは五線譜の記譜に戻り、「The Viola in My Life」1-4を書いて叙情的な旋律を惜しげもなく披露する。前のセクションで解説した1970年代の楽曲のおおよその傾向を思い出しながら「The Viola in My Life」1-4がフェルドマンの作品変遷の中でどのような位置にあるのかを見ていこう。

 ポール・グリフィスによるインタヴューでタイトル「The Viola in My Life」について訊ねられたフェルドマンは「それが単にすてきなタイトルだと思ったからです。I thought it was just a pretty title.」[1]とだけ答えている。また、独奏楽器としてヴィオラを選んだ理由も特にないと言っている。[2]ここでのフェルドマンの受け答えは実にそっけないが、当時、彼がヴィオラ奏者のカレン・フィリップス[3]と親しくしていたことが独奏パートとしてのヴィオラに関係している。[4]フェルドマン自身によるプログラムノートによると、ハワイ大学での講義のために滞在していたホノルルで1970年7月に「The Viola in My Life」の作曲が始まった。[5]楽曲の特徴については次のように解説されている。

楽曲の形式はとても単純だ。私の大半の音楽と異なり、「The Viola in My Life」の全曲は音高とテンポに関して慣習的な方法で記譜されている。ヴィオラが鳴らすミュートされた全ての音特有の、ゆるやかで微かなクレシェンドの根底にある正確な時間のかたちが私に必要だった。このような側面が音の出来事のリズムによる連続性を決定づけた。

1958年以来(ミニマル絵画の一側面とたいして違わず)、私の音楽の表面は非常に「平坦」だった。ヴィオラのクレシェンドは、行き交う音楽的な着想の相互作用によって決められる音楽の展望ではなく――むしろ限られた風景の中で鳥が羽ばたこうとしている様子にも似た、音楽の展望に再び夢中になったことを意味する。

The compositional format is quite simple. Unlike most of my music, the complete cycle of The Viola in My Life is conventionally notated as regards pitches and tempo. I needed the exact time proportion underlying the gradual and slight crescendo characteristic of all the muted sounds the viola plays. It was this aspect that determined the rhythmic sequences of events.

 Since 1958 (not unlike an aspect of minimal painting) the surface of my music was quite “flat.” The viola’s crescendos are a return to a preoccupation with a musical perspective which is not determined by an interaction of corresponding musical ideas—but rather like a bird trying to soar in a confined landscape.[6]

 「The Viola in My Life」1-4の全てのスコアは、テンポ、拍子、音高、音価(音の長さ)、ダイナミクスといった音楽のパラメータが五線譜で具体的に記されている。とりわけフェルドマンは、クレシェンドを用いたダイナミクスの操作から引き出される音の微妙なカーヴ(文中では「正確な時間のかたち」と呼ばれている)に着目した。音楽においてテンポ、拍子、小節は時間と関わり、時間に規定されている。フェルドマンはクレシェンドを事細かく書き記して、ダイナミクスをも音楽的な時間に関係させようとしたのではないだろうか。1960年代の自由な持続の記譜法の楽曲では、拍子記号や音符では正確に記すことのできない音楽的な時間を具現するものとして、音の減衰が重んじられてきた。「普通の」五線譜に戻った今、フェルドマンは音の減衰だけでなくダイナミクスそのものを掌握し、「平坦」といわれてきた自分の音楽の表面にグラデーションのような効果を加えようとした。だが、ここで求められているのは拍子と小節によって明確に規定された範囲内での微妙なゆらぎである。これまでのフェルドマンの楽曲、例えば前回解説した「Between Categories」は2つのアンサンブルの交わらない時間を敢えて描くことで、不確定で不安定な要素を音楽のどこかに残していた。しかし、ここでの鳥のたとえからわかるように「The Viola in My Life」にはそのような不安定で不確定な要素が入り込む余地はない。

The Viola in My Life 1

 これまでのフェルドマンの楽曲とは異なり、「The Viola in My Life」1-4には音高や音価に関して不確定な要素は一切なく、「開かれた」要素が希薄だ。「The Viola in My Life 1」の編成は独奏ヴィオラ、フルート、ヴァイオリン、チェロ、ピアノ、打楽器(テナードラム、大太鼓、ティンパニ、テンプル・ブロック、ウッドブロック、ヴィブラフォン、グロッケンシュピール)の6人編成。ヴィオラ以外の各パートも奏者は1人だが、このシリーズではヴィオラを独奏パートとみなし、他のパートとは違う特別な地位にあることが明示されている。独奏ヴィオラ、ヴァイオリン、チェロは終始ミュート(弱音器)をつけて演奏する。UE(Universal Edition)のスコアに記載された演奏時間は9分45秒。テンポは二分音符1つ=58で曲の最初から最後まで変わらないが、拍子は不規則に変化する。曲の様相の変化に応じて全体を次の10の部分に区切ることができる。これらは音楽の形式的な区切りというよりも、それぞれの部分で完結している絵本や紙芝居の1ページごとの場面の感覚に近い。

1: mm. 1-19
2: mm. 20-38
3: mm. 39-50
4: mm. 51-71
5: mm. 72-85
6: mm. 86-92
7: mm. 93-98
8: mm. 99-108
9: mm. 109-124
10: mm. 125-126

Feldman/ The Viola in My Life 1

score https://www.universaledition.com/morton-feldman-220/works/the-viola-in-my-life-1-5335

 たとえ通常の五線譜で記譜されていようと、やはりフェルドマンの曲なので「The Viola in My Life 1」も一聴、あるいはスコアを一見してもよくわからない。ここではヴィオラと他のパートとの関係に注目して曲の内容を見てみよう。先に引用したフェルドマンによる楽曲解説のとおり、ヴィオラのすべての音にクレシェンドとデクレシェンドが記されている。ここでのヴィオラは他のパートと同じく1-3小節分の長さで音を引きのばすだけなのだが、ダイナミクスの変化がこれらのフレーズに旋律のような感覚をもたらす。上記の区切りの1-3まではヴィオラによる音の引きのばしに他のパートが続くという、おおよそのパターンに基づいている。このパターンに基づいた平坦なテクスチュアがしばらく続くなか、不意に聴こえてくるチェロのピツィカートによる断片がテクスチュアに変化と驚きをもたらす。例えば、曲が始まってすぐの3小節目にピツィカートで鳴らされるアルペジオは特に注意を引く。また、他のパートの音が鳴らない箇所に随時挿入される打楽器類のトレモロやロールも、この平坦なテクスチュアに異質な要素をもたらす。これらの打楽器を音の陰影のようなイメージとして解釈することもできるだろう。

 3番目と4番目の場面の境界にあたる50小節目の最後にヴィオラがピツィカートでアルペジオを鳴らすと曲が少し動き出す。これまでは同じ音を引きのばすだけだったヴィオラが上行形のパッセージを鳴らし始め、聴き手は旋律に近い音のまとまりを感じることができる。59-61小節目のヴィオラのパッセージ(D3-F3-E4-G♭4-C5-E♭5)は、その直後に65-69でフルート(D4-A4-G#5-D6)に引き継がれる。音の鳴り響きとスコア両方に関して、ここでのヴィオラとフルートに類縁性を見出す理由として、ヴィオラのG♭4-C5とフルートのG#5-D6が増4度と減5度で転回音程の関係をなしていることがあげられる。加えて64-70小節の息の長いヴィオラのパッセージもD#4-G4による減4度を含むため、ここでは増減音程特有の響きがさらに強く印象付けられる。

 6番目の場面(84小節目)からはピアノとヴィブラフォンを中心とした新しいパターンが現れ、ヴィブラフォンのC#4を伴ってピアノは装飾音A5とB4-F#5のパターンを4回繰り返す。このピアノにヴィオラはG3で、チェロはピツィカートのF5でその都度反応する。ピアノのこの短いフレーズは「The Viola in My Life」シリーズの直前の1970年7月に作曲された「Madame Press Died Last Week at Ninety」で既に用いられている。

Feldman/ Madame Press Died Last Week at Ninety (1970)

 7番目の場面(93-98小節)でもさらに曲の様相が変わり、ヴィブラフォン、ピアノ、ヴァイオリン、チェロに続いてヴィオラが、そして少し間を置いてフルートがA♭5を鳴らすパターンを3回繰り返す。8番目でも新たなパターンへと変化し、チェロ、ヴィオラ、ヴァイオリンの順に受け渡されるパターンが繰り返される。ここからは拍子が3/8で一定しているので規則的なリズムの感覚も微かに生じる。9番目の場面(109-124小節)は6と8番目を合体させたパターンで構成されている。ピアノは6番目にも出てきた装飾音と和音、ヴィオラは8番目と同じ音型、フルートは8番目のA♭5より1オクターヴ低いA♭4を鳴らす。ヴァイオリンとチェロのピツィカートはピアノの和音を1拍目と3拍目で縁取るかのように配置されている。最後となる10番目の場面(125-126小節)でグロッケン、ピアノ、チェロが一斉に和音を鳴らすと、ヴィオラが開放弦でE♭3とG3の2音を鳴らし、思わせぶりな仕草で曲が終わる。

 1960年代の楽曲と同じく「The Viola in My Life 1」でも以前出てきたパッセージが不意に再び現れる手法が取られていることがわかった。「The Viola in My Life 1」ではヴィオラに独奏パートとして特別な地位が与えられているが、演奏者6人による比較的小規模な室内楽編成のため、時にピアノなど他のパートが楽曲の中心を担う場面も見られる。続く「The Viola in My Life 2」ではヴィオラと他の楽器はどのような関係を築いているのだろうか。

The Viola in My Life 2

Feldman/ The Viola in My Life 2

 「The Viola in My Life 2」は独奏ヴィオラとフルート、クラリネット、チェレスタ、打楽器(ヴィブラフォン、ティンパニ、カスタネット、マラカス、スネアドラム、テナードラム)、ヴァイオリン、チェロの合計7人の奏者による室内楽編成。1番と同じく独奏ヴィオラ、ヴァイオリン、チェロは終始ミュートを着けて演奏される。スコアに記載されている演奏時間は約10分。楽曲の冒頭にはテンポと全体的な曲想「♩=c 66極めて静かに。全てのアタックはビートの感覚を出さず最小限に抑えて。♩=c 66 Extremely quiet, all attacks at a minimum with no feeling of a beat.」[7]が記されている。先の「The Viola in My Life 1」ではダイナミクス記号は独奏ヴィオラのパートに限られていたが、「The Viola in My Life 2」ではヴィオラ以外のパートにもダイナミクスが細かく記されている。

 曲全体を区切ると9つの場面に分けられる。1-4(1-99小節)の場面までは3/4拍子で一定しているが、5(100小節目以降)からはヴィオラの旋律のゆらぎや、合間に挿入される全休符での沈黙の時間の長さに伴って拍子が目まぐるしく変わる。

1: mm. 1-23
2: mm. 24-34
3: mm. 35-57
4: mm. 58-99
5: mm. 100-117
6: mm. 118-129
7: mm. 130-138
8: mm. 139-173
9: mm. 174-187

 ダイナミクスの他に「The Viola in My Life 1」と異なる点として、それぞれのパートの役割がより明確になっていることがあげられる。このことはスコアの譜表の配置にも反映されている。「The Viola in My Life 1」ではヴィオラは弦楽セクションの一部として配置されていたが、「The Viola in My Life 2」ではヴィオラは独奏パートとして譜表の最上段に記されている。譜表の配置は些細な事柄かもしれないが、このことから、ヴィオラの独奏パートとしての性格が「The Viola in My Life 2」においてさらに強まっていると考えられる。

 ヴィオラ以外のパートの性格と、それらによって生み出される音楽的な役割と効果もここでははっきりしている。Saxerはこの曲の1ページ目が3つの層で構成されていると指摘する。1つ目は「絶えず動き続ける弦楽器の持続音 durchgeende, dynamisch bewegt Haltetöne der Streicher」[8]、2つ目は「フルート、クラリネット、カスタネットによるパターン Pattern aus Flöte, Klarinette und Castagnetten」[9]、3つ目は「ヴィオラの独立した旋律 individualle Melodik der Viola」[10]。これら3つの層によるテクスチュアは1-4(1-99小節)まで概ね変わらない。さらに細かく各パートの動きを見て行くと、ヴァイオリンとチェロはSaxerの指摘どおり音の引きのばしによる持続音で構成されている。だが、「The Viola in My Life 1」と同じく時折チェロがピツィカートを鳴らし、持続音によるテクスチュアとは異なる音色をここに加える。例えば、27-41小節目でのチェロはピツィカートでトレモロを鳴らして打楽器のような効果を出している。84-93小節目でもチェロのピツィカートが現れる。ここでは先ほどの打楽器的な効果とは違い、ヴィオラの旋律を思い出させるゆるやかな音型を作っている。

 木管楽器、すなわちフルートとクラリネットに関していうならば、この2つの楽器はSaxerの指摘どおり一対としてパターンを形成している。フルートの持続音に数拍遅れてクラリネットが追従するパターンはスコアでも耳でも把握しやすい。5番目の場面が始まる箇所からしばらく(100-115小節)、「The Viola in My Life 1」のピアノに、そして「Madame Press Died Last Week at Ninety」にも用いられているパターンと同じパターンが音高を変えてフルートで6回繰り返される。もしも「The Viola in My Life 1」を知っていれば、このフルートのパターンから「The Viola in My Life 1」の記憶が一瞬よみがえるような錯覚に陥るかもしれない。

 打楽器の用法も独特だ。この曲でフェルドマンはカスタネットとマラカスのトレモロを頻繁に用いている。今までのフェルドマンの楽曲の中でこれほどカスタネットとマラカスが聴こえてくる曲は他にない。カスタネットとマラカスに限らず、この曲ではスネアドラム、テナードラム、ティンパニのロールが頻繁に現れる。多くの場合、これらは他のパートに呼応して鳴らされるが、音色の性質上、他の楽器に埋もれることなく強い印象を与えている。

 ヴィオラは「The Viola in My Life 1」よりも息の長いフレーズを奏でる。ここでの一連のヴィオラは旋律といってもよいだろう。この曲ではヴィオラが、木管楽器による反復パターン、弦楽器の持続音とたまに聴こえるチェロのピツィカート、チェレスタの和音、打楽器類のトレモロやロールといったあらゆる要素から抜きん出た存在として扱われているのはたしかだ。旋律とその他のパートというはっきりした関係がヴィオラとその他のパートの間で構築されているともいえる。これまでのフェルドマンの楽曲を振り返ると、各パートや声部間の関係が判然としない楽曲が多くを占めたが、「The Viola in My Life 2」は多層的でありながらも比較的わかりやすい構成でできている。

 独奏ヴィオラによる旋律とそれぞれの楽器の層からなる関係は8番目の場面(139-173小節)から一変する。ここからはチェロの伴奏にのせてヴィオラが旋律を奏でる(この旋律は後に「Rothko Chapel」(1971)の独奏ヴィオラにも登場する)。時折スネアドラムが挿入されるが、ここはヴィオラとチェロの二重奏といってもよいだろう。チェロはF3-G2の2音パターンと、D3-C#4-F4のアルペジオをヴィオラの伴奏としてピツィカートで鳴らす。曲の最後となる9番目の場面(174-187小節)からヴィオラのパートナーはヴィブラフォンに変わる。ここからはヴィオラは旋律ではなく、先ほどチェロが鳴らしていたアルペジオと同じ和音D3-C#4-Fを鳴らす。その直前まで劇的な盛り上がりを見せたヴィオラの旋律が姿を潜め、曲の終わりへゆっくり着地する筋書きだ。これまでこの連載ではフェルドマンの音楽を概して「何とも言い難い」と表してきたが、「The Viola in My Life 2」を見る限りもはやそれは当てはまらない。フェルドマンは物語性さえも感じさせるロマンティックな音楽を書いている。

The Viola in My Life 3

 「The Viola in My Life 3」はヴィオラとピアノの編成。スコア記載の演奏時間は6分10秒。前の2曲が6〜7人の奏者による室内楽だったのに対し、編成も曲の長さも急に縮小する。曲の構成も単純で、半音階的な和音を中心としたピアノ伴奏にのせてヴィオラがダイナミクスを変化させながら持続音を弾く。前の2曲にも登場したヴィオラによるゆるやかに上行、下行する音型も登場する。ヴィオラは持続音の合間に2/3拍子、8分音符で記された12音(G♭3-C4-B3-E4-E♭-C#4-D4-A♭-C5-E5-A5-B5)からなる特徴的なパッセージを3回奏でる。ひと筆書きのように演奏される、音域の広いこのパッセージは増4度(G♭3-C4)と減5度(D4-A♭)を含んでいるせいなのか、聞き流そうとしても印象に残ってしまう奇妙な性格を持つ。実はこのパッセージは既に「The Viola in My Life 2」の83、105小節目に登場している。

 曲中のヴィオラ、ピアノともに全休符の小節は全てテンポ♩=66、2/2拍子で統一されている。このように音の鳴らない時間と空間も具体的に規定することで、フェルドマンは測られた沈黙の状態をここに作り出している。また、不意に現れる全休符による沈黙はヴィオラの持続音が旋律に発展するのを邪魔しているようにも見える。「The Viola in My Life」シリーズは全体的に旋律の性格が強い楽曲だが、フェルドマンは思いだけないタイミングで沈黙を挟むことによって連続する感覚を希薄にしようとしたのではないだろうか。「垂直」の概念に囚われていた1960年代半ばにも、彼は水平に連続する音楽的な時間の感覚に抗おうとしていた。そのことが今ここでも思い出される。

Feldman/ The Viola in My Life 3

score https://www.universaledition.com/morton-feldman-220/works/the-viola-in-my-life-3-5337

The Viola in My Life 4

 「The Viola in My Life」シリーズの最後となる「The Viola in My Life 4」は独奏ヴィオラと管弦楽による最も大きな編成。スコア記載の演奏時間は20分。シリーズの中で最も長い。管弦楽の編成は木管6部、バストロンボーンも加わった金管5部、打楽器奏者2人、ハープ、チェレスタ兼ピアノ、弦楽という一般的なものである。今度は二手に分かれた打楽器には、1番と2番で目立っていたカスタネットとマラカス等の他にチャイムやアンティーク・シンバルも加わり、「The Viola in My Life 4」ではより幅広い種類の打楽器の音色を聴くことができる。1番、2番と同じく鍵盤打楽器以外の打楽器は大半がトレモロやロールとして現れる。

Feldman/ The Viola in My Life 4

score https://www.universaledition.com/morton-feldman-220/works/the-viola-in-my-life-4-5338

「The Viola in My Life 4」作曲の経緯や、ここでのヴィオラの旋律についてフェルドマンは次のように解説している。

 The Viola in My Life Ⅳは1971年開催のヴェニス・ビエンナーレによる委嘱作品で、この曲に先立つ3つの室内楽曲で用いられた素材の管弦楽への「翻訳」と言えるだろう。私のここでの意図は旋律とモティーフの断片について考えることと―—ロバート・ラウシェンバーグが彼の絵画の中に写真を使うように—―私の楽曲にさらに特徴的な静的な音の世界にそれを重ねることだった。

 多少なりとも「ありきたりな」響きに聴こえそうな曲なのに、そこに形式的な思考が欠けていることは伝わりにくい。

 周期的に現れる旋律は構造的な機能を持たない。この旋律はこの曲に沿って動くものというより「記憶」として戻ってくる。状況は発展というより微かな変化を伴って繰り返す。静止は期待とその実現との間で発展する。夢の中のように、私たちが目を覚ますまでそこから逃れられない。だが、その夢が終わってしまったからというわけではない。

 The Viola in My Life Ⅳ was commissioned by the Venice Biennale for its 1971 Festival, and could be described as an orchestral “translation” of material used in the three chamber pieces preceding it. My intention was to think of melody and motivic fragments—somewhat the way Robert Rauschenberg uses photographs in his painting[11]—and superimpose this on a static sound world more characteristic of my music.

 What is difficult to convey is the absence of formal ideas on what appears to be a more or less “conventional” sounding composition.

 The recurrent melody serves no structural function. It comes back more as “memory” than as something that moves the work along. Situations repeat themselves with subtle changes rather than developing. A stasis develops between expectance and its realization. As in a dream, there is no release until we wake up, and not because the dream has ended.[12]

 ここでフェルドマンが言及しているラウシェンバーグの写真を使った作品とは、新聞や雑誌の写真を溶液やテレピン油に浸水させ、それを擦って紙に転写するトランスファー・ドローイング、あるいはソルヴェント・トランスファーと呼ばれる技法だと推測できる。[13]この技法を用いて写真をフロッタージュのような方法で擦り付けて紙に転写することで、その写真の持っていた元来の意味や歴史が失われる、またはもとのものとは違う存在として浮かび上がる。これも時間、歴史、記憶に関係する異化効果の1つだといってもよいだろう。このような異化効果と記憶の作用は、場合によっては微かに姿を変えて、少し前に現れた旋律や断片が思いがけない箇所で再び突然現れるフェルドマンの音楽と共通している。「The Viola in My Life」1-3を管弦楽に翻訳した「The Viola in My Life 4」は、これら3曲から曲中の素材や断片が引き出され、全体が再構成されている。フェルドマンがここでラウシェンバーグに言及しているとおり、このような構成方法は絵画におけるコラージュやフォトモンタージュに例えることも可能だろう。

 スコアの概要を見ていこう。スコア冒頭に「♩=c 63極めて静かに。全てのアタックはビートの感覚を出さず最小限に抑えて。♩=c 63 Extremely quiet, all attacks at a minimum with no feeling of a beat.」と、テンポと全体の曲想が記されている。テンポが♩=c 66から♩=c 63へとほんの少し遅くなった点以外、この文言は「The Viola in My Life 2」と同じだ。独奏ヴィオラのパートは弦楽セクションの一番上に配置されている。独奏ヴィオラ、金管楽器と弦楽器(ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ)にはミュート装着の指示が記されている。だが、169-175小節の独奏ヴィオラでは、この曲のシリーズの中で初めてヴィオラがミュートを外して演奏する。ダイナミクスに関する表記は、この曲でもほぼ全パートに渡って細かく指示されていて、前の3曲に続いてダイナミクスの変化が楽曲の中で重要視されていることがわかる。めまぐるしく変化する拍子は独奏ヴィオラの持続音と旋律に基づいており、独奏ヴィオラと他のパートとの従属関係はここでも明白だ。

 場面の変化に応じて全体を12に区切ることができる。下線が引かれているのは、「The Viola in My Life 2」118-129小節目の独奏ヴィオラが旋律を奏で、チェロがその伴奏を担う箇所をそっくりそのまま転用した部分である。先に引用したフェルドマンがラウシェンバーグのトランスファー・ドローイングに言及したと思われる楽曲解説を思い出すと、これらの部分は「The Viola in My Life 2」からのコラージュともいえる。

1: mm. 1-22
2: mm. 23-52
3: mm. 53-65
4: mm. 66-83
5: mm. 84-96
6: mm. 97-132
7: mm. 133-168
8: mm. 169-175
9: mm. 176-187
10: mm. 188-234
11: mm. 235-251
12: mm. 252-259
13: mm. 260-278

 「The Viola in My Life 2」でのヴィオラの旋律だけではなく、「The Viola in My Life 4」は前の3つの曲と素材を共有している。あるいは前の3つの曲に由来する旋律やパッセージをこの曲の中に見つけることができる。それぞれのパッセージの初出はどこなのかをいくつか探してみよう。例えば、曲が始まってすぐの独奏ヴィオラによるG5-B♭5-A5-B5の4音(2-4小節目)は、「The Viola in My Life 1」の中で最も息の長いパッセージを構成する67-69小節目の4音C-5-E5-C#5-F5を想起させる。この2つのパッセージは跳躍の幅、つまり各音の間の音程がまったく同じではないものの、どちらも4音の動きが上行-下行-上行による山と谷を描いており、類似する音型とみなしてよいだろう。2番目の場面にあたる23小節目からは独奏ヴィオラが6〜7音からなる上行形のパッセージをその都度、音高を変えて5回繰り返す。これらのパッセージは、音の数や増減音程を含む点で、そのルーツを「The Viola in My Life 2」の58小節目に現れるG♭3-C4-E4-F4-B4-E♭5にさかのぼることができる。もう1つ、「The Viola in My Life 2」からの引用として、105小節目の独奏ヴィオラの12音からなるパッセージ(G♭3-C4-B3-E4-E♭-C#4-D4-A♭-C5-E5-A5-B5)をあげることができる。「The Viola in My Life 2」83小節目の、この印象深いパッセージは「The Viola in My Life 3」にもそっくりそのまま登場することは既に述べた。「The Viola in My Life 4」では、このパッセージが少しずつかたちを変えながら113、154、225、227、229、231、241小節目で鳴らされる。特に225-231では短いスパンでこのパッセージが繰り返されるので、緊張感を伴う劇的な効果が曲にもたらされている。

 独奏ヴィオラ以外にも前の3曲からのコラージュ、あるいは引用が行われている。6番目の場面にあたる97-99小節の間にピッコロがG4-E♭4の、フルートがG5-E♭5のフレーズを2回繰り返す。この2音は「The Viola in My Life」シリーズの前身ともいえる「Madame Press…」からの引用であり、また「The Viola in My Life 2」100-137小節の間でフルートのB5-G#5として何度も繰り返されるフレーズと同類のものである。「The Viola in My Life 4」では曲の後半になるとフルート以外のパートにもこのフレーズが敷衍されていて、151、153小節では他の木管楽器全てとホルン、トランペット、ヴィオラ、チェロがこのフレーズを鳴らす。

 管弦楽の書法については、9番目の場面にあたる176-187小節がこの曲の中で特筆すべき箇所である。チェロの伴奏を伴わない純然たる独奏ヴィオラの直後、オーケストラのトゥッティが突然始まり、E♭-D-G-Fのフレーズがユニゾンで繰り返される。ダイナミクスのppからfffへの変化もあいまって、まるで映画音楽のようでもある。曲の進行と同じく唐突だが、ここで1つ仮説を立ててみよう。この管弦楽の書法は、ユニゾンを基調としながらもいくつかのパートの内声部によって響きにグラデーションがもたらされていること、2拍3連符によるゆるやかな音型、ダイナミクスの細かな変化といった点で、武満徹の「弦楽のためのレクイエム」(1955-1957)の冒頭と類似しているのではないだろうか(奇しくも「弦楽のためのレクイエム」では短いが独奏ヴィオラが入る)。もちろん「The Viola in My Life 4」の作曲に際してフェルドマンが武満の「弦楽のためのレクイエム」を参照していた確証はまったくないし、これまでのインタヴューやその他資料でも触れられていない。さらには、この2人の直接的な交流が始まったのは1977年代後半[14]からなので、1971年の時点でフェルドマンがどれくらい武満の音楽を知っていたのかもわからない。しかし、「The Viola in My Life 4」の176-187小節間に聴こえる響きは「弦楽のためのレクイエム」との何かしらのつながりや共通点を感じさせる。

武満徹/弦楽のためのレクイエム(1957)

 トゥッティでの劇的な身振りを経て、10番目の場面から(189小節目)、再び独奏ヴィオラの旋律が聴こえてくるが、今度は先の9番目の場面のユニゾンのフレーズから派生した3音のフレーズを鳴らすピッコロとフルートが加わる。この3音は2-3小節目の独奏ヴィオラのフレーズとも同じ音型である。今まではピツィカートだったチェロの伴奏形もここで変わり、旋律と伴奏というこれまでの関係がやや複雑になる。11番目の場面以降もこの3音のフレーズは様々なパートに敷衍される。12番目(252-259小節)での独奏ヴィオラとチェロの二重奏を経て、13番目の場面が始まる。274小節目から再び独奏ヴィオラの旋律が始まる。だが、繰り返し聴こえてきた独奏ヴィオラの旋律で静かに幕を閉じるという予想はあっさり裏切られる。283小節目でピアノが和音を強打し、これまでの叙情的な雰囲気が突然断ち切られるのだ。ピアノの和音の響きの中で独奏ヴィオラが力強くA♭4とD3の2音を鳴らし、これに続いてコントラバスがA♭2をひっそりとpppで引きのばして曲が終わる。

 フェルドマンが楽曲解説で述べていたように、「The Viola in My Life」1-3を管弦楽に翻訳した「The Viola in My Life 4」は先の3曲からの引用やコラージュで構成されていることがわかった。フェルドマンには珍しい要素である旋律を前面に出した曲として特殊な楽曲とみなされるものの、「The Viola in My Life 4」は楽曲の長さや協奏曲風の編成の点で1970年以降の彼の音楽の行く末を予示している。

 次回は1970年代中頃から頻繁に見られるようになった独奏楽器とアンサンブルによる協奏曲風の楽曲についてとりあげる予定である。


[1] Morton Feldman Says: Selected Interviews and Lectures 1964-1987, Edited by Chris Villars, London: Hyphen Press, 2006, p. 47
[2] Ibid., p. 47
[3] Karen Ann Phillipsは1942年ダラス生まれのヴィオラ奏者、ピアニスト、音楽教師。1979年頃に演奏活動を休止している。詳しい経歴はMorton Feldman Page https://www.cnvill.net/mftexts.htmのテキスト・リストにある”Karen Phillips- A Chronology”参照。
[4] Ibid., p. 269
[5] Morton Feldman, “I Met Heine on the Rue Fürstemberg,” Give My Regards to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman, Edited by B. H. Friedman, Cambridge: Exact Change, 2000, p. 90
[6] Ibid., p. 90
[7] Morton Feldman, The Viola in My Life 2, UE 15399, 1972
[8] Marion Saxer, Between Categories: Studium zum Komponieren Morton Feldmans von 1951 bis 1977, Saarbrücken, Pfau, 1998, s. 181
[9] Ibid., s. 181
[10] Ibid., s. 181
[11] トランスファー・ドローイング、あるいはソルヴェント・ドローイングの概要は以下のサイトに解説されている。Robert Rauschenberg Foundation https://www.rauschenbergfoundation.org/art/lightboxes/transfer-drawings
滋賀県立近代美術館 http://www.shiga-kinbi.jp/db/?p=11967
[12] Feldman 2000, op. cit., pp. 90-91
[13] 前掲の滋賀県立美術館の解説を参照した。http://www.shiga-kinbi.jp/db/?p=11967
[14] 1977年に武満徹はバッファロー大学に招かれて講演を行い、彼の曲も演奏された。フェルドマンは東京で行われたインター・リンク・フェスティヴァルのために1985年に来日し、武満と対談を行った。

高橋智子
1978年仙台市生まれ。Joy DivisionとNew Orderが好きな無職。
(次回は3月18日更新予定です)

あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(11) 1970年代前半の出来事と楽曲-2

文:高橋智子

2 1970年代の楽曲の主な特徴

 同じニューヨーク州内とはいえ、人口密度の高い大都市ニューヨーク市から、ナイアガラの滝に接するバッファロー市への引越しはフェルドマンの人生に劇的な変化をもたらしたと想像できる。この環境の変化は彼の音楽にも大きく影響し、とりわけ曲の長さや編成に反映されている。1972年にバッファローに拠点を移したフェルドマンの音楽の新たな境地はどのように受け止められたのだろうか。ニューヨーク時代のフェルドマンのかつての教え子で作曲家のトム・ジョンソンは、1973年2月14日にカーネギー・ホールで行われたバッファロー大学のThe Center of the Creative and Performing Artsの演奏会評を『Village Voice』に寄稿している。この演奏会ではフェルドマンの「Voices and Instruments 2」が演奏された。

 とても柔らかなこの曲(訳注: Voices and Instruments 2)は独立した音と和音で構成されていて、その大半が引きのばされており、いわゆる旋律やリズムにまつわる着想はない。音高と音色は注意深く選び抜かれていて、そこから生じた絶えず揺れ動く響きがこの曲での重要な事柄だ。この曲ではアンサンブルはフルート、2人のチェロ、コントラバス、曲の大部分を高音域のハミングで歌う3人の歌手で構成されている。

 この新しい曲はフェルドマンの典型的な楽曲よりもかなり長いのだが、1つの感覚を最初から最後まで維持するというよりも、曲の性格を著しく変化させている。ある箇所では、1つの和音が、その和音の構成音が再び変化するまでしばらく引きのばされる。1つか2つのパートがしばらく演奏しない時もある。この曲の響きの感覚も曲中の別の箇所では違っているように見える。だが、これらの変化は極めて微かだったので、一度聴いただけでは指摘できない。

 今ではフェルドマンはさらに長い形式へと移っていて、時間に対する彼の鋭敏な感覚、響きと音色に対する絶妙な(ぎりぎりの)操作はこれまで以上に目を引いた。フェルドマンを一風変わった細密画家とみなしていた人々は再考を迫られるだろう。

The piece is very soft and consists of individual notes and chords, mostly sustained, without any melodies or rhythmic ideas, to speak of. The pitches and colors are carefully chosen, and there is great concern for the constantly fluctuating harmonies which result from them. In this case, the ensemble consists of flute, two cellos, bass, and three singers who hum, mostly in the upper register.

 The new piece, however, is much longer than the typical Feldman piece, and it changes character noticeably, rather than maintaining one feeling from beginning to end. At one point, a single chord is sustained for quite a while before the notes start to change again. Sometimes one or two instruments will not play for a while. The harmonic feeling of the music also seems to be different in different parts of the piece, though these changes were too subtle for me to put my finger on in one hearing.

 Now that Feldman is moving into longer forms, his sensitivity to time and his exquisite (oops) control over harmonies and tone colors are more apparent than ever. Those who have considered Feldman a quaint miniaturist will be forced to take a second look.[1]

 フェルドマンの元教え子だけあり、ジョンソンによる「Voices and Instruments 2」の描写は的確だ。各パートの音の引きのばしで構成されているこの曲のテクスチュアは動きが少なく平坦に感じられる。ジョンソンが書いているように、この曲は一聴しただけではそれぞれの和音の変化など細部を指摘するのが難しい。スコアを見てみると、彼が言及していないいくつかの特徴を見つけることができる。この曲では平坦なテクスチュアの合間にいくつかの異質な出来事が随所に起きている。6ページの後半からフルートのパートが音のまとまりを感じさせる動きを見せる。また、チェロとコントラバスが予期せぬタイミングでピツィカートによる単音を鳴らす。これらは平坦なテクスチュアに異質な要素を密かにさし挟む役割を担っている。時間の感覚と拍子について補足すると、スコア中央部に配置されたフルートのパートに拍子記号が記されていて、他のパートもこの記号に倣う。1960年代後半の楽曲と同じく、ここでも拍子がめまぐるしく変化する。このコンサートでの演奏についてジョンソンは「彼らはとても柔らかく演奏していたので演奏中の大半は制御を失うかどうかの瀬戸際に立っており、さらにはチェロの弓や歌い手の声がほんの一瞬、制御不能に陥った。They played so softly that they were right on the brink of losing control most of the time, and occasionally a cello bow or a singer’s voice did go out of control briefly.」[2]と描写するが、この曲に対する演奏家たちのアプローチを概ね高く評価している。

Feldman/ Voices and Instruments 2 (1972)

score https://www.universaledition.com/morton-feldman-220/works/voices-and-instruments-2-5700

 ジョンソンは1970年代のフェルドマンの音楽に起きた変化について、音の引きのばしによる音色の絶妙な操作と長さを指摘した。これまでにこの連載で何度か解説したように、1950年代、1960年代のフェルドマンの音楽は記譜法とともに変遷してきたことも看過できない。1967年に図形楽譜の使用をやめ、1969年に自由な持続の記譜法による最後の楽曲「Between Categories」を書いて以来、1970年代から1987年のフェルドマン最晩年の楽曲に至るまで、ほとんどすべての楽曲が慣習的な五線譜による記譜法で書かれている。ポール・グリフィスによる1972年のインタヴューの中で、図形楽譜を再びやめて五線譜に戻った理由を訊ねられたフェルドマンは「それがどんな記譜法であれ、その曲が必要としていると思った記譜法でいつも作曲しているのです。I always worked with whatever notation I felt the work called for.」[3]と答えている。五線譜による正確な記譜法を用いるようになった技術的な理由として、フェルドマンはクレシェンドの用法をあげている。

例えば「The viola in my life」では、ヴィオラのほとんどすべての音の下に微かなクレシェンドが記されています。もはや自由な持続の記譜法ではクレシェンドを書くことができません。リズムのかたちは様々な種類のクレシェンドの長さからもたらされたのです。今では私は正確な記譜法に魅了されるようになりました。なぜなら、私はこの記譜法を他の事柄を測るためにも用いているからです。普通ならこんなことを考えもしなかったでしょう。この2年間の私の音楽の大半は正確に記譜されていますが、曲ごとに違う理由があるのです。

For example, in The viola in my life underlying almost every viola sound there is a slight crescendo. Now in a free duration you cannot write a crescendo, so the rhythmic proportions were brought about because of the durations of the various types of crescendo. I’ve become fascinated with precise notation now, because I use it to measure other things, which ordinarily I would never have thought of. Most of my music of the past two years is precisely notated, but each piece for a different reason.[4]

 1960年代の自由な持続の記譜法による大半の楽曲では、スコアの冒頭に曲全体に対するダイナミクスとアタックの指示「「極端なくらい柔らかくExtremely soft.」(「De Kooning」の演奏指示)や「それぞれの音は最小限のアタックでEach sound with a minimum of attack.」(「Chorus and Instruments」の演奏指示)が書かれるだけだったが、1970年代の楽曲にはクレシェンド、デクレシェンドが細かく書き付けられ、強弱記号も使われるようになる。「The Viola in My Life」1-4 (1970-71)がその顕著な例で、これらの楽曲ではクレシェンドによる音の強弱の変化から音の輪郭を引き出す試みがなされている。五線譜による正確な記譜法はダイナミクスやリズム以外の音楽の側面を測りうるともフェルドマンは言っている。おそらくこれは、細かな指示のダイナミクスと並ぶこの時期の楽曲の特徴のひとつ、拍子の頻繁な変化を指しているのだと考えられる。緻密な記譜の傾向はこの頃から徐々に強まり、やがて1970年代後半からの反復による長大な楽曲へと行き着く。

 1960年代の楽曲は珍しい組み合わせによる室内楽編成が中心だったが、1970年代からは独唱、混声合唱、弦楽四重奏、管弦楽による楽曲も増えてくる。新しい音楽に理解のあるバッファロー大学の同僚や学生による演奏の機会に恵まれたことと、フェルドマンが楽団や組織等から楽曲の委嘱を受けるようになったことが編成の変化にも関係していたはずだ。例えば1973年作曲、1975年1月初演の「String Quartet and Orchestra」は当時バッファロー・フィルハーモニクの音楽監督を務めていた指揮者のマイケル・ティルソン・トーマスと同楽団からの委嘱作品だ。タイトルが示すとおり、この曲は弦楽四重奏と管弦楽による大規模な編成である。1970年代には独奏や独唱と弦楽四重奏、独奏と管弦楽などの一見、協奏曲風の編成の楽曲群も始まる。ここで「協奏曲風」と書いたのは、これらの編成の楽曲では、独奏パートによるカデンツァ、独奏楽器とアンサンブルとの対比などの慣習的な協奏曲の原理とはやや異なる様相でそれぞれのパートが位置付けられている場合が少なくないからだ。フェルドマンの協奏曲編成の楽曲についてはいずれこの連載で考察する予定である。

Feldman/ String Quartet and Orchestra (1973)

score https://www.universaledition.com/morton-feldman-220/works/string-quartet-and-orchestra-5015

 1970年代からは曲も長くなる。フェルドマンは演奏に5~7時間を要する「String Quartet 2」(1983)などの長時間の楽曲で知られているが、この傾向も1970年代から始まる。しかし、ある日突然フェルドマンの音楽が長くなったわけではない。また、曲の長さだけが延びたのではなく、音楽の書法そのものにも変化が伴っている。先に引用した演奏会評の約2年後にあたる1975年3月24日発行の『Village Voice』に掲載されたフェルドマンの「Instruments 1」(1974)について書いた文章の中で、ジョンソンはこの曲の特徴を次のように描写している。

フェルドマンのすべての曲と同様に、概して楽器は孤立した音と和音を演奏し、テクスチュアも比較的まばらだ。だが、初期の楽曲には起きたことのない多くのジェスチュアも見られる。ミュート付きのトロンボーンは時折グリッサンドを演奏する。オーボエの音によるシークエンスは旋律のような性質に近づいているともいえるだろう。柔らかなティンパニとバスドラムのロールがたまに挿入される。とある箇所でマラカスの静かなさざめきが始まる。その穏やかさにもかかわらず畏怖さえ感じさせる背景のなかで、それはとても劇的だ。

As in all Feldman’s works, the instruments generally play isolated tones and chords, and the texture is relatively sparse. But there are also a number of gestures which never occurred in earlier pieces. The muted trombone plays occasional glissandos. A sequence of oboe tones may become almost melodic in character. Soft-timpani and bass-drum rolls occasionally intrude. At one point a quiet swish of maracas comes in, so dramatic in the context that it seems almost scary for all its gentleness.[5]

 「Instruments 1」はアルト・フルート兼ピッコロ、オーボエ兼コール・アングレ、トロンボーン、チェレスタ、打楽器奏者2人による6人編成の室内楽曲だ。演奏時間は約18分。記譜法は「Voices and Instruments 2」とほぼ同じ形式で書かれているが、ここでジョンソンが解説しているように、トロンボーンの低音域でのグリッサンド、オーボエの音型、打楽器の用法などの点でこれまでのフェルドマンの楽曲にはない要素が新たに加わっている。この文章の終盤では、ジョンソンはフェルドマンの楽曲が響きによる空間と実際の演奏時間両方において規模が大きくなっていると指摘する。

今や彼はこれまで以上の大きさで作曲しているが、大きなキャンヴァスの使い方を語っていたことがある。大きなキャンヴァスにはマラカスの奇妙なグリッサンドや風を切るような音が絵の中に入り込む可能性もおおいにあるのだと。60年代の彼の曲は全面絵画とみなすことができ、最初から最後まで一定のムードを保っていた。しかし、今は音楽の残りの部分からむしろ著しく際立った領域を彼のキャンヴァスに見出すこともある。これもまた色の問題だ。60年代の彼の作品の大半がパステルで描かれていたが、現在、彼は茶色やグレーもたまに使う。

He talked about how, now that he was working on a larger scale, using larger canvases, there was a greatest possibility that a strange glissando or a swish of maracas would enter the picture. One could say that his pieces of the ‘60s were all-over paintings, which maintained a constant mood from beginning to end. But now, one sometimes finds areas in his canvases which stand out rather sharply from the rest of the music. It is also a question of color. While his work in the ‘60s was done largely in pastels, he now uses occasional browns and greys as well.[6]

 ここではキャンヴァスが曲の長さや規模にたとえられていて、60年代の楽曲をパステルで描かれた全面絵画とみなすならば、70年代前半の楽曲はグレーや茶色の色彩にマラカスによるグラデーションが加わった、より微細な変化を描いた大きなキャンヴァスの絵画ということができるだろう。ここでジョンソンが書いているとおり、60年代後半から70年代前半にかけてのフェルドマンの楽曲には太鼓類、マラカス、カスタネットなど打楽器のトレモロやロールが頻繁に現れる。次のセクションで解説する「The Viola in My Life」の1、2、4番でもこれらの打楽器が用いられており、弦楽器、管楽器、鍵盤楽器、声の音色に陰影や奥行きを感じさせる効果をもたらしている。70年代前半の楽曲によく見られる打楽器のトレモロは音の空間的な広がりに寄与しているとも考えられる。

Feldman/ Instruments 1 (1974)

score https://www.universaledition.com/morton-feldman-220/works/instruments-1-2896

 「Instruments 1」に見られたような音の響きの余韻や広がりを受けて、フェルドマンの音楽が次第に長くなっていったのではないだろうか。楽譜が出版されている70年代の主な楽曲の演奏時間とその変遷を見てみよう。これらの演奏時間はUniversal Editionのスコアに記載されている演奏時間を参照した。

1970年に作曲された楽曲

  • Madame Press Died Last Week at Ninety: 4分
  • The Viola in My Life 1: 9分45分
  • The Viola in My Life 2: 12分
  • The Viola in My Life 3: 6分10秒

1971年に作曲された楽曲

  • The Viola in My Life 4: 20分
  • I Met Heine on the Rue Fürstemberg: 10分
  • Rothko Chapel: 30分
  • Chorus and Orchestra 1: 15分

1972年に作曲された楽曲

  • Cello and Orchestra: 19分
  • Chorus and Orchestra 2: 22分
  • Voice and Instruments 1: 15分

1973年に作曲された楽曲

  • String Quartet and Orchestra: 22分
  • Voice and Cello: 7分

1974年に作曲された楽曲

  • Voice and Instruments 2: 12分
  • Instruments 1: 18分

1975年に作曲された楽曲

  • Piano and Orchestra: 21分
  • Instruments 2: 18分
  • Four Instruments: 6分

1976年に作曲された楽曲

  • Oboe and Orchestra: 18分
  • Voice, Violin and Piano: 5分
  • Orchestra: 18分
  • Elemental Procedures: 20分
  • Routine Investigations: 9分

1977年に作曲された楽曲

  • Neither: 55分
  • Piano: 25分
  • Instruments 3: 15分
  • Spring of Chosroes: 12分

1978年に作曲された楽曲

  • Flute and Orchestra: 35分
  • Why Patterns?: 35分

1979年に作曲された楽曲

  • Violin and Orchestra: 65分
  • String Quartet No. 1: 100分

 1971年の「The Viola in My Life 4」20分、「Rothko Chapel」30分を皮切りに、1972年以降から「Cello and Orchestra」(1972)、「String Quartet and Orchestra」(1973)をはじめとする20分前後の曲が増えてくる。その後、依然として1973年から76年までの間も20分前後の曲が続く。1977年の1幕編成、演奏時間55分のオペラ『Neither』を経た1978年から「Flute and Orchestra」35分、「Why Patterns?」35分、「Violin and Orchestra」65分と、以前よりさらに曲が長くなり、1979年には100分を要する「String Quartet No. 1」に行き着く。80年代以降はよく知られているように、さらに長い大曲が生み出されることとなる。本稿で既に述べたバッファローへの転居によって作曲に集中できるようになったことや委嘱の増加が、フェルドマンの曲が長くなった環境的な要因として考えられる。また、1976年にバッファロー大学 Center of the Creative and Performing Artsの演奏旅行でイランのシラズを訪問した際、フェルドマンが現地で絨毯の世界に目覚めたことも1970年代後半以降の長時間の楽曲と大きく関係している。中東の絨毯と後期の楽曲についてはこの連載で後に解説する予定だが、ここでごく簡単にまとめると、連綿と続く細かな織のパターンが1970年代後半以降のフェルドマンの記譜法や時間の感覚に大きな影響を与えたといわれている。

 このセクションでは「普通の」五線譜に戻った1970年代のフェルドマンを取り巻く環境と彼の音楽の変化を概説した。次のセクションでは、1970年代前半の彼の楽曲のなかでもやや特殊な性格の「The Viola in My Life」1-4について解説する。


[1] Tom Johnson, “On the soft and wild sides,” Village Voice, February 22, 1973
[2] Ibid.
[3] Morton Feldman Says: Selected Interviews and Lectures 1964-1987, Edited by Chris Villars, London: Hyphen Press, 2006, p. 47
[4] Ibid., p. 47
[5] 記事の初出は1975年3月24日発行の『Village Voice』。Tom Johnson, “Morton Feldman’s Instruments,” The Voice of New Musicにも収録されている。この著作集にはページ番号が打たれていない。
[6] Ibid.

高橋智子
1978年仙台市生まれ。Joy DivisionとNew Orderが好きな無職。
(次回は3月4日更新予定です)

あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(11) 1970年代前半の出来事と楽曲-1

文:高橋智子

1 1970年代前半の出来事と楽曲

 これまでのフェルドマンの創作の歩みをごく簡単に振り返ってみよう。1950年代のフェルドマンは、ジョン・ケージを介して出会った抽象表現主義の画家や詩人たちとの交流の中から創作の着想を得て試行錯誤を重ねた。1960年代に入っても彼の創作はニューヨークを中心とする画家や詩人との交友関係が重要な役割を果たしていた。「For Franz Kline」(1962)や「De Kooning」(1963)は彼の友人でもある画家たちに捧げられた楽曲だ。1964年にはレナード・バーンスタイン指揮、ニューヨーク・フィルによって自身の楽曲が演奏され(第8回でとりあげたように、この演奏会の評判は芳しくなかったが)、「ニューヨークの気鋭作曲家」としての地位が徐々に確立されてきた。楽譜出版に関しては、1962年にフェルドマンはペータース Edition Petersと契約し、1950年代、1960年代のほとんどの楽曲はここから出版されている。1969年にフェルドマンはウニヴェルザール(またはユニヴァーサル)Universal Edition(以下、UE)と契約した。彼の最後の図形楽譜となった「In search of an orchestration」(1967)がUEから初めて出版された楽譜だ。以降フェルドマンの楽譜はUE[1]から出版されている。1970年代前半は出版社だけでなく、フェルドマンの周りの環境も音楽も大きく変わった時期である。

 1970年代前半にフェルドマンに起きた主な出来事として、ヨーロッパでの評価の高まり、教師としてのキャリアの始まり、バッファローへの転居があげられる。1950年代、60年代に既にヨーロッパ各地で演奏や講演活動をしていたケージとデヴィッド・チュードア、そして彼のライバルだったカールハインツ・シュトックハウゼンとピエール・ブーレーズをとおしてフェルドマンの存在と音楽はヨーロッパでも注目され始めていた。60年代後半から特にイギリスの現代音楽界で注目され、1966年にフェルドマンはイギリスでの2週間の講演ツアーを行った。また、フェルドマンは1950年代後半頃から既にコーネリアス・カーデューとも親交があった。フェルドマンとイギリスの現代音楽界との関係が1970年代に入るとますます強まる一方、彼は地元ニューヨークに対する失望と苛立ちを見せるようになる。1973年に書かれたエッセイ「I Met Heine on the Rue Fürstemberg」[2]の中で、1950年代、60年代当時のニューヨークのシーンのやや閉じた雰囲気について回想している。

その時ヴィレッジ[3]で、私たちは一般的に世界にまだ知られていなかった芸術の何かを共有しているのだと感じていた。それは一種の袋小路だったが、それでも私はその気分を楽しんでいる。私は同時代の音楽を聴くことがほとんどできなかった時代に育った。もしもそういう音楽を聴くことができた人に出会ったなら、その人はその音楽に関わっている人だった。

We had the feeling, then in the Village, of sharing something in art that was unknown to the world at large. It was a kind of cul-de-sac, and I still enjoy the feeling. I grew up in an era when there was very little ability to hear contemporary music. And when you met someone who could, there was that kinship.[4]

 このシーンの渦中にいた本人たちはそれなりに満足していただろうが、刺激や新しさの点でフェルドマンは物足りなさを感じていたのかもしれない。また、自分の音楽はもっと注目され、評価されてしかるべきという気持ちもあったのだと推測できる。そんな彼の苛立ちを少し和らげたのはイギリスの音楽界との接点だった。

 私はほぼ同時にイギリスの知識層とアングラに注目された。1950年後半にはコーネリアス・カーデューに、1960年代前半はウィルフリッド・メラーズ[5]によって。
 1966年から私は年に2、3ヶ月をイギリスで過ごしていて、おそらくバッファローの後にロンドンに行くだろう。イギリスの観客は他の観客とは違う。最高の雰囲気だ。私は変わり者だとまったく思われていない。
 例えば1972年にB.B.C(訳註:BBC)で「The Viola in My Life」と「Rothko Chapel」のオーケストラ演奏に加えて、自分ひとりによる3時間の番組を2回行った。私はイギリスの音楽生活の一部となった。アメリカでは「音楽生活の一部」になるようなことはありえない。

I was picked up in England by the establishment and the underground at about the same time. By Cornelius Cardew in the late fifties and by Wilfrid Mellers in the early sixties.
From 1966 on I’ve spent two or three months of the year in England, and I’ll probably go to London after Buffalo. They listen like no other audience. It’s the best atmosphere. I’m not really considered far-out.
In 1972, for instance, I had two three-hour one-man shows on the B.B.C.[sic], plus orchestral performances of The Viola in My Life and Rothko Chapel. I’ve become part of musical life in England. In America there’s really no such thing as “part of musical life.”[6]

 ここでフェルドマンは、集団即興の可能性を追求していたカーデューをイギリスの「アングラ」、音楽批評家として同時代の音楽を積極的に紹介していたメラーズを「知識層」と位置付けている。自分の音楽がイギリスの実験音楽界隈と現代音楽界隈の両方で受容されていることにフェルドマンは満足げだ。当時、彼はロンドンにフラットの一室を借りていてロンドンのシーンに直接的に関わっていた。また、この頃の楽曲のいくつかはイギリスのアンサンブル・グループ Fires of Londonや作曲家アラン・ハッカーのグループ Matrixに献呈されている。[7]ニューヨーク以外の場所とのつながりや評価が増していくにつれて、フェルドマンのニューヨークに対する想いが冷めていく。詳しくは後述するが、このエッセイが書かれた1973年当時、彼は既にバッファローに転居していた。

 ニューヨークとの接点を失ってしまった。私はいつもある種の部外者だったし、よい批評もされなかった。知ってのとおり、ニューヨークはパリと同じく現代音楽の街ではなかった。観客は忘れっぽく、作曲家についてもっと知ろうとする興味も抱かない。
 (ニューヨーク・フィルハーモニックの指揮者としての)ブーレーズのプログラムは実験的ではない。むしろ予測できる反応とともに、どこかで最初になされた事例を華麗に示してくれる。
 だから私は決まった音楽サークルに近づかなかった。実際バッファローでこうしていることが私にとっての初めてのアカデミックな状況だ。
 革新的な作曲家と人々は言う。だが、私は常に大きな歴史意識、つまり伝統や継続性の感覚を持っている。

  I’ve lost contact with New York. I was always sort of Odd Man Out, not good reviews. New York, you know, was never a modern music city, any more than Paris. The audience has no memory, not interested in getting to know more about a composer.
  Boulez’s programs[as conductor of New York Philharmonic]are not experimental. Rather glamorous samples of things done first somewhere else, with a known reaction.
 So I didn’t come up through regular music circles. In fact, this thing in Buffalo is my first academic situation.
 Radical composer, they say. But you see I’ve always had this big sense of history, the feeling of tradition, continuity.[8]

 1950年末頃から数年続いたケージ、デヴィット・チュードア、アール・ブラウン、クリスチャン・ウォルフとのニューヨーク・スクールとしての活動、ジャクソン・ポロック、フランツ・クライン、デ・クーニングらとのクラブやセダー・タヴァーンでの芸術談義はフェルドマンにとってもはや過去のものとなり、心情的にも彼とニューヨークのシーンとの隔たりは1970年代頃から顕著になっていく。ニューヨークのシーンに対するフェルドマンの想いをさらに複雑にさせた出来事があった。それは1970年10月にニューヨークのマルボロ・ギャラリーで開催されたフィリップ・ガストンの個展だ。この個展が開かれるまでフェルドマンとガストンは親友同士だった。1950年から1966年頃までのガストンの抽象時代[9]の作品は、キャンヴァスに描かれたくすんだ色彩による微かなかたちを特徴とする。まるで何かの痕跡のようにも見えるガストンのこの時期の作品は、破線を用いて楽譜の中に音楽の痕跡を描こうとしたフェルドマンの自由な持続の記譜法に少なからず影響を与えたと推測できる。前回解説した「Between Categories」(1969)をはじめとする1960年代に書かれたフェルドマンのエッセイにガストンが度々登場し、フェルドマンの音楽における時間や空間の概念に大きな示唆を与えていた。1964年にはフェルドマンは自由な持続の記譜法によるピアノ小品「Piano Piece (to Philip Guston)」を作曲している。だが、2人の友情は1970年10月のガストンの個展をきっかけに、しかもフェルドマンから一方的に終わってしまう。[10]

 マルボロ・ギャラリーで開かれたガストンの個展は主に1967年から1970年までに描かれた作品[11]で構成されていた。この頃からガストンは1950年代から1966年頃までの抽象とは全く異なる、具象というより漫画や戯画のような作風に転じる。この作風の変化がフェルドマンを大きく失望させ、彼はガストンとの友情にも終止符を打つ。この個展は当時どのように受けとめられたのだろうか。1970年11月5日発行の『Village Voice』に掲載された批評を見てみよう。

ガストンの新しい絵は漫画調で、変てこで、哀れで、社会的だ。頭巾をかぶって(KKK?)、切れ長の目をした人物がガタガタの車でうろつき、絵を描き、互いに殴り合い、たばこを吸う。時計、電球、指さし、ぶかぶかの靴は戯画化された姿で責め立ててくる。それはまるでデ・キリコが二日酔いでベッドに入り、アメリカが崩壊する話のクレイジー・カット[12]の夢を見ているようだった。過剰なのだ。彼のくすんだピンク色は私を打ちのめす強烈な絵画特有の色彩の流れとして、今もなお目に焼き付いている。だが、それは専らあやまちや恐怖による悲喜劇に寄与している。この変化をゲームの後半戦に持ってくるのは大変な勇気を必要とした。なぜなら、多くの人々がこれらをひどく嫌うのは自明だからだ。私は違うが。

Guston’s new paintings are cartoony, looney, moving, and social. Hooded (KKK?), slot-eyed figures rumble around in cars, paint paintings, beat each other, smoke cigars. Clocks, light bulbs, pointing hands, and out-sized shoes spoof and accuse. It’s as if De Chirico went to bed with a hangover and had a Krazy Kat dream about America falling apart. Too much. His smoky pinks are still in sight, as are terrific painterly passages that knock me out. But it’s all in the service of a tragi-comedy of errors or terrors. It really took guts to make this shift this late in the game, because a lot of people are going to hate these things, these paintings. Not me.[13]

 この批評から、KKK(クー・クラックス・クラン)を彷彿させる白頭巾のキャラクターや漫画調の作風がフェルドマンだけでなく当時の多くの人々に落胆と衝撃を与えたのだと想像できる。ガストンと絶交状態にあったものの、フェルドマンは1980年にガストンが亡くなった際には追悼文を書き、1984年には長時間の楽曲の1つでもある「For Philip Guston」を作曲する。一方、ガストンは1978年に「Friend – To M. F.」のタイトルでフェルドマンのポートレートを描いており、この絵はフェルドマンの著作集『Essays』[14](1985)と『Give My Regards to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman』(2000)の表紙に使われている。

 この時期のフェルドマンと画家との関わりとして、マーク・ロスコとの交友と「Rothko Chapel」委嘱もあげられる。ロスコもフェルドマンと親しく付き合っていた画家の1人だ。キャンヴァス一面に色を塗り重ねたロスコの全面絵画といわれる様式は、フェルドマンが音楽の「表面」について思索するきっかけともなった。1965年、ロスコはメニル財団からテキサス州ヒューストンに建設予定の無宗教の礼拝堂[15](今日「ロスコ・チャペル」として知られている)に設置される壁画の委嘱を受ける。ロスコは1967年に礼拝堂の壁画を完成させるが、礼拝堂の完成を見ぬまま1970年2月25日に自殺。67歳だった。1971年2月27日のロスコ・チャペル建立を記念してメニル財団はフェルドマンに楽曲を委嘱した。フェルドマンは作曲に集中するため1971年春にデ・メニル夫妻が所有するフランスのポンポワンの別荘で過ごした。[16]その結果生まれたのがソプラノ独唱、混声合唱、室内楽による「Rothko Chapel」[17]である。この曲はフェルドマンの楽曲には珍しく叙情性にあふれた旋律が用いられており、その少し前に作曲された「Viola in My Life」1-4と同じ作品群と見なされる。

Feldman/ Rothko Chapel (1971)

 友人との別れも人生に大きな悲しみや変化をもたらすが、さらに直接的な環境の変化がフェルドマンに起こる。それは教師としてのキャリアの始まりである。1970年からフェルドマンは画家のメルセデス・マッターが創設したニューヨーク・スタジオ・スクール New York Studio School of Drawing, Painting and Sculpture[18]の学科長を務める。おそらくこれが彼にとって初めての教職のはずだ。以前、この連載の第1回と第6回でも少し触れたが、フェルドマンは家業の子供服工場を手伝いながら音楽活動を続けていた。フェルドマンが作業着姿でアイロンをかける様子を見た作曲家で指揮者のルーカス・フォスは1964年頃からフェルドマンのために大学のポストを見つけようと奔走していた。[19]その間、フェルドマンはドイツ学術交流会 DAADの奨学金で1971年9月から1972年10月までベルリンに滞在していた。ベルリン滞在時は「Cello and Orchestra」(1972)、「Voices and Instruments」(1972)など、編成がそのままタイトルとなっている楽曲が作曲された。

 フォスの数年にわたる尽力が実り、1972年秋にフェルドマンはニューヨーク州立大学バッファロー校(以下、バッファロー大学)音楽学部作曲科のスリー教授 Slee Professor[20]に就任する。フェルドマンは約1年のベルリン滞在を終えるとバッファローに直行した。バッファロー大学教授就任に伴い、ついにフェルドマンはニューヨークを離れた。生まれも育ちもニューヨークで、生粋のニューヨーカーのフェルドマンはニューヨーク以外の街で暮らせるはずがないと思われており、フェルドマンのバッファローへの転居は当時、彼の友人たちをたいへん驚かせた。[21]マンハッタンの喧騒から離れたフェルドマンは新天地バッファローで作曲に集中し、これが結果として1970年代後半頃から現れる長時間の楽曲にもつながる。ニューヨーク以外の土地で無事にやっていけるのかという周囲の不安をよそに、安定した収入、快適な住居、そして何よりも学生や多くの一流の演奏家による演奏の機会を得たフェルドマンはバッファローでの暮らしを楽しんでいた。[22]当初フェルドマンの教授職は1年ごとの契約制だったが1974年には任期なしに変わり、ポストの名称もフェルドマン自らの希望でエドガー・ヴァレーズ教授 Edgard Varèse Chairとなった。

 フェルドマンは大学で作曲を教えることについてどのように考えていたのだろうか。バッファローに移る直前の1972年8月にポール・グリフィスによって行われたインタヴューでフェルドマンは次のように発言している。

グリフィス:音楽教育に対するあなたの考えをぜひともお聞かせください。たしか、今年の夏にダーティントンのサマースクール[23]にいらっしゃる予定ですね。

フェルドマン:その予定です。音楽教育で非常に残念なことのひとつは、音楽教育が作曲家を生み出していないことです。1、2年前にとてもよい条件の仕事の話を断りました。なぜなら、教えることに対する私の考えは大学の学科で起きているようなものとは違うからです。自分の学生には演奏グループに関わってほしくないし、演奏のために作曲してほしくもありませんでした。

Griffiths: I would be interested to hear your views on music education, as I believe you are coming to Dartington this summer.

Feldman: Yes I am. Well, one of the tragedies of music education is that it doesn’t produce composers. I turned down a very good job a year or two ago, because my idea of teaching just isn’t what’s happening in departments. I didn’t want my students involved in performance groups, or in writing music for performance.[24]

ここでのフェルドマンは音楽教育、とりわけ大学で作曲を教えることに対して否定的な立場を取っているように見える。最終的に彼は教職に就くが、その直前まで大学での音楽教育には懐疑的だった。こうした態度の背景には、音楽院や大学ではなく、シュテファン・ヴォルペやケージらの私的なレッスンをとおして作曲を学んできたフェルドマン自身の経験が反映されているとも考えられるだろう。

グリフィス:では、音楽教育は何をすべきなのでしょう?

フェルドマン:音楽教育は専ら演奏家向けにすべきだと思います。作曲が教えられるべきものだとは思いません。今のアメリカで4人の最も影響力のある作曲家たち――私自身、アール・ブラウン、ケージ、実は古典学者だという理由でクリスチャン・ウォルフ――が音楽学科と一切関係せず、音楽学科での訓練も受けてこなかったことは興味深いです。私の態度はこう言えるでしょう。できる限り人間らしく全てをやり続けなさい。バランス感覚、作品に対して好ましい雰囲気、平穏さを作り出し、それらが必要な時に助けてくれる素晴らしい人々との関係を作ること。こうした事柄がもたらした一時的な関わり合いに対して彼らを密かに落胆させ、そしてそこから彼らを解放しなさい。なんらかのユートピアを作るのではなくて。

Griffiths: So what should music education be doing?

Feldman: I think it should just be for performers; I don’t think composition should be taught. It’s interesting that the four most influential composers in America today—myself, Earle and Cage, and Christian Wolff really because he’s a classicist—had no connections and no training in music departments. So my attitude is: keep everything as human as possible, create a sense of proportion, good atmosphere to work, quietude, fantastic people there to help when they need them, and let them quietly get discouraged and get out of this tentative commitment they made; rather than creating some kind of Utopia.[25]

 音楽教育は作曲家ではなく演奏家に向けて行うべきというのがフェルドマンのこの時点での持論だったようだ。おそらくここでフェルドマンが問題にしているのは、音楽に関する技術や考え方というより、作曲家と演奏家との間に構築される関係性のことだろう。ある一定のコミュニティや場がひとたび構築されると、そこからなかなか踏み出せない。フェルドマンはそのような「ユートピア」に安住してはいけないと言っている。だが、このような発言を生んだフェルドマンの状況はバッファロー大学着任後に一変したように思われる。フェルドマンは、同時代の様々な上演芸術に特化した音楽学部の組織 The Center of the Creative and Performing Arts(以下、CA)での活動に精力的に取り組んでいた。当時、このセンターにはジュリアス・イーストマン[26]、ジャン・ウィリアムス[27]、デヴィッド・デル・トレディチ[28]らを中心とする気鋭の演奏家や作曲家たちが在籍していた。フェルドマンは彼らとアメリカ国内外へツアーを行い、バッファローを当時のアメリカにおける現代音楽の拠点のひとつにしようと力を注いだ。演奏会ではフェルドマンの作品だけでなく、他の教員や学生、ゲストとして招いた様々な音楽家の作品が演奏された。フェルドマンがバッファロー大学での音楽活動に大きく貢献したことは確かで、1975年6月には音楽祭 June in Buffaloを始める。この音楽祭はCAの後続組織 The Center for 21st Century Music主催でレクチャー、ワークショップ、演奏会を含む行事としてバッファロー大学で現在も毎年行われている。[29] 第1回のJune in Buffaloではフェルドマンのかつてのニューヨーク・スクール仲間である、ケージ、ブラウン、ウォルフの作品がとりあげられた。

 着任前は「作曲は大学で教えられべきではない」と言っていたフェルドマンだが、もちろん実際は後進の指導に取り組んだ。バッファロー大学でのフェルドマンの著名な教え子としてバニータ・マーカス[30]とバーバラ・モンク・フェルドマン[31]の名前があげられる。1980年代に入るとフェルドマンはカナダ、オランダ、南アフリカ、ドイツ、日本など音楽祭やワークショップの講師を務めるようになり、行く先々で当時の若手音楽家や学生たちと対話を重ねた。例えばフェルドマンの講義録『Words on Music: Lectures and Conversations/Worte über Musik: Vorträge und Gespräche』[32]には、難解な比喩や音楽以外のエピソードを用い、時に受講生を困惑させながら自身の音楽観を説くフェルドマンのいくつかの講義が収められている。

 次のセクションでは1970年代のフェルドマンの音楽の変化について解説する。


[1] Universal Editionのフェルドマンのページ https://www.universaledition.com/morton-feldman-220
[2] 初出は1973年4月21日発行Buffalo Evening News。本稿はフェルドマンのエッセイ集Morton Feldman, Give My Regards to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman, Edited by B. H. Friedman, Cambridge: Exact Change, 2000に収録されているものを参照した。
[3] ここでフェルドマンが言っている「ヴィレッジ」はマンハッタン南西部のグリニッジ・ヴィレッジのこと。この界隈にはアーティストが集うクラブやバーが軒を連ねていた。
[4] Morton Feldman, “I Met Heine on the Rue Fürstemberg,” Give My Regards to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman, Edited by B. H. Friedman, Cambridge: Exact Change, 2000, p. 116
[5] Wilfrid Mellers (1914-2008)イギリスの音楽学者、批評家、作曲家。http://www.mvdaily.com/mellers/
[6] Ibid., p. 117
[7] Morton Feldman Says: Selected Interviews and Lectures 1964-1987, Edited by Chris Villars, London: Hyphen Press, 2006, p. 43
[8] Feldman 2000, op. cit., p. 120
[9] ガストン財団 The Guston Foundationの作品カタログの時代区分に基づく。 https://www.gustoncrllc.org/home/catalogue_raisonne
[10] Feldman 2006, op. cit., p. 268
[11] ガストン財団のカタログでこの時期の作品を見ることができる。
https://www.gustoncrllc.org/home/search_result?search%5Btag%5D=Figurative 1968〜1972年代にかけてのガストンの作品に登場するKKKのキャラクターをめぐっては今日も主にレイシズムの観点から議論されている。ワシントンD.C.のナショナル・ギャラリーなど4つの美術館を2021年1月から巡回予定だったガストンの大規模な回顧展はBLMなどの社会機運を考慮し、展示内容を再考したうえで2024年に延期されることとなった。
National Art Gallery of Artの声明文https://www.nga.gov/press/exh/5235.html
[12] Krazy Kat 1913年から1944年まで新聞に連載されたコミック・ストリップ。
[13] John Perreault, “Art”, Village Voice, November 5, 1970
[14] Morton Feldman, Morton Feldman Essays, edited by Walter Zimmermann, Kerpen: Beginner Press, 1985
[15] Rothko Chapel http://www.rothkochapel.org/
[16] Feldman 2006, op. cit., p. 268
[17] フェルドマンの「Rothko Chapel」の概要は拙論参照。 https://geidai.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=435&item_no=1&page_id=13&block_id=17
[18] https://nyss.org/
[19] Ibid., p. 265
[20] Ibid., p. 270
[21] バッファローの音楽コミュニティ形成に貢献した、弁護士でアマチュア音楽家のFrederick Sleeと、その妻Alice Sleeからの寄付によって創設された教授ポスト。バッファロー大学には彼らの名前を付したSlee Hallもある。http://www.buffalo.edu/administrative-services/managing-facilities/planning-designing-and-construction/building-profiles/profile-host-page.host.html/content/shared/university/page-content/facilities/slee.detail.html
[22] Renée Levine Packer, This Life of Sounds: Evening for New Music in Buffalo, New York: Oxford University Press, 2010, p. 118
[23] Dartington Summer School https://www.dartington.org/about/our-history/summer-school/
[24] Feldman 2006, op. cit., pp. 48-49
[25] Ibid., p. 49
[26] Julius Eastman https://www.wisemusicclassical.com/composer/5055/Julius-Eastman/
[27] Jan Williams https://peoplepill.com/people/jan-williams
[28] David Del Tredici https://www.daviddeltredici.com/
[29] June in Buffalo https://arts-sciences.buffalo.edu/music21c.html
[30] Bunita Marcus http://www.bunitamarcus.com/index.html
[31] Barbara Monk Feldman http://www.composers21.com/compdocs/monkfelb.htm 1987年6月にフェルドマンと結婚した。
[32] Morton Feldman, Words on Music: Lectures and Conversations/Worte über Musik: Vorträge und Gespräche, edited by Raoul Mörchen, Band Ⅰ&Ⅱ, Köln: MusikTexte, 2008

高橋智子
1978年仙台市生まれ。Joy DivisionとNew Orderが好きな無職。
(次回は2月25日更新予定です)

吉池拓男の名盤・珍盤百選(31) 魔煮悪ピアノコロシアム バトルChopin op. 34-1

Rudolph Ganz(p) Guild Historical GHCD2377
Wilhelm Backhaus(p) Archipel ARPCD0333 など
Arturo Benedetti Michelangeli(p) Profil PH18063 など
Sergio Fiorentino(p) KLASSICSOTAKU CD-8022
Ignacy Jan Paderewski(p) APR APR6006
Arthur Rubinstein(p) IRON NEEDLE IN 1313 など

アナウンサー:お待たせいたしましたっ! 時空を超えた音楽バトル、魔煮悪ピアノコロシアム2021、いよいよ開幕です。本日の解説は魔煮悪音楽大学非常識講師の吉池拓男さんです。吉池さん、どうぞよろしく。

解説:よし、行け、ヲタクの吉池です。どうぞよろしく。

アナ:本日のコースはFC34-1(※1)。吉池さん、見所は?

解説:コース製作者Frédéric Chopin氏の作品の中では難易度は低めです。しかし、途中6回ある「プラルトリラーから急速音階駆け上がり(譜例1)」をどう魅せるかが勝敗の決め手になりますね。ここで規定通りのポイントまでの駆け上がり、ま、これをシングルと言いますが、シングルだけでは予選通過すら難しい。さらに1オクターブ上まで駆け上がるダブル(譜例2)を決めないとメダルは狙えませんね。

譜例1:シングル
譜例2:ダブル

アナ:ダブルは確かに華麗ですが、規定を外れた反則なのではないですか?

解説:いやいや、Chopin氏の手書きの規定書には4番目の音階駆け上がり、いわゆる第4駆にダブルが書いてあるものがありますし、Petersから出版されているNew Critical Editionには第3駆と第4駆のossiaにダブルを載せています。19世紀にはこういうvariantがあったようです。ただ、コース途中の第3・4駆でダブルをかましてもお客さまは喜びません。やはり終盤間際の第5駆、第6駆の勝負ですね。

Rudolph Ganz(p)

アナ:わかりました。さあ、いよいよ最初の選手の登場です。最初の選手はスイス代表のGanz1920選手。あまり名の知られた選手ではありませんが、コース製作も得意と聞いています。さあ、スタートしましたっ!

解説:なかなかに速めでそれでいて優雅な滑り出しですね。

アナ:第1駆から第4駆は規定通りに綺麗にこなしています。さぁ、いよいよ第5・6駆、どうだっ? おおっ、ダブルですね、吉池さん。

解説:う~~ん、確かにダブルですが、スピードが足りなくてワルツのリズムがかなり崩れましたねぇ。それと第5駆の左手の3拍目、ミスってますねぇ。ダブルに挑んだ右手に気を取られたようですね。

Wilhelm Backhaus(p)

アナ:これでは高評価は難しいでしょう。さて、お次はドイツ代表、Backhaus1950選手です。Backhaus選手と言えば、LvBコースの名手として圧倒的な存在ですが、FCコースでの出場とは意外ですね。

解説:いやいやBackhaus選手は若いころからFCコースは積極的に取り組んでいますよ。なにせFC11・2(※2)のソロアレンジも自ら施しているくらいです。

アナ:さぁ、スタートです。おお、完璧なまでの規定通りで第1~4駆をこなしていますね。

解説:規定が目に浮かぶようです。これはこれでBackhaus選手らしい律儀さですね。

アナ:いよいよ第5・6駆だ、どう来るか! おおっ、ダブルだ、しかも低音にパンチ一発!

解説:しかもプラルトリラーではなく明らかにトリルからのダブルです。音多いですねぇ。ちょっとスローダウンしましたが、スローのさせ方が実に芸術的。直後に規定にない低音の増強一発を入れたのも流石です。

アナ:プラルトリラーをトリルにしてもいいんでしょうか?

解説:コース製作者はそのあたりの表記は曖昧だったようです。選手のノリに任せていいんじゃないですか。

Sergio Fiorentino(p)

アナ:さすがBackhaus選手、LvB以外でも魅せますねぇ。しかもかなり自由。これは高評価でしょう。さぁ、続いてスタイリッシュに登場してきたのはイタリア代表Michelangeli1962選手です。イタリアからはもう一人Fiorentino1979選手が出場する予定だったのですが、本人未承認の海賊登録だったそうで、出場が取り消しになっています。

解説:残念ですねぇ。Fiorentino1979選手はダブルの鮮やかさもさることながら、ラストの296小節からを重音で弾くなど小洒落ていたのですが、正規登録を待つしかないでしょう。

アナ:てなことをお話ししているうちに、Michelangeli1962選手のスタートです。美しい音、素晴らしいバランス、うっとりしますねぇ。おや、第1駆から他の選手と違いますね。

Arturo Benedetti Michelangeli(p

解説:プラルトリラーではなくトリルからシングルを優雅に決めてます。これは第5・6駆に期待が持てます。

アナ:さぁ、第5駆だっ……ダブルです、ダブルです!実に優雅なダブルです!

解説:ワルツのテンポも崩れていませんね。素晴らしい。

アナ:……っと、ここで審判団から物言いです。物言いがつきました。……フライング???どうやらフライングだということのようです。もう一度聴いてみましょう。

解説:あぁ、確かに。第5・6駆ではプラルトリラーもトリルもなく、小節の頭からいきなり音階を駆け出しますね。これならダブルでも綺麗に収まります。うーーーん、芸術点は高いのですが、確かにフライングです。

アナ:Michelangeli1962選手、どこ吹く風で飄々と構えていますが、あとは審判団にお任せしましょう。

~ Sake & Water Break ~

Ignacy Jan Paderewski(p)

アナ:さぁいよいよ競技も大詰めです。エントリー残すはあと2人。FCの本場、ポーランドからPaderewski1912選手です。いよっ、大統領!そう言いたい気分になりますね。

解説:大統領ではなく首相です。マダム殺しのエンジェルヘアが眩しいですね。

アナ:颯爽と今スタートしました。Paderewski1912選手と言えば、FCの規定に精通していて、Paderewski版というコースの規定指南書を出していますね。

解説:あの指南書は後世の人が作ったという話ですが、名前を冠されるくらいですから指南書通りの見事な技を期待したいところですね。

アナ:実に優雅な滑り出しです。まず第1駆。ここはシングルですね。

解説:シングルですが、プラルトリラーの音を2拍分延ばさずにすぐ音階に行ってますね。一連の装飾音型として弾いているようです。指南書にはこんなこと書いていませんね。

アナ:おっと、第3駆からこれはダブルか。

解説:第1・2駆と同じようにプラルトリラーから一連の動きで表現してますね

アナ:さて注目の第5・6駆……ここも一連型からのダブルです。おおっと、直後に強烈なクラスターチョ~ップ! 1発、2発、これはシビレますね。

解説:Paderewski1912選手は1911にも同じコースを攻めていて、やはりここでクラスターチョップを打っています。確信犯ですね。ただ、名前入りの指南書があるのにそれと違うことをするのは如何なものでしょうか。権力者はいつの時代もほんと言行不一致です。

Arthur Rubinstein(p)

アナ:ま、それも世の常というものでしょう。さて、いよいよ最後の選手、同じポーランド代表で優勝候補のRubinstein1928選手の登場です。

解説:この選手は1930年頃に自己批判して研鑽する前ですから暴れん坊丸出しです。期待できますよ。

アナ:さぁスタートです。快調に飛ばしてます。おおっっ、第1駆からダブルです、しかもテンポの間延びがありません。これは見事、第5・6駆への期待が否応なしに高まります。さぁ第5駆!

解説:ダブルですね、第6駆も。微塵の揺るぎもない。さすが優勝候補。

アナ:そしてコーダ。うおおおおっ!!速い、速すぎる。まさに電光石火、前人未到の爆走ですっ!

解説:これは大変な記録が出たかもしれませんね

アナ:満場、割れんばかりの拍手と歓声です。さすがRubinstein1928選手。熱狂の渦に包まれています。

解説:待ってください。他の選手が猛然と抗議していますよ。

アナ:そうですね、審判団に食って掛かっています。何があったのでしょうか? え、なに?なに?Rubinstein1928選手は第3駆と第4駆を弾いてない??それは反則だろうって??

解説:あぁ、言われてみれば第3・4駆のセクションをカットしてますね。いやぁ、あまりに見事で気づきませんでした。芸術点的には全くOKなんですが、これは審判団、難しい判断を迫られますねぇ。

アナ:猛烈な抗議、一向に止みそうにありません。会場、混沌として参りました。これは当分結果が出そうにありません。ひとまずここで現場からの中継を終わりにしようと思います。吉池さん、今日はどうもありがとうございました。

解説:いえいえ、こちらこそ楽しませていただきました。ありがとうございました。

アナ:それでは魔煮悪ピアノコロシアム2021、この辺で失礼いたします。

※1:ショパンのワルツop. 34 no. 1のことです
※2:ショパンのピアノ協奏曲第1番op. 11の第2楽章のことです

【紹介者略歴】
吉池拓男
元クラシックピアノ系ヲタク。聴きたいものがあまり発売されなくなった事と酒におぼれてCD代がなくなった事で、十数年前に積極的マニアを終了。現在、終活+呑み代稼ぎで昔買い込んだCDをどんどん放出中。