あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(17)-2 フェルドマンの最晩年の楽曲

文:高橋智子

2 ラジオドラマ「Words and Music」

 おそらく1985年頃、フェルドマンは自身の2作目となるはずだったオペラを着想し、1977年の「Neither」と同じくサミュエル・ベケットに台本を依頼した。しかし、ベケットから断られてしまった。[1] フェルドマンの2作目のオペラ台本執筆の依頼を断ったベケットだったが、この2人は1986-1987年にラジオドラマ「Words and Music」で再び「共演」することになる。「Words and Music」は晩年のフェルドマンにとって最も大きなプロジェクトだ。

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あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(17)-1 フェルドマンの最晩年の楽曲

文:高橋智子

 今回はフェルドマンの晩年に当たる1980年代の活動をたどる。後半はフェルドマンが再びサミュエル・ベケットと関わりを持ったラジオドラマ「Words and Music」、ベケットに捧げた「For Samuel Beckett」、彼の最期の楽曲「Piano, Violin, Viola, Cello」について解説する。

1 晩年の活動とベケット再び――「Words and Music」と「For Samuel Beckett」

 1971年秋にニューヨーク州立大学バッファロー校音楽学部教授に就任し、晴れて専業作曲家となったフェルドマンは、1977年のオペラ「Neither」、いくつかのオーケストラ曲の委嘱、自身のアンサンブルを率いてのアメリカ国内外への演奏旅行、音楽祭での招待講演など、今や国際的な作曲家としてのキャリアを順調に積み重ねていた。その活動範囲はアメリカやヨーロッパに留まらず、フェルドマンは1983年7月に第一南アフリカ放送協会(First South African Broad Corporation: SABC1)主催の現代音楽祭に招かれたフェルドマンは受講者の自作曲を用いた作曲のマスタークラスと、彼がひたすらしゃべり続ける講義を行った。[1] 1984年と1986年にはダルムシュタット夏季現代音楽講習会の講師を務めた。1984年には作曲家のヴァルター・ツィンマーマン Walter Zimmermanが企画した講演「The Future of Local Music」をフランクフルトで行なった。この講演は、ツィンマーマンの編集によるフェルドマンの著作集『Essay』[2] と、もう1つのフェルドマンの著作集『Give My Regards to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman』[3] に同じタイトルで収録されている。大学の学務、講演、演奏旅行などで多忙な日々を送っていたせいなのか、フェルドマンが1984年に作曲したのは前回解説したフルート、打楽器、ピアノ/チェレスタのための「For Philip Guston」だけだった。オランダのミッデルブルクで夏に開催される現代音楽講習会Nieuwe Muziekにて1985年から1987年までの3年間、フェルドマンはゼミナールと講義を行った。1986年にはバニータ・マーカス、ヤニス・クセナキス、ルイ・アンドリーセンが、1987年にはコンラッド・ベーマー、カイヤ・サーリアホがゲスト講師に招かれた。この時の講義のいくつかは『Words on Music Lectures and Conversations: Morton Feldman in Middelburg / Worte üebr Musik Vorträge und Gespräche』[4]1、2巻に収録されている。この講義録を編集したRaoul Mörchenは、「その果てしない大きさ、慣習をものともしない態度、迷宮のように渦巻く思考、自由奔放な展開、精密さと過剰さ、簡潔さと小さなこぼれ話、倫理観と喜劇的挿話による刺激的な組み合わせ its vast scale, its disregard of all conventions, the labyrinthine flow of thoughts, its rhapsodic development, the exciting combination of precision and excess, succinctness and anecdote, moralism and comic relief」[5]と表されるフェルドマンの講義スタイルそのものが彼の後期作品を理解する際の鍵になると述べている。ミッデルブルグではゼミ形式でのディスカッションも行われたはずだったが、Mörchenによれば、極めて雄弁なフェルドマンは時に受講者からの疑問や異論を認めず、彼自身の思考を披瀝し続けたようだ。[6]この連載でも数多く引用してきたフェルドマンの講演、エッセイ、インタヴュー等の言説を振り返ると、自身のゆるぎない信念をもとに熱弁をふるうフェルドマンの様子を想像できる。

 1985年11月に東京で開催されたインターリンク・フェスティバル’85に参加するため、フェルドマンは最初で最後となる来日を果たした。この時フェルドマンとともに、作家で批評家のスーザン・ソンタグも来日した。企画者の一柳慧が立案したテーマ「音楽の現在〜日本・アメリカ 前衛からポスト・モダンへ」のもと、4回の演奏会と、フェルドマン、ソンタグ、武満徹、建築家の磯崎新を迎えたシンポジウム「文化のゆくえ−21世紀への展望」(司会 山口昌男)が行われた。演奏会ではフェウドマンの作品「King of Denmark」と「For Bunita Marcus」(日本初演)が演奏された他、フレデリック・ジェフスキ、ルー・ハリソン、ジョージ・クラム、ヘンリー・ブラント、エリオット・カーター、ジョン・ケージ、チャールズ・アイヴズらアメリカの作曲家の作品と、石井眞木、諸井誠、武満、近藤譲、高橋悠治、一柳、間宮芳生、小鍛冶邦隆ら日本の作曲家の作品が組み合わされたプログラムだった。フェルドマン、武満、近藤の対談「“閉じた”音楽、開かれた会話」と、シンポジウムでの登壇者の発言は『季刊 へるめす』創刊1周年記念別巻(1986年)に収録されている。武満と近藤を交えた対談は、歴史との向き合い方、音楽における時間と記憶などの話題を中心に進められた。シンポジウムはその顔ぶれからもわかるように、話題は音楽に限らず、芸術、文化、文明、教育とさらに広い視野での議論が展開された。来日時もフェルドマンは相変わらず饒舌だったようだ。そんな彼の様子を近藤はエッセイ「フェルドマンのこと」で次のように描写している。

口数の少ない物静かな人間はしばしば暴力的なまでに激しく大音響に充ちた音楽を書き、静謐な音楽の作曲者は、たいてい、饒舌である。フェルドマンは、大きな体躯になみなみと湛えたエネルギーを無限に吐き出し続けるかのように、いつも、圧倒的に話し、決して止むことがない。彼と対話する人は、話すことを楽しむより、むしろ、聞くことの楽しみを択ばざるを得ない。[7]

 ミッデルブルグでのフェルドマンの様子を回想した先のMörchenの引用と同じく、彼の大きな体から放出される途方もないエネルギーが対話の相手や聴衆を圧倒していたようだ。だが、ここで近藤が述べている通り、フェルドマンの音楽は細かく書き付けられたダイナミクスと、注意深く発せられる音の響きが織りなす静謐さをその大きな特徴としていた。

 フェルドマンは1986年1月12日に60歳の誕生日を迎えた。1985年から彼はCalArts(California Institute of the Arts カリフォルニア芸術大学)にアーティスト・イン・レジデンスとして滞在していた。CalArtsにて2月21、22日の2日間にわたり、フェルドマン60歳を記念した演奏会が行われた。この演奏会は最初期の楽曲、ソプラノ、チェロ、ピアノのための「Four Songs to e. e. cummings」(1951)から後期の長大な楽曲の1つ「For Philip Guston」まで、これまでのキャリアの集大成といえるプログラムだった。フェルドマンの楽曲の他に、彼とゆかりのある作曲家たち、近藤、ケージ、エドガー・ヴァレーズ、シュテファン・ヴォルペ、マーカス、ニルス・ヴィーゲランの曲も演奏された。1986年の途中からフェルドマンはアーティスト・イン・レジデンスの滞在先をカリフォルニア大学サンディエゴ校に移した。1985年から1986年の間、フェルドマンはバッファローを離れて西海岸を活動拠点にしていたのだった。この時期の西海岸滞在には理由があったようだ。1980年代に入るとバッファロー大学の予算が削減され、この状況を不満に思ったフェルドマンはサンディエゴ校の教授職に応募していたと言われている。[8]しかし、バッファロー大学からカリフォルニア大学への移籍は叶わず、実際のところフェルドマンはバッファローに留まることとなった。順風満帆のように見えた作曲家、大学教授としてのフェルドマンのキャリアだが、人知れぬところで彼は将来を案じていたのかもしれない。そんな状況の中、彼の創作意欲を駆り立てるプロジェクトの話が舞い込んでくる。それは約10年ぶりとなるサミュエル・ベケットとのやや風変りな共同作業だった。

 次のセクションでは、ベケットのラジオドラマ「Words and Music(邦題 言葉と音楽)」の音楽に見られる、フェルドマンの「いつもと少し違う」側面を探る。


[1] ヨハネスブルクでのフェルドマンの講演記録はMorton Feldman Pageのテキスト集 https://www.cnvill.net/mfmasterclasses.htm で閲覧できる。
[2] Morton Feldman, Morton Feldman Essays, edited by Walter Zimmermann, Kerpen: Beginner Press, 1985
[3] Morton Feldman, Give My Regards to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman, Edited by B. H. Friedman, Cambridge: Exact Change, 2000
[4] Morton Feldman, Words on Music: Lectures and Conversations/Worte über Musik: Vorträge und Gespräche, edited by Raoul Mörchen, Band Ⅰ&Ⅱ, Köln: MusikTexte, 2008
[5] Ibid., p. 8
[6] Ibid., p. 10
[7] 近藤譲「フェルドマンのこと」『季刊 へるめす』創刊1周年記念別巻、1986年、111頁。
[8] Morton Feldman Says: Selected Interviews and Lectures 1964-1987, Edited by Chris Villars, London: Hyphen Press, 2006, p. 274

高橋智子
1978年仙台市生まれ。Joy DivisionとNew Orderが好きな音楽学者。
(次回掲載は10月21日の予定です)

2021年10月の新刊情報(今泉響平、齊藤一也、夏目恭宏、アダム・ゴルカ)

2021年10月の新刊情報です。発送は10月11日より順次行います。

ラヴェル/今泉 響平:アダージョ・アッサイ 第2楽章 -「ピアノ協奏曲 ト長調」より(ピアノ独奏編曲)
2021年第45回ピティナ・ピアノコンペティション特級にて第3位に輝いた今泉響平による編曲作品が初出版です。フランスの作曲家モーリス・ラヴェルの代表作の一つでもある「ピアノ協奏曲 ト長調(Concert en sol)」から第2楽章「アダージョ・アッサイ」を今泉響平がピアノ独奏用に編曲しました。オーケストラの響きを失わないように可能な限りの音は取りつつも原曲が持つ音楽性は失わないように細かな配慮が施されており今泉の編曲センスが光ります。なお、本編曲は10月15日(福岡)10月30日(東京)に開催される演奏会のプログラムとしても取り上げられ、本編曲の楽譜も含む物販及びサイン会も実施される予定です。

齊藤 一也:ショパンの「小犬のワルツ」による即興曲 ― ネコ好きのための ―
皆さんは犬や猫はお好きでしょうか。ピアニストの齊藤一也が八ヶ岳北杜国際音楽祭にてサン=サーンス作曲の「動物の謝肉祭」を演奏した際に余興として他にも動物が登場する楽曲を演奏してほしいという要望に応え生まれた編曲、その名も《ショパンの「小犬のワルツ」による即興曲 ― ネコ好きのための ―》。ショパンの「小犬のワルツ」と誰もが一度は耳にしたことがある「猫ふんじゃった」が見事な融合を果たします。「小犬のワルツ」の持つ気品さはそのままに、カプリッチョ的な性格と即興的な要素をふんだんに取り入れ、アンコールピースとしても大いに盛り上がるような工夫が凝らされています。

ガブリエル・フォーレ/夏目恭宏:パヴァーヌ(ピアノ1台4手連弾)
フォーレの作品の中で傑作としても名高い「パヴァーヌ」 。元々は管弦楽曲のための作品として作曲されました。また、その旋律の静謐な美しさ故にこれまでに様々な編成で演奏され多くの人々に親しまれています。フォーレ自身による演奏がピアノロールとしても現像しており味わい深い演奏を聴くこともできます。編曲者である夏目恭宏は、雪の舞い散る情景にインスピレーションを得て本作品の編曲に取り組み、2オクターブでの動きを基調に据えており、クリスタルのような、ガラス細工のような繊細な響きをピアノから引き出すことを目指しています。YNPianoDuoによる演奏はコチラからご視聴いただけます。

アダム・ゴルカ:トルコ練習曲(ピアノのために)
主にアメリカやヨーロッパで大活躍しているピアニストのアダム・ゴルカによる作品が初出版です。日々厳しい練習を行っていた10代のアダム・ゴルカは、時折休憩も兼ねて寄り道をすることがありホロヴィッツやヴォロドスのパラフレーズの採譜に勤しんでいました。ある日、彼の師であるジョゼ・フェガリとのレッスンでヴォロドス編曲の「トルコ行進曲」を弾いた際、ゴルカ自身がショパンの練習曲 Op.10-2で日々悩んでいることを知っていた彼は、モーツァルトの有名なロンドを自己流にパラフレーズした上で、この2曲を組み合わせてはどうかと提案してきたそう。その結果が今回出版される「トルコ行進曲(Etude Alla Turca)」です。今回特別にアダム・ゴルカの許可を得て当時10代のゴルカが演奏する「トルコ練習曲」の音源をお届けします。

シャルル・ケクラン~フランス音楽黄金期の知られざる巨匠(3)

文:佐藤馨

 アントワーヌ・トードゥの和声クラスに正式に迎えられ、晴れてケクランはパリ音楽院の正規の生徒となった。ここで彼は、作曲家としての後の人生に大きく影響を及ぼす、三人の師と出会うことになる。

ジュール・マスネとの出会い

ジュール・マスネ(Jules Massenet, 1842-1912)はオペラ《タイス》《ウェルテル》《マノン》で有名。保守的とされるが、トマやデュボアが忘れられた一方で、マスネの美しいメロディは今も愛好されている。

 1892年10月、ケクランはジュール・マスネの作曲クラスに進んだ。はじめは聴講生としてクラスに出入りしていたが、トードゥの時と同様に、この2年後には正規の門下生として迎えられている。マスネは1878年からパリ音楽院で教鞭を執っており、ケクラン以前にもすでにガブリエル・ピエルネ、エルネスト・ショーソン、アルベリク・マニャールなどの才能ある作曲家たちが彼の下で学んでいた。
 ケクランは1935年3月に、この当時を振り返って≪Souvenirs de la classe Massenet≫(マスネ・クラスの思い出)と題した一連の回顧録をLe Menestrel誌に寄稿している。それによれば、マスネはアンブロワーズ・トマやテオドール・デュボワといった音楽院の同僚たちとむしろ同じ性質の作曲家であったにもかかわらず、自らとは異なる方向性をもつ弟子たちの音楽に口出しをしないで、むしろそれらを尊重して育む方針を持っていたという。例えば、若きフローラン・シュミットが自作の『サウルの幻影』をマスネに見せると、彼はこのようにコメントしたようである。

 とても興味深い!コンクールで人々に理解されるとは私は言いませんし、そうした方々が少なからず夢中になるということもないでしょうが。しかし、それはあなたにとってどうでもよいことです!そして、私にとってもそうなのです。[1]

 フローラン・シュミットは後に、ケクランと共に反骨精神に富んだ前衛として活動していくことになる。そうした彼の前衛気質に鑑みれば、マスネのこうした理解ある言葉は教師としての度量の広さをよく示しているといえるのではなかろうか。
 またマスネの教えは、何にも忖度せず、自らの音楽的アイディアを躊躇しない堅気な姿勢へとケクランを方向づけることになった。同じ回顧録の中でケクランは、作曲という行為に対する師の助言を紹介している。

 迅速に思考し、あらゆるアイディアをそれらが湧くと共に書き留めなさい。でないと、活用できたかもしれないものを時たま忘れてしまう恐れがある(たとえば、《マリー=マグドレーヌ》のデュオははじめ、私の心の中では、シンプルなリトルネッロでしかなかった)。――そうしてから、アレンジや作曲についてゆっくりと長く熟考しなさい。しかし、湧いてきた考えは決して追い払ってはならない。[2]

 ケクランにとって、マスネは第一級の教育者であった。彼の言葉は、ケクランの長い生涯にわたる膨大な作品群に結実している。その数もさることながら、一つ一つの作品に、彼の作曲上のアイディアが妥協なく満ちている。あるいは、音楽のみならず、執筆や講演などにおける精力的な活動もまた、マスネの言葉に根差したものだといえよう。ケクランが幼年時代に抱いた、最初の音楽への愛にマスネの歌曲が含まれていたことを思い起こせば、パリ音楽院での両者の邂逅には何かしら運命的なものさえ感じられる。

マスネのオラトリオ《マリー=マグドレーヌ》からデュオ

対位法の師、アンドレ・ジュダルジュ

アンドレ・ジュダルジュ(André Gedalge, 1856-1926)はジェダルジュと読まれることもあるが、一部出版譜の綴り間違いが原因の様子。ジャン=ジャック・カントルフがヴァイオリンソナタ2曲を録音し、2019年の東京公演でも披露するなど、再評価の兆しがある。

 マスネ・クラスの聴講生になったのと時を同じくして、ケクランはアンドレ・ジュダルジュから対位法とフーガの指導を受けるようになっていた。1884年に28歳という、ケクランと同じく比較的高い年齢になってからパリ音楽院に入学したジュダルジュは、エルネスト・ギローの下で作曲を学び(同級生にはデュカスとドビュッシーがいた)、1886年にはローマ賞第二等を得ている。ギローの下ではアシスタントも務めていたが、彼が1892年に亡くなると、今度はマスネがジュダルジュを引き取った。マスネもまたギローの教え子の一人であって、ジュダルジュはここでもアシスタントとして働くことになった。そうしてついに、1905年にはフーガと対位法のクラスの教授に就任し、彼は生涯この職を全うした。
 ジュダルジュの教え子にはケクランをはじめ、ラヴェル、フローラン・シュミット、ナディア・ブーランジェ、オネゲル、ミヨー、イベール、ジャン・ヴィエネなど、20世紀のフランス音楽の重要人物が多数含まれている。1926年にジュダルジュが亡くなると、La Revue Musicale誌上では追悼企画が行われ、弟子たちが彼へのオマージュを捧げた。その中で、ラヴェルはこう述べている。

 私にとってジュダルジュという人がどのようなものであったか、あなた方は恐らくご存知ないでしょう。私の一級の作品群に皆さんが見抜いておられる、構築の可能性と努力の数々、これらの実現に着手できるよう後になって私に教えてくれたのが彼なのです。彼の指導には特別な明晰さがありました。そのおかげで、作曲という仕事が学問的な抽象化とは別物だということを即座に理解しました。
 ピアノ三重奏曲を彼に捧げさせたものは、単に親愛の情だけではありません。それは師への直接的な尊敬の念なのです。[3]

 ケクランもまた同誌上で追悼の記事を寄せているが[4]、ジュダルジュがJ.S.バッハから続く対位法の伝統を正しく継承していたこと、そして管弦楽法の的確さや作曲における明晰と均衡への嗜好によって、若い世代の音楽家たちに少なからぬ影響を与えたことがそこでは指摘されている。「論理と明晰が絶対的に必要であると彼には感じられた。同時にそれは、モーツァルトとビゼーの後継であった。彼はぼかし、不明瞭、不器用なアマチュア主義を嫌った」[5]という記述からは、ジュダルジュの音楽が明晰さや均衡といった古典的な良さに根差すものであったことが読み取れる。加えて、世紀末から20世紀初頭にかけて猛威を振るったワーグナーやドビュッシーの流行とはジュダルジュが一線を画していたことも、ここでは含意されていよう[6]。また、簡潔さや明晰さを愛するという点で、後に現れた六人組との親近性さえもケクランはこの記事の中で示唆している。
 ケクランはこの類まれな教師の下で、その後の彼の作品の根幹ともなる、対位法の基礎を仕込まれたのである。

 彼は私[ケクラン]たちにJ.S.バッハへの愛着を抱かせ、偉大なるモーツァルトへの崇敬へと私たちを向かわせました(若い人々はいつもこのことが分かっていません。私もそうした人々の一人だったということです)。もっと後にこの時の歴史を綴る人が、シャルル・ケクランからダリウス・ミヨーまでの、音楽の若手世代の形成における影響という点で――作曲家としての無視できない役割に加えて――もしジュダルジュに触れないのであれば、それはひどい不正でしょう。[7]

あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(16) 1980年代の室内楽曲-2

文:高橋智子

2 1980年代の室内楽曲の記譜法

 フェルドマンの楽曲の変遷には必ずといってよいほど記譜法の変化が伴う。この連載では1950年代の五線譜と図形楽譜に始まり、1960年代のやや複雑になった図形楽譜と自由な持続の記譜法による五線譜、1970年代の五線譜への回帰にいたるまでの道のりをいくつかの楽曲を例にたどってきた。中東地域の絨毯に出会ったフェルドマンの五線譜による記譜法は1970年代後半からさらに緻密になり、微かな差異を伴って繰り返されるパターンとその配置から構成されるスコアの外見は「不揃いなシンメトリー」の概念を体現している。1980年代の記譜法は70年代後半の記譜法の延長線上にあるが、この時期の室内楽曲の記譜法の特徴として小節のレイアウト、パート間で異なる拍子があげられる。

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あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(16) 1980年代の室内楽曲-1

文:高橋智子

 中東地域の絨毯との出会いから編み出した概念「不揃いなシンメトリー」は、1970年代後半から1980年代前半のフェルドマンの作曲や記譜法に大きな影響を与えた。前回解説した1981年のピアノ独奏曲「Triadic Memories」はその影響をうかがえる代表的な楽曲の1つだ。今回は「不揃いなシンメトリー」のその後の展開として、1980年代前半の室内楽曲に焦点を当てる。

1 1980年代の室内楽曲の編成と演奏時間

 フェルドマンの創作変遷を振り返ると、1950年代と1960年代は小・中規模の室内楽曲の時期、1970年代は協奏曲風の編成を含むオーケストラ曲、オペラ「Neither」などの大規模な楽曲の時期として、時代ごとにおおよその傾向を掴むことができる。楽曲様式や技法の変遷に伴って記譜法も変化や発展を遂げている様子は、これまでにこの連載で何度も述べてきた通りである。1980年代に入るとアメリカだけでなくヨーロッパ各地での講演や演奏会に飛び回っていたフェルドマンだったが、惜しくも1987年9月3日に膵臓癌で亡くなってしまう。享年61歳。このような事情から1980年代は既にフェルドマンにとって晩年に当たる。1980年代の楽曲の特徴や傾向をひとことで表すのは難しいので編成、記譜法、技法の観点から概観する。

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2021年7月の新刊情報(ショーソン、シュトラウス/リスレ、ギーゼキング、諸井三郎)

2021年7月の新刊情報をお届けします。

エルネスト・ショーソン:ピアノのためのソナタ
フランスの作曲家であるエルネスト・ショーソンがパリ音楽院(現・パリ国立高等音楽・舞踊学校)に入学した翌年に作曲した「ピアノのためのソナタ (Sonate pour piano)」の楽譜が遂に出版されます。本作品の自筆譜は長らくフランス国立図書館に所蔵されていましたが、なぜかこれまで楽譜が出版されていませんでした。今回は出版にあたって、作曲家・ピアニストであり、ショーソンと同じパリ音楽院を卒業した榎政則が校訂及び解説を担当しています。本作品は、ベートーヴェンやシューベルトの影響を強く受けており、現在知られているショーソンの音楽からは想像もできない意外な一面を覗くことができます。なお、第3楽章の主題は彼のクラリネットとピアノの作品である「アンダンテとアレグロ」でも使用されています。

リヒャルト・シュトラウス/エドゥアール・リスレ編曲:交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」
リヒャルト・シュトラウスが19世紀末に作曲した交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」をドイツ生まれフランスのピアニストであるエドゥアール・リスレがピアノ独奏用に編曲しました。リスレはコルトーの先輩として彼の音楽性に影響を与えました。リヒャルト・シュトラウスの作品はヨーロッパでは2020年まで著作権法により保護されていたためにこれまでは未出版でした。イタリアのピアニスト・作曲家であるフランチェスコ・リベッタがラ・ロックダンデロン音楽祭で本編曲作品を演奏したことをきっかけに楽譜の出版を希望する声が出ていました。今回は、フランチェスコ・リベッタはもちろん、佐藤暖による解説も掲載し大変充実した楽譜となっています。

フランチェスコ・リベッタによる解説から抜粋
シュトラウスの音楽家として人生の軌跡は、ピアノ版においても非常に忠実に再現されている。リスレ版においては、原作の複雑なポリフォニーが鍵盤上で緻密に再現されており、演奏者の卓越した技術、特に高度な指の独立性が前提となっている。また、残響時間のコントロールが難しいピアノでは、オーケストラ特有の音の重なりを再現することは困難である。こうした場合にペダルを用いるとポリフォニーの明確さが失われてしまうため、この版ではカミーユ・サン=サーンス風の素早いオクターブの繰り返しが用いられている。(実際、リスレはサン=サーンスのエチュードの一部を2台ピアノ用に編曲している)。けれども、こうした奏法は各指への負担が非常に大きく、反復する音の数によっては経験豊富なピアニストであっても不自然にテンポを落とさざるを得ない。このような理由からも原曲の再現に大きな困難が伴うことが分かる。(翻訳:国田健)

ヴァルター・ギーゼキング:スカルラッティの主題によるシャコンヌ
ヴァルター・ギーゼキングのピアノ独奏曲「スカルラッティの主題によるシャコンヌ」は、ギーゼキングがドイツから北米大陸への演奏旅行に赴いた際にハンブルク・アメリカ・ライン運航の汽船ニューヨーク号の船中で作曲されました。最近ではドイツのピアニストであるヨゼフ・モーグがOnyxより本作品を含むCDをリリースしましたが、楽譜についてはポートランド州オレゴンに存在したPelisorious Editionsから私家版として非公式に出版されただけでした。今回は、音楽学者である高久暁による解説及び入念な校訂のもと正式な出版となります。なお本作品は著作権の都合により日本を含む一部の国にのみに発送可能です。

諸井三郎:ピアノソナタ ハ長調 第1番 作品5 (1933)
4点目の新刊は、弊社が数年前より継続して出版をしています諸井三郎の作品です。今回は「ピアノソナタ第1番 作品5」の楽譜が出版となります。諸井三郎はこれまでに約10曲ほどのピアノソナタを残しており、後々に新作品番号を自らの作品に割り振る際に本作品は「作品5」として作品表に登場しています。なお、新作品番号内で登場したピアノソナタは本作品を含め2曲のみです。自信を持っていたからこそ作品5となったのでしょう。ピアノソナタ第1番は諸井三郎のベルリン留学中に作曲され、演奏には30分ほどの時間を要し、当時日本人によって書かれたピアノソナタの中では最長の作品でした。

シャルル・ケクラン~フランス音楽黄金期の知られざる巨匠(2)

文:佐藤馨

 今回から、シャルル・ケクランの足跡を辿っていく。彼が生きた19世紀末から20世紀半ばにかけては、フランスという国を揺るがす事件が相次いだが、それらはフランスの音楽界にも少なからぬ影響を与えるものであった。特に1870年に起きた普仏戦争は、それまでオペラ中心主義であった楽壇の姿勢を一変させ、ドイツ・オーストリアに対して器楽分野での競争意識を燃やさせる強烈な一撃となったのである。

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あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(15) 不揃いなシンメトリーと反復技法-3

3 Triadic Memories パターンとその反復

文:高橋智子

 80年代最初のピアノ曲「Triadic Memories」は1981年7月23日に完成し、高橋アキとロジャー・ウッドワードに献呈されている。ウッドワードが1981年10月5日にロンドンで世界初演を、高橋が1982年3月18日にバッファローでアメリカ初演を行なった。標準的な演奏時間は約90分。3/8拍子で始まり、曲の前半は拍子が一定だ。時折、譜表が3段になる。メトロノーム記号によるテンポ表示はないが、フェルドマンの後期作品で慣例とされている63-66のテンポで演奏すると曲全体の長さが90分に満たないことから[1]、これよりも遅く演奏されることがある。反復記号が頻出するが、具体的な反復回数は指定されていない。いくつかの録音を聴いてみると、反復回数には奏者によって2〜6回の幅がある。もう1つ、この曲の演奏で特徴的なのはペダルの使い方だ。ペダルを半分踏み込む、ハーフ・ペダルが曲の間中ずっと指示されている。フェルドマンはハーフ・ペダルのアイディアを友人で画家のサイ・トゥオンブリー[2]のジェッソ(キャンヴァスに塗る下地材)の使い方から得たと語っている。

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ショータの楽譜探訪記(2)「スペインの思い出(1)」

こんにちは、ショータです。連載記事「ショータの楽譜探訪記」の第1回目から随分と期間が空いてしまいました。先週、私のもとに信じがたいニュースが舞い込んできました。アレクシス・ワイセンベルクのご息女であるマリア・ワイセンベルクさんの訃報です。マリアさんは父アレクシスが遺した膨大な音源、コラージュ、ピアノ曲、ミュージカル等の数々の作品を少しでも多くの人々に知ってほしいという情熱からAlexis Weissenberg Archiveというウェブサイトを数年前(少なくとも6年前)から運営していました。なお後から触れますが、ミューズプレスから刊行中の「シャルル・トレネによる6つの歌の編曲」は、マリアさんの多大な尽力なしには実現できなかったと強く思います。

マリア・ワイセンベルクと私
(2017年1月・スペインにて)

あまりにも突然すぎる訃報に私は居ても立っても居られず、マリアさんとの出会いから「シャルル・トレネによる6つの歌の編曲」の出版までの思い出をここに書き残すことにしました。

マリアさんと実際にお会いしたのは2017年1月11日、アーカイブ兼住居のあるスペインのマドリードに訪れたときでした。しかし、実際にお会いする前からもメールで情報交換を行っており、メールの送信履歴を覗くと初めてのコンタクトは2016年5月でした。未だについ最近の出来事のように感じます。

マリアさんとやりとりを始めるきっかけとなったのは、Alexis Weissenberg ArchiveのCompositions/Other Scoresのセクションに一部掲載されていたワイセンベルクのピアノのための作品「Variation on a Popular Japanese Theme」(左画像)でした。ちなみに、”a Popular Japanese Theme”とは山田耕筰の「この道」を指しています。当時、私は日本歌曲をベースとしたピアノのための編曲作品がどのくらい存在するのか、個人的な興味でリサーチしていたのですが、日本人による編曲は見つかるものの、海外の音楽家によるものはあまり見かけませんでした。そんな中、大ピアニストであるアレクシス・ワイセンベルクが「この道」を主題とした変奏曲(Variationと単数形)を書いていると知った私は、すぐさま出版予定があるのか伺うメールをサイトのContact Usから送ったのでした。

知らない人にメールを送ったあとは、本当に返事がもらえるものかとそわそわするものです。有難いことにメールを書いた翌日にはすぐにお返事をいただけました。その時からマリアさんとのやりとりが始まりました。「My father loved Japan and I suppose this is a tribute to your country and its art.(私の父は日本を愛していました。この作品は日本、そして日本の芸術に対する敬意でしょう)」という文面で始まるメールには、今回は特別ということで無償で楽譜データも添付されていました。当時は”a Popular Japanese Theme”が何の曲かをマリアさんはご存じではなかったので、原曲の音源(YouTube)のリンクをお送りしました。

当然ながらマリアさんから頂いた「Variation on a Popular Japanese Theme」は自筆譜でした。当時、私は楽譜浄書家としてボランティアで自身が興味を持った楽曲の浄書を行っていましたので、すぐさまその自筆譜の浄書に取り掛かりました。2ページの短い楽曲だったので、3時間ほどで作業が終わりすぐにマリアさんにお送りすることができました。それまで私はあのワイセンベルクの楽譜を浄書することができるなんて、夢にも思っていませんでした。その後、マリアさんとは何度か連絡を交わし、ワイセンベルクのクラシック作品やジャズ作品などの出版計画があることを知ります。ヨーロッパの大手楽譜出版社にも声をかけていたそうです。一部ジャズ作品については著作権関係の問題の解決にも奔走していました。

約2か月後、私は別件でマリアさんに再び連絡をしました。ワイセンベルク編曲の「シャルル・トレネによる6つの歌の編曲」について尋ねるためです。この編曲はご存じの方も多いでしょうが、ワイセンベルクが1950年代にMr. Nobodyという匿名でLumen社よりリリースした作品として現在は知られています。2008年にピアニストのマルク=アンドレ・アムランが上記の編曲を含むCD「Marc-André Hamelin in a state of jazz」をリリースしたことにより話題となりましたが、2008年当時は「シャルル・トレネによる6つの歌の編曲」の楽譜は存在しないとワイセンベルクが語っていたために、アムランが採譜を行っての録音でした。CDがリリースされた頃、私はまだ高校2年生、どうしても楽譜を手に入れたいと高校の英語の先生に手助けを求め、アムランが所属する音楽事務所に英語でファンレターを送ったのでした。結局は返事は来ませんでしたが、後々(と言っても2018年あたり)になってアムランと話す機会がありトレネの話題にもなり「私が採譜したトレネ/ワイセンベルクの楽譜が欲しいというお便りをこれまでに沢山もらったが、著作権の関係もあって誰にも渡すことができなかった」と語っていました。ミューズプレスによって出版されるまで「シャルル・トレネによる6つの歌の編曲」は超入手困難の伝説の楽譜となっていました。

トレネ/ワイセンベルク「街角」:マルク=アンドレ・アムランの自筆譜

次回は、「シャルル・トレネによる6つの歌の編曲」がどのように出版に至ることになったのか、途方もない長い道のりを紹介します。