吉池拓男の迷盤・珍盤百選 (19) 演奏事故物件鑑賞会

VLADIMIR HOROWITZ live at CARNEGIE HALL  CD27/28 – SONY CLASSICAL, 2013年
EMIL GUILELS en concert – RODOLPHE RPC 32491, 1987年
Jorge Bolet plays Chopin, Mendelsshon, Liszt – ASdisc AS 123, 1993年

演奏は生ものです。アクシデントは付き物。単なるミスタッチくらいなら、アクシデントに入らないでしょうが、人生と同様、何が起こるかわからないものです。

誰もが動画を撮り、誰もが世界に発信できる時代、YouTubeでいくつか有名になっている演奏事故動画があります。たとえば、ラローチャがモーツァルトの27番だと思ってリハに行ったら、ラフマニノフの2番をオケは用意していて急遽変えたという1983年の動画。わりと冷静に曲の変更をこなしていますが、出来ちゃうのが凄い。さらに有名なのが、ピリスがモーツァルトの協奏曲をアムステルダムのランチコンサートで弾こうとしたら、予定してたのとは違う20番の協奏曲が始まって愕然とし、オケの演奏が続く中、絶望的な表情で指揮者と交渉する動画。ピリスが「この曲の楽譜は家に置いてあるわ」と言えば、指揮者が「最近どこかで弾いてたみたいから大丈夫でしょ」と返し、結局、絶望的な表情のまま、弾き出して弾いてしまします。ピリスの暗い表情が20番の曲想にとてもよく合っています。ブラジルのロドリゲスという女性ピアニストは演奏中にピアノが故障。結局、スタッフが色々努力するも修理できず、舞台上の(せり)(昇降リフト)で壊れたピアノを下ろし、新しいピアノを迫で上げてセッティングして再開します。で、このピアニストの凄いのは、その間、ずっとトークと色々なピアノ演奏を続けて客は大ウケ大喝采という一部始終の動画があります。もちろん彼女もピアノと一緒に迫に乗り一旦は舞台下に消えますが、ずっと弾き続けます。すばらしい芸人魂です。

演奏中のアクシデント、巨匠はどう対応した?

VLADIMIR HOROWITZ live at CARNEGIE HALL

こうしたアクシデントの記録を正規に商品として販売してしまった例はさほどありません。そりゃ普通は録り直すか、こんなの売らないでくれ、となりますからね。有名なのは1946年にシュナーベルがモーツァルトの協奏曲第23番の第3楽章で度忘れして全然違うことを弾き出し、演奏が止まった例があります。これは海賊盤っぽいレーベル含めて過去に数回発売されています。では正規盤で出たのはといえば、私の知る限りホロヴィッツが多いのです。細かいことを言えば1930年スタジオ録音のラフマニノフ第3協奏曲第3楽章再現部で何をとっちらかったか違う調で数小節弾いてしまった例や、1931年録音のラフマニノフの前奏曲op.23 no.5の後半でおそらく興奮のあまり何を弾いてるかわからなくなってる例があります。これらは録り直しや発売中止も出来たはずですが世に出ました。そのころ本人希望でお蔵入りになった録音も他の曲では沢山ありましたので不思議な「OK」です。で、これらとは違い本人ミスではないアクシデントは1968年11月24日のカーネギーホール・ライブ。ホロヴィッツ・ファンならご存知でしょうが、ラフマニノフの第2ソナタの第2楽章4分06秒のところで、ばちょ~~ん、という音がして弦が切れます。ホロヴィッツはそこから数小節は弾くのですが、ほどなく断念。客席からは拍手が起こります。伝えられている話では、調律師が真っ青になって舞台袖から駆け付け、切れた弦を必死に取り除いている最中、ホロヴィッツは調律師に優しく声をかけてニコニコしながら脇に立っていたとのこと(*1)。当然、弦を取り除き、調整して弾けるようになるまでにはかなりの時間がかかったと思いますが、そこは割愛されています。ホロヴィッツは弦の切れた個所の少し前から演奏を再開し、彼の弾いたラフマニノフのソナタの中でも一段と気合の入った演奏を繰り広げます。お見事なカバーリングです。

EMIL GUILELS en concert

さて、弦が切れたのにずっと弾いていたライブ盤もあります。演奏者はエミール・ギレリス。1966年7月20日、エクサン・プロヴァンス音楽祭のライブ中の出来事です。この日はベートーヴェンのソナタ21番と28番に続き、リストのソナタを弾きました。事件はリストのソナタで起きます。演奏開始から14分33秒後、第2部で盛り上がる395小節の2拍目の右手、fffで叩かれるBがバシッとキレます(参照楽譜の赤矢印の音)。ギレリスは動揺したのか396小節の左手の低音を濁らせます。さらに旋律線内に切れたBの音が出て来る399小節ではBの音の個所で楽譜にはないトリルを入れて瞬発的に繕おうとしたようです。もちろん切れた弦はほとんど鳴らないのでかなり聴き取りにくいですし、トリルにしても何の解決にもなりません。ただ、ホロヴィッツとは違い、ギレリスは演奏を止めることなく弾き続けます。おかげで420小節以降の静かな音階風フレーズではBは鳴らず、「スカッ」とか「カシュッ」とかなんとも哀しい音がします。なにせB-minorの曲なのでBの弦が切れたのは影響大。曲の後半でも至るところで「スカッ」「カシュッ」が淋しく響きます。ただ、演奏自体は実に堂々たるもの。お見事です。

Jorge Bolet plays Chopin, Mendelsshon, Liszt

もう一つおまけに違うパターンの事故記録を。おそらく正規録音盤ではないのですが、ホルヘ・ボレット(*2)が1972年1月5日にニューヨークで行った演奏会のライブ盤です。曲目はショパンのバラード全曲とリストのソナタなど。この日のボレットは好調で、特にバラード4曲はバラード演奏の中でも極上のものという評を読んだことがります。たぶん会場録音なので録音状態自体はあまりよくないものの、素晴らしい演奏と思います。で。このライブで想定外の事態が起きます。せっかくの名演が吹っ飛ぶようなまさかまさかの事態が。曲はバラード第4番。この曲の途中で観客の拍手が入るのです。場所はコーダに入る直前。一瞬静まる前にヘ短調の属和音(コードでいえばC)をfffで叩きますね。この場所で「あ、曲が終わった」と一斉に拍手が沸き起こるのです。確にその直前のボレットのアッチェランドはかなりのものですし、聴いてて昂まる気持ちはわからんでもないですが、音楽的にここは終わらんでしょ、普通。ボレットは拍手が収まるのを待って続きを弾き始めます。この時にボレットが聴衆に対して何らかのジェスチャーをしたのかどうかはわかりません。演奏家にしてみればかなり想定外の事態だったとは思いますが、こういうこともあるのですねぇ。そういえばオケの世界ではフルトヴェングラーが振ったチャイコの5番の終楽章のライブでコーダ前に拍手が起きるという有名な事象がありましたね。ボレットのライブはそれと並ぶ、もしくはそれ以上の想定外フライング拍手のような気がします。ちなみに本当にバラ4が終了した時の聴衆の熱狂はそれはそれは凄いもんです。思わずフライング拍手が出るくらいの稀なる演奏だったのです。

演奏事故物件は原則、世に出ません。ここに上げた諸々の件は演奏よりもドキュメンタリーとして鑑賞すべき類かも知れません。しかし、プロ中のプロの有事に対する振る舞いもまた、音楽を知る愉しみの一つと思います。ぜひとも世にも珍しい事故物件を皆様もお見つけくださり、そこのある演奏家の人間ドラマをご堪能ください。

(余談)
筆者がとある演奏家本人から聞いたアクシデントとしては、ABACA形式の作品を弾いたところ、ACAで終わってしまったというのがあります。本人はCを弾き始めて間もなく気付いたそうで、気分的には真っ青だったとのこと。ただ「結局、誰にも気付かれなかった」と笑い飛ばしておりました。さすがにこのライブの録音があったとしても世に出ることはないでしょうね。ちなみに、その作品とはシューマンのアラベスクです。

(補記)
*1:この時、調律師は舞台袖から新しい弦を抱えてやって来て必死に張り替えたという説もあります。
*2:編注 主に英語圏で活動したため、ジョージ・ボレットという読み方を常用していたとオフィシャルサイトにあります。日本ではホルヘ・ボレットという読み方が現在一般的ですが、かつてはホルヘ・ボレという表記が用いられていました。(スペイン語では単語末尾のtを読まないのが一般的)

【紹介者略歴】
吉池拓男
元クラシックピアノ系ヲタク。聴きたいものがあまり発売されなくなった事と酒におぼれてCD代がなくなった事で、十数年前に積極的マニアを終了。現在、終活+呑み代稼ぎで昔買い込んだCDをどんどん放出中。