(筆者:高橋智子)
フェルドマンの作品を見渡す際に最も重要と言えるのが記譜法の変化だ。この連載の初回から見てきたように、彼の創作の変遷は記譜法の変化と重なる。1950年から始まる図形楽譜、1950年代後半から見られる音価の定まっていない楽譜や極端に音符の少ない五線譜など、彼が書いた楽譜の数々にはその時期における彼の音楽観が強く反映されている。今回は図形楽譜に次いでユニークな記譜法である1960年代の自由な持続の記譜法を見ていく。
1. 「自由な持続の記譜法」にいたるまで
これまでのフェルドマンの記譜法の特徴と変遷を簡単に振り返ってみよう。1950年代のフェルドマンの創作は五線譜と図形楽譜の両方で試行錯誤を重ねていた。初期の図形楽譜の狙いについて、フェルドマンは「この曲(訳注:「Projection 2」)での私の願いは「作曲すること」ではなく、音を時間に投影し、ここには必要のない作曲のレトリックから音を解放することだった。My desire here was not to “compose”, but to project sounds into time, free from a compositional rhetoric that had no place here.」[1]と振り返っている。「Projections 1-5」(1950-51)「Intersections 1-4」(1951)といった初期の図形楽譜では慣習的な書法とは全く異なる地平での作曲の可能性を探求した。ただ、これまでも何度か述べてきたように、これら初期図形楽譜の楽曲では音高の選択が演奏者に任されているので即興演奏と混同されることが多く、実際の演奏においてフェルドマンの意図が完全に達成されることはほとんどなかった。この大きな問題を解決するために、前回とりあげた打楽器独奏曲「The King of Denmark」(1964)では演奏方法(この曲ではマレットやスティックの使用が禁じられている)と、曲の中で鳴らすべき音色がこれまでの図形楽譜より具体的に指示されている。一方、フェルドマンの五線譜の記譜法もその段階ごとに異なる様相を見せる。例えば第4回で解説した「Piano Piece 1952」(1952)や第5回で解説した「Piece for 4 Pianos」(1957)には小節線が書かれておらず、どちらの場合も拍節やリズムの感覚が希薄である。さらに「Piece for 4 Pianos」では4人の演奏者が同じ楽譜を見て演奏するが、演奏のペースは各自に委ねられているので偶発的な音の重なりによる響きが具現する。慣習的な五線譜、演奏結果が不確定な図形楽譜、今回解説する自由な持続の記譜法、それぞれの特性の違いがあるものの、フェルドマンの記譜法は3つの要素——作曲家の創造性、演奏者の創造性、音に内在する特性——が決して均等ではない力関係で絡まり合っている。音そのものに着目し、音に内在する特性を最大限引き出すために音高や音価(音の長さ)を不確定にした結果、実際の演奏では演奏者の創造性や個性が予想以上に前面に出てしまうのが1950年代前半の図形楽譜での試みだった。他の作曲家と同じく厳密かつ精密に記譜すれば自分の理想とする響きを得ることができるが、それは「音の解放」や「抽象的な音の冒険」といった自身の理念と矛盾するのだとフェルドマンは自覚していた。このような逡巡が図形楽譜や、小節線のない五線譜といった初期の記譜法に駆り立てたともいえるだろう。
1953年から58年までフェルドマンは図形楽譜を一旦中止し、「正確さ」を求めて五線譜の楽曲に専念する。しかし、以下の発言から、ここでも彼は満足な結果を得られなかったようだ。
だが、正確さも私にはうまくいかなかった。それ(訳注:五線譜による正確な記譜)はあまりにも一面的だった。まるでその記譜法は、どこかで動きを「生み出さないと」いけない絵を描いているようだった——私が満足できる可塑性はそこでもまだ得られなかった。やはりこの記譜法はあまりにも一面的だった。それは、どこかに常に水平線が引かれている絵を描いているようで、正確に作業しつつも常に「動き」を作り出さなければいけなかった——それでも私は充分な可塑性を得られなかったのだ。2つの管弦楽曲で図形楽譜に戻り、今度は「Atlantis」(1958)と「Out of Last Pieces」(1960)において個々のパッセージが最小限に抑制された、より垂直な構造を用いた。
But precision did not work for me either. It was too one-dimensional. It was like painting a picture where at some place there is had to “generate” the movement—there was still not enough plasticity for me either. It was too one-dimensional. It was like painting a picture where at some place there is always a horizon, working precisely, one always had to “generate” the movement—there was still not enough plasticity for me. I returned to the graph with two orchestral works: Atlantis (1958)[2] and Out of Last Pieces (1960) using now a more vertical structure where soloistic passages would be at a minimum.[3]
文中でフェルドマンは五線譜による記譜を2度も「あまりにも一面的 too one-dimensional」と評している。それは何を意味するのか。楽譜は音符を紙上に書きとめることによって成り立っており、通常このことは自明とされているし、楽譜は書かれた音符を演奏として具現する機能と役割を持った実用的な側面も備えていないといけない。これに疑問を挟む余地はないだろう。だが、たとえ楽譜の上に記された出来事であっても、何かが書きとめられて静止している状態、または固定された状態は、ジャクソン・ポロックによるドリッピングや、ウィレム・デ・クーニングによる荒々しい筆の動きとその痕跡をキャンヴァスに投影した抽象表現主義絵画に共感していた当時のフェルドマンにとって当たり前のことではなかったようだ。もちろん、実際に鳴り響く音に動きや方向を感じることができるが、フェルドマンは記譜にも可塑性や運動性を求めた。だが、楽譜や記譜に運動性や可塑性を持たせることは可能なのだろうか。楽譜をアニメーションで作成すれば、文字どおり音符が動く楽譜が実現するが、もちろん、ここでフェルドマンが言おうとしていたのはこのような即物的な話ではない。しかも時代は1960年代である。今のように誰もがコンピュータでアニメーションを作成時代できる時代でもない。では、この当時、フェルドマンが記譜に求めた可塑性とはいったい何なのだろうか。
たいていの五線譜の場合、拍子に即して音符を書き連ねることでリズムが生じ、音楽の輪郭や動きも生まれる。楽譜に記された音符の連なりと、そこから予測される動きや展開は楽曲のあり方、響き方、聴こえ方にも深く結びついている。従って、通常は記譜の精度が高いほど、記譜された音符と、実際の鳴り響きとの隔たりが縮まる。多くの楽譜は音符だけでなく、様々な記号や文言を駆使しながら、このような隔たりを縮めるための工夫がなされている。西洋の近代的な芸術音楽における記譜法の歴史を紐解けば、その歩みが記号や言語で曲のあらましを具体的に記述する方法を模索する歴史だったことがわかるだろう。一方、拍子、音価、音高のどれかを厳密に規定せず、どこかを必ず「開いておく」フェルドマンの記譜法では、五線譜と図形楽譜両方の場合において整数分割にきちんと当てはまらない特性が否応なしに出てきてしまう。むしろ彼自身はこの割り切れない、不合理な特性を1950年代の自分の音楽の独自性を打ち出すために積極的に打ち出してきた。輪郭のはっきりしたフレーズやパッセージといった言葉よりも、出来事やジェスチャーといった刹那的で何かしらの動きや曖昧さを含む言葉の方がフェルドマンの音楽を描写する際に向いている理由もここにある。始まり・中間・終わりのプロットに基づき、周期的な拍節に即した時間とともに展開する五線譜は、一目すれば事の成り行きをある程度、正確に見渡せるので、フェルドマンには「あまりにも一面的」で膠着した慣習に映ったのかもしれない。
図形楽譜を一旦休止して五線譜に専念し、それからまた図形楽譜に戻ったフェルドマンが作曲した2つの管弦楽曲「Atlantis」と「…Out of ‘Last Pieces’」は、第5回で解説したマース・カニングハムのダンス作品「Summerspace」のための「Ixion」(1958)と同じく、小さな渦のようなジェスチャーが次々と現れては消えていく散発的なテクスチュアの楽曲だ。「Atlantis」の編成はフルート、ピッコロ、クラリネット、バスクラリネット、ファゴット、コントラファゴット、ホルン、トランペット、トロンボーン、チューバ、ハープ、シロフォン、ヴィブラフォン、ピアノ、チェロ、コントラバス。「…Out of ‘Last Pieces’」の編成はオーボエ、バスクラリネット、バストランペット、バストロンボーン、打楽器(テナードラム、大太鼓、アンティーク・シンバル、グロッケンシュピール、ヴィブラフォン、モーター付グロッケンシュピール、シロフォン、テンプル・ブロック)、ハープ、エレクトリック・ギター、ピアノ/チェレスタ、ヴァイオリン、コントラバス。どちらの曲も中規模編成で、前回述べたように同時期の小編成の室内楽曲と同様にあまり見慣れない組み合わせから成っている。これら2曲はマス目に演奏すべき音の数、グリッサンドやピツィカートなどの演奏法、装飾音が記された図形楽譜で書かれている。他の図形楽譜と同じく具体的な音高は指定されていない。楽譜の外観からはフェルドマンが求めた可塑性はほとんど感じられないが、回転するジェスチャー、アタックを最小限に抑えたどこからともなく立ち上がってくる持続音、異なる音色の交差などの現象が、この2曲が生み出す動きの感覚に大きく寄与していることがわかる。これら2曲がもしも五線譜だったら、複雑な拍子とそのめまぐるしい交替、クラスターの頻出、不合理分割による連符が多用された譜面になっていたことだろう。理論上、この曲の記譜は正確で緻密な五線譜でも不可能ではないものの、一筆描きのような音のジェスチャーを実際の演奏で得るには、整数分割に基づいた既存の五線譜のシステムよりも、やはり曖昧さや不合理性に対して間口を開けておく図形楽譜の方が適しているといえる。フェルドマンが自分の楽譜の中に書きたかったのは直線や直角よりも、曲線や滲んだ線のイメージだったのかもしれない。
先の引用で「Atlantis」と「…Out of ‘Last Pieces’」についてフェルドマンは「より垂直な構造 a more vertical structure」と述べているが、音楽における垂直な構造の最もわかりやすい例は、音と音とが同じタイミングで垂直の方向に(縦に)重なってできる和音である。和音は単体では垂直な構造だが、規則に即して和音同士の連結を繰り返しながら全体へと発展する機能和声の場合、和音は連続性を獲得する。同じく旋律も音と音との水平な連続から生まれる。
音が出来事の水平な連なりとみなされるなら、水平な考え方に都合のよいものにするために音の特性すべてを抽出しないといけない。多くの人々にとって、今やいかにこうした音の特性を抽出するのかが作曲の過程となってきている。こんなに間隔が詰まった複雑な時間の秩序を明確にするために、ここでは差異を作り出すことが作曲の最優先事項として強調されていると言い出す人もいるだろう。ある意味、このアプローチから生まれた作品には「音」がないと言えるだろう。私たちが聴くのはむしろ音のレプリカだ。もしもこのアプローチでうまく行ったのならば、マダム・タッソーの有名な美術館の人形のいずれにも劣らず驚くべきことだ
When sound is conceived as a horizontal series of events all its properties must be extracted in order to make it pliable to horizontal thinking. How one extracts these properties now has become for many the compositional process. In order to articulate a complexity of such close temporal ordering one might say differentiation has become here the prime emphasis of the composition. In a way, the work result in from this approach can be said not to have a “sound.” What we hear is rather a replica of sound, and when successfully done, startling as any of the figures in Mme. Tussaud’s celebrated museum.[4]
ここでのフェルドマンは、水平な、つまり連続的に流れる時間の秩序に即して作曲し、記譜することで音の特性が失われるのだと主張する。このような方法で作曲された音楽の中で鳴る音と聴こえる音は音の複製物(レプリカ)に過ぎず、音そのものを聴いているのではないというのが彼の考えだ。複製物ではない音を追求し、「水平」を忌避したフェルドマンが試みた「より垂直な構造」の中では、音が立ち現れるその都度の出来事やジェスチャーが各自の中で完結する。水平で連続する時間の中での音(ここでのフェルドマンはこれを音とは認めていないが)とは異なり、そこでは前後の論理的なつながりはほとんど重視されない。むしろ、それぞれの音は連続性を生み出すことがないように注意深く配置されている。これは1950年代、1960年代までの彼の多くの楽曲に当てはまり、彼はパターンとして認識できる音の動きをできるだけ回避することで、連続性とは異なる楽曲の進み方と時間の感覚を獲得した。
2. 自由な持続の記譜法の楽曲 「Durations」1-5(1960-1961)
「より垂直な構造」という新たな概念を見出したフェルドマンは五線譜で書かれた小編成の室内楽曲シリーズ「Durations」1-5を1960年に始める。前回は、この時期のフェルドマンのオーケストレーションと音色の用法が楽器や声の特性を活かすよりもそれぞれの音色の出自を曖昧にする効果を狙っていたことを解説した。様々な音色をほぼ均等に扱う彼のやり方は、一見ランダムな図形楽譜の高・中・低音域が実はほぼ同じ割合で配置されている全面的なアプローチを思い出させる。「Durations」シリーズは全5曲が拍子記号と小節線のない五線譜で書かれている。拍子や拍節がなく、さらには符尾のない音符で占められたこの記譜法では、それぞれの音価(音の長さ、持続)が演奏者に委ねられていることから、「自由な持続の記譜法 free durational notation」と呼ばれている。自由な持続の記譜法は1950年代の図形楽譜に次いでフェルドマンの特筆すべき記譜法である。既に1950年代後半にこの様式の記譜が用いられていたが、「垂直な構造」の発見により、この記譜法は「自由な持続の記譜法」として定着する。この新たなシリーズについてフェルドマンは次のように語っている。
「Piece for Four Pianos」と他の同様の楽曲では、演奏者たち全員が同じパートのスコアを読む——そこで経験するのは、同じ響きの源泉から生じたリヴァーヴの連続のような効果だ。「Durations」では、それぞれの楽器が各自の独立した音の世界の中で自分たちの独立した生を生きる、さらに複雑な様式に到達した。
In “Piece for Four Pianos” and others like it, the instruments all read from the same part—and so what you have there is like a series of reverberations from an identical sound source. In “Durations” I arrived at a more complex style in which each instrument is living out its own individual life in its own individual sound world.[5]
「Piece for 4(Four) Pianos」や「Two Pianos」(1954)は同じ楽器の複数の奏者が同じ楽譜を用いるが、それぞれのペースで曲を進めていく方法で演奏されるので、ここでフェルドマンが言うように、同じ音色が時間差でリヴァーヴ効果のように聴こえてくる。一方、彼の新たな「さらに複雑な様式a more complex style」の「Durations」は、上記2曲と同じく演奏者が各自のペースで演奏するが、今度は異なる楽器による室内楽曲編成なので、当然そこでは同時に様々な種類の音色が鳴り響く。聴こえてくる音色の種類と幅が増えることによって、響きの構造も複雑さを増すと同時に、聴き手が感じる時間の性質にも変化が生じる。Saniによれば、「Durations」でのフェルドマンの意図は「聴き手の聴覚的な記憶を消し去ること。つまり、その前に起きたことに対する聴き手の音楽的な意識を混乱させること to erase the aural memory of the listener, and that is, to confuse the listener’s musical awareness of what had come before.」[6]にある。通常の楽曲、特に調性音楽ならば曲を聴き進めていくうちに、その旋律などが記憶に残り、曲の途中や後半で再び同じものが現れるとそれを察知できるが、フェルドマンの音楽はそのような慣れや親しみを歓迎しない。一度、曲の中で以前に起きたことは二度と同じかたちで現れないか、もし再び登場したとしても、それ以前の音高と半音1つ分だけ違っていたり、音域や演奏パートが異なっていることがあるので、まったく同じものが現れる可能性はとても低い。彼の音楽はわざと覚えにくく作られていると言ってもよいだろう。楽譜を見ずに耳だけで音を追いかけていると、この覚えられなさ、馴染めなさはさらに強まる。聴き手の感覚や記憶に挑むかのような傾向は1960年代から1980年代の晩年の長大な楽曲に至るまで、彼の創作の中で徐々に増していく。「Durations」シリーズの意図的な記憶抹消効果は「String Quartet II」(1983)、「Piano and String Quartet」(1985)といった後期の演奏時間の長い楽曲の予兆としても考えられる。
アルトフルート、ピアノ、ヴァイオリン、チェロによる「Durations 1」(1960)は4つのパートの楽譜上での重なりによってできる156種類の和音から構成されている。これらの和音の大半はトーン・クラスターのような半音階的な重なりによってできている。そのうちのどの1つも構成音が完全に一致する同じ和音はない。「Durations 1」の標準的な演奏時間は約10分。この10分間に耳に入ってきた音の響きを記憶し、それらを呼び起こすことはとても難しい。人間の記憶は反復によって強化されるが、この曲ではある音が反復されたとしても常に微細な差異を伴うので、その現象が他の現象と同一であると認識するに至らない場合が多い。
「Durations」シリーズをはじめとする自由な持続の記譜法で書かれた楽譜の和音は、楽譜の中に記された音符の縦の重なりとしての外見上の和音に過ぎない。実際の演奏の中では、和音としての音のまとまりや重なりよりも、それぞれのパートが各自のペースで鳴らす音の散発的な響きが多数を占め、ここで私たちが主に耳にするのは音の揺らぎと余韻である。「Durations 1」の場合は156種類の音の重なりの瞬間が記譜されているが、それらは全てがタイミングを揃えて鳴らされるわけではないので、楽譜上の音と、聴こえてくる音とは必ずしも一致しない。楽譜に記された音符でたどっている音の動きや楽曲のあらましは楽譜の中の出来事であり、演奏によって現れる響きとは別の次元にあるともいえるだろう。
「Durations 3」も聴き手に記憶の拠り所を作らせない音楽だ。「Durations 1」同様、聴き手がこの曲の音の動きを追ったり、覚えたりすることは難しい。「Durations 3」の編成はヴァイオリン、チューバ、ピアノ。楽譜には小節線が引かれていない。曲全体はテンポ表示の異なる短い4つの部分——Ⅰ:Slow, Ⅱ: Very Slow, Ⅲ:Slow, Ⅳ:Fast——に分かれている。どのパートもアタックをできるだけ抑えて演奏されるはずだが、筆者はCD等の録音を聴くと、高音域で鳴らされるチューバの音に最も注意を惹かれてしまう。パートⅠは全ての楽器が一斉に音を鳴らすテュッティで始まり、3つの楽器が徐々に中心から離れるように各自のペースで進む。パートⅡはテュッティで始まるのではなく、チューバ、ピアノ、ヴァイオリンの順で始まる。全ての楽器の響きが渾然一体となった「Duration 1」と違い、ここではそれぞれの楽器がある程度の独立性を保っている。パートⅡと、速いテンポで演奏されるパートⅣは比較的それぞれの音の動きを追いやすいが、反復や覚えやすいフレーズが出てくるわけではないので、やはり記憶し難い音楽には変わりない。
テュッティで始まるパートⅢは4つの部分に分けることができ、DeLioはこれらの部分をジェスチャーと呼んで分析している[7]。表の最上段の数字は3つの楽器の垂直な重なり(楽譜では和音に見える)を示す。このような垂直な重なりから生じる全体的な響きを、DeLioの方法に倣い、曲の進行に伴うテクスチャーの変化に即して4つのジェスチャーに区分けした。ジェスチャー1は1-15番目、ジェスチャー2は16-21番目の、ジェスチャー3は22-29番目の、ジェスチャー4は30-37番目の音の範囲である。表中の塗りつぶしはF#、G、A♭の3音が現れる箇所を示す。
Durations 3 パートⅢ
ジェスチャー1 *( )はヴァイオリンのハーモニクス
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | |
violin | A♭4 (D♭5) | A♭4 (D♭5) | A♭4 (D♭5) | A♭4 (D♭5) | A♭4 (D♭5) | F#5 (B5) | F#5 (B5) | F#5 (B5) |
tuba | F#1 | F#1 | F#1 | F#1 | F#1 | G2 | G2 | G2 |
piano | G5 | G5 | G5 | G5 | G5 | A♭6 | A♭6 | A♭6 |
9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | |
violin | G4 (C5) | G4(C5) | G4 (C5) | G4(C5) | A♭5 (D♭6) | A♭5 (D♭6) | A♭5 (D♭6) |
tuba | A♭3 | A♭3 | A♭3 | A♭3 | F#2 | F#2 | G1 |
piano | F#2 | F#2 | F#2 | F#2 | G6 | G6 | F#7 |
ジェスチャー2
16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | |
violin | G4 | F#5 | A♭3 | G3 (C4) | F#4 | A♭6 |
tuba | F#3 | A♭2 | F#4 | G3 | A♭1 | G5 |
piano | A♭2 | G5 | G5 | F#1 | G5 | F#3 |
ジェスチャー3
22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | |
violin | D4 | F5 | G♭4 | A3 (D♭4) | G6 | F4 | G5 G6(装飾音) | |
tuba | A2 | G1 | C#3 | D2 | A3 | G3 | B♭3 | |
piano | A♭6 F#2 | G4 A♭6 | C4 B5 | B4/A♭4 F#2/G3 | C1 | A♭4/G5 F#3 | A♭4/G5 F#3 |
ジェスチャー4
30 | 31 | 32 | 33 | 34 | 35 | 36 | 37 | |
tuba | C3 | B1 | D2 | B♭1 | E3 | D#3 | G#1 | C2 |
表を見ると、ジェスチャー1とジェスチャー2に出てくる音高が半音階的に隣り合った3音——F#、G、A♭——に限られており、曲の半分以上がこの3音で占められている様子がひと目でわかる。ここまでの範囲は各楽器間での3音の受け渡しだけで構成されている。だが、3つの全く異なる種類の楽器の音色と、その都度変わる音域の組み合わせから、ここまでの範囲がたった3つの音でできていることを耳だけで把握するのはあまり簡単ではない。
ジェスチャー3から曲の様相が徐々に変化する。ピアノの音高は大半が依然としてF#、G、A♭を占め、この曲の響きの枠組みを守っているように見えるが、ヴァイオリンとチューバはこれまで登場しなかった新たな音高を少しずつとりいれ始める。DeLioは「曲のテクスチュアがさらに異質で断片的になる結果として、それぞれの楽器が新たな、より独立した役割を果たし始める。The instruments begin to take on new, more independent roles as a result of which the texture becomes more heterogeneous and fragmented」[8]と指摘する。これは、最初は同質かつ均等に扱われてきたヴァイオリン、ピアノ、チューバの三者の間に微かな関係性の変化が生じていることを意味する。特にチューバはその後も存在感を増して行き、曲を締めくくるジェスチャー4ではついにチューバ独奏となる。ジェスチャー4でのチューバは、ジェスチャー3での極端な跳躍に比べると、旋律のようななめらかな動きさえ見せる。今までの3音による同質的なテクスチャーは、まるでこのチューバ独奏のための序章だったかのようだ。
「Durations 1」も「Durations 3」も特に劇的な音楽的効果は用いられていない。特に「Durations 3」は一見、同質なテクスチャーが楽器や音域の配置によって微細な差異を獲得しながら静かに進むので、今聴いている音と、その前に聴いたはずの音とがそれほど遠くない関係にあるのだと気づきにくい。複雑でとりとめのない音楽に聴こえるが、楽譜を見てみると限られた音が少しだけ姿を変えて現れるだけで、実はそれほど複雑な構造ではないことがわかる。次にとりあげる「For Franz Kline」ではその傾向が強まり、楽譜と鳴り響きの関係もさらに乖離する。
3. 「For Franz Kline」(1962) スコアを眺める目が泳ぐ曲
「Durations」シリーズと同じく自由な持続の記譜法で書かれた「For Franz Kline」(1962)の編成はソプラノ(ヴォカリーズ)、ホルン、ピアノ、チャイム、ヴァイオリン、チェロ。前回はこの曲のオーケストレーションが楽器独自の音色を活かすのではなく、むしろそれを消し去ろうとしていることを指摘した。このような音色の抽象化はこの曲が捧げられた画家、フランツ・クラインの黒と白を基調にしたモノトーンの作品と重なる。今回は楽譜と実際に聴こえてくる音との乖離に着目してこの曲を見ていく。
score: https://issuu.com/editionpeters/docs/fm22
ペータース版のスコア冒頭にはフェルドマンによる演奏指示が書かれている。
最初の音は全ての楽器が同時に鳴らす。それぞれの音の持続は演奏者に任せられている。全ての拍はゆっくりと。全ての音は最小限のアタックで。装飾音をあまりにも速く演奏すべきではない。音と音の間に記された数字は無音の拍を示す。ダイナミクスはとても控えめに。同じ弦で鳴らされる音の時はピツィカートで再び鳴らすのではなく、最初のピツィカートを維持できるよう指を弦の上に強く落とす。ホルンの音については楽譜のとおり。
The first sound with all instruments simultaneously. The duration of each sound is chosen by the performer. All beats are slow. All sounds should be played with a minimum of attack. Grace notes should not be played too quickly. Numbers between sounds indicate silent beat. Dynamics are very low. For sound occurring on the same string, instead of rearticulating pizz., drop finger heavily to carry through the sound of the first pizz. Hn. sounds as written.[9]
弦楽器やホルンの具体的な演奏指示以外は「Durations」シリーズとほとんど変わらず、ゆっくりとしたテンポ、最小限のアタック、速すぎない装飾音、全休符とほぼ同じ意味を持つ数字が記されたフェルマータ(上記の演奏指示では「音と音の間に記された数字」と表現されている)は、この時期のフェルドマンの楽曲にとっては定番の事柄といってもよいだろう。「Durations」シリーズの一部でも既に用いられていた、同じ音符を結ぶ点線の登場頻度が「For Franz Kline」では格段に増している。この点線は通常の五線譜におけるタイと同じ役割を持ち、点線で結ばれた拍の分だけ音をのばす。点線で結ばれた持続音はその場面に求められている響きの土台を作るともいえるだろう。
曲の出だしではソプラノのE5(3拍分)、チャイムのD4(5拍分)、チェロのF3(4拍分)が点線で結ばれている。対して、残りのピアノ、ホルン、ヴァイオリンは単音を1つ鳴らす。このように、冒頭では持続音と散発的な音とが対比されている。他の自由な持続の記譜法による楽曲と同じく、全パートが始めにほんの一瞬、揃った後、それぞれが各自のペースで進む。
スコアをただ眺める限りでは1950年代後半の五線譜の楽曲に並んでなんとも言い難い楽曲なのだが、少し詳しく見ていくと、この曲を構成する3つの要素を見つけることができる。1つ目は点線で結ばれた持続音、2つ目は他の音とつながりを持たない独立した単音または和音、3つ目はいくつかの単音のまとまりからできるジェスチャー[10]。この3つの視点で楽譜を見ると、先に言及した「Durations 3」パートⅢのように曲の進行に伴って徐々に変容するテクスチャーと、さらには先にあげた3つの要素の役割が明確になってくることがわかる。
スコア1ページ目は3つの要素全てが満遍なく出揃った賑やかな見た目だ(実際の鳴り響きは賑やかではないが)。1ページ目前半では、幅広い跳躍のチェロの3音のジェスチャーに重なるように、ソプラノが7度音程による2音のジェスチャー(A4-B3)を歌う。フェルマータ2つ分の休止を経て、ソプラノの10拍、つまり音符10個からなる長めのジェスチャーが続く。このソプラノのジェスチャーもフェルドマンが好んで用いる7度音程(D4-C5、G5-A♭4、A♭4-B♭3、F4-E5)を主としている。7度音程を基調とするソプラノのジェスチャーは1ページ目後半にもA5-B4-C#4の3音として現れる。ヴォカリーズで声を用いる場合、フェルドマンは声と他の楽器の音色とをほぼ同質に扱う傾向にあるが、ここではピアノ、ヴァイオリン、チャイムが和音を鳴らし、ホルンとチェロが音をひきのばす中でソプラノのジェスチャーが唯一の連続する動きとして際立たせられているように見える。他に目を引くのは、徐々に積み上がっていくチャイムの和音(D4-F4-C#5-E5)と、1ページ目の後半で複数回鳴らされるピアノの和音(D3-F#3-F4-A♭4-E♭5)だ。この和音は3拍分ひきのばされた後、左手の2音が1オクターヴ上に移高し、フェルマータを挟んで3回繰り返される。
2ページ目に入ると、ソプラノに加えてホルン、ヴァイオリン、チェロがジェスチャーを担う。ピアノとチャイムは引き続き和音に徹し、場面全体の響きの土台を形成している。この2つのはざまで、時折ピアノとチェロが和音を単発で鳴らす。混沌とした1ページ目に比べて、2ページ目以降からは混沌がやや収まり、先に述べた3つの要素を見つけやすい。
3ページ目のジェスチャーは、ソプラノのE♭5-C5からなる反復的な音型、その後の息の長い10音(B3-E♭4-D4-A♭4-C5-C#4-E4-G5- A♭4-B3)、音域の離れた2度音程を基調としたホルンの4音(G#3-A4-D♭4-C3)、ヴァイオリンによる3音(D5-G-5-F#6)、ページ最後のチェロによる4音(A♭3-D4-A4-F4)の5箇所である。点線で結ばれた持続音は各パートに満遍なく割り当てられている。このページの最後ではチェロ以外の全パートが点線で結ばれた持続音を鳴らす。
最後となる4ページ目にジェスチャーは現れず、チェロとピアノによるアルペジオの和音以外は持続音が全体を占めている。これまでは3つの要素がそれぞれのページに必ず現れて、動きと静止の両方の性格を曲中に見出すことができた。しかし、4ページ目では持続音が多数を占めるので、曲全体のテクスチュアが同質化し、静止している印象が強まる。
ここまでの記述は楽譜に書かれた音符だけを頼りに行ってきた。では、実際のこの曲はどのように鳴り響くのだろうか?読譜に慣れていれば、譜面だけで音の鳴り響きをある程度想像して再現できるし、スコアを目で追いながら聴くこともそれほど難しくない。だが、この曲の場合は事情が異なる。いくら曲を熟知していてもスコアを目で追いながら聴くのが難しい。なぜなら、ひとたび曲が始まると6つのパート全てが違うペースで進むので、時間の経過とともに各パート間の差異が明確になってくるからだ。どれか1つのパートが全体のテンポから大きく逸脱することはないものの、アンサンブルやオーケストラ編成での自由な持続の記譜による楽曲では、全てのパートの動向を一度に把握することは容易ではない。随所に挿入されるフェルマータもスコアに基づいた聴き取りを難しくする要因の1つだ。あるパートがフェルマータに記された数字の拍だけ無音でいる間にも、他のパートはそれを関知するはずもなく次々と音が鳴る。他のパートの音に気を取られているうちに、そのパートの無音の部分は終わり、既に新しい音が鳴ってしまっている。どこか1つを見ているだけでは不十分だが、だからと言って全体を見渡そうとしても、常に足並みが揃わないので全てが五里霧中になるような状況に陥ってしまう。加えて、それぞれのパートの音色の特性を活かさないフェルドマンのオーケストレーションがこの状況をさらに難しくする。このことは、普段、私たちが音のどの側面を頼りに音色を特定しているのかを逆説的に明らかにしている。演奏指示に記されているように、この曲で求められているのはアタックを極力抑えた演奏だ。彼の様々な楽曲で目にするこの演奏指示は音に対する彼の考え方を反映している。
音のアタックはその音の特性ではない。実際、私たちが耳にしているのはそのアタックであって音ではない。しかし、減衰は音の去り際の風景であり、音が私たちの聴取のどこに存在するのかを示してくれる——音は私たちに向かっているというより私たちから去り行く。
The attack of a sound is not its character. Actually, what we hear is the attack and not the sound. Decay, however, this departing landscape, this expresses where the sound exists in our hearing—leaving us rather than coming toward us.[11]
フェルドマンの考えに倣えば、音の特性はアタックではなく減衰、つまり音が消え行くプロセスにある。音の減衰は響きや余韻でもあり、これらは時間の経過と共に存在する。この曲の聴取に際しては無理に音色を特定しようとせず、声と楽器が混ざり合った響き全体を聴けということなのだろうか。だが、この連載では彼の音楽を楽しむだけでなく「知る」ことも目的としているので茫洋と聴き流すのとは違う聴き方を提示したい。
「For Franz Kline」を聴いていて最もわかりやすい音の目印はチャイムの音である。楽譜の中では声によるジェスチャーがこの曲の中で際立った存在だが、実際の鳴り響きでは楽譜から読み取ることのできる姿とは別の姿が浮かび上がってくる。楽器の特性を加味すると、アタックを極力抑えてもハンマーで打ち鳴らすチャイムからアタックを完全に消し去ることはできず、曲中では思いがけず強い存在感を放つ。チャイムのような、どうしても消し去ることのできない楽器の特性と音色が聴き手に道標を与えてくれる。スコアを見る目が泳いでどのパートがどこを演奏しているのかわからなくなったら、アルペジオのように1音ずつ積み重なるチャイムの響きを探してみてほしい。
楽譜は概念や創造性を具現し、表現する場であると同時に、演奏や記録のための実用性も備えている。それはもちろん「For Franz Kline」においても同じだ。この曲の出版譜は全6パートの音が垂直に整然と並んでいる。読譜から想像できるのは、6つのパートが一体となって1つの和音を作り、それが次々と鳴らされる響きだろう。しかし、先に見てきたように、「For Franz Kline」を実際に聴いてみると、スコアに整然と並んだ音符からは想像できない混沌が響きとして現れる。自由な持続の記譜法による楽曲では、楽譜と鳴り響きとの隔たりが大きくなる傾向があるが、この曲はその隔たりが「Durations」よりもさらに著しい。スコアを具に見れば見るほど、楽譜の中の音像と実際の演奏から現れる音像との距離がますます開いていくように感じるのだ。自由な持続の記譜法はむしろこの2つの縮まらない隔たりを是とし、聴き手の読譜と聴取の技量を試しているようにも思われる。
4. フェルドマンにとって記譜法とは? 伝統と革新、論理と直感との間
もしも、フェルドマンが楽譜と鳴り響きとの隔たりを縮めようと試みたならば、どのような記譜がこの曲に適しているのかを想像してみよう。先に見てきたように、アタックをできるだけ抑えて演奏される「Durations」と「For Franz Kline」には、複数の音の響きとその減衰が混ざり合って生まれる効果を聴かせる狙いがあると考えられる。これらの曲の楽譜の外見と実際の鳴り響きのイメージとを一致させようとした場合、均質に色が塗られ、形が整えられた音符の符頭が規則的に配置された楽譜ではなく、ぼやけた輪郭と不均質な濃淡の符頭が不規則な感覚でぽつりぽつりと配置された楽譜が浮かんでくる。演奏のための実用性を考慮しなくても済むのなら、作曲家が求める音のイメージを忠実に再現した楽譜はこのような姿になり、楽曲で求められている音のイメージを演奏者に対して具体的に喚起することもできる。今ここで勝手に想像している楽譜に記された、ぼやけた輪郭と不均質な濃淡の音符はクライン、デ・クーニング、フィリップ・ガストンら、この当時のフェルドマンと親しく付き合っていた画家たちの作風を彷彿させる。彼らの作品もまた、キャンヴァスという固定された媒体に衝動や運動を描きつける方法をそれぞれの方法で模索していた。フェルドマンが五線譜による正確な記譜法を「一面的」で可塑性を欠いているとみなしたことと、抽象表現主義画家がキャンヴァスに動きの要素をもたらそうとしたことは、その根底で同じ方向を希求していたといえるだろう。だが、フェルドマンは絵画に詳しかっただけでジョン・ケージのように絵の才能があったわけではなく[12]、同時代のフルクサスのような実験芸術にもそれほど共感していなかったので、記譜法そのものを根本的に覆す自分独自のセンセーショナルな楽譜を書こうとはしなかった。フェルドマンが楽譜の外観と音の関係に注意を払っていたが、楽譜自体の見た目の美しさや革新性にさほど関心がなかったことは、彼の最晩年に当たる1986年にオランダ南西部の都市、ミデルブルフで行われた連続講義での次の発言からわかる。
私はスコアがどんな風に見えるのかで頭がいっぱいだ——ほとんど数学的ともいえる等式に気付いた。自分の記譜法が狂えば狂うほど、それはよりよく鳴り響くのだった。視覚的な見た目が必ずしもこの種の音響を把握する鍵になるわけではなかった。だから私は記譜法にとても興味があり、図像的な魅力よりも、ポリフォニーから逸した音響的な現実性を記譜から得ようとしている。
I’m very involved with how the score looks—I found an almost mathematical equation: that the crazier my notation was, the better it sounded; that the visual look not necessarily was the key towards that type of sonic comprehension. So I’m very interested in notation, of trying to get the sonic reality of the piece, rather than its graphic attractiveness, which is out of polyphony. [13]
フェルドマンは例えばバッハが書いたようなポリフォニーの楽譜に見られる秩序や洗練を記譜に求めていなかった。このことは後述する学生への助言でも明らかだ。彼が1950年から始めた図形楽譜は歴史的に見ると革新的だが、左から右へと読むなど五線譜の仕組みを踏襲し、その外観も比較的単純だ。1960年代に本格化した自由な持続の記譜法も1つの曲の中に複数の音楽的な時間を創出する点での革新性を持っているが、五線譜を基調としているのでそれほど突飛な見た目ではない。彼は他の作曲家のように[14]音符そのものの形を変える自分独自の記譜体系を作ろうとはせず、五線譜の基本的な枠組みを維持した。
1960年代の自由な持続の記譜法では、楽譜の中の音符から
より精緻な五線譜による記譜法へと完全に移行した1980年のインタヴューで、フェルドマンは「少なくとも自分にとって、記譜法がその曲の様式を決める notation, at least for me, determined the style of the piece」[15]と発言している。この発言を受けて、図形楽譜または自由な持続の記譜法が五線譜に対する断絶を意味するのかとたずねられた彼は、「私はそれ(訳注:図形楽譜または自由な持続の記譜法)を本当に全く別個のものとして見なしている。ある人が彫刻も作れば絵も描くのと同じようなことだ。I saw it, very, very, differently. I saw it somebody does a sculpture and then does a painting.」[16]と答え、記譜法の選択はその時の自分の創作に適した語彙と手段であることを強調した。彼の作曲にとって記譜は音楽の様式を決める重要な事柄に変わりないが、どれを使うかはその時々によるということなのだろう。だが、実際の彼の作品変遷を見てみると、図形楽譜は1967年頃に終わり、自由な持続の記譜法は1970年代以降ほとんど用いられていない。フェルドマンは「伝統的な記譜法に回帰したことは本当になかった。I never really ‘returned’ traditional notation.」[17]と言っているものの、実際のところ1970年代以降の楽曲に用いられている五線譜の記譜法は年代が進むにつれて精度が上がって正確さが増し、彼がいう「伝統的な記譜法」にどんどん近づいて行っている。このような発言の矛盾はさておき、彼自身が言うように、記譜法がこの作曲家の音楽の様式を決めることはたしかであり、この連載でもこれまでに何度か言及してきた。1950年代、1960年代におよそ10年周期で記譜法を変えてきたフェルドマンは楽譜を書く作業をどのように捉えていたのだろうか。先に引用した1986年のミデルブルフでの講義で彼は学生たちを前にこのように語っている。
記譜法にまつわる考え方の全ては音符の配置についてのなんらかの思いつき、音符をここかあちらかに置いて、それを動かす際のアイディアを授けてくれる。私は何か形式的なことについて話しているわけではない。本能でやってのける人もいるだろうと言っているのだ。ここに音符を書けばあそこにも音符を書く。あなたたちは対位法をあまり勉強しなかったのでは?そうでしょう?ご存知の通り、対位法は楽譜のページ設計を見せてくれる点で役に立つ。すばらしいことだ。あなた方は本能の力を伸ばしている…
The whole idea about notation is to give you some idea of placement, of putting it here or there, moving the note around. I am not talking about anything formal, really. I am talking about one might even do it by instinct. You put it here and you put it there. You didn’t study much counterpoint, did you? No. Well, you see, what counterpoint does is it gives you a look of the design of the page. It’s marvelous. You develop an instinct…[18]
本能や直感に従って音符を書いていくことと、唐突に出てきた対位法がここで対比されている。これは作曲の基本的な訓練をどれほどしたのかを問うフェルドマンから学生たちへの皮肉のようにも見える発言だが、1960年代の自由な持続の記譜法によるフェルドマンの楽曲も完璧に構築された対位法の楽譜や記譜法とは全く相容れない。従って、上記の発言は学生への皮肉であり、フェルドマン自身に対する自己批判とも解釈できる。
本能や直感か、それとも規則や論理なのかという問いは、既存の作曲のレトリックの超克を模索したフェルドマンの創作に一貫する命題でもあった。最終的にフェルドマンは、「あなたたちはよい耳を持っている You have a good ear.」[19]と言い、対位法に長けたバッハのような俯瞰的な視野を持たなくとも作曲と記譜を発展させていく方法を学生たちに語る。フェルドマンはその具体的な方法として「正確に記譜し、それを眺めて、その楽譜の均整が取れているかどうか悩め。notate exactly and then you see and worry about the proportions」と学生たちに助言する。「だが、さらにうまくやりたいなら… もっとうまくやる方法を教えよう。とにかくもっと慎重になれ。But if you want to do it better…I tell you how to do it better. Just be more selective.」[20]と続けて彼は学生たちを鼓舞した。上記の発言から、フェルドマンにとっての作曲は、対位法のような音の設計と構築を指すのではなく、音をじっくり聴くことを通して、音を慎重に選び取り、それを楽譜に書き付けていく作業を意味するのだとわかる。だが、ここでの学生たちへの助言も素直に受け止めてよいものではない。「Durations 3」パートⅢの冒頭からしばらく続く3音の受け渡しのように、無作為に抽出されたかに見える音の配置であっても、楽譜を詳細に見ていくとそこになんらかの類縁性や関係性が浮かび上がってくることがよくある。直感的、本能的に書かれたかのように見える自由な持続による記譜でも、そこには音と音とのなんらかの関係性が必ずどこかに隠れているのだ。このことも1960年代前半のフェルドマンの楽曲の中で、楽譜と音の鳴り響きがいかに乖離しているのかを物語っているといえるだろう。
「垂直」を発見した1960年代のフェルドマンはしばらく自由な持続の記譜法を続ける。だが、「垂直」ばかりに気を取られていては、一見よくわからない楽譜に潜む微かな関係性や類縁性を見落とす危険があり、やはり記譜された音符を水平と垂直の両方向から見ていく必要がある。引き続き、次回は自由な持続の記譜法で書かれた楽曲と、フェルドマンのいう「垂直」についてさらに詳しく考察する予定である。
[1] Morton Feldman, “Autobiography”, in Essays, Kerpen: Beginner Press, 1985, p. 38
[2] ここでフェルドマンは「Atlantis」の作曲年代を1958年、「Out of Last Pieces」の作曲年代を1960年と書いているが、パウル・ザッハー・アーカイヴでの資料調査に基づいてSebastian Clarenが作成した作品カタログ(Claren, Neither: Die Musik Morton Feldmans, Hofheim: Wolke Verlag, 2000に収録)によると、前者の作曲年代は正しくは1959年、後者の作曲年代は正しくは1961年。「Out of Last Pieces」のタイトル表記はカタログ、出版譜、CD等では「…Out of ‘Last Pieces’」とされることが多い。本稿でも引用を除いて「…Out of Last Pieces」と表記する。
[3] Ibid., p. 39
[4] Morton Feldman, Give My Regards to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman, Edited by B. H. Friedman, Cambridge: Exact Change, 2000, p. 12
ここで言及されているマダム・タッソーの美術館とは、歴史上の人物や有名人の蝋人形を展示しているマダム・タッソー蠟人形館である。ロンドンを拠点に世界各国にこの蠟人形館がある。
[5] Feldman 1985, op. cit., p. 39
[6] Frank (Francesco) Sani, “Feldman’s ‘Durations Ⅰ’: a discussion”, in Morton Feldman Page www.cnvill.net/mfsani1.htm
[7] Thomas DeLio, “Toward an Art of Imminence: Morton Feldman’s Durations Ⅲ, #3”, originally published in Interface, vol. 12, 1983, pp. 465-480, published online in Morton Feldman Page https://www.cnvill.net/mftexts.htm in 2008. 今回はオンライン版を参照したので引用した箇所のページ数は不明である。
[8] Ibid.
[9] Feldman, For Franz Kline, Edition Peters, EP 6984, 1962.
[10] ここでの「ジェスチャー」は、先に引用したDeLioの用法(3つの楽器の全体的な響きから生じるテクスチャーの意味)とやや異なり、曲中に現れる各パートの音の連続とその動きを意味する。
[11] Feldman 2000, op. cit., p. 25
[12] フェルドマンの著述や講義録に掲載されているいくつかのイラストや図を見る限り、彼には絵画の才能とセンスがなかったことがわかる。
[13] Morton Feldman, Words on Music: Lectures and Conversations/Worte über Musik: Vorträge und Gespräche, edited by Raoul Mörchen, Band Ⅰ, Köln: MusikTexte, 2008, p. 58
[14] 例えばフェルドマンやケージとも親交のあったヘンリー・カウエル Henry Cowell(1897-1965)は1930年にNew Musical Resourcesを出版し、既存の五線譜とは異なる自分独自の理論と記譜体系の構築を試みた。
[15] Morton Feldman Says: Selected Interviews and Lectures 1964-1987, Edited by Chris Villars, London: Hyphen Press, 2006, p. 91
[16] Ibid., p. 91
[17] Ibid., p. 91
[18] Feldman 2008, op. cit., p. 296
[19] Ibid., p. 298
[20] Ibid., p. 298
高橋智子
1978年仙台市生まれ。Joy DivisionとNew Orderが好きな無職。
(次回更新は11月15日の予定です)