シャルル・ケクラン~フランス音楽黄金期の知られざる巨匠(1)


 例えば、1891年に23歳と遅い年齢でパリ音楽院に正式入学し、ジュール・マスネに学んだ後にはガブリエル・フォーレの作曲クラスで研鑽を積むが、そこでケクランは自らの創作に多大な影響を受けている。フォーレも彼には全幅の信頼を寄せ、劇付随音楽《ペレアスとメリザンド》の作曲ではケクランにオーケストレーションを委ねている。後に管弦楽組曲(Op.80)として編み直すにあたり、フォーレはいくつかの修正を加えているが、今日よく耳にする〈シシリエンヌ〉のみはケクランのオーケストレーションがそのまま採用されたといわれている。また、歌劇《プロメテ》Op.82の初演ではアシスタントをケクランに頼み、地方音楽院の視察で不在の折にはクラスの生徒への対位法とフーガの指導をケクランに代任するなど、信頼のほどがうかがえよう。
 ケクランの管弦楽編曲の手腕が発揮された仕事として忘れてならないのは、ドビュッシーのバレエ曲《カンマ》である。ドビュッシーによるピアノ譜はすでに出来上がっていたものの、なかなかオーケストレーションが着手されなかったため、すでにフォーレの《ペレアスとメリザンド》(その後、フォーレからの紹介でサン=サーンスの《ロラ》Op.116の編曲の仕事も請けている)で編曲家として名を上げていたケクランに、デュラン社が白羽の矢を立てたのだ。ケクランはこの時までドビュッシーの音楽にはほとんど接してこなかったが、仕事に際してドビュッシーとの面会を重ね、最終的に作曲者本人が満足するレベルでオーケストレーションを行った。この時、ドビュッシーはケクランに自分でバレエを書くように促したというが、ケクランの控え目な性格もあり、残念ながらこれが実現することはなかった。これ以後、ケクランの中ではドビュッシーの音楽に対する愛好の念が深まったようであり、1927年には彼の伝記も出版している[4]
 フォーレ、ドビュッシーときて、あと近代フランス音楽の重要人物といえばモーリス・ラヴェルがいる。ケクランとラヴェルはパリ音楽院にいた頃からの友人で、フォーレの作曲クラスの同僚であった(二人の年齢差は8歳)。ケクランのパリ音楽院の同僚は錚々たるメンツで、最初のマスネのクラスにはフローラン・シュミット、レイナルド・アーン、ジョルジュ・エネスク等がおり、フォーレのクラスに移ってからは新たにモーリス・ラヴェル、ジャン・ロジェ=デュカス等が同僚として加わった。20世紀前半の音楽界を彩る名前ばかりで驚かされる。こうした才能ある音楽家たちの中で研鑽を積むことは、ケクランにとってどれ程の刺激になったか分からない。話を戻すと、音楽院卒業後に二人の間柄が再び緊密になるのは1909年である。ラヴェルはこの頃、国民音楽協会の運営委員会メンバーとして組織に属していたが、かねてから協会の旧態依然な姿勢に不満を募らせていた。ある日、ケクランへ宛ててラヴェルは一通の手紙を書いている。

「新しい協会を作ろうと計画している。もっと独立しているものだ、少なくとも最初のうちはね。この考えには多くの人が惹かれている――あなたも仲間に入りませんか?」[5]

 ケクランを国民音楽協会とは異なる新たな組織の立ち上げに誘う内容であった。ラヴェルは新協会の創設にあたって、まず初めにケクランに手紙を宛てたようである。ケクランはこの申し出を快諾して、その後も次々と仲間が集まり、新しく「独立音楽協会」が発足したのである。会長になったのはガブリエル・フォーレで(国民音楽協会の会長も務めていた)、実際のところ、独立音楽協会のメンバーの多くはフォーレの弟子でもあった。こうして、近代フランスの楽壇を二分する「国民派vs独立派」の構図が出来上がるわけだが、この事件のまさしく渦中でラヴェルとケクランは新しい息吹を求め、徒党を組んでいたのである。
 その前衛気質からケクランと意気投合していたのが、エリック・サティだった。この二人は生年が1年違いとほとんど歳が近く、楽壇における作曲家としての独立した姿勢、自分の創作に対する頑固さも同様な似た者同士であった。ケクランが回想するところでは、サティと出会ったのは1892年とだいぶ早い時期だったようだが、当初はこの作曲家を測りかねており、ようやくその音楽の真価に気がついたのは独立音楽協会のコンサートにおいてだったという[6]。バレエ・リュスが1917年に初演した《パラード》がパリでスキャンダルを巻き起こすと、そこで音楽を担当したサティは一躍時の人となったが、直後に彼はケクランに宛てて「ディアギレフの好きなもの、そして必要としているものを知るべきだ。こんなことを言うのも、僕は君に高い評価を受けてほしいからなんだ」とディアギレフへのコンタクトを促す手紙を送ったり、1918年には「新青年」というサティの周囲に集まった若手作曲家のグループに加わらないかと招待したりと、ケクランに様々なアプローチを行っている。自らの名声や知恵を活かして、ケクランを引き立てようとしていたのかもしれないが、それ以上にお互いの強い友情が垣間見られよう。「新青年」は後の「六人組」の前進とも言える団体だったが、ひどく短命に終わり、ケクランもここに強く関わることができなかった。六人組とジャン・コクトーが当初サティを祭り上げていたのは皆の知るところだが、彼らのうち何人かとサティの間柄はある時から険悪なものになり、サティはプーランクやオーリックなどを毛嫌いするようになってしまった。しかし、ケクランはこの音楽家に対して変わらぬ愛情を示し、それは彼の死後も変わらなかった。