吉池拓男の迷盤・珍盤百選 (23) 珍曲へのいざない その2 麗しき泥船、その名は「全集」

珍曲を探し求める泥沼旅には頼りになる気がする泥船が浮かんでいます。その船の名は「全集」。私の嗜好領域のピアノ音楽の世界で言えば「Complete piano works of “作曲家”」と銘打たれたCDです。とにかく一人の作曲家のピアノ音楽が全部聴ける。主要作品から半端作品、場合によっては未完成や断片作品まで聴ける。しかも人生全般にわたってピアノ曲を書いた作曲家の場合は、作風の変遷を通じて作曲家の人生行路まで辿れるような気がして来る、それが麗しき泥船「全集」の魅力です。

今のCD業界の全集発売攻撃は凄まじいものがあります。ピアノCDの世界で全集をよく出している3つのピアノ重視レーベルから「ピアノ作品全集」が出ている作曲家を並べてみましょう。(2020年9月現在)

★PIANO CLASSICS★
DebussyPintoBernsteinShamo武満RavelUstvolskaya

★TOCCATA CLASSICS★
PeykoRespighiHermannEllerEnglundBeckLevitzkiHurlstoneR. MalipieroTajčevićLyadovO’BrienReichaBuschRameau

★GRAND PIANO★
Saint-SaënsWeinbergA. TcherepninBalakirevPonceSamazeuilhVoříšekBabadjanianLe FlemMosolovEnescuKaprálováArutiunianLouriéKvandalGlinkaRoslavetsKalomirisSatieStanchinskyBersaLutosławskiAntoniouKuulaBarjanskyBalassaHarsányiRotaMokranjacBottiroli

「全集」以前に「誰やこいつ」という人がたくさん並んでます。ドビュッシーなど有名作曲家の全集も今更作ってどうすんのと思いがちですが、新発見作品とか異稿とか編曲ものとかが次々と加わり、よりパワフルになってきています。例えばGRAND PIANOから出ているSaint-Saëns全集などは、VOXから40年くらい前に出ていたDosse盤には収録されていなかった作品が世界初録音9曲含めて13曲入っています。さらに聞いたことのない作曲家の数々。そのピアノ曲がコンプリートで聴けてしまうのですから、ほんと、イイ時代です。もちろん他のレーベルからも有象無象の作曲家の「ピアノ作品全集」が出ていますので泥船の楽しみは尽きません。もうひとつ。「全集」の有難いところは、刊行中の出版物にもIMSLPにも楽譜がなく、存在すら掴みづらい楽曲を知ることができる点にあります。「全集」企画者たちの楽譜集めの苦労は相当なものと思われますが、世界には結構無名の作曲家でも研究対象にしている人がいるので、研究者さえ見つかればなんとかなるものかもしれません。

さて、これまでに手にした「全集」の中で印象に残っているものを3つほどご紹介しましょう。

【Grieg Piano Music  Einar Steen-Nokleberg(p)  NAXOS 全14集】 1995年

収録曲の多さで度肝を抜かれたSteen-Noklebergのグリーグ全集。音楽的に重要な作品ではないでしょうが「ノルウェーの旋律 全152曲」がCD3枚に渡って収められていたのには驚きました。さらにはいくつかの短いスケッチだけで終わったピアノ協奏曲ロ短調(断片)とかも収められていました。有名なイ短調の協奏曲と比べたらイマイチな音楽だったのは否めないものの、なかなかに興味の湧く素材です。この全集録音(発売当時は1枚ずつ出た)は何よりも演奏のレベルが素晴らしく高いのです。ピアノの音やフレージングから北欧音楽の香りが凛と漂い、この録音さえあればもうグリーグのピアノ曲の他の録音はいらんなぁとしみじみ思わせた、まさに「全集録音の鑑」。

【Mily Balakirev The Complete Pino Music  Alexander Paley(p)  ESS.A.Y 全6集】1994年
【Mily Balakirev Complete Piano Works  Nicolas Walker(p) GRAND PIANO 全6集】2013~20年

今から40年くらい前、バラキレフに「ショパンの2つの前奏曲の主題による即興曲」というけったいなタイトルのピアノ曲があることがわかったのですが、ネットもIMSLPもなかった時代に実態が全く分からずにいました。1994年にPaleyのバラキレフ全集が出て、ようやく確認できた喜びは今も記憶に残っています。ショパンの前奏曲op.28の第14番変ホ短調と第11番ロ長調の動機を使って5分くらい拡大・展開させた作品でした。特に第14番。原曲は急速な両手ユニゾンの作品ですが、少しテンポを落として分厚い和音交互連打作品へと大化けさせています。残念ながらPaleyの演奏は技巧的に不満要素が多く、GRAND PIANOレーベルから出ているNicolas Walkerの全集録音(他には音楽史上の即興曲を集めたアルバムのMargarita Glebovの演奏)の方が遥かに良く、バラキレフのアホさ加減がもりもりと伝わってきます。なお、Paleyより後から出たNicolas Walkerの全集録音にはピアノソナタop.3などの世界初録音曲に加え、バラキレフがショパンのスケルツォ第2番のラスト2ページくらいを大胆に書き換えたびっくりヴァージョンも収録されています。後出し全集充実の法則ですね。

【Cyril Scott  Complete Piano Music  Leslie De’Ath(p)  DUTTON  全5集(9枚)】2005~9年

異国情緒あふれるピアノ曲「Lotus Land」で有名なスコットは、他にもピアノ曲を沢山遺しています。この全集録音を買って初めて知った珍曲が、第3集に収められている「2台のピアノのためのバッハによる3つの小品」。2声のインヴェンション第8番BWV 779、イギリス組曲第2番BWV 807のサラバンド、フランス組曲第5番BWV 816のジーグを2台ピアノ用に自由にアレンジした作品です。最も手の込んでいるのはBWV 779で、イギリス民謡系近代音楽風味のゆったりとした序奏部(*1)が1分くらいあった後、おなじみのBWV 779が始まります。当然ピアノ2台なので次第に音は足されて行きます。1分ほどで原曲通りの進行が終わると、スコットによる独自の展開が始まります。これが近代和声に彩られ、中々にお洒落で面白い。正直、他のスコットの膨大なオリジナルピアノ曲より優れモノです。続くBWV.807は和声を厚めにしているくらいであまり変えていません。BWV 816もほぼ原曲通りの進行ですが、曲の最後の構成を変えて前半のジーグ主題を回帰させ、高らかに鳴らして締めくくるようにしています。この流れは自然であり、高揚感も原曲以上です。この全集録音盤を買わなかったら、作品の存在に気付くことも無かったでしょう。スコットくらいの知名度ではWikipediaにも作品リストがろくになかったりするのです。本当にありがたい泥船です。

これらの作曲家以外にも沢山の全集録音が出ています。主要作曲家以外で聴いたのは、Sgambati、Turina、JongenFieldGraingerC. Schumann、Wiklund、RodrigoMompouGuastavinoGinasteraPaderewski等々。GodowskyBortkiewiczSéveracも全集に近い状況になってきています。その一方でMoszkowski、Friedman、Tournemire、Pierné、Chasinsは出そうで出ないですねぇ。世界の誰か、がんばって! 

AmazonやYouTube Musicの配信にも多くの全集録音が登録されています。泥船はすでに乗り易い船団となって貴方をお迎えする準備を整えています。ぜひ皆様のご乗船を心よりお待ち申し上げます。泥沼の泥船ではありますが……。

*1:この序奏部がスコットのイギリス民謡風のオリジナルではなく、バッハの何らかの作品の変容である可能性もあるが、筆者の知識の中ではわからなかった。CDの解説にも何の言及もない。

【紹介者略歴】
吉池拓男
元クラシックピアノ系ヲタク。聴きたいものがあまり発売されなくなった事と酒におぼれてCD代がなくなった事で、十数年前に積極的マニアを終了。現在、終活+呑み代稼ぎで昔買い込んだCDをどんどん放出中。