文:佐藤馨
1950年12月31日、地中海を望む南仏のカナデルにて、一人の音楽家がその生涯に幕を下ろした。同地に建てられたこの人物の墓には、「私の作品の精神と私の生涯を全うする精神は、何よりも自由の精神である」[1]という言葉の後に、「シャルル・ケクラン――作曲家」と墓碑銘が刻まれている。この「作曲家」という肩書は、彼自身が生前にそう呼ばれることを望んだものだった。しかし、83年にわたる長い生涯の中で、その望みが十分に果たされたとは言い難い。
フランシス・プーランクなどの弟子たちを育て上げた教育者、『和声法』や『対位法』などの名著で知られる理論家、長らく各誌上で健筆を揮った批評家――同時代のこうしたケクラン評に比べれば、彼のことを作曲家として評価する人は遥かに少なかった。そもそも、シャルル・ケクランという名前を知っている人が少なく、1935年のある新聞記事[2]ではその知名度の低さがユーモア交じりに表現されている。
「音楽賞がシャルル・ケクランに贈られるらしい。知ってるかい?」
「シャルル…シャルルねえ…。君が言いたいのって、チャーリー・チャップリン?」
「そんなことだろうと思ったよ。十中八九、音楽が好きな人でさえ、シャルル・ケクランを知らないか、何か別の似たものと彼の名前を混同しているんだ」
もちろんこれは、Charles KoechlinとCharlie Chaplinの綴りが似ているからというジョークだが、こんなふうにネタにされるくらいには、当時はケクランの名が知られていなかったということになる。とはいえ、自分にとってのアイドルでもあったチャップリンに勘違いされるというのは、彼にしてみれば満更でもなかったかもしれないが。
さて、シャルル・ケクランの名がこれまで世間に浸透してこなかったのには、いくつかの理由が考えられるだろう。作品番号で226にものぼる膨大な作品を残し、創作の全容が把握できないこと[3]。同時代のいかなる流派にも与せず、ゆえに音楽史的な分類ができないこと。そもそも作品自体が難解であること。先述のように、むしろ作曲以外の業績で知られてしまい、作品が霞んでしまったこと。こうした様々な要因や偶然の重なりから、作品の普及は思うように進まず、彼の名は音楽史のメインストリームから外れた所に置かれてしまっている。
しかし、生前からケクランの音楽を認め、その真価を知らしめようと力を尽くした人たちがいたのも事実だ。友人のダリウス・ミヨー、弟子のアンリ・ソーゲやロジェ・デゾルミエールらは積極的に彼の音楽を紹介し、広める手伝いをしていた。そして近年でも、指揮者のハインツ・ホリガーなどが録音を通してその普及に力を注いでいる。こうした人々の地道な努力のおかげで、今日まで忘却を免れ、少数ながらも熱烈なファンを得てきたという連綿たる歴史がある。巷では「忘れられた作曲家」と称されることも多かろうが、一方で彼の音楽を愛する人が絶えた例はこれまでなく、再評価ブームやネット時代の情報取得の容易さも相俟って、かえって現代の方がケクランを知る人が多くなったとさえ感じられる。昨年末に音楽之友社から、国内初の本格出版譜として『ケクラン:やさしいピアノ作品集』が刊行されたのは記憶に新しいが、この作曲家を積極的に受け止める雰囲気がここ日本でも出来つつあるのだとすれば、嬉しい限りである。そう考えると、シャルル・ケクランが一体どのような人物であったのか、その人生と創作を振り返りながら紐解いていくのは、まさに今やるからこそ価値ある仕事なのだと思う。
この作曲家の足跡をたどってみると、思いの外、近代フランス音楽のさまざまな人物に関わりを持っていることが分かる。それは単純にこの時期のフランス音楽を愛好する人を楽しませるのみならず、近代フランス音楽の様相を再考する上でも重要な手がかりとなる。