六人組の面々は、ケクランとそれぞれ関りを持っている。アルテュール・オネゲル、ジョルジュ・オーリック、ルイ・デュレの三人とは、主に1930年代の共産主義運動のなかで同志であった。ジェルメーヌ・タイユフェールは1916年から23年まで、散発的にケクランのもとで指導を受けている。特筆すべきはフランシス・プーランクとダリウス・ミヨーの二人との関係であろう。1914年にケクランとの知遇を得たダリウス・ミヨーは、彼の音楽を高く評価しており、特に多調性や複調性の語法において大きな影響を受けている。また演奏者としても、ケクランの《ヴィオラソナタ》Op.52の初演を行っている。ミヨーはその人脈の広さでケクランにさまざまな人を紹介したが、その中の一人が、当時まだ22歳のフランシス・プーランクだった。すでに作曲家として成功を収めていたプーランクは、それでも自らに研鑽の必要性を感じ、1921年にケクランへ弟子入りを願う手紙を書いている。
「様々な事情と、とりわけ、1921年1月に終えた三年間の兵役のために、これまで私は一貫した勉強をしてきませんでした。そのため、私は知性よりも本能に従ってきたのです。今すぐにでも、ここから脱して、自分を『本気で』あなたの手に委ねたいのです。あなたが私のような独学の弟子を受け入れてくれることを、私の無知があなたを不愉快にさせないことを願っています。私はあなたのもとで『音楽家』になりたいのです」[7]
ケクランはこの手紙に快く応じ、三年間にわたって彼を指導した。プーランクが正式に作曲を師事したのはケクランただ一人だった。
同じ頃、六人組と袂を分かったサティは、新たに「アルクイユ楽派」という四人組のグループを設立した。当時のサティの居住地がアルクイユという場所だったことから、1923年につけられた名前だが、彼らはみなケクランに作曲を習ったという共通の経歴を持っていた。中でもロジェ・デゾルミエールとアンリ・ソーゲはケクランとの親交が深く、手紙のやり取りも多く残されている。25年にサティが没すると、グループは指導者を失って徐々に分裂していき、後まで作曲家として旺盛な活動を見せるのはソーゲのみであった。しかしデゾルミエールは優れた指揮者としてその才能を発揮し、1932年には「フェスティバル・ケクラン」で師の主要な管弦楽曲を演奏している[8]。
ここまで、ケクラン周辺の人物関係をいくつか挙げてみたが、彼が近代フランス音楽を彩るさまざまな人たちとの繋がりを持っていたことが理解されよう。面白いのは、彼の足跡を辿ることがすなわち、フランス音楽の重要な出来事を追っていくことになるという点だ。たしかに彼はどんな潮流にも属さなかったがゆえに、後代から見れば分類も理解も難しく、音楽史上の浮いた存在となってしまったが、逆に言えば近代フランス音楽の流行や派閥に縛られることなく、第三者的なオブザーバーとして参与できている。だからこそ、色々なシーンでケクランの名前を見つけることができるのだ。これでも、引き合いに出した各々のトピックについてはまだ詳述していない部分があり、もちろんこれら以外にも彼の経歴には注目すべき出会いや事件が多く秘められている。このように、今まで見えづらかったケクランとフランス音楽をめぐる関係性を解きほぐし、提示していくことで、この作曲家を改めて音楽史の中に据えるための手がかりを増やしていきたいと考えている。ケクランが独自の位置を占めていることに間違いはないが、それが音楽史上の突然変異なのではなく、しっかりと西洋芸術音楽の伝統と革新に繋がっているということが、最も重要なポイントだ。
ケクラン自身は自分の生き様をどのように捉えていたのか、最後に少し触れておきたい。ある時彼は、自らの人生について「不運の只中での幸運の連続」[9]だと語っている。多少自虐めいた表現にも感じられるが、同時にこれほど的確な言葉も他にはない。彼の生涯は言ってみれば、幾多の不条理と不幸に苦しめられながら、それでも夢を描くことを止めなかった人の道程である。幼い日の思い出、空想の世界、遥かな自然、銀幕の女性たち、人の生きるべき道、そして美、あらゆる理想に対する夢がこの人間を形作っている。
その夢に忠実であろうとするあまり、時に彼は世間から程遠いところまで、自由に音楽を飛翔させた。これが結果として、大衆からケクランを遠ざけてしまったのであり、その意味で彼が最も価値を置いた「自由の精神」は、自らを苛む苦境の元凶ですらあった。しかし、彼は自分の意志を抑圧せず、書くべきと感じたものを全て書きつけ、どんな教義にもルールにもとどまらない唯一無二の音楽を見出した。古代のギリシャ旋法から現代の無調まで、古今東西のあらゆる音楽を自在に消化した彼の創作が、とりわけ前衛を志す人々に受け入れられたのは当然の成り行きだろう。そうした特別な理解者が彼の回りに常にいてくれたのは、まさしく幸運なことだったといえる。
次回からは、本格的にケクランの年譜を追いかける。彼が生まれた時代、フランスは普仏戦争の開戦と敗北によって、大きな転換を余儀なくされる。その影響は社会情勢や政治のみならず、自国の文化にまで及ぶが、フランスの音楽界もこの事件を機に著しい変化を経験することになるのだ。
[1] « L’esprit de mon œuvre et celui de toute ma vie est surtout un esprit de liberté »
[2] Gringoire: le grand hebdomadaire parisien, politique et littéraire. 1935-12-20, p.17
[3] 作品番号が付されていないものも100作近くある。
[4] Koechlin, C.(1927).Claude Debussy. Paris: H. Laurens
[5] ポルシル, F.(2016).『ベル・エポックの音楽家たち:セザール・フランクから映画の音楽まで』安川智子訳,水声社,p.108
[6] Orledgeは、ラヴェルがサティのピアノ曲を演奏した1911年1月16日のコンサートだったと推測している。Orledge, R. (1987).Satie, Koechlin and the Ballet ‘Uspud’. Music & Letters, 68(1), pp.26-41
[7] ポルシル, F.(2016).『ベル・エポックの音楽家たち:セザール・フランクから映画の音楽まで』安川智子訳,水声社,p.145-6
[8] 「師へのこの献身ぶりは、一時『ケックランの元帥』というあだ名まで与えられるほどだった」ibid, p.146
[9] Koechlin, C. (1939/rev.1947) “Étude sur Charles Koechlin par lui-même.” in Charles Koechlin 1867-1950 «Koechlin par lui-même» (texte inedit), La revue musicale, nº 340-341, p.41
【筆者略歴】
佐藤馨(Kaoru Sato)
浜松市出身。京都大学文学部哲学専修を卒業後、大阪大学文学研究科音楽学専攻に入学。現在は、同研究室の博士後期課程1年に在籍。学部時代はウラディミール・ジャンケレヴィッチ、修士課程ではシャルル・ケクランを研究。敬愛するピアニストは、ディヌ・リパッティ、ウィリアム・カペル、グレン・グールド。好きなバンドは、ザ・フー、ザ・ポリス、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン。
【著者出演イベントのご紹介】
ピアノコンサート“仏蘭西の軌跡”にて、著者・佐藤馨が演奏・トークを行います。第5部にて、ケクランの「デイジーハミルトンの肖像」Op. 140(抜粋)を演奏、解説いたします。
日時:2021年6月19日(土)13:00~19:30 開場:12:30
場所:すみだチェリーホール(東京都墨田区緑3-19-5-103)
入場無料
イベント詳細ページ:https://www.facebook.com/events/135692918350573/