文:高橋智子
1976年のベケット三部作、1977年の唯一のオペラ「Neither」を経たフェルドマンの音楽はその後どのように変化したのだろうか。今回は「Neither」以降の彼の音楽を知るうえで欠かせない事柄の1つ、中東地域の絨毯からの影響と、フェルドマンの後期作品を物語る概念「不揃いなシンメトリー」を考察する。
1. 絨毯との出会い1970年代後半からの変化
1977年6月にローマでのオペラ「Neither」世界初演を終えたフェルドマンは引き続き精力的に作曲活動を行なっていた。ベケットへの熱烈なアプローチによって実現した「Neither」の経験から、フェルドマンは1つの素材や内容を複数の異なる方法で繰り返すことへの興味を高めていった。繰り返しや反復への関心の高まりはベケットからの影響だけではない。1970年代後半から最晩年にかけての彼の音楽に大きな影響を与えたのはトルコ、イラン周辺の絨毯だった。なぜ絨毯なのだろうか。
ここ数年、私はペルシャ絨毯に夢中になっているが、私が求めていたものが絨毯の研究や収集とはほとんど関係ないのだとすぐにわかった。私は主にアナトリアの遊牧民の村ヨリュク[1]の3枚の絨毯による特別な例に魅了されている。19世紀のヨリュク村が選び取ったなかでユニークな特徴はムードだ。このムードはマーク・ロスコよりもジャスパー・ジョーンズに近く、ピエロ(訳注:・デッラ・フランチェスカ)よりもヴァン・ゴッホ寄りだ。キェルケゴールはこのムードを持っているし、それについて書いてもいる。音楽においてこのムードに遭遇することは滅多にない。
In recent years I have become preoccupied with oriental rugs, discovering quite soon that what I was looking for had little to do with either the study or the collecting of rugs. I am mostly drawn to special examples of three nomadic Yoruk rags from Anatolia. What the choice nineteenth-century Yoruk has that is unique is mood. This mood is closer to Jasper Johns than to Mark Rothko, tips over to Van Gogh rather than Piero. Kierkegaard both has it and writes about it. You rarely come across it in music.[2]
これは1980年にワシントンD. C.で行われたフィリップ・ガストンの回顧展「Philip Guston: 1980/ The Last Works」のカタログにフェルドマンが寄稿したエッセイからの抜粋である。当時彼はトルコの遊牧民の絨毯に夢中になっていて、この絨毯の全体的な雰囲気(ここでフェルドマンは「ムード」と呼んでいる)の唯一無二の性質について述べている。もちろんこのエッセイの中心的なテーマはフェルドマンから見たガストンの創作だが、ここで引用した箇所に限らず、いくつかの段落で彼は絨毯の魅力を熱く語っている。このように、突拍子もなく出てきたかのように見えるフェルドマンと絨毯との関わりだが、1970年代後半に彼の身の回りに起きた出来事をたどっていくと、彼が絨毯に魅了された理由が明らかになってくる。
インド哲学や仏教に惹かれたジョン・ケージと異なり、フェルドマンの創作は基本的にアメリカと西ヨーロッパの芸術や文化の範疇から逸脱しない。彼の楽曲のほとんどは西洋芸術音楽の慣習的な楽器を用い、1970年代以降の楽曲のほぼ全てが五線譜で記譜されている。インドや中東の音楽に見られる微分音が使用されることもなく、彼の楽曲の全ては十二平均律を前提としている。フェルドマンの音楽の響きそのものには、彼にとっての異国の要素、つまり東洋的な文化やオリエンタリズムの影響が一切ないといえる。だが、トルコやイランの絨毯との出会いによってフェルドマンの作曲に関する考え方や記譜法に変化が生じてくる。これは見逃せない事実である。手作業で織られる絨毯の織地やパターンを精査することによって、フェルドマンは「不揃いなシンメトリー」という概念を発見するのだった。
1977年夏[3]、フェルドマンとバッファロー大学のセンター・オブ・クリエイティヴ・アンド・パフォーマンス(以下、CA)のメンバー、ジャン・ウィリアムズ(打楽器)、エバーハルト・ブルーム(フルート)、ニルス・ヴィーゲラン(ピアノ)は「フェルドマンとソリストたち」を結成し[4]、シラーズ芸術祭出演のためイラン南西部の都市シラーズに赴いた。シラーズ芸術祭は当時のイラン国王夫妻(パフラヴィー国王とファラ・ディーバ王妃)によるイランの文化政策の一環として1967年から77年まで毎年夏にシラーズとその周辺で開催された大規模な芸術祭だった。東西両方の文化が集う場として、会期中は地元イランの伝統的な舞台芸術だけでなく世界各地の音楽、演劇、ダンスなどの公演が行われた。この芸術祭の特徴はイラン国内外の芸術家に作品委嘱を行っていたことだった。音楽ではヤニス・クセナキス「Persepolis」(1971)、ブルーノ・マデルナ「Ausstrahlung」(1971)、舞台作品ではピーター・ブルック「Orghast」(1970)、ロバート・ウィルソン「KA MOUNTAIN」(1972)などの作品がこの芸術祭をきっかけに生まれた。フェルドマン自身がピアノを演奏する場面があったようだが、[5]彼とメンバーたちが1977年の芸術祭で行なった活動の詳細は現時点では不明である。フェルドマンたちが出演した翌年の1978年の開催は国王に対するデモが激化して中止された。1979年にイラン革命によってホメイニ師が権力を握ると同時に芸術際自体が消滅した。[6]このような背景から、フェルドマンたちが出演した1977年が最後の開催年となった。この時のイラン滞在でフェルドマンは絨毯を初めて買ったと推測される。[7]
フェルドマンはなぜ絨毯に自身の音楽との接点を見出したのだろうか。フェルドマンのバッファロー大学時代の学生で、共に絨毯に没頭した作曲家のバニータ・マーカスは絨毯の結び目と音楽との接点を次のように語っている。マーカスによると、彼女とフェルドマンは、小さな四角い結び目による幾何学とモザイクの効果が常に抽象的な様相を生み出す絨毯の構成原理に魅了されたようだ。[8]小さな結び目の幾何学的な配置が抽象的な全体に結実する点で、絨毯を織ることは「作曲することにとても似ていた it was very similar to composition.」[9]。イランのシラーズで絨毯に出会って以来、フェルドマンにとって絨毯が新たな視覚芸術の形式となった。[10]絨毯への没頭はフェルドマンのかつての家業とも関係していた。
モーティは絨毯の角をつまみあげ、それをよく見えるように目の前に近づけて織り方を吟味していた。彼は家業の衣服製造業時代から繊維と織物、その感触と構造に敏感だった。彼はまるで高級な布地の切れ端を扱うようにそれぞれの絨毯をじっくり検証した。絨毯は柔らかくてしなやかでないといけない――長い間使ってきた証だ。硬さやチクチクする感触を避けなければいけなかった。
Morty would pick up a corner of a rug and bring it close to his good eye, examining the weave. He was sensitive to textile and fabric, its feel and its structure, from his days in the family garment business. He examined each rug as if it were an expensive piece of clothing. The rug needed to be soft and supple — the signs of use and age: any stiffness or scratchiness was to be avoided.[11]
マーカスの回想を読むと、家業の関係で糸や布に精通していたフェルドマンが絨毯の外見だけでなく手触りも重視していたことがわかる。よい絨毯の基準は下ろしたての硬い手触りよりも、長い間実際に使われてしなやかになった風合いにある。フェルドマンにとって絨毯は視覚以外の感覚も動員して味わうものだったのだろう。