シラーズ芸術祭の翌年、1978年7月下旬に絨毯を求めてフェルドマンはマーカスとトルコへ旅に出る。彼らはイスタンブルを起点にチャナッカレ、ベルガマ、イズミール、パムッカレ、コンヤ、アンカラ、イズミットの各地を訪ねて回り、行く先々で絨毯工房を見学した。[12]マーカスは、絨毯に用いられる様々な模様や型を刺繍したサンプラーが少女と大人の女性たちによって作られていることに感銘を受けたと回想する。[13]絨毯を織る女性の個性と長い伝統とが相まって絨毯が織られている様子を彼女は描写している。
不完全さがそこら中にある。ここに私たちは絨毯職人の真の個性を見てとる。彼女は完璧に「できるはず」なのに、そうしない方を「選んだ」。これは独立心と自由を何よりも重んじる文化なのだ。絨毯職人の技術は伝統の形式的な解釈によってだけでなく、大胆で思い切った動きを作り出す彼女の能力によって判断されるのが習わしだ。黄色に対してベージュでバランスを取ること、1つの区画の中に不釣り合いなイメージを漂わせること、あるいはパターンの流れの途中で意図的にパターンを変えること。こうした不完全さが絨毯のパターンを壊すというよりも、むしろこれらの伝統からの裂け目がその絨毯の独自性に対する深い敬意によって絨毯の価値を高めている。
Imperfections abound. Here we see the true personality of the rugmaker. She ‘could’ do it perfectly but she ‘chose’ not to. This is a culture that prizes independence and freedom above all. The rugmaker’s skill is going to be judged not only by her formal interpretation of tradition, but also by her ability to make bold and courageous moves: to balance beige against yellow, to float an incongruous image in a field or to deliberately alter a pattern mid- stream. Rather than the imperfections destroying the pattern of the rug, these breaks from tradition enhance it with a deep respect for its own singularity.[14]
伝統的な織りのパターンの技術を身につけている絨毯職人の女性たちは、それを忠実になぞるだけではなく、織る作業の中で彼女たちの個性や創造性から生じた斬新で大胆なパターンを混ぜていく。自由や個性は伝統に対峙する概念と位置付けられるが、絨毯の場合はこれらが1つの大きな面の中で一体となって「不完全さ」を作り出す。ここでの不完全さは欠陥や短所ではなくて、むしろ肯定的な意味合いだろう。伝統的な型を配置して完璧な調和を作り出しているように見える絨毯だが、その実、絨毯には不均衡や不調和や逸脱が必ず紛れている。伝統と職人の創造性の両方が織りなす絨毯の不完全さにマーカスとフェルドマンはますます没頭して行ったようだ。
絨毯が彼らの音楽に直接及ぼした影響として、曲の長さや規模にまつわる感覚があげられる。中東の絨毯のサイズには40×40cmほどのテーブルや机の上に置ける小さなものから、300×100〜200cmの部屋や通路全体を覆うほどの大きさのものまで様々だ。2010年にアイルランド近代美術館で行われた展覧会「Vertical Thoughts: Morton Feldman and the visual arts」[15]のカタログに掲載されている、かつてフェルドマンが所有していたいくつかの絨毯はおよそ160〜190cm×100〜125cmの比較的大きなものだ。離れて見ないと絨毯の全容を掴むのは難しい。一方、個々の模様やパターンを精査するには近付いて絨毯を凝視する必要がある。どこからどのように見るかによって、絨毯の全体像と個々の部分に対する印象が変わってくるのはいうまでもないだろう。焦点の遠近によって鑑賞者にもたらされる視覚的効果やイメージが異なる点で、1950年代、60年代のフェルドマンの創作と深く関わったジャクソン・ポロックやマーク・ロスコの大規模な絵画の鑑賞と、大きな絨毯を見つめる行為は似ている。ポロックとロスコの絵画も鑑賞者自身が作品との距離を取らない限り、または接近しない限り、全体と部分を把握できない。一瞥しただけではその規模や大きさを測ることができない点でも両者は共通している。フェルドマンの楽曲が1970年代のある時期から長くなり、編成も大きくなる傾向が出てきたのは以前この連載でも述べた通りだ。このような拡張や拡大の傾向は絨毯と出会ったことによってさらに拍車がかかったといえるだろう。
20分を超えるフェルドマンの楽曲の場合、スコアを精査すれば前後の音同士のなんらかのつながりやパターンを見出すことができるが、楽曲が長くなるにつれて個々の音やパターンが全体の中のどこに位置するのかがわからなくなってくる。自分が今どこにいるのか判然としない音楽の聴取体験は、巨大な絨毯や絵画を至近距離で観ている時に、全体と部分との距離や関係が曖昧になる感覚と似ている。マーカスはフェルドマンの音楽を聴いている時の、どこにいるのか、どの地点を聴いているのかわからなくなる感覚について次のように描写する。「最初の音の鳴り始めから私たちは独特の世界に足を踏み入れ、モーティはその世界を私たちのために「捕まえてくれて」いる。しかし絨毯の場合と同じように、その広がりの全体的な大きさはわからない。さらに重要なのは、私たちには「縮尺」の感覚がないことだ。From the very first sound we have entered a unique universe and Morty is ‘capturing’ it for us. But like in the rug, we have no sense of the field’s complete size, and more importantly, we have no sense of ‘scale’.」[16]大きな絨毯を目の前にしている時の状況と、曲のどの地点を聴いているのか徐々にわからなくなってくるフェルドマンの長い曲を聴いている時の状況を並べて考えてみると、どちらも人々がそこに没頭している時に生じる、作品に取り囲まれているような感覚を体験する場としての性格を持っているのではないだろうか。
絨毯における全体の大きさと個々のパターンとの関係はフェルドマンの記譜法にも示唆を与えたようだ。フェルドマンの全ての記譜法に共通するのは、水平と垂直との同時性に常に細心の注意が払われていたことだった。[17]記譜における水平と垂直との同時性についてマーカスは次のように語る。
モーティと私は、水平と垂直によるこのような同時性を「対位法」と呼ぶのを好んだ。(中略)対位法は音符、和音、オーケストレーション、拍子、1つか2つ以上の対象物を一緒に置くどんなところにも存在している。これが対位法の技術で作曲家というものだ。それぞれの対象物を配置すること自体で完成している。そこには前景も後景もない。全てが優先されるべき素材だ。同様の方法で絨毯職人は四角い結び目を別の四角い結び目に対して配置する。
Morty and I liked to refer to this ‘simultaneity of the horizontal and the vertical’ as ‘counterpoint’. (… ) Counterpoint existed in notes, chords, orchestration, meter, anywhere you placed two or more objects together. This is the skill of counterpoint and the composer: to ‘place’ objects so each has its own integrity. There is no foreground and background. Everything is primary material. In a similar fashion, the rugmaker places square knot against square knot.[18]
1960年代のフェルドマンの楽曲において「垂直」の概念が重要な役割を担っていたことはこれまでに何度かこの連載で解説してきた。さらに1970年代の楽曲、特に編成の大きなオーケストラ作品においては、スコアの中でそれぞれの音の出来事やパターンがブロック状に垂直に配置されている。同時に、ベケット三部作やオペラ「Neither」における半音階的な音型の執拗な繰り返しがスコアの中で帯状に水平に配置されている。このような水平と垂直との同時性あるいは同期をマーカスは「対位法」と呼ぶ。ここで定義された対位法では全ての音や素材は同等に扱われ、全てが大事な素材だ。ひとつの音を別の音に対して次々と置いていく様子は絨毯の結び目で織地を作る様子にも喩えられる。
絨毯のパターンの配置とデザインがフェルドマンの記譜に与えた影響として、グリッドの要素もあげられる。だが、1950年代のマス目を主体とした幾何学的な図形楽譜を思い出すと、フェルドマンの記譜におけるグリッドの要素は彼が絨毯と出会うはるか前に存在していた。また、1970年代の記譜における各パートのブロック状のパターン配置もグリッドの要素といえるだろう。絨毯に出会ってからのフェルドマンの記譜におけるグリッドはどのような特徴を持っているのだろうか。マーカスはフェルドマンのオーケストラ曲にその影響の一端が現れていると指摘する。
絨毯のデザインによる側面もモーティのグリッドの用法、つまり彼の1ページのキャンヴァスに影響を与えた。グリッドの感覚はモートンの記譜法に常に存在している。だが、絨毯への探求を経た1977年から1987年の円熟期に書かれた大規模なオーケストラ曲にグリッドがさらに顕著になった。
The design aspect of the rug also influenced Morty’s use of the ‘grid’, his one–page canvas. The sense of a grid has always existed in Morton’s notation. But it was after our adventure into rugs that the grid became clear in the large orchestral works he was doing in his mature period: 1977-87.[19]
フェルドマンの記譜におけるグリットの傾向の強まりは、例えば「Flute and Orchestra」(1977-1978)のスコアに見ることができる。
score: https://www.universaledition.com/morton-feldman-220/works/flute-and-orchestra-2481
タイトルが示す通り、この曲は協奏曲風の編成によるオーケストラ曲シリーズのひとつ。スコア4ページ目を見てみると、上段から順にハープとピアノによるグループ、3台のグロッケンによるグループ、3セットのティンパニによるグループ、フルート独奏をそれぞれのグリッドとみなすことができる。このページ下半分についても同じで、オーケストラのフルートのグループ、3台のグロッケンのグループ、3台の銅鑼のグループ、フルート独奏が独自のグリッドを形成している。しかし、よく見るとこれらのグリッドによるグループが全て同じ間隔で配置されているわけではない。このページの上半分の譜表ではハープとピアノは9/8拍子、グロッケンは3/4拍子で一貫しているが、ティンパニとフルート独奏は3/8、3/4、7/8、3/8、2/4、3/4、2/2、3/4、9/8、3/4、7/8拍子と、1小節ごとに拍子が変わっている。このページでは遠目では全てが整然と揃っているように見えるが、近付いて見てみると局所的な逸脱が頻繁に起きている。この不均等なグリッドは先述した絨毯職人の女性たちが伝統的な型に彼女たちの創造性をとりいれて、敢えて不完全にするやり方を想起させる。
絨毯のデザインと織り方に触発されたフェルドマンは1981年にエッセイ「Crippled Symmetry 不揃いなシンメトリー」を書き、自身の音楽におけるシンメトリー(対称、均整)の要素について語っている。タイトルからわかるように、ここでのシンメトリーは完全に均整のとれた左右対称を意味するわけではない。絨毯の織り地と同じく、どこかしらに逸脱が見られる彼のシンメトリーは常に「不揃い crippled」だ。