中近東の絨毯への興味が高まるにつれて、かつてから抱いていた、シンメトリーなものとシンメトリーではないものの概念に疑問を持つようになった。アナトリアの村や遊牧民の絨毯の場合、他の多くの絨毯の製造地に比べて鏡像の正確さと精度に対する関心が低いように思われる。私が予想していたように、アナトリアのシンメトリーのイメージの細部は決して機械的ではなかったが、イディオマティックに描かれている。
A growing interest in Near and Middle Eastern rugs has made me question notions I previously held on what is symmetrical and what is not. In Anatolian village and nomadic rugs there appears to be considerably less concern with the exact accuracy of the mirror image than in most other rug-producing areas. The detail of Anatolian symmetrical image was never mechanical, as I had expected, but idiomatically drawn.[20]
絨毯との出会いによって、フェルドマンはシンメトリーとシンメトリーではないものとの概念を改めて問い始める。彼の興味は絨毯の色やパターンにとどまらず、それらによって生成されるシンメトリーの性質にあった。ここで彼が述べているように、絨毯は機械的に織られているわけではないが、イディオム(慣用的な表現)が存在する。絨毯の特性に着想を得たフェルドマンは、イディオムの伝統的な用法と、イディオムからの逸脱が同時に存在している状態を自身の音楽に採り入れようとしたのだろう。彼は音楽のどの側面に不揃いなシンメトリーの概念を見出したのだろうか。このエッセイの続きでフェルドマンは、リズムやフレーズのどんな長さにもかかわらず不均衡なシンメトリーが20世紀の音楽の発展を特徴付けてきた[21]と述べ、微かな変異が入り込むヴェーベルンの不完全な鏡像形の書法に言及している。彼から見たポスト・ヴェーベルンのリズム書法は「シンメトリーな拍とアシンメトリーな拍との折衷に影響を与えたことだった。 was to effect a compromise between symmetrical and asymmetrical beats.」[22]その具体例として、フェルドマンは4拍分の長さを5分割する(5:4)などのリズム書法をあげている。[23]実際、フェルドマンの70年代後半以降の楽曲では4:3、6:5、 8:7といった複雑な分割のリズムがますます顕著になってくる。このような複雑な分割のリズム書法もシンメトリーの概念に着目した結果とみなすことができる。しかし、実際の聴取行為においてリズムがシンメトリー状に構成されているか否かを聴き取ることは不可能だ。規則的な連続性をできるだけ避けてきたフェルドマンのどの時期の曲も拍子や拍の感覚を音の鳴り響きから捉えるのは難しい。このように考えると、ここで言われているリズムのシンメトリーを私たちが直接感知できる場はスコアの中、つまり記譜に限られているのではないだろうか。フェルドマンがいうシンメトリーの概念は記譜の視覚的な要素と強く結びついているともいえる。
部分と全体と比や関係についてもフェルドマンは音楽と絨毯との間に共通点を乱している。
音楽と、絨毯のデザインや反復パターンはたくさんの共通点を持っている。たとえその配置が非対称であっても、1つの構成要素対別の構成要素の比が全体の背景のなかで度を越して不均衡になることは滅多にない。大きな絨毯から引き継いで、それを小さな絨毯に使う場合でも、最も伝統的な絨毯のパターンは同じサイズのままだ。同様に、ストラヴィンスキーのパターンの特徴は彼の楽曲が長くなろうと短くなろうと変わらないように見える。
Music and the designs or a repeated pattern in a rug have much in common. Even if it be asymmetrical in its placement, the proportion of one component to another is hardly ever substantially out of scale in the context of the whole. Most traditional rug patterns retain the same size when taken from a larger rug and then adopted to a smaller one. Likewise, the character of Stravinsky’s patterns does not seem to differ if a work of his is either long or short.[24]
大きな絨毯から選び取ったパターンを小さな絨毯に用いる時、そのパターン自体の大きさはなんら変わらない。フェルドマンに言わせれば、これと同様の現象は音楽にも見られるのだという。ここではストラヴィンスキーが例示されているが、フェルドマン自身も同じことを既に行なっている。「Viola in My Life」1-4(1970-71)におけるヴィオラの旋律、ベケット三部作と「Neither」におけるベケットの半音階的なモティーフは、同じ素材を異なる規模の編成の楽曲にそっくりそのまま当てはめた例である。6人の奏者による室内アンサンブル編成の「Routine Investigations」であれ、フル・オーケストラによるオペラ「Neither」であれ、ベケットのモティーフは変わらない。特定のモティーフは編成の大小に影響を受けることはない。これは絨毯におけるパターンの用法と同じである。1枚の絨毯を構成する個々のパターンと、その絨毯全体の大きさとの関係や割合は、フェルドマンに音楽における部分と個について考えさせるきっかけとなったようだ。
音楽における部分と全体との関係についてフェルドマンはさらに考察を進める。
作曲家としての私は、部分の合計が全体と等しくなることのない矛盾の中にいる。全体のであれ、部分のであれ、実際に表されている大きさはそれ自体に向けられた現象だ。事実、大きさに本来備わっている相互性は、音楽の形式とそれに関連する過程が本質的には素材の配置に他ならず、人の記憶を助ける以外の機能を持っていないのだと私に教えてくれた。
As a composer I am involved with the contradiction in not having the sum of the parts equal the whole. The scale of what is actually being represented, whether it be of the whole or of the part, is a phenomenon unto itself. The reciprocity inherent in scale, in fact, has made me realize that musical forms and related processes are essentially only methods of arranging material and serve no other function than to aid one’s memory.[25]
ここでフェルドマンが言っている「部分の合計が全体と等しくなることのない矛盾」は実際の彼の楽曲に見て取ることができる。例えば「Flute and Orchestra」のスコア1ページ目(本稿の前掲リンク参照)の木管楽器、金管楽器、ハープ、チェレスタ、弦楽器は5/16拍子で13小節、合計で16分音符65個分の音価。同じページのグロッケンシュピールは3/4拍子で5.5小節分(6小節目が半分で切れていて次のページに持ち越されている)、合計で16分音符66個分の音価。フルート独奏は3/8、3/4、7/8、2/4、3/8、2/4、3/8、3/4拍子の小節が連なり、合計で16分音符72個分の音価。これら3つの部分――木管から弦楽器までのグループ、グロッケンシュピール、フルート独奏――を比べてみると、それぞれの合計の音価が一致しない。特にここではフルート独奏が他2つに比べて長いのだが、実際の演奏を聴いてみると、これら3つのグループ間の顕著なずれはほとんど感知できない。1ページに書かれた拍数の各グループ間の総和が一致しないまま曲が進んで行くのだ。フェルドマンが言うように、部分の合計は全体と等しくないが、このような数の矛盾は音楽の時間の流れに完全に飲み込まれてしまっている。数が合わないことに対する異議申し立ては、ここではあまり意味をなさない。それぞれのパートは同じページ内に配置されて収まっているのでスコアの外見上は同期しているが、先の「Flute and Orchestra」のように、実際の演奏においてはそれぞれのパートやグループが各自のペースと長さで進む。このようなスコアと実際の鳴り響きの乖離は、1960年代の自由な持続の記譜法による楽曲にも見られた。ここでの乖離は音価を不確定にすることで生じる現象だ。対して70年代後半以降のフェルドマンの楽曲には、拍子の頻繁な変化や細かくて複雑な分割のリズムを特徴とする精度の高い記譜法が用いられている。スコアが内包する矛盾と、そこから生じるズレの効果は作曲家自身が意図的に仕組んだものといえる。