シャルル・ケクラン~フランス音楽黄金期の知られざる巨匠(2)

文:佐藤馨

 今回から、シャルル・ケクランの足跡を辿っていく。彼が生きた19世紀末から20世紀半ばにかけては、フランスという国を揺るがす事件が相次いだが、それらはフランスの音楽界にも少なからぬ影響を与えるものであった。特に1870年に起きた普仏戦争は、それまでオペラ中心主義であった楽壇の姿勢を一変させ、ドイツ・オーストリアに対して器楽分野での競争意識を燃やさせる強烈な一撃となったのである。

誕生

 1867年11月27日のパリで、シャルル・ルイ・ウジェーヌ・ケクラン(Charles Louis Eugène Koechlin)は、父ジュールと母カミーユ(旧姓ドルフュス)の7人目の子として生まれた。

 父方のケクラン家と母方のドルフュス家はともに、アルザス地方のミュルーズで数世紀にわたって栄えるブルジョワの家柄で、実業家、発明家、技術者、芸術家を代々輩出する名家であった。今後見ていくことになるが、後年のシャルル・ケクランにおける経済的な困窮、あるいは強い左翼的思想などに照らしてみると、彼が富裕なブルジョワの家に生まれたという事実は少々意外に思えるかもしれない。しかしながら、彼の社会的態度に関しては、それは先祖から受け継いだものだといえる。

 織物工場「ドルフュス・ミエッグ&カンパニー」(Dollfus-Mieg et Cie:現在も手芸糸のメーカー「DMC」として健在)を経営していた祖父ジャン・ドルフュス、そして織物産業のデザイナーをしていた父ジュールは、ともに労働者の福利厚生に深く関心を寄せていた。特にジャン・ドルフュスは、ミュルーズを初期の企業城下町の一つとして発展させ、慈善家としても知られる存在であった。それに比べるといささか地味ではあるが、ジュールも自らが雇用する労働者の賃金を上げるなどして、労働環境の改善に心を砕いていたという。紛うことなきブルジョワの家系に生まれながら、シャルル・ケクランが後に社会や政治に対する鋭い姿勢を見せ、共産主義者として資本主義やブルジョワジーを厳しく批判するようになったのは、彼らが強く育んだ社会的良心を継承したからでもあった。

 ケクランはまた、自身が「アルザス気質」と呼ぶところの性質を受け継いでいた。アルザスはフランスとドイツの中間に位置しており、歴史上、両国の係争地としてじつに6度も領有が変わった地域である。ゆえに、ドイツにもフランスにも帰属されない独自の地域文化と言語(アルザス語)が培われ、そして何より、アルザス人としてのアイデンティティが根づいたといわれる。ケクランが生涯にわたって重きを置いた自らの独立精神は、やはりこのアルザスの独立独歩な気風とも少なからぬ因縁があろう。ケクランにとってアルザス気質とは、精力と純真さ、そして彼の音楽と性格の核となる絶対的で純朴な誠実さ、これらの混淆であった。そして、このアルザス気質は自らの音楽にも影響を及ぼしていると彼は考えていた[1]。こうしたことからも、彼が自身の活動の根底で、出自や家系についての強い意識を持っていたことがうかがえる。彼が抱いていた正義の観念やプロテスタント的倫理観、貴族的本性、独立の精神、大衆への疑いの眼差し、そして何より、美を求める心[2]は、すでに彼が生まれた瞬間から規定されていたのかもしれない。

普仏戦争と国民音楽協会

 ケクランが生まれてから3年後、1870年に普仏戦争が勃発した。この戦争は第二帝政からパリ・コミューンを経て、第三共和政へと政体を転換させただけでなく、ドイツ・オーストリアを敵視したナショナリズムの高揚を引き起こした。

 芸術においても真にフランス的なものを求める声が強まるなかで、この翌年には「アルス・ガリカ(フランスの芸術)」をスローガンに、フランス人作曲家の手による器楽音楽の復興を目指して国民音楽協会が設立された。ジャン=フィリップ・ラモー[3]が18世紀半ばに他界してからというもの、フランス音楽ではオペラやサロン的な歌曲、オペレッタが創作の中心となっており、その一方で管弦楽や室内楽といった器楽作品の創作は軽視される状況にあった。むしろ、J.S.バッハという巨人に端を発して、器楽曲は専らドイツの領分であるという認識がフランス楽壇の間でもまかり通っていたのだ[4]。しかし、普仏戦争とその敗北をきっかけとした独墺への対抗意識は、フランスの音楽界にも著しく伝播し、フランス産の器楽音楽の機運が高まっていった。国民音楽協会の設立当初はカミーユ・サン=サーンスが会長を務めていたが、この時期の協会のコンサートでは、「存命のフランス人作曲家による新作」のみを演奏するという原則が掲げられていた[5]。このことからも、古典派(ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン)とロマン派(メンデルスゾーン、シューマン、ブラームスetc.)のおよそ1世紀にわたって器楽分野に君臨した独墺に対して、比肩しうるような器楽曲をフランスから生み出すことがいかに重要視されていたかが分かるだろう。そして協会設立から5年後の1876年、フランスの器楽音楽の嚆矢となる作品、すなわちフォーレの《ヴァイオリンソナタ第1番 イ長調》Op.13が作曲され、ついにフランス人の手による器楽曲への道が開かれることになる。

 フランス人作曲家に強くフォーカスするという姿勢は、1878年の第3回パリ万博の音楽展においても見られるものであった。この音楽展では、曲目をフランス音楽に限定するという原則が設けられていたが、特に存命作曲家を中心とするプログラムが組まれたのは時宜を得ていたと言えよう。万博の美術展の原則に倣ったためとはいえ、フランスの作曲家の作品が相当数まとまって取り上げられるのは、それまでにない画期的な出来事であった。またこの時は、外国からも音楽展への参加があり、なかでもロシア音楽のコンサートは演奏の素晴らしさも相まって、パリの聴衆に大きなインパクトを与えた[6]

 普仏戦争とその余波は、ケクランにリアルタイムでの音楽的影響を与えたわけではなかったが、彼の生まれ育った幼少期がすでにこのような歴史の流れの中にあったということは理解しておきたい。

音楽との出会い

 ケクランにとっての音楽にまつわる最初の印象は、彼の家族に関わるものであった。まだ幼い頃、彼は姉のマティルドが歌うマスネの〈スペインの夜〉や、姉のエリザベスがピアノで演奏するアルベール・ラヴィニャック編曲によるJ.S.バッハの〈聖霊降臨祭のカンタータ〉のアリアを耳にして、特別の感銘を受けた。とりわけ後者は、生涯をかけて敬愛することになる巨匠の音楽に、深い感嘆の念を抱いた最初の瞬間でもあった。1873年には初めてピアノのレッスンを受けるのだが、これはあまり感興をそそらなかったようである。曲が子ども向けのつまらないものだったことに加え、指が上手く動かせなかったせいで、幼いケクランはうんざりしてしまったのだ。それでも、ショパンの夜想曲はバッハの音楽と同じくらい、彼の心を魅了していた。

Charles-Wilfrid de Bériot (1833-1914) はフランスの作曲家・ピアニスト。パリ音楽院のピアノ教授で、門下にラヴェル、グラナドス、リカルド・ビニェスなどがいる。

 1874年、ケクランはシャプタル通りにあるエコール・モンジュに入学する(後にリセ・カルノーへと改名)。ここで催された、シャルル=ウィルフリド・ベリオというピアニストによる一連のリサイタルは、彼を本格的に音楽の世界へと誘うものであった。この出来事に感化されたケクランは、憧れのショパンを弾くため、再びピアノと向き合う決意をする。しかし本人曰く、「彼はちっとも神童ではなかった」[7]

 1882年4月16日、父のジュールが亡くなる。この時、ケクランは14歳であった。家族を喪った悲しみを紛らわすために、一家は祖父ジャン・ドルフュスが持っていたチューリッヒ湖畔のヴァーデンスヴィルの屋敷で、夏の休暇を過ごした。終生忘れえぬ印象を与えたこの8月の出来事は、およそ50年の後にピアノ組曲《古い田舎の家》Op.124で追想されることになる。彼はそこで、ナッテル氏の指導の下、またもやピアノのレッスンを受け始めるのだった。

 同じ頃、初めての作曲としてハンス・アンデルセンの『人魚姫』に基づく組曲が試みられている。しかし、求めるものと実際に出来上がるものとのギャップが大きいことが分かると、作品は放棄されてしまったようだ。この後、ヴィクトル・ユゴーの詩による歌曲も試みられたが、これもまた消息不明である。当時の彼にとっては、アンデルセンのおとぎ話や、『海底二万里』などのジュール・ヴェルヌの小説、そして数学や天文学や自然科学も関心の対象であった。特に、天文学への興味は大人になってからも絶えることなく、管弦楽のための夜想曲《天球に向かって》op.129(1923-33)は、天文学者カミーユ・フラマリオンの思い出に捧げられた。ケクラン自身も、作曲家を志す前は、市井で天文学の道を歩みたいと考えていたほどだった。

 15歳になると、ケクランはコンセール・コロンヌの演奏会、オペラ座、オペラ=コミック座、そしてピアノのリサイタルに足繁く通うようになっていた。ベルリオーズの《ファウストの劫罰》、グノーの《ロミオとジュリエット》、ビゼーの《カルメン》と《アルルの女》、マスネの《マノン》、《復讐の女神たち》、《エロディアード》、あとはサン=サーンス、ラロ、ドリーブ、これらの作品や作曲家が彼の美意識を刺激した。とりわけ、アントン・ルビンシテインがショパンの《ソナタ変ロ短調》を弾いた1884年のコンサートは、忘れ難いものであった。こうして音楽への気持ちが強まっていく一方、ケクランは水兵になりたいという夢も抱いていた。一時は海軍兵学校に入学する寸前だったが、いまや未亡人となった母を放っていくわけにもいかず、最終的にケクランはこの夢を諦めるしかなかった[8]。1885年の7月に数学と哲学のバカロレアを取得すると、彼はいくらかの逡巡の後、9月にエコール・ポリテクニーク(理工科学校、グランゼコールの一つ)のための準備学級に進んだ。

エコール・ポリテクニークへの入学と中退

 1887年10月、ケクランは無事に名門エコール・ポリテクニークへの入学を果たす。フランスでは一般大学(Université:ユニヴェルシテ)のほかに、エリート養成機関たるグランゼコールが存在し、ここへの進学はその分野におけるエリートコースだとされている。中でもエコール・ポリテクニークは、フランスの理系分野の頂点であり、現在までフランス社会への甚大な影響力を持っている。卒業生が「ポリテクニシャン(polytechnicien)」と、普通の大学卒業者とは異なる呼び方をされるのも、いかにこの学校が特別に位置づけられているかを物語っている。

 ところがケクランは、なおも音楽への熱が冷めやらず、学内ではピアノを弾き、合唱団で歌い、室内楽の会を催し、学生オーケストラのために古今のレパートリーの編曲を行うなど、音楽活動に邁進するばかりであった。演奏会にも相変わらず頻繁に通い、フランク、ワーグナー、そしてボロディンやリムスキー=コルサコフなどロシアの作曲家達の音楽に触れた。なかでも、J.S.バッハの《ミサ曲ロ短調》の演奏は、彼に格別の印象をもたらした。また、フォーレの音楽と出会ったことで、それまでお気に入りだったサン=サーンスとマスネは彼の中で降格されてしまった。