しかし、もともと病弱な体質だったこともあり、在学中の1888年2月にケクランは結核に罹患してしまう。そして療養のため、約三カ月間をアルジェリアで過ごすことになる。この滞在中に、彼は写真への興味を育んでいる。登山と並び、写真は彼にとっての一生の趣味となるものであった。後の1897年にヴェラスコープという3D写真機を購入したケクランは、それから1940年まで旅行に際して常にこれを携え、生涯で約3000点もの写真を残した。また1933年には、ダニエル・ビオとジャン・ド・モレーヌの二人と共同で、各地の港の風景を集めた写真集『港』を出版している[9]。
療養によって学業の遅れが出てしまったせいで、ケクランは初年度の課程を再履修しなければならなかった。ところが、同年末からは再びアルジェリアで、三カ月間の療養生活を送ることを余儀なくされた。彼はこの機会に、ローマ賞受賞者でパリ音楽院の教授でもあったフランソワ・バザンの『和声概論』を用いて、和声法の学習を開始している。
二度にわたる療養の甲斐あって結核は完治したものの、長期の学業中断により、ケクランの席次は著しく下がっていた。これが原因となって、卒業後に民間企業技術者として職を得る道は閉ざされてしまい、天文学者の夢も潰えた。残されていたのは、砲兵士官になるか海兵になるかという二択のみだったが、どのみち軍人になることは彼にとっては考え難いことであった。1889年に、ケクランはエリートのキャリアを捨て、エコール・ポリテクニークを中退した。
後に本人が語るところによれば、在学中に病気になったことは、ケクランにとってむしろありがたいことだったらしい。
実際のところ、エコール・ポリテクニークでの病気は「ありがたい」ものだった。それがなければ、私は土木技師か、海軍工兵か、アマチュア音楽家になっていた。落ちこぼれである。というのも、私には有能な技術者としての素質がなかったし、抽象数学しか好きではなく、物理の装置を組み立てることに十分な興味が持てなかったのだから。[10]
こうしてケクランが自らの人生を左右する重大な選択に直面していた1889年、世間は第4回パリ万博の開催で賑わっていた。第3回の音楽展から引き続き、この回でもロシア音楽のコンサートが開かれたが、この時にはドビュッシーやラヴェル[11]も足を運んで、大いに触発されている。当時のパリの人々にとって、ロシア音楽の新しい潮流は未知の領域であり、それがこの機に一挙に紹介されたことの意義は大きかった。ロシアへの畏敬と愛着は、1894年の露仏同盟の締結によって深まりを見せ、チャイコフスキーや5人組の作品が頻繁に取り上げられる、いわばロシアブームが到来することになる。しかしロシアの他に、ドビュッシーをはじめとするパリジャンたちを魅了したのは、アジアの展示であった。この第4回パリ万博の特徴の一つは、ヨーロッパ諸国のアジア植民地の展示が積極的に行われたことだったが、なかでもアンナン劇場での伝統劇や、「ジャワ村」での舞踏とガムランの音楽はたいへんな人気を集めていた[12]。「ジャワ村」に入り浸っていたドビュッシーは、後に回想して「ジャワの音楽は、パレストリーナの対位法のごとき、これに比べれば児戯にひとしいような一種の対位法を含んでいる。そしてわれわれがヨーロッパ的な偏見を捨てて彼らの打楽器の魅力に耳を傾けるならば、われわれの打楽器のごときは、場末のサーカスの野蛮な音にすぎないのに、いやでも気づかなくてはならない」[13]とその非常な感銘を綴っている。
音楽家への道
エコール・ポリテクニークを中退したのをきっかけに、ケクランは本格的に音楽への志を固める。当時プレイエル社の経営を担っていたギュスターヴ・リヨン[14]は、ケクランが音楽家としてのキャリアに漕ぎ出せるよう励ました、その最初の人であった。母親や姉エリザベスも彼の選択に反対はしなかったが、例えば、東部鉄道の技師をしていた義兄は「学業で上手くいっていたというのに、音楽をやろうだなんて、何たることだ!」[15]と、音楽の道に進むのを真っ向から否定した。そして挙句の果てには、彼を電気技師の職に就かせようとしたのである。エコール・ポリテクニークという夢のようなエリートコースを足蹴にして、先行きも分からぬ音楽の道に行こうというのだから、こうした反応も当然のことだろう。逆にいえば、それだけケクランの音楽にかける情熱が本当のものだったということだろう。
親類のこのような無理解やブルジョワ的考えに対し、ケクランは自らの人生を好き勝手にされまいと、作曲家シャルル・ルフェーヴルのもとを訪ねる。そこで彼はまだ書いたばかりの、エドモン・アロクールの詩による歌曲《月の光》(後のop.7-1)を見せている。1890年4月から着手されたこの曲は、現存するケクランの作品のうちで最も古いものだが、ト短調で始まり変ニ長調で終わること、そして7/4拍子を含むことなど、慣習的な作法からの逸脱がこの時点ですでに認められる。ルフェーヴルは、その先進的な感覚を伴った付曲に感心し、これがきっかけでケクランは対位法の指導を受けられるようになった[16]。ケクランはまた、パリ音楽院で和声の勉強をすることも検討していたが、これを聞いたルフェーヴルは音楽院の和声クラス教授であったテオドール・デュボワに宛てて、紹介の手紙を書いてくれたのである。残念ながら、クラスの年齢制限を過ぎていたことが理由で、この申し出は却下されてしまった(ケクランは23歳になっていた)が、代わりに同年の秋から、パリ音楽院のアントワーヌ・トードゥの和声クラスに聴講生として参加できるようになった。自身の述懐するところによれば、当時のケクランは他人の音楽を理解する能力がなく、作曲に至っては本能と経験から筆を進めていたようだが、トードゥの指導はそんなケクランの音楽的視野を広げ、創作のスタイルをより柔軟なものにしたという[17]。翌1891年、このクラスの正式な生徒として迎えられたケクランは、晴れてパリ音楽院の正規の学生となったのである。
[1] Koechlin, C.(1939/rev.1947).Étude sur Koechlin par lui-même. Charles Koechlin, 1867-1950, «Koechlin par lui-même» (texte inedit), La revue musicale, nº 340-341. Paris: Richard-Masse, (1981), 42.
[2] Caillet, A.(2001).Charles Kœchlin (1867-1950) : l’art de la liberté, Paris: Seguier, 13-4.
[3] 1895年にデュラン社から刊行が始まった『ラモー全集』は、自国のバロック音楽の大家を復活させる事業として、ナショナリスティックな空気を多分に含んでいた。安川智子(2016)「サン=サーンス監修『ラモー全集』(デュラン社)再考 : 古楽復興史の文脈から」国立音楽大学研究紀要51, 43-52.
[4] 今谷和徳・井上さつき(2010).『フランス音楽史』春秋社, 342-3.
[5] Ibid, 345
[6] Ibid, 349-50.
[7] Orledge, R.(1989).Charles Koechlin. His life and works. London: Harwood Academic Pub, 4.
[8] Myers, R. (1965). Charles Koechlin: Some Recollections. Music & Letters, 46(3), 217-24.
[9] Lerique-Koechlin, M.(2010).Charles Koechlin Photographe. Charles Koechlin : Compositeur et humaniste, Paris : Librairie Philosophique J. VRIN, 563-5.
[10] Caillet(2001:21)
[11] 1900年にラヴェルらが結成した芸術家サークル「アパッシュ」では、ボロディンの交響曲第2番の冒頭主題が秘密のテーマソングとなっていた。今谷・井上(2010:391)
[12] 公式報告によると、アンナン劇場の入場者は延べ482,545人、「ジャワ村」は875,000人という数字が出ている。井上さつき(2009).『音楽を展示する:パリ万博1855-1900』法政大学出版局, 307.
[13] (1993)『音楽のために:ドビュッシー評論集(新装版)』杉本秀太郎訳、白水社, 225.
[14] 1907年、リヨンは自らが開発したクロマチック・ハープという楽器のための曲を、ドビュッシーやラヴェルなど複数の作曲家に依頼する。彼はケクランにも依頼を行い、これに応えて《夜想曲》op.33が作曲された。
[15] Caillet(2001:22)
[16] 同年、ケクランは独学で管弦楽の勉強も始め、ショパンの《バラード第1番》のオーケストレーションを試みている。
[17] Orledge(1989:5)
【筆者略歴】
佐藤馨(Kaoru Sato)
浜松市出身。京都大学文学部哲学専修を卒業後、大阪大学文学研究科音楽学専攻に入学。現在は、同研究室の博士後期課程1年に在籍。学部時代はウラディミール・ジャンケレヴィッチ、修士課程ではシャルル・ケクランを研究。敬愛するピアニストは、ディヌ・リパッティ、ウィリアム・カペル、グレン・グールド。好きなバンドは、ザ・フー、ザ・ポリス、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン。