シャルル・ケクラン~フランス音楽黄金期の知られざる巨匠(3)

旋法への開眼、ルイ=アルベール・ブルゴー=デュクードレ

ブルゴー=デュクードレ(Louis-Albert Bourgault-Ducoudray, 1840-1910)の作品は今日でほとんど知られていないが、その旋法の研究は、サティやモーリス・エマニュアル、さらに下の世代ではジャン・アランやメシアンなどへ影響を与えた。ドビュッシーもまた彼の生徒であった。

 また、音楽史クラスの教授だったルイ=アルベール・ブルゴー=デュクードレとの出会いも、ケクランの創作姿勢に大きな影響を及ぼすものであった。彼の手による音楽史の講義を通して、ケクランの中に元々あった古い旋法への関心が強く刺激されたのである[8]
 ブルゴー=デュクードレは1859年にパリ音楽院に入学してアンブロワーズ・トマに作曲を学び、1862年にはローマ賞第一等を得た。1869年にはパリにアマチュア合唱団「ブルゴー=デュクードレ協会」を創設したが、この頃にはすでに旋法を含む古い音楽への嗜好があったようで、バッハやヘンデルはもちろんのこと、それ以前のクレマン・ジャヌカンやパレストリーナやラッススなどのルネサンスの音楽も取り上げられたようだ。その後、彼は1875年にフランス政府からの援助を受け、ギリシャに赴いて民謡調査のフィールドワークを実施するが、その成果は1878年の第3回パリ万博において一般向けの講演で披露された。
 「ギリシャ音楽における旋法」をテーマとした講演の中でブルゴー=デュクードレは、グレゴリオ聖歌、ブルターニュ地方の古い民謡、古代ギリシャの音楽、ギリシャの現代の民衆歌、19世紀フランスの作曲家(ベルリオーズなど)による作品から例を引き、ギリシャの旋法を援用した新しい和声付けの可能性を人々に提示してみせた。そして、古今東西のあらゆる旋法を有効に用いて、限界を迎えつつある長短調による調性システムを若返らせ、現代音楽の行き詰まりを克服する道を説いたのである[9]
 この後、ブルゴー=デュクードレは1881年にも、今度はフランス・ブルターニュ地方で民謡調査のフィールドワークを行っている。古今東西の民謡と旋法をさらに深く探究していく彼が、カンボジアの旋律を基に、ガムランを含む管弦楽のための《カンボジア狂詩曲》を作曲したのがこの翌年である。第4回パリ万博でドビュッシーほか若い音楽家たちがガムランの響きに衝撃を受けるより、7年も前のことであった。
 デュクードレがパリ音楽院の音楽史クラスの教授に就任したのは、パリ万博での講演のすぐ後、1878年10月のことであった。そもそも、フランスでは音楽が学問として受け入れられるようになるのが遅く、パリ音楽院に音楽史のクラスが設置されたのも、ようやく1871年9月になってからのことだった。一代目教授をオーギュスト・バルブロー(1871-2)、二代目を和声クラスの教授だったユジェーヌ・ゴーティエ(1872-8)が務め、ブルゴー=デュクードレは三代目としての教授就任だった。しかし、音楽史クラスはまだ創設から日が浅かったこともあり、生徒たちからは存在意義を軽んじられがちで、真面目に出席する者も少ないという有様だった。さらに悪いことに、他の教授たちですら音楽史クラスを軽視し、学生の不真面目な態度を咎めだてすることもなかったそうで、このような状況を憂えて、当時の院長アンブロワーズ・トマは音楽史の授業を作曲と和声クラスにとっての必修科目とした[10]。こうしてみると、ケクランは当時としては数少ない、真面目な出席者の一人だったということになろう。
 ブルゴー=デュクードレは授業の中で、とりわけ民謡と古代のギリシャ旋法に重きを置いており、音楽史上の様々なトピック(ラッススのマドリガーレ、グリンカの歌劇など)がこれと結びつくことを強調した。また、万博でもそうであったように、実演も交えるスタイルで講義を進めていったという[11]。ケクランも授業の中で、古代の旋法の復権によってこの先の音楽の領野を広げていく必要性に共鳴し、旋法を用いることで生まれる豊かな表現性にも目を開かされることになった。

まず何よりも、私たちはケクランを古代の旋法の熱烈な愛好者として見ているが、音楽院にいた頃から、ブルゴー=デュクードレの素晴らしい授業のおかげで、彼はこれに目がないのだ。[12]

最初の同級生たち

 ケクランが音楽的な影響を受けたのは、なにも教師陣からばかりではない。同級生たちもまた、少なからざる影響を彼に与えていた。当時の同級生たちの顔ぶれを見てみよう。フローラン・シュミット、レイナルド・アーン、ジョルジュ・エネスク、アンリ・ラボーなど、後代に名を残す錚々たるメンツが揃っている。エルネスト・ル・グランは自身の完璧主義のせいで後年に自作のほとんどを破棄してしまい、そのせいで現在では全く名が知られていないが、彼を通してケクランはリズムが担う役割について理解することができた[13](ケクランはこの旧友の手によるモチーフを《交響曲第2番》Op.196の第1楽章のフーガ主題として用いている)。聴講生としてマスネのクラスに来ていたガブリエル・デュポンにも、ケクランは興味を寄せていたようである。

マックス・ドローヌ(Max d’Ollone,1875-1959)は、1897年にローマ賞大賞受賞、劇音楽を中心にたくさんの作品を残したが、今日ではその名は知られていない。二次大戦時のヴィシー政権への協力が一因にあり、ケクランらの擁護により訴追は免れたものの、戦後あらゆる公職を追われることとなった。

 しかし、なかでもマックス・ドローヌとは強い友情で結ばれた。ケクランは自らの記念すべき《6つのロンデル》Op.1をドローヌに献呈している。ケクランの前衛気質はやがてドローヌの保守的な音楽性を飛び越えていってしまうのだが、それでもその後の手紙のやり取りや誌上での論戦などを見るに、二人は自らの偽らぬ意見を相手にぶつけ合っている。この点で、両者は単なる友情よりもう一歩深い関係を維持していたように思われる。
 彼らとの交わりは、ケクランに未だ見ぬ音楽、つまりドビュッシーの音楽への出会いをもたらすことにもなった。シュミットとル・グランの2人は当時すでにドビュッシーに感化されており、ケクランも彼らを通してドビュッシーの新しい楽曲に触れた。これ以前、ドビュッシーの曲でケクランが知っているものといえば、1882年の歌曲《マンドリン》のみであったらしいが、ケクランはドビュッシー的な感性について、初めのうちは懐疑的な姿勢を崩さなかった。特に、ジュダルジュ流の明晰でぼかしのない古典的美質を享受していた時代にあっては、ドビュッシーの新しい音楽と距離があるのも無理からぬことであろう。彼がドビュッシーの真価を理解するには《夜想曲》と、何より《ペレアスとメリザンド》を待たなければならなかった[14]。およそ20年後に、まさか自分がドビュッシーのバレエ音楽《カンマ》をオーケストレーションすることになるなど、この頃のケクランには思いもよらなかったはずだ。

 1896年、音楽院院長アンブロワーズ・トマの死により、作曲科教授だったテオドール・デュボワが新たな院長に選出されたが、このタイミングでマスネは職を辞して、音楽院から去ってしまった。公的な職から退いて自分の作曲に専念したかったためとも、切望していた院長の席をデュボワに奪われたためとも言われているが、ともかく、パリ音楽院の作曲科教授のポストにはこうして2つの空きができた。まず、デュボワの後任にはオルガン科教授だったシャルル=マリー・ヴィドールが就いた。彼の下では、マルセル・デュプレ、オネゲル、ミヨー、タイユフェール、エドガー・ヴァレーズらが学ぶことになる。
 では、マスネの後任には誰が選ばれただろうか。ケクランやシュミットら、次代を担う才能ある生徒たちを引き継いだ人物こそが、ガブリエル・フォーレであった。彼との出会いは、ケクランの作曲家人生にとって決定的な影響をもたらすものとなる。


[1] Koechlin, Ch. “Souvenirs de la classe Massenet”, Le Ménestrel, 1935-03-08, 82.
[2] Koechlin, Ch. “Souvenirs de la classe Massenet”, Le Ménestrel, 1935-03-22, 97.
[3] Ravel, M. (1926). Hommages à André Gédalge. La revue musicale (March 1926), 255.
[4] Koechlin(1926).André Gedalge. La revue musicale (March 1926), 242-254.
[5] Koechlin(1926:247)
[6] 「ジュダルジュは自分の弟子たちに、偽ドビュッシー主義(ドビュッシー自身には感じられなかった)に対するのと同様に、フランク主義とワーグナー主義に対する解毒剤を多量に与えていた」ibid, 247
[7] Caillet, A.(2001).Charles Kœchlin (1867-1950) : l’art de la liberté, Paris: Seguier, 29.
[8] Myers, R. (1965). “Charles Koechlin: Some Recollections.” Music & Letters 46(3): 220
[9] 安川智子(2010).「『モダリテ』概念の形成と近代フランスの旋法語法 : 国家と宗教の関係から」Bookpark, 89-98.
[10] 井上さつき(2007).「フォーレのパリ音楽院改革 : 音楽史クラスの重視と充実」『ミクスト・ミューズ : 愛知県立芸術大学音楽学部音楽学コース紀要』2, 28.
[11] 安川(2010:102-5)
[12] Koechlin (1939/rev.1947) 1981. “Étude sur Charles Koechlin par lui-même.” in Charles Koechlin 1867-1950 «Koechlin par lui-même» (texte inédit), La revue musicale, nº 340-341. Paris: Richard-Masse, 49.
[13] Orledge, R.(1989).Charles Koechlin. His life and works. London: Harwood Academic Pub, 5.
[14] Caillet (2001:26-7)

【筆者略歴】
佐藤馨(Kaoru Sato)
浜松市出身。京都大学文学部哲学専修を卒業後、大阪大学文学研究科音楽学専攻に入学。現在は、同研究室の博士後期課程1年に在籍。学部時代はウラディミール・ジャンケレヴィッチ、修士課程ではシャルル・ケクランを研究。敬愛するピアニストは、ディヌ・リパッティ、ウィリアム・カペル、グレン・グールド。好きなバンドは、ザ・フー、ザ・ポリス、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン。