フォーレとケクラン、師弟の絆
このような怪物じみた集団の中で、ケクランとフォーレは単なる先生と生徒という立場を超え、お互いに厚い信頼を寄せる芸術家どうしの関係を築き上げていた。ケクランは相変わらずフォーレを敬愛し、作曲上の大きな影響を受けていたが、一方でフォーレもケクランの才能を高く評価しており、後には「あなたは私にとって、真に価値あるご意見をお持ちの稀な音楽家の一人です」[10]と打ち明けるほどであった。
授業方針としてフォーレは、生徒たちは作曲のための基礎的技術を予め習得しているべきと考えていたため、技能を十分に習得できていない生徒たちの指導はこの分野のスペシャリストであるアンドレ・ジュダルジュに委ね、自身は専ら生徒たちの作品を見ることに注力していたのだが、たとえば対位法の宿題を訂正するのも、「特にシャルル・ケクランのような、クラスの中でも最もしっかりした技術を身につけている者にまかせ」[11]ていたということだ。また、フォーレは以前に任命された音楽教育視学のポストも続けていたため、視察官として地方を巡察せねばならないことが度々あったが、1899年5月から1903年2月にかけて、自らが不在の折にはフーガと対位法の授業をケクランに代任していた。自分もまだ学生でありながら、師の代わりに課題の訂正や同僚たちへの授業を行うなど、かなりの重荷だったろう。しかし、それだけフォーレがケクランを買っていたことの証左でもあった。
二人の信頼関係は、作曲における共同作業としても発揮された。1898年4月下旬、フォーレは戯曲『ペレアスとメリザンド』のための付随音楽の作曲に着手していたが、初演を2か月後に控え、様々な仕事と雑務に追われながらの迅速な作業が必要であった。そんな状況下で、フォーレは曲のオーケストレーションをケクランの手に委ねることにしたのだ。編曲にあたってケクランは多くの下書きを試み、そこにフォーレが指示を加える形で作業は進められた。無事にオーケストレーションは完了し、その仕事ぶりに満足したフォーレは、弟子の多大な献身へのお礼も込めて次のように書き送った。
親愛なる友、
この度は大変お世話になりました。心ばかりの御礼として、あなたをロンドンにお誘い申し上げたく存じます。この先輩と一緒に旅行しませんか。
重ねて御礼申し上げます。あなたの協力がなければ、この度の作品は完成を見なかったと思います。[12]
かくして迎えた6月21日、ロンドンのプリンス・オブ・ウェールズ劇場での公演は大成功を収め、これを機にケクランも《ペレアスとメリザンド》の編曲者として名を知られるようになった。フォーレはすぐ後にこの作品の組曲版を出版する際、ケクランのオーケストレーションにも若干の修正を施したが、今日私たちが最もよく耳にする《シシリエンヌ》については完全に満足していたようで、一切手が加えられなかった。まただいぶ経ってからの1936年、ケクランは《メリザンドの歌》に新たなオーケストレーションを施している。
《ペレアスとメリザンド》で発揮した手腕は、新たな仕事を呼び寄せることにも繋がった。1901年、彼の腕前を熟知していたフォーレの推薦により、サン=サーンスが作曲した二人の人物とピアノのための劇的情景《ローラ》Op.116を管弦楽編曲する依頼が、デュラン社からケクランのもとに舞い込んできた。ケクランはこの仕事を請ける代わりに、四手連弾のための《組曲》Op.19を同社から出版することができたが、業界大手のデュラン社から自作を出版するのは作曲家として大きな意味を持っていた。この《ローラ》での仕事が認められ、約10年後に再びデュラン社から、今度はドビュッシー作曲の《カンマ》のオーケストレーションの依頼が来ることになる[13]。このように、優れた編曲家としての評価はわりに早く確立していったのだが、一方でこの世評が作曲家としてのケクランの認知をいくらか霞めてしまった可能性は否定できない。
1901年8月の中旬には、この頃の二人の関係において、あるいはその後の両者の関係においてもおそらく最も大きな意味を持つ出来事があった。フォーレの悲歌劇《プロメテ》Op.82の再演を観るため、ケクランは南フランスのベジエに赴いたのだ。この作品はちょうど1年前にベジエの野外円戯場で初演され[14]、その好評を受けて再びの公演が実現されたのであった。この地でフォーレやドローヌ、ロジェ=デュカスらと共に数日間を過ごすなかで、彼は南仏のきらめく太陽や、星が宝石のように輝く夜空といった自然の有り様に触れ、忘れえぬ感動を覚えていた。諸々の回想においても、ベジエでの思い出はその肌身に感じられた豊かな自然と共に感慨深く描かれている。
次の日は、円戯場でオーケストラのリハーサルだった。まばゆいばかりの太陽、陽光の強烈な明るさ!これぞ「大気に散らばった限りない歓び」[15]である。…[中略]ここでは、大気と音楽が私たちを健康でいっぱいにしてくれるのだ。[16]
ベジエの自然はまた、野外円戯場という特殊な空間での上演にも深く影響するものであった。そこは天井も無く外界に筒抜けの円形劇場であり、こうした条件ゆえに「音響、音楽の構想、目に映るもの、生気を与える風のそよぎ、苦にならない暑さ、巨大な空色の丸天井、これらの緊密で完璧な調和」[17]がもたらされたとケクランは語っている。パリの劇場などでは到底得られないこの貴重な体験は、それ以来長らく彼の脳裏から離れず、ずっと後の1937年に民衆音楽連盟の会長に就任してから「野外コンサート」を称揚するのも、こうした《プロメテ》の奇跡的な上演を目の当たりにしてのことだった[18]。ベジエの地元の民衆が合唱隊や吹奏楽団として参加していたという事実も、傑出した音楽に民衆が参与できるようにというケクランの理想を励ますものであった。彼はフォーレの伝記の中で、《プロメテ》がフォーレの生涯におけるランドマークであり、これ以降ほとんど裸とまでいえる簡素化の方向へ舵を切っていく転換点になったとその重要性を指摘しているが、自らの価値観を左右する奥深い体験にこの作品が連なっているということも、このような見方に少なからず加担しているだろう。
またケクランの特別視は、この作品がフォーレにとって最初のギリシア芸術との邂逅だったということにも起因している[19]。ケクラン曰く、《プロメテ》によってフォーレはギリシアの精神を現代の語法の中に復活させたが、ギリシア芸術へのアプローチという点はまさに彼がフォーレの音楽を愛する所以であった。
全てのこの芸術形式のなかでも、彼[ケクラン]の好みはギリシアのものだ。そしてこのギリシア芸術の影響は扱われる主題によってのみ表現されたのではなく、ある種の簡潔さを引き起こすさらに奥深いやり方でも表現された。そして、ギリシア旋法とそのアッティカ的で力強い繊細さへの好みを伴いつつ、思考規則と表現形式への欲求をも引き起こすものだった。これはまた、彼のフォーレ崇拝、特に《プロメテ》と《ペネロープ》という最もギリシア的な傑作への崇拝を説明するものだ。[20]
すでにブルゴー=デュクードレによって関心が刺激されていたとはいえ、古代ギリシアの旋法の使用は歳月を経るごとに作品の中でより明らかなものとなるし、1930年代から現れる「モノディー」という特徴的な創作ジャンルも、ケクランが古代ギリシアの音楽を一つの理想としたことのあらわれであった。ケクランの中にあったギリシア芸術への眼差しは、このように創作の面で徐々に先鋭化されていったといえるだろう。そしてギリシア芸術への確信が深まっていくその端緒に《プロメテ》という傑作があり、数十年という長いスパンにわたり、ギリシア的なものの理想として君臨していたということではないだろうか。
こう見ると、《プロメテ》の再演に立ち会ったことで、ケクランのその後の道行きはある程度方向づけられていたのかもしれない。人生のずっと先まで影響を与えたという意味で、この出来事は同じ時期のどのトピックよりも、とりわけ大きな存在感を放っているように見える。このような重大な作品が、今では上演される機会もほぼなく、録音で聴くこともほとんどかなわないとは、あまりにも残念なことだ。
ケクランとフォーレの絆は、日々の授業を通じて、作曲の共同作業を通じて、そして作品を通じて、かけがえのないものとなった。ケクランが作曲クラスを巣立ってからも、そしてフォーレが亡くなってからも、敬愛し合う二人の関係は終生変わらないものであった。このことは、二人の手紙のやり取り、作品の献呈、あるいは1922年10月のLa Revue Musicale誌「フォーレ特集号」に掲載された寄稿文と《フォーレの名によるコラール》などを通じて、疑いなく読み取ることができる。
フォーレはまた、ケクランに幾多の友人との出会いを与えた。彼らはケクランにとって、戦友とも呼ぶべき存在であった。フォーレのもとに集まった才気溢れる若者たちはその後、前衛の旗印を掲げ、音楽の未来と自由をかけて立ち上がることになる。そしてその中心には、モーリス・ラヴェルがいたのだ。
[1] サン=サーンスは1861-65年にニデルメイエール校でピアノを教え、その時の生徒だったフォーレとは深い絆で結ばれた。彼にとってはこれが生涯唯一の教授活動だった。
[2] ネクトゥー, J-M.(2000).『評伝フォーレ:明暗の響き』大谷千正監訳, 日高佳子・宮川文子訳, 新評論, 320.
[3] ネクトゥー, J-M.(1993)『サン=サーンスとフォーレ:往復書簡集1862-1920』大谷千正・日𠮷都希惠・島谷眞紀訳, 新評論, 97.
[4] ネクトゥー(2000:321)
[5] ネクトゥー(1993:107-12)
[6] Koechlin, Ch. (1925). “Souvenirs de Charles Koechlin.” in Cinquante ans de la musique française (ed. Rohozinski, L.), vol.2. Paris: Librairie de France, 389.
[7] Caillet, A.(2001).Charles Kœchlin (1867-1950) : l’art de la liberté. Paris: Seguier, 32-3.
[8] Koechlin, Ch. (1945). Gabriel Faure 1845-1924 (English translation by Orrey, L.). London: Dobson, 8.
[9] ヴュイエルモーズ, E. (1981).『ガブリエル・フォーレ』家里和夫訳, 音楽之友社, 54.
[10] ネクトゥー(2000:717)
[11] ヴュイエルモーズ(1981:53)
[12] ネクトゥー(2000:225)
[13] Orledge, R.(1989).Charles Koechlin. His life and works. London: Harwood Academic Pub, 24.
[14] 《プロメテ》作曲のきっかけを与えたのもサン=サーンスだった。彼はベジエの大地主フェルナン・カステルボン・ド=ボーゾストの要請に応え、1898年に悲歌劇《デジャニール》を作曲し、野外円戯場で初演している。好評を博した《デジャニール》は翌年に再演されたが、この時の指揮者として彼はフォーレを紹介し、また1900年夏のための新作をフォーレに委嘱するよう強く勧めたのであった。以降、ベジエの円戯場では毎年夏に音楽劇が上演されることが恒例となり、カステルボン・ド=ボーゾストの依頼を受け、マックス・ドローヌ、デオダ・ド=セヴラック、アンリ・ラボーなどの才能ある若い世代も作品を提供した。ネクトゥー(2000:282-6)
[15] フォーレの歌曲集《優しい歌》第9曲「冬は終わった」の一節(ヴェルレーヌ詞)。
[16] Koechlin, Ch. (1922). “Le Théâtre.” La revue musicale (Octobre 1922), 227.
[17] Ibid, 228.
[18] Moore, C. (2021). “1898. Le festival des arènes de Béziers.” dans Nouvelle histoire de la musique en France (1870-1950), sous la direction de l’équipe « Musique en France aux XIXe et XXe siècles : discours et idéologies », 7. (https://emf.oicrm.org/nhmf-1898)〈最終確認:2021年12月17日〉.
[19] Koechlin (1945:10)
[20] Koechlin, Ch. (1939/1947) 1981. “Étude sur Charles Koechlin par lui-même.” in Charles Koechlin 1867-1950 «Koechlin par lui-même» (texte inedit), La revue musicale, nº 340-341. Paris: Richard-Masse, 63.
【筆者略歴】
佐藤馨(Kaoru Sato)
浜松市出身。京都大学文学部哲学専修を卒業後、大阪大学文学研究科音楽学専攻に入学。現在は、同研究室の博士後期課程1年に在籍。学部時代はウラディミール・ジャンケレヴィッチ、修士課程ではシャルル・ケクランを研究。敬愛するピアニストは、ディヌ・リパッティ、ウィリアム・カペル、グレン・グールド。好きなバンドは、ザ・フー、ザ・ポリス、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン。