シャルル・ケクラン~フランス音楽黄金期の知られざる巨匠(5)

ペレアスの猛威

 ケクランは《ジャングルの三つの詩》を1905年になってから自主出版するのだが、この時の彼には一つ心配事があった。音楽学者のルイ・アゲタンに最初の二曲の楽譜を送る際、このように漏らしている。

カミーユ・シュヴィヤール(Camille Chevillard, 1859-1923)は、指揮者・作曲家・ピアニストで、コンセール・ラムルーの指揮者として著名だった。ドビュッシーの《夜想曲》《海》などを初演している。

これらの曲のいかなるものもペレアスからは着想を得ていないということがよく分かるように、私が記載した(1899-1900)という作曲年を目立たせようと心から思っています……。今では決まり文句ですが、私が思うに、批評家のいくらかはムソルグスキーを、ボリス・ゴドゥノフの中で《ペレアス》を書いたと非難するまでになるのでしょうか?そのような非難をあなたが私になさらないだろうと理解していることは、言うまでもないでしょう。しかし、あなたがそうしたくなるということはあるかもしれません。シュヴィヤールはビュッセルの交響詩(やはり1902年より前に書かれたもの)の中にペレアスを確かに見つけたというのですが、ほとんど似ていないのです……。いずれにせよ、このように自らのために弁護することをお許しください。[9]

 手紙に出てくる「ペレアス」とは、フォーレの劇音楽ではなく、ドビュッシーが作曲したオペラ《ペレアスとメリザンド》のことである。1902年の4月30日にパリのオペラ=コミック座で初演されたこの作品は、まぎれもなくフランス音楽史上の大事件であり、19世紀末頃からパリの楽壇に拭いがたく蔓延していたワグネリスムを一掃し、フランス音楽に新たな方向性を示した金字塔である。《ペレアス》がもたらした変革の意義について、同時代を生きた文学者で音楽史家でもあったロマン・ロランは、ワーグナー熱の時代を振り返りながらこう語る。

幾多の音楽会を通じて、熱心な宣伝が大衆の間にしみこんだ。若いインテリ層はそのとりことなった。ウァグナア芸術が大衆に音楽への関心を呼び起こしたことこそ、そのフランス芸術への重大な功績である。だが、それが長びくにつれて、その圧制的な影響はフランス芸術を窒息させかねない勢いであった。[中略]代る代るに公衆は、自分たちにとって解放の作品と見えたブリュノオ氏の『夢』(1891年)、ダンディ氏の『フェルヴァアル』(1898年)、ギュスタヴ・シャルパンティエ氏の『ルイズ』(1900年)に感謝のこもった喝采をおくった。しかし、実際においては、これらの抒情劇は完全に外国の特にウァグナアの影響から脱却したというにはまだまだほど遠かった。ドゥビュッシイ氏の『ペレアスとメリザンド』は1902年にフランス音楽の真の解放をもっと正確な意味で劃期づけたようである。この時以来フランス音楽は最終的にウァグナア派から抜けだしたと自任するようになり、民族の天才を反映し、ウァグナア芸術よりもっと自由で、もっと柔軟な一個の新しい芸術を築くのだと気負い立つようになった。[10]

 しかし、あまりに強力な薬は致命的な依存を引き起こす。皮肉にも、ワーグナーとは違う道を志したはずのドビュッシーが、今度はまさにワーグナーがそうであったように人々の依存先となってしまう。ワグネリスムの後、次にパリの楽壇を席巻したのは「ドビュッシスム」であり、巷にはドビュッシー風に模倣された音楽が溢れかえった。

 自らの音楽が《ペレアス》に影響された亜流だと非難されないよう、ケクランはこうした模倣者の風潮を厳しく警戒し、作品が「ペレアス以前」に書かれたとはっきり示すために作曲年の記載にまで気を配らねばならなかったようだ。特に初期の作品に関して、ケクランは自らの音楽へのドビュッシーの影響がほとんどなかったのだと、事ある毎に注意を促している。

たしかに私は、《ペレアスとメリザンド》や、シャブリエ、サティ、そしてフランク――うち一人は忘れられがちだ――の作品に具体化された革新の恩恵を受けましたが、ドビュッシーへの称賛にもかかわらず、私はドビュッシストだったとは言えません。私の作曲と思考のスタイルは異なっていて、それは《ジャングルの三つの詩》にすでに見てとれます。この曲は《ペレアス》以前に書かれましたし、さらには《夜想曲》よりも前なのです。それらは、あの見事な《牧神の午後への前奏曲》に対比されるリズムへの欲求と、フーガの精神と決して離れない対位法的書法を見せているのです。[11]

 このようなドビュッシーとの明確な線引きの必要性は、同時代の作曲家にもある程度はついて回った問題だったろう。もっと言えば、19世紀ロマン派と袂を分かった新世代の音楽はすべて「印象主義」の名の下に一蹴されかねない状況で、他の作曲家との差別化はより一層大きな死活問題である。残念ながら、この時期のケクランの作品はそれぞれに魅力を湛えている反面、「ケクランらしさ」の萌芽は見せつつもいまだ作者の強い個性を刻印しているとは言いがたいものだ。作曲の技術上の不安と共に、自らの語法が練られていないという思いを抱えながら、未熟さとしがらみから脱皮し、真に個性を獲得するための実験段階がこの時期だったと考えてもよいだろう。だからこそ、いかに自分の作品がドビュッシーやその他の潮流と異なっているかを示すというのは、この頃のケクランにはセンシティブな問題であり、必要な自己弁護だったのである。


[1] 《古風なメヌエット》はラヴェルにとって初の出版作品となるが、これはジュダルジュが出版社のエノックに推薦したことで実現した。両者は1897年12月22日にこの曲の出版契約を取り交わしている。
[2] Ravel, M. (1938). “Une esquisse autobiographique de Maurice Ravel” La revue musicale (Décembre 1938), 20.
[3] Koechlin, Ch. (1925). “Souvenirs de Charles Koechlin.” Cinquante ans de la musique française (ed. Rohozinski, L.), vol.2. Paris: Librairie de France, 390.
[4] Koechlin, Ch. (1947). “Maurice Ravel.” Cahiers Maurice Ravel, vol.1 (pub. 1985). Paris: Fondation Maurice Ravel, 44.
[5] Ravel, M. (2018). L’intégrale : correspondance (1895-1937), écrits et entretiens. Paris: Passeur, 69.
[6] Ibid, 69.
[7] Orledge, R.(1989).Charles Koechlin. His life and works. London: Harwood Academic Pub, 96.
[8] Caillet, A.(2001).Charles Kœchlin (1867-1950) : l’art de la liberté, Paris: Seguier, 57.
[9] Charles Koechlin 1867-1950 «Correspondance», La revue musicale, nº 348-350. Paris: Richard-Masse, (1982), 13.
[10] ロラン, R. (1981).「一陽来復」『ロマン・ロラン全集21:芸術研究II』野田良之訳、みすず書房、463-5.
[11] Myers, R. (1965). “Charles Koechlin: Some Recollections.” Music & Letters 46(3): 218.

【筆者略歴】
佐藤馨(Kaoru Sato)
浜松市出身。京都大学文学部哲学専修を卒業後、大阪大学文学研究科音楽学専攻に入学。現在は、同研究室の博士後期課程2年に在籍。学部時代はウラディミール・ジャンケレヴィッチ、修士課程ではシャルル・ケクランを研究。敬愛するピアニストは、ディヌ・リパッティ、ウィリアム・カペル、グレン・グールド。好きなバンドは、ザ・フー、ザ・ポリス、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン。