シャルル・ケクラン~フランス音楽黄金期の知られざる巨匠(5)

 パリ音楽院のフォーレ・クラスの仲間たちについてはすでに述べた。若き才能のるつぼの中で切磋琢磨する日々が、作曲家としての形成期にあったケクランに与えた影響は計り知れない。彼がフォーレの門下生となってから2年後の1898年、新たな仲間がこのクラスに加わった。若者の名はモーリス・ラヴェルであった。

若き日々のラヴェル

モーリス・ラヴェル(Maurice Ravel, 1875-1937)のピアノへの愛着は、彼が自身の《ピアノ協奏曲》を自作自演するつもりで作曲したことを思い起こせば、驚きではないだろう。

 実のところ、ラヴェルは初めから作曲の道を志してパリ音楽院にやって来たわけではなかった。最初に彼が挑戦したのは音楽院のピアノ科であり、1889年にまず予科クラスに合格した後、1891年にはシャルル・ド・ベリオの本科クラスに進級を果たしている。これに伴って、エミール・ペサールの和声のクラスにも登録し、ここからラヴェルの音楽人生には明るい展望が待っているかに思えた。ところが、教授たちからは一定の評価を得られていたにもかかわらず、試験ではなかなか良い結果を残せないままに時は過ぎ去り、ついに1895年には音楽院の規定に従って両クラスから除籍処分を受けてしまう。

 このような理由からラヴェルは音楽院を一時離れてしまうのだが、1897年になると、アンドレ・ジュダルジュに対位法と管弦楽法の個人指導を受けるようになっていた。パリ音楽院作曲科教授のフォーレの助手もしていたジュダルジュに教えを請うということは、この時点で彼の中にはフォーレの作曲クラスに進むという意向があったのかもしれない。すでに、《グロテスクなセレナード》や《古風なメヌエット》[1]といった初期の作品を書き上げていたことを思えば、次なる目標として彼が作曲の道に進もうと考えるのはむしろ自然なことだったかもしれない。こうして、1898年1月28日付で、ラヴェルはパリ音楽院のフォーレの作曲クラスに迎え入れられた。今度こそ、近代フランス音楽史に輝かしく名を残す大作曲家としての人生が幕を開けたのである。

 ジュダルジュとフォーレについて、ラヴェルは次のような言葉を残している。「自分の仕事の最も大切な要素はアンドレ・ジュダルジュに負っていると、私は喜んでそう言いましょう。フォーレに関しては、彼が芸術家としての助言で鼓舞してくれたことが、私にとっては同じく有益だったのです」[2]

 この当時、ケクランはクラスの最年長で30歳、一方のラヴェルは22歳、じつに8歳差で同僚となったわけである。やがて二人はお互いを良き友人と認め合い、生涯にわたる交友関係を築くことになる。フォーレ・クラスでのラヴェルについて、ケクランは次のような思い出を語っている。

フォーレの監督の下で、私たちはラヴェルの《ハバネラ》、《ソナチネ》、そして、彼の資質をすでに特徴づけていた二つの歌曲《スピネットを弾くアンヌ》、《雪を投げつけたアンヌ》をいの一番に聴いた。それらの、表面上はあまりにも新しく大胆な和声に、私たちは驚嘆した。しかしラヴェルは「これはただ単に、持続低音を欠いた九の和音だ」(あるいは、それと似た何かしら)と説明した。そして、その全くもって正確な仕組みのからくりを解き明かしながら、それが真の深遠な単純さからくることを証明してみせた。[3]

 また、晩年のエッセイでは、当時のラヴェルの人物像を振り返っている。ある種のプライドの高さ、前衛精神、そして職人気質について、より細やかにここでは描かれている。

この頃、ラヴェルはすでにラヴェルその人であった。音楽批評家、時には作曲家からさえ発せられた愚かな言行に対するイロニーを持ち合わせ、必要ならそれは手厳しいものにもなった。洗練を渇望し、和声の響きに熱中し、あらゆる大仰さと凡俗を敵とし、芝居じみたロマンチシズムの大袈裟な発露さえも恐れていた。おまけに、この時期には(彼が私に言ったことを信じるならば)ほとんど美しさよりも新しさをいっそう愛していたのだ。しかし、特に彼にはセンスの良さへの大いなる欲求があり、そして完璧なダンディとしての身なりを確かめようと鏡を見ながら、その時の(そして忠実にそうであり続けている)ボードレール愛好家としての彼は自らの音楽を同じく自らの明晰で容赦ない篩にかけ、わずかないい加減さも決して容認しなかったのである。その最初の試みから、こうした大変に興味深い音楽的個性が「ラヴェル」としてはっきりあらわれている。フォーレ・クラスで最年長だった私(そこで時には対位法とフーガで師の代わりをした)は、最も強い好感と共に、若い同僚の発展を見守っていた。彼の作品は、そこに本性と手法とを理解しようと強く欲する人にとっては、見かけ上はどんなに「革新的」でも常に分析可能であり、また「職人」的観点から言えば、いささかの非難も寄せ付けないものであった。[4]

 ケクランの回想からは、自分よりも年若いラヴェルがすでに独自のスタイルを作り上げ、高度なレベルで創作を行っていたことへの驚きと称賛がよく表れている。それは彼だけでなく、周りの同僚たちにとっても同じことであり、この若い世代の旗頭となるだけの才覚は誰もが認めるところであった。フォーレ・クラスに入学してからわずか一か月余りの後、1898年3月5日には早くも、2台ピアノのための《耳で聴く風景》が国民音楽協会のコンサートで初演された。まさに早熟と形容するに相応しい快挙である。二週間後の3月19日には、今度はケクランの《5つのメロディ》Op.5の第1曲〈優雅な散歩道〉が同協会のコンサートで初演されており、新進気鋭の作曲家として両者は順調に歩みを始めたところであった。

 この権威ある舞台に二人の名前が揃うのは、翌1899年5月27日である。ケクランは有名なロシア民謡《ヴォルガの舟歌》の混声6部合唱への編曲者として、ラヴェルは序曲《シェエラザード》の作曲者・指揮者としてプログラムに登場する。「ケクランの作品はとても成功した、私たちが予想していたようにね。非常に魅力的な印象で、このコンサートのうちでは最も独創的だと私には思えた」[5]とラヴェルはフロラン・シュミットに書き送ったが、かたや彼自身の作品は賛否入り混じる反応を引き起こした。「《シェエラザード》はかなり口笛で野次られた。拍手もあって、真実を愛する心に誓って言えば、拍手してくれた人は非難していた人よりもずっと多かった。二度もステージに呼び戻されたのだから」[6]

 以後、ケクランは国民音楽協会とは縁がなくなっていくが、一方のラヴェルは自作の多くが国民音楽協会のコンサートで取り上げられ、また自身も同協会のメンバーとして職務をこなしていく。普仏戦争以来の由緒ある団体に身を置き、ラヴェルの作曲家としてのキャリアは着実に築かれていくかに思えた。しかし、1909年の1月にラヴェルがケクランへ手紙を送った時、彼はこの組織に反旗を翻そうと画策していた。その真新しい旗には「独立音楽協会 la Société musicale indépendante」と記されることになる。

ジャングルへの誘い

 パリ音楽院での師や学友との日々はもちろんケクランにとって重要なものだったが、彼の音楽人生に大きく影響するのは、なにも人との出会いばかりではなかった。同じ頃、ケクランの創造力を長きにわたって刺激し続けることになる、ある文学作品との出会いがもたらされる。

 1899年2月25日、ケクランは一冊の本を読んだ。現代であればディズニーのアニメーション映画としても広く親しまれている、イギリスの小説家ラドヤード・キプリングが1894年に出版した『ジャングル・ブック』である。ケクランが読んだのはフランス語に翻訳されたバージョンで、ルイ・ファビュレとロベール・デュミエールの二人が共同で訳を手掛けたものだった。面白いことに、このフランス語版はケクランが手に取る数日前に出版されたばかりで、このスピード感はほんの偶然なのか、はたまた文学好きのケクランが予てよりキプリングに興味を抱いていたからなのか。いずれにせよ、その後の彼の創作にインスピレーションを与え続ける、運命の出会いであったことは間違いない。

 『ジャングル・ブック』を読んだケクランはこれにすぐさま霊感を得て、3月14日には〈アザラシの子守歌〉の作曲に着手している。これに引き続いて〈ジャングルの夜の歌〉、8月には〈カーラ・ナーグの歌〉と一気に取り掛かっており、いかに彼がキプリングの描くジャングルの世界に魅了されていたかがうかがい知れる。曲の歌詞にはそれぞれ、『ジャングル・ブック』の「白いオットセイ」「モーグリの兄弟たち」「象使いトゥーマイ」の各章冒頭に掲げられている詩が用いられており、ケクランは翻訳に携わったルイ・ファビュレに訳文を使用する許可まで取り付けている[7]。そしてこの三曲がまとめて《ジャングルの三つの詩》Op.18とされた。自然の美しい姿に心奪われ、手ずからその風景を数多く写真に収めるほどのケクランだったからこそ、キプリングの物語と強く響き合い、創作を促されたのだろう。「そこには自然の情感、若々しさ、健やかさがあり、驚くべき生命の力が放つきらめきがこの本を読む(そして理解する)者の魂にまで感じられるのである」[8]と絶賛している。そしてこの《ジャングルの三つの詩》こそは、その後の40年間にわたって断続的に展開される『ジャングル・ブック』に基づく作品群――《春を走る》Op.95(1908-27)、《プーラン・ブガットの瞑想》Op.159(1936)、《ジャングルの掟》Op.175(1939-40)、《レ・バンダール・ログ》Op.176(1939-40)――の皮切りとなった。「ジャングル・ブック・シリーズ」とでも呼ぶべきこれらの管弦楽作品は、ケクランの創作の里程標のようにもなっており、彼の音楽語法がいかに変遷していったかをよく示している。

《ジャングルの三つの詩》Op.18