シャルル・ケクラン~フランス音楽黄金期の知られざる巨匠(6)

独立音楽協会の設立

 歌曲に加えて新たに交響楽の分野にもさらなる展望を見出したケクランは、小休止にスイスやイギリス、ベルギーやオランダへの旅行を挟みつつ、その旺盛な創作意欲を遺憾なく発揮していた。自作の上演の機会にも恵まれ、また第二子エレーヌが誕生するなど、公私ともに満ち足りた時間を送っていたことだろう。

 しかし、作曲の書法が熟達を見せるにつれ、彼自身の音楽性はいっそう先進的な方向へと歩みを進めていた。そして、この語法の進化が、ついにケクランの身にあるハプニングを引き起こす。それは1909年1月15日[10]のこと。フランスの由緒ある音楽団体である国民音楽協会が、ケクランの提出した交響組曲《古代のエチュード》Op.46の第1曲〈寺院〉の譜面を却下したのだ。

フランクの高弟であるヴァンサン・ダンディは、フランキストたちを統率する役割を果たした(フランクの弟子を騙る者がいたため、弟子の一覧を作成すらした)。作曲家としては、長らく〈フランスの山人の歌による交響曲〉が知られるのみだったが、近年録音が相次いで再評価の動きがある。

 国民音楽協会は、普仏戦争によるナショナリズムの高揚を背景に、「アルス・ガリカ(フランスの芸術)」をモットーとして1871年に設立された。フランスの存命作曲家の創作活動を奨励するために立ち上げられたこの組織は、それまでパリの音楽界を牛耳っていたオペラに代わり、ほとんど顧みられなかったそれ以外のジャンル、特に器楽作品の創作を重視するという画期的なスタンスを持つ、紛れもない前衛グループであった。しかし、サン=サーンスからセザール・フランクへと会長の代がわりを経て、1890年以降のヴァンサン・ダンディ会長時代になると、協会の雰囲気は変質してしまう。この時代、ダンディと仲間達が1894年に設立した音楽学校スコラ・カントルムが、古びたパリ音楽院の教育に対して急速に勢力を伸ばしており、協会内部でも彼らスコラ派が幅を利かせるようになっていた。フローラン・シュミットやジャン・ロジェ=デュカス、そしてモーリス・ラヴェルなどのフォーレ門下も協会に加わっていたものの、すでにダンディとその弟子達による一党独裁の中で伝統を重んじる保守的な傾向が露わになっており、国民音楽協会はさながらスコラ・カントルムの出先機関の様相を呈していた。ケクランの作品が拒絶されたのは、このようなダンディとスコラ派の反発にあってのことであった[11]。1898年の国民音楽協会のコンサートではケクランの歌曲〈優雅な散歩道〉Op.5-1が取り上げられもしたが、それから10年の成長の中で、彼の音楽には前衛の精神が宿っていた。

 ただこの苦い経験は、近代フランス音楽にとってのさらなる一大事の前触れに過ぎなかった。〈寺院〉の拒絶から間もなく、ケクランのもとに一通の手紙が届く。差出人はラヴェル、そこにはこう書かれていた。

 私は弟子達の作品3つを提出したが、そのうち1つは特に興味深いものだった。しかしその他と同じく、この曲も拒絶された。支離滅裂さと退屈さの頑強な性質を示していなかったんだ。スコラ・カントルムでは構造と深みと命名されているものだがね。

 [中略]

 新しい協会を作る計画をしている。もっと独立したものだ、少なくとも最初のうちは。この考えには大勢の人が惹かれているよ。あなたも仲間になりませんか?[12]

 この手紙はケクランに災難があった直後、1月16日付でしたためられた。文中で話題にされている「興味深い」作品というのは、モーリス・ドラージュ(Maurice Delage, 1879-1961)の交響的エチュード《Conté par la mer》で、この曲もケクランの場合と同じく、協会から拒絶されるという憂き目に遭ったのだった。

 当時のラヴェルは国民音楽協会で執行部のメンバーとなっており、すでにいくつもの作品が協会のコンサートで初演されていた。ケクランに手紙を書いた1週間前にも、《夜のガスパール》がリカルド・ビニェスのピアノによって初演されたばかりだった。しかし手紙の内容からも分かるように、ラヴェルは協会にはびこるスコラ派の保守的な雰囲気に嫌気が差しており、現代音楽に開かれた新しい組織を作る必要があると切実に考えていたのだ。加えて、愛弟子の作品が否定されたとなれば、協会への憤りも相当のものであったろう。そこにフォーレクラスの同級生だったケクランの件がタイミング良く重なって、もはやラヴェルが行動を起こすためのお膳立ては整っていた。

 残念な決定がなされた。たいへん議論の余地がある、そして明らかにダンディ主義の悪い影響下にあるものが受け入れられていたのに、ラヴェルの弟子であるモーリス・ドラージュの交響詩は否定されたのだ。後に独立音楽協会で演奏された、天才的でないにしろ間違いなく音楽的であるこの作品(《海辺の州》)は、審査員の誤りを示すものだった。その上、スコラの音楽家どもの大多数はラヴェルに対して悪意を抱いており、《博物誌》は国民音楽協会でスキャンダルを巻き起こした[13]。[中略]ラヴェル事件(《博物誌》の)の後にあったドラージュ事件は大きな反響を生み、若き巨匠である友人たちに「新しい協会がなんとしても必要である」という考えを促した。より自由で、もっと真に音楽的な…。時は満ちていた。[14]

 ケクランはラヴェルからの申し出を快諾し、その後すぐに、幾人かの仲間もあわせて新組織の設立に向けて話し合いが重ねられた。ラヴェルの呼びかけに応えて、ケクランの他、フローラン・シュミット、ルイ・オベール、ジャン・ロジェ=デュカス、エミール・ヴュイエルモーズら、フォーレクラスで学んだ生徒たちが集い、さらにはアンドレ・カプレとジャン・ユレという類まれな二人の作曲家、そして出版社を営むA.Z.マトーが事務一般と経理の担当で加勢して、晴れてフランスに新たなる団体「独立音楽協会」が発足したのであった。『メルキュール・ド・フランス』(1910年4月1日)などの各誌には、創設にあたっての声明が出され、そこでは「ジャンル、様式、流派の別なく、あらゆる芸術上の試みが歓迎されるような自由な場を創る」[15]という狙いが示されている。こうしてパリの楽壇には、伝統の国民音楽協会と前衛の独立音楽協会という、強力な二派閥が相対する時代がやって来た。フランス音楽史を画する出来事のただ中で、ケクランはその全容を知る特別な証人の一人となったのであった。

 独立音楽協会について驚くべきは、この新協会の総裁に迎えられた人物がガブリエル・フォーレだったということである。何を隠そう、彼は敵対組織である国民音楽協会の創設メンバーであり、当時もまだ現役の会員であったにもかかわらず、ラヴェルら弟子達の要請を快く受け入れて総裁の座に就いたのだ。これについてフォーレ自身が何を考えていたか、ケクランの語っている話はかなり興味深い。

 ラヴェル、フローラン・シュミット、ヴュイエルモーズ、ジャン・ユレと私が(パリ音楽院の)フォーレの院長室に集まった時、彼は私達に、より良い日々に味わったような子どもっぽい喜びを伴って、訳知り顔で言った。「我々は陰謀を企てているんだね!」[16]

 とはいえ、彼は国民音楽協会の総裁ヴァンサン・ダンディと友好的な関係を維持することができたし、ダンディも独立音楽協会に関して「この反乱のことは何も知らない…新しい協会の存在さえ私は知らないのだ」[17]と初めのうちは懸念を抱いていなかった。一方で、やはりフォーレの決断をひどく問題視する人もいた。

 フォーレは師のサン=サーンスが、ドビュッシーふうの音楽や若い音楽家の大胆な試みに対して、その書法が彼自身のものと違うところから容赦なく処断するといった、残忍で新しいもの嫌いなのを知っており、そのため彼はこのクーデターに対する反動が、当然起こるだろうことを懸念していた。間もなくそれはやって来た。フォーレは『サムソンとデリラ』の作曲者から一通の手紙を受け取ったが、それはこの新しい寺院の屋台骨をゆさぶるもので、そこには以前の教え子であるフォーレに対して、彼を仲間に引き入れて、危険な役割を演じさせている「無政府主義者の小集団」から直ちに離れることを要求していた。[18]

 サン=サーンスの苛烈な忠告に対し、自分の信じた弟子達がその才能にもかかわらず不当に非難され、彼らを支持し援助することが自らの芸術家としての責務である、とフォーレは変わらぬ愛情と誠実さでもって返事を送ることになる。二人の友情は生涯を通じたものであり、サン=サーンスも単なる「新しいもの嫌い」という訳ではなかったが、数年後にはフォーレの作品さえも彼にとっては理解の及ばないものとなってしまう[19]

 1910年4月20日には早くも独立音楽協会の第1回コンサートが開催された。リスト、ドラージュ、ロジェ=デュカス、ドビュッシー、カプレに加え、ハンガリーのコダーイ・ゾルターンの作品の他、フォーレの《イヴの歌》Op.95とラヴェルの《マ・メール・ロワ》が初演された。ケクランの作品が協会のコンサートに登場するのは第2回で、音楽学者ルイ・ラロワが採集したジャワの音楽による《ジャワ組曲》Op.44bisがプログラムの最後を締めくくった。またこの回では、ワンダ・ランドフスカがチェンバロでヘンリー・パーセルとジョン・ブルを演奏した。同時代のフランス音楽、イギリスの古楽、東南アジアの音楽が同じ場に並ぶプログラムは、協会の「あらゆる芸術上の試み」に開かれた姿勢を体現するものであった。1910年6月の第5回には、独立音楽協会にとって初となるオーケストラのコンサートが開催された。この時には、ケクランの〈寺院〉Op.46-1とドラージュの《海辺の州》という、協会設立のきっかけともいえる2曲が演奏されたが、言うまでもなく、このタッグは国民音楽協会への記念すべき異議申し立てであったはずだ。

 フォーレクラスの音楽家たちを中心に結成された独立音楽協会は、このようにまだ生まれたばかりの初年度から、意欲的に活動を展開した。そしてその初期においてケクランの作品は、彼らの野心や視野の広さ、あるいは敵勢力への戦闘的ともいえる姿勢を代弁するための大きな役割を演じていた。そしてケクラン自身も、前衛芸術の擁護者として独立音楽協会の精神性を象徴する人物であったが、その強固な姿勢は第一次世界大戦期の協会の活動においても決定的な一役を買うことになる。

独立音楽協会の設立を伝えるMusica誌。写真はフォーレとその弟子たち。手前でピアノを連弾しているのが、フォーレとロジェ=デュカス。周りを取り囲んでいるのが、左からオベール、マトー、ラヴェル、カプレ、ケクラン、ヴュイエルモーズ、ユレ。

[1] Orledge, R.(1989).Charles Koechlin. His life and works. London: Harwood Academic Pub, 9-10.
[2] ジャン=ミシェル(1904-90)、エレーヌ(1906-98)、マドレーヌ(1911-97)、ニナ(1916-83)、イヴ(1922-2011)の5人。父とは異なり、いずれも音楽の道に進むことはなかった。
[3] Koechlin, Ch. (1939/1947) 1981. “Étude sur Charles Koechlin par lui-même.” in Charles Koechlin 1867-1950 «Koechlin par lui-même» (texte inedit), La revue musicale, nº 340-341. Paris: Richard-Masse, 54.
[4] 1901年ローマ大賞作曲コンクールの第一等首席はアンドレ・カプレ、第一等次席はガブリエル・デュポンに授与された。(http://www.musimem.com/prix-de-rome.html 〈最終確認:2022/10/10〉)
[5] Koechlin, Ch. (1947). “Maurice Ravel.” Cahiers Maurice Ravel, vol.1 (pub. 1985). Paris: Fondation Maurice Ravel, 45.
[6] ドビュッシーやラヴェルの作品を早くから擁護していたマルノールは、その後もラヴェルと親交を持ち、後には《夜のガスパール》第2曲〈絞首台〉を献呈されている。
[7] Marnold, Jean. (1905). “Le scandale du Prix de Rome”, Mercure de France, no.191,‎ (1er Juin 1905), 466-469.
[8] Lalo, Pierre. (1905). “La Musique”, Le Temps, Juil 11.
[9] オレンシュタイン, A. (2006). 『ラヴェル:生涯と作品』井上さつき訳, 音楽之友社, 57.
[10] 資料によっては1月13日という記述も見られる。
[11] 協会の委員会のうち、ケクランの作品を支持したのはわずかにフローラン・シュミットとアルベール・ルーセルの二人だけだった。
[12] Ravel, M. (2018). L’intégrale : correspondance (1895-1937), écrits et entretiens. Paris: Passeur, 206.
[13] 1907年1月12日の国民音楽協会のコンサートにおけるラヴェルの《博物誌》の初演は、聴衆の嘲笑と野次に見舞われた。師のフォーレでさえもこの作品には苛立ちを覚え、初演の後には批判的な調子を隠さなかった。(ヴュイエルモーズ, E. (1981).『ガブリエル・フォーレ』家里和夫訳, 音楽之友社, 49-51.)
[14] Koechlin, Ch. (1934). “Souvenirs sur Debussy” La revue musicale, (Novembre 1934), 247.
[15] Mercure de France, no.307 (1er Avril 1910), 575.
[16] Koechlin (1934 : 247-8)
[17] Tenroc, Ch. (1910) 2021. “M.Vincent d’Indy nous parle de la S.M.I.” Écrits de Vincent d’Indy, vol.2 (rassemblés et présentés par Gilles Saint Arroman). Arles: Actes Sud, 274.
[18] ヴュイエルモーズ, E. (1981).『ガブリエル・フォーレ』家里和夫訳, 音楽之友社, 58-9.
[19] サン=サーンスはフォーレの《閉ざされた庭》Op.106を理解できなかった。(ネクトゥー, J-M.(1993)『サン=サーンスとフォーレ:往復書簡集1862-1920』大谷千正・日𠮷都希惠・島谷眞紀訳, 新評論, 201-3.)