文:佐藤馨
パリ音楽院第5代院長のアンブロワーズ・トマが1896年に亡くなると、新たな6代目院長には作曲科教授だったテオドール・デュボワが就任した一方、もう一人の作曲科教授であったジュール・マスネは職を辞して音楽院を去ってしまった。ケクランを含む、残された元マスネ・クラスの生徒たちは、この出来事を機に新たな師と出会う――ガブリエル・フォーレ(1845-1924)だ。
フォーレとパリ音楽院
これ以前に一度、フォーレはパリ音楽院の作曲科教授のポストを得ようと試みたことがあった。それは1892年、エルネスト・ギローの死に伴い、作曲科教授のポストに一つ空きができた時だった。ニデルメイエール校での師にして10歳上の親友でもあったサン=サーンス[1]は、この機にフォーレがギローの後任になるよう熱心に勧め、最終的にはフォーレ自ら立候補をした。
しかし、この試みは失敗に終わる。当時の院長トマは、「フォーレですって?とんでもない!もし彼が任命されるようなことがあれば、私は即刻辞任します」[2]と、彼を手酷く拒絶したのだ。トマにしてみれば、フォーレはパリ音楽院出身でもなければローマ賞受賞者でもない、よそから侵入してきた危険な急進派として映っていたことだろう。これを受けてかどうか、フォーレはフォーレで、自分を推してくれたサン=サーンスに次のような多少言い訳じみた手紙を書いている。
よく考え直してみたのですが、すでにしなければならない仕事があるうえに、作曲のクラスを受け持つという、重要で責任のある任務を引き受けられるほど、私はたくましい人間ではないと思います。…[中略]私はすでに、何人かの若い人たちを教えてきました。そして、私は彼らの性格に合わせてそれぞれ教え方を変えてきたのですが、この方法は、人数の多いクラスではできないことで、そのようなところでは、議論の余地のないことしか言えないのです![3]
作曲科教授の職が期待できないと分かったフォーレは、やむなく今度は音楽教育視学のポストを得ることに方針転換する。これもまた、ギローの死により空席となっていたポストだが、すでに候補者の一人には友人のエマニュエル・シャブリエが名を連ねていた。強力なライバルの存在を知ると、フォーレは親しい間柄だった大蔵省官僚のマルセル・ジレットに手紙を書き、自らの生活の窮状を訴えた[4](ジレットは当時の公共教育大臣レオン・ブルジョワの友人であった)。こうして自分の為に必死になるのは、謙虚で慎み深いフォーレの生涯の中では例外ともいえる珍しいことだったが、その甲斐もあり、1892年6月1日、フォーレは「パリ国立音楽院の地方分校、国立音楽学校、並びに聖歌隊員養成所を統轄する音楽教育視学」のポストに任命され、ついにパリ音楽院での公職を得る。音楽界での地盤固めとしては、確かにこの任命は大きな役割を果たしたが、代わりに以後13年間、フォーレは国内各所を転々と視察して報告書を作成するという重労働を課されることになった。彼がこの枷から解放されるには、1905年にパリ音楽院院長に就任するのを待たねばならない。
1896年の二度目の立候補も、易々と事が運んだわけではない。音楽院の高等参事会の意向、3クラスある作曲科を2クラスに縮小するという議論、同じ作曲科教授の地位を狙うシャルル=マリー・ヴィドールの動向など、様々の不安が繊細なフォーレの気を揉ませた[5]。しかしその裏で、高等参事会の一員でもあったサン=サーンスは有力者に手紙を書き、状況が少しでもフォーレの有利に進むよう便宜を図るなど、その演じた役割の大きさは想像に難くない。彼の献身ぶりは、1909年にフォーレがフランス学士院に立候補する際にも遺憾なく発揮される。サン=サーンスとの厚い友情で結ばれた関係なくしては、フォーレの進んだ道はだいぶ違うものになっていたかもしれない。
フォーレ・クラス
マスネの後任という立場で作曲科教授に任命されたこともあり、元々マスネのクラスに在籍していた生徒および聴講生たちも、そのほとんどがフォーレの門下に入った(フローラン・シュミット、ルイ・オベール、ジョルジュ・エネスク、アンリ・フェヴリエ等)。ケクランもそのうちの一人だったが、彼はこれより前からフォーレの音楽に接し、すでにその魅力に引きつけられていたのだ。
ガブリエル・フォーレ……1890年頃、彼はまだあまり知られていなかった。しかし、この巨匠が音楽院の教授になる前から、私は彼の作品のいくつかを耳にする素晴らしい幸運に恵まれた。それは新しく、深遠で無垢な魅力による突然の啓示だった。オデオン座での『シャイロック』、その非常に快い、あまりに完璧なヴェニス風の音楽が、アロクールの翻案に伴っていた。…[中略]同じ頃、ひどく惜しまれる私の友人ジュール・グリゼの集まりで、私は《小川》、四重唱の《マドリガル》、《カリギュラ》の合唱の『特別な和声的解決』をうまく自らのものとしていたのだ。[6]
フォーレの《シャイロック》は、1889年12月17日にパリのオデオン座で初演されたエドモン・アロクールの戯曲『シャイロック』(シェイクスピアの『ヴェニスの商人』の翻案)の付随音楽だ。作曲者自身が指揮をしたこの上演に居合わせたケクランは、すでにそこでフォーレの音楽の素晴らしさに啓示を受けていたようだ。また彼は、実業家でアマチュア音楽家でもあったジュール・グリゼ(1854-1915)の合唱団の一員として、フォーレの合唱曲を実際に歌い、その独自の語法に直に触れることができたのである。幼少のケクランに天啓を与えたマスネがそうだったように、愛していたフォーレが自分の師になるとは、なんという運命の巡り合わせだろうか。
私はとりわけ彼の芸術に引きつけられていた。それは、オデオン座の『シャイロック』が快い(「快い」はありきたりな言葉で、ひどく説得力がない。私はこれを最も力強い意味で用いる)付随音楽と共に、私に最初の啓示を与えた時からそうだった。つまり、とても深く敬服していた音楽家の指導下で学ぶことが、どれほど嬉しいことだったか![7]
実際にフォーレが行った授業は、ローマ賞に向けてカンタータをせっせと準備させる従来の音楽院のものとも、あるいは対抗軸であるスコラ・カントルムのシステマティックなものとも違っていた。それがどのように一線を画していたかについては、彼の生徒たちによって興味深い証言がいくつか残されている。フォーレの死後に彼の伝記を著したケクランは、前任者のマスネと比べつつ、以下のように回想している。
そのおしゃべりが指導を活発で生き生きと、そして何より理解あるものとしていたマスネの後にあって、フォーレは静かに生徒の譜面を読んでいるように思われた。…[中略]最も有効なきっかけは彼自身によって供されるもの、そして彼の芸術の高い水準であった。生徒たちはこの真の音楽家に、自分が書けた一番良いものしか見せず、また彼の芸術上の高潔さに値しないと、いかなる譲歩や平凡をも恐れた。間違いなく、いかなるありふれた、勿体ぶったものでも彼に聴かせようなんてことは、並外れた鈍さであろう。しかしながら、その危険を冒す者もいた。フォーレはそんな時、静かに黙っていた。彼はぼんやりと上の空になるが、演奏が終わると無頓着に体の向きを変え、そして無関心な雰囲気で柔らかく尋ねるのだ、「他に何かあるかね?」[8]
この文章から読み取られる厳しさは、どこか長閑なフォーレ像とは少し趣を異にしているかもしれない。フォーレの慎ましさや穏やかな性格とは裏腹に、彼自身のレベルの高さゆえ、授業には常にある種の緊張感が漂っていたようだ。しかし、これがフォーレ・クラスを音楽院の中でも特別なものとし、その崇高なカリスマに惹かれた人々が新たに彼らの仲間に加わるのだ。ジャン・ロジェ=デュカス、ポール・ラドミロー、アルフレード・カゼッラ、ナディア・ブーランジェ、エミール・ヴュイエルモーズ、そしてモーリス・ラヴェル。その後のフランス音楽史を牽引する人々が綺羅星の如く並んでいる。まさしく、この作曲クラスは近代フランス音楽の揺籃となっており、類まれな若者たちの間でケクランも切磋琢磨したのである(29歳になっていたケクランを若者と呼べるかはさておき)。ヴュイエルモーズは教師としてのフォーレについてこう振り返る。
彼の主要な関心は、若い芸術家たちが自分自身の力によって、各々の個性を自由に花開かせるところにあった。生徒が危険に陥った時には救いの手を差しのべたが、しかし生徒たちの個々の性格ははっきりと保たせるようにした。そして彼は生徒たちに非常に堅固な技術的基礎を、そして驚くべき柔軟な書法を与えると同時に、モーリス・ラヴェル、フロラン・シュミット[原文ママ]、カセㇽラ[原文ママ]、ジョルジュ・エネスコ[原文ママ]らの貴重な独創性を守り、…[中略]そしてシャルル・ケクランの百科辞典的な好奇心を、それぞれに援助したのである。それは作曲教育の歴史における、一つのユニークな力業ということができる。[9]
ここで示唆されているように、数々の優秀かつ個性的な音楽家を育て輩出したフォーレ・クラスは、作曲教育にとどまらない音楽全体の歴史において、輝かしい1ページとしていまだに記憶されるものだ。その偉大な業績は、およそ半世紀後のメシアンの作曲クラスとも並び称される。いうなれば、フォーレ・クラスは20世紀前半のフランス音楽を、メシアン・クラスは20世紀後半のフランス音楽の導き手を生み出す重要拠点だった。