あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(8) 垂直な経験、垂直な時間 1960年代前半の楽曲-2

2 垂直な時間――無限の「今」

 フェルドマンの「垂直」が意味するものと、彼がこの概念に対して抱く具体的なイメージをもう少し詳しく考察してみよう。1966年12月28日に収録されたケージとフェルドマンのラジオ対談シリーズ Radio Happenings[1]第3回の中でフェルドマンはこの時できたばかりの曲について話している。

フェルドマン: 今朝、終止線を引いて1曲完成させたばかりで……大きな規模の室内楽曲だ。その曲は私の3台ピアノのための曲(訳注:「Two Pieces for Three Pianos」(1965-66))にそっくりで、3つの違う出来事が同時に起きる。実際は3つの曲が重ねられているわけではなく、この3つは1つの曲を作るために進み行く出来事にすぎない。曲ができるまで長かった――たった6ページ書くのに何ヶ月も何ヶ月も何ヶ月も要した。

ケージ:すばらしい。空間に対してあなたは今どう考えているの? 例えばあなたはさっき3つの出来事を同時に進ませると言っていたけれど、3つの出来事をその空間内の別々の場所で引き起こそうと考えたのか、それとも、それらが一緒に起こるようにしたいのか?

フェルドマン:そうではなくて、3つの出来事は空間内のそれぞれ違う場所にある。

Feldman: I just drew the double bar line this morning on a work for… well, it’s a large chamber work. It’s very much like my three-piano piece, where there are three different things going on at the same time. They’re not really three pieces superimposed, they’re just three things going on to make one. And it took so long—months and months and months of work just to write six pages.

Cage: Beautiful. What is your attitude now toward space? Say you had three things like this, going on at once, does it enter your mind to have them happen in different points in the space, or do you want them to happen together?

Feldman: No, they’re at different points in the space.[2]

ここでフェルドマンが言及している自作曲を編成と作曲時期から推測すると「3台ピアノのための曲」は「Two Pieces for Three Pianos」(1965-66)。この対談の日にできたばかりの曲は編成が「大規模な室内楽曲」であること、「3つの違う出来事」が起こること、1966年12月28日までに初稿が完成していることから「Chorus and Instruments Ⅱ」(1967)と見てよいだろう。

Feldman/ Two Pieces for Three Pianos (1965-66)[3]
Feldman/ Chorus and Instruments Ⅱ (1967)

 「Chorus and Instruments Ⅱ」の編成も1960年代の楽曲に顕著な風変わりな組み合わせで、混声四部合唱、チューバ、チャイムから成る。フェルドマンが言う「3つの違う出来事」は性質の異なるこれら3つのパートを指している。この曲は自由な持続の記譜法で書かれており、3つのパートが単独で現れたり、重なったりと、様々な響きによる出来事が起こる。演奏を聴くと、冒頭に3つのパートがやや独立した動きを見せる以外はおおよそ同期している印象だが、上記のフェルドマンの説明によれば、この曲では3つのパートはひとまとまりとして扱われるのではなく、それぞれが異なる箇所で起きている。1つの空間、つまり楽曲の中に異なる複数の出来事を引き起こすフェルドマンのアイディアに興味を持ったケージは、フェルドマンからこのアイディアについてさらに聞き出そうとする。

ケージ:その空間内での違う場所。

フェルドマン:そう。私は様々な制御を行っていて、たいてい無音は測られる。無音は密接にまとまってというよりも、単に異なる空間で起きるだろうということ。でも、私がここで追求しているのは完全に垂直な道程。ほら、私たちは水平については知り尽くしているし。

JC: Different points in the space.

MF: Yes. I utilize various controls, mostly the silences are measured. That’s only that it will happen in different spaces rather than close together. But what I’m pursing is the whole vertical journey. You know, we know everything about the horizontal.[4]

先に引用したエッセイ「Vertical Thoughts」では自分の意志を制御していると書いていたフェルドマンは、この対談が行われた1966年12月末の時点で「様々な制御 various controls」を行っていると述べる。「測られる」無音も彼の「様々な制御」の対象に入るが、無音の状態は曲中の全てのパートが足並み揃えて起きるのではなく、異なる空間で各々起きるのだとフェルドマンは言いたいのだろうか。普通に考えれば、このような状態は制御とは逆の、あるいは違う状態を意味するはずだが、フェルドマンはこのバラバラな制御の取れていない状態を「完全に垂直な道程」として追求している。フェルドマンの「垂直」についての説明はさらに続く。

フェルドマン:だが、垂直はこんなにも奇妙な経験だ。なぜなら、子供の頃にあの遊びをやったことはある?グラスに水を満杯になるまで注いで、ペニー硬貨をそこに落とし続ける…

ケージ:それでも水は溢れないんだっけ?

フェルドマン:そう、溢れないのでグラスの半分をペニーが占めることになる。こうして私は垂直というものを発見した――そこにいくつ音を投げ入れようと、まだ満たされない。(中略)今、私は実際に3つの曲をこの同時性の中に投げ入れた。もっと多くを入れることができたかもしれないけれど(笑)。この同時性は十分な空間と空気に満ちていて、まだ呼吸している。この同時性には際限がなく、その同時性は無条件に透明性を保っている。

MF: But the vertical is such a strange experience, because it’s like, did you ever play this game, when you were a kid, where you will the water right up to the top on the glass and you keep on adding pennies…

JC: And it doesn’t spill over?

MF: And it doesn’t spill over, and you have half of the glass full of pennies. And that’s how I find the vertical—that no matter how many sounds I throw into it there is a hunger…… Now I threw three pieces, actually, into this simultaneity and it could have much more (laughs), it’s so full of space, so full of air, it’s still breathing. It’s endless and it absolutely keeps its transparency.[5]

フェルドマンは水を満杯に入れたコップに硬貨を入れる遊びにたとえて、垂直の意味するところを説明している。このたとえはわかりやすい。1つの空間と時間に複数の出来事を、つまり音をいくつ投げ込もうと、その空間と時間は決して溢れることはなく無限に受け容れられる。投げ込まれた音は1つの空間と時間の中に垂直に積み重なり、その高さが絶えず更新されていき、同時に起きる音の数にも際限がない。さらには「その同時性は無条件に透明性を保っている it absolutely keeps its transparency」ので、出来事が垂直に重なる一連の過程――音が生じて減衰し、次の音が生じる過程――を常に耳で把握することも可能だ。このような音の積み重なりの過程を、音が垂直な柱や帯のように無限に積み重なっていくイメージとして捉えることもできる。「垂直な」音楽では、その都度の音の積み重なりの瞬間が次々と起こるが、それぞれの瞬間は互いに関係性や連続性を構築しない。フェルドマンがここで言おうとしている垂直は、出来事が起きる瞬間を指し、その出来事は次に起きる出来事に打ち消されてしまうので際限がない。コップの中にいくら硬貨を投げ入れても水が溢れないのと同じく、その瞬間の中にいくら音を投げ入れても溢れることはないのだ。

 本稿は言説と楽曲の例を用いてフェルドマンの垂直の概念を解き明かそうとしている。だが、元も子もないことを承知で言うならば、この概念は楽曲の構造、作曲技法、記譜法だけでなく聴き手の経験に深く依拠しており、垂直にまつわる問いはどうしても主観的な議論にならざるを得ない。フェルドマンの文章や発言だけを論拠としていては、なおさらその傾向が強まる。そこで、次に参照するのは第6回でも言及したJonathan Kramerによる音楽的な時間についての論考である。ここでKramerは主に音楽の構造の観点から、ある特定の傾向を持った音楽に「垂直な時間」の概念を当てはめている。Kramerの議論もその音楽の聴き方、感じ方にある程度依拠しているので恣意性を完全には否定できないが、これまで紹介してきたフェルドマンの文章や発言よりは理解しやすい。フェルドマンが描いていた垂直の意味やイメージを把握するための補足材料として、Kramerの議論を参照してみよう。

 Kramerは“New Temporalities in Music”[6]の中で、連続的に発展する調性音楽の時間を線的な性質 linearityとみなし、20世紀以降に現れたいくつかの新しい音楽的時間のあり方を分類した。「垂直な時間vertical time」も新たな音楽的時間の1つとして解説されている。垂直な時間を論じる際の楽曲例として言及されているのはケージの「Variations Ⅴ」(1965)、スティーヴ・ライヒの「Come Out」(1966)、フレデリック・ジェフスキの「Les Moutons de Panurge」(1969)の3曲。ケージの曲については、フェルドマンの曲にも見られる、その都度の出来事がただ起きるだけという点で垂直な時間の特性が当てはまる。ライヒとジェフスキの曲については、物語性のない反復が絶えず積み重なる点で垂直な時間の特性が当てはまる。ここでKramerはフェルドマンの曲には触れていないが、フェルドマンが「垂直」について頻りに語り出したのが1960年頃、Kramerのこの論文が刊行されたのが1981年であることを考えると「垂直な時間vertical time」に関してKramerがフェルドマンの音楽と言説を意識していた可能性は皆無ではないだろう。[7]

Cage/ Variations Ⅴ(1965)
Steve Reich/ Come Out (1966)
Frederic Rzewski/ Les Moutons de Panurge (1969)

 フェルドマンは「…Out of ‘Last Pieces’」の楽曲解説で「水平な連続性を断ち切る」ことについて書いていた。Kramerの以下の箇所は実際にフェルドマンのアイディアを代弁しているわけではないが、音楽の連続性を作る一要素であるフレーズが最近まで全ての西洋音楽に浸透していていたことを指摘したうえで[8]、フレーズを必要としない新しい音楽的な時間、「垂直な時間」について次のように述べている。

だが、いくつかの新しい楽曲はフレーズ構造が音楽の必須要素ではないのだと示してくれる。その結果、ただ1つの現在がひきのばされてとてつもない長さとなり、それにもかかわらず一瞬のように感じられるかもしれない無限の「今」が現れる。私はこのような音楽における時間の感覚を「垂直な時間」と呼ぶ。

But some new works show that phrase structure is not a necessary component of music. The result is a single present stretched out into an enormous duration, a potentially infinite “now” that nonetheless feels like an instant. I call the time sense in such music “vertical time.”[9]

 ここでKramerははっきりと「垂直な時間」を定義している。「垂直な時間」の中では私たちが生きている現実的な時間の長さとは関係なく、そして数秒先と数秒後の時間とも結びつかず今がひきのばされる。こうしてひきのばされた無限の「今」が音楽とともに更新されていく。これも結局は聴き手の受け止め方に依拠する経験的な側面から逃れられない言説だが、Kramerがいう無限の「今」は、同時性の中にいくら音を投げ入れようと音が際限なく積み重なっていくフェルドマンのコップのたとえと類似した発想だと言えるだろう。垂直な時間の音楽が時間の経過とともにたどる道程は以下のように描写されている(以下の箇所は解説よりも描写という言葉がふさわしい)。

垂直な楽曲は徐々に蓄積される結末を見せない。このような楽曲は始まるのではなくて単に動き出す。クライマックスを構築せず、楽曲内に起きる期待を敢えて抱かせず、偶然生じるかもしれないどんな期待も満たそうとせず、緊張を醸し出すこともその緊張を解くこともせず、終わりもしない。ただ止まるだけだ。

A vertical piece does not exhibit cumulative closure: it does not begin but merely starts, does not build to a climax, does not purposefully set up internal expectations, does not seek to fulfill any expectations that might arise accidentally, does not build or release tension, and does not end but simply cease. [10]

 起承転結やなんらかの物語構造を持った音楽の場合、ひとたび楽曲が始まると途中でなんらかのドラマティックな展開を見せてクライマックスに達し、結末を迎える。音階内の音や和音がそれぞれの機能に即して動く調性音楽はあらすじを描き、その通りに曲を展開させるのに適している。一方、ここでKramerが描写している垂直な楽曲は物語構造を持たず、ただ動き出して止まる。その瞬間に鳴らされた音の響き自体に緊張感や緊迫した印象を聴き取ることができるかもしれないが、その楽曲が演奏されている間に起きる音楽的な出来事が互いに結びついて緊張や弛緩の効果を生み出すわけでもない。あくまでも音楽的な出来事はそれ自体で完結しているので、部分と全体という関係性でその曲を捉えることもここではあまり意味がなくなってしまう。垂直な音楽の成り行きは、音のアタックよりも減衰に注意を促し、響きの偶発的な混ざり合いによって聴き手を前後不覚に陥れる自由な持続の記譜法の1960年代のフェルドマンの楽曲の特性と重なる部分が多い。

 その音楽が聴き手にもたらす時間の特性にも着目した、経験的ともいえる「垂直」の概念は楽譜を凝視するだけでは把握しにくいフェルドマンの「なんとも言い難い」楽曲に迫る際の一助にもなり得る。経験的な側面を持つ「垂直」を理解するには、その音楽を実際に経験している時の聴き手としての主体、つまり自分の存在を完全に消し去る必要はない。楽譜から読み取ることのできる情報に限界がある場合、「どう聴こえたか」を詳細に検討することでようやく見えてくる。特にフェルドマンの「なんとも言い難い楽曲」においては、その曲を聴いている自分の経験や感覚も情報源として役に立つ。この連載で行っている楽曲分析は、主に楽譜に記されている情報を頼りにしているが、フェルドマンの楽曲に関しては聴取に基づく経験的な側面と、楽譜から読み取ることのできる実証的な側面の両方が常に必要だ。

 「垂直な時間」、「垂直な音楽」を完全に客観的な視点から実証するのは不可能に近いが、Kramerの議論を参照することでフェルドマンが言おうとしていた「垂直」に多少は近付けたかもしれない。この種の議論は図やイラストを使うとさらに理解しやすくなるだろう。今回はあえて文章のみでどこまで「垂直」を描写し、解説できるのかを試してみた。だが、本稿は音楽を扱っているので言説のみで完結するわけにはいかない。楽曲に戻り、「垂直」が音楽の中にどう現れているのかを見ていく必要がある。次のセクションでとりあげるピアノ独奏曲「Piano Piece (to Philip Guston)」(1963)も和音が配置されただけのフェルドマン特有のなんとも言い難い曲だが、フィリップ・ガストンとの親交の様子などを参照しながら、この曲の「垂直」を見つけてみよう。


[1] Morton Feldman and John Cage, Radio Happenings Conversations-Gespräche, Köln: MusikTexte, 1993
[2] Ibid., p. 107
[3] リンク先の動画では「Two Pieces for Three Pianos」の作曲年代が1969年と表記されているが、パウル・ザッハー・アーカイヴでの資料調査に基づいてSebastian Clarenが作成した作品カタログ(Claren, Neither: Die Musik Morton Feldmans, Hofheim: Wolke Verlag, 2000に収録)によると、この曲の作曲年代は1965-66年。
[4] Ibid., p. 107
[5] Ibid., p. 109
[6] Jonathan D. Kramer, “New Temporalities in Music”, in Critical Inquiry, Spring, 1981, pp. 539-556
[7] 例えば、Kramerの論考”Modernism, Postmodernism, the Avant Garde, and Their Audiences,” in Postmodern, MusicPostmodern Listening, New York: Bloomsbury, 2016, pp. 47は音楽的な時間に関する論考ではないが、Kramerはフェルドマンをラディカル・モダニストと位置付けている。フェルドマンの存在がKramerの研究の範疇に入っていたと考えることができる。
[8] Kramer 1981, op. cit., p. 549
[9] Ibid., p. 549
[10] Ibid., p. 549

高橋智子
1978年仙台市生まれ。Joy DivisionとNew Orderが好きな無職。

(次回更新は12月1日の予定です)