吉池拓男の迷盤・珍盤百選 (27) 嘘か誠か イタリアの不思議な音

Fiorentino EDITION vol.2 THE COMPLETE LISZT RECORDINGS  Sergio Fiorentino(p) PIANO CLASSICS PCLM0041(6枚組) 2013年
Fiorentino EDITION vol.4 EARLY RECORDINGS 1953-1966 Sergio Fiorentino(p) PIANO CLASSICS PCLM0104(10枚組) 2016年

セルジオ・フィオレンティーノ(1927~1998)は謎の多いピアニストです。メジャーレーベルからのレコードリリースはありません。来日公演もなく、少なくとも存命中に日本国内では全く知られていませんでした。いくつものコンクールに優勝したとされてますが、入賞歴ゼロという記述もあります(1947年のジュネーヴで2位は確か)。わかっているのは演奏活動を始めて間もない1954年に、南米であわやの飛行機事故に遭遇し、以降トラウマで飛行機に乗れなくなって、演奏活動から身を引いてしまったこと。教職に専念する一方で、マイナーレーベルで細々と録音を続けていたこと。しかもそれらは架空のピアニストの名前で売られていたりしたこと。積極的に演奏活動を始めたのはもう晩年になってからだったことなどなど。

で、少なくとも遺された録音から判断するに、素晴らしいピアニストであったことは間違いありません。ミケランジェリは「イタリアで俺以外でピアニストと呼べるのはフィオレンティーノだけだ」と言っていたそうです。ピアノ編曲者としても独創的で優れた作品を多く遺していて、ラフマニノフのヴォカリーズなどは恐ろしく少ない音なのにピアノが無駄なく鳴る見事な技を見せています。ワイルド編の対極ですね。復刻はAPRなどから行われていましたが、2012年からPIANO CLASSICSで全4集計28枚のCDが体系的にリリースされ、彼のスタジオ録音のほぼ全貌が明らかになりました。この中の第2集と第4集が今回ご紹介するCDです。彼が表舞台から姿を消していた時期(1950年代・60年代)に録音されていたもので、壮年期の演奏を堪能できます。ただ、これらの演奏を凄い、凄いと手放しで悦ぶには少し躊躇する点があります。それは当時の彼の録音の担当者がWilliam H. Barrington-Coupeだったということです。こやつはあのJoyce Hattoの夫、つまり“ハットー事件”の主犯なのです。Barrington-Coupeは、自分のConcert Artistというレーベルから、他人の演奏を勝手にピックアップしてデジタル処理で手を加えて(時には本当に“改良”してしまって)CD化し、妻のハットーの名義で次々と発表していました。さらにBarrington-Coupeはフィオレンティーノの名前でも大量の偽録音を出していました。その真贋を区別したサイトもあるほどです。音楽詐欺と改竄の権化のような人物が関わっていたのですから、その演奏の真贋や質などにもどうしても疑いの目が光ってしまいます。ただ、PIANO CLASSICSから出た28枚は、晩年のフィオレンティーノと親交のあったErnst A. Lumpe(LP時代の匿名・偽名演奏の発掘と特定の研究家。上記真贋サイトの作成者)がプロデュースしています。Lumpeは研究家の観点から偽録音を除外し、真贋という点ではかなり信用はおけるものとなっていると思われます。

Fiorentino EDITION vol.4 EARLY RECORDINGS 1953-1966よりCD9

前置きが長くなりました。このPIANO CLASSICSのフィオレンティーノの演奏には演奏の良し悪しはさておき、不思議な音のする録音が含まれています。それは第4集「EARLY RECORDINGS 1953-1966」のCD9に収められたショパンのアンダンテ・スピアナートop.22。初めてこの演奏を聴いたとき、家庭内BGMとしてながら聴きしていたこともあって「あれぇ、アンダンテ・スピアナートだけど変な編曲しているなぁ。左手パートだけハープで演奏してる。」と思ったのです。演奏を確認してみてビックリ。フィオレンティーノによるピアノソロ演奏でした。慌ててきちんと聴き直しましたが、やはり左手の伴奏部はハープに聴こえます。当然のことながら、アンダンテ・スピアナートに続いて華麗なる大ポロネーズも演奏されていて、そこでは全くハープ音は聴こえません。さらに言うと、この録音は1960年9月11~13日にハンブルクでポロネーズ全16曲+op.22を一気に録った時のものなのですが、他の曲からはここまでのハープ音は聴こえません。強いて言うなら幻想ポロネーズの冒頭部分で少しする程度でしょうか。実に不思議で、しかも美しい音色です。使用したピアノに関するデータはありません。フィオレンティーノはヴィンテージピアノにも関心が高く、古いエラールでの録音も遺しています。このポロネーズ全曲録音もそうしたピアノを使用した可能性があります。所々、ヴィンテージっぽい音がしなくもないです。ただ、零細なマイナーレーベルの一気録りにそういうこだわりが通用したかは疑わしい所です。単に安く調達したのがくたびれかけた楽器だったのかもしれません。この録音にはさらなる逸話があります。Barrington-Coupeはこの全曲録音は出来が悪いとして、5年もお蔵入りさせた後、フィオレンティーノではなく架空のピアニスト名の廉価版LPで発売してしまうのです。のちの音楽詐欺師の一端を垣間見るようなエピソードです。では本当に出来の悪い演奏なのか? 私は全くそうは思いません。Op.22のポロネーズは豪快ではないもののキレッキレですし、英雄のあのズダダダズダダダ部分の加速も羨ましい限りです。なんといっても普通はつまらない8番以降の初期作品をイイ歌いまわしと指さばきで聴かせ倒してくれます。そしてアンダンテ・スピアナートの不思議で魅力的な音。ショパン・ポロネーズ全17曲版の録音としては相当イケてる仕上がりと思いますが、如何でしょうか。

Fiorentino EDITION vol.2 THE COMPLETE LISZT RECORDINGS

音と言えば第2集「THE COMPLETE LISZT RECORDINGS」のCD3(APRから出ていた「Contemplative Liszt」というアルバムと同じ内容)にも特徴的な録音があります。このTrack 1の前奏曲「泣き、嘆き、悲しみ、慄き」はピアノの音自体がとても悲しいのです。音楽が悲しいだけでなく音そのものにこれほどの悲しみが籠っているのは、ラフマニノフの弾いたシューベルトの「セレナーデ」やリパッティの弾いた「イエス、私はあなたの名を呼ぶ」と並ぶものと思います。録音が古いだけじゃん、なんて突っ込みは野暮というもの。フィオレンティーノの場合、同じ日に録音された楽曲も収録されていますが、音の悲しさはTrack 1がの前奏曲「泣き、嘆き、悲しみ、慄き」が頭抜けています。演奏家の力と録音条件がコラボした素敵な偶然をこのCDで素直に楽しめます。

……で、やはりふと思うのです。この不思議な音も、想像以上に良い演奏も、本当に本物なのだろうか、と。音楽詐欺師の錬金術に惑わされているだけなのではないか、と。

哀しいことです。

【紹介者略歴】
吉池拓男
元クラシックピアノ系ヲタク。聴きたいものがあまり発売されなくなった事と酒におぼれてCD代がなくなった事で、十数年前に積極的マニアを終了。現在、終活+呑み代稼ぎで昔買い込んだCDをどんどん放出中。