あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(9) 自由な持続の記譜法の変化-1

 前回は1960年代前半のフェルドマンの創作を語るうえで鍵となる概念「垂直 vertical」について考察した。フェルドマンは自身による文章やケージとの対話の中で「垂直」が何を意味するのかを語っていた。フェルドマンの言説や関連する論考から、絶え間なく現れる「今」によってもたらされる時間の経験が「垂直」なのだと解釈できる。今回は「垂直」な時間から派生したと思われる記譜法の変化を、画家ウィレム・デ・クーニングに捧げた室内楽曲「De Kooning」(1963)を中心に考察する。

1 記憶よりも忘却を促す作用−フェルドマンとデ・クーニング

 これまで何度かにわたって解説してきたように、1960年代のフェルドマンの楽曲の多くは音符の長さ(持続、音価)が演奏者に委ねられた「自由な持続の記譜法」で書かれている。この記譜法で記される音符には符尾(音符の棒)と符桁(音符の旗)がない。この記譜法はこの時代のフェルドマンの楽曲を特徴付ける要素の1つでもある。自由な持続の記譜法を用いることで、フェルドマンは拍子や規則的なリズムの制限を受けない可塑的な音楽を実現しようとしていた。フェルドマンが自由な持続の記譜法による一連の楽曲で追求していたのは、規則的な拍節に即して経過する従来の音楽的な時間とは異なる「垂直な時間」だった。これまでにとりあげた「For Flanz Kline」(1962)や「Piano Piece (to Philip Guston)」(1964)は、どちらも起承転結を完全に欠いた独自の時間の感覚をもたらす楽曲である。時間の経過について語る時、私たちは「時間が進む」と言う。だが、フェルドマンのこれらの楽曲における時間は「進む」感覚が希薄だ。音が鳴って消えて、次の音が現れる。この繰り返しから楽曲ができている。符尾のない音符が配置されたスコアに目を通すと、フェルドマンが自由な持続の記譜法で行ったことは、音符を五線譜に書くというよりも音符を紙上に置いていく行為に近いと言える。自由な持続の記譜法は1960年頃から約10年間続き、1950年代の図形楽譜が次第に複雑になってきたのと同じく、自由な持続の記譜法にも変化が見られる。「音をあるがままにする」方法を模索していたフェルドマンだったが、1963年の室内楽曲「De Kooning」では今までよりも一歩踏み込んで音が鳴らされる順番に介入し始める。

Feldman/ De Kooning(1963)

 「De Kooning」はタイトルから見てわかるとおり、フェルドマンの友人で抽象表現主義画家のウィレム・デ・クーニング Willem De Kooning (1904-97)に捧げられている。もともとこの曲はハンス・ネイムスが監督、撮影したデ・クーニングのドキュメンタリー映画[1]の音楽として作曲されたが、映画音楽というよりも独立した室内楽曲として位置づけられている。楽曲と記譜法を検討する前に、芸術と創作に関してフェルドマンとデ・クーニングがどのようなつながりを持っていたのかを見てみよう。フェルドマンはデ・クーニングが実際に絵を描いている様子を驚きとともに振り返っている。

デ・クーニングの映画を観たのならわかるはずだが、デ・クーニングの絵を観ていて魅力的だったのは、彼の絵を観るとそれらはとてもとてもすばやく見えるのに、彼が描いている姿を見てみると、彼がとてもゆっくりと描いているということだ。彼がよく使っていた大きな筆で、このようにして(訳注:ゆっくりとした動きで描くことによって)描き進めると、ここで何かが削ぎ落とされていく様子が見えてくる。その一連の方法によって、彼が描く様子はジェスチャーのように見えるだろう—だが、そうではない。それはスローモーション状態にあり、魅力的だ。私はその様子を信じられなかった。私はこの映画に関わり、毎日スタジオにいた。それでもまったく信じられなかった。とてもゆっくりなのに、すべてが速く見えたのだ。非常に興味深い。

However, if you saw a movie of de Kooning, what was fascinating about watching de Kooning paint was that when you look at his pictures they look very, very fast but if you see him paint, he paints very slowly. Because of the way he would use a big brush, he would go like this and you would see that something is thinning out here, it seems gestural—but it’s not. It’s in slow motion. It’s fascinating. I didn’t believe it. I did this movie and I was in the studio every day. I just didn’t believe it. Very slow and everything looked like speed. Very interesting.[2]

 疾走するような荒々しい筆遣いの痕跡がいくつも重なっているデ・クーニングの絵画だが、フェルドマンがスタジオで目撃したのは、実にゆっくりとした動作で描き続ける画家の姿だった。絵にはスピードが感じられるのに、そのスピード感や疾走感はゆっくりとした動きから生まれているという事実にフェルドマンは驚愕した。上記のフェルドマンの回想はその驚きが率直に表されている。デ・クーニングの絵画の中の速さと画家が絵を描く動作との関係をフェルドマンの音楽にひきつけて考えてみると、1960年代の自由な持続の記譜法による楽曲の特性を思い出すことができる。例えば第7回でとりあげた「For Franz Kline」から聴こえてくるのは、楽譜に整然と並んだ音符とは正反対の、様々な方向からそれぞれの楽器の音が絶えず鳴り響く静かな混沌だった。この曲では楽譜の外見と実際に聴こえてくる音との乖離が指摘される。「De Kooning」でも同様の乖離が見られるのだろうか。あるいはこの曲から始まった自由な持続の記譜法の変化にともなって、これまでとは違う新たな側面を見つけることができるのだろうか。この点については後ほどスコアを用いて検討するとして、次に、デ・クーニング側から見たフェルドマンの音楽について、フェルドマンとも親交のあった美術家で批評家のブライアン・オドハーティ[3]の論考を参照してみよう。

特にこの時期(訳注:1950年代中頃)のデ・クーニングの絵画はいくつもの取り消しによって散らかった状態で、トランプのカードでできた家は絶えず吹き倒されている。役者の感覚で言うならば、この絵がフィクションで、情熱に溢れた夢でもあると確証する声を絵にもたらすのは、このような吹き倒しなのだ。だから私はしばしばデ・クーニングの表現主義を「表現主義を欠いた表現主義」と呼んでいる。その声はほとんどかき消されそうな反復と残響に苛まれている。

A de Kooning painting, particularly of this period, is a mess of cancellations, house of cards continually being blown down. It’s the blowing down that brings this voice into the picture, certifying it as a fiction, as a dream of passion, in the actor’s sense. Which is why we often call de Kooning’s Expressionism “expressionism without expressionism.” The voice suffers such replication and echoes that it is almost extinguished.[4]

 ここでオドハーティは、抽象表現主義の様式がそれぞれの画家の間で既に確立された1950年代中頃のデ・クーニングの作品を「表現主義を欠いた表現主義」と称している。例えば、後にこの論考の中で語られる1955年のデ・クーニングの作品「Gotham News」を観てみると、フェルドマンがこの絵から感じ取った「速さ」と、オドハーティが見出した「いくつもの取り消しによって散らかった状態」が何を指しているのかがいくらか具体的に想像できるだろう。

De Kooning/ Gotham News (1955)
https://www.dekooning.org/the-artist/artworks/paintings/gotham-news-1955_1955 – 49

 「Gotham News」において、キャンヴァス一面に広がるすばやく荒々しい筆致(しかし、フェルドマンの記憶によれば実際はゆっくりとした動作で描かれている)は輪郭やかたちを形成する間もなく次々と現れる。何かのかたちができるかと思いきや、トランプのカードでできた脆い家のようにそれはすぐに吹き飛ばされて倒壊してしまう。倒壊による破片が片付くことなく次の家、つまりかたちや輪郭が姿を現すが、またも完成前に倒れてしまう。この繰り返しによってデ・クーニングの絵画が構成されている。オドハーティの言葉を借りると、デ・クーニングの1950年代中頃の作品を「いくつもの取り消しによって散らかった状態」と評することができる。さらにオドハーティはフェルドマンの音楽が提起する「表面」の概念に着目して絵画と音楽両方における時間と空間の問題を考えていく(「表面」については次回考察する予定)。ここでの思索はフェルドマンの音楽がもたらす時間と、「散らかった状態」に喩えられるデ・クーニングの絵画における空間を理解する一助となるだろう。フェルドマンの音楽がもたらす時間の特性を音楽以外の領域(ここではデ・クーニングの絵画における時間と空間の特性)に敷衍する試みとして、まず、オドハーティはフェルドマンの音楽を以下のように描写する。

 モートン・フェルドマンの音楽――ほとんど聴こえない音楽――から求められる注意は表面という概念を提起している点で一貫している。これは示唆にあふれている。たとえしっかり集中できなくても、人は音がどこから生じるのかを認識している。「どこ」はひとつの考え方として私たちに提示される。音は進むのではなく、同じ場所で積み上がって蓄積するだけだ(ジャスパー・ジョーンズのナンバーズ[5]のように)。このことは過去を覆い隠し、さらにはそれを破壊しながら、未来の可能性を消し去る。関係性の概念(リズムなど)を剥奪されて、現在というものがそこにあるすべてのように見える。沈黙による持続、音のしぶきと塊がある。このようにして、ある種の垂直な動き(蓄積)、水平な動き(連続しているが関係性ではない――因果関係を欠いている)が存在している。フェルドマンの音楽における空間はこれらの座標の各々がはぐらかし合って描かれる。互いに矛盾しているのでこれらの座標は打ち消し合う。また、互いに矛盾する必要がないのでこれらの座標は互いに立ち入ることもない。そういうわけで、この音楽は存在しもしないグリッドの考え方に悩まされている。ここでもたらされるのは時間の中の音楽だけでなく、時間の新たな概念だ。

The attention demanded by Morton Feldman’s music—which almost cannot be heard—is so uniform that it suggest the idea of a surface. This has large implications. One knows where the sounds are coming from, even though one can’t quite focus it; “where” is presented to us as an idea. Sounds don’t progress but merely heap up and accumulate in the same place (like Jasper Johns’ numbers). This obliterates the past and, obliterating it, removes the possibility of a future. Deprived of relational ideas (rhythm, etc.), the present seems to be all there is. There are durations of silence and sprays and clusters of sound. There is thus a sort of vertical movement (accumulation) and a horizontal movement (succession but not relationships—a missing causology). The space in Feldman’s music is described by the way each of these co-ordinates equivocates. They cancel each other because they are contradictory, and preserve each other because they need not be. The music, then, is haunted by the idea of a grid that does not exist. What is offered is not just music in time, but a new conception of time. [6]

 一読しただけでは文意を捉えるのがわかりにくい記述ではあるが、これまで本稿で解説してきたフェルドマンの「垂直」の概念と、彼が忌避しようとした「水平」あるいは連続性を思い出すと、ここでオドハーティが言いたかったことはそれほど難解でもないだろう。1960年以降の自由な持続の記譜法によるフェルドマンの音楽がもたらす時間は、過去や未来を退け、「現在」あるいは「今」が際限なく蓄積される。これは、それぞれの出来事や瞬間は前後とのつながりや関係を持たないことも意味する。音楽と異なり、絵画の場合はキャンヴァスの線や点や色が痕跡として残るので、見方によっては各々の部分を他の部分と組み合わせて関係性を見出すことも可能だろう。このような絵画の物体としての可視性にもかかわらず、オドハーティはデ・クーニングの絵にフェルドマンの音楽における時間に通じる特性を見出そうとする。これまでに本稿では1950年代の五線譜による楽曲や1960年代の自由な持続の記譜法による楽曲を明確な参照点のない「なんとも言い難い曲」と呼んできた。この「なんとも言い難い曲」も時間の観点で解きほぐすと、その生成のメカニズムがぼんやりと浮かび上がってくる。オドハーティによれば「フェルドマンの音楽では記憶と忘却が制御されている。あるいは、むしろ忘却を促している there is a control of remembering and forgetting, or rather a prompting to forget.」[7]。覚えることよりも忘れることが推奨される聴き方は、楽曲の構成要素を有機的に関連付けながら全体を構築する近代の器楽曲の「望ましい」聴取とは対極に位置する。フェルドマンの音楽では部分と全体の視点は意味をなさず、今ここで聴こえる音がその曲そのものである。したがって、それ以前に聴いた音、今聴いている音、これから聴く音を結びつけて全体像を構築する必要がない。ここでは「現在は未来かもしれないし、過去かもしれない The present may be the future or the past.」[8]。この判然としない時間と時制は「フェルドマンの楽曲に感じられる、論理と不可解が正確かつ狡猾に重なっている感覚 the feeling one has in Feldman’s work of an exact and maddening superimposition of logic and enigma」[9]と言い表すこともできる。

 以上のようにオドハーティはフェルドマンの音楽における時間の特性の解明を試みた後、「フェルドマンの音楽が空間について非常に洗練された観念を構築するのとちょうど同じく、デ・クーニングの1950年代初期と中頃の絵画が時間についての洗練された観念を構築する just as Feldman’s music constructs a very sophisticated idea of space, de Kooning’s paintings of the early and mid-fifties construct a sophisticated idea of time.[10]」と述べ、これまでの音楽と時間の議論を音楽における空間、絵画における時間にまつわる議論へと発展させていく。ここで急に空間が現れる点にオドハーティの論理の不明確さが否めない。だが、音楽的時間の特性が「垂直」や「水平」といった視覚的な表現や比喩(第8回で引用したコップに硬貨を投げ入れるエピソード)を用いて語られてきたことを考えると、時間についての思索を言語化する場合、視覚的、空間的要素を伴うなんらかのイメージや事物のあり方に依拠せざるを得ない側面があるのも確かだ。オドハーティーはさらに次のように続ける。

通常、空間を見て、時間を聴く。時間を見て、空間を聴くことはできるだろうか? これは共感覚の考え方ではない。というのも、ここでは異なる感覚の交差や統一が求められているわけではないからだ。これは形式的な分類である。

Ordinarily one sees space and listens to time. Can one see time and listen to space? This is not a synaesthesic idea, for it demands not crossover or union of senses, but their formal separation.[11]

 オドハーティは共感覚の観点で時間と空間を論じているわけではないと明言する。ここでの彼の議論は聴覚と視覚、時間と空間、音楽と絵画をひとまとめにして共通項を見出そうとしているのではなく、それぞれの事柄を現象や感覚の次元にまで掘り下げた結果、見えてくる特性を抽出しようとしている。この態度はおそらくフェルドマンがデ・クーニングら抽象表現主義の画家たちに抱いていた共感とも重なるだろう。媒体や方法の差異は分類や形式上の差異にすぎず、音楽であれ、絵画であれ、そこからどのような経験と感覚がもたらされるのかを突き詰めていくと、時間と空間の問題にたどり着いてしまう。媒体は違っていても、フェルドマンの音楽がもたらす記憶と忘却の関係はデ・クーニングの「Gotham News」におけるそれらの関係と近しい。なぜなら、「このようにして(訳注:何度も塗り重ねて)その絵は思い出すこと(何かを過去から遠ざけること)と忘れること(過去に上描きすること)との断絶によって満たされている The picture is thus full of discontinuities between remembering (keeping something from the past) and forgetting (painting over it)」[12]からだ。デ・クーニングの絵の中でいくつもの記憶と忘却の積み重ねがキャンヴァス全体を占める様子は、フェルドマンの曲の中で音が次々と現れてそれまでの記憶を打ち消していく様子と重なるといえるだろう。

 実際にフェルドマンの「De Kooning」において、記憶と忘却は実際にどのように作用しているのか、それを描き出すためにどのような記譜の方法がとられているのだろうか。次のセクションではスコアと音源を参照しながら、この曲に迫ってみる。


[1] デ・クーニングのドキュメンタリー映画「デ・クーニング De Kooning」はジャクソン・ポロックのドキュメンタリーと同じコンビ、ハンス・ネイムスとパウル・ファルケンベルクによって1963年に制作された。残念ながら、現在オンラインでは公開されていない。
[2] Morton Feldman, Words on Music: Lectures and Conversations/Worte über Musik: Vorträge und Gespräche, edited by Raoul Mörchen, Band Ⅰ, Köln: MusikTexte, 2008, p. 58
[3] Brian O’Doherty (1928-) https://imma.ie/artists/brian-odoherty/ – the_content
[4] Brian O’Doherty, American Masters The Voice and Myth in Modern Art: Hopper, Davis, Pollock, De Kooning, Rauschenberg, Wyeth, Cornell, New York: Dutton, 1982, p. 145
[5] Jasper Johns, Numbers in Color (1958-59) https://www.albrightknox.org/artworks/k195910-numbers-color
[6] O’Doherty 1982, op. cit., pp. 165-166
[7] Ibid., p. 166
[8] Ibid., p. 166
[9] Ibid., p. 167
[10] Ibid., p. 167
[11] Ibid., p. 167
[12] Ibid., p. 167