フェルドマンは1972年頃の自身のエッセイの中で「“ベルリン時代”の楽曲タイトル[3](Three Clarinets, Cello and Piano; Chorus and Orchestra; Cello and Orchestra; etc.)は単にその曲のオーケストレーションを言っているだけだ The titles from my “Berlin Period” (Three Clarinets, Cello and Piano; Chorus and Orchestra; Cello and Orchestra; etc.)simply state the compositions’ orchestration.」[4]と書いている。バッファロー大学着任の直前、フェルドマンが1971年秋から1年間DAADの奨学金でベルリンに滞在していたのは前回のこの連載で述べたとおりだ。この時期に書かれた室内楽曲や協奏曲風編成の楽曲はフェルドマンにオーケストレーションの意味や役割を再考させるきっかけとなったと推測できる。彼は次のように続ける。
オーケストレーションとはなんだろう?音楽を聴こえるようにする手段がオーケストレーションの定義なのかもしれない。オーケストレーションは作曲である。他のすべての音楽的なアイディアは最終的にどうでもよくなってしまう――まるごと飲み込まれるか、私たちの足元にある地面のような堆積物へ踏み固められる。
What is orchestration? The means by which music becomes audible might be a definition of orchestration. Orchestration is composition. All other musical ideas eventually become unimportant—swallowed whole or pounded into sediments like the ground beneath us.[5]
先の引用と同じく、ここでも彼はオーケストレーションと作曲とをほぼ同一視している。オーケストレーションさえ決まっていれば、曲はできたも同然と言いたげだ。ここで注目したいのは、フェルドマンはオーケストレーションの定義を「音楽を聴こえるようにする手段」と提起していることだ。彼の考えに即して言い換えると、音を概念的な存在から、人間の耳に入ってくる現実的、物理的な存在へと媒介する実践的な手段がオーケストレーションの定義であり役割だとも解釈できる。一聴してなんとも言い難いフェルドマンの音楽は概して抽象的な性質の音楽だが、これまで彼が音のアタックや減衰に注意を払ってきたことを考えると、彼の音楽は実際の響きが聴き手に与える効果に根ざした身体的な性質を持っているともいえる。フェルドマンは自分が実際にどのような方法で音符を書いているのかを具体的に説明しながら、作曲の際の音の物理的、身体的な側面に対する考えを述べている。
私がピアノで作曲し続ける理由の1つは、ピアノが自分を「イマジネーション」から救い出してくれるからだ。物理的な事実としてひっきりなしに現れる音はある種の知的な白昼夢から目を覚まさせてくれる。音があれば十分なのだ。これらの音を現実のものにする楽器は十分過ぎて辟易してしまう。ところで楽器か音か、どちらが先にやってくるのだろう?ベルリンのテレビ[6]が言うように、これが問いだ。
One of the reasons I continue to write at the piano is to help me from the “imagination.” Having the sounds continually appearing as a physical fact wakens me from a sort of intellectual daydream. The sounds are enough. The instruments that realize them are more than enough. But what comes first, the instrument or the sound? This, as they say on Berlin television, is the frage (sic.)[7]
編成がなんであれピアノの前に座り、鍵盤の感触と音を実際に確かめながらフェルドマンは曲を書き進めていく。彼にとってピアノは概念を物理的な事実や存在に具現させる身近な道具だった。ピアノはフェルドマンをイマジネーションから現実に引き戻してくれるのだ。ここでの現実とイマジネーションとの関係は、第10回でとりあげた「音楽の表面」の議論を思い出させる。この議論でフェルドマンは、音楽の表面を作曲家がそこに音を置いていく錯覚とみなし、現実に聴こえる音である聴覚的な地平と区別していた。この議論をふまえると、ピアノを触りながら白昼夢から抜け出した彼は、聴覚的な地平に立って、つまり現実世界の中で音を聴きながら音符を書きつけていたと想像できる。ここでのピアノの音は確かにピアノの音色かもしれないが、彼は特定の楽器の特徴を持たない、無名の単なる音としてこれらの音を扱いたいと思っていたのだろう。まるでコロンブスの卵のような「楽器か音か、どちらが先なのか」をフェルドマンは自問自答し、作曲と楽器との関係からオーケストレーションに対する考えを述べている。
音楽の長い歴史の中では音が最初にやってきて、楽器にあまり関心が払われてこなかったと思っている。それから音楽が、あるいは「作曲技法」が発展するにつれて、どの楽器を最もうまく用いることができるのか、またはどんな楽器が発明される必要があるのかに、さらに注意が払われるようになった。この新たな役割とともに楽器は作曲に絶対不可欠な側面となった。近年、作曲とはいったいなんなのかという概念が問われ始めるにつれ、楽器の超絶技巧が増長し、忘れられた音や忘れられた曲よりも重要になった。音楽を聴こえるようにする手段という(訳注:オーケストレーションの)私の定義に合致しているように見えるが、これ(訳注:超絶技巧)はオーケストレーションではない。楽器は音かもしれないが、音は楽器ではないはずだ。遠回しにいうと、作曲の専門的な技術であれ、楽器の「可能性」を見せるのであれ、どんな超絶技巧も軌を一にする。どんな超絶技巧もまったく同じだ。近代的な楽器の用法の超絶技巧は音に対する親密さからではなく、作曲から生まれた。
I think that in the music long past, the sounds came first, and there was not too much concern for the instrument. Then as music, or the “art of composition” developed, more attention was given to what instruments could be best utilized or need be invented. With this new role, the instrument became an integral aspect of the musical composition. As notions about what composition actually is began to be questioned in recent years, the virtuosity of the instrument increased and became more important than either the forgotten sound or the forgotten composition. This is nor orchestration, though it appears to fit my definition: the means by which sound becomes audible. The instrument might be the sound but the sound might not be the instrument. What I obliquely mean is that any virtuosity, whether compositional expertise or in showing what the instrument “can do,” is one and the same thing. That the virtuosity of modern instrumental usage came out of composition and not out of a closeness to sound.[8]
作曲技法の発展が楽器の発明や改良を促し、それに応じて超絶技巧(virtuosity)も発展してきた。今や超絶技巧が音の響きや作曲行為を押しのけているのだとフェルドマンは批判している。彼はこのような状況を演奏技術が楽曲に従属していると捉えていたのかもしれない。オーケストレーションを「音楽を聴こえるようにする手段」と定義するフェルドマンは、楽器演奏による超絶技巧ありきのオーケストレーションに対して否定的な立場を取っている。彼は音楽における楽器の存在や役割と、楽器(場合によっては声も)から生じる音とをわけて考えている。ここから導き出された暫定的な結論は「楽器は音かもしれないが、音は楽器ではないはずだ。」と、音と楽器との非対称性を認めている。この非対称性は「楽器か音か、どちらが先なのか」の問いにもつながるだろう。これまで参照してきた言説を振り返ると、このような二者択一や二項対立の疑問が生じた場合、どちらでもない「カテゴリーの間 between categories」の立場を取るのがフェルドマンの流儀に近い。だが、このエッセイの後の段落でのフェルドマンの態度はいつもと違った。彼は「私が音を選んだわけではなくて、その音が選んだ楽器が曲(訳注:Pianos and Voices)になった。こういうわけで、自分の音楽の多くでは音高もリズムも自由にできたのだ。その曲の“オーケストレーション”… The choice of mine was not the sound but the sound’s preference for certain instruments became the composition. This is why I could then leave either the pitches or rhythms free in so much of my music. The composition’s “orchestration”[…][9] 」と、あたかも作曲者である自分が楽器を選んだのではなく、曲中の音に楽器を選ばせたのかのようなそぶりを見せる。実際のところ、どのような楽器を用いるかは作曲家が決める。しかし、ここでのフェルドマンは人知を超えたある種の降霊術のような機能を音に期待していたのかもしれない。この段落は途中で切れたまま掲載されているので「その曲の「オーケストレーション」The composition’s “orchestration”」以降、どのような論が展開されたのかを知ることができないが、1986年7月に行われた講義を参照して楽器、音、音色の関係に対するフェルドマンの考えをさらに見ていこう。