あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(15) 不揃いなシンメトリーと反復技法-1

 次にフェルドマンはヴァイオリン、チェロ、ピアノのための「Trio」(1980)の記譜法と演奏との関係について語る。この曲から「音楽がどのように演奏に結実するのかという実用性から私(訳注:フェルドマン)がますます離れて行く my increasing move away from the practicality of how the music will come off in performance」[14]様子を見ることができる。

Feldman/ Trio (1980)

https://www.universaledition.com/morton-feldman-220/works/trio-5436

 「Trio」の演奏時間は約80分。「String Quartet」や「Spring of Chosroes」と同じく各パートは微かな変化を伴った緻密なリズム書法で構成されている。曲の始まりの部分での難しさについてフェルドマンは次のように説明している。

メトロノーム記号をはじめとして(訳注:引用元では付点四分音符=タイで結ばれた付点8分音符と16分音符)、3パート間の調整にまつわる難題がある。演奏者たちは7拍を6等分しなければならず、さらにはピアノの構成音4つの和音各音と、ヴァイオリンとチェロの音域の離れた重音がそれぞれ全く異なる繊細な持続からできているので、リズムの捉え方も改めて細分化する必要がある。この「機械」は36小節間続き、その過程で別の問題が出てくる。技術的に、この音楽はイディオマティックだし演奏も可能だ。だが演奏者の集中力に大きく左右される。

Starting with metronome indication (dotted quarter note = dotted quarter note tied with sixtieth note), there is a difficult coordination problem between the three instruments. The performers must pace seven beats into six equal ones, and subdivided another rhythmic idea in which each pitch of the four-note piano chord, and the separate notes of the double stops in the violin and cello are all of different, finicky durations. This “machine” goes on for thirty-six measures, with other problems developing along the way. Technically, the music is both idiomatic and playable; but depends, to a taxing degree on the performer’s concentration.[15]

 フェルドマンの説明を補足すると、「Trio」冒頭部に拍子記号は書かれていないが、1小節あたり16分音符が7つ入る7/16拍子と読むことができる。フェルドマンは「7拍を6等分」と述べている。だが、ここでは6等分の音価が6連符として記譜されているのではなく、1小節の長さが16分音符6つ(6拍):16分音符1つ(1拍)に分割されている。ヴァイオリンとチェロのパートは各小節の1拍目に16分休符1つが置かれている。ピアノのパートは各小節の6拍目と7拍目の間に点線が引かれ、7拍目に16分休符1つが置かれている。このように説明しても、7拍の分割を耳だけで捉えるのは難しい。だが、演奏者は約80分もの間、この繊細な、おそらく当人たちにしかわかり得ない細かな差異に神経を張り巡らせて演奏している。フェルドマンが彼らに求めるのは楽譜に書かれた音符を正確に読み取った演奏だけではないようだ。フェルドマンは演奏に際して「機械」や「イディオマティック」以外の要素を求めていたのではないだろうか。その1つが演奏者の集中力である。このような、ある種の主観的、経験的な特性に結論を求めてしまうと、記譜と演奏に関するここまでの議論そのものが崩壊するかのようにも思えるが、フェルドマンは「演奏者の集中力」を正確な読譜と同じか、それ以上に重要な事柄とみなしていた。「記譜のイメージ」は、演奏の段になると演奏者の集中力を伴って現実化されると同時に、紙の上の音符の連なりを超えた身体性をも獲得する。楽譜通りに演奏しても完全には払拭できない個々の演奏者の手癖のようなものが「記譜のイメージ」を補完しているともいえる。パターンやイディオムに従っていようと、そこに個々の演奏者の手が加わると、ちょっとした差異が生じる。演奏者の身体性は絨毯におけるアブラッシュの技法に似た現象を音楽にもたらす。このように考えると、フェルドマンが絨毯の柄や色のみならず、その作り方や構成原理にも強く惹かれ、後者を自身の創作に採り入れようと試みた理由がわかってくる。

 その後、エッセイ「Crippled Symmetry」ではケージ、ヴォルペ、ポロック、ラウシェンバーグといったフェルドマンの師や友人に当たる人物が回想されている。エッセイの結末部分では、フェルドマンは音楽における「大きさ」を絵画、絨毯、シンメトリーの概念を用いて論じている。ここでは特にロスコの大きな絵画における部分と全体の特性に焦点が当てられている。

西洋文化の中にいる私たちには大きさ(この潜在意識下の数学)が与えられていないが、私たち自身の方法で私たち自身の作品に個別にもたらされているに違いない。小さなトルコの「タイル状の」絨毯のように、1つの領域に対する別の領域の割合についての、あるいはシンメトリーかアシンメトリーかの程度についての議論を消し去るのがロスコの大きさだ。部分の合計は全体と等しくない。むしろ大きさは発見され、イメージとして把捉される。その絵を浮かび上がらせているのは形式ではなくて、ロスコが発見した、全ての比の均衡を保っておく特定の大きさだ。

It seems that scale (this subliminal mathematics) is not given to us in Western culture, but must be arrived at individually in our own work and in our own way. Like that small Turkish “tile” rug, it is Rothko’s scale that removes any argument over the proportions of one area to another, or over its degree of symmetry or asymmetry. The sum of the parts does not equal the whole; rather, scale is discovered and contained as an image. It is not form that floats the painting, but Rothko’s finding that particular scale which suspends all proportions in equilibrium.[16]

 フェルドマンによれば、ロスコの大きな絵画は部分と全体、シンメトリーかアシンメトリーかという二項対立や議論を打ち消すほどの強烈な力を持っている。ロスコの作品の大きさはロスコ自身が発見したものに他ならず、他の何とも比較できない絶対的な存在である。この絶対的な大きさの中ではそこに包含される個々の要素の比が均衡を保っている。通常、均衡は物事が安定していて静止している状態を意味する。フェルドマンは静止の性質、より正確に言うと、動いていないかのような幻影をロスコの絵画から学び、自身の音楽に採り入れた。

 絵画で用いられているような静止は、伝統的に音楽の仕組みに含まれていない。音楽は動かない状態か、動いていないかのような幻影に到達できる。サティが喚起するマグリットのような世界、またはヴァレーズの「浮遊する彫刻」のように。ロスコやガストンの絵に見られるような、静止の度合いは私が絵画から自分の音楽にとりいれたおそらく最も重要な要素だった。私にとって、静止、大きさ、パターンは停止した状態でのシンメトリーとアシンメトリーに対する問い全てを投げかける。

 Stasis, as it is utilized in painting, is not traditionally part of the apparatus of music. Music can achieve aspects of immobility, or the illusion of it: the Magritte-like world Satie evokes, or the “floating sculpture” of Varese. The degree of stasis, found in a Rothko or Guston, were perhaps the most significant elements that I brought to my music from painting. For me, stasis, scale, and pattern have put the whole question of symmetry and asymmetry in abeyance. And I wonder if either of these concepts, or an amalgamation of both, can still operate for the many who are now less prone to synthesis as an artistic formula.[17]

 芸術ジャンルの分類上、時間芸術に属すると言われる音楽は、時間の移ろいとともに音が現れては消えていく一連の過程から成立しているので、理屈の上では音という現象は完全に静止しているわけではない。だが、「あたかも」時間が止まっているかのような幻影を創出することは可能だ。例えばドローンを聴かせる音楽も音楽で静止の状態を描く方法のひとつだろう。フェルドマンの場合はドローンには行かず、パターンとその反復によって音楽における静止に到達しようとした。彼が書いたパターンは一見同質だが、実は極めて微細な差異を含んでいる。これらのパターンの寄り集まりは大きな目的や構築物に向かうことはなく、あまり記憶に残らないようにも工夫されている。だが、同質性の中での逸脱が完璧な静止を少しだけ狂わせる。このような逸脱から生じるのが「不揃いなシンメトリー」である。

 次のセクションではまず、3つ目のセクションでとりあげるピアノ独奏曲「Triadic Memories」の予備考察として、これまでのフェルドマンのピアノ曲について概要する。


[1] Morton Feldman, “Crippled Symmetry” Give My Regards to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman, Edited by B. H. Friedman, Cambridge: Exact Change, 2000, p. 140
[2] Steve Reich, “Music as a Gradual Process,” Writings on Music 1965-2000, Oxford: Oxford University Press, 2002, pp. 34-35. 初出は1969年にニューヨークのホイットニー美術館で開催された展覧会Anti Illusion: Procedures/Materialsのカタログ。
[3] Morton Feldman Says: Selected Interviews and Lectures 1964-1987, Edited by Chris Villars, London: Hyphen Press, 2006, p. 178
[4] Feldman 2006, op. cit., p. 178
[5] Ibid., p. 178
[6] Ibid., p. 179
[7] Feldman 2000 op. cit., p. 141 譜例は省略した。
[8] Universal Editionによる演奏インストラクションから引用 https://www.universaledition.com/morton-feldman-220/works/spring-of-chosroes-4942
[9] Ibid.
[10] Ibid.
[11] Feldman 2000 op. cit., p. 142 譜例は省略した。
[12] Ibid., p. 143
[13] Ibid., p. 143
[14] Ibid., p. 144
[15] Ibid., p. 144
[16] Ibid., pp. 148-149
[17] Ibid., p. 149

高橋智子
1978年仙台市生まれ。Joy DivisionとNew Orderが好きな音楽学者。
(次回掲載は7月5日の予定です)