1902年3月、ケクランの私生活には変化の兆しが見えていた。彼はそれまで8年ほど住んでいたパリ16区のプラス・ディエナ(Place d’Iéna)を後にして、同じ区内のオートゥイユにあるヴィラ・モンモランシー(Villa Montmorency)へと居を移す。16区といえば、現在でも富裕層が多く集まる高級住宅地として知られているが、アルザス地方のブルジョワ家系を出自とするシャルル・ケクランが生まれたのもこの地区だった。豊かな家庭環境に生まれ育った彼にしてみれば、この高級な地域の雰囲気は居心地の良いものだったのか、何度かこれ以後も同じ区内で引っ越しを繰り返している。
まさに同じ頃、隣接する17区のカルディネ通り58番地では、歌劇《ペレアスとメリザンド》の初演を約1カ月後に控えて、ドビュッシーが最終段階の作業を行っていた。この時にはまだ力ある多くの作曲家の一人でしかなかった彼も、フランスを代表する作曲家としての名声が確立されてからの1905年には、16区のブローニュの森にほど近い一軒家へと移り住んでいる。
まさかもうすぐ、たった一つの歌劇が楽壇を震撼させフランス音楽の歴史を塗り替えることになろうとはつゆ知らず、ヴィラ・モンモランシーに引っ越したケクランは、ここで一人の女性と出会う。
スザンヌとの結婚
その女性の名前はスザンヌ・ピエラール(Suzanne Pierrard, 1881-1965)。マルヌ県のランスに生まれ、父親はその地で工場主をしていた。スザンヌと知り合ったケクランは、一緒にテニスをして遊んだり、あるいは音楽について語らったりするうちに彼女と仲良くなっていったようだ。そうして徐々に関係を深めていった二人は、翌1903年の4月24日に、南仏のボーリュー=シュル=メールにて結婚した。当時、スザンヌは21歳、ケクランは35歳であった。
スザンヌは彼の生涯の伴侶であっただけでなく、彼の音楽の良き理解者かつ擁護者でもあった。後年、特に第1次世界大戦の勃発と母親の死をきっかけとしてケクランについて回るようになった経済的困窮の中にあって、スザンヌは大きな支えとなったようである。ケクランは晩年、自らの幸運は、妻が「最大限に献身的な伴侶であったことのみならず、最高に芸術的で何よりも美を愛していたこと」だと語っている[1]。
6週間の新婚旅行をイタリアで過ごしてからパリに戻ってくると、ケクランは新しく夫婦二人で暮らすための部屋を探し始めた。そして、ようやく12月の中頃になってから、やはり16区のイヴェット通り40番地へと引っ越したのである。ヴィラ・モンモランシーからそれほど離れていない場所に移ったのは、すでに77歳を迎えていた母カミーユの様子を見に行きやすいからという理由もあったかもしれない。二人が新居にやって来てからおよそ2か月後、1904年の2月には待望の第一子となるジャン=ミシェルが誕生するが、この子を含めてケクランは生涯で5人の子宝に恵まれている[2]。スザンヌと結婚し家族を持つということが彼にとっていかに幸せであったかうかがい知れる反面、後にこの大所帯が一家の生活を経済的に苦しめる一因ともなるのであった。
私生活での変化ばかりでなく、作曲においてもこの時期は一つの転機となっていた。それまで、主に歌曲の創作に打ち込んでいたケクランであったが、並行していくつか試みていた管弦楽曲の創作では、いずれも満足のいく仕上がりに到達できないでいた。歌曲のピアノ伴奏の編曲はさておき、純粋な管弦楽曲の領域ではなかなか自信が持てずにいて、歌曲におけるほどの習熟や手応えといったものを欠いていたのだ。しかしそのような習作的な創作も繰り返すうちに、この頃には自らが納得できるレベルの書法が身についてきていた。特にハイネの詩に基づく《海にて、夜》Op.27(1904年12月11日にガブリエル・ピエルネ指揮のコンセール・コロンヌが初演)と、《秋》Op.30の第1曲〈葡萄の収穫〉は、ケクランが初めて自身の得た「より巧みなやり方の恩恵にあずかっている」[3]と感じた作品であった。この前向きな経験を糧として、創作においては徐々に管弦楽作品へと重点が置かれることになる。これはケクランがそのキャリアの中で初めて経験した、創作ジャンルの広がりであった
前衛の高まり
1905年6月15日、パリ音楽院の新しい院長にケクランの師であるガブリエル・フォーレが任命される。もとより音楽院の作曲科教授ではあったものの、彼自身はニデルメイエール校の出身であるうえ、権威あるフランス学士院芸術アカデミーの会員ですらなかったため、この異例の人事は驚きをもって受け止められた。10月1日付で院長の職務に取り掛かったフォーレは、創立から100年以上を経てなお旧態依然としていたパリ音楽院に新たな風を吹き入れるべく、様々な改革に乗り出していくのだが、彼のこうした積極的変革の姿勢はそもそもの出来事と無関係ではなかった。事の発端にいるのは、フォーレの弟子の一人、あのモーリス・ラヴェルである。
ラヴェルはこの年の5月、若手作曲家にとっての登竜門である「ローマ大賞」の作曲コンクールに、じつに五度目となる挑戦を行った(かつてベルリオーズは四度目の挑戦でローマ大賞を手にした)。すでに1901年の時点でカンタータ《ミルラ》によりローマ大賞第二等次席(実質的な第三位)を獲得していた[4]ラヴェルだったが、それ以外では入賞を逃しており、しかも上限30歳という年齢規定のせいで1905年の挑戦が彼にとって最後のチャンスとなっていたのである。しかし結果はまさかの予選不合格。過去の入賞経験があるのみならず、新進気鋭の作曲家としてその時点で《水の戯れ》、《弦楽四重奏曲》、歌曲集《シェエラザード》などの作品が高く評価されていたにもかかわらず、そのラヴェルが本選に残ることすらできなかったという結果は大きな波紋を呼ぶことになった。当時を振り返り、ケクランはラヴェルの伝記の中でこう語っている。
音楽院では、作曲科の試験官たちやローマ大賞の審査員たちが、奇妙かつ意地悪な考えでもって彼[ラヴェル:筆者注]を迎えた。ある期末試験の際、ポール・ラドミローはあの純然たる《弦楽四重奏曲》に対する二人の試験官の「講評」をちらと見た。一人は「耐え難い」と書いており、もう一人(テオドール・デュボワその人!)は「簡潔さを欠いている」と判断を下したのだ。ローマ大賞については、彼は三度[原文ママ]コンクールに挑戦したが第二等(1901)より上は受賞できなかった。四度目[原文ママ]では予選で不合格にされてしまった(1905)。ところが、その間に彼はあの見事な《弦楽四重奏曲》によって実力のほどを示していたのだ。素晴らしいスキャンダルであった!学士院の連中は栄光に浴することなどなく、笑いものになったのだ。[5]
加えて、この年の最終選考に残った6人全員がパリ音楽院作曲科のシャルル・ルヌヴーの生徒で、さらにはルヌヴー本人が学士院会員として審査員の中にいたことが判明すると、この一件はたちまちスキャンダルへと発展した。日刊紙「ル・マタン」では、5月21日と22日の2日連続でこの問題が取り上げられ、事の経緯やルヌヴー本人へのインタビュー、さらには、コンクール受験者の先生が審査員に含まれていることへのラヴェル自身による抗議の声が掲載された。6月1日の『メルキュール・ド・フランス』では、音楽批評家のジャン・マルノール[6]が「ローマ大賞の醜聞」と題した文章においてこの問題を厳しく追及し、その最後を「我々の音楽の未来のため、今まさにこれらの衒学者ども、偽善者ども、有害なろくでなしどもの一味を一掃すべき時である」[7]と強く締めくくっている。ラヴェルの永年の敵であった批評家ピエール・ラロでさえも、この時ばかりはラヴェルを「真の音楽家、そして彼の世代のリーダーの一人」[8]であると称して擁護したのだから、事の重大さと影響の深さがいかほどであったか思い知らされる。この「ラヴェル事件」は、まさしくケクランが言うように、素晴らしいスキャンダルとなった。
批判の声はローマ大賞にとどまらず、やがては公的な音楽教育機関へと非難の矛先が向けられていった。中でも、この騒動に根深く関わっていたパリ音楽院は、その因習的な教育方針や制度などに関して、公然と批判にさらされるようになった。院長のテオドール・デュボワは先だって3月の時点で自らの辞意を明らかにしていたが、こうした状況になって、人々の予想を裏切って後任に選ばれたのが、音楽院にとってはいまだよそ者のガブリエル・フォーレだったのである。
フォーレといえば、彼の作曲クラスは次代の音楽界を担う若き前衛たちの拠り所であり、騒動の中心にいたラヴェルはその中のホープと認識されていた。そもそも、初挑戦の時はともかく、すでに作曲家として相応の評価を手にしていたラヴェルが、どの程度真剣にローマ大賞の栄誉を欲していたかは大変に疑わしい部分であろう。実際、最後となったローマ大賞コンクールの予選では、課題のフーガと合唱曲を作曲するにあたってあからさまな禁じ手を用いており[9]、こうした態度は審査員たちを挑発しているようですらあった。少なくとも、この時に提出されたラヴェルの作品はローマ大賞の選考の基準に照らせば明らかな違反であり、ルヌヴー含め審査員たちは新しい音楽傾向への反感こそあれ、何も不正を行ってラヴェルを陥れたわけではなかった。であれば、今回の事件は、前衛の旗を背負ったラヴェルによって仕組まれた面もあったといえるだろう。
いずれにせよ、これをきっかけに、ラヴェルら新しい音楽を志す若手たちと、彼らに厳しく抑圧的態度をとる保守的な権威たちという対立図式が、より多くの人々に示されることとなった。そして、デュボワに代わって院長となったフォーレが様々な改革を断行していったこと(およびそれに伴う教員の辞職など)によって、革新派vs守旧派の構図はよりはっきりと印象付けられていく。この一連の出来事は、ラヴェルの名と共に、楽壇におけるアヴァンギャルドの存在感をいっそう強めるものであった。
この時期までケクランは優れた歌曲の作曲家として順調な活躍を見せていたが、徐々に色濃くなっていく前衛vs伝統の対立の下で、その影響はやがて彼の創作活動にも影を落とすことになる。