あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(11) 1970年代前半の出来事と楽曲-3

文:高橋智子

3 フェルドマンの新たな境地 The Viola in My Life 1-4

 1970年から1971年にかけて作曲された4曲からなる「The Viola in My Life」は1970年代の楽曲の中だけでなく、フェルドマンの楽曲全体を見渡してみても特殊な位置にある作品だ。この当時のフェルドマンの楽曲には珍しく、「The Viola in My Life」では明確に認識できる旋律が登場する。フェルドマンはこれまでに1947年に作曲した独唱曲「Only」や、1950年代、60年代に手がけたいくつかの映画や映像の音楽でも旋律のある曲を書いてきたが、旋律ともパターンともいえない概して抽象的な作風が彼の本分とみなされてきた。だが、1970年に入るとフェルドマンは五線譜の記譜に戻り、「The Viola in My Life」1-4を書いて叙情的な旋律を惜しげもなく披露する。前のセクションで解説した1970年代の楽曲のおおよその傾向を思い出しながら「The Viola in My Life」1-4がフェルドマンの作品変遷の中でどのような位置にあるのかを見ていこう。

 ポール・グリフィスによるインタヴューでタイトル「The Viola in My Life」について訊ねられたフェルドマンは「それが単にすてきなタイトルだと思ったからです。I thought it was just a pretty title.」[1]とだけ答えている。また、独奏楽器としてヴィオラを選んだ理由も特にないと言っている。[2]ここでのフェルドマンの受け答えは実にそっけないが、当時、彼がヴィオラ奏者のカレン・フィリップス[3]と親しくしていたことが独奏パートとしてのヴィオラに関係している。[4]フェルドマン自身によるプログラムノートによると、ハワイ大学での講義のために滞在していたホノルルで1970年7月に「The Viola in My Life」の作曲が始まった。[5]楽曲の特徴については次のように解説されている。

楽曲の形式はとても単純だ。私の大半の音楽と異なり、「The Viola in My Life」の全曲は音高とテンポに関して慣習的な方法で記譜されている。ヴィオラが鳴らすミュートされた全ての音特有の、ゆるやかで微かなクレシェンドの根底にある正確な時間のかたちが私に必要だった。このような側面が音の出来事のリズムによる連続性を決定づけた。

1958年以来(ミニマル絵画の一側面とたいして違わず)、私の音楽の表面は非常に「平坦」だった。ヴィオラのクレシェンドは、行き交う音楽的な着想の相互作用によって決められる音楽の展望ではなく――むしろ限られた風景の中で鳥が羽ばたこうとしている様子にも似た、音楽の展望に再び夢中になったことを意味する。

The compositional format is quite simple. Unlike most of my music, the complete cycle of The Viola in My Life is conventionally notated as regards pitches and tempo. I needed the exact time proportion underlying the gradual and slight crescendo characteristic of all the muted sounds the viola plays. It was this aspect that determined the rhythmic sequences of events.

 Since 1958 (not unlike an aspect of minimal painting) the surface of my music was quite “flat.” The viola’s crescendos are a return to a preoccupation with a musical perspective which is not determined by an interaction of corresponding musical ideas—but rather like a bird trying to soar in a confined landscape.[6]

 「The Viola in My Life」1-4の全てのスコアは、テンポ、拍子、音高、音価(音の長さ)、ダイナミクスといった音楽のパラメータが五線譜で具体的に記されている。とりわけフェルドマンは、クレシェンドを用いたダイナミクスの操作から引き出される音の微妙なカーヴ(文中では「正確な時間のかたち」と呼ばれている)に着目した。音楽においてテンポ、拍子、小節は時間と関わり、時間に規定されている。フェルドマンはクレシェンドを事細かく書き記して、ダイナミクスをも音楽的な時間に関係させようとしたのではないだろうか。1960年代の自由な持続の記譜法の楽曲では、拍子記号や音符では正確に記すことのできない音楽的な時間を具現するものとして、音の減衰が重んじられてきた。「普通の」五線譜に戻った今、フェルドマンは音の減衰だけでなくダイナミクスそのものを掌握し、「平坦」といわれてきた自分の音楽の表面にグラデーションのような効果を加えようとした。だが、ここで求められているのは拍子と小節によって明確に規定された範囲内での微妙なゆらぎである。これまでのフェルドマンの楽曲、例えば前回解説した「Between Categories」は2つのアンサンブルの交わらない時間を敢えて描くことで、不確定で不安定な要素を音楽のどこかに残していた。しかし、ここでの鳥のたとえからわかるように「The Viola in My Life」にはそのような不安定で不確定な要素が入り込む余地はない。

The Viola in My Life 1

 これまでのフェルドマンの楽曲とは異なり、「The Viola in My Life」1-4には音高や音価に関して不確定な要素は一切なく、「開かれた」要素が希薄だ。「The Viola in My Life 1」の編成は独奏ヴィオラ、フルート、ヴァイオリン、チェロ、ピアノ、打楽器(テナードラム、大太鼓、ティンパニ、テンプル・ブロック、ウッドブロック、ヴィブラフォン、グロッケンシュピール)の6人編成。ヴィオラ以外の各パートも奏者は1人だが、このシリーズではヴィオラを独奏パートとみなし、他のパートとは違う特別な地位にあることが明示されている。独奏ヴィオラ、ヴァイオリン、チェロは終始ミュート(弱音器)をつけて演奏する。UE(Universal Edition)のスコアに記載された演奏時間は9分45秒。テンポは二分音符1つ=58で曲の最初から最後まで変わらないが、拍子は不規則に変化する。曲の様相の変化に応じて全体を次の10の部分に区切ることができる。これらは音楽の形式的な区切りというよりも、それぞれの部分で完結している絵本や紙芝居の1ページごとの場面の感覚に近い。

1: mm. 1-19
2: mm. 20-38
3: mm. 39-50
4: mm. 51-71
5: mm. 72-85
6: mm. 86-92
7: mm. 93-98
8: mm. 99-108
9: mm. 109-124
10: mm. 125-126

Feldman/ The Viola in My Life 1

score https://www.universaledition.com/morton-feldman-220/works/the-viola-in-my-life-1-5335

 たとえ通常の五線譜で記譜されていようと、やはりフェルドマンの曲なので「The Viola in My Life 1」も一聴、あるいはスコアを一見してもよくわからない。ここではヴィオラと他のパートとの関係に注目して曲の内容を見てみよう。先に引用したフェルドマンによる楽曲解説のとおり、ヴィオラのすべての音にクレシェンドとデクレシェンドが記されている。ここでのヴィオラは他のパートと同じく1-3小節分の長さで音を引きのばすだけなのだが、ダイナミクスの変化がこれらのフレーズに旋律のような感覚をもたらす。上記の区切りの1-3まではヴィオラによる音の引きのばしに他のパートが続くという、おおよそのパターンに基づいている。このパターンに基づいた平坦なテクスチュアがしばらく続くなか、不意に聴こえてくるチェロのピツィカートによる断片がテクスチュアに変化と驚きをもたらす。例えば、曲が始まってすぐの3小節目にピツィカートで鳴らされるアルペジオは特に注意を引く。また、他のパートの音が鳴らない箇所に随時挿入される打楽器類のトレモロやロールも、この平坦なテクスチュアに異質な要素をもたらす。これらの打楽器を音の陰影のようなイメージとして解釈することもできるだろう。

 3番目と4番目の場面の境界にあたる50小節目の最後にヴィオラがピツィカートでアルペジオを鳴らすと曲が少し動き出す。これまでは同じ音を引きのばすだけだったヴィオラが上行形のパッセージを鳴らし始め、聴き手は旋律に近い音のまとまりを感じることができる。59-61小節目のヴィオラのパッセージ(D3-F3-E4-G♭4-C5-E♭5)は、その直後に65-69でフルート(D4-A4-G#5-D6)に引き継がれる。音の鳴り響きとスコア両方に関して、ここでのヴィオラとフルートに類縁性を見出す理由として、ヴィオラのG♭4-C5とフルートのG#5-D6が増4度と減5度で転回音程の関係をなしていることがあげられる。加えて64-70小節の息の長いヴィオラのパッセージもD#4-G4による減4度を含むため、ここでは増減音程特有の響きがさらに強く印象付けられる。

 6番目の場面(84小節目)からはピアノとヴィブラフォンを中心とした新しいパターンが現れ、ヴィブラフォンのC#4を伴ってピアノは装飾音A5とB4-F#5のパターンを4回繰り返す。このピアノにヴィオラはG3で、チェロはピツィカートのF5でその都度反応する。ピアノのこの短いフレーズは「The Viola in My Life」シリーズの直前の1970年7月に作曲された「Madame Press Died Last Week at Ninety」で既に用いられている。

Feldman/ Madame Press Died Last Week at Ninety (1970)

 7番目の場面(93-98小節)でもさらに曲の様相が変わり、ヴィブラフォン、ピアノ、ヴァイオリン、チェロに続いてヴィオラが、そして少し間を置いてフルートがA♭5を鳴らすパターンを3回繰り返す。8番目でも新たなパターンへと変化し、チェロ、ヴィオラ、ヴァイオリンの順に受け渡されるパターンが繰り返される。ここからは拍子が3/8で一定しているので規則的なリズムの感覚も微かに生じる。9番目の場面(109-124小節)は6と8番目を合体させたパターンで構成されている。ピアノは6番目にも出てきた装飾音と和音、ヴィオラは8番目と同じ音型、フルートは8番目のA♭5より1オクターヴ低いA♭4を鳴らす。ヴァイオリンとチェロのピツィカートはピアノの和音を1拍目と3拍目で縁取るかのように配置されている。最後となる10番目の場面(125-126小節)でグロッケン、ピアノ、チェロが一斉に和音を鳴らすと、ヴィオラが開放弦でE♭3とG3の2音を鳴らし、思わせぶりな仕草で曲が終わる。

 1960年代の楽曲と同じく「The Viola in My Life 1」でも以前出てきたパッセージが不意に再び現れる手法が取られていることがわかった。「The Viola in My Life 1」ではヴィオラに独奏パートとして特別な地位が与えられているが、演奏者6人による比較的小規模な室内楽編成のため、時にピアノなど他のパートが楽曲の中心を担う場面も見られる。続く「The Viola in My Life 2」ではヴィオラと他の楽器はどのような関係を築いているのだろうか。