あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(11) 1970年代前半の出来事と楽曲-3

文:高橋智子

3 フェルドマンの新たな境地 The Viola in My Life 1-4

 1970年から1971年にかけて作曲された4曲からなる「The Viola in My Life」は1970年代の楽曲の中だけでなく、フェルドマンの楽曲全体を見渡してみても特殊な位置にある作品だ。この当時のフェルドマンの楽曲には珍しく、「The Viola in My Life」では明確に認識できる旋律が登場する。フェルドマンはこれまでに1947年に作曲した独唱曲「Only」や、1950年代、60年代に手がけたいくつかの映画や映像の音楽でも旋律のある曲を書いてきたが、旋律ともパターンともいえない概して抽象的な作風が彼の本分とみなされてきた。だが、1970年に入るとフェルドマンは五線譜の記譜に戻り、「The Viola in My Life」1-4を書いて叙情的な旋律を惜しげもなく披露する。前のセクションで解説した1970年代の楽曲のおおよその傾向を思い出しながら「The Viola in My Life」1-4がフェルドマンの作品変遷の中でどのような位置にあるのかを見ていこう。

 ポール・グリフィスによるインタヴューでタイトル「The Viola in My Life」について訊ねられたフェルドマンは「それが単にすてきなタイトルだと思ったからです。I thought it was just a pretty title.」[1]とだけ答えている。また、独奏楽器としてヴィオラを選んだ理由も特にないと言っている。[2]ここでのフェルドマンの受け答えは実にそっけないが、当時、彼がヴィオラ奏者のカレン・フィリップス[3]と親しくしていたことが独奏パートとしてのヴィオラに関係している。[4]フェルドマン自身によるプログラムノートによると、ハワイ大学での講義のために滞在していたホノルルで1970年7月に「The Viola in My Life」の作曲が始まった。[5]楽曲の特徴については次のように解説されている。

楽曲の形式はとても単純だ。私の大半の音楽と異なり、「The Viola in My Life」の全曲は音高とテンポに関して慣習的な方法で記譜されている。ヴィオラが鳴らすミュートされた全ての音特有の、ゆるやかで微かなクレシェンドの根底にある正確な時間のかたちが私に必要だった。このような側面が音の出来事のリズムによる連続性を決定づけた。

1958年以来(ミニマル絵画の一側面とたいして違わず)、私の音楽の表面は非常に「平坦」だった。ヴィオラのクレシェンドは、行き交う音楽的な着想の相互作用によって決められる音楽の展望ではなく――むしろ限られた風景の中で鳥が羽ばたこうとしている様子にも似た、音楽の展望に再び夢中になったことを意味する。

The compositional format is quite simple. Unlike most of my music, the complete cycle of The Viola in My Life is conventionally notated as regards pitches and tempo. I needed the exact time proportion underlying the gradual and slight crescendo characteristic of all the muted sounds the viola plays. It was this aspect that determined the rhythmic sequences of events.

 Since 1958 (not unlike an aspect of minimal painting) the surface of my music was quite “flat.” The viola’s crescendos are a return to a preoccupation with a musical perspective which is not determined by an interaction of corresponding musical ideas—but rather like a bird trying to soar in a confined landscape.[6]

 「The Viola in My Life」1-4の全てのスコアは、テンポ、拍子、音高、音価(音の長さ)、ダイナミクスといった音楽のパラメータが五線譜で具体的に記されている。とりわけフェルドマンは、クレシェンドを用いたダイナミクスの操作から引き出される音の微妙なカーヴ(文中では「正確な時間のかたち」と呼ばれている)に着目した。音楽においてテンポ、拍子、小節は時間と関わり、時間に規定されている。フェルドマンはクレシェンドを事細かく書き記して、ダイナミクスをも音楽的な時間に関係させようとしたのではないだろうか。1960年代の自由な持続の記譜法の楽曲では、拍子記号や音符では正確に記すことのできない音楽的な時間を具現するものとして、音の減衰が重んじられてきた。「普通の」五線譜に戻った今、フェルドマンは音の減衰だけでなくダイナミクスそのものを掌握し、「平坦」といわれてきた自分の音楽の表面にグラデーションのような効果を加えようとした。だが、ここで求められているのは拍子と小節によって明確に規定された範囲内での微妙なゆらぎである。これまでのフェルドマンの楽曲、例えば前回解説した「Between Categories」は2つのアンサンブルの交わらない時間を敢えて描くことで、不確定で不安定な要素を音楽のどこかに残していた。しかし、ここでの鳥のたとえからわかるように「The Viola in My Life」にはそのような不安定で不確定な要素が入り込む余地はない。

The Viola in My Life 1

 これまでのフェルドマンの楽曲とは異なり、「The Viola in My Life」1-4には音高や音価に関して不確定な要素は一切なく、「開かれた」要素が希薄だ。「The Viola in My Life 1」の編成は独奏ヴィオラ、フルート、ヴァイオリン、チェロ、ピアノ、打楽器(テナードラム、大太鼓、ティンパニ、テンプル・ブロック、ウッドブロック、ヴィブラフォン、グロッケンシュピール)の6人編成。ヴィオラ以外の各パートも奏者は1人だが、このシリーズではヴィオラを独奏パートとみなし、他のパートとは違う特別な地位にあることが明示されている。独奏ヴィオラ、ヴァイオリン、チェロは終始ミュート(弱音器)をつけて演奏する。UE(Universal Edition)のスコアに記載された演奏時間は9分45秒。テンポは二分音符1つ=58で曲の最初から最後まで変わらないが、拍子は不規則に変化する。曲の様相の変化に応じて全体を次の10の部分に区切ることができる。これらは音楽の形式的な区切りというよりも、それぞれの部分で完結している絵本や紙芝居の1ページごとの場面の感覚に近い。

1: mm. 1-19
2: mm. 20-38
3: mm. 39-50
4: mm. 51-71
5: mm. 72-85
6: mm. 86-92
7: mm. 93-98
8: mm. 99-108
9: mm. 109-124
10: mm. 125-126

Feldman/ The Viola in My Life 1

score https://www.universaledition.com/morton-feldman-220/works/the-viola-in-my-life-1-5335

 たとえ通常の五線譜で記譜されていようと、やはりフェルドマンの曲なので「The Viola in My Life 1」も一聴、あるいはスコアを一見してもよくわからない。ここではヴィオラと他のパートとの関係に注目して曲の内容を見てみよう。先に引用したフェルドマンによる楽曲解説のとおり、ヴィオラのすべての音にクレシェンドとデクレシェンドが記されている。ここでのヴィオラは他のパートと同じく1-3小節分の長さで音を引きのばすだけなのだが、ダイナミクスの変化がこれらのフレーズに旋律のような感覚をもたらす。上記の区切りの1-3まではヴィオラによる音の引きのばしに他のパートが続くという、おおよそのパターンに基づいている。このパターンに基づいた平坦なテクスチュアがしばらく続くなか、不意に聴こえてくるチェロのピツィカートによる断片がテクスチュアに変化と驚きをもたらす。例えば、曲が始まってすぐの3小節目にピツィカートで鳴らされるアルペジオは特に注意を引く。また、他のパートの音が鳴らない箇所に随時挿入される打楽器類のトレモロやロールも、この平坦なテクスチュアに異質な要素をもたらす。これらの打楽器を音の陰影のようなイメージとして解釈することもできるだろう。

 3番目と4番目の場面の境界にあたる50小節目の最後にヴィオラがピツィカートでアルペジオを鳴らすと曲が少し動き出す。これまでは同じ音を引きのばすだけだったヴィオラが上行形のパッセージを鳴らし始め、聴き手は旋律に近い音のまとまりを感じることができる。59-61小節目のヴィオラのパッセージ(D3-F3-E4-G♭4-C5-E♭5)は、その直後に65-69でフルート(D4-A4-G#5-D6)に引き継がれる。音の鳴り響きとスコア両方に関して、ここでのヴィオラとフルートに類縁性を見出す理由として、ヴィオラのG♭4-C5とフルートのG#5-D6が増4度と減5度で転回音程の関係をなしていることがあげられる。加えて64-70小節の息の長いヴィオラのパッセージもD#4-G4による減4度を含むため、ここでは増減音程特有の響きがさらに強く印象付けられる。

 6番目の場面(84小節目)からはピアノとヴィブラフォンを中心とした新しいパターンが現れ、ヴィブラフォンのC#4を伴ってピアノは装飾音A5とB4-F#5のパターンを4回繰り返す。このピアノにヴィオラはG3で、チェロはピツィカートのF5でその都度反応する。ピアノのこの短いフレーズは「The Viola in My Life」シリーズの直前の1970年7月に作曲された「Madame Press Died Last Week at Ninety」で既に用いられている。

Feldman/ Madame Press Died Last Week at Ninety (1970)

 7番目の場面(93-98小節)でもさらに曲の様相が変わり、ヴィブラフォン、ピアノ、ヴァイオリン、チェロに続いてヴィオラが、そして少し間を置いてフルートがA♭5を鳴らすパターンを3回繰り返す。8番目でも新たなパターンへと変化し、チェロ、ヴィオラ、ヴァイオリンの順に受け渡されるパターンが繰り返される。ここからは拍子が3/8で一定しているので規則的なリズムの感覚も微かに生じる。9番目の場面(109-124小節)は6と8番目を合体させたパターンで構成されている。ピアノは6番目にも出てきた装飾音と和音、ヴィオラは8番目と同じ音型、フルートは8番目のA♭5より1オクターヴ低いA♭4を鳴らす。ヴァイオリンとチェロのピツィカートはピアノの和音を1拍目と3拍目で縁取るかのように配置されている。最後となる10番目の場面(125-126小節)でグロッケン、ピアノ、チェロが一斉に和音を鳴らすと、ヴィオラが開放弦でE♭3とG3の2音を鳴らし、思わせぶりな仕草で曲が終わる。

 1960年代の楽曲と同じく「The Viola in My Life 1」でも以前出てきたパッセージが不意に再び現れる手法が取られていることがわかった。「The Viola in My Life 1」ではヴィオラに独奏パートとして特別な地位が与えられているが、演奏者6人による比較的小規模な室内楽編成のため、時にピアノなど他のパートが楽曲の中心を担う場面も見られる。続く「The Viola in My Life 2」ではヴィオラと他の楽器はどのような関係を築いているのだろうか。

The Viola in My Life 2

Feldman/ The Viola in My Life 2

 「The Viola in My Life 2」は独奏ヴィオラとフルート、クラリネット、チェレスタ、打楽器(ヴィブラフォン、ティンパニ、カスタネット、マラカス、スネアドラム、テナードラム)、ヴァイオリン、チェロの合計7人の奏者による室内楽編成。1番と同じく独奏ヴィオラ、ヴァイオリン、チェロは終始ミュートを着けて演奏される。スコアに記載されている演奏時間は約10分。楽曲の冒頭にはテンポと全体的な曲想「♩=c 66極めて静かに。全てのアタックはビートの感覚を出さず最小限に抑えて。♩=c 66 Extremely quiet, all attacks at a minimum with no feeling of a beat.」[7]が記されている。先の「The Viola in My Life 1」ではダイナミクス記号は独奏ヴィオラのパートに限られていたが、「The Viola in My Life 2」ではヴィオラ以外のパートにもダイナミクスが細かく記されている。

 曲全体を区切ると9つの場面に分けられる。1-4(1-99小節)の場面までは3/4拍子で一定しているが、5(100小節目以降)からはヴィオラの旋律のゆらぎや、合間に挿入される全休符での沈黙の時間の長さに伴って拍子が目まぐるしく変わる。

1: mm. 1-23
2: mm. 24-34
3: mm. 35-57
4: mm. 58-99
5: mm. 100-117
6: mm. 118-129
7: mm. 130-138
8: mm. 139-173
9: mm. 174-187

 ダイナミクスの他に「The Viola in My Life 1」と異なる点として、それぞれのパートの役割がより明確になっていることがあげられる。このことはスコアの譜表の配置にも反映されている。「The Viola in My Life 1」ではヴィオラは弦楽セクションの一部として配置されていたが、「The Viola in My Life 2」ではヴィオラは独奏パートとして譜表の最上段に記されている。譜表の配置は些細な事柄かもしれないが、このことから、ヴィオラの独奏パートとしての性格が「The Viola in My Life 2」においてさらに強まっていると考えられる。

 ヴィオラ以外のパートの性格と、それらによって生み出される音楽的な役割と効果もここでははっきりしている。Saxerはこの曲の1ページ目が3つの層で構成されていると指摘する。1つ目は「絶えず動き続ける弦楽器の持続音 durchgeende, dynamisch bewegt Haltetöne der Streicher」[8]、2つ目は「フルート、クラリネット、カスタネットによるパターン Pattern aus Flöte, Klarinette und Castagnetten」[9]、3つ目は「ヴィオラの独立した旋律 individualle Melodik der Viola」[10]。これら3つの層によるテクスチュアは1-4(1-99小節)まで概ね変わらない。さらに細かく各パートの動きを見て行くと、ヴァイオリンとチェロはSaxerの指摘どおり音の引きのばしによる持続音で構成されている。だが、「The Viola in My Life 1」と同じく時折チェロがピツィカートを鳴らし、持続音によるテクスチュアとは異なる音色をここに加える。例えば、27-41小節目でのチェロはピツィカートでトレモロを鳴らして打楽器のような効果を出している。84-93小節目でもチェロのピツィカートが現れる。ここでは先ほどの打楽器的な効果とは違い、ヴィオラの旋律を思い出させるゆるやかな音型を作っている。

 木管楽器、すなわちフルートとクラリネットに関していうならば、この2つの楽器はSaxerの指摘どおり一対としてパターンを形成している。フルートの持続音に数拍遅れてクラリネットが追従するパターンはスコアでも耳でも把握しやすい。5番目の場面が始まる箇所からしばらく(100-115小節)、「The Viola in My Life 1」のピアノに、そして「Madame Press Died Last Week at Ninety」にも用いられているパターンと同じパターンが音高を変えてフルートで6回繰り返される。もしも「The Viola in My Life 1」を知っていれば、このフルートのパターンから「The Viola in My Life 1」の記憶が一瞬よみがえるような錯覚に陥るかもしれない。

 打楽器の用法も独特だ。この曲でフェルドマンはカスタネットとマラカスのトレモロを頻繁に用いている。今までのフェルドマンの楽曲の中でこれほどカスタネットとマラカスが聴こえてくる曲は他にない。カスタネットとマラカスに限らず、この曲ではスネアドラム、テナードラム、ティンパニのロールが頻繁に現れる。多くの場合、これらは他のパートに呼応して鳴らされるが、音色の性質上、他の楽器に埋もれることなく強い印象を与えている。

 ヴィオラは「The Viola in My Life 1」よりも息の長いフレーズを奏でる。ここでの一連のヴィオラは旋律といってもよいだろう。この曲ではヴィオラが、木管楽器による反復パターン、弦楽器の持続音とたまに聴こえるチェロのピツィカート、チェレスタの和音、打楽器類のトレモロやロールといったあらゆる要素から抜きん出た存在として扱われているのはたしかだ。旋律とその他のパートというはっきりした関係がヴィオラとその他のパートの間で構築されているともいえる。これまでのフェルドマンの楽曲を振り返ると、各パートや声部間の関係が判然としない楽曲が多くを占めたが、「The Viola in My Life 2」は多層的でありながらも比較的わかりやすい構成でできている。

 独奏ヴィオラによる旋律とそれぞれの楽器の層からなる関係は8番目の場面(139-173小節)から一変する。ここからはチェロの伴奏にのせてヴィオラが旋律を奏でる(この旋律は後に「Rothko Chapel」(1971)の独奏ヴィオラにも登場する)。時折スネアドラムが挿入されるが、ここはヴィオラとチェロの二重奏といってもよいだろう。チェロはF3-G2の2音パターンと、D3-C#4-F4のアルペジオをヴィオラの伴奏としてピツィカートで鳴らす。曲の最後となる9番目の場面(174-187小節)からヴィオラのパートナーはヴィブラフォンに変わる。ここからはヴィオラは旋律ではなく、先ほどチェロが鳴らしていたアルペジオと同じ和音D3-C#4-Fを鳴らす。その直前まで劇的な盛り上がりを見せたヴィオラの旋律が姿を潜め、曲の終わりへゆっくり着地する筋書きだ。これまでこの連載ではフェルドマンの音楽を概して「何とも言い難い」と表してきたが、「The Viola in My Life 2」を見る限りもはやそれは当てはまらない。フェルドマンは物語性さえも感じさせるロマンティックな音楽を書いている。

The Viola in My Life 3

 「The Viola in My Life 3」はヴィオラとピアノの編成。スコア記載の演奏時間は6分10秒。前の2曲が6〜7人の奏者による室内楽だったのに対し、編成も曲の長さも急に縮小する。曲の構成も単純で、半音階的な和音を中心としたピアノ伴奏にのせてヴィオラがダイナミクスを変化させながら持続音を弾く。前の2曲にも登場したヴィオラによるゆるやかに上行、下行する音型も登場する。ヴィオラは持続音の合間に2/3拍子、8分音符で記された12音(G♭3-C4-B3-E4-E♭-C#4-D4-A♭-C5-E5-A5-B5)からなる特徴的なパッセージを3回奏でる。ひと筆書きのように演奏される、音域の広いこのパッセージは増4度(G♭3-C4)と減5度(D4-A♭)を含んでいるせいなのか、聞き流そうとしても印象に残ってしまう奇妙な性格を持つ。実はこのパッセージは既に「The Viola in My Life 2」の83、105小節目に登場している。

 曲中のヴィオラ、ピアノともに全休符の小節は全てテンポ♩=66、2/2拍子で統一されている。このように音の鳴らない時間と空間も具体的に規定することで、フェルドマンは測られた沈黙の状態をここに作り出している。また、不意に現れる全休符による沈黙はヴィオラの持続音が旋律に発展するのを邪魔しているようにも見える。「The Viola in My Life」シリーズは全体的に旋律の性格が強い楽曲だが、フェルドマンは思いだけないタイミングで沈黙を挟むことによって連続する感覚を希薄にしようとしたのではないだろうか。「垂直」の概念に囚われていた1960年代半ばにも、彼は水平に連続する音楽的な時間の感覚に抗おうとしていた。そのことが今ここでも思い出される。

Feldman/ The Viola in My Life 3

score https://www.universaledition.com/morton-feldman-220/works/the-viola-in-my-life-3-5337

The Viola in My Life 4

 「The Viola in My Life」シリーズの最後となる「The Viola in My Life 4」は独奏ヴィオラと管弦楽による最も大きな編成。スコア記載の演奏時間は20分。シリーズの中で最も長い。管弦楽の編成は木管6部、バストロンボーンも加わった金管5部、打楽器奏者2人、ハープ、チェレスタ兼ピアノ、弦楽という一般的なものである。今度は二手に分かれた打楽器には、1番と2番で目立っていたカスタネットとマラカス等の他にチャイムやアンティーク・シンバルも加わり、「The Viola in My Life 4」ではより幅広い種類の打楽器の音色を聴くことができる。1番、2番と同じく鍵盤打楽器以外の打楽器は大半がトレモロやロールとして現れる。

Feldman/ The Viola in My Life 4

score https://www.universaledition.com/morton-feldman-220/works/the-viola-in-my-life-4-5338

「The Viola in My Life 4」作曲の経緯や、ここでのヴィオラの旋律についてフェルドマンは次のように解説している。

 The Viola in My Life Ⅳは1971年開催のヴェニス・ビエンナーレによる委嘱作品で、この曲に先立つ3つの室内楽曲で用いられた素材の管弦楽への「翻訳」と言えるだろう。私のここでの意図は旋律とモティーフの断片について考えることと―—ロバート・ラウシェンバーグが彼の絵画の中に写真を使うように—―私の楽曲にさらに特徴的な静的な音の世界にそれを重ねることだった。

 多少なりとも「ありきたりな」響きに聴こえそうな曲なのに、そこに形式的な思考が欠けていることは伝わりにくい。

 周期的に現れる旋律は構造的な機能を持たない。この旋律はこの曲に沿って動くものというより「記憶」として戻ってくる。状況は発展というより微かな変化を伴って繰り返す。静止は期待とその実現との間で発展する。夢の中のように、私たちが目を覚ますまでそこから逃れられない。だが、その夢が終わってしまったからというわけではない。

 The Viola in My Life Ⅳ was commissioned by the Venice Biennale for its 1971 Festival, and could be described as an orchestral “translation” of material used in the three chamber pieces preceding it. My intention was to think of melody and motivic fragments—somewhat the way Robert Rauschenberg uses photographs in his painting[11]—and superimpose this on a static sound world more characteristic of my music.

 What is difficult to convey is the absence of formal ideas on what appears to be a more or less “conventional” sounding composition.

 The recurrent melody serves no structural function. It comes back more as “memory” than as something that moves the work along. Situations repeat themselves with subtle changes rather than developing. A stasis develops between expectance and its realization. As in a dream, there is no release until we wake up, and not because the dream has ended.[12]

 ここでフェルドマンが言及しているラウシェンバーグの写真を使った作品とは、新聞や雑誌の写真を溶液やテレピン油に浸水させ、それを擦って紙に転写するトランスファー・ドローイング、あるいはソルヴェント・トランスファーと呼ばれる技法だと推測できる。[13]この技法を用いて写真をフロッタージュのような方法で擦り付けて紙に転写することで、その写真の持っていた元来の意味や歴史が失われる、またはもとのものとは違う存在として浮かび上がる。これも時間、歴史、記憶に関係する異化効果の1つだといってもよいだろう。このような異化効果と記憶の作用は、場合によっては微かに姿を変えて、少し前に現れた旋律や断片が思いがけない箇所で再び突然現れるフェルドマンの音楽と共通している。「The Viola in My Life」1-3を管弦楽に翻訳した「The Viola in My Life 4」は、これら3曲から曲中の素材や断片が引き出され、全体が再構成されている。フェルドマンがここでラウシェンバーグに言及しているとおり、このような構成方法は絵画におけるコラージュやフォトモンタージュに例えることも可能だろう。

 スコアの概要を見ていこう。スコア冒頭に「♩=c 63極めて静かに。全てのアタックはビートの感覚を出さず最小限に抑えて。♩=c 63 Extremely quiet, all attacks at a minimum with no feeling of a beat.」と、テンポと全体の曲想が記されている。テンポが♩=c 66から♩=c 63へとほんの少し遅くなった点以外、この文言は「The Viola in My Life 2」と同じだ。独奏ヴィオラのパートは弦楽セクションの一番上に配置されている。独奏ヴィオラ、金管楽器と弦楽器(ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ)にはミュート装着の指示が記されている。だが、169-175小節の独奏ヴィオラでは、この曲のシリーズの中で初めてヴィオラがミュートを外して演奏する。ダイナミクスに関する表記は、この曲でもほぼ全パートに渡って細かく指示されていて、前の3曲に続いてダイナミクスの変化が楽曲の中で重要視されていることがわかる。めまぐるしく変化する拍子は独奏ヴィオラの持続音と旋律に基づいており、独奏ヴィオラと他のパートとの従属関係はここでも明白だ。

 場面の変化に応じて全体を12に区切ることができる。下線が引かれているのは、「The Viola in My Life 2」118-129小節目の独奏ヴィオラが旋律を奏で、チェロがその伴奏を担う箇所をそっくりそのまま転用した部分である。先に引用したフェルドマンがラウシェンバーグのトランスファー・ドローイングに言及したと思われる楽曲解説を思い出すと、これらの部分は「The Viola in My Life 2」からのコラージュともいえる。

1: mm. 1-22
2: mm. 23-52
3: mm. 53-65
4: mm. 66-83
5: mm. 84-96
6: mm. 97-132
7: mm. 133-168
8: mm. 169-175
9: mm. 176-187
10: mm. 188-234
11: mm. 235-251
12: mm. 252-259
13: mm. 260-278

 「The Viola in My Life 2」でのヴィオラの旋律だけではなく、「The Viola in My Life 4」は前の3つの曲と素材を共有している。あるいは前の3つの曲に由来する旋律やパッセージをこの曲の中に見つけることができる。それぞれのパッセージの初出はどこなのかをいくつか探してみよう。例えば、曲が始まってすぐの独奏ヴィオラによるG5-B♭5-A5-B5の4音(2-4小節目)は、「The Viola in My Life 1」の中で最も息の長いパッセージを構成する67-69小節目の4音C-5-E5-C#5-F5を想起させる。この2つのパッセージは跳躍の幅、つまり各音の間の音程がまったく同じではないものの、どちらも4音の動きが上行-下行-上行による山と谷を描いており、類似する音型とみなしてよいだろう。2番目の場面にあたる23小節目からは独奏ヴィオラが6〜7音からなる上行形のパッセージをその都度、音高を変えて5回繰り返す。これらのパッセージは、音の数や増減音程を含む点で、そのルーツを「The Viola in My Life 2」の58小節目に現れるG♭3-C4-E4-F4-B4-E♭5にさかのぼることができる。もう1つ、「The Viola in My Life 2」からの引用として、105小節目の独奏ヴィオラの12音からなるパッセージ(G♭3-C4-B3-E4-E♭-C#4-D4-A♭-C5-E5-A5-B5)をあげることができる。「The Viola in My Life 2」83小節目の、この印象深いパッセージは「The Viola in My Life 3」にもそっくりそのまま登場することは既に述べた。「The Viola in My Life 4」では、このパッセージが少しずつかたちを変えながら113、154、225、227、229、231、241小節目で鳴らされる。特に225-231では短いスパンでこのパッセージが繰り返されるので、緊張感を伴う劇的な効果が曲にもたらされている。

 独奏ヴィオラ以外にも前の3曲からのコラージュ、あるいは引用が行われている。6番目の場面にあたる97-99小節の間にピッコロがG4-E♭4の、フルートがG5-E♭5のフレーズを2回繰り返す。この2音は「The Viola in My Life」シリーズの前身ともいえる「Madame Press…」からの引用であり、また「The Viola in My Life 2」100-137小節の間でフルートのB5-G#5として何度も繰り返されるフレーズと同類のものである。「The Viola in My Life 4」では曲の後半になるとフルート以外のパートにもこのフレーズが敷衍されていて、151、153小節では他の木管楽器全てとホルン、トランペット、ヴィオラ、チェロがこのフレーズを鳴らす。

 管弦楽の書法については、9番目の場面にあたる176-187小節がこの曲の中で特筆すべき箇所である。チェロの伴奏を伴わない純然たる独奏ヴィオラの直後、オーケストラのトゥッティが突然始まり、E♭-D-G-Fのフレーズがユニゾンで繰り返される。ダイナミクスのppからfffへの変化もあいまって、まるで映画音楽のようでもある。曲の進行と同じく唐突だが、ここで1つ仮説を立ててみよう。この管弦楽の書法は、ユニゾンを基調としながらもいくつかのパートの内声部によって響きにグラデーションがもたらされていること、2拍3連符によるゆるやかな音型、ダイナミクスの細かな変化といった点で、武満徹の「弦楽のためのレクイエム」(1955-1957)の冒頭と類似しているのではないだろうか(奇しくも「弦楽のためのレクイエム」では短いが独奏ヴィオラが入る)。もちろん「The Viola in My Life 4」の作曲に際してフェルドマンが武満の「弦楽のためのレクイエム」を参照していた確証はまったくないし、これまでのインタヴューやその他資料でも触れられていない。さらには、この2人の直接的な交流が始まったのは1977年代後半[14]からなので、1971年の時点でフェルドマンがどれくらい武満の音楽を知っていたのかもわからない。しかし、「The Viola in My Life 4」の176-187小節間に聴こえる響きは「弦楽のためのレクイエム」との何かしらのつながりや共通点を感じさせる。

武満徹/弦楽のためのレクイエム(1957)

 トゥッティでの劇的な身振りを経て、10番目の場面から(189小節目)、再び独奏ヴィオラの旋律が聴こえてくるが、今度は先の9番目の場面のユニゾンのフレーズから派生した3音のフレーズを鳴らすピッコロとフルートが加わる。この3音は2-3小節目の独奏ヴィオラのフレーズとも同じ音型である。今まではピツィカートだったチェロの伴奏形もここで変わり、旋律と伴奏というこれまでの関係がやや複雑になる。11番目の場面以降もこの3音のフレーズは様々なパートに敷衍される。12番目(252-259小節)での独奏ヴィオラとチェロの二重奏を経て、13番目の場面が始まる。274小節目から再び独奏ヴィオラの旋律が始まる。だが、繰り返し聴こえてきた独奏ヴィオラの旋律で静かに幕を閉じるという予想はあっさり裏切られる。283小節目でピアノが和音を強打し、これまでの叙情的な雰囲気が突然断ち切られるのだ。ピアノの和音の響きの中で独奏ヴィオラが力強くA♭4とD3の2音を鳴らし、これに続いてコントラバスがA♭2をひっそりとpppで引きのばして曲が終わる。

 フェルドマンが楽曲解説で述べていたように、「The Viola in My Life」1-3を管弦楽に翻訳した「The Viola in My Life 4」は先の3曲からの引用やコラージュで構成されていることがわかった。フェルドマンには珍しい要素である旋律を前面に出した曲として特殊な楽曲とみなされるものの、「The Viola in My Life 4」は楽曲の長さや協奏曲風の編成の点で1970年以降の彼の音楽の行く末を予示している。

 次回は1970年代中頃から頻繁に見られるようになった独奏楽器とアンサンブルによる協奏曲風の楽曲についてとりあげる予定である。


[1] Morton Feldman Says: Selected Interviews and Lectures 1964-1987, Edited by Chris Villars, London: Hyphen Press, 2006, p. 47
[2] Ibid., p. 47
[3] Karen Ann Phillipsは1942年ダラス生まれのヴィオラ奏者、ピアニスト、音楽教師。1979年頃に演奏活動を休止している。詳しい経歴はMorton Feldman Page https://www.cnvill.net/mftexts.htmのテキスト・リストにある”Karen Phillips- A Chronology”参照。
[4] Ibid., p. 269
[5] Morton Feldman, “I Met Heine on the Rue Fürstemberg,” Give My Regards to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman, Edited by B. H. Friedman, Cambridge: Exact Change, 2000, p. 90
[6] Ibid., p. 90
[7] Morton Feldman, The Viola in My Life 2, UE 15399, 1972
[8] Marion Saxer, Between Categories: Studium zum Komponieren Morton Feldmans von 1951 bis 1977, Saarbrücken, Pfau, 1998, s. 181
[9] Ibid., s. 181
[10] Ibid., s. 181
[11] トランスファー・ドローイング、あるいはソルヴェント・ドローイングの概要は以下のサイトに解説されている。Robert Rauschenberg Foundation https://www.rauschenbergfoundation.org/art/lightboxes/transfer-drawings
滋賀県立近代美術館 http://www.shiga-kinbi.jp/db/?p=11967
[12] Feldman 2000, op. cit., pp. 90-91
[13] 前掲の滋賀県立美術館の解説を参照した。http://www.shiga-kinbi.jp/db/?p=11967
[14] 1977年に武満徹はバッファロー大学に招かれて講演を行い、彼の曲も演奏された。フェルドマンは東京で行われたインター・リンク・フェスティヴァルのために1985年に来日し、武満と対談を行った。

高橋智子
1978年仙台市生まれ。Joy DivisionとNew Orderが好きな無職。
(次回は3月18日更新予定です)