文:高橋智子
前回は、中東の絨毯との出会いをきっかけに1977年頃からフェルドマンの音楽が新たな局面を迎えたことを解説した。前回に引き続き、絨毯にまつわる知識の深まりと熱意から生まれた概念「不揃いなシンメトリー」を参照しながらフェルドマンの楽曲における反復技法を考察する。
1 いくつかの楽曲における不揃いなシンメトリー
オペラ「Neither」を終えたフェルドマンが1977年のイランへの演奏旅行を機に絨毯にのめり込んでいく様子は前回解説した通りだ。伝統的な作法とそれぞれの職人の技術や創造性とが絡み合い、絨毯一面に微細な差異からなる完璧ではないシンメトリーが広がる。この方法に感銘を受けたフェルドマンは「不揃いなシンメトリー crippled symmetry」の概念を考案し、自身の音楽においてこの概念を具現しようと試行錯誤を始める。その端緒が前回解説したピアノ独奏曲「Piano」(1977)だった。この曲では、曲が進むにつれて既出の素材がそっくりそのまま、あるいは少しかたちを変えて再び現れ、別の新たな面が創出される。大譜表を3つ重ねた記譜はコラージュやパッチワークを想起させる外見だ。「不揃いなシンメトリー」の概念は記譜にだけでなくフェルドマンの音楽の様々な面に影響をもたらしている。フェルドマンはどのようにこの概念を自作に採り入れて発展させていったのかを同題のエッセイ「Crippled Symmetry」の後半から語り始める。
フェルドマンはまず、1978年の作品「Why Patterns?」を例に、パターンを用いた作曲法について述べている。
https://www.universaledition.com/morton-feldman-220/works/why-patterns-5800
この曲はフルート(アルト・フルートとバス・フルート兼)、グロッケンシュピール、ピアノのトリオ編成で演奏される。演奏時間は約35分。タイトルが示すように、曲全体がパターンとその変化や反復で構成されている。通常、それが音楽であれ他の領域の作品であれ、複数の部分が寄り集まり、それらの組み合わせから全体が成り立っている。だが、「Why Patterns?」においてフェルドマンは部分と全体とを区別せず、さらには部分またはパターン間にいかなる階層関係も作らない方法を採った。この方法についてフェルドマンは次のように語っている。
もっぱらパターンを用いて作曲している自分にとって最も興味深い側面は、他と比べて優先されるべき組織化の手順が存在しないことだ。それはおそらく、他のパターンの優位に立つパターンがひとつもないからだ。作曲の焦点はどのパターンをどれくらい繰り返すべきか、そこから否応なく生じる何かしらの変化の性質のみに向けられる。
The most interesting aspect for me, composing exclusively with patterns, is that there is not one organizational procedure more advantageous than another, perhaps because no one pattern ever takes precedence over the others. The compositional concentration is solely on which patterns should be reiterated and for how long, and on the character of its inevitable change into something else.[1]
1つのパターンが他のどのパターンに対しても優位に置かれることはなく、すべてのパターンは曲中で等しく扱われる。フェルドマンがここで考えていたパターンと全体との関係は、1つの大きな構築物に向けて個々のパターンが反復しながら発展するのではなくて、パターンの反復とその変化そのものが全体と等価である関係だといえる。さらにここでフェルドマンが主張しているのは、彼の作曲の焦点が変化の結果生じる新たなパターンや全体像よりも、変化の性質そのもの当たっていることだ。パターンを繰り返す過程でそれがどのような変化の様相を見せるのかが、ここでの彼の大きな関心事だった。パターンと反復に関するこの考え方は、反復を主体とするミニマル音楽の黎明期、1968年にスティーヴ・ライヒが打ち出した「漸次的プロセスとしての音楽 music as a gradual process」[2]に似ているように思われる。ここでライヒは繰り返すパターンとその反復の過程に焦点を当てる楽曲のあり方を提唱した。フェルドマンもライヒも反復の結果として生じる全体や統合よりも、反復とその変化の過程に焦点を当てている点で共通している。だが、ライヒのパターンと反復は多くの場合(フィリップ・グラスの初期の楽曲にも当てはまるが)、反復されるパターンの音高やリズム自体はほとんど変化しない。1つのパターンは、聴き手もその成り立ちを認識できるほどの回数と時間をかけて反復される。そのパターンが同時に反復されている他のパターンと組み合わさることによって副次的な位相や効果が生み出される。一方、詳細は後述するが、フェルドマンの楽曲におけるパターンは非常に脆い。そこでは全く同じものがそっくりそのまま繰り返されることはあまりなく、音高、音域、リズムのどれかが、あるいは、そのどれもが反復のたびにほんの少しずつ変わるので、それがパターンと認識されるかどうかは聴き手の記憶にも依拠している。ライヒが書くパターンが鉄製の枠でできているとすれば、フェルドマンが書くパターンはゴムのような可変的な素材でできているといえるだろう。両者とも反復とその変化の過程を重視するが、反復されるパターンの特性の点で以上の違いがある。フェルドマンが作るパターンそれ自体の可変性は、前回解説した、少量ずつ染めた織り糸の微妙な色合いからグラデーション効果を得る絨毯の技法アブラッシュに由来する。1983年にヨハネスブルグで行われたレクチャーの中で、フェルドマンは絨毯が自身の創作に及ぼした影響を詳しく説明している。
パターンのみでできているこの絨毯を気の向くままに見ていて気づいたのは、どのようにそのパターンがただそこに広がっているのかということだ。また、より商業的なペルシャの絨毯とは違い、これらの特徴的な絨毯ではパターン自体が反復するが、そっくりそのまま繰り返すのではない点も興味深い。まるでその様子は反復の度にイディオマティックに為されているように見える。だがまったく違う。すべて同じに見える1つのパターンを実際に測って見たところ、それは違っていたのだ。このアブラッシュという染色技法で本当に色が変わるからだ。
And that’s what I caught, looking down just haphazardly at this rug of just patterns, and how the patterns are just going around, and what’s interesting about these particular rugs unlike the kind of more commercial Persian rug is that the pattern repeats itself, but it’s never really exact. It’s as if every time they do it again it’s done idiomatically. It’s quite different. In fact I actually measured one pattern that seemed the same all over, and it was different. And the colour actually changes, because of this dyeing thing, this abrash.[3]
このフェルドマンの言葉から、彼の関心の中心が微細な変化や差異にあったことがわかる。繰り返されるパターンはどの1つをとっても同じではなく、その都度なんらかの違いや変化を孕んでいるが、接近して見ない限り、あるいは何度もじっくり聴き返さない限りそれらを認識するのは難しい。もしかしたら、音だけを聴いていても違いや変化に気づかないかもしれない。このような微かな変化は演奏の難易度を上げるだけかもしれないが、それでもフェルドマンは人間の知覚や認識に挑むかのように細かな変化を伴うパターンを書き続けたのだった。