エッセイ「Crippled Symmetry」の続きに戻ると、フェルドマンはヴァイオリンとピアノのための「Spring of Chosroes」(1977)を例に、記譜と鳴り響きとの関係で「不揃いなシンメトリー」の概念を説明する。
「Spring of Chosroes」のタイトルは、ササン朝ペルシャのホスロー1世のために織られた豪華絢爛な「春の絨毯」にちなんでいる。絹、金、銀、宝石をあしらって美しい春の庭園を表現したこの絨毯を敷けば、たとえ季節が冬でも春の暖かな庭園の風景を呼び戻すことができる。このような理由から「春の絨毯」は季節を自由自在に動かす王の権力の象徴とされていた。フェルドマンは絨毯に散りばめられた宝石の光の煌めきをヴァイオリンの細かな音符の反復や、ピアノによる和音の連打を用いて自身の音楽に書き換えた。
https://www.universaledition.com/morton-feldman-220/works/spring-of-chosroes-4942
テンポは♪=126、演奏時間は約12分。曲が始まってからしばらくの間、拍子は5/8拍子で一定していて、ヴァイオリンはD#/E♭-E-Fの3音の組み合わせからできた様々なパッセージを展開する。ピアノは左手がA♭1-G2-A2とA3-G4-A♭4、右手がF5-G5-F#6とF#5-G5-F6の和音を交互に打鍵する。ヴァイオリンとピアノの関係は旋律と伴奏の関係とは異なり、「独立しているが相互に不可欠な2つのモノローグ with two separate yet integral monologues」[8]の関係を築いている。この関係にも部分と全体とを区別せず、いかなる主従関係を作らない考え方が反映されている。たとえどちらか一方の楽器だけが演奏されている場合でも、もう一方の楽器がそれに応答するのを待っている印象を受けることはない。[9]だが、2つは全く無関係でもなく、微妙な距離を保ったまま曲が進む。「フェルドマンが選んだのは、1つの楽器に耳を傾け、それからもう1つを聴いて、たまに両方を一緒に聴くやり方だ。Feldman is choosing to turn an ear to one instrument, then to the other; and at times we hear both together.」[10]
ヴァイオリンとピアノとの関係の妙はこの曲のリズムの書法にも見ることができる。エッセイ「Crippled Symmetry」の中で、フェルドマンはこの曲の291-300小節目(上記のリンク先では13:38秒付近)を例に、不均衡な拍の配置が作り出す「不揃いなシンメトリー」について説明している。
不規則な5拍に割り当てられた3音の用法は、これを五線紙に書き付けている時、私の耳の中に「8」からなる不揃いなシンメトリー配置を作った。ヴァイオリンのこのパターンに対して、ピアノは(訳注:ヴァイオリンと)同じ3音(訳注*G#4- A4-B♭4)からなる独立したリズムの連なりを、1小節を4拍に等分したシンメトリカルなユニットで演奏する。ピアノのこのユニットは、前に進もうとする5連符の自然な力に対するもう1つの抑止力としても機能する。
The use of three pitches against five uneven beats created, in my ears, a crippled symmetric constellation of “eight” as I was writing it. Against the violin’s pattern, the piano has an independent rhythmic series of the same three pitches, played in a symmetric unit of four equal beats to a measure. This functions as still another deterrent to the natural propulsion of the quintuplet.[11]
この部分の拍子は4/16拍子。ヴァイオリンは4拍を5つに分割したリズムのパターンを繰り返す。4拍子を5分割した5拍のうち必ず2拍が休符とされていて、1つのパターンの中で実際に鳴らされるのは5拍のうち3拍である。しかし、2拍分の休符の位置がパターンを繰り返すたびに変わるので、このパターンを5分割または5連符として聴き取ることは不可能に近い。ピアノのパターンに関しても同様で、ピアノはG#4の8分音符の装飾音+A4-B♭4の和音を1小節につき1拍分(つまり16分音符1つ分)だけ鳴らす。残り3拍は休符だが、ヴァイオリンと同じく休符の位置は1小節ごとに異なる。ここでフェルドマンは、ヴァイオリンの5分割リズムの枠組と、その中で実際に鳴らされる3音を対比させて5:3の比を頭または耳の中に描いた。彼はこの比の関係から数字「8」を導き出して、「不揃いなシンメトリー」を作り上げたと解釈できる。この類の「不揃いなシンメトリー」は聴覚に訴えてはいるものの、作曲家が描いたのと同じイメージを聴き手が共有できるかどうかは楽曲に対する個々の知識や習熟度に依拠する。1960年代の自由な持続の記譜法の楽曲においても記譜と鳴り響きとの乖離が指摘されるが、五線譜に戻った1970年代後半以降の楽曲にも同様の乖離が当てはまる。フェルドマンは「記譜のイメージ notational image」という言葉で、この時期の自身の記譜法について説明している。
もしも私のアプローチが今ではさらに説教じみて見えるなら――音楽のほんの一瞬にだけ適用させる方法を編み出すのに何時間を費やして――私の興味をひくパターンが具体的かつ刹那的なので記譜を難しくしているからだ。これらのパターンが正確に記譜されていれば硬直しすぎているし、微かに幅を持たせた記譜法だと正確さに欠ける。
If my approach seems more didactic now—spending many hours working out strategies that only apply to a few moments of music—it is because the patterns that interest me are both concrete and ephemeral, making notation difficult. If notated exactly, they are too stiff; if given the slightest notational leeway, they are too loose.[12]
フェルドマンの作曲は直感的で謎めいているように思われているが、この引用から、それとは正反対で緻密に設計されたものだとわかる。自分の創造性や閃きを正確に記譜しようとすればするほど、記譜は難しくなる。しかし、ここで彼が言うように、記譜の精度をどのくらい高めるべきなのか、緩めるべきなのかの加減は難しい。逡巡の末に記譜された微かな変化を伴うパターンが楽譜、演奏、鳴り響き、聴取の相互関係についてフェルドマンは語る。
これらのパターンは楽器の音によって分節されたリズムの形として存在しているが、それらは聴取の際に耳に直接的な影響をもたらさない記譜のイメージでもある。ある種の宙返りがスコアからの解釈と実際の演奏との中空で起きる。かなりの割合で、この宙返りは全ての音楽に起きる――だが、私の音楽ではより複雑だ。なぜなら、リズムの「様式」、つまり演奏者がどう解釈して何をすべきかを決定づける特性がそこにはないからだ。これは私の50年代の音楽にぴったりと当てはまると気づいた――リズムは記譜されておらず、奏者に委ねられていた。
Though these patterns exist in rhythmic shapes articulated by instrumental sounds, they are also in part notational images that do not makes a direct impact on the ear as we listen. A tumbling of sorts happens in midair between their translation from the page and their execution. To a great degree, this tumbling occurs in all music—but becomes more compounded in mine, since there is no rhythmic “style,” a quality often crucial to the performer’s understanding of how and what to do. I found this just as true in my music of the fifties—where rhythm was not notated, but left to the performer.[13]
フェルドマンの説明から、書き記されたパターンとしての記譜のイメージは聴取に直接的な影響をもたらすことはなく楽譜の中で完結しているのだと解釈できる。そして、この現象は奇しくも1950年代の図形楽譜による音価やリズムの不確定な音楽を想起させる。今ではフェルドマンは複雑な音価やリズムを用いた正確な記譜法で書いているが、演奏に際してのリズムや持続の最終的な判断や解釈は依然、演奏者に委ねられている。このように考えると、先に引用した彼の言葉「小節線を額面通りに受け取るべきではない」に説得力が増してくる。通常、楽譜に書かれた楽曲の場合、解釈の幅はあれども原則として楽譜に即して演奏するのが当然とされているはずだが、そうするだけではもはや彼の音楽には何かが足りないのだ。その「何か」の正体を引き続きエッセイ「Crippled Symmetry」を読み進めながら考えることにする。