あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(16) 1980年代の室内楽曲-1

 フェルドマンの音楽にとって編成と並ぶ重要な要素がある。それは演奏時間だ。1970年代からフェルドマンの楽曲の演奏時間が長大になってきたことは既に本連載の第11回で解説した。1977年のオペラ「Neither」(演奏時間約55分)、1979年の「Violin and Orchestra」(演奏時間約65分)と「String Quartet No. 1」(演奏時間約100分)が70年代の長い曲の代表である。1980年代に入るとさらに長い曲が書かれ、この年代の楽曲が「フェルドマン=曲が長い」というイメージを作った。UE社によるフェルドマンの楽曲カタログ[13] を参照し、1980年代の演奏時間の長い楽曲を下記にまとめた。

1980年の楽曲
Trio: 80分

1981年の楽曲
Patterns in a Chromatic Field: 90分
Triadic Memories: 90分

1982年の楽曲
For John Cage: 75分
Three Voices: 50分

1983年の楽曲
Crippled Symmetry: 90分
String Quartet No. 2: 約300〜360分(UE社のサイトに演奏時間の記載なし)
Clarinet and String Quartet: 45分

1984年の楽曲
For Philip Guston: 240分
Violin and String Quartet: 130分
Piano and String Quartet: 90分

1985年の楽曲
For Bunita Marcus: 75分

1986年の楽曲
For Christian Wolff: 120分

1987年の楽曲
For Samuel Beckett: 55分
Piano, Violin, Viola, Cello: 75分

 この一覧を見ると1970年代を上回って演奏時間が長大になった様子がわかる。上記に挙げた全ての楽曲は楽章などの区切りがなく、一旦曲が始まったら途中で休みなく演奏される。1983年の「String Quartet No. 2(弦楽四重奏曲第2番)」はフェルドマンの楽曲の中で最も長い曲としてよく知られている。演奏によって異なるが、この曲の標準的な演奏時間はおよそ5-6時間を要する(さらに長い場合もある)[14]。フェルドマンによれば、この曲は2つの曲が並行していて、[15]「2つの例を挙げるにとどめるが、変化/繰り返し、または半音階主義/協和音といった要素による、ある種の弁証法 A dialectic of sorts between such elements as change/reiteration or chromaticism/consonance to mention but two.」[16] でできている。長大な時間を構成する様々な要素の多くは、半音階的な音の重なりによる短いパターン、長短2/7度の跳躍からできた短いモティーフ、クラスター状の和音とその引きのばしなど、1970年代後半以降のフェルドマンの楽曲におなじみのものばかりだ。ここでのフェルドマンの作曲法の特徴は、これら多種多様な要素を寄り集めて音響的に一貫した全体像を作ることではなく[17]、「リズム、楽器、モティーフまたは和音の創意工夫を表現主義的なポリフォニーの伝達手段として用いていない its rhythmical, instrumental, motivic or chordal invention is not used as a vehicle for an expressionistic polyphony」[18] 点にある。曲中で多種多様な要素が長時間にわたって展開されるが(フェルドマンはこれを「弁証法」と表している)、それは特定のクライマックスや結末のためではない。フェルドマンの狙いは、数々の出来事が時間の進みとともに現れては消えていくプロセスをスコアの最終ページに行き着くまで続けること、ただその一点だといえるだろう。次に彼は一般的な意味での作曲とは違う手法で「String Quartet No. 2」を書いたのだと語る。

もう1つの決定的な違いは「楽曲」を構成することと、アッサンブラージュ(訳注:寄せ集め)を構成することとの区別にある。この弦楽四重奏曲は後者寄りだ。私にとっての「楽曲」は始まり、中間、終わりのシナリオの中で文の構造を作る。ピカソがレディ・メイドの主唱者として長方形を使うのと全く同じ方法だ。アッサンブラージュに関していえば、1つの文や段落の中の単語のような部分の組み合わせによる連続性がそこには存在しない。

シェーンベルクが自分の音楽の中に三和音に基づかない調性があると思っていたのと同じく、ここに既存の文法に基づいたアプローチアプローチはふさわしくないだろう。

 Another crucial difference is in making the distinction between constructing a “composition” and that of assemblage, which is more what this quartet is about. A “composition” for me forms sentence structures within a scenario of beginning, middle and end. Very much the way Picasso uses a rectangle as a ready-made protagonist. With assemblage there is no continuity of fitting the parts together as words in a sentence or paragraph.

 A syntactic approach would be as out of place here as Schoenberg felt a tonality not based on triadic harmony would be in his music.[19]

 フェルドマンは作曲や構成(composition)の概念そのものに疑問を呈し、「String Quartet No. 2」は作曲ではなくてアッサンブラージュに近いと言っている。構成や既存の文法に基づいたアプローチを否定する態度は前の段落から一貫している。彼のこれまでの多くの楽曲と同じく「String Quartet No. 2」には楽章や明確な区切りが存在しない(本連載では分析のためにしばしば楽曲を区切っているが)。起承転結もなく、音楽が始まって終わる。では、漠然と続くこの長時間の楽曲を演奏者と聴き手はどのように捉えたらよいのだろうか。この曲の初演はどのように受容されたのだろうか。

 「String Quartet No. 2」の初演は1984年12月4月トロントにてKronos Quartetの演奏によって行われ、この曲をフェルドマンに委嘱したカナダ放送協会(CBC)で生放送された。この時に演奏されたのは、番組が始まる夜7時30分から午前0時までの放送時間に収まるよう曲中の反復回数を減らして約4時間に短縮された版だった。この生放送による初演後、Kronos Quartetは短縮版による演奏を1984〜1988年に6回行っている。[20] 1996年8月3日にニューヨークで行われたリンカン・センター・フェスティヴァルのプログラムの1つとしてKronos Quartetがこの曲の完全版を初演する予定だったが、リハーサル時に奏者たちが手首や腕に深刻なダメージを負ってしまったため、惜しくも彼らによる完全版での初演は実現されなかった。[21] 約6時間にわたり、時にpppppといった細心の注意が要求されるダイナミクスを維持したまま、ゆっくりとした弓の動きで繊細なパターンを絶えず演奏しなければならないこの曲が、演奏者にどれほど身体的な負荷を与えるかは想像に難くない。

 Kronos Quartetが断念した1996年8月の完全版初演の約半年前、1996年2月3日に北ドイツ放送(ハンブルク)にてAuryn Quartetが完全版を初演したことが近年明らかになっている。[22] 以降、「String Quartet No.2」は完全版での演奏が通例だ。日本では2006年10月15日に千葉市美術館にてEnsemble Boisの演奏で日本初演が行われた。2017年8月8日には東京のエスパス・ルイ・ヴィトンにてFlux Quartetがこの曲を演奏した。筆者はこの2つの演奏会に足を運び、途中で帰ることなく最初から最後まで聴いた。2006年のEnsemble Boisの演奏はステージのないホールで行われ、演奏の間中、観客はホール内を自由に移動しながら聴くことができた。ホール内での位置や、演奏者たちとの距離によって聴こえてくる音の細部や響きが異なり、この演奏会は今思い出しても非常に興味深くて有意義な体験だった。2017年のFlux Quartetによる演奏も観客は途中で退場できた。この時は座席の移動はほとんど行われず、観客は席に座ってじっと耳を傾けていた。脱落せずに最後まで聴いていたのは演奏開始時の半分かそれ以下の人数だったと記憶している。夏の日の午後に始まり、終わる頃にはすっかり夜になっていたその事実に、この曲の時間の長さを実感させられた。

 このような長時間の楽曲を生演奏で聴いている時、聴き手はその過程で音楽のなりゆきだけでなく自身の心境の変化に直面する。退屈で眠くなったり、興奮したり、心身が様々な方法でその音楽に反応する。では、演奏者と聴き手の心身に少なからずなんらかの影響をもたらす音楽を書いた当の作曲家は、一連の長い曲についてどのように考えていたのだろうか。

Feldman/ String Quartet No. 2 

score sample: https://www.stretta-music.com/en/feldman-string-quartet-nr-2-fuer-streichquartett-1983-nr-406896.html

 「String Quartet No. 2」のスコアは全124ページ。1ページ目にはフェルドマンが演奏時間をおよそ3時間30分〜5時間30分と記しているが、Flux Quartetによる録音のライナーノーツに寄稿したクリスチャン・ウォルフは、この演奏時間表記を「大雑把で主観的 casual and subjective」[23]と評している。実際、カナダでの放送初演の際は4時間の短縮版を作らなくてはいけなかったほどなので、作曲中のフェルドマンは最終的にこの曲がどれくらいの演奏時間を要するのかをそれほど厳密に考えていなかったと思われる。当時のUE社ヨーロッパ部門ディレクターで、この時87歳のアルフレッド・シュリー(Alfred Shlee)は、1984年7月26日にダルムシュタット夏季現代音楽講習会の中で行われたKronos Quartetによる短縮版でのヨーロッパ初演を聴き、フェルドマンに「すばらしい。たったの25分間かと思いました。Splendid. It seemed to last only 25 minutes.」[24]と言ったという。その曲を長く感じるかどうかは人によって様々だ。肝心のフェルドマンはというと、楽曲の演奏時間の長短を演奏者や聴き手の体験とは違った視点で考えていたようだ。

私が間違っているのかもしれないが、音楽は芸術の一形式ではなくて、記憶の形式にたまたま巻き込まれているに過ぎない可能性がある。芸術の一形式として音楽に何が可能なのか、私たちには見当もつかない。私たちは全く知らない。短い曲も長い曲も、その全容は何年にも渡って音楽が記憶の一形式と見なされてきた事実に関係しているのではないだろうか。思うに、私たちに馴染みのある近代音楽の言語からできている構造と優位性全てが――ここで私が言っているのは、なんらかの儀式を何時間も行うバリ島の文化のことではなくて西洋文明についてだ――ギリシャ時代以来の記憶の形式とぴったりと並んで形成されたのだ。私が何を言わんとしているのか今すぐには説明できないが、本質的に音楽は、たとえば階層的な音高の構造や形式構造を重んじるためではなく、その知性と集中力を維持するために前もって選ばれた記憶の形式を持っているのだと思う。ヴァーグナーの長いオペラにも記憶の形式があるとすれば、それは物語のあらすじだ。そんなわけで、あなた方の記憶は物語の展開と語り方に結び付けられているのだ。

I might be wrong, but there is a possibility that music might not be an art form, that it might just happen to be involved with memory forms. We don’t really know what it could do as an art form. We just don’t. I think the whole business of a short piece and a long piece has to do with the fact that for years music was thought of as a memory form. I feel that the construction and all the priorities that were made of a modern music language as we know it – I’m not talking about Bali going off for hours and hours in some kind of ritual, but western civilization –I think it was made very much to parallel the memory form since the Greeks. Now how I mean that I can’t explain it now, but I feel that music essentially has pre-opted memory forms to keep its intellectuality and its concentration going, rather than thinking of hierarchal pitch structures, form structures, you see. If there’s a memory form even in a long Wagner opera there’s a story line, you see. And so your memory is involved with the unfolding and the telling of a story.[25]

 上記の発言を読む限り、フェルドマンはそれがいかに長くとも短くとも、その音楽の時間の長さを音楽自体の特性、形式、構造と結びつけて考えていないようだ。彼の考え方は次のように要約できる。ある一定の時間を満たす、その音楽の演奏時間(あるいは、その楽曲が有する時間とも言えるが)は、その音楽自体の形式ではなくてギリシャ時代以来、西洋文明の中で発展してきた人間の記憶の形式に基づいている。この記憶の形式は物語のあらすじや展開ともいえ、音の動きの連続である音楽固有の形式ではない。フェルドマンにとって事の中心はもはや時間の長短ではなくて、音楽の形式(彼は音楽の形式の有無さえ疑っている)と記憶の形式の関係にあるようだ。このような考え方にいたった経緯には1冊の本が関係している。1980年代のはじめ、フェルドマンはイタリアの文化人類学者でアート・コレクターのフランチェスコ・ペリッツィ Francesco Pellizzi[26]からフランセス・A・イエイツ Frances A Yatesの『The Art of Memory(邦題:記憶術)』[27]を勧められた。[28]フェルドマンの音楽と記憶の形式の考え方に大きな影響を与えたのがこの本だった。この膨大な著作は修辞学、弁論術、古典劇、神秘主義の歴史を紐解きながら、連綿と続く人間の思考の営みと、それらを支えてきた記憶や伝承のあり方を論じている。この本を読んだフェルドマンは音楽における記憶の形式について次のように考えた。

音楽における記憶の形式は原始的で、散漫な注意に基づいているのだと感じた。これらは慣習にも基づいている。これらはうまく機能する事柄に基づいているので、美しく作用した。

I felt that the memory forms in music were primitive. That they were based on small attention. They were based on a convention. They were based on things that worked, and they worked beautifully.[29]

 音楽と記憶の形式について考える前に、音楽(ここでの意味は楽曲とほぼ同義であろう)の基本的な構成原理を確認すると以下のようにまとめることができる。音と音とのつながりがメロディ、パッセージ、フレーズといったなんらかの小さな単位を形成し、それらを配置することで音楽(楽曲)が構成される。通常、これらの小さな単位が曲中ですべて異なっている場合はほとんどなく、1つの単位を何度も繰り返す、あるいはそこから派生した新たな単位を適宜配置することで楽曲全体ができている。このようにしてできたまとまりや統一感を形式と呼ぶこともできるだろう。音楽に統一感や形式を見出す理由を聴き手の観点で考えると、私たちは音楽を聴く過程で、あるメロディやパッセージ、さらに抽象的な次元では響きといった要素に徐々になじんでいく。先に述べたように、それは繰り返しによる効果である。音楽は小さな単位を繰り返すことで聴き手にその音楽の痕跡や記憶を刻印する。もちろん、その記憶には個人差があり、今聴こえているメロディと少し前に聴こえたものとの類似や差異に気づくこともあれば、そこで聴いている音のみに集中することもあるだろう。音楽を聴く過程で同一、差異、類似を識別することが音楽における記憶の形式を作る。

 1970年代後半から中東の絨毯を通して「不揃いなシンメトリー」の概念を考案し、既に記憶とその逸脱から生じる独自性に着目していたフェルドマンは、イエイツの著作と出会い、音楽における記憶を「原始的」なものと位置付け始めた。これまでのフェルドマンの楽曲においても聴き手の記憶に挑むかのように、同一、差異、類似の境界が意図的に曖昧にされてきた。1980年代以降の長大な楽曲では、反復パターンの中に耳では完全に聴き取ることのできない微かな差異を忍び込ませて、同一、差異、類似を曖昧にする傾向がさらに強まる。また、印象深いフレーズを思わぬところで再登場させて、記憶を巻き戻すかのような手法も頻繁に用いられている。「String Quartet No. 2」で幾度となく出てくるC♭-D♭-F♭-G♭♭-C-G-D-Aの8音からなる印象深いモティーフは記憶の巻き戻しとして機能している。このモティーフが曲中で初めて登場するのは、リンク先の映像では始まりから18分45秒の箇所で(スコアではp. 10)、チェロの開放弦B2の引きのばしの中で、第1ヴァイオリンC♭5-D♭5-F♭5-G♭♭5-C6-G5-D5-A4の8音を鳴らす。2/2拍子の全休符小節を挟んでヴィオラがこのモティーフの前半4音C♭5-D♭5-F♭5-G♭♭5を弾くと、第1、2ヴァイオリンが揃ってC6-G5-D5-A4で応答する。次に第1ヴァイオリンが先ほどより1オクターヴ低いC♭4-D♭4-F♭4- G♭♭4を弾き、今度は第2ヴァイオリンとヴィオラがC6-G5-D5-A4で応答する。この8音モティーフは曲中で合計6回登場する(スコアp. 13, 19, 23, 31, 55, 68)、中でもp. 19とp. 68は、このモティーフの最初のかたち (p. 10)をそっくりそのまま複製して現れる。[30] 他の4箇所ではパート、音域、拍子、リズムなどがその都度、微細な差異を伴いながら繰り返される。この手法はフェルドマンにとって特に目新しいものではないが、曲の長さが長くなるにつれてモティーフの再登場の間隔も長くなるので、途中で眠くなったり飽きたりせず長時間にわたって集中できる聴き手には、このような仕掛けが効果的に働くだろう。