あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(16) 1980年代の室内楽曲-2

 三部作の最後「For Philip Guston」は、先に引用したHallのグリッドの分類によると、「周期的な同期」に属し、特定の小節数を経て小節が揃う。この曲の演奏時間は前の2曲に比べて格段と長く、約240分(約4時間)を要する。録音されているいくつかの演奏では4時間30分〜5時間前後のことが多い。ピアノがチェレスタを兼ねるのは前の2曲と同じだが、フルートはアルト・フルートとピッコロを兼ね、打楽器は楽器が増えてヴィブラフォン、グロッケンシュピール、マリンバ、チャイムを演奏する。タイトルの通り、この曲はフェルドマンの親友で(1970年代にガストンの作風が変わったことをきっかけに2人は絶交したが)、1980年に亡くなった画家のフィリップ・ガストンに捧げられている。

私たち(訳注:フェルドマンとガストン)が実際に行なっているのはある意味「2人の物語」だ。他の論点には目もくれず、音か図像か様式を用いて1つの問題から別のものへと不安定に揺れ動きながら、2つのタイプの芸術家が彼らの作り話を語り続ける。こんなことは長い曲でしかできない。短い曲でこれができるとは思わない。私がいう短い曲は45分や50分の曲のことだ。

So what we’re really doing, in a sense, is a kind of “a Tale of two people,” two types of artists that are telling their stories continually, either with notes or with images or with styles and fluctuating from one to another regardless of any other consideration. And this is only possible in a long work. I don’t feel it could be done in a short work; by a short work I mean forty-five minutes, fifty minutes.[7]

 既に互いに袂を分かち、さらにガストンが亡くなってから数年経っていたとはいえ、上記のフェルドマンの言葉は抽象画時代のガストンへの深い共感を示している。もちろん音楽と絵画では用いられる媒体が異なり、作品としてのあり方も違う。だが、ここでの「2人」はそれぞれの「作り話」を繰り言のように続ける。「作り話」や曲の長短に触れた箇所は反復や繰り返しの要素を示唆していると解釈できる。気が済むまで何かを繰り返すにはそれに見合った長い時間が必要なのだ。フェルドマンにとって45分や50分ではまだまだ足りず、必然的に楽曲が長くなる。その結果「For Philip Guston」は4時間を超える大曲となった。

Feldman/ For Philip Guston(1984)

https://www.universaledition.com/morton-feldman-220/works/for-philip-guston-2515
score sample: https://www.prestomusic.com/sheet-music/products/7310533–feldman-morton-for-philip-guston
UE: https://www.universaledition.com/morton-feldman-220/works/for-philip-guston-2515

 「For Philip Guston」のスコアは全102ページ。スコアのレイアウトは前の2曲と同じく1段につき9小節だが、「For Philip Guston」は3パートのグリッドと相互関係が他2曲とやや異なる。「周期的な同期」と称されるこの曲のグリッドは3-9小節をひとまとまりとする。例えばスコア1ページ、1段目では、全3パートが4小節によるセットを形成する。このセットごとに3パートを貫く小節線が引かれている。1-4小節目までで1つ、その後、全休符による1小節を挟んで、さらに4小節のセットが配置されており、1段あたりの小節数は9小節となる。1つのセット内では1小節ごとに違う拍子が配置されている。1-4小節目の小節の配置は以下の通り。

1ページ、1-4小節目
フルート    3/8|3/32|3/16|1/4| a
ヴィブラフォン 3/16|1/4|3/32|3/8| b
ピアノ     1/4|3/8|3/16|3/32| c

4つの拍子――3/8、3/32、3/16、1/4――が3パートにそれぞれの順序で配置されている。出だしは3パートが揃うが、それぞれの拍子の配置が異なるので4小節の間、パート間でずれが生じる。この4小節間の拍数の合計は3パートとも32分音符29個分。4小節間でずれが生じようと同じタイミングで終わり、次の新しいセットは再び3パートの出だしが揃って、つまり同期して始まる。このプロセスが「周期的な同期」によるグリッドである。この4小節セットは1ページ、1段目の6-9小節目、2段目の3-6小節目でも繰り返される。小節の配置を1段目の1-4小節目のフルートの4小節間をa、ヴィブラフォンをb、ピアノをcとすると、2回目のこのセット(2段目の3-6小節目)はフルートがb、ヴィブラフォンがc、ピアノがa、3回目(2段目の3-6小節目)はフルートがc、ヴィブラフォンがa、ピアノがbの配列になっていることがわかる。

 これら4小節のセットは3回とも、3パートがC6-G5-A♭5-E♭5の4音を鳴らす。この4音の英語音名を並び替えるとC-A♭-G-E♭、ジョン・ケージのCageになる。この4音についてフェルドマンは「音楽の(笑)最古の仕掛けのひとつOne of the oldest devices (laughs) in music.」[8]と言うのみで、これがケージを意識したかどうかは定かではない。ただ、C-GとA♭-E♭はともに完全4/5の音程なので、同系統の音程を並べたシンメトリーの形成が意図されていた可能性もある。

 スコア2ページ目以降は反復記号を伴うセットが増えてくる。一部のパートだけに反復記号が記され、スコア上の位置と鳴り響きとの間に大きな乖離が生じる「Crippled Symmetry」とは違い、この曲では反復記号も3パート全てに同じ範囲で記されている。従ってスコアと鳴り響きとの乖離は見られず、3パートの行方を知るにはスコアを順々に目で追うだけで済む(「Crippled Symmetry」では3パートが同じ場所を演奏している箇所は冒頭以外ほとんどない)。パート間の進度の違いはセットで仕切られた範囲内に限定されているので、あるパートが他のパートに遅れたり先だったりすることはなく、曲の終結部も3パートが同じタイミングで終わる。

 「For Philip Guston」での3パートがそれぞれのペースで進む拍子とリズムの書法についてフェルドマンは次のように解説している。

曲全体を……とても精密な個々のパーツとして用いてはいない。これらのパーツはいつも安物の計算機で計算されていた。言い換えるなら、2、3ページ書き終えると、8分音符がいくつあるのか知りたくなる……そして、フルートがおそらく8分音符150個分遅れているとわかるのだ。打楽器は先を走っている。なぜなら、打楽器は時間通りに比較的すばやく動くからだ。ご存知の通り、私はこれらの楽器をほぼ一緒に扱いたいと思っている。しかし私にとってこれら全ては音響として揺れ動いている……まるで時間のように。これらの楽器はほとんど同じペースで動いているが、足並みがきちんと揃っているわけではない。

I don’t use the whole piece as… very strict individual parts, which were calculated all the time on just a cheap calculator. In other words, after I finished two or three pages, I then would want to see for many 8th-notes …and I would see that the flute is maybe a hundred and fifty 8th-notes behind, you see. And that the percussion is way ahead, because percussion moves quicker in time. You see what I like is to have them almost together, but for me acoustically they’re all moving …like this is time, and the instruments are moving almost at a same rate, but not exactly.[9]

 時間、拍子、リズムといった、ある種の客観的な指針だけでなく3つのパートの音響としての揺れ動きや、それによって生じる時間のずれが作曲の時点で意識されていたと考えられる。この効果を得るためにフェルドマンは3パートを全て同じ枠に、つまり同じ拍子にはめ込むのではなく、一定の小節数を経ると周期的に同期するグリッドを用いたのだろう。それぞれのパートを異なる拍子で記譜すれば、同じ拍子の中で各パートの音価を緻密に計算しなくとも微細なずれの効果を得ることができる。続けてフェルドマンはリズムの記譜法について述べている。

ある種の汎リズムに、つまり汎リズムのような状況にとても興味がある。ほとんど同じだが……何度も言っているように、リズムでやってみたいこととは別に、リズムは記譜法だ。私が現在行っているのは小さなモジュールやとても単純な構成を使うことだ。それはとても単純だ。たとえば、1つのシステムにつき9小節がある。そこにフルート、打楽器、ピアノを書いている。それを見て……最初の5小節間は1/2拍子を書き、次に3/8拍子で4小節書く。これらのうちのいくつかが、おそらく3/8拍子の4小節で始まり、もう1小節が5/8拍子で始まる。さらに複雑なパターンを書くこともあるが、それはとても単純な(モジュールで)、そこから私は非常に複雑なリズムを引き出す。私がこうする理由は、演奏者たちに合図を送らせる状況を望んでいないからだ。リズムがシンコペーションの一側面になってほしくないのだ。

I’m very interested in a kind of pan-rhythmic, a kind of pan-rhythmic situation. Almost the same … I mean, rhythm is notation, many times, outside of the fact what you want to do with it. So what I’m doing now is having small modules, very simple formations, very simple. Say one system, there are nine measures. And I’m writing, it’s flute, percussion and piano. And I look at it and I give it … the first five measures are in 1-2, and then there are four measures of 3-8. Some of them begin, maybe, four measures, 3-8, another one begins 5-8. Sometimes I make a more complicated pattern, but very simple (modules) and out of it I get very complicated rhythms. And the reasons I’m doing it, I don’t want to make a performers situation (where) they’re looking to make a cue. I don’t want rhythm to become an aspect of syncopation.[10]

 ここでフェルドマンが言う「汎リズム」は、拍子という目盛りや尺度から解放された可変的なあらゆる種類のリズムを指しているのではないだろうか。既存のリズムのシステムに疑問を呈した作曲家は、しばしばアジアやアフリカなど、彼らにとっての異文化の音楽から着想を得て自分独自のリズムを発案しようと試みる。しかし、西洋音楽の範疇での創作を貫いたフェルドマンはそのようなことはせず、リズムの記譜法の着眼点を変えることで、単純なやり方から複雑で、割り切れない摩訶不思議な感覚を持ったリズムを描こうとした。その結果、演奏者各自が各々のペースで進むが、かといって完全に不揃いでも無政府状態でもない状況を生み出す記譜法に行き着いた。

 以上、1980年代の室内楽曲の記譜法を「グリッド」の視点から考察した。グリッドによってスコアの見た目はこれまでの楽曲群よりも整然とした印象だ。しかし、その整然とした見た目に反して、この記譜法には演奏時に否応なく生じるパート間のずれや不揃いの感覚が意図されていることがわかった。3つのパートは同時に始まるが、いつも同じペースで歩むわけではない。パートごとに異なる拍子を配置することで、厳密に計られた記譜法ではどうしても到達できない、数値化の不可能な差異やずれを創出できる。80年代の室内楽曲、とりわけフェルドマンお気に入りのトリオ編成の楽曲においてこの記譜法が効果的に用いられている。

 次回はフェルドマンの最晩年の足跡をたどると同時に、彼がその後の音楽に与えた影響を考察する予定である。


[1] David Cline, The Graph Music of Morton Feldman, Cambridge: Cambridge University Press, 2016.
[2] Ibid., p. 312
[3] Ibid., p. 312
[4] Feldman 2006, op. cit., p. 152
[5] Tom Hall, “Notational Image, Transformation and the Grid in the Late Music of Morton Feldman,” Current Issues of Music, Volume1, 2007, p. 8
[6] Morton Feldman, Crippled Symmetry, UE 17667 L, 1983, p. 24
[7] Morton Feldman, “For Philip Guston” Give My Regards to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman, Edited by B. H. Friedman, Cambridge: Exact Change, 2000, p. 198
[8] Ibid., p. 199
[9] Feldman 2006, op. cit., pp. 213-214
[10] Ibid., p. 214

高橋智子
1978年仙台市生まれ。Joy DivisionとNew Orderが好きな音楽学者。
(次回掲載は9月中旬の予定です)