あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(17)-2 フェルドマンの最晩年の楽曲

26 Rap of baton and warmly sentimental. about one minute. 指揮棒で叩く音、うっとりと感傷的な《顔》の音楽を1分ほど奏する
 クロウクが「The face 顔」と何度か呟くと、「音楽」はクロウクがかつて愛した女性の顔についての音楽を1分ほど演奏する。この音楽には「うっとりと感傷的な」という注文がついている。この「顔」の音楽はピッコロのA4-D5によるパターンと、フルートのF5-G4-F5の反復を中心としている。フルートのパターンは《愛》と《魂》の音楽を奏でた10節目のヴァイオリンのパターンと同じだ。他のパートは、弦楽がこの節の途中で和音の構成音を変え、ピアノが後半にA5-G♭6-G5のモティーフを加える以外、各自が同一のモティーフを何度か繰り返す。フルートの素朴な反復パターンと、その周りを囲む和音の響きは「うっとりと感傷的な音楽」の要件を満たしているといえるだろう。リンク先の音源では指示通り、1分ほど演奏される。

27 Warm suggestion from above for above. 前の文句のために、うっとりした節を提示する
 「言葉」が冷たい調子で「Seen from above in that radiance so cold and faint….かくも冷たくかすかな輝きのなかで上から見下ろすと……」と言い放つ。これに「音楽」は「うっとりとした」音楽で応える。前の節に引き続き、10節目から派生した7度跳躍によるフルートのモティーフが3種類(B5-C#5- B5、C6-D5-C6、B♭5-C5- B♭5)奏でられる。一方、弦楽はコラール状の和音でフルートのモティーフに伴奏を付けている。ここの音楽は素朴で柔らかな印象だ。

28 Renew timidly previous suggestion. 前の提示をおそるおそる繰り返す
 「言葉」は女性の姿を言葉で描写する。それを受けて「音楽」は先の場面とよく似た音楽を再び奏でる。ここでも7度跳躍のモティーフが中心的な役割を担っている。ヴァイオリンがG♭5-A♭4- G♭5による7度跳躍のモティーフを繰り返す一方、他のパートはそれぞれに割り当てられた1音――フルート1はB♭5、フルート2はA♭4、ヴィブラフォンとピアノはE♭4、ヴィオラはG♭5、チェロは開放弦でD♭――を終始引きのばす。ヴァイオリン以外のパートの動きが27節目より、さらに簡潔になっており、そのせいかヴァイオリンのモティーフがさらに引き立っている。

29 Irrepressible burst of spreading and subsiding music with vain protestations—‘Peace!’ ‘No!’ ‘Please!’ etc. –from WORDS. Triumph and conclusion. 上下する《乳房》の音楽が押さえようもなく高鳴り始める。《言葉》が「黙れ!」とか「だめだ!」とか「お願いだ!」とか抗議しても通じない。堂々たる終結部)
 「言葉」は女性の顔や体をより鮮明に生々しく描写し続ける。その描写が克明になればなるほど、「言葉」は自分が発した官能的な言葉に苦しめられる。日本語版の解題では、この作品の主題をベケットの作品の中でたびたび繰り返される「老年における愛の思い出、不能ゆえにかえってなまなましくなる愛欲の残像、それによってえぐり出される生の虚無感」[21]と解説している。ここで「上下する《乳房》の音楽」を命じられたフェルドマンは、これまでの素朴な7度跳躍によるモティーフとは全く違う音楽を提示する。

 この節から新たなモティーフが登場する。ピッコロとフルートがともにC♭6-G5-A♭5-A5-B♭5の5音による半音階的なモティーフを繰り返す。この半音階的に旋回するモティーフは、1976年の「ベケット三部作」――「Orchestra」「Elemental Procedures」「Routine Investigations」――と、1977年のオペラ「Neither」でベケットの存在を象徴するかのような役割を果たしたモティーフを思い出させる。ピッコロとフルートがはっきりと動き回る一方、他のパートも半音階的な音高によるモティーフを奏でる。ヴィブラフォンにはD4-B4-E♭5、C#4-B♭4-D5、C4-A4-C#5の3つの和音が配置されている。ピアノはヴィブラフォンと3つの和音を共有するが、E♭4-C5-E5の和音はピアノのみの和音だ。弦楽もヴィブラフォンとピアノの和音と同じ3つの和音を鳴らす。ヴィブラフォンの和音の最高音と、弦楽の和音の最高音を担うヴァイオリンの動きを書き出すと、演奏のタイミングはヴィブラフォンがやや先行するが、どちらもE♭5-D5-D5-C#5-C#5-D5-D5-E♭5-D5-C#5-E♭5-D5-D5-E♭5だとわかる。この旋回するような動きもベケットのモティーフの1つと考えてよいだろう。この場面の音楽はこれまでのロマンティックな世界を打ちかすかのように、全体的に緊迫した雰囲気を放っている。ト書きにもあるように、途中で「言葉」が「音楽」に抗議しようとも、音楽が止むことはない。

30 Discreet suggestion for above. 右のための節を慎重に提示する。
 「言葉」は引き続き官能的な女性の表情を描写しようとしている。もちろんその口調はそれほど流暢ではなく、間を置いて語られる。そこで「音楽」は「言葉」に助け舟を出す。先ほどの緊迫したベケットのモティーフはすっかり姿を消し、ここで「音楽」が奏でるのは少し前に聴いたことのあるスケールのモティーフだ。フルートとヴィオラは19の節と同じD#4-E4-F#4-G4-A4-B4の音階を鳴らす。このスケールに合わせて「言葉」は「Then down a little way Through the trash Toward where… さらに少し下って 語るまでもない部分をよぎって 目指すはあの……」と歌う。

31 Discreet suggestion for following. 次の文句のための節を慎重に提示する。
 またもD#4-E4-F#4-G4-A4-B4の音階が続くが、今度はヴィブラフォンとピアノ、そしてその2オクターヴ下でチェロの開放弦がこの音階を奏でる。これに合わせて「言葉」は「All dark no begging No giving no words No sense no need…. 真っ暗な、乞うことも 与えることも言葉も 感覚も必要もなくなるところ……」と続ける。

32 More confident suggestion for following. 次の文句のための節を前よりも自信ありげに提示する。
 新しい旋律として、フルートによる3音の下行形のモティーフが奏でられる。フルート1のモティーフB♭5-A5-G5と、その長2度下のフルート2のモティーフA♭4-G4-F4が並行して動く。この3音モティーフは10節目でフルート、ヴァイオリン、ヴィオラによって、11節目ではフルートによって演奏されたものとほとんど同じだ。ただ、10、11節目ではフルート2のモティーフがA4から始まっていたのに対し、32節目ではA♭4から始まっている。まるで記憶を遡るかのように、以前出てきた素材がそっくりそのまま、あるいは微かに変化を帯びて再び登場する。ここでのフルート2のAとA♭の関係は響きの微かな差異を狙ったものなのか、それとも、フェルドマンが32節目の方にA♭を間違って書いてしまったのか。両方の可能性が考えられる。開放弦による弦楽の和音、ヴィブラフォンとピアノによるシンコペーションのような動きの和音によって、フルートの素朴で単純なモティーフに複雑な響きが加えられている。

 「言葉」はこのモティーフに沿って「Through the scum Down a little way To where one glimpse Of that wellhead. 屑の部分をよぎって さらに少しくだって ついにちらりと あの泉がのぞくところへ。」と歌う。

33 Invites with opening, pause, invites again and finally accompanies very softly. 出だしの節を奏して誘う。間。また誘い、ついに非常に低く歌の伴奏をする。
 ここでようやく「言葉」が歌おうとしていた2つ目の歌が完成する。日本語では「very softy」が「非常に低く」と訳されているが、ここは「非常にやわらかく」や「とても控えめに」と表現する方が劇の内容に合っているかもしれない。ここでの「音楽」は、ヴィブラフォン、ピアノ、チェロ(開放弦)が、既に何度も登場している19節目のD#から始まる音階モティーフを奏でる。その後、フルート1による7度跳躍のモティーフ3種類が続く構成だ。この7音跳躍のモティーフが始まると「言葉」が歌い出し、文字通り「音楽」は伴奏役に回る。

34 Brief rude retort. 短く乱暴な応答
 歌を終えた「言葉」は「Bob! ボブ!」と「音楽」に助けを求める。先に説明したが、「ボブ」は「音楽」のもう1つの呼び名だ。歌に詰まる「言葉」に旋律を導くなど、これまでのやり取りの中で「音楽」は「言葉」からの呼びかけや求めに対して根気強く応じてきた。しかし、ここでの「音楽」は「言葉」を冷たく、ぞんざいにあしらう。ピッコロとフルートは既に29節目に現れたベケットのモティーフを再び繰り返す。ヴィブラフォンとピアノによる和音のモティーフ、弦楽による和音29節目とほぼ同じだ(ヴァイオリンとヴィオラの音高が28節目と34節目で入れ替わっているが)。リンク先の録音ではヴィブラフォンの鋭いアタックが「音楽」の投げやりな態度をよく表していように聴こえる。

35 Rap of baton and statement with elements already used or wellhead alone. 指揮棒で叩く音、今まで現れた節を総ざらいするか、または「泉」の節だけを繰り返す。
 「「泉」の節」は32節目、「言葉」が「屑の部分をよぎって さらに少しくだって ついにちらりと あの泉がのぞくところへ。」と歌った箇所を指す。「音楽」は32節目の素材を再びここで奏でるのではなく、主に26節目の7度跳躍のモティーフに基づいている。ヴァイオリンのF5-G4-F5のモティーフと、フルートのG4-F5のモティーフは10節目のヴァイオリンに由来する。ピアノのA5-G♭6-G5のモティーフとB♭4-E♭5の和音は26節目のピアノと同じだ。ヴィブラフォンのF5によるアタックは10、11節目のピアノのC5のアタックを再現したものだろう。ヴィオラとチェロの開放弦による4度跳躍のモティーフは33節目、6-9小節目のチェロによる開放弦での4度跳躍のモティーフの変化形とみなされる。35節目の「音楽」は既出のモティーフの再現とそのヴァリアントで構成されていることがわかる。