あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(17)-2 フェルドマンの最晩年の楽曲

36 As before or only very slightly varied. さっきの音楽をそのまま、または少し変えて、繰り返す
 「言葉」は「Again. もう一度。」と「音楽」に音楽を懇願する。「音楽」は指示された通りに「さっきの音楽」、つまり35節目の音楽を「少し変えて」繰り返す。ここでも7度跳躍のモティーフが中心を担うことに変わりないが、今度はピアノが1オクターヴ上のF6-G5-F6でこのモティーフを担う。ヴィブラフォンのF5のアタックは長2度上のG5に変わる。弦楽はより簡素になり、ヴァイオリンとヴィオラがA5を、チェロは開放弦でA3を引きのばす。このままこの劇も音楽も静かに幕を閉じるのだろうという予想を裏切り、最後(スコアp. 14, mm. 2-3)にフルートのE♭4-D♭5、ヴァイオリンの開放弦G♭4、ヴィオラのA♭3、チェロのC♭3による和音が一瞬だけ鳴り響く。その余韻の中で、もう1度だけピアノが7度跳躍のモティーフを奏でて終わる。そして「言葉」は「Deep sigh 深いため息」をつく。

 「Words and Music」の中では、フェルドマンはこのラジオドラマの音楽を担当した作曲家であると同時に、彼は「音楽」の役柄とそこの記された指示を通して、間接的ではあるが劇の中で自身の役柄を演じている。彼自身も「私はこの劇の中の登場人物で、ここでの私は背景としての音楽ではない。I’m a character in a play; I’m not background music here.」[22]と語っている。リンク先の録音を聴くと、劇中で音楽は然るべきタイミングと長さで台本に合致しているように感じる。このことを問われたフェルドマンは次のように語っている。

そうですとも、私が行ったのはそういうこと(訳注:台本と音楽がぴったり合っていること)です。でも、台本に合わせて音楽を測った訳ではなくて、自分自身の尺度に合わせて、最初の寄せ集めの部分(訳注:スコアの4節目)を作りました。これが本質的な意味での私による、私の雰囲気です。雰 囲 気なのです。そして、音楽的な観点で、直接的ではないにせよ、私はその雰囲気の中でシンメトリーやアシンメトリーを作ろうとしました。彼(訳注:ベケット)のリズムや足取りを私に教えてくれたのは最初の部分だけです。(中略)私は自分にこう言い聞かせました。彼が私の足取りと対立しませんように。彼がそんなことをしませんように。どうか彼が――これがベケットの足取りだと感じました。それは私の足取りでもあると同時に、私のではないとも思いました。私にしては速すぎたのです。

Yes, well, that’s what I did. No, I didn’t measure it to the text, but I created a composite line of the first line to my scale, which was essentially my, my air. A I R. And then, musically I tried to work within it, its symmetries or asymmetries, but not that directly. It was only the first line that gave me his rhythm and pacing. And then, hopefully, I felt that I would have a sense of the same proportion that he does. And I was right actually. (…) I said to myself, I hope he doesn’t fight my pacing, I hope he doesn’t, I hope he – I felt it was Beckett’s pacing. I felt it was my pacing also at the same time it wasn’t my pacing; it was faster.[23]

 台本の長さと音楽との関係を厳密に測ったわけではなく、フェルドマンは自分の尺度で音楽を書いた。2つの異なる速度――ベケットの「足取り」とフェルドマンの「足取り」――が劇中で互いに対立することがないよう注意が払われていたようだ。

 このラジオドラマで実際に言葉を発するのはクロウクと「言葉」のみだが、彼らのやり取りに入り込んでいくにつれ、「音楽」がまるで言葉を獲得したかのような錯覚に陥る。だが、劇中で「音楽」に割り当てられた音楽は決して逐語的な表現ではない。しかし、比較的簡素な数々のモティーフの中に、叙情性、官能性、あたたかみ、冷淡さなど、様々な表情や感情が感じられる。高い抽象性を特徴とするフェルドマンの音楽にもかかわらず、こうした聴き方や解釈ができるのも「言葉」が発する言葉や、ベケットが書いた「音楽」への指示のおかげなのだろうか。例えば先にそれぞれの節において指摘したように、8節目「愛の音楽らしく甘い、表情たっぷりの音楽」、10節目「《愛》と《魂》の音楽」、26節目「うっとりと感傷的な《顔》の音楽」では、普段の彼の楽曲にはあまり聴くことのできないロマンティックで美しいモティーフを書いている。フェルドマンへのインタヴューを行なったFrostも「Words and Music」の音楽における慣習的な意味での「美しさ」を指摘している。[24]彼の指摘に対してフェルドマンは次のように述べている。

「とても美しい」と表現したいですね。それはたった一種類の美ではありません。なぜなら、いわば、旋律が常に様々な変化を遂げているので美の程度も様々でした。それは本当に様々な方法で現れます。時には控えめに、くつろいだ雰囲気で、また、ある時には少しばかりあたたかみを感じさせます。終わりの場面では、いささか官能的な和声を突発的に書いてしまいましたが、フルートの旋律は何にも遮られません。物事が単に違う方法で何度も何度も繰り返される事態を変化によって回避しています。こうすることで新しい何かがもたらされます――飛躍へとつながるのです。情緒的な飛躍です――これから聴こうとしている変化のことです。

I would use term ‘very beautiful’. It was not one type of beauty. It was different levels because the tune, so to speak, goes through different metamorphoses all the time. It appears in different, different ways. Sometimes distant and laid back, other times, a little warmer. And what happens at the end is I just burst out with a little more sensual harmony, nothing to interrupt the flute line, and then the modulation takes it away from just the repeating of the thing in different ways over and over again. It gives you a new – it adds to the leap. The emotional leap — the modulation, which you’re going to hear.[25]

「いささか官能的な和声」はおそらく35、36節目の弦楽による和音を指しているのだろう。フェルドマンは美の度合いや種類を単純なモティーフや旋律の微かな変化で描こうとしていた。音楽が微かに変化することで、そこからもたらされる情緒も変化する。彼はこの情緒の変化を「飛躍」とみなした。彼は、情緒の内容や特性よりも、どのような音楽的効果が情緒に変化をもたらすのかに興味を持っていたのかもしれない。劇中でしばしば聴こえてくる7度の反復的なモティーフは、他のパートが奏でる和音の響きを背景に様々な表情を見せる。

 「Words and Music」において「言葉」は語るだけでなく歌わないといけない。ここでの言葉と音楽の関係は、オペラや歌曲における言葉と音楽との関係とは少し違う。音楽は言葉を運ぶのではなく、音楽が言葉を誘導する。その様子は劇中で「音楽」が「言葉」に何度も繰り返しながら旋律を導く様子に表れている。両者の関係は言葉の内容や心情を音楽で代弁することを目的にしておらず、劇中の「音楽」が「言葉」に言い方や話し方を諭している。それが結果として歌のような節回しとなる。「Words and Music」は「言葉」と「音楽」が各自の役割や特性を交換する様子を見せてくれる作品だともいえるだろう。

 「Words and Music」は1987年3月9、10日にニューヨークのRCAスタジオ(現BMG)で録音された。[25]「言葉」役をデイヴィッド・ウォリローが、クロウク役をアルヴィン・エプスタインが務めた。どちらもベケットの演劇作品には欠かせない俳優だ。ニルス・ヴィゲランドの指揮のもと、バニータ・マーカスらによるバワリー・アンサンブル Bowery Ensembleが「音楽」として演奏した。この時の録音は1989年にNPR(National Public Radio)で放送された。

次のセクションではフェルドマンがベケットに捧げた小編成のオーケストラ曲「For Samuel Beckett」(1987)と、彼の生涯最期の曲となった「Piano, Violin, Viola, Cello」(1987)から、彼の音楽がさらなる新境地へ踏み出そうとしていた様子をたどる。


[1] Morton Feldman Says: Selected Interviews and Lectures 1964-1987, Edited by Chris Villars, London: Hyphen Press, 2006, p. 273
[2] John. S. Beckett https://www.bach-cantatas.com/Bio/Beckett-John.htm
[3] Humphrey Searle http://www.musicweb-international.com/searle/index.htm
[4] Marjorie Perloff http://marjorieperloff.blog/essays/beckett-feldman/
[5] Feldman 2006, op. cit., p. 229
[6] Ibid., p. 230
[7] Ibid., p. 230
[8] Ibid., p. 230
[9]「言葉と音楽」注、『ベスト・オブ・ベケット 3 しあわせな日々 芝居』安藤信也、高橋康也訳、白水社:東京、1991年、184頁。
[10] Catharine Laws, “Music in Words and Music: Feldman’s Response to Beckett’s Play,” Aujourd’hui, Vol. 11, SAMUEL BECKETT: ENDLESSNESS IN THE YEAR 2000, / SAMUEL BECKETT: FIN SANS FIN EN L’AN 2000 (2001), p. 279
[11] サミュエル・ベケット「言葉と音楽」、『ベスト・オブ・ベケット 3 しあわせな日々 芝居』安藤信也、高橋康也訳、白水社:東京、1991年、97-117頁。
[12] 前掲書、101頁。
[13] Samuel Beckett, “Words and Music,” Samuel Beckett : The Collected Shorter Plays, New York: Grove Press, 1984, p. 127
[14] Catharine Laws, “Music in Words and Music: Feldman’s Response to Beckett’s Play,” Aujourd’hui, Vol. 11, SAMUEL BECKETT: ENDLESSNESS IN THE YEAR 2000, / SAMUEL BECKETT: FIN SANS FIN EN L’AN 2000 (2001), p. 281
[15] Ibid., p. 281
[16] Ibid., p. 281
[17] Feldman 2006, op. cit., p. 233
[18] 音画法 word painting, Tonmarelei ルネサンス後期の多声音楽、特にマドリガーレで用いられていた技法に端を発する。旋律や音形で言葉や情景を描く技法。
[19] Ibid., p. 237
[20] 日本語訳には訳註として「アロールート」は「ビスケットの一種」、「トディー」は「ウィスキーを入れた砂糖湯。寝る前に飲む。」と説明されている。(ベケット「言葉と音楽」184-185頁。)
[21] 安藤信也、高橋康也「言葉と音楽」解題、199頁。
[22] Feldman 2006, op. cit., p. 237
[23] Ibid., p. 236
[24] Ibid., p. 238
[25] Ibid., p. 238
[26] Ibid., p. 230

高橋智子
1978年仙台市生まれ。Joy DivisionとNew Orderが好きな音楽学者。
(次回掲載は10月28日の予定です)