あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(17)-3 フェルドマンの最晩年の楽曲

 フェルドマンの音楽では、部分の有機的な総体として完成される全体像を端から前提としていない。同類のものを少しずつ変形させながら連ねていくことで1つの曲ができているので、論理的、物語的なつながりや展開はここでは求められていない。彼の音楽では、ある出来事の後にどんな種類の出来事も連なることができる。1987年のミッデルブルクでの講義でフェルドマンはこのような状態を「悪魔のジグソーパズル a diabolical jigsaw puzzle」[3]と呼んでいる。「悪魔のジグソーパズル」では、「全てのピースが別のピースにはまるが、せっかく時間を費やしてパズルをやっていたのに、それが絵になっていない!と気付いてしまう。だが、たしかに全てが何かしらのピースにはまる。where every piece fits into another piece but after you’ve spent all that time making a jigsaw puzzle you see that it’s not the picture!」[4]。このように、どんなに一生懸命やっても何をも達成せず、時間と労力が水泡に帰してしまうのが悪魔のジグソーパズルだ。しかし、フェルドマンにとって、どんなピース同士もはまるが、1つの絵柄を完成させることのできない悪魔のジグソーパズルはそれほど悪いものではなかったようだ。なぜなら、フェルドマンのジグゾーパズルはどんなピースもはまるだけでなく[5]、「結局のところ、最終的にピース間の関係は、並置という意味で私が掌握している可能性全てを網羅している The connection finally, afterwards, is the connection of the whole gamut of the possibilities I have in terms of juxtaposition」[6]からだ。彼の発言は、パズルのピースによる無限の組み合わせの可能性を示唆している。彼は論理的なつながりや全体像を意識せず、おそらく直感と記憶に頼って曲中の素材を置いていったのだろう。彼のパズルの中ではどんなピースもなんとなくはまってしまい、どんな前後関係も許容される。

 この曲を構成するパズルのピースのどれもが均質というわけではなく、明らかに聴き手の注意をひく異質なピースの混入が認められる。和音の行き交わしの合間に聴こえるピアノによる4音のアルペジオ風のモティーフや、曲の後半にほんの一瞬、何度か現れるチェロによるピツィカート等がそれに該当するだろう。なかでも興味深いのがピアノによるドビュッシー風のモティーフだ。音楽批評家のアレックス・ロスは2006年にNew Yorkerに寄稿した記事の中でドビュッシーの『Préludes 前奏曲集』第1集、第6番「Des pas sur la neige 雪の上の足跡」(1909-10)からの借用を指摘している。[7] 彼の指摘通り、「Des pas sur la neige」の曲全体を覆う、憂いを秘めたシンコペーションによく似たモティーフが「Piano, Violin, Viola, Cello」の中で幾度となく聴こえてくる。

Debussy/ Des pas sur la neige (前奏曲集第1巻、第6番)

 筆者が調べた範囲内では、フェルドマンはこの曲でのドビュッシーからの借用について自身の著述や講義等でほとんど言及していない。だが、彼は普段からインタヴューや講演などでドビュッシーを引き合いに出すこともあり、ドビュッシーの楽曲を教材や課題として大学の講義やレッスンでも用いていたようだ。例えば、1984年のダルムシュタット夏季現代音楽講習会での講義の中で、彼はドビュッシーの弦楽四重奏曲をバッファロー大学の学生への課題として与えたエピソードを語っている。[8] この講義において彼は、ドビュッシーのピアノ練習曲のとある曲はABA形式だが、BがAと全く関係ない点で興味深いとも言っている。[9]

 「Piano, Violin, Viola, Cello」の作曲の過程でフェルドマンがこのモティーフをどのように着想したのかは明らかでないが、このモティーフは一面的なテクスチュアの中で注意をひく存在のひとつであることは間違いないだろう。ドビュッシーの「Des pas sur la neige」のシンコペーションのモティーフはD4-E4(長2度)とE4-F3(短2度)の2つ(曲の終わりではD6-E6とE6-F6)からできている。とても簡素なモティーフだ。「Piano, Violin, Viola, Cello」におけるドビュッシー風モティーフは音高の異なる3種類−①左手E♭4-F4/右手G♭4 ②左手D♭4-E♭4/右手F♭4 ③左手F4-G4/右手A♭4−として曲中に現れる。3つのうちどれもが左手の高音部と右手との音程が短2度であることから、ドビュッシーの「Des pas sur la neige」の2つのモティーフの中でもE4-F3とより近い関係だといえる。

 ピアノによるドビュッシー風モティーフが現れる箇所は次の通りである。リンク先の動画ではスコアのページ数と小節数を把握しにくいため、該当箇所の時間を記した。

[Pianos, Violin, Viola, Celloにおけるドビュッシー風モティーフ]
17分48秒, 18分13秒
20分18秒, 20分46秒, 21分37秒, 23分36秒, 24分2秒
30分13秒, 31分30秒, 33分31秒, 35分45秒, 36分2秒
41分44秒, 42分30秒, 48分20秒
54分44秒
1時間1分58秒

 ドビュッシー風のモティーフは全部で17回登場する。上記から、曲全体に満遍なくこのモティーフがちりばめられているが、特に曲が始まってから20分台、30分台に集中し、およそ90秒間隔で現れる傾向がある。ピアノだけで演奏されるせいか、このモティーフが鳴っている束の間、そこだけ空白になり、この曲の静けさがさらに際立っているようにも感じられる。

 ピアノによるドビュッシー風モティーフが初めて現れるのは曲の始まりから17分48秒頃。その直前の17分20秒頃から、弦楽器による類似したモティーフが8小節間に渡って展開される。この間の弦楽器の各パートの音の動きをたどると、チェロとヴィオラがまとまって動いている様子がわかる。チェロの音高は開放弦でのD♭3、E♭3、E♭2の3音、ヴィオラの音高はE♭4、D♭4、D♭5の3音。これら2パートは長2度(D♭- E♭など)か、その転回音程の短7度(E♭-D♭)の重なりで動いている。ヴィオラとチェロの2音からの呼びかけに答えるヴァイオリンはG♭6、開放弦でのE6、E♭6の3音。ヴィオラとヴァイオリンの音程は登場順にE♭4- G♭6による短3度(E♭4- G♭6を1オクターヴ内で数えた場合。また、G♭をF#に読み替えると増2度)、D♭4-E6による増2度の2種類。実際には音域が離れているが、このような比較的狭い音程で弦楽器の各パートが結び付いている。これら一連の弦楽器の動きは、直後に続くピアノによるドビュッシー風モティーフの予兆として、あるいは、この弦楽器の動きからドビュッシー風モティーフが派生したのではないかとも推測できる。弦楽器によるこのモティーフはその後、37分15秒、40分48秒、43分36秒地点で、1〜2小節の短い単位で何度か登場する。19分30秒頃からは、この弦楽器のモティーフのリズムを逆行させて、ヴァイオリンに続いてヴィオラとチェロが鳴るパターンが8小節間展開される。リズムが逆行したモティーフもピアノによるドビュッシー風モティーフと近い関係にあるといえる。この8小節間は47分56秒にも現れる。

 他にも着目すべきモティーフや視点がこの曲には沢山あるが、今回は曲の間中、どこかしこで聴こえてくるドビュッシー風モティーフに焦点を当てた。既に何度か述べているように、単純で短いモティーフが微かに変えられて様々な種類や方法で何度も登場するのはフェルドマンの後期の楽曲の大きな特徴である。「For Samuel Beckett」からの連続として「Piano, Violin, Viola, Cello」を捉えると、フェルドマンはさらに抽象的で抑制された、しかしどこかの地点で聴き手の注意をひく音楽を書こうとしていたのではないかと考えられる。このような音楽が彼の新たな様式の端緒となったはずだ。「Piano, Violin, Viola, Cello」が最期の曲になってしまったのは、やはりどう考えても惜しい。「Piano, Violin, Viola, Cello」の最後はピアノがB♭3-B3-C4-D♭4-B♭3-B3-C4の6音を弾いてあっけなく終わる。これに続いて再び弦楽器による応答を期待してしまうが、それは聴こえてこない。最後の1小節には全休符が書かれているわけでもなく空白だ。

 次回は彼の音楽がその後の音楽にもたらした影響について解説する予定である。

高橋智子
1978年仙台市生まれ。Joy DivisionとNew Orderが好きな音楽学者。
(次回掲載は11月18日の予定です)


[1] Morton Feldman Says: Selected Interviews and Lectures 1964-1987, Edited by Chris Villars, London: Hyphen Press, 2006, p. 239
[2] UE社のサイトの解説には6音の集合と記されているが、スコアを精査したところ本文に記載した7音が確認されたので本稿では7音とした。
[3] Martin Hufner, “Work Introduction for “For Samuel Beckett”” https://www.universaledition.com/morton-feldman-220/works/for-samuel-beckett-2517
[4] Morton Feldman, Words on Music: Lectures and Conversations/Worte über Musik: Vorträge und Gespräche, edited by Raoul Mörchen, Band Ⅰ&Ⅱ, Köln: MusikTexte, 2008, p. 710
[5] Ibid., p. 710
[6] Ibid., p. 710
[7] Ibid., p. 710
[8] Alex Ross, “American Sublime, Morton Feldman’s mysterious musical landscape,” The New Yorker, June 11, 2006 https://www.newyorker.com/magazine/2006/06/19/american-sublime
[9] Morton Feldman Says: Selected Interviews and Lectures 1964-1987, Edited by Chris Villars, London: Hyphen Press, 2006, p. 206
[10] Ibid., p. 206 曲の構成から、ここでフェルドマンが頭に描いていたドビュッシーの『Douze Études(ピアノのための12の練習曲集)』の中の1曲は第12番「Pour les accords(和音のために)」(1913)だと思われる。