あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(17)-3 フェルドマンの最晩年の楽曲

文:高橋智子

3 最期の楽曲 「For Samuel Beckett」(1987)と「Piano, Violin, Viola, Cello」(1987)

 「Words and Music」の後、フェルドマンはもう1つ、ベケットにまつわる曲を書いた。それが1987年のホランド・フェスティヴァルから委嘱された「For Samuel Beckett」である。1987年3月10日、「Words and Music」ラジオ放送用のレコーディング中に行われたインタヴューの最後で、フェルドマンは「ホランド・フェスティヴァルのためものを仕上げているところです。 I’m finishing something up for the Holland Festival」[1]と発言しており、2つの曲がほとんど間を置かずに作曲されたことがわかる。もしかしたら、フェルドマンが2つの曲を同時進行で作曲していた可能性もある。だが、この曲にベケットの名前を付した理由を彼ははっきり語っていない。1つ前のセクションで解説した「Words and Music」がフェルドマンにとって音楽と表現、言葉、情緒との関係を再考するきっかけとなり、フェルドマン最晩年の新境地を切り拓いたことを考えると、「For Samuel Beckett」作曲中の彼の頭の中には常にベケットの存在があったのかもしれない。編成は23人の奏者のための室内アンサンブル。演奏時間は約55分。「For Samuel Beckett」はフェルドマンが生涯のうちで書いた最後から2番目の曲だ。

Feldman/ For Samuel Beckett (1987)

UE/ https://www.universaledition.com/morton-feldman-220/works/for-samuel-beckett-2517

 当然ながら「For Samuel Beckett」はラジオドラマの音楽として作曲された「Words and Music」と様式や書法の点で異なる。音色の可能性を追求した1985年のフェルドマン最後のフル・オーケストラ曲「Coptic Light」の様式を踏襲しつつ、「For Samuel Beckett」はさらに高度な抽象性を獲得しているように思われる。この曲について特筆すべき事柄をひとつあげるとすれば「何も起こらない」ことだろう。数々の楽器の音色が絶えず鳴り響き、ダイナミクスも常に変化しながら曲は進むのだが、これと言った出来事は何も起こらない。この曲に限らず、フェルドマンのこれまでの楽曲における起承転結や物語的な性質の著しい欠如はそれほど珍しくなく、むしろ、このような「何も起こらない、進まない」性質が特徴のひとつとされてきた。とはいえ「For Samuel Beckett」の「何も起こらない」状況は彼の他の楽曲と比べても一線を画しており、フェルドマンはこの曲で「何も起こらない音楽」の極致に達している。例えば1950年代の音の少ないテクスチュアのピアノ独奏曲「Variations」(1951)には、pppやpppppといった微弱なダイナミクスで打鍵される音と次の音との間隔が開いているので空(くう)や無を感じることがあった。この曲では音が鳴っているにもかかわらず静けさや沈黙が際立っている。「何も起こらない音楽」としての「For Samuel Beckett」が他と異なる点は、この曲のスコアのどのページのどのパートにも音符が満遍なく記されていて、約1時間の間ずっと音が鳴り響くのに、それでもなお「何も起こらない」ように聴こえることだ。

 スコアは全67ページ。テンポは♩=63-66。編成は管楽器、弦楽5部、ハープ、ピアノ、打楽器の23人の奏者による室内アンサンブル、または小規模なオーケストラ。この曲でも譜表の1段を規則正しく9小節に分割したグリッドの方法が採られている。「String Quartet No. 2」(1983)や「For Philip Guston」(1984)などのパートごとに異なる拍子が記される楽曲と違い、「For Samuel Beckett」は全てのパートが一斉に同じ拍子で演奏する。曲が始まってしばらくは主に7つの音高[1]――F, G, A♭, A, B♭, B, C♭――で楽曲が構成されている。これ以外の音はスコア5ページ目、6-7小節目のトランペットのD♭4-C5、チューバのD2で初めて登場するが、曲の前半は先にあげた7音を中心とし、後半から徐々に音高のパレットが増えていく。しかしながら、スコアを一見して明らかなように、限られた数の音高で曲が構成されているからといって、ヴェーベルンのような音列操作がなされているわけではない。そこには音列技法のような秩序や規則性はなく、決められた範囲内での音高がその都度、音域、音価、音色(パート間の交換)を変えて現れる。このようにしてこの曲は終わりから始まりまでの時間を満たしている。一定の素材を微かに変化させながら繰り返すやり方は、フェルドマンが1970年代後半から熱中した中東の絨毯の染色や織り方に由来している。中東の絨毯は彼の最晩年の音楽にも依然として大きな影響をもたらしていたようだ。

 スコアのレイアウトと同じく、それぞれの楽器群によるグループ――木管楽器、金管楽器、ハープ&ピアノ&ヴィブラフォン、弦楽5部――が同質的なパターンを各グループ内で作り、さらにグループごとにひとまとまりの大きなパターンを形成する。木管楽器、金管楽器、弦楽器のグループは音を引きのばしてヴェールや皮膜を思わせる繊細な響きを作る。残るハープ&ピアノ&ヴィブラフォンのグループは「建てつけられたデクレシェンド “built-in” decrescendo」として、曲全体を通して、すばやく動く一連のパルスをオーケストラの他のグループとの中間地点で刻む。[2] スコア1ページ目から25ページ目までのハープ&ピアノ&ヴィブラフォンの動きを見てみると、ハープは終始、不規則な間隔と長さで単音を鳴らし、ピアノとヴィブラフォンは8分音符のパターンを交互に刻み続け、他のグループによる響きの中で蠢くような効果をもたらしている。これら各グループの役割が曲の始まりから終わるまで大きく変わることはない。おそらく、この曲の「何も起こらない」感覚には2つの要因が考えられる。1つはアンサンブルの各グループの役割が固定されていること。これによって、まるで金太郎飴のように、曲全体でどこをとっても同じような均質なテクスチュアが維持される。もう1つは、一聴してわかるダイナミックな出来事の変化が皆無に等しいこと。これはフェルドマンの他の曲にも多く当てはまるが、同質的な素材を各グループ内で交換することで生じる微かな変化や差異には、スコアを精査しない限り、あるいは注意深く耳を傾けない限りなかなか気付くことができない。今なら「For Samuel Beckett」をアンビエント音楽に類するものとして考えられなくもないだろう。しかし、この曲では人間の演奏による呼吸のような音のうねりが絶えず生成されているため、環境と調和するには生々しすぎるかもしれない。