あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(18)-2 (最終回)フェルドマンの音楽がもたらした影響

 「Feldman」と題されたエッセイの中で、ライヒはまだ若手だった頃の自分にとって、フェルドマンやケージ(1912年生まれのケージはフェルドマンやライヒよりもさらに上の世代)の音楽はシュトックハウゼン、ベリオ、ブーレーズの音楽同様、逃れるべき存在だった[10]と記している。だが、ライヒのフェルドマンに対する印象はある出来事を機に変化する。ライヒが1971年に開催した「Drumming」の私的な演奏会にケージとフェルドマンが聴きに来ていた。フェルドマンがライヒの音楽に関心を持っていた様子は既に本連載の第13回で解説した通りだ。この演奏会後のパーティで、フェルドマンはライヒの「Four Organs」(1970)に強い印象を受けたことを彼に話したという。[11] 以来、ライヒとフェルドマンはたまに顔を合わせるようになった。[12] 実際にフェルドマンは1981年に発表したエッセイ「Crippled Symmetry」の中で、ライヒの「Four Organs」を構成する和音の引きのばしと、これに伴って拡張される拍子を解説している。[13] また、本連載の第16回では、フェルドマン唯一のオルガン曲「Principle Sound」(1981)の作曲に際して、彼がライヒの「Four Organs」(1970)を参照した可能性に触れた。

 ライヒはエッセイ「Feldman」の後半で、特に感銘を受けたフェルドマンの楽曲として「Piano and String Quartet」(1985)、「Turfan Fragments」(1980)をあげている。ライヒから見たフェルドマンは「極めて半音階的な和声、柔らかなダイナミクス、概してゆっくりとした可塑性のあるテンポに「ミニマルな」位相やヴァリエーションの技法を組み合わせることができた was able to combine extremely chromatic harmony, soft dynamics, and generally slow flexible tempos with “minimal” phase and variation techniques」[14] 作曲家だった。先に述べたように、ライヒやグラスの「元祖」ミニマル音楽が舞台作品やオペラなどで新たな様式や技法を開拓し、もはやミニマル音楽の範疇を逸脱し始めていた一方で、80年代以降のフェルドマンは、外野がどう言おうと彼独自の反復技法を独りで追求し続けていたのである。その結果、反復を主体とし、そのプロセスに焦点を当てて楽曲の部分と全体とを等価と見なすミニマル音楽の技法や定義に、偶然にもフェルドマンの後期の音楽が当てはまってしまう。だが、フェルドマンの音楽とミニマル音楽の発端は、時期や年代のみならず各々の背景が異なる。

 フェルドマンの音楽には抽象表現主義絵画の技法と美学、そして70年代後半以降からは中東の絨毯の技法が色濃く影響を与えている。対してミニマル音楽の場合、ヤングとライリーが傾倒したインド音楽の持続音やジャズに由来する即興演奏、12-13世紀の対位法やガーナのエウェ族の太鼓音楽に着想を得たライヒの多声書法、調性と機能和声に基づいたグラスの反復技法など、最小限の素材の配置による構成原理が60年代から美術の分野で台頭してきたミニマル・アートとの共通点として語られるようになった。当初、彼らの音楽は「反復音楽 repetitive music」、「催眠音楽 hypnotic music」と称されていたが、1968年にマイケル・ナイマンが雑誌『The Spectator』に「Minimal Music」[15]と題された演奏会評を寄稿した。それから1970年代初頭にかけて「ミニマル音楽 minimal music」あるいは音楽における「ミニマリズム minimalism」の名称が徐々に広まってくる。「ミニマル音楽」の名称は反復技法を主とする作曲法や楽曲を意味するようになり、アメリカ国内外において様々な派生形が出てきた。かたや1960年代のフェルドマンは音価が不確定な自由な持続の記譜法で試行錯誤していた最中だった。この頃のフェルドマンの楽曲にはリズムや拍節としてはっきりと認識できるパターンや反復の要素は希薄で、むしろ、パターンとその反復に基づかない、流動的で可塑的な時間のあり方を提起する音楽を模索していた。1960年代のフェルドマンの音楽とミニマル音楽との共通点をやや強引にあげるとすれば、どちらも起承転結や弁証法的な論理を前提としない楽曲構造と、その聴取方法を前提としている。フェルドマン自身、ライヒがエッセイの中で名前をあげていた、シュトックハウゼンら、いわゆるダルムシュタット派の作曲家たちへの批判として、このような音楽と聴取方法を提起したとも考えることができる。

 どちらかというと規則的で、時に機械的でもあるミニマル音楽の反復技法は、聴き手が知覚できないほどの微かな差異を生み出す不規則なフェルドマンの反復技法と完全に同じとはいえないが、上に述べた楽曲の構造や聴取に対する考え方が軌を一にしていたのではないだろうか。時系列で考えると、フェルドマンが反復技法を本格的に始めたのは中東の絨毯に没頭していた70年代後半からだ。その頃、既に第一世代のミニマル音楽はミニマルの枠を取り払おうとしていた。フェルドマンの反復と第一世代のミニマル音楽の反復の間には、このような年代の隔たりがある。しばしば語られる、ミニマル音楽とフェルドマンの音楽との親和性や共通項は、1980年代以降のフェルドマンの反復による楽曲が、その「反復」の名の下で60年代、70年代のミニマル音楽を想起させることに発端としているのかもしれない。

 以上、フェルドマンとミニマル音楽の関係を受容と技法の観点から整理した。自分の音楽がミニマル音楽と関係付けられることについて、最後に、フェルドマンの発言を引用する。

もちろん自分の音楽がまばらだともミニマルだとも思っていない。たぶん、太っている人たちが自分のことを太っていると思わないのと同じように!(笑)私も全くそんな風に考えたことがない。ここで私が言っているのは、私について「ミニマリズムの父」のように、またはあれやこれやと書いている記事のことだ。私は自分自身がミニマリストだとは露ほども思っていない。

Naturally, I don’t feel that my music is sparse or minimal, perhaps the way fat people never really feel they’re fat! [laughs] I never really thought of it. I mean, there are articles where I’m like the “father of minimalism”, or such and such. I certainly don’t consider myself a minimalist at all.[16]

 フェルドマンはいつのまにか自分が「ミニマリズムの父」にされてしまったことを「太っている人が…」のジョークを交えながら諧謔的に語っている。自分がミニマリストである自覚はないものの、「ミニマリズムの父」と呼ばれることに対してフェルドマンがまんざらでもなさそうにも見えるのは、穿った見方だろうか。

 フェルドマンの音楽とミニマル音楽との関係以外に、没後、フェルドマンの音楽は環境音楽またはアンビエント音楽の文脈で再評価されている。これはクラシック音楽や現代音楽の文脈に限ったことではない。唯一のテープ音楽「Intersection for Magnetic Tape」(1953)を除いてフェルドマンの楽曲のほとんどが人間による楽器演奏か歌唱だが、アンビエント・テクノやエレクトロニカの領域でもフェルドマンの音楽がしばしば参照されている。この現象の理由と背景には、ミニマル音楽との関わりと同じく、フェルドマンの音楽のいくつかの側面が環境音楽やエレクトロニカと共通している、あるいはこれらの音楽のルーツとみなされていることが考えられる。例えば、ブライアン・イーノを起点とする環境音楽の歴史を解説した記事[17]では、サティの「musique d’ameublement(家具の音楽)」(1917, 1920, 1923)から始まり、ケージ、ヤング、ライヒの音楽、物語性を放棄した実験映画やエクスパンデット・シネマ(拡張映画)[18]、フェルドマンの図形楽譜、AMMとThe Scratch Orchestraの集団即興にその起源を求めている。これらの音楽や映画に共通する傾向は次のようにまとめられている。「ここに通底するのは実験と偶然性だけでなく、日常生活の仕組みを理解する環境意識の一部としての表現でも一貫している There’s a through-line here of experiment and chance, but also of expression as part of an environmental consciousness, understanding the architectures of everyday life」[19]。このまとめはやや大雑把だが、実験と偶然性(フェルドマンの図形楽譜は厳密には偶然性ではなくて不確定性)から成り、聴き手や鑑賞者の意識を否応なく環境に向けさせる音楽や映像はたしかにイーノ以前から数多く存在していた。この記事では環境音楽の系譜にフェルドマンが位置付けられている。

 エレクトロニカの領域では、フェルドマン後期の長時間の楽曲から着想を得た音楽家の例もあげられる。ブルックリンを拠点とするケネス・キルシュナー[20]は1990年代後半からから日付をタイトルにした楽曲のシリーズを作っている。[21]そのうちのいくつかにはフェルドマンの楽曲への言及や引用など直接的なつながりが見られる。彼が1997年に作った「May 3, 1997」はフェルドマンの「Piano and String Quartet」をピアノとシンセサイザーで再構成した作品だ。フェルドマンのこの曲を聴いた彼は、この曲の複雑さと非凡さに圧倒されつつ、「この曲を模倣する、不器用ながらも飽くなき試みの中で、何かの拍子で興味深いことや新しさを見つけられたら the hope is that in my endless, bumbling attempts to mimic it, I might occasionally stumble onto something interesting or new」[22]という希望を抱いていたようだ。「May 3, 1997」にはピアノのアルペジオをそのまま鳴らす瞬間もあれば、エフェクターなどによって変調された音響がしばらく続けられる場面もある。プリペアド・ピアノを思わせる打楽器的な音色も頻繁に用いられている。弦楽四重奏のパートから抽出したと思われる音は原型がわからないほど加工されていることが多い。キルシュナーがシンセサイザーなどを用いて生成した効果音やノイズがこれらの音を覆う。この曲がフィールド・レコーディングによる音を用いているかは定かでないが、時折、自然環境の音を思わせるような音響も聴こえてくる。

Kenneth Kirschner/ May 3, 1997 (1997)