あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(18)-2 (最終回)フェルドマンの音楽がもたらした影響

 フェルドマンへの直接的な言及はないものの、キルシュナーの「October 13, 2012」にもフェルドマンからのなんらかの影響が感じられる。その理由の1つとして時間の長さがあげられる。長時間の録音によるパッケージ化が可能となった現在、区切りなく収録されている長い曲はそれほど珍しくもないが、約2時間7分続くこの曲の長さも、フェルドマン後期の長い曲と少なからず結びついているのではないかと考えられる。弦楽の持続音や刹那的な身振りが電子音響とともにいく度となく立ち現れて、2時間7分の時間を満たす。曲中に劇的な展開や変化は起こらず、その都度、響きが生じて消えていく過程が延々と繰り返される。どこかを目指して進む方向感覚が欠如したこの一連の過程は、フェルドマン最晩年の「For Samuel Beckett」(1987)が喚起する「何も起こらない音楽」と非常によく似ている。

Kenneth Kirschner/ October 13, 2012 (2012)

 もちろん、フェルドマンの音楽が同時代や後世にもたらした影響はミニマル音楽や環境音楽の領域に限らない。フェルドマンの情報がまとめられているウェブサイト「Morton Feldman Page」にはフェルドマンへのオマージュ曲や、先に紹介したキルシュナーのように彼の音楽から着想を得た楽曲が一覧できる「Morton Feldman Music Homages」(https://www.cnvill.net/mfhomage.htm)。電子音楽やエレクトロニカの音楽家たちはフェルドマンの音楽の抽象的な音響に焦点を当てている傾向があるが、器楽曲や声楽曲のいわゆる現代音楽の作曲家たちは別の側面からフェルドマン音楽を捉えているように見える。これから紹介する曲のいくつかは不確定性、長短2度と7度の音程、微弱なダイナミクス、ヴィブラフォン、チェレスタ、ピアノなどフェルドマンが特に好んだ楽器といった、彼の音楽の技法や様式に着目している。フェルドマンの特定の楽曲から触発された例もあり、オマージュの方法は様々だ。

 ケージの偶然性の音楽と並び、フェルドマンが1950年代に実践した図形楽譜は同時代とその後の音楽家や音響詩の詩人に影響を与えた。ジャクソン・マック・ロウ Jackson Mac Lowの「Lucas 1-29 (In Memoriam Morton Feldman)」(1990)は楽器が指定されておらず、1人かそれ以上の奏者で演奏される。この曲は曲の各部分が偶然性で決定され、演奏の際には演奏者がリュカ数――1, 3, 4, 7, 11, 18, 29(すなわち 1+3=4, 3+4=7など)――に基づいて曲の構成を決める[23]。演奏の結果が演奏ごとに変わる点で、この曲には不確定性も介在している。

Jackson Mac Low/ Lucas 1-29 (In Memoriam Morton Feldman) (1990)

 フェルドマンの特定の楽曲から着想を得た楽曲もある。オランダの作曲家で詩人、ロザリー・ヒルス Rozalie Hirs[24]の打楽器独奏曲「Transarctic Buddha」(2000)は、フェルドマンの打楽器独奏曲「The King of Denmark」(1965)への応答として作曲された。フェルドマンは「The King of Denmark」でマレットやスティック類の使用を禁じ、全て演奏者の手指で演奏するよう指示したが、ヒルスの「Transarctic Buddha」はマレットを使ってヴィブラフォン、グロッケンシュピール、アンティーク・シンバル、カウベルが鳴らされ、硬質な響きを特徴としている。

Rozalie Hirs/ Transarctic Buddha (2000)

演奏の様子

 ドイツの作曲家でアーティストのフロリアン・ヴィッテンブルク Florian Wittenburg[25]はフェルドマンのチェロとピアノのための「Patterns in a Chromatic Field」(1982)からタイトルを引用し、7つの部分で構成されるピアノ独奏曲「Patterns in a Chromatic Field I-VII – IM Morton Feldman」(2008-2009)を書いた。フェルドマンの「Patterns in a Chromatic Field」は半音階的なモティーフによる慌ただしい繰り返しで始まる。その始まり方は、まるでこの曲がどこか途中の部分から切り取ってきたかのような、突拍子もない印象を与える。約90分におよぶ演奏時間の中で、チェロの蠢く半音階的なモティーフ、曲の進行を止めるかのようなチェロのピツィカートやピアノのアルペジオ、鋭い響きのピアノの和音、チェロとピアノの呼び交わしなど様々な出来事が脈絡なく繰り広げられる。一方、半音階的に旋回するパターンを用いたフェルドマンと対照的に、ヴィッテンブルクの「Patterns in a Chromatic Field」は半音階的に重ねられたクラスター状の和音が頻出する。激しく打鍵される単音や和音の反復もしばしば登場し、この点に関してもフェルドマンと対照的だ。これら2曲の間では、脈絡なく突発的に次のモティーフやパターンが始まることが共通している。

Florian Wittenburg/ Patterns in a Chromatic Field I-VII – IM Morton Feldman (2008-2009)
Piano *この動画ではI-Ⅳまで。
Feldman/ Patterns in a Chromatic Field(1982)

 ニューヨーク出身の作曲家、オーガスタ・リード・トーマス Augusta Read Thomas[26]の「Six Piano Etudes for Solo Piano」の第5番「Rain at Funeral – Homage to Morton Feldman」は、和音の響きの中から新たなモティーフがゆっくりと姿を表す過程を描いた曲だ。ピアノの鍵盤の端から端までを駆使した極端な跳躍は1950年代前半のフェルドマンのピアノ小品を彷彿とさせる。同時に、和音の響きによってもたらされる陰影のような効果は「Piano」(1977)や「Triadic Memories」(1980)に着想を得たと想像できる。

Augusta Read Thomas/ Piano Etudes (1996-2005): #5 Rain at Funeral – Homage to Morton Feldman

 アルゼンチンの作曲家、マリアーノ・エトキン Mariano Etkin[27]の「Arenas – a la memoria de Morton Feldman」も1950年代前半のフェルドマンのピアノ小品との結びつきを感じさせる。だが、エトキンはフェルドマンの音楽をそのまま引用し、再現したものではないと言っている。[28]彼はフェルドマンの音楽に特徴的な要素と手法を短い曲の中で再構築しようと試みた。タイトルの「Arenas」は「砂」を意味するスペイン語「arena」の複数形。タイトルは、この曲がとても小さな要素の数々でできていることを示唆している。[29]この曲は「これらの要素の特性や『重さ』を損なうことなく、種々に渡る様々な形式、音色、テクスチュア an enormous range of variety in forms, colours and textures, never loosing the properties and “weight” of the components」を特徴とする。エトキンは、フェルドマンならばこのような特性を「大きさ scale」の問題と言っただろうと推測する。[30] また、タイトルの「砂」は時間を計測する道具である砂時計の意味も持つ。

Mariano Etkin/ Arenas- a la memoria de Morton Feldman(1988)

 オーストリアの作曲家ペーター・アブリンガー Peter Ablinger[31]による「Voices and Piano」シリーズ(1998-2003)は録音された様々なベルトルト・ブレヒト、ガートルート・スタイン、毛沢東、ボニー・バーネット、マルティン・ハイデガー、エズラ・パウンドなど様々な分野の21人の話し声と、リアルタイムでのピアノ演奏を組み合わせた楽曲だ。ピアノはそれぞれの人物の声の音高の高低よりも、抑揚、間合い、アクセントを重視して、これらの要素をなぞる。フェルドマンのおそらくレクチャーの録音を素材とした第4番「Morton Feldman」では、ピアノは逐語的に彼の声をなぞるのではなく、彼の話のリズムや話のフレーズの長さにぴったりとくっついて進む。もしもピアノだけを聴いたら、それがフェルドマンの話し声に基づいていると気づかないかもしれないが、話し声と一緒になると、声とピアノが一体となって動いているように聴こえる。ちなみに、筆者にとって最も逐語的に聴こえたのは第6番「Mao Tse-tung(毛沢東)」である。

Peter Ablinger/ Voices and Piano, No. 4 Morton Feldman (1998-2003)