あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(5) 1950年代中期、後期の楽曲

(筆者:高橋智子)

 前回はフェルドマンの図形楽譜による楽曲と同時期に作曲された五線譜による楽曲のいくつかをとりあげた。まばらなテクスチュア、特定の音程の繰り返し、2オクターヴ以上に及ぶ極端な跳躍などを主な特徴としてあげてみたが、彼のこの時期の五線譜の楽曲は謎めいていて、なんとも言い難い。今回は1950年代半ばから後半にかけての作品と、彼の周りに起こった出来事をたどる。

1. ニューヨーク・スクールの離散

 1950年にフェルドマンがケージと同じロウアー・イーストサイドのボザ・マンションに移り住んだことをきっかけに発展した、音楽におけるニューク・スクールのコミュニティは1954年に実にあっさりと終焉を迎える。この年、ボザ・マンションの建物が取り壊されることとなり、フェルドマン、ケージ、カニングハムら、ここの住人たちは引越しを余儀なくされた。フェルドマンとブラウンは引き続きマンハッタンにとどまる一方、ケージはチュードアらとともにマンハッタンから1時間15分ほど離れたロックランド郡ストーニー・ポイントに移り住んだ。ケージらの新たな住まいであるストーニー・ポイントの家はブラック・マウンテン・カレッジ[1]時代からのケージの友人で児童文学作家のヴェラ・ウィリアムズと建築家のポール・ウィリアムズ夫妻が作った芸術家コミューン、ザ・ランド The Landと呼ばれていた[2]。1970年にマンハッタンに戻るまでケージたちはここに住み続けた。フェルドマンはストーニー・ポイントの家にケージを訪ねたことがあるが、視力の悪い彼にとってケージの家に続く急斜面はとても危なかった。このような理由から、フェルドマンがここを訪れたのはたった一度だけだった。[3]このグループの中で一番若い、当時まだ10代だったウォルフはハーヴァード大学で古典文学を学ぶため、やはり彼もマンハッタンを去らなければならなかった。ハーヴァードに進学したウォルフがニューヨークを訪れることができたのは長期休暇に限られていたことから、彼と他のニューヨーク・スクールのメンバーとの直接的な交流も当然ながら以前ほど頻繁にできなくなった。作曲に数学的な思考と方法を用いることに否定的だったフェルドマンと、数学を修めた後にシリンガー・システム[4]による作曲を学んだブラウンとの間に音楽をめぐる諍いがあったものの、ニューヨーク・スクールの離散はバンドの解散理由でよく用いられる「音楽性の違い」ではなく、上記のようなそれぞれの生活や進路の事情で互いに密接に付き合っていた時期の終わりを迎えたのだった。

 後にフェルドマンとブラウンは和解し、1966年にユニヴァーサル・エディションが発行したブラウンの作品カタログにフェルドマンは「アール・ブラウンEarle Brown」と題した文章を寄せている。その中でフェルドマンは自身とブラウンとの音楽家、作曲家としての違いをこのように記している。「私自身とケージによる前衛コミュニティに対する影響は主として哲学的だが、ブラウンによる影響はさらに具体的で実践的だ。 While the influence of Cage and myself on the avant-garde community has been largely philosophical, Brown’s has been more tangible and practical.」[5]1950年代、ブラウンはフェルドマンと同じく新たな記譜法を模索していた。「時間記譜法 time-notation」はブラウンが考案した記譜法とその概念の1つである。時間記譜法では音高、音域、ダイナミクスや演奏法が指定されている。音価に関してはたいていの場合、楽譜上の空間的な長さと配置から読み取って演奏する。このようにして、ブラウンは事前に規定された枠組みの中での柔軟性や曖昧さを実現しようとした。音域と演奏される音の数とタイミングをマス目に記して演奏者を困惑させたフェルドマンの初期の図形楽譜よりも、ブラウンの時間記譜法は、先のフェルドマンの文章の引用にあるように具体的で実践的だといえる。「Music for Cello and Piano」(1955)はブラウンの時間記譜法による最初期の楽曲の1つで、拍子記号は書かれていないが、音価は五線譜に引かれた線の長さから読み取ることができる。チェロとピアノのパートがどのように重なるのかは通常の五線譜と同様に視覚的に把握できる。ブラウンは1967年にアテネで行われた現代音楽祭でフェルドマンの「De Kooning」(1963)を指揮していることからも、ニューヨーク・スクール時代の不和とグループの離散を経てもこの2人の付き合いが続いていたようだ。

Earle Brown/ Music for Cello and Piano (1955)

The Earle Brown Music Foundation
http://www.earle-brown.org/works/view/19

2. やはりなんとも言い難い1950年代中期の楽曲 Three Pieces for Piano(1954)

 ボザ・マンションが取り壊された1954年はフェルドマンの音楽にも変化が見られた年だ。1954年から1957年までの4年間、フェルドマンは即興と混同されがちな図形楽譜での試行錯誤を一旦休止して五線譜による楽曲に専念した。前回とりあげた五線譜によるなんとも言い難いいくつかの楽曲から、半音階的な音高操作、特定の音程(2度と7度、完全5度と4度、完全8度[オクターヴ])の頻出と反復、極端に広い幅での跳躍、散発的なテクスチュアといった1950年代前半の彼の音楽のいくつかの傾向を見出すことができた。基本的に1954年代以降の五線譜による楽曲もこれらの特性を引き継いでいるが、さらなる新たな視点が彼の音楽の理解に必要となってくる。それは音楽的な時間である。あるいはもっと正確にいうならば、その楽曲が内包する時間の特性と、それを演奏者や聴き手として経験する際の特殊な感覚ともいえるだろう。

 フェルドマンの音楽が内包する時間と、この音楽をとおして私たちが経験する時間は従来の音楽的な時間や日常生活の時間とどのような点で異なっているのだろうか。フェルドマンの音楽における時間の特性を探る前に、まずは音楽的な時間についてしばしば用いられる基本的な考え方を参照する。なぜなら、フェルドマンの音楽の時間が今までの音楽における音楽的な時間とどう違い、どの点が特殊で風変わりかを知るには彼の音楽以前の「従来の」または「慣習的な」音楽的な時間の考え方について知る必要があるからだ。やや大局的な話ではあるが、20世紀以降の音楽における時間の特性の解明を試みたKramerは近代西洋社会に根ざす進歩的で合目的な価値観に支えられた線的な時間について次のように述べている。

西洋的な思想は何世紀にも渡って著しく線的だ。原因と結果、進歩、目的志向といた概念が少なくともルネサンス期の人文主義の時代から第一世界大戦までの人間生活のあらゆる側面に浸透してきた。技術、神学、哲学は人間生活を向上させるために追求されてきた。資本主義は少なくとも選ばれし者にとって物質的な向上の枠組みをもたらすために追求されてきた。科学はニュートンとダーウィンによる時間の経過に沿った線的な理論に支配されている。私たちの言語でさえゴールと目的に言及する言葉が幅をきかせている。

Western thought has for several centuries been distinctly linear. Ideas of cause and effect, progress, and goal orientation have pervaded every aspect of human life in the West at least from the Age of Humanism to the First World War. Technologies, theologies, and philosophies have sought to improve human life; capitalism has sought to provide a frame- work for material betterment, at least for the few; science has been dominated by the temporally linear theories of Newton and Darwin; even our languages are pervaded by words that refer to goals and purposes. [6]

 ここで述べられている線的な要素や価値観を音楽に見出そうとするならば、それは西洋芸術音楽の礎ともいえる調性であり、「調性の黄金時代は西洋文化の線的思考の高まりと同期している。Tonality’s golden age coincides with the height of linear thinking in Western culture.」[7]厳密にいうと、調性によってもたらされる動きの感覚はメタファーにすぎず、音楽において実際に動くものとは楽器から発せられる振動と私たちの鼓膜に届く空気の分子である[8]。だが、西洋芸術音楽にある程度親しんでいれば、調性音楽の聴き方を知らず知らずに身につけており、音楽によってもたらされる感覚を前進する動きのメタファーとして認識している。

調性音楽の聴き方を身につけている人々は恒常的な動きを知覚する。それは旋律の中での音の動き、カデンツに向かう和声の動き、リズムと拍子の動き、音量と音色の進行だ。調性音楽は恒常的な緊張状態の変化を扱うので決して静止しない。

People who have learn how to listen to tonal music sense constant motion: motion of tones in a melody, motion of harmonies toward cadences, rhythmic and meter motion, and dynamic and timbral progression. Tonal music is never static because it deals with constant changes of tension.[9]

 旋律の動き、様々なリズム、音色や音量の変化も全てが時間の経過とともに起きる。実際には振動数の差異に過ぎない現象であっても、私たちはこれらの旋律やリズムによる出来事が音楽の中に起きて変化しながら進み、最終的にどこかに落ち着くまでの一連のプロセスを期待している(調性音楽の場合、落ち着きや終わりの感覚はカデンツが担っている)。例えばソナタ形式における展開部や遠隔調への転調など、形式的に予定調和を裏切る出来事が曲の途中に予め仕込まれていることが多いが、それでもほぼ期待を裏切ることなく進み、最終的に落ち着くところに落ち着いて聴き手を安心させてくれる。調性音楽の線的な時間はこのような性格の音楽的な時間と運動の感覚を意味する。だが、無調の音楽とともに線的な時間の感覚が希薄になっていき、どこに行くのかわからない旋律、解決しない和音、規則性を見出すのが難しいリズムによる音楽が20世紀前半頃から現れてくる。これに伴って、線のメタファーで音楽的な時間を語ることが困難になり、円環や点や面のメタファーが音楽的な時間について考える際に用いられるようになる。

 調性音楽の「線的な時間」に対して、Kramerは20世紀の無調以降の音楽における時間の性質をいくつかに分類している。カデンツによる明確な終止感を持たない音楽は「無方向の線的性質 nondirected linearity」[10]による音楽的な時間だ。「複合的な時間 multiple time」[11]は、1つの曲の中にいくつかのプロセスが存在し、それらは目的地を目指すが、その目的地は曲の様々な場所にあるため単一ではない複合的な時間を感じることができる時間を指す。カールハインツ・シュトックハウゼンのモメント形式 Moment formに倣い、独立した断片が起承転結とは違った感覚で始まって止む、あるいは単に起きて休止する時間をKramerは「モメント時間 moment time」[12]とした。進行感覚、志向性、運動それ自体と、いくつかの運動がもたらす対照性の感覚が欠けていて、時間の継続的な推移を遮断する音楽の時間は「垂直的な時間 vertical time」[13]と呼ぶことができる。この垂直的な時間はフェルドマンの音楽にも大いに関係のある概念で、今回とりあげる楽曲のいくつかにも当てはまる。音楽と時間に関する議論では、前進する感覚があまりにも希薄で、茫洋と広がるドローンのような音楽には無時間性という言葉もしばしば使われる。密度の極めて低いテクスチュアや無音の部分が多くを占め、とりたてて何も起こらないのに時間だけは長い音楽や、静謐さを主とする音楽には退屈[14]の概念さえも用いられる。音楽的な時間についての議論は恣意的、主観的、経験的な視点がどうしても入り込んでしまう領域であるが、フェルドマンの音楽のように、何かがおかしいけれどそれが何に起因するのかわからない時や楽譜から読み取れる情報に限界がある場合に参照すると有用な視点であり、音楽を現象として捉える際の一助にもなる考え方だ。

 フェルドマンの音楽に話を戻そう。前回と同じく、ここでとりあげる曲もやはりなんとも言い難い。前回はフェルドマン自身の言説にも度々出てくる「音そのもの」に着目して半音階的な音の操作を探った。ここではまずフェルドマンが散発的なテクスチュアの作風をさらに追求する発端となった「Three Pieces for Piano」(1954)を見ていく。

 「Three Pieces for Piano」の第1曲には1954年3月12日、第2曲には1954年2月、第3曲には1954年10月[15]の日付が記されている。作曲から5年後の1959年3月2日にチュードアのピアノでニューヨーク市のサークル・イン・ザ・スクエア・シアターにて初演された。楽譜はペータース社から1962年に出版された。全3曲とも、この時期のフェルドマンの楽曲に特徴的な演奏指示「ゆっくりと――ほんの少しのペダルかペダルを使わずとても控えめに Slow—very soft with little or no pedal」に即して演奏される。拍子記号は記されていないが、3曲とも1小節あたり16分音符3つ分の音価で揃えられているので3/16拍子と見なすことができる。しかし、後述するように、ここでの3/16拍子の拍子記号と、楽譜に規則正しく引かれた小節線は見方を変えると本来の機能を果たしているとはいえない。

 第1曲は単音を中心としていて、曲中で最も音数の多い19小節目は左手3音、右手3音の計6音からなる和音だが、16分音符1つ分の音価で控えめに打鍵されるため、その密度の高さをそれほど実感できない。右手の最高音が単音で同じ音を反復する箇所が見られるものの(25小節目のG#6と27小節目のG#7、26小節目と28小節目のB4)、それぞれの音は非常に断片的で、フレーズどころか流れや継続性を見出すことが難しい。49-50小節目と53-54小節目に右手がオクターヴでA4とA5を、左手がG3とC4を4音同時に鳴らして曲が終わる。前回、このような曲を表す場合には出来事という言葉が便利だと述べたが、この曲の場合も各々の断片がそれ自体で自己完結した出来事のようにも見える。

 この曲を最もよくわからなくしているのが随所に挿入される全休符の小節、つまり演奏される音が記されていない小節である。この全休符の小節によって、音楽が時間の流れとともに動き、変化を遂げながら発展し、途中で盛り上がりを見せて最後はどこかに落ち着いて終わるという感覚が粉砕されている。この曲は楽譜からは3/16拍子と読み取ることができるが、規則的なリズムの変化はなく、楽譜を見ないで聴いているといつ音が鳴るのか、鳴らないのか、全く予想がつかないので盛り上がるどころか聴き手はむしろ緊張感と不安に襲われる。この曲が内包する音楽的な時間はKramerのいう直線的な時間とは対照的な性質だろう。いつ打鍵されるのかわからない音はそれ自体で完結している刹那的なモメント時間の性質を帯びていると同時に、時間の継続的な推移の感覚を遮断する点で垂直的な時間でもあるといえる。下記に第1曲から3曲までの全休符の挿入を図にまとめた。色のある部分は何かしら音符(装飾音と、音を出さずに打鍵して共鳴させる音も含む)が記されている小節、白い部分は全休符の小節である。出版譜のレイアウトに倣い1段あたりの小節数を6小節とした。

Three Pieces for Piano 音のある小節と全休符の小節

Three Pieces for Piano Ⅰ

123456
789101112
131415161718
192021222324
252627282930
313233343536
373839404142
434445464748
495051525354

Three Pieces for Piano Ⅱ

123456
789101112
131415161718
192021222324
252627282930
313233343536
373839404142
434445464748

Three Pieces for Piano Ⅲ

123456
789101112
131415161718
192021222324
252627282930
313233343536
373839404142
43

 第1曲、第2曲に比べて第3曲は息の長いフレーズが展開されるように見えるが、第3曲も他の2曲同様に断片的な部分が次々と現れるため、実際に聴いていると継続や運動の感覚は希薄である。テンポが遅いので聴き手も演奏者と同じく3/16拍子での32分音符や64音符を正確にカウントできないわけではないものの、自然に音楽の流れに身を任せることのできる3拍子の感覚をこの曲の中でつかむのは簡単ではない。先にも述べたように、この曲では拍子の感覚や小節線がほとんど無効化されているともいえる。規則正しく割り付けられた小節の中に書かれた音符は、全休符に阻まれながらも拍節の感覚を飛び越えようと五線譜の中で試行錯誤しているようだ。

Feldman/ Three Pieces for Piano Ⅰ (1954)
Feldman/ Three Pieces for Piano Ⅱ (1954)
Feldman/ Three Pieces for Piano Ⅲ (1954)

3. 交わらない4つの時間 Piece for 4 Pianos (1957)

 休符に遮られる「Three Pieces for Piano」とは異なり、「Piece for 4 Pianos」は曲の最初から最後まで音が響きわたる。1957年に作曲されたこの曲は同年4月30日にニューヨーク市のカール・フィッシャー・コンサートホールで初演された。この時の4人のピアニストはケージ、ウィリアム・マッセロス、グレーテ・スルタン、チュードア。1962年にペータース社から出版された楽譜には以下のような演奏指示が書いてある。

最初の音は全てのピアノが同時に鳴らす。それぞれの音の持続は演奏者の選択に任せられている。全ての拍はゆっくりだが、必ずしも等しくはない。ダイナミクスは最小限のアタックとともに控えめに。装飾音を速く演奏しすぎてはならない。音と音の間に記された数[16]は休符と同じ意味を持つ。

The first sound with all pianos simultaneously. Durations for each sound are chosen by the performer. All beats are slow and not necessarily equal. Dynamics are low with a minimum of attack. Grace notes should not be played too quickly. Numbers between sounds are equal to silent beats.[17]

Feldman/ Piece for 4 Pianos (1957)
この録音ではフェルドマン自身がピアニストの1人として演奏している。

 フェルドマン自身が清書したと思われる「Piece for 4 Pianos」の出版譜は大譜表5段からなる。上記のとおりテンポは「ゆっくり」以外は明示されていない。拍子記号、小節線も記されていない。ピアノ1、ピアノ2といったパート配分はなく、4人の演奏者全員が同じ楽譜を見て演奏する。装飾音が付された音符と符桁(ふこう:音符と音符をつなぐ桁の部分)でつなげられた音符以外は符尾が記されておらず、音価の不確定な楽譜である。符桁でつなげられた数音のまとまりも1つの音あるいは和音と見なして曲中に現れる音の出来事を数えると全部で62となる。途中で何度か挿入されるフェルマータが曲のいくつかの部分に区切る役割を持っている。このフェルマータは音符だけでなく、何も書かれていない箇所(通常の五線譜では全休符の小節に値する)にも記されており、フェルマータ fermataの本来の意味である「停止」や「休止」に近い用いられ方である(現在、楽典の教科書等ではフェルマータは「その音を十分に長くのばす」と記されていることが多い)。フェルマータをもとにしてこの曲を区切ると5つの部分に分割することができるが、4人の奏者がそれぞれのペースで演奏を進めるため、全休符に値する箇所でのフェルマータであっても完全な無音の状態にはならない。

 曲の中で用いられている音の音高に注目してみると、音の垂直の重なり、つまり和音を形成する音の音程は2度と7度、完全4度と完全5度、増減4度と5度、完全8度(オクターヴ)が頻出する。これらは和音の外声部(その和音を縁取る最高音と最低音)として、あるいは14-18までのDのようにユニゾンで配置されていて、この曲の中でも比較的聴き取りやすい特徴的な音程でもある。ただし、曲が進むにつれて前後の音が混ざり合うため、楽譜を見ながら聴いていてもどの部分が演奏されているのかを特定するのはあまり簡単ではない。

Piece for 4 Pianos 音の一覧

 表の1段目は各音(断片、出来事と呼んでもあるいはよいだろう)の通し番号。2段目は右手、3段目は左手に記された音高。ピアノの鍵盤の真ん中にあたるCをC4とし、音名とともに記された数字は音域を表す。

セクション1

12345678910
G4, A5E4, B4G4, A5E4, B4G4, A5E4, B4G4, A♭5G4, A♭5G4, A♭5G4, A♭5
B♭2B2, F#3, G3B♭2B2, F#3, G3B♭2B2, F#3, G3C4C4C4C4
111213 fermata
C5, C6D5, E♭6 
B0D#3, E3F#2  

セクション2

141516171819202122 fermata23
D5, D6D5, D6D5, D6D5, D6D5, D6 A5B♭3  B♭3C6
D4D4D4D4D4C3F#2   
fermata ×3

セクション3

242526 fermata2728fermata ×4
E6, C7F4, A♭4, E5 C6C5
D#3, A#3A3F#1 E♭2

セクション4

2930313233343536
D#5, D#6F4, G7A5A5A5E♭4, F#5, C#7G#3, E♭6, G5, B3E4, G5
E1, B1 A3A3A3F1, F4, E♭1B♭1F3
3738394041424344
C#6E5, E♭6A#4, C#6E♭5, G5, B5, E7F4, D#5G#5 B♭6, G#4
G#4, A4G#3, A3G#2, B3F#3, C#4, D4A#2, C#3, E3G#3E♭2A3

セクション5

4546474849505152
C5, B3E♭5C5, B3E♭5C5, B3E♭5C5, B3E♭5
D♭2, D♭2, D♭2, D♭2, 
5354fermata ×355fermata ×2
C5, B3E♭5A5
D♭2,  
56575859fermatafermata6061 fermata
A3A4B3, C4, D4F7E5, E6E4, G4, B♭4, F#5
E♭3D♭3G♭2, F3B3F#2, B♭2, D♭3, A3A♭2, C#3, E♭3, G3
62 fermata
 
E2

 前回とりあげた「Piece for Piano 1952」同様、この曲も個々の音の響きの特性を活かす曲である。余計な手を加えずにその音が持つ響きの特性を最大限に発揮させようとする手法はフェルドマンの「音そのもの」を追求する態度を反映している。特に音価の定まっていない自由な持続の楽曲の場合、フェルドマンは個々の音を旋律のようなまとまりを形成する際の部分として見なさず、音の響き自体が楽曲を生成する方法を試みている。フェルドマンはこの考え方と手法を実際に自分の教え子にも説いていたようだ。作曲家のトム・ジョンソンは60年代後半に作曲のレッスンのためフェルドマンのもとに通っていた当時の出来事について書いている。ある時、フェルドマンは彼に「トム、提案がある。しばらく曲を書くな。和声をじっと聴き、それについてただ考えるのだ。そして、和音をいくつか集めて持ってくるのだ。”Tom, I have a suggestion. Don’t write any music for a while. Just listen to harmonies and think about them, and bring me a little collection of chords.”」[18]この課題を出されてからジョンソンは毎日のように試行錯誤を重ねるが、彼が見つけた和音はフェルドマンやストラヴィンスキーや他の作曲家の音楽のように聴こえるものばかりだった。[19]それから2、3週間後にジョンソンは7つの和音を書いてフェルドマンのもとに持って行った。この時書いた7つの和音をもとに、1969年にジョンソンはピアノ曲「Spaces」を作曲している。

それらの和音は全部似たような響きだったが、私は全部気に入っていたし、これを上回る解決策はもう見つからなかった。いささか慄きながらも和音をフェルドマンに見せた。彼はこれらの和音を様々な組み合わせで10回以上弾き、しっかりと聴いていた。それは彼のいつものやり方で、私にも求められているやり方でもあった。最後に彼は視線を上げてこう言った。「悪くないね。これは本当にあなたの音楽だ。あなたはこの小さな練習から多くを学んだのです。」フェルドマンは決して生徒を落胆させなかったが、ほめることもめったになかったので、ここでの彼の肯定的な反応は私にとってはとても意義深かった。

They all sounded similar, but I liked them all, and I couldn’t find any better solution. With some trepidation, I showed my chords to Feldman, who played them over about 10 times in different combinations, really listening, the way he always did, and the way he wanted me to. Finally he looked up and said, “You know, that’s not bad. This is really your music. I think you learned a lot from this little exercise.” Feldman was never discouraging, but he did not pass along compliments very often either, and his positive reaction here was very meaningful to me.[20]

Tom Jonson/ Spaces (1969)

 ジョンソンとのレッスンの中でフェルドマンが様々な配置で和音を10回以上弾きながら吟味する光景は、おそらく「Piece for 4 Pianos」のような音の響きに根ざした曲を作曲する際にも見られたはずだ。フェルドマンの楽曲全体にいえることだが、実際に楽譜を詳細に分析していくと特定の音や音程の強調や、音域やパート間の均衡を取るといった操作が行われていることはこれまでこの連載でも何度か指摘してきた。しかし、上記のエピソードから、フェルドマンの作曲にはやはり直感と身体的な感覚も多くを占めているのだと考えられる。作曲の際にピアノを用いていたフェルドマンにとって、ピアノから発せられる音を聴く聴覚と同じくらい、打鍵する時のタッチも音楽の命運を握るほど大事な要素だったのだろう。楽譜上で音価を明確に規定しないでおけば音のアタックと減衰を成り行きに任せることもできる。「Piece for 4 Pianos」はひとたび放たれた音の成り行きを無理に制御しない、邪魔しない音楽だともいえる。しかも4人の奏者がそれぞれのペースで演奏するため、そこには4つの交わらない時間が並存している。この独特の時間を創出するには、どのように演奏すればよいのだろうか。フェルドマンは次のように答えている。

聴かなければうまくいく。多くの人が耳を傾けがちで、そうすればより効果的な時間に入っていけると思っているのだと私は気付いた。だが、この曲の精神は単に効果的な何かを創出することではない。その音を聴き、それを自分自身の参照点の中でできるだけ自然に、美しく演奏するだけでよい。もしも他の演奏者の音を聴いているならば、この曲のリズムも凡庸になってしまう。

It works better if you don’t listen. I noticed that a lot of people would listen and feel that they could come in at a more effective time. But the spirit of the piece is not to make it just something effective. You’re just to listen to the sounds and play it as naturally and as beautifully as you can within your own references. If you’re listening to the other performers then the piece tends also to become rhythmically conventional.[21]

 もしもお互いを聴きながら演奏すると通常のアンサンブルの楽曲のようになんらかの周期性を持った慣習的なリズムが生まれてしまう。それを避けるために、フェルドマンは4人の演奏者に各自のペースで演奏させた。

 フェルドマンがピアニストとして参加している録音(上記のYouTube音源参照)での演奏時間が7分25秒であることから、テンポも音価も具体的に指定されていないこの曲のおおよその演奏方法が推測できる。出だしの和音は4人全員が揃って弾き、それ以降はそれぞれのペースで次の音に移るため、楽譜にその音が1度しか記されていなくても時間差でその音が4回鳴らされる。例えば、14-18の音の部分ではD4(装飾音)、D5(装飾音)、D6からなるユニゾンとしてDが5回書かれているので、これを4人の奏者がそれぞれ演奏すると全部で20回Dの音が聴こえてくることになる。録音では56秒前後からこの部分が始まる。時間がある人はDがどのように鳴らされているのかDを20回数えながら聴いてみてほしい。さらに余裕があれば、途中から前後の音がどのように混ざっているのかにも注意して聴いてみてほしい。56秒前後からの約40秒間はこの曲の中でも最も不思議な時間を感じられる部分のはずだ。ここでは同じ音が矢継ぎ早に不規則な間隔で鳴らされるため、時間が戻っているのか進んでいるのか、あるいは止まっているのかわからない。この曲でフェルドマンがテープ音楽の方法を参照していた可能性は極めて低いが(1954年にケージ、ブラウンとともにフェルドマン唯一のテープ作品「Intersection for Magnetic Tape」を作った時も乗り気ではなかった[22])、ここで聴こえる音響的な効果はテープを狭い範囲で何度も巻き戻して再生させたものと似ている。時間差で同じ楽譜を演奏するという極めて単純な方法であるものの、「Piece for 4 Pianos」は直線的な時間とは明らかに異なる時間を創出している。Kramerによる分類に倣うならば、この曲には音が打鍵されるたびに時間がリセットされるモメント時間と、運動や志向性の希薄な垂直時間の性質を帯びていて直線的な時間とは明らかに異なっている。4人の奏者がそれぞれのペースで演奏する点で、この曲では複数の独立した時間が展開されるといってもよい。

 複数の演奏者が同じスコアを見て演奏するが、曲を進めるペースが各演奏者に委ねられている曲としてフェルドマンの「Piece for 4 Pianos」よりもはるかによく知られているのがテリー・ライリーの「In C」である。この曲は「Piece for 4 Pianos」の7年後、1964年に作曲、初演された。「In C」は53からなる各モジュールの反復回数が基本的に奏者の任意とされているので複数のモジュールが混ざり合う。「(互いの音を)聴かない方がうまくいく」フェルドマンの場合と異なり、アンサンブルによって得られる音楽的な効果を重視したこの曲では、少なくとも1回か2回はユニゾンの状態を作り出すことが望ましいとされ[23]、他の演奏家を完全に無視して自分の演奏だけに集中することは認められていない。[24]どちらの曲も演奏者がそれぞれのペースで同じ楽譜を演奏する点で共通しているが、フェルドマンの「Piece for 4 Pianos」では4人の演奏者による息のあった共同作業はまったく求められておらず、彼らはむしろ孤独を追求しなければならない。

Terry Riley/ In C(1964)

色々な編成による録音があるが、1968年のコロンビアからリリースされたレコードがこの曲の初録音。ライリーはサックスで参加している。

In Cスコア https://nmbx.newmusicusa.org/terry-rileys-in-c/

 フェルドマンの音楽における時間の感覚と概念は「Piece for 4 Pianos」以降も変化すると同時に、彼の創作に付いて回る重要な事柄である。1960年から始まる符尾のない音符のみによって構成された「Durations」シリーズや「Vertical Thoughts」シリーズといった持続の自由な楽譜による楽曲は、線的な時間の感覚から完全に隔絶された独特の時間の感覚を持っている。1970年代後半から始まる長大な作品もフェルドマンの音楽における独特の時間の感覚に基づいている。時間とともに移ろい、展開する音楽は時間芸術の1つとされているが、フェルドマンの音楽における時間は展開も発展もないことが多いので、従来の考え方を疑うところから始めなくてはならない。今回はそのほんの始まりの部分に触れたに過ぎず、時間の問題はこの連載でこれからも言及する。

4 久しぶりの図形楽譜「Ixion」(1958)

 1953年からの数年間、五線譜の作品に専念していたフェルドマンだが(とはいえ上述の「Piece for 4 Pianos」のように風変わりな五線譜も書いていた)、1958年の「Ixion」をきっかけにして図形楽譜を再開させる。その主な理由をClineは次のように論じている。1つは彼の周りの作曲家たちが不確定性の音楽と図形楽譜に関心を持つようになったことだ。[25]既にケージは「Water Music」(1952)、「Music for Piano 1」(1952)、「Music for Piano 2」(1953)など不確定性や図形楽譜による曲を書いていたが、1957年の「Winter Music」(1957)と「Concert for Piano and Orchestra」(1957-58)でより革新的な方向へと発展する。[26]フェルドマンの創作における精神的支柱の1人でもあったエドガー・ヴァレーズは1957年頃に突然ジャズに目覚めてオクテットによるセッションのための図形楽譜を書いてミュージシャンに配り、ブラウンの主催でそれを実際に演奏するワークショップを行った。[27]アメリカ以外での不確定性や図形楽譜への関心の高まりは、1954年と1956年にチュードアがヨーロッパ・ツアーに出てニューヨーク・スクールのメンバーの作品を演奏したことに起因する。フェルドマンは1950年12月に既に図形楽譜のアイディアをスケッチし、1953年には演奏上の様々な問題を解決できなまま図形楽譜をやめてしまっていたが、その間の世の中の趨勢は彼とは逆の方向に流れていたのだった。

John Cage/ Concert for Piano and Orchestra (1957-58)
Edgard Varèse/ Jazz Workshop (1957)

 もう1つの理由はマース・カニングハムからの音楽の依頼だった。1958年、カニングハムは新しいダンス作品「Summerspace」の音楽をフェルドマンに依頼する。この新作ダンスの舞台美術と衣装はロバート・ラウシェンバーグが手がけた。

Summerspace概要
https://dancecapsules.mercecunningham.org/overview.cfm?capid=46033

Summerspace 2001年に行われた上演の様子 ここでの音楽は2台ピアノ版。
https://dancecapsules.mercecunningham.org/player.cfm?capid=46033&assetid=5702&storeitemid=8832&assetnamenoop=Summerspace+%282008+Atlas+film%29+

Feldman/ Ixion (Ensemble version) (1958)

 マース・カニングハム・ダンスカンパニーのメンバーで、当時ブラウンと結婚していたキャロライン・ブラウンは「Summerspace」初演時の苦労を次のように語っている。「(「Summerspace」は)当時の自分にとって極めて難しい演目だった。—ほとんどがターン、ターンの連続で、私の大嫌いなものばかり!彼(カニングハム)はゆっくりとしたターン、すばやいターン、ジャンプしながらのターン、崩れ落ちるターン、ターンの複雑な組み合わせを私に振り付けした。… for me at that time, extremely difficult material—mostly turns, turns, my bete noire! He gave me slow turns, fast turns, jumping turns, turns ending in falls, and complex combinations of turns.」[28]彼女の回想からわかるように、このダンスではターンの動きが重要視されていた。だが、舞台美術と音楽はダンスの動きに呼応していなかった。

 ラウシェンバーグの舞台美術と衣装は「点描的 pointilistic」なイメージで着想された。6人のダンサーはラウシェンバーグが製作した大きなキャンヴァスによる舞台美術と同じ点描的な柄の衣装を着て踊る。舞台美術とダンサーたちの衣装を同じ柄にすることで、彼らの舞台上の存在がカムフラージュされる効果を生む。「点描的」というイメージを伝えられていたフェルドマンは五線譜ではなくて図形楽譜での作曲を選んだ。これを機にフェルドマンは約5年ぶりに図形楽譜での作曲にとりかかる。

 「Ixion」には2つの版があり、1958年8月17日にコネティカット州ニュー・ロンドンでのアメリカン・ダンス・フェルティヴァルで「Summerspace」が初演された際は13から19の奏者によるアンサンブル版が演奏された。アンサンブル版の編成はフルート3、クラリネット、ホルン、トランペット、トロンボーン、ピアノ、チェロ3から7、コントラバス2から4。1960年の再演時には2台ピアノ版がケージとチュードアによって演奏されている。現在、このダンスが上演される際は2台ピアノ版が使用されることが多いようだ。テンポは1つのマス目あたり、当初およそ♩=92が指定されていたが[29]、カニングハムのダンスが15分から20分程度の時間を要するため、実際の演奏の際にはこれより遅いテンポで演奏するか、ある特定の箇所を繰り返すこともあった。

 この曲の楽譜には「Projection」(1950-51)シリーズ、「Intersection」シリーズ(1951-53)などの初期の図形楽譜と同じく、グラフ用紙のマス目に演奏される音の数が書かれている。初期の図形楽譜の楽曲の大半において高・中・低の音域の分布と各パートの分布の均衡が保たれた全面的なアプローチがなされていたが、「Ixion」では中間の短い部分と終結部を除いて全てのパートが高音域のみで演奏するよう指定されている。だが、初期の図形楽譜同様、具体的な音高の決定は奏者に委ねられている。音域を高音域に限定することで演奏者の選択肢が狭まる。こうすることで、理屈上、作曲家が理想とする音響を実現する可能性が高まる。このような演奏者に対する選択肢の限定はフェルドマンの初期の図形楽譜に見られた即興音楽との誤解や、演奏に演奏家の手癖やパターンが反映されることを回避するために取られた策ともいえる。音域を高音域に限定することの利点として、全てのパートが比較的スムーズに1つのテクスチュアを作ることが挙げられる。楽器による音色の違いはあるものの、様々な音色と音域が一緒くたになった初期の図形楽譜の楽曲よりも、音の響きに統一感がもたらされる。

 「Ixion」ではラウシェンバーグの点描的な舞台セットと衣装と同じく、音楽でも点描的な効果を狙っている。「Projection」シリーズもどちらかというと点描的な音楽だが、それぞれの音がはっきりと独立している自己完結した点の集まりだ。対して「Ixion」の場合は個々の点(それぞれのパートの音色)が重なったり、これらの音の境界を曖昧にして混ざりあったような効果を創出する意味での点描的な効果を生み出している。ラウシェンバーグの舞台美術とフェルドマンの音楽はともに遠目に見た時、あるいは聴いた時に1つのテクスチュアが浮かび上がる効果を狙っていたのだろう。

 「Ixion」でも演奏に際して困難が生じる。アンサンブル版の場合、単音楽器である管楽器のパートに7と記されていれば、非常に素早く任意の7音をマス目に収まるように演奏しないといけない。これによって回転するような素早いパッセージが達成できる。ピアノは和音やグリッサンドで即座に対応できるが、単音楽器の場合は演奏の難易度が上がる。当時のフェルドマンは管楽器の事情をそれほど深く考慮しなかった可能性があり、ホルンのパートの1マスに7、トランペットのパートの1マスに10と記されている箇所がある。アンサンブル版で行われた1958年の初演時には、やはり演奏者がこの楽譜に当惑したため、急遽ケージが五線譜に書き直した。ケージはその時の様子を「この楽譜を慣習的な方法に――覚えている?4分音符に――書き換えた。それはこの曲のあらましではなくて、演奏者たちがすぐに演奏できるようにするためだった。I translate it into something conventional—with quarter notes, you remember? —which was not what the piece was but which permitted the musicians to quickly play it.」[30]と語っている。チュードアが「Intersection 2」(1951)、「Intersection 3」(1953)を五線譜に書き換えて演奏したように、「Ixion」においても最終的には演奏の際に五線譜への書き換えが行われたのだが、この曲をきっかけにフェルドマンは図形楽譜の作曲を再開した。だが、これ以降のフェルドマンの図形楽譜には変化が見られ、例えば「… Out of ‘Last Pieces’」(1961)では図形楽譜と五線譜を組み合わせることによって演奏の際の曖昧さを少しでも減らす工夫がなされている。

 1954年からの五線譜による楽曲ではフェルドマンは従来のリズムや拍子とは異なる感覚の音楽を創出する一歩を踏み出したといってもよいだろう。「Piece for 4 Pianos」では音価を不確定にして演奏者に裁量を与える一方、1958年以降の図形楽譜は1950年から1953年までの図形楽譜と比べて記譜にやや具体性が帯び、奏者の選択の幅を狭めている。フェルドマンの楽曲の変遷は記譜法の変化と連動していることは初回に述べたとおりだ。次回とりあげる予定の1960年からの楽曲にはどのような変化が見られるのだろうか。


[1] Black Mountain Collage Museum + Arts Center http://www.blackmountaincollege.org/
[2] John Cage’s Stony Point House https://greg.org/archive/2017/05/03/john-cages-stony-point-house.html
[3] Morton Feldman Says: Selected Interviews and Lectures 1964-1987, Edited by Chris Villars, London: Hyphen Press, 2006, p. 262
[4] 作曲家で理論家のジョゼフ・シリンガーが考案した作曲法。音価などのパラメータを数値化して作曲に援用する。Josph Schillinger Society https://www.schillingersociety.com/
[5] Morton Feldman, Give My Regards to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman, Edited by B. H. Friedman, Cambridge: Exact Change, 2000, p. 43
[6] Jonathan D. Kramer, “New Temporalities in Music,” in Critical Inquiry, Spring, 1981, Vol. 7, No. 3 (Spring, 1981), p. 539
[7] Ibid., p. 539
[8] Ibid., p. 539
[9] Ibid., pp. 539-540
[10] Ibid., p. 542
[11] Ibid., p. 545
[12] Ibid., pp. 546-547
[13] Ibid., p. 549
[14] Elidritch Priest, Boring Formless Nonsense: Experimental Music and the Aesthetics of Failure, : NY: Bloomsbury Academic, 2003 はこの本のタイトルが示す特性を持つ楽曲や音楽実践を例に、聴取や音楽的な時間の問題を論じている。
[15] Morton Feldman: Solo Piano Works 1950-64, Edition C. F. Peters, No. 67976, 1998. Volker Straebelによる巻末の校訂報告より。
[16] フェルマータの下に数字が記されている。
[17] Morton Feldman, Pieace for 4 Pianos, 1962, C.F. Peters Corp., 1962.
[18] Tom Johnson, “Introduction to “Spaces,”” in March, 1994 https://www.cnvill.net/mftomj1.htm
[19] Ibid.
[20] Ibid.
[21] Feldman 2006, op. cit., p. 88
[22] David Cline, The Graph Music of Morton Feldman, Cambridge: Cambridge University Press, 2016, pp. 45-46
[23] Keith Potter, Four Musical Minimalists: La Monte Young, Terry Riley, Steve Reich, Philip Glass, Cambridge: Cambridge University Press, 2000, p. 112
[24] Ibid., p. 113
[25] Cline 2016, op. ct., p. 48
[26] Ibid., p. 48
[27] ヴァレーズのジャズへの関心と彼の図形楽譜についてはOlivia Mattis, “The Physical and the Abstract: Varèse and the New York School,” in The New York Schools of Music and Visual Arts: John Cage, Morton Feldman, Edgard Varèse, Willem de Kooning, Jasper Johns, Robert Rauschenberg, edited by Steven Johnson, New York: Routledge, 2002, pp. 57-74に詳述されている。
[28] Caroline Brown, Chance and Circumstance: Twenty Years with Cage and Cunningham, New York: Alfred A. Knopf, 2007, p. 217
[29] アンサンブル版の演奏の際、ケージは曲中のセクションごとにテンポを変える、特定の箇所を繰り返すなどしてダンスの時間の長さと合わせていた。Cline 2016, op. cit., p. 215
[30] John Cage and Morton Feldman, Radio Happenings Ⅰ-Ⅴ, Köln: Edition Musik Texte, 1993, p. 181

高橋智子
1978年仙台市生まれ。Joy DivisionとNew Orderが好きな無職。

(次回更新は9月15日の予定です)

あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(4) 五線譜による1950年代前半のなんとも言い難い曲

(筆者:高橋智子)

 前回はフェルドマンの図形楽譜の成り立ち、彼が図形楽譜で意図していた音楽、ジャクソン・ポロックの絵画技法との関係、演奏の際に生じる矛盾とデイヴィッド・チュードアによる解決方法などをとりあげた。今回はフェルドマンが図形楽譜作品と並行して作曲した1950年代前半の五線譜で書かれた楽曲について考察する。

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あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(3) 1950年から1953年までの図形楽譜

(筆者:高橋智子)

 前回は1951年頃からニューヨーク・スクールのサークルに出入りするようになったモートン・フェルドマンの周りで起きた出来事が彼の創作に大きな影響を及ぼした様子を振り返った。今回はフェルドマンが1950年末から1953年の間に書いた図形楽譜の作品について、いくつかの側面から考察する。

1. 図形楽譜の始まり ワイルドライスを待ちながら Waiting for wild rice

 音楽史の書籍や教科書においてフェルドマンは図形楽譜を最も早くに始めた作曲家として紹介されることが多い。特にフェルドマンの「Projection 1」(1950)とアール・ブラウンの「December 1952」(1952)は第二次世界大戦後のアメリカ音楽に関する項目での掲載頻度が高い。

Earle Brown/ December 1952

 ブラウンの「December 1952」は音高、拍子、テンポ、編成といった要素が指定されていない。

 1950年12月の末、ケージがワイルドライス[1]を料理している間、フェルドマンは後に「Projections 1」として結実する図形楽譜のスケッチを書いた。その時の様子をフェルドマンは1983年に行われたインタヴューの中で次のように振り返る。

それがどのように起こったのかわからない。実際、ジョン・ケージと同じ建物に住んでいて、彼が私をディナーに招待してくれた。ディナーの準備はまだできていなかった。ジョンは誰も知る由がないような方法でワイルドライスを料理していた。お湯が沸騰するのをひたすら待って、新たに沸騰したお湯をワイルドライスに注ぎ、それからポットもう一杯分のお湯を追加し、ワイルドライスを湯切りするなどをしていて、ワイルドライスができるまでの長い時間を私たちは待っていた。ワイルドライスを待っている間、私はケージの机にちょっと腰掛けてノートの1ページを取り出し、そこになんの考えもなしに書き始めた。私が書いたのは気ままに書きなぐったグラフ用紙の1ページだった――そこに現れたのは高・中・低のカテゴリーだった。それはまったくの無意識だった――ゆえにもちろんのこと、これについて語ったこともなかった――議論したこともなかった。

I have no idea how it came about. Actually, I was living in the same building as John Cage and he invited me to dinner. And it wasn’t ready yet. John was making wild rice the way most people don’t know how it should be made. That is, just waiting for boiling water and then putting new boiling water into the rice and then having another pot boiling and then draining the rice, etc, etc, so we were waiting a long time for the wild rice to be ready. It was while waiting for the wild rice that I just sat down at his desk and picked up a piece of notepaper and started to doodle. And what I doodled was a freely drawn page of graph paper—and what emerged were high, middle, and low categories. It was just automatic—I never had any conversation about it heretofore you know—never discussed it.[2]

 1966年に行われたフェルドマンとケージの対談によれば、この時のスケッチは同じくその日のディナーに呼ばれていたデイヴィッド・チュードアがすぐにケージのピアノで演奏した。[3] 「Projection 1」は最終的にチェロ独奏の曲として完成するが、この時点ではまだ楽器が特定されていなかったと推測できる。それからフェルドマンはこのアイディアを基にした一連の図形楽譜楽曲の作曲に取り掛かり、1950年12月末に「Projection 1」が完成する。彼の図形楽譜のアイディアに興奮したケージは約1週間かけてフェルドマンのさらに2つのスケッチを清書した。そこでできたのが2台ピアノのための「Projection 3」[4]と、ヴァイオリンとピアノのための「Projection 4」の2曲だ。この2つのスコアを見れば「ジョン・ケージの筆跡と彼が当時使っていたペンだとわかるだろう。If you look at these scores of mine, you will recognize John Cage’s handwriting and the pen he used it at that time.」[5]。以上の経緯でフェルドマンは図形楽譜のアイディアを自分の作品へと仕上げていった。「実のところ、私にはいかなる類の理論もなく、それがどのように現れようとしているのかも考えつかなかったが、もしもあの時ワイルドライスを待っていなかったら、あのようなワイルドな(突飛な)アイディアを思いつかなかっただろう。Actually I didn’t have any kind of theory and I had no idea what was going to emerge, but if I wasn’t waiting for that wild rice, I wouldn’t have had those wild ideas.」[6]とフェルドマンが言うように、図形楽譜の誕生の現場にはいくつかの偶然性が働いていたが、ここでの最大の貢献者は、おそらく一般的なレシピを無視した謎の調理方法でワイルドライスにやたら時間を費やしたケージかもしれない。もしもこの夜のメニューがすぐにできあがる料理だったら、フェルドマンの図形楽譜は生まれていなかった可能性もある。このエピソードに倣い、私たちは手持ち無沙汰の時間を大事にしなければならない。

 現在までに確認されているフェルドマンの図形楽譜による楽曲は全部で17曲。作曲年代は1950年から1953年と、1958年から1967年の2つの時期に分けられる。1954年からの約4年間の空白は、フェルドマンが図形楽譜の在り方に疑問を抱き、図形楽譜にまつわる諸問題を再考していた時期とみなされる。図形楽譜の空白期間とその間の彼の葛藤は後で改めて検討することにして、今回は1953年までの図形楽譜の楽曲を対象とする。

[図形楽譜によるフェルドマンの楽曲]

Projection 1(1950):チェロ独奏 約2分50秒
Projection 2(1951年1月3日):フルート、トランペット、ヴァイオリン、チェロ、ピアノ 約4分40秒
Projection 3(1951年1月5日):2台ピアノ 約1分30秒
Projection 4(1951年1月16日):ヴァイオリン、ピアノ 約4分40秒
Projection 5(1951年):フルート3、トランペット、チェロ3、ピアノ2 約2分10秒
Intersection 1(1951年2月):打楽器なしの管弦楽 約12分30秒
Marginal Intersection (1951年7月):管弦楽、エレクトリック・ギター、オシレーター2、事前に録音されたノイズ 約5分50秒
Intersection 2(1951年8月):ピアノ独奏 約9分
Intersection 3(1953年4月):ピアノ独奏 約2分20秒
Intersection 4(1953年11月22日):チェロ独奏 約3分

  1954年から1957年の間、図形楽譜は一時中断される。

Ixion(1958年8月):室内アンサンブル 約20分20秒
Atlantis(1959年9月28日):室内アンサンブル(2種類の編成で演奏可能) 約8分
Ixion (1960年1月):2台ピアノ 約7分20秒
…Out of ‘Last Pieces’(1961年3月):管弦楽とエレクトリック・ギター 約8分50秒
The Straits of Magellan(1961年12月):フルート、ホルン、トランペット、ピアノ、エレクトリック・ギター、コントラバス 約4分50秒
The King of Denmark(1964年8月):打楽器独奏 約5分10秒
In Search of an Orchestration(1967年):管弦楽 約7分40秒

 半数以上の楽曲の演奏時間が3〜5分程度だが、「Intersection 1」「Intersection 2」「…Out of ‘Last Pieces’」といった10分前後を要する作品も見られ、全体的にばらつきがある。「Projection」 1-5と「Intersection」 1-5は独奏と小規模なアンサンブルを中心としている。この中で最も大きな編成の「Marginal Intersection」では高周波と低周波のオシレーター2つが用いられている。フェルドマンはこの2つのオシレーターを「聞こえないが「感じ」られる。These cannot be heard, but are “felt.”」と説明している[7]。タイトルにある「marginal へりの、辺境の」もふまえると、2つのオシレーターは可聴域の際(きわ)の、聴こえるか聴こえないかの周波数に合わせるのがふさわしいのではないかとClineは指摘する[8]。だが、この曲の唯一の録音「Feldman Edition Vol. 9 Composing by Number: The Barton Workshop plays graphic scores」[9]に収録されている演奏ではオシレーターがはっきりと聴こえる周波数と音量で演奏に用いられていることから、どちらがより正統な演奏方法なのかはすぐに結論を出せない。電気による増幅や伝統的な楽器以外の音源に対して積極的ではなかったフェルドマンは「…Out of ‘Last Pieces’」「The Straits of Magellan」「Marginal Intersection」でエレクトリック・ギターを用いるなど、音色や編成の点で五線譜による楽曲には見られない試みが図形楽譜の楽曲の中でなされている。

2. 中心のない、時間のキャンヴァス

 他の作曲家による意匠に工夫を凝らした図形楽譜に比べて、グラフ用紙のマス目を基本とするフェルドマンの図形楽譜はだいぶ単純で簡素に見える。最もよく知られた「Projection 1」の冒頭はこのサイト「The art of visualizing music」で見ることができる。フェルドマンの図形楽譜におけるグラフ用紙のマス目は大抵がメトローム記号によるテンポ表示と対応している。「Projection」シリーズの場合、このマス目はさらに内部で4分割されていると見なすことができ、1つのマス目を4拍子の1小節分、その内部が1拍として数えられる。グラフ用紙の垂直方向は高・中・低の音域を指示している。具体的な音高の選択は奏者に任せられているので、奏者は指定された音域内ならどの音高を鳴らしてもよい。内部の小さなマス目にはピチカートや開放弦などの演奏記号や、そこで鳴らされるべき音の数がアラビア数字で記されていることもある。このように具体的な音高は指定されず、音域と音が鳴らされるタイミングのみが記されているフェルドマンの図形楽譜の楽曲は、方法は決まっているが結果がその都度異なる不確定性の音楽に分類される。以下の演奏では「Projection 1」の中で鳴らされる音とスコアとが同期しており、これを見ればフェルドマンの図形楽譜のおおよその読み方と、その結果生じる音響の概要をつかむことができる。実際のスコアはモノクロだが、この映像では高音域が黄色系、中音域が赤系、低音域が青系の色に色分けされている。

Projection 1

 先の「Marginal Intersection」のオシレーターの例からもわかるように、彼の図形楽譜は簡素なだけに解釈や分析に対して開かれているともいえる。フェルドマンの図形楽譜について考える場合、史実と美学の両側面からの成り立ち、主に音域の分布と音の持続に注視した楽曲の構造、解釈と演奏実践の可能性といった複数の視点が必要だ。史実については上述のワイルドライスのエピソードと前回とりあげたザ・クラブやセダー・タヴァーンでの出来事が図形楽譜の成立を考察する際のヒントとなる。美学については、前回触れた抽象表現主義絵画、とりわけキャンヴァスを床に置いてそこに絵の具や塗料を直接垂らすジャクソン・ポロックの技法がフェルドマンの図形楽譜の作業手順に直接的な影響をもたらしたと考えられる。以下は1981年に書かれたフェルドマンのエッセイ「Crippled Symmetry」からの引用である。

当時を振り返ると、私の1951年の音楽的な理念が彼の創作方法と類似していたことを今になって実感している。ポロックはキャンヴァスを床に置き、その周りを歩きながら描いた。私はグラフ用紙を壁に貼った。グラフ用紙の1枚1枚が同じ長さの時間の持続の枠にはめられ、実際に視覚的なリズム構造でもあった。ポロックと似ていたのは時間のキャンヴァスに対する私の「全面的な」アプローチだった。通常の左から右へと走るページではなくて、グラフ用紙の横方向のマス目はテンポを表している。――マス目の中のそれぞれの四角形は予め設定された音の入り[10]と等しい。垂直方向の四角形はこの曲の編成を表している。

In thinking back to that time, I realize now how much the musical ideal I had in 1951 paralleled his mode of working. Pollock placed his canvas on the ground and painted as he walked around it. I put sheets of graph paper on the wall; each sheet framed the same time duration and was, in effect, a visual rhythmic structure. What resembled Pollock was my “allover” approach to the time-canvas. Rather than the usual left-to-right passage across the page, the horizontal squares of the graph paper represented the tempo—with each box equal to a preestablished ictus; and the vertical squares were the instrumentation of the composition.[11]

 ここでフェルドマンはポロックと自身の図形楽譜との類似性を明言している。「時間のキャンヴァス」の表現に注目すると、フェルドマンが五線譜ではない媒体に音楽を書き付けた理由の一端が推測できる。一般的に、五線譜は時間の経過を左から右へと可視化する媒体だ。これまで当たり前と思われてきた五線譜の中で左から右へと流れる時間と、それに沿って音の連続体を構成することとは違う方法で音楽を作る1つの策としてフェルドマンはグラフ用紙を壁に貼ってみたのだろうか。フェルドマンがグラフ用紙で行ったのは、キャンヴァスに見立てたグラフ用紙に音を投げつける作業だったのかもしれない。グラフ用紙1枚1枚は一定の長さの時間の枠組みが規定されていて、その中で様々な方向に視線を動かすことができる。グラフ用紙のマス目を行きつ戻りつしながら音を書き付けるフェルドマンの姿はキャンヴァスの周りを歩きながら絵の具を垂らすポロックと重なる。このように考えると、フェルドマンの初めての図形楽譜作品が「Projection 投影」と題されたのも納得できるだろう。

 これまで引用してきたフェルドマンの言葉をここでもう一度考えてみると、彼は図形楽譜の誕生が無作為で、直感的で、衝動的だったと言いたげな主張を繰り返していることがわかる。一見、直感的で衝動的なポロックの絵画技法はこの当時のフェルドマンの意図と一致しているともいえる。フェルドマンは自身の音楽的な時間へのアプローチを「全面的 allover」という言葉で説明していることも、ポロックの1940年代からの作品における中心の欠如の影響だと考えられるだろう。だが、ポロックのポーリングやドリッピングの技法が全くの直感でランダムに行われていたのではなく、実は腕を動かすスピードや高さが意識されていたことを実証する研究結果が絵画研究や物理学の領域においていくつか出ている[12]。同様にフェルドマンの「Projection」シリーズと「Intersection」シリーズには、「全面的なアプローチ」と中心点の欠如を達成するための作者による微調整の痕跡を見ることができる。

 これまでフェルドマンの図形楽譜にまつわる研究といえば抽象表現主義絵画との同時代性や類似性で語られることが多かったが、Clineの『The Graph Music of Morton Feldman』はスケッチと出版譜を徹底的に分析する実証的な手法で一連の図形楽譜作品を解き明かしている。彼の分析によれば、「Projection」シリーズ、「Intersection」シリーズ、「Marginal Intersection」のそれぞれにおける音域の分布と、アンサンブルや管弦楽編成の場合はパートごとの出現頻度にある程度の均衡が見られる[13]。たとえば、ヴァイオリンとピアノのための「Projection 4」の両パート合わせた音域の分布は高音域34%、中音域34%、低音域32%。わずかな差があるものの、3つはほぼ同じ割合と言える[14]。さらにヴァイオリンとピアノとにそれぞれ割り当てられた音の数の割合はヴァイオリン52%、ピアノ48%と、ここでもやはり均衡が見られる[15]。さらにミクロな視点から、Clineの分析は「Projection 4」の全8ページの見開き2ページごとの音域とパートの分布にも同様の均衡が見られることも明らかにしている[16]。この傾向は同時期の他の図形楽譜の作品にも観測される。だが、この分析はフェルドマンが実際に各パートの記号の数を数えていたことを裏付けるわけではない[17]。「むしろ彼は幅広く均整のとれたやり方で記号(訳注:数字や音符もここでの「記号 symbols」に含まれる)を配置しようとしていて、おそらくそれぞれの音域や楽器のパートに1つずつ順番に記号を書き足していった。 It is, instead, that he meant to distribute symbols in a broadly balanced fashion, possibly by adding one symbol to each register location or instrumental part in turn. 」[18] ことがこの分析から推測される。図形楽譜における音域とパートの均衡のとれた分布から、フェルドマンが志向した「全面的なアプローチ」は演奏として鳴り響く音よりも、作曲と記譜の過程において到達されていると考えられる。

Projection 4

Projection 4

 この曲の記譜法は「Projection 1」とほぼ同じ方法で書かれているが、マス目の中に演奏すべき音の数がアラビア数字で記されている。

 慣習的な五線譜の中での一方向の流れに沿っていたら、フェルドマンが言う全面的なアプローチはできない。瞬間的、衝動的に生じた音を拾い上げて書き付けるには、彼にとっては五線譜よりグラフ用紙の方がやりやすかったのだろう。ポロックの腕のコントロールやフェルドマンの音域の均等な分布のように、たとえその実践において作者が実用的な理由で何らかの方策を内に秘めていようと、第二次世界大戦後のアメリカの芸術思潮は即興的な直感と衝動を創作の源泉としていたともいえる。このような傾向についてBelgradは自発性と間主観性の観点から次のように分析している。

戦後の自発性の主流は実存主義的な哲学の欠点をうまく回避し、主観性にまつわるより急進的な場の理論に対する支持の表れとして、実存主義的な精神と肉体の二項対立の痕跡を拒絶する。間主観性の信条と矛盾することなく、自発性は自分の素材との即興的な対話に入り込む戦略を具現した。抽象表現主義の作品に特徴的な閉じられた感覚の欠如を説明しているのは、このような対話――ギヴ・アンド・テイクが決して完結することはなく、完全な理解にも到達しない――の感覚だった。

The mainstream of postwar spontaneity eluded the shortcomings of existentialist philosophy, rejecting its vestiges of a mind/body/dichotomy in favor of a more radical field theory of subjectivity. Consistent with the tenet of intersubjectivity, spontaneity embodied a strategy of entering into improvisational dialogue with one’s materials. It was this sense of dialogue –of give-and-take never completely ended, and full understanding never completely accomplished—that accounted for the characteristic lack of closure in abstract expressionist works.[19] 

 ここで言われている間主観性は人間と人間との関係に限定されるのではなく、人間とその人の創作の素材や方法との関係だと解釈した方がこの文脈に適合すると考えられる。自分の素材と対話し、その対話を完結させず開いておく態度はフェルドマンの創作の中で「音の解放」として現れている。彼は「Projection 2」の解説で「私のここでの欲望は“作曲すること”ではなくて、音を時間に投影し、ここには必要がなかった作曲のレトリックから音を解放することだ。my desire here was not to “compose,” but to project sounds into time, free from a compositional rhetoric that had no place here.」[20]と書いている。彼の一連の図形楽譜の楽曲は演奏の場で鳴り響く音の可能性が開かれている不確定性の音楽だ。楽曲や作品の体裁を取るからには楽譜に記されて固定されているが、フェルドマンが目指していたのは、音があたかも自発的にそこに現れ、あるいは天啓のように作曲家のもとに降臨し、それをすかさず彼がグラフ用紙に書き付ける一連の流れだと想像できる。彼の図形楽譜の作品では演奏ごとに実際に聴こえてくる音が変わるので、その曲は楽曲として固定されていながらも流動性を持ち、開かれた状態を維持することができる。だが、実際の演奏の現場では作曲家が描いたこのような理想的な状況はそう簡単に実現しなかった。

3. 図形楽譜の理想と現実

 フェルドマンの意図を十分に理解し、彼が書いた通りに演奏すれば図形楽譜は当時彼が目指していた音楽を実現するのに最適な方法になるはずだったが、スムーズにことが運んだわけではなかった。図形楽譜はむしろ作曲や演奏にまつわる議論を提起している。フェルドマンの図形楽譜の楽曲に限らず、不確定性の音楽についてしばしば問題になるのが即興との違いだ。フェルドマンは図形楽譜による自分の楽曲が即興ではないことを明言している。

図形楽譜の音楽を何年か書いてみて、最も重要な欠点に気づき始めた。私は音を自由にさせているだけではなかった――演奏者にも自由を与えていたのだった。図形楽譜を即興の芸術と考えたことは一度もなく、むしろ完全に抽象的な音の冒険と思っていた。もしも演奏者がうまく演奏できなかったら、それは彼らの存在を感じさせるパッセージと連続性に私がまだ関与しているせいではないとその時理解したので、このことに気づけたのは重要だった。

After several years of writing graph music I began to discover its most important flaw. I was not only allowing the sounds to be free – I was also liberating the performer. I had never thought of the graph as an art of improvisation, but more as a totally abstract sonic adventure. This realization was important because I now understood that if the performers sounded bad it was less because I was still involved with passages and continuity that allowed their presence to be felt. [21]

 フェルドマンは作曲家と演奏者それぞれの記憶の中で固定されたパターンや連続性、演奏者の手癖を完全に排した抽象的な音楽を目指していたが、音高の選択を演奏者の任意にするだけでは彼が描いた抽象性に到達できなかった。上記の引用の中でフェルドマンは演奏の成否にも言及しているが、いったい何を基準にそれが決まるのだろうか。もしかしてフェルドマンが求めていた具体的な音の響きがあったのだろうか。理想とする音を常に鳴らしたいならば、音高を指定することによって問題はすぐに解決するはずだ。だが、それでは図形楽譜における不確定性の意味がなくなってしまう。着想と創作の段階ではさほど矛盾なく理解して共感できるフェルドマンの図形楽譜は、演奏の段階になると概念と実践両方においての課題が生じる。フェルドマンの図形楽譜のピアノ曲の初演を手がけたチュードアは当時どのようにして演奏したのだろうか。

 チュードアに献呈されたピアノ独奏のための「Intersection 3」はマス目1つあたりのテンポが176に指定されている。高・中・低それぞれの音域のマス目に書かれた数字は一度に演奏する音の数を示している。3/3、6/2といった分数の箇所では1つの音域内で2つの音の塊を作る必要がある。冒頭の中音域の3/3は中音域で3音、もう1つ別の3音の、合計6音を演奏する。曲が終盤にさしかかった369番目のマス目では高音域で10/10、中音域11/9と書かれており、速いテンポの中で一度に40の音を鳴らさないといけないことを意味する。実際の演奏では、この曲は速いテンポでのトーン・クラスターが次々展開されるわけだが、図形楽譜だけを見て、そこに記された数の音を即座に打鍵するのは超絶技巧のピアニストでも不可能だろう。チュードアはこの曲の演奏に先立って五線譜に書き換えた自分用の楽譜を作成していた[22]。チュードアがしたようにあらかじめ五線譜に書き換えておけば、時間をかけて何度も練習してすばやく精確にクラスターを打鍵することができる。これは実用的でとてもよいアイディアだが、作曲家や演奏者の記憶に束縛されない完全に抽象的な音の冒険というフェルドマンの理念との矛盾が出てきてしまう。しかし、演奏家にとっては五線譜に書き換えた楽譜があれば演奏の際の困難さが解消されるのはたしかだ。精確に演奏しようとすればするほど、五線譜に書き換えた楽譜が必須になってくる。もしも五線譜なしにこの超絶技巧の楽曲を演奏しようとするならば、速いテンポの中で指定された数の音を精確に打鍵するのは途端に困難になる。実のところ、聴き手には何が正しくて何が間違っているのか判断できないが、図形楽譜だけの演奏だとこの曲の記譜上の精確さが失われてしまうし、フェルドマンが回避しようとした即興演奏に近づいてしまうかもしれない。「Intersection 3」は作曲家が理想とする、この曲のあり方――作曲家や演奏者の記憶に束縛されない完全に抽象的な音の冒険――を追求すると、ここで要求される超絶技巧ゆえ楽譜通りの正しさから遠のいてしまうという皮肉な結果になる。

Intersection 3

 ピエール・ブーレーズは1951年12月にケージに宛てた手紙の中で、フェルドマンの図形楽譜を「退化 a regression」として批判している[23]。 特にブーレーズが批判したのはフェルドマンの図形楽譜におけるリズムの単純さだ。ブーレーズが指摘するように、指定されたテンポに即してグラフ用紙のマス目に書かれたタイミングで音を鳴らすだけでは複雑なリズムを創出することができない。フェルドマンの図形楽譜に対するブーレーズの率直な感想は「現在、私たちは音楽家であって画家ではありません。絵画は演奏されるために描かれているわけではないのです。Now, we are musicians and not painters, and pictures are not made to be performed.」[24]という一文に集約されている。

 おそらくフェルドマンも上記の矛盾や困難さを十分に自覚していたはずだ。彼はこれらをどのように解決しようとしたのだろうか。次回は同時期に書かれた五線譜の楽曲に焦点を当てて、図形楽譜作品との共通点や違いについて考えたい。


[1] イネ科マコモ属の一年草。可食部である黒い種子が米に似ているためワイルドライスと呼ばれている。
[2] Morton Feldman Says: Selected Interviews and Lectures 1964-1987, Edited by Chris Villars, London: Hyphen Press, 2006, p. 153
[3] John Cage and Morton Feldman, Radio Happenings: Conversations, Köln: Musik Texte, 1993, p. 17
[4] Morton Feldman Says, p. 153 フェルドマンは2台ピアノのための「Intersections」を挙げているが、作曲時期と編成から判断するとこの時ケージが清書したのは「Projection 3」の可能性が高い。
[5] Ibid., p. 153
[6] Ibid., p. 153
[7] Morton Feldman, Give My Regards to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman, Edited by B. H. Friedman, Cambridge: Exact Change, 2000, p. 10
[8] David Cline, The Graph Music of Morton Feldman, Cambridge: Cambridge University Press, 2016, p. 30
[9] mode 146, 2005
[10] 自身の図形楽譜に関してフェルドマンはictus(強音、アクセント)という言葉を好んで用いた。彼は音の入りやアタックを意図していたと考えられる。
[11] Feldman 2000, op. cit., p. 147
[12] ポロックの絵画技法と力学との関係についてはブラウン大学のこの記事が参考になる。Scientists reveal the physics of Jackson Pollock, https://phys.org/news/2019-10-scientists-reveal-physics-jackson-pollock.html October 30, 2019.
[13] Cline 2016, op. cit., Chapter 5, “Holism,” pp. 140-162
[14] Ibid., p. 141
[15] Ibid., p. 141
[16] Ibid., p. 156
[17] Ibid., p. 142
[18] Ibid., p. 143
[19] Daniel Belgrad, The Culture of Spontaneity: Improvisation and the Arts in Postwar America, Chicago: The University of Chicago Press, 1998, p. 10
[20] Feldman 2000, op. cit., p. 6
[21] Ibid., p. 6
[22] チュードア研究家のJohn Holzaepfelがチュードアによる五線譜の詳細を論じている。John Holzaepfel, “Painting by Numbers: The Intersections of Morton Feldman and David Tudor,” in The New York Schools of Music and Visual Arts: John Cage, Morton Feldman, Edgard Varèse, Willem de Kooning, Jasper Johns, Robert Rauschenberg, edited by Steven Johnson, New York: Routledge, 2002, pp. 159-172
[23] The Boulez-Cage Correspondence, English version, Edited by Jean-Jacques Nattiez, translated and edited by Robert Samuels, Cambridge: The Press Syndicate of the University of Cambridge, 1993, p. 115
[24] Ibid., p. 116

高橋智子
1978年仙台市生まれ。Joy DivisionとNew Orderが好きな無職。

(次回更新は7月15日の予定です)

あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(2) フェルドマンの1951年

(筆者:高橋智子)

 前回はモートン・フェルドマンがジョン・ケージと出会い、彼が当時住んでいたロウアー・マンハッタンにあったアパートメント、ボッサ・マンションに引っ越した1950年までの歩みをたどった。1950年からの数年間はフェルドマンの創作の美学、そして彼が生涯にわたって追求したと思われる「抽象的な経験」という理念(同時にそれは大きなジレンマでもあった)の礎を築いた重要な時期だ。今回は、この時期に彼が足繁く通った場所とそこで出会った人々がどれほど強烈に彼の創作に刺激を与えたかを見ていく。

1950年12月17日

 フェルドマンは1950年12月17日に「Piece for Violin and Piano」を完成させた。大部分が柔らかなタッチで打鍵されるピアノの和音と単音にヴァイオリンが呼応しながら進む、この2分足らずの小曲はシュテファン・ヴォルペのもとで作曲家修行を続けてきたフェルドマンが自身の作曲様式を前面に打ち出した作品として位置づけることができる。この曲は全体的に抑制されたダイナミクスで書かれているが、これまでの抑制された雰囲気をうち破るかのごとく、曲の終盤で突然ピアノが強烈な和音を打鍵する。楽曲の途中でのこのような突然の変化や衝撃の効果は1970年代後期からの長大な作品においてもよく見られる。

Feldman/ Piece for Violin and Piano(1950)

 1950年12月17日の出来事はこれだけではなかった。この日は作曲家連盟 League of Composerの演奏会がカーネギー・ホールで行われた。(プログラムの詳細はカーネギー・ホールのサイトを参照)このコンサートではフェルドマンの楽曲は演奏されていないが、彼はアメリカ初演されたピエール・ブーレーズの「2ème sonate pour piano」(1947)に関わっていたことがケージとブーレーズの手紙のやりとりからわかる。1949年11月頃から1954年の間、ケージとブーレーズは往復書簡のような手紙を交わしていた。2人の手紙はジャン=ジャック・ナティエの編集によって『ブーレーズ/ケージ往復書簡集 Pierre Boulez/John Cage: Correspondance et documents[1]として出版されている。自身の創作のアイディアをケージに熱く語る若きブーレーズと、フェルドマンをはじめとする当時のニューヨークの音楽シーンを紹介するケージの様子がこれらの手紙から読み取ることができる。2人の手紙から推測すると、ケージは既に1949年には「2ème sonate pour piano」の楽譜をブーレーズから受け取っていたようだ。当初ケージはウィリアム・マッセロスにこのソナタの演奏を依頼した。しかし楽曲の難易度の高さと準備期間の短さからマッセロスはこの依頼を断ってしまった。具体的な経緯は不明だが、おそらくフェルドマン経由でチュードアは既にこのソナタの楽譜を入手して練習も始めていた。彼はこのソナタの練習だけではなく、ブーレーズの論文を原語で読むためにフランス語を勉強していた。さらに彼はこの時期のブーレーズの音楽の理解の鍵となるアントナン・アルトーの本も読んでいたといわれている[2]。この事実をフェルドマンから知ったケージはチュードアにソナタの演奏を依頼する。演奏会の翌日にケージからブーレーズに書かれた手紙には、チュードアは「君と同じ25歳の、モートン・フェルドマンの友人 twenty-five, like you, and he is a friend of Morton Feldman」[3]と紹介されている。ブーレーズ不在で行われたこの演奏会の夜、興奮冷めやらぬケージ、フェルドマン、チュードアらは明け方4時まで音楽について語り合ったという。

 ブーレーズの「2ème sonate pour piano」アメリカ初演とフェルドマンとの関係はこの時期のケージ周辺のニューヨークの音楽家の状況を物語るエピソードの一端に過ぎないが、フェルドマンはケージを介して当時のダウンタウンのアーティスト・コミューンでもあり、彼らの自宅でもあったボッサ・マンションの外でも作曲家、音楽家としての人脈と活動の幅を広げていく。来たる1951年はフェルドマンの音楽家人生がさらに大きく揺さぶられる。

フェルドマンとニューヨーク・スクールの画家たち

 1951年1月、フェルドマンはMoMA(ニューヨーク近代美術館)で行われた「アメリカの抽象絵画と彫刻展 Abstract Painting and Sculpture in America」で抽象表現主義の作品を鑑賞する。展覧会の展示室の写真とカタログはMoMAのサイトから見ることができる。この展覧会は印象主義、表現主義、キュビスム、ダダイズム、未来派、デ・ステイル、構成主義、バウハウスといった19世紀末期から20世紀前半までの西洋近代絵画と芸術の潮流を概観し、その流れの行く先としてアメリカの抽象絵画を位置付けた構成だった。その後まもなく、フェルドマンはここに作品が展示されていた画家たち――フィリップ・ガストン、ウィレム・デ・クーニング、リチャード・リッポルド、ロバート・マザウェル、ジャクソン・ポロック、アド・ラインハルト、マーク・ロスコーと実際に出会い、親交を深めることとなる。以下の5曲は特にフェルドマンと親しかった画家たちの名前がタイトルに付されている。

「For Franz Kline」(1962)
「Piano Piece (Philip Guston)」(1963)
「De Kooning 」(1963)
「The Rothko Chapel」(1972)
「For Philip Guston」 (1984)

 具体的な日付はわからないが、1951年、フェルドマンはケージの誘いでセダー・タヴァーン Cedar Tavernとザ・クラブ The Clubに通い始める。先に名前をあげた画家たちの存在が彼にとって急に身近になり、フェルドマンの音楽が、よりフェルドマンらしい音楽へと発展していく。 ザ・ クラブはワシントン・スクエア・パークとニューヨーク大学に近い39 East 8th Streetに位置し、彫刻家で当時のニューヨーク前衛シーンのオーガナイザーの1人でもあったフィリップ・パヴィアやデ・クーニングらを中心として創設されたバー兼芸術家サロンだった。 ザ・ クラブから数ブロック南下するとセダー・タヴァーンがあり、距離を考えると一晩にこれら両方に行くこともできただろう。

 フェルドマンとケージがどれくらいの頻度でここに姿を現したのか、彼はエッセイ「自伝 Autobiography」の中で次のように語っている。

 ジョン(訳注:ケージ)とは音楽の話をほとんどしなかった。物事があまりにも速く動いているので、それについて話す暇もなかったくらいだ。だが、絵画については途方もなくたくさんのことを話した。ジョンと私は午後6時にセダー・タヴァーンを訪れ、ここが閉まるまでおしゃべりして、閉まってからもおしゃべりしていた。これは決して大げさな言い方ではなくて、私たちはこの生活を5年間毎日送っていた。

There was very little talk about music with John. Things were moving too fast to even talk about. But there was an incredible amount of talk about painting. John and I would drop in at the Cedar Bar at six in the afternoon and talk until it closed and after it closed. I can say without exaggeration that we did this every day for five years of our lives.[4]

彼が語る当時の様子から、フェルドマンとケージは昼夜逆転していたのかと心配になってしまう。もしもここでフェルドマンが書いていることが事実ならば、彼らにとってセダー・タヴァーンと ザ・クラブはもはや生活の一部になっていたともいえる。この特別な場所と時間について、フェルドマンは1960年頃から自身のエッセイや講演で頻繁に振り返っている。

 1950年頃から、画家のマザウェルは ザ・クラブとセダー・タヴァーンに集い、自身も含めた「創作のプロセスを通して芸術とはなんたるかを正確に見出そうとするアーティストのグループ as a group of artists that tries to find out what art is precisely through the process of making art」[5]をニューヨーク・スクール New York Schoolと名付けた。美術におけるニューヨーク・スクールの流れを受けたのが前回の終盤で少し言及したケージ、フェルドマン、クリスチャン・ウォルフ、アール・ブラウン、チュードアからなる音楽版のニューヨーク・スクール(楽派)である。個々の信念の違いはあれども、彼らは同時代に同じ場所に出入りし、根底に共通した開拓精神と実験精神を持っていた。そこで交わされたとりとめのない会話や酔った挙句の口論も含めて、彼らがアイディアを交換する場として ザ・クラブとセダー・タヴァーンは機能していたのだった。

セダー・タヴァーンの喧騒

 当時のマンハッタンには芸術家が集うサロンのような場所がいくつかあった。ブリーカー・ストリートにあったサン・レモ San Remoにはディラン・トマス、アレン・ギンズバーグ、ウィリアム・バロウズ、マイルス・デイヴィスといった面々が集っていた。サン・レモに比べて ザ・クラブやセダー・タヴァーンはどちらかというとマッチョでストレートな人々が来ていて、文学よりも美術を志向していた[6]。詩人、キュレーターで彼の理解者でもあったフランク・オハラは「サン・レモでは私たちは議論と噂話をしていて、セダーでは画家たちの議論と噂話を聞きながらよく詩を書いていた。In the San Remo we argued and gossiped: in the Cedar we often wrote poems while listening to the painters argue and gossip」[7]と当時の様子を振り返る。オハラと同じくこの空気にすっかり浸かっていたフェルドマンは、自身の創作の拠り所を音楽よりもニューヨーク・スクールの画家たちとその作品に求めるようになっていく。

 フェルドマン曰く、「新しい絵画はこれまで存在したあらゆるものより直接的、即時的、身体的な音の世界に対する欲望をかき立てた The new painting made me desired of a sound world more direct, more immediate, more physical than anything that had existed heretofore.」[8]。この中の「直接的、即時的、身体的な音の世界」を1950年代から1960年代のフェルドマンの楽曲に見出そうとするならば、旋律などの素材が有機的に結びついて生成される統一性や構造とは本質的に異なる地平の音楽だと解釈できる。フェルドマンは自分が理想とする音楽のあり方を「完全に抽象的な音の冒険 totally abstract sonic adventure」[9]とし、図形楽譜をはじめとする様々な手法でこの理想を追求した。だが、図形楽譜に関していうならば、彼は既に1950年12月末には初めての図形楽譜の楽曲「Projection 1」(1950)を作曲しているので、時系列で考えると抽象表現主義絵画とニューヨーク・スクールの画家たちとの出会いが図形楽譜考案の発端となったとは言い切れない。むしろ、自身の音楽を発展させるために彼がこれまで頭の中で渦巻いていたアイディアが抽象表現主義絵画との出会いによって言語化され、音楽として具現されたのだと考えられる(もちろん、その成否をめぐって彼は常に葛藤していたが)。その現れの一端が1950年代はじめの図形楽譜と、同時期の五線譜で書かれた散発的なテクスチュアの楽曲だと見なすことができる。

「無についてのレクチャー」と「何かについてのレクチャー」

  ザ・クラブでは毎週水曜日と金曜日の夜に公開討論会、講演、ポエトリー・リーディング、コンサートなどが行われていた。1951年2月[10]にケージは直接的にも間接的にもフェルドマンの音楽に言及した「無についてのレクチャー Lecture on Nothing」と「Lecture on Something」をここで行なった。

「無についてのレクチャー」
 「無についてのレクチャー」のテキストはケージの1940年代から50年代はじめの楽曲にしばしば見られる、数小節の和で構成されたまとまりを楽曲の1単位と見なしてそれらを配置するリズム構造の原理に基づいている。この講演は聴衆の前で原稿を読み上げる点では通常のそれと変わりないが、ケージはリズム構造を用いて自分が言葉を発する時間を制御し、加えて随所に挿入される無言の沈黙の時間と空間を用いて、この講演自体を完全に構造化している。つまり、この講演のテキストを読み上げる行為は演劇的であるともいえ、テキストは台本や脚本の性格を帯びている。2012年のケージ生誕100年にちなんで、演出家のロバート・ウィルソンはこのレクチャーを再現するパフォーマンスを行っているhttp://www.robertwilson.com/lecture-on-nothing

 「この壇上にいて 、私にはいうべきことが何もない 。」[11]から始まる「無についてのレクチャー」は全体的につかみどころのない内容だが、ケージは得意の小噺風の逸話を交えながら主に沈黙 silence、構造 structure、素材 material、ノイズ noise、方法 methodについて語る。これらはケージとフェルドマンのどちらにとっても、おそらく生涯をかけて追求した関心事であり、時に創作における大きな困難となって彼らに降りかかってきた。リズム構造によるケージ自身の楽曲と、ちょうどこの頃から始まったフェルドマンの図形楽譜の楽曲を想定すると「音楽をつくるのが 簡単だ ということは 構造の限界を受け入れ よう という意思 からきている。 構造は 考案 し理解し 計測することが できるため 簡単だ 。 」[12]の一節における「構造」に2つの意味を読み取ることができる。1つは、このレクチャーのテキスト自体にケージが施した時間と空間の制御を介して得られる完成された有機的な構造。もう1つは、西洋近代音楽の弁証法的な修辞とは異なる音楽の構造、あるいは構造の不在。前者はケージを、後者はフェルドマンを示唆している。

 全部を読み上げると約1時間を要する「無についてのレクチャー」の中にフェルドマンの名前は一度も出てこない。だが、ここでケージは、一見してわかる明瞭な構造(または何らかの規則に基づいた構造)を持たず、音の鳴らない間(ま)による沈黙が不意に現れ、どのような方法で作られているのか判然としないフェルドマンの楽曲を頭の中でイメージしていたのだろう。たしかに、たとえば「Two Intermissions for piano」(1950)を聴くと、彼の音楽は何かを表現するのではなく、何かを打ち消そうとしているように思えてくる。

Two Intermissions for piano (1950)

「何かについてのレクチャー」
 「何かと無が どうしたら対立せず、互いに必要と しあっていけるかについてだ 。」[13]とケージが冒頭で述べるように、「無についてのレクチャー」は「何かについてのレクチャー」に呼応している。ここでは無 nothing、連続性 continuity、無連続性 non-continuity、受け入れること acceptanceといった言葉が頻出する。ケージは、フェルドマンがこの時取り組んでいた図形楽譜の楽曲「Intersections」シリーズをとりあげてロマンティックな調子で賛辞を送っている。

フェルドマンは 無音について 語り 広い範囲のなかで 最初に現れる 幾音かをとりあげる。 彼は作曲家の 責任を つくることから 受け入れること へと変えた。 結果いかんに かかわらず 生じるもの を受け入れることは あらゆるもの との同一性の感覚 から もたらされる 愛を恐れぬこと あるいはその愛 で満たされる ことである。 このことによって、 フェルドマンが音の すべてと関係するというとき、意味していることが明かになり、 また 他の作曲家 がするように 特定の音符を書き込ま なくとも、何が 起こるか が予見できる。[14]

 「作曲家の責任をつくることから受け入れることへと変えた」の箇所は、不確定性の音楽においては、作曲家が主に演奏方法を楽譜や何らかの方法で指示するが、その結果がどんなものであれ作曲家は自分の作品として受け入れるという態度と解釈できる。この「受け入れること」は後のフェルドマンに不確定性の音楽と即興との境界に関する葛藤を引き起こし、1967年の図形楽譜及び不確定性の音楽の中止へとつながるのだが、1951年当時、まだフェルドマンはこのような作曲に希望と可能性を感じていた。そんな彼の姿をそばで見ていたケージは、ある種の檄文や宣伝のような意味合いを含ませながら、このレクチャーでフェルドマンを英雄的に描写している。このレクチャーをケージが催した背景をRyan Dohoneyは「ケージ、フェルドマン、ローゼンバーグと画家たちに共通する生気論の美学を共有していた証拠としてだけでなく、ケージからフェルドマンに対する友情を表すジェスチャーでもあった as not only evidence of a shared vitalist aesthetics common to Cage, Feldman, Rosenberg, and the painters, but also a gesture of friendship on Cage’s part offered to Feldman.」[15]と考えている。2人の親密な交流を通して「ケージはフェルドマンの ザ・クラブへの加入を世話して、彼の音楽を ザ・クラブに周知させた。Cage midwifed Feldman’s initiation into the Club and made his music intelligible to it.」[16] 。 Dohoneyの視点を踏まえると、この2つのレクチャーには新進作曲家モートン・フェルドマンをダウンタウンのシーンに知らしめようとしたケージの戦略的な意図が見えてくる。実際、1951年以降、このシーンにおけるフェルドマンの存在感が増していき、画家たちとの交流もさらに盛んになる。このレクチャーからしばらくした頃、フェルドマンのもとにポロックのドキュメンタリー映像の音楽の仕事が舞い込んできたのだった。

「ジャクソン・ポロックJackson Pollock」(1951)の音楽

 写真家のハンス・ネイムスは抽象表現主義の画家たちを被写体としていたが、彼らの創作過程における身体性をより鮮烈に捉えるようと映像の領域に足を踏み入れる。このシリーズの第一弾がポロックを題材として制作された約11分の映像「Jackson Pollock」で、映像プロデューサーのパウル・ファルケンベルクも制作者として名を連ねている。フェルドマンにとってはこれが初めての映画音楽となった。

Hans Namuth and Paul Falkenberg/ Jackson Pollock (1951)

 ニューヨーク州スプリングのポロックのアトリエ兼自宅の外で撮影されたこの映像は、床の上に直接置いたキャンヴァス上に、筆や棒につけた顔料を滴らせるドリッピング dripping、顔料を流し込むポーリング pouringと呼ばれるポロックの技法に焦点を当てている。ネイムスの狙いは、ポロックの作品の意味を解釈することではなくて、ポロックの作品の意味とその創作過程とを同一と見なすことだった[17]。「過程(プロセス)を作品と見なす」この考え方は、絵筆のストロークの痕跡そのものを作品とする当時の抽象表現主義絵画の様式の1つであると同時に、後に1960年代半ばからのミニマル・アートとミニマル・ミュージックに引き継がれていく。作品を生み出す過程を克明に映像に収めるため、この映像でポロックは撮影用にガラスをキャンヴァスに見立てて描いている。

 フェルドマンはこの映像のために2挺のチェロによる音楽を書いた。フェルドマンの友人、ダニエル・スターンが演奏したチェロの2つのパートが録音され、映像の中で用いられている。フェルドマンは映像のシークエンスの長さを精確に測りながら、「まるでダンス音楽を作るかのようにこの音楽を作曲した wrote the score as if I were writing music for choreography.」[18]。フェルドマンの音楽はポロック自身による独白のようなナレーションと重ならないタイミングで用いられ、以下の箇所に9回現れる。音楽のないいくつかのシーンによって映像全体に緊張感がもたらされている。いずれの場合も音楽は1〜2分の非常に短い断片で構成されている。

0:18-0:30 ポロックがガラスに自分に名前を書き込んでいる。2音の反復パターンと開放弦による持続音が非常に短いプロローグを奏でる。

3:08-4:05 高音域でのピチカートと開放弦による持続音。ポロックが素早い身のこなしで顔料をキャンヴァスに放つ様子をカメラが追う。

4:07-4:45 キャンヴァスとポロックの影が交互に切り替わるカメラの動きに音楽が同期する。長回しのシーンではチェロが音をひきのばす。

4:54-5:18 ポロックのキャンヴァスが接写される。冒頭の2音パターンの反復と類似した断片が聴こえる。

6:00-7:20 ポロックが一切のためらいも見せずガラスに筆で描いている。高音域でのピチカートが不規則な間隔でせわしなく鳴らされる。

7:28-7:52 ポロックがガラスに上に紐のようなものを配置している。持続音とピチカートが交互に鳴らされる。

7:55-8:13 ポロックがガラスの上に様々な物体を配置している。ピチカートによる和音がほぼ等間隔で鳴らされる。

8:16-8:40 ポロックが顔料を缶から直接キャンヴァスに流し込んでいる。高音域での持続音と激しく打弦されるピチカートが交互に鳴らされる。

8:41-10:01 引き続き、ポロックは素早く筆を動かす。ピチカートによる和音が激しく打弦される。ガラスに書かれたエンドロールが映し出される。

 フェルドマンがこの映像のために書いた音楽は、唐突な反復やアルコでの持続音とピチカートとの対照的な効果など、ほぼ同時期に作曲された「Structures for String Quartet」の書法と重なる部分が多い。違いを1つあげるとすれば両者のダイナミクスにある。前者(ポロックの映像のための音楽)は強めのダイナミクス、後者(「Structures for String Quartet」)は全体的に抑制されたダイナミクスが指示されている。

Structures for String Quartet(1951)

 フェルドマンがこの音楽を完成させたのは、パウル・ザッハー財団が所蔵しているスコアに記されている「1951年5月 May 1951」[19]だとわかる。音楽の依頼がフェルドマンに来た経緯には2つの説が指摘されている[20] 。1つはケージの評伝[21]に書かれているように、1941年4月頃、ポロックの妻で画家のリー・クラスナーが当初ケージに音楽を依頼したが彼は断り、その代案として彼がフェルドマンに持ちかけた説。もう1つは、フェルドマンが1981年のエッセイ「Crippled Symmetry」にて、彼がポロックから直接、音楽の依頼を受けたと書いている[22] 。どちらが正しいのか今となってはわからないが、フェルドマンが「自分のキャリアが始まったばかりだったので、これ(映画音楽の仕事)はとても光栄だった。I was very pleased about this since it was just the very beginning of my career.」[23]と述べていることから、彼にとってこの映画音楽の仕事は率直にうれしかったようだ。

 1951年はフェルドマンの周りでたくさんの出来事が起きた年である。ザ・クラブやセダー・タヴァーンでの人脈と活動はフェルドマンの創作をさらに強烈に突き動かしていく。だが、これだけではない。この年、フェルドマンは彼の名を20世紀後半のアメリカ音楽史に知らしめることになった一連の図形楽譜作品に本格的に着手する。その様子は次回とりあげる。


[1] オリジナルは Pierre Boulez/John Cage: Correspondance et documents, Winterthur: Amedeus Verlag, 1990. 1993年に英訳版が出版された。本稿が参照しているのは1999年にPress Syndicate of the University of Cambridgeから出版された英訳版。2018年には日本語訳『ブーレーズ/ケージ往復書簡集』(笠羽映子訳、みすず書房)が出版された。
[2] Morton Feldman Says: Selected Interviews and Lectures 1964-1987, edited by Chris Villars, London: Hyphen Press, 2006, p. 258
[3] The Boulez-Cage Correspondence, English version, Edited by Jean-Jacques Nattiez, translated and edited by Robert Samuels, Cambridge: The Press Syndicate of the University of Cambridge, 1993, p. 77
[4] Morton Feldman, Essays, Kerpen: Beginner Press, 1985, p. 38
[5] Jonathan W. Bernard, “Feldman’s Painters,” in The New York Schools of Music and Visual Arts: John Cage, Morton Feldman, Edgard Varèse, Willem de Kooning, Jasper Johns, Robert Rauschenberg, edited by Steven Johnson, New York: Routledge, 2002, p. 175
[6] Brad Gooch, City Poet: The Life and Times of Frank O’Hara, New York: Alfred A. Knopf, Inc, 2014, pp. 201-202
[7] Ibid., p. 202
[8] Morton Feldman, Give My Regards to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman, Edited by B. H. Friedman, Cambridge: Exact Change, 2000, p. 4
[9] Feldman 1985, op. cit., p. 38
[10] 「何かについてのレクチャー」が1951年2月9日に行われたことはケージの評伝等で明らかになっているが、「無についてのレクチャー」の日付は定かではない。ケージは「何かについてのレクチャー」において「無についてのレクチャー」に言及する際に「先週」と述べていることから、「無についてのレクチャー」が2月9日の前の週(2月の第1週)に行われたと推測できる。
[11] ケージ、前掲書p. 189。「無についてのレクチャー」「何かについてのレクチャー」ともに原書と日本語版では改行、語句の間を隔てる空間、空白のページの挿入など独自のレイアウトがなされているが、本稿では簡易的なレイアウトに留めた。
[12] 同前、p. 194
[13] 同前、p. 227
[14] 同前 pp. 228-229
[15] Ryan Dohoney, “Spontaneity, Intimacy, and Friendship in Morton Feldman’s Music of the 1950s,” Sep. 27, 2017, https://modernismmodernity.org/articles/morton-feldman, accessed April 19, 2020.
[16] Ibid.
[17] Michael Schreyach, Intention and Interpretation in Hans Namuth’s Film, Jackson Pollock, in Art and Art History Faculty Research, Trinity University, 2012, p. 3, https://digitalcommons.trinity.edu/art_faculty/?utm_source=digitalcommons.trinity.edu%2Fart_faculty%2F2&utm_medium=PDF&utm_campaign=PDFCoverPages, accessed April 29, 2020
[18] Olivia Mattis, “Morton Feldman: Music for the film Jackson Pollock (1951),” 1998, https://www.cnvill.net/mfmattis.htm accessed on April 30, 2020 におけるB.H. Friedman, Jackson Pollock: Energy Made Visible, New York, 1972; repr. 1995, p. 173.からの引用。
[19] Ibid.
[20] Ibid.
[21] David Revil, The Roaring Silence John Cage: A Life, New York: Arcade Publishing, 1992, p. 141
[22] Feldman 2000, op. cit., p. 147
[23] Feldman 2000, op. cit., p. 147

高橋智子
1978年仙台市生まれ。Joy DivisionとNew Orderが好きな無職。

(次回更新は6月15日の予定です)

あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(1)

(筆者:高橋智子)

次の一節は1951年にジョン・ケージがモートン・フェルドマンの音楽について語った「何かについてのレクチャー Lecture on something」からの抜粋である。ここでケージが言おうとしていることの真意をどう解釈すべきか、すぐに答えは出ないが、彼の言葉には妙な説得力がある。

人生はモーティ・ フェルドマンの 曲のように進む。
偶然鳴った 音が面白くなかったと 異論を唱える人も いるかもしれない。
言わせておけ。 今度その曲を聴いた時には、 もっと面白くないか、
突然興奮 するか、いずれにせよ 違っているだろう 。 たぶん
悲惨だろう。 誰がかって ? その人だ。 フェルドマンのことじゃない。 

柿沼敏江訳『サイレンス』水声社、1996年、p. 232より

Feldman/ For Bunita Marcus (1985)

フェルドマンの音楽は難しい

 いうまでもなく、音楽の聴き方や解釈(ここには楽譜を読むことや演奏も含まれる)の方法や可能性は無限だ。ある楽曲や音響に第一印象で心を奪われる場合もあるし、何度か聴いていくうちにどんどんはまり込むこともあるだろう。もちろんこれは本稿でとりあげるモートン・フェルドマンの音楽についても同じだ。たとえば1950年代に書かれたフェルドマンのピアノ独奏曲や1960年代の比較的小規模な室内楽曲に接して、聴き手は、最小限に抑えられたダイナミクスを伴って展開される繊細で官能的な音の世界に魅了されるかもしれない。あるいは、深い黙想に誘う音楽として聴かれるかもしれない。フェルドマンの音楽に対して私たちが抱く印象は様々だが、筆者には、彼の音楽が右から左へと聴き流すことは到底できない、ひっかかりのようなものを常に投げかけてくるように感じられる。この「ひっかかりのようなもの」は、少数の音で構成された音型や、特定の音程の反復などの技術的な特性と、それによる音響的な効果に由来するのだと頭の中ではわかっているはずだ。だが、なぜ「For Bunita Marcus」(1985) 冒頭のC#とDの連打がフェルドマンの音楽として響くのか、その根拠は実のところよくわからない。その響きは作曲家が直感で書き、その結果として偶発的に生じたものなのか。それとも綿密な計算を経て結実したものなのか。彼が記した一音一音には、さらには音と音との空白や沈黙にさえ、理論や技法を論じただけでは量り得ない、だからといって安易な言葉のレトリックに逃げるのを許さない強固で厳しい何かがある。先にフェルドマンの音楽について「最小限に抑えられたダイナミクスを伴って展開される繊細で官能的な音の世界」と書いてしまったが、言葉を尽くして説明しようとすればするほど核心から遠ざかっていくような無力感に襲われる。さすが、サミュエル・ベケットを敬愛した作曲家だ。
 作曲家の発言を鵜呑みにするのは得策ではないものの、フェルドマンは「自分自身についていえば、私の楽曲にまつわる言説のほとんどは後付けであって、方法論についての技術的な議論も大きな誤解を招くだろう。For myself, most of my observations about my work are after the fact, and a technical discussion of my methodology would be quite misleading.」*1と記し、自発的あるいは、少しまじめに彼の音楽を聴いたり、演奏したり、研究しようとする人々を挑発する。だが、実際には既に多くの研究書や論文が刊行されており、楽曲分析にはピッチクラス理論などの分析手法が用いられている。したがって、フェルドマンの楽曲を分析することは不可能ではないし、珍しいことでもない。フェルドマンにとっての「誤解」が誰かにとっての理解の助けになっているのは確かだ。
 今ここで書いている内容とこれから書こうとしている事柄もフェルドマン自身にとっては誤解のひとつに過ぎないかもしれない。しかし、この作曲家とその音楽について、彼が書いた楽曲とそこからかろうじて観察できるなんらかの技術的、理論的な側面だけでなく、交友関係や好きな画家といった情報も合わせて知っておくことは決して無駄ではないと信じたい。
 無調からさらに発展した、およそ第二次世界大戦後からの芸術音楽(広い意味でのクラシック音楽といってもよいし、いわゆる現代音楽の枠組みで語ることもできる)にはその時代、地域、技法等に基づくいくつかの潮流が見られる。たとえばトータル・セリー主義の視点からこの時代を俯瞰した場合、真っ先に浮かぶのはピエール・ブーレーズ、ルイジ・ノーノ、カールハインツ・シュトックハウゼンらのダルムシュタット楽派だろう。
 彼らとほぼ同時代のフェルドマンについて考える場合、作曲家としての活動を始めた1940年代から没年の1987年までの年代、アメリカ合衆国の主に東海岸(ニューヨーク市とバッファロー市)、図形楽譜や持続の自由な楽曲(音符の符尾が記されておらず、奏者の任意で音の長さが定められる)における不確定性などが挙げられる。彼が自身のスタイルを確立する上で頻繁に言及される音楽関連の人物は、主にアントン・ヴェーベルン、エドガー・ヴァレーズ、シュテファン・ヴォルペ、デイヴィッド・チュードア、クリスチャン・ウォルフ、ジョン・ケージ、アール・ブラウン、ピエール・ブーレーズ、カールハインツ・シュトックハウゼンといった面々だ。また、フェルドマンはニューヨーク・スクールおよび抽象表現主義の美術家から創作のインスピレーションを得ていた。彼にとって、その影響はもしかしすると音楽家よりも大きなものだったかもしれない。フェルドマンはジャクソン・ポロック、ウィレム・デ・クーニング、フィリップ・ガストン、マーク・ロスコ、フランツ・クラインにまつわる楽曲を書いている。フェルドマンの音楽の理解者として、詩人のフランク・オハラの存在も忘れることができない。文学ではベケットからの影響が最も大きく、フェルドマン唯一のオペラ『Neither』(1977) のテキスト(脚本と呼ぶにはとても短い散文詩のようなもの)は彼のたっての願いでベケットが書いている。また、1970年代後半から始まる長時間の楽曲は、彼が1976年に訪れたイランを中心とする中東地域の絨毯の存在なしに語れないだろう。
 以上、フェルドマンの音楽と結びつきの深い人物と事物をごく簡単に列挙してみた。これらは彼の音楽に関する基礎知識に過ぎないのだが、それ故に逐一立ち止まる必要がある。この連載でそれぞれをどの程度とりあげることができるのか、まだはっきりとわからないが、筆者はどの一つも省けないほど全てが大事だと考えている。

記譜法と作品年代

 現時点でわかっているフェルドマンの楽曲数は未発表や未完成のおよそ50曲も含めると約200。本稿が参照した作品リストの最新版はクリス・ヴィラーズ Chris Villarsが運営しているMorton Feldman Page(https://www.cnvill.net/mfhome.htm)に
掲載されており、このリストは現在も更新されている。ピアノ独奏曲が36、デュオ、あるいは3台または3人以上のピアノによるアンサンブルによる楽曲が11曲、ピアノと他の楽器との室内楽編成の楽曲が51と、全体的にピアノを用いた楽曲の割合が高い。あまり知られていないがフェルドマンはテープ音楽「Intersection for Magnetic Tape」(1953) を1つ作っている。作品を年代ごとに大まかに区切ると、1943−49年頃までを習作期とみなすことができる。それ以降は1950−56年頃、1957−62年頃、1963−69年頃、1970−1977年頃、1978年から没年の1987年。この区分の根拠は様式の変化に基づいているが、特にフェルドマンの場合は記譜法が作品変遷を検討する際の鍵となる。

Feldman / Intersection for Magnetic Tape

[習作期]
1943-1949
作曲年代が確定されている最も古いものは1943年(フェルドマン16歳)にさかのぼるが、この年に作曲された4曲のうち「First Piano Sonata[to Bela Bartok]」(1943) 以外は未出版、未録音である。

[初期]
1950−56年
この時期は五線譜によるピアノの小品が多いと同時にフェルドマンは図形楽譜の楽曲を書き始める。グラフ用紙の升目による『Projections 1-5』(1950-51)はおそらく最もよく知られているフェルドマンの楽譜の1つだろう。

1957-62年
「Piece for four Pianos」(1957)、「Piano Four Hands 」(1958)、『Durations 1-5』 (1960-61)など、1957年頃から持続の自由な楽譜が頻繁に用いられる。

[中期]
1963−69年
この時期は持続の自由な楽譜がさらに発展し、『Vertical Thoughts 1-5』(1963)のようにそれぞれの音(パート)の演奏順番を破線で記した記譜法が用いられる。「The King of Denmark」(1964)など、図形楽譜は奏法や音色を細かく指定することで50年代よりも複雑になった。フェルドマンは様々な限界と疑問から「In Search of an Orchestration」(1967)で図形楽譜をやめてしまう。

1970-77年
この時期以降から晩年までの記譜法はほとんどが通常の五線譜である。ここでの大きな変化は『Viola in My Life 1-4』(1970-71)、『The Rothko Chapel』(1971)。「String Quartet and Orchestra」(1973)、「Piano and Orchestra」(1975)、といった、ソロ楽器や独立したセクションとオーケストラによる編成のシリーズが始まる。

[後期]
1978−82年
楽譜の外見のテクスチュアがさらに緻密になり、フェルドマンが収集していた中東の絨毯の影響が顕著になる。「String Quartet No. l」(1979)、「Patterns in a Chromatic Field」(1981)、「For John Cage」(1982)など演奏を時間が1時間を超える作品が書かれる。

1983−87年
約5〜7時間の「String Quartet No. 2」(1983)、約4時間半の「For Philip Guston」(1984) など、さらに長時間の楽曲が書かれる。

 様々な視点があるが、記譜法に着目してフェルドマンの楽曲とその様式変遷をごく簡単に概観してみた。もちろん、この変化の様子は当時のフェルドマンが暮らした環境、出会った人物、夢中になっていたものなどと深く関わっている。

生い立ちからジョン・ケージに出会うまで

Morton Feldman, Amsterdam 1976

 今回はフェルドマンの1950年代前半、つまりケージらと出会った当時までたどる。執筆にあたりSebastian Claren, Neither: Die Musik Morton Feldmans, Berlin: Wolke Verlag, 2000巻末のフェルドマン年表と、その英訳版(インタヴューとレクチャー集、Morton Feldman Says: Selected Interviews and Lectures 1964-1987, Edited by Chris Villars, London: Hyphen Press, 2006所収)を参照した。
 モートン・フェルドマン Morton Feldmanは1926年1月12日ニューヨーク市マンハッタン区で生まれ、ブロンクス区で育った。両親は子供の頃にニューヨークに移住したロシア系ユダヤ人。父アーヴィングは兄(フェルドマンの叔父にあたる)が経営する子供服工場で働いていたが途中で独立した。1972年にニューヨーク大学バッファロー校の教授職に就くまで、フェルドマンは父が起した子供用マント会社で働いて生計を立てていた。彼が家業と作曲家業とを掛け持ちしていたことは、フェルドマン自身のインタヴューやエッセイであまり語られていない。
 1935年、9歳のフェルドマンは作曲を始める。これがどんな曲だったのか、具体的な手がかりは今のところ明らかではない。同時期にマンハッタンのロウアー・イースト・サイドでピアノを習い始める。本格的なピアノのレッスンは1938年、フェルドマンが12歳になってからで、彼にとっての初めてのピアノ教師はヴェラ・モーリナ・プレスだった。彼女はロシアでフェルッチョ・ブゾーニなどにピアノを師事した後、ニューヨークに亡命したピアニストだ。フェルドマンは自分のやりたいように音楽をやらせてくれたプレスを尊敬しており、1970年には彼女への追悼として「Madame Press died last week at ninety」を作曲した。1941年、15歳のフェルドマンはアメリカにおける十二音技法の先駆者の一人、ウォーリングフォード・リーガーに作曲を習い始め、対位法などを勉強した。当時通っていた芸術高校 Music and Arts High School 時代のクラスメイトにはシーモア・シフリンがいた。彼は後にUCLAバークレー校時代のラ・モンテ・ヤングの指導教員になった。ここに1950年代半ば以降のアメリカ実験音楽界隈の奇妙なつながりの一端を見ることができる。
 高校卒業後、フェルドマンはニューヨーク大学の入学試験を受けに行くも、他の受験生を見て自分には合わないと感じ、試験を受けずに部屋から出て行ってしまう。以降、フェルドマンは引き続きプライヴェート・レッスンで作曲を学んだ。1944年頃からフェルドマンはシュテファン・ヴォルペのもとに通い始める。彼は途中からヴォルペに月謝を払うのをやめたが、それでも作曲のレッスンは数年間続いたらしい。初期のジョン・ケージの作品のみならず、同時代の実験音楽界隈の初演を数多く手がけたデイヴィット・チュードアもヴォルペのレッスンに通っていた。フェルドマンはエドガー・ヴァレーズからも作曲のレッスンを受けようとしたが断られてしまった。だが、月に一度程度、彼のもとを訪れていたようだ。1958年、フェルドマンは「サウンド、ノイズ、ヴァレーズ、ブーレーズ “Sound, Noise, Varèse, Boulez”」という短い文章を書いている。このエッセイは、1950年代に偶然性をとりいれたブーレーズを「…きっと彼(ブーレーズ)の成功のおかげで、ヴァレーズ、ジョン・ケージ、クリスチャン・ウォルフ、そして自分(フェルドマン)自身について耳にする機会が増えるだろう。 … and it will be thanks that we will able to hear more of Varèse, John Cage, Christian Wolff and myself.」*2 と挑発し、ヴァレーズを音ないし音響soundの物理的な現実性を知らしめてくれた唯一の音楽家として讃えている。

制御を失うその瞬間にクリスタルのような音響が地平を成す。その地平を押しわけた先には響きもなく、音色もなく、感傷もない。最初の一呼吸以外に大事なものは何も残らない−これがヴァレーズの音楽だ。ヴァレーズただ一人が、このような優雅さ、物理的な実体、音楽が作曲されるというより、むしろ人類について書き表している感覚を私たちに与えている。

And those moments when one loses control, and sound like crystals forms its own planes, and with a thrust, there is no sound, no tone, no sentiment, nothing left but the significance of our first breath—such the music of Varèse. He alone has given us this elegance, this physical reality, this impression that the music is writing about mankind rather than being composed.

Morton Feldman, Give My Regards to The Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman, Edited by B. H. Friedman, Cambridge: Exact Change, 2000, p. 2より

ここで引用した部分に限らず、フェルドマンの文章は高度な皮肉と批判精神に満ちていて、時に理解に時間を要する。彼はある意味きわめて雄弁な作曲家だったと言えるだろう。
 「Journey to the End of the Night」(1947)はフェルドマンがヴォルペのもとに通っていた時期に書かれた楽曲だと推測される。起伏の多い表出的なソプラノの旋律とアンサンブルの書法から、当時のフェルドマンが第二次ウィーン楽派の無調の語法を研究していたと想像できる。

Feldman/ Journey to the End of the Night (1947)

 フェルドマンにとって、ヴァレーズと並ぶ、もしかしするとそれ以上の重要な音楽家はやはりケージだろう。フェルドマンがケージと初めて出会ったのは1950年1月26日か27日、カーネギー・ホールでニューヨーク・フィルハーモニックの定期演奏会が行われた日である。この定期演奏会のプログラムはニューヨーク・フィルハーモニックのデジタル・アーカイヴ で見ることができる。前半がケルビーニとベートーヴェン、休憩を挟んだ後半がヴェーベルンとラフマニノフからなる、現在のオーケストラの演奏会ではあまり見られない構成だ。この中で唯一ヴェーベルンの「Symphony Op. 21 for chamber orchestra」(1927/28) が観客の大半から大きな不評を買ったようだ。しかし、フェルドマンとケージはこの曲の演奏に感銘を受けた。興奮気味のフェルドマンは以前ヴォルペの家で見かけたことのあるケージに思わず「すばらしかったですよね?Wasn’t that beautiful?」*3 と声をかけた。ヴェーベルンの曲に対する失望と退屈のあまりブーイングを送った大半の観客と異なり、ケージもこの時のフェルドマンと同じ雰囲気を発していたのだろうか。この様子を自身の文章「ライナーノート Liner Notes」*4 の中で振り返るフェルドマンの筆致がドラマティックなのでどこまで真実なのかわからないが、この瞬間にふたりは出会い、意気投合した。一方、ケージはヴェーベルンの「Symphony Op. 21 for chamber orchestra」が当時の彼にとってとても強い関心の対象だったと、1950年2月にブーレーズに宛てた手紙*5 の中で書いている。作曲家としてのフェルドマンの活動は1950年1月のケージとの出会いによって一気に加速したようにも見える。

Webern/ Symphony op. 21 for chamber orchestra (1927/28)

 フェルドマンと知り合った頃のケージは、ロウアー・マンハッタンの326モンロー・ストリートに位置するボザ・マンション Bozza Mansion(このロフトの大家の名前にちなんでこのように呼ばれていた)に住んでいた。ケージと同じ階には彫刻家のリチャード・リッポルド、詩人で画家のソニア・セクラが、その下の階にはニューヨークのネオ・ダダ芸術家レイ・ジョンソンも住んでいた。ケージと知り合ってまもなくフェルドマンはここの2階に引っ越した。やがてボザ・マンションは、美術家のロバート・ラウシェンバーグ、サリ・ディエネス、ダンサーで振付師のマース・カニングハム、詩人のM. C. リチャーズ、マース・カニングハム・ダンス・カンパニーのダンサー、キャロライン・ブラウンなど、様々な分野の芸術家が行き来する場所となった。もしかしたら、当時のボザ・マンションの様子は日本でいうところのトキワ荘(手塚治虫、赤塚不二夫、藤子不二雄、石ノ森章太郎らが住んでいた東京都豊島区南長崎にあったアパート)に近かったのかもしれない。

 作曲のレッスンのためケージのもとを訪れていたクリスチャン・ウォルフは、ボザ・マンションを訪れていた中でおそらく最年少だと思われる。フェルドマンは当時16歳だった高校生の彼を「テニスシューズのオルフェウス」と呼んでいた。彼の父親が経営する出版社パンテオン・ブックスは『易経』の英訳版を出版していた。ウォルフがケージにプレゼントした『易経』英訳版が「Music for Changes」(1951)をはじめとする偶然性の音楽誕生の一役を担ったことはよく知られたエピソードである。ケージとチュードアがボザ・マンションで出会ったことも、ここでの重要な出来事だ。1950年代から1960年代にかけてのケージのピアノ作品に欠かせない存在であるチュードアをケージに引き合わせたのは他でもなくフェルドマンだった。ケージとフェルドマンを中心に、ボザ・マンションのコミュニティは徐々に音楽版のニューヨーク・スクール結成の機運を高めていく。ケージとカニングハムの勧めで1952年にデンヴァーからアール・ブラウンがニューヨークに移り住み、ニューヨーク・スクールのメンバーが全員揃った。だが、コンピュータや電子音楽に批判的だったフェルドマンはエンジニア畑出身のブラウンを快く思っていなかったようだ。
 ボザ・マンションに集う芸術家、音楽家はコミュニティ形成にとどまらず、創作にとって実践的な影響をもたらし始めた。とりわけ音楽に関して、ここの住人だったケージとフェルドマンを介した人脈とその交流から派生した出来事は、直接的であれ間接的であれ、現時点でわかっている以外にも数多く見られたのではないかと推測できる。ボザ・マンションから外に出ると、当時のフェルドマンにはもう1つの大事な場所があった。それについては次回とりあげる。

*1 Morton Feldman, Give My Regard to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman, Edited by B. H. Friedman, Cambridge: Exact Change, 2000, p. 17
*2 Feldman, op. cit., p. 1
*3 Feldman, ibid., p. 4
*4 初出は雑誌Kulchur, Vol. 2, No. 6, summer 1962 https://fromasecretlocation.com/kulchur/ また1963年にTime Recordsから発売されたアルバム『Feldman/ Brown』のライナーノーツとして用いられた。フェルドマンの著作集 Give My Regards to The Eighth Streetに同じ文章が収録されている。
*5 The Boulez-Cage Correspondence, English version, Edited by Jean-Jacques Nattiez, translated and edited by Robert Samuels, Cambridge: The Press Syndicate of the University of Cambridge, 1993, p. 55

高橋智子
1978年仙台市生まれ。Joy DivisionとNew Orderが好きな無職。

(次回更新は5月15日の予定です)