あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(4) 五線譜による1950年代前半のなんとも言い難い曲

3 恩師シュテファン・ヴォルペ

 フェルドマンにとってヴォルペはウォリングフォード・リーガーの次に習った2番目の作曲教師だった。フェルドマンがヴォルペにレッスンを受けていたのは1944年から1949年までで、その後はニューヨークの作曲家仲間としての付き合いが続いた。

ヴォルペ(左)と妻のオラ
By unknown in 1927Public Domain

 シュテファン・ヴォルペ Stefan Wolpe[9]は1902年ベルリンに生まれた。ベルリン高等音楽学校でモスクワ出身の作曲家パウル・ユオンに作曲と理論を学ぶ。その後、彼はヴァイマールに移り、バウハウスのコミュニティで活動した。ヴォルペがバウハウスで過ごした時期は、彼にとって視覚、動力学、聴覚といった総合的な要素で音楽を考えるきっかけとなった。彼はドイツ共産党の正式な党員ではなかったがベルリン・マルクス主義労働学校に通い、マルクス、レーニン、ヘーゲル、エンゲルスなどを読み、1929年から1933年まで社会主義運動に取り組んだ。1931年にヴォルペは労働組合の劇団Die Truppeの音楽監督に就任し、主に労働歌、頌歌、行進曲、劇音楽を作曲した。1933年にナチスが政権を取ると、ヴォルペはベルリンを追放されてヴィーンに移った。ヴィーンではヴェーベルンに十二音技法を習う。1934年にパレスチナに渡り、彼はパレスチナ音楽院で教鞭を執った。パレスチナ時代の彼はアラブ古典音楽を研究し、この頃に書かれた曲にはその要素を見ることができる。1938年のアメリカ亡命後はニューヨークに永住し、フェルドマンやデイヴィッド・チュードアらに私的な作曲レッスンを行うほか、ブラック・マウンテン・カレッジの音楽監督を務めるなど、バウハウス時代に培った異分野との共生の精神をアメリカでも発揮していた。彼はフェルドマンが熱心に通っていたニューヨークの吹き溜まり、ザ・クラブの常連として抽象表現主義の画家や詩人とも親交があった。バウハウスでの経験を持ち、ザ・クラブのような場所にも積極的に顔を出していたヴォルペの経歴と暮らしぶりもニューヨークの音楽家としてのフェルドマンのふるまい方に少なからず影響を与えていたと思われる。

 フェルドマンにとってヴォルペはどのような先生だったのだろうか。彼はヴォルペとのレッスンの様子を次のように振り返る。

シュテファン・ヴォルペのもとで作曲家としての訓練を始めた頃、私たちの全てのレッスンについてまわったテーマは、なぜ私が自分のアイディアを発展させずに、1つのアイディアから別のアイディアへと移っていくのかということだった。ヴォルペはこれを「打ち消し」として説明した。多くの作曲家、特に彼の時代の作曲家と違い、彼は私のアイディアに疑問を挟まなかったし、何らかのシステムを賞揚して私にそれを使わせようともしなかった。私はこのことにとても感謝している。なぜなら、その当時、私は様々な方法の間で揺れていて、これらを用いた戦略的な解決策が自分の直面していた問題にとても大きく貢献するだろうと思っていたことが記憶にあるからだ。

In my early training as a composer with Stefan Wolpe, the one theme persistent in all our lessons was why I did not develop my ideas but went from one thing to another. “Negation” was how Wolpe characterized this. Unlike so many composers, especially of his era, he didn’t question my ideas or extol any systems for me to use. I’m thankful for this, since at that time I remember I was dangling between various procedures whose tactical solutions were to contribute so much to this problem that confronted me.[10]

 この当時のフェルドマンの「自分のアイディアを発展させずに、1つのアイディアから別のアイディアへと移っていく」思考方法は、音列に見せかけて、実はそれを展開させることはなく、その後まったく別の要素を臆面もなくとりいれる「Intermissions 5」の構成(前半は半音階的なクラスターとパッセージ、後半は突如現れた反復パターン)と重なる。ヴォルペとの「打ち消し」に基づく対話はフェルドマンが楽曲を構成する際の思考にも反映されているといえるだろう。彼のアイディアを否定せず、彼に何かを強いることもなかったヴォルペは、まだ自分の音楽を確立できていないこの若い作曲家に何らかの確信と自信をもたらしたのかもしれない。

 フェルドマンから見たヴォルペは「彼の人格の88の音全てを用いたような人物だった。彼はコインの反対側が大好きだった。彼はいつも反対側について話していて、実際、統一された対立項によるヘーゲル的な弁証法は、本質的に、彼の生涯に一貫した作曲の哲学だった。Wolpe was the kind of man who used all eighty-eight notes of his personality. He loved what was on the opposite side of the coin. He always talked about opposites, in fact, the Hegelian dialectic of unified opposites was essentially his compositional philosophy throughout his life.」[11]。表と裏、正と反といった対立概念とその止揚の力学は、例えばヴォルペの「Set of Three Movements for Two Pianos and Six Hands」(1949)に見ることができる。

Wolpe/Set of Three Movements (1949)
*リンク先の映像では作曲年代が1951年と記されているが、Wolpe Societyの作品リストに即してここでは1949年とした。

 この曲は第1パートと第2パートが1台のピアノを共有して演奏し、第3パートがもう1台のピアノを1人で演奏する、ピアノ2台に3人の奏者の編成だ。音を聴くだけではなかなかわからないのだが、Clarksonによる分析によれば、この曲は2つの流れからできていて第1パートと第2パートが1つの流れを一緒に作り、第3パートは第1、2パートと対照的なもう1つの流れを作る[12]。 例えば冒頭の数小節は1、2パートが下行音形、第3パートが上行音形で進み、相対する2つの流れが同時に起きる。こうすることで、この曲ではどちらかの方向に偏ることのない同質的で均衡のとれたテクスチュアを維持できる。ここでの同質性や均衡はポロックやマーク・ロスコやフランツ・クラインの絵画にも通じており、さらにはフェルドマンの図形楽譜作品の音域や楽器の均等な分布にもつながるといえる。実際、フェルドマンはヴォルペのこの「反対側 opposite」と全体的なアプローチが図形楽譜と初期の五線譜の作品に影響を与えたと言っている。

ヴォルペのもとでの勉強を終えてすぐに、私はこの概念を自分の音楽に取り入れた。それは私の図形楽譜の基礎となった。(中略)あるいは、私の五線譜の初期の曲におけるオクターヴと音程の(訳注:記譜上の)外見が全体的な和声言語に対する文脈から外れている。私はこれが正確に相反するものだとは思っていない。だが、ヴォルペはコインの反対側を見るよう私に教えてくれた。

I took this overall concept with me into my own music soon after finishing my studies with Wolpe. It was the basis of my graph music. … Or, in earlier notated pieces of mine the appearance of octaves and tonal intervals out of context to the overall harmonic language. I didn’t exactly think of this as opposites–but Wolpe taught me to look on the other side of the coin.[13]

たしかにここでフェルドマンが言及しているように、彼の初期の五線譜の曲の音程の用い方は特徴的で、特定の音程(フェルドマンお気に入りの音程は7度と2度)を頻出させる傾向がある。

 ヴォルペの作曲における音程について、エリオット・カーターは興味深いエピソードを書いている。自身も講師を務めたカーターは1959年のダーリントン・ホールの夏期講習でヴォルペによる講義を聴いていた。

ピアノに座るとすぐに彼(ヴォルペ)は基本的な素材である音程がいかにすばらしいのかという瞑想に没頭した。彼はそれぞれの音程をピアノで何度もくり返して弾き、歌い、唸り、大きく、柔らかく、すばやく、ゆっくりと、短く、各々の音を別個にあるいは引き離して、それらを表現豊かにハミングしていた。この授業が終わる頃には私たちは皆、時間が経つのを忘れていた。彼が――午後の時間を全てかけて――最小の音程、短2度から最大の音程、長7度へと私たちを連れて行ってくれた時、音楽が生まれ変わり、新しい光が射し始めた。私たちは皆、この時聴いたのと同じ音楽をもう二度と聴けないことはわかっていた。シュテファンは私たちにこれらの基本的な要素の生きた力を直接体験させてくれた。それからというもの(訳注:音程に対する)無関心は考えられなくなった。私たちの多くにとって、このようなレッスンは後にも先にも経験したことがなかったはずだ。

At once, sitting at the piano, he was caught up in a meditation on how wonderful these primary materials, intervals, were; playing each over and over again on the piano, singing, roaring, humming them, loudly, softly, quickly, slowly, short and detached or drawn out and expressive. All of us forgot time passing, when the class was to finish. As he led us from the smallest one, a minor second, to the largest, a major seventh–which took all afternoon–music was reborn, new light dawned, we all knew we would never again listen to music as we had. Stefan had made each of us experience very directly the living power of these primary elements. From then on indifference was impossible. Such a lesson most of us never had before or since, I imagine.[14]

 カーターのこの描写から、ヴォルペが音楽の基本要素の1つである音程を重視していたことがわかる。それぞれの音程を様々なダイナミクスや方法で弾き、歌うことで、その音程の特性について立ち止まって考える行為は、楽曲という連続性を作る一要素としての音程の捉え方と同じではない。ヴォルペはその音程独自の響きに立ち返ることを教えたかったのだろうか。これと同じようなことをヴォルペとフェルドマンがレッスンの際にやっていたかどうかはわからないが、その音程が持つ響きを注視する姿勢はフェルドマンがいうところの「音それ自体」ととても近しい関係にある。ヴォルペのこのエピソードから、「音それ自体」という言葉が、音と音との隔たりや重なり、つまり音程とその響きの意味合いも持っているのではないかと推測される。「音それ自体」という言葉は、楽音以外の音に注意を払ってあらゆる音を聴き取るケージ的な聴取の創造性に着目した考えとも結びつきやすい。だが、ヴォルペの存在を介することで、この言葉に上記の別の可能性を見出すことができた。

 一方、ヴォルペはフェルドマンのことをどのように見ていたのだろうか。1956年のダルムシュタット夏季現代音楽講習会で行った講演の中で、ヴォルペはフェルドマンの音楽がいかにして音楽における明示的な意味や明瞭な音の輪郭を回避しているのかを説明している。

彼(フェルドマン)はできるだけ切り詰めた表面と、遠くからはほとんど聴こえないくらいの音型の痕跡に興味を持っている。おそらくそれでも多すぎるくらいだ。消滅の瀬戸際に追い込まれたこの音楽は美に対する悪魔的な試練だ。こうした理由から、素材をわかりやすく実体化させるものは何も起こらない。音高の配置によるまとまりから生じた状況は、このような曲の中ではあまりにも具体的で、はっきりしすぎていて、物質的だ。ここで素材はその自発的な生成の流れの中でかたち作られる。

He is interested in surfaces that are as spare as possible and in the remnants of shapes that can barely be heard at a distance. Perhaps even these are too many. Brought to the brink of dissolution this music is a diabolic test of beauty. Because of this, nothing happens which could lead to greater substantiation [Verstofflichung] of the material. Situations derived from sets of constellations of pitches would be much too concrete, too specific, too corporeal in such a piece. Here the material is formed in the flow of its spontaneous generation.[15]

この講演が行われた1956年という年代をふまえると、ここでヴォルペが念頭に置いているフェルドマンの楽曲は「Projection」シリーズのような音が散発的に発せられる楽曲、「できるだけやわらかく Soft as possible」と楽譜に記されている「Extensions 3」(1952)のような控えめなダイナミクスによる楽曲だと考えられる。どちらの曲もまとまった音型や輪郭の印象が希薄な音楽だ。「Extensions 3」はオクターヴの反復や7度音程が頻出する点で、当時のフェルドマンの作曲の志向と嗜好の両方を反映している。

Feldman/ Extensions 3 (1952)

 フェルドマンとヴォルペの師弟関係から、1950年代前半の五線譜で書かれたフェルドマンの楽曲の鍵となる要素の1つが音程であることがわかった。音程は取り立てて珍しいものでもなく、むしろ音楽の基本中の基本だが、ここに引用したいくつかのエピソードは「音それ自体」という言葉にさらなる具体性を与えている。