あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(4) 五線譜による1950年代前半のなんとも言い難い曲

(筆者:高橋智子)

 前回はフェルドマンの図形楽譜の成り立ち、彼が図形楽譜で意図していた音楽、ジャクソン・ポロックの絵画技法との関係、演奏の際に生じる矛盾とデイヴィッド・チュードアによる解決方法などをとりあげた。今回はフェルドマンが図形楽譜作品と並行して作曲した1950年代前半の五線譜で書かれた楽曲について考察する。

1 「出来事」と「音それ自体」による音楽

 図形楽譜の楽曲について考える際は、上述のとおり抽象表現主義絵画からの影響、ジョン・ケージ周辺の人間関係等、耳目をひくエピソードをいくつもあげることができて話題に事欠かない。一方、五線譜で書かれたフェルドマンの1950年代前半の楽曲について考察を試みると、図形楽譜の曲と比べて楽曲とそれにまつわるエピソード共々なんとなく地味な印象だ。はっきり言ってどこから手をつけてよいのかわからない。こういう場合でも、まずはいつもどおりスコアを見ながら曲を聴き、作曲家の言説や先行研究を吟味するしかなく、今回もその手順を踏んだ。突発的に鳴らされる和音、オクターヴで重ねられた音の繰り返しといった「出来事」からフェルドマンの楽曲を基礎づけるなんらかの技法、統一性、見取り図のような要素をこれらの手順を経た先に見つけることができるのだろうか。

 楽曲の中のある部分や要素をとり出して、そこに注釈を加える際に「フレーズ」「パッセージ」「モティーフ」「テーマ」といった語がしばしば用いられるが、フェルドマンの音楽、とりわけ50年代から60年代の曲には上記の言葉よりも「出来事」という言葉が使われることが多い。この「出来事(英語圏の先行研究ではevent)」という言葉には連続する時間の感覚やイメージではなく、断続的で不規則で瞬間的な現象の意味合いが強く、1つの出来事が起きて、次に別の出来事が起きるイメージが連想される。たとえば「Intermission 5」(1952)を事前の情報や楽譜なしで聴けば、この「出来事」の感覚を想像できるだろう。

Feldman/ Intermission 5 (1952)

 この曲の特徴を手短に述べると、最初から最後までダンパー・ペダルとシフト・ペダル(una corda)を踏み続けること、pppからfffにおよぶ極端なダイナミクス、極端に広い音の跳躍をあげることができる。前半はクラスターのような和音が思わぬタイミングでいくつか鳴らされ、後半は反復パターンが9回現れる。この曲はもちろん無調だが、曲の進行に沿って現れるそれぞれの音高を並べたところで音列とその展開を見つけられるわけでもない。やはりこのような場合は「出来事」と位置付けるのが無難なのかもしれない。こうしたなんとも言い難い音楽を言語化する際、「出来事」は便利な言葉である。

 「音それ自体 (the sound itself または the sounds themselves)」もフェルドマンの初期の音楽に関して「出来事」と並んでよく用いられる表現だ。この言葉は作曲のレトリックから音を解放すること、抽象的な音の冒険、時間のキャンヴァスなどのフェルドマンの初期作品の鍵となる音楽観と結びついていて、特定の技法や様式を参照しながら楽曲を解明するのが困難な場合に持ち出される便利な表現でもある。フェルドマンはエッセイ「Predeterminate/ Indeterminate」の中で「曲を作るために伝統的に用いられてきた要素を“解放すること”でしか音はそれ自体として存在することができないだろう――記号としてでもなく、他の音楽を呼び起こす記憶としてでもなく。Only by “unfixing” the elements traditionally used to construct a piece of music could the sounds exist in themselves—not as symbols, or memories which were memories of other music to begin with.」[1]と書いている。フェルドマンがここで述べている「音がそれ自体として存在すること」は、創造行為あるいは作曲から人為性をできるだけ排すことを試み、『易経』から着想を得た偶然性をとりいれたケージの態度とも重なる。音を様々な方法で並べて1つの楽曲を構築する従来の作曲行為を前提とすると、フェルドマンがいう「音それ自体」は作曲とは相容れない概念になりうる可能性も出てくる。

 フェルドマンの初期の楽曲を演奏実践と聴取の両方から分析するHirataは「音それ自体」にまつわる疑問や矛盾を率直に表している。「“音それ自体”。すばらしいアイディアだった。もしも彼または彼女(訳注:作曲家)が慎重で、曲の中に音をどう配置するのかに細心の注意を払うならば、それらの音が曲の中に組み込まれていない場合に聴こえるのと全く同じ音を私たちは聴くことになるはずだ。“The sounds themselves.” It was a fantastic idea. That if the composer were careful, careful about how he or she put the sounds into the composition, we might hear those sounds just as we would hear them if they were not in the composition.」[2]。その後もHirataは独白を続け、「だけど、もちろん“音それ自体”を実際に聴いてはいない。“But of course we never really hear ‘the sounds themselves”」[3]ことに気づく。「本当に私たちは曲の外の音を聴くのと同じように曲の中の音を聴いているわけではない。『その前に起きたこと』は実際のところ私たちの記憶から決して消えない。“We never really hear a sound in a composition just as hear it out of the composition. ‘What happened before’ is never really erased from memory”」[4]。Hirataによるこの独白は「音それ自体」と言い出してしまった途端に従来の作曲と楽曲の概念や枠組みが成り立たなくなってしまうことを示唆している。フェルドマンが書いた音は、たとえそれが単音であっても楽曲の枠組みに収まり、フェルドマンの楽曲の体を為す。特に五線譜に書き込まれた音は、もちろん休符も同じく、どんなものであれ、少なくともそれが演奏されている時間の中では、例えば「フェルドマンの〜という曲のGの音」として認識される。「音それ自体」はフェルドマンによる単なる言葉の綾なのか。それとも後付けによる楽曲分析を交わすための予防線なのか。1950年代前半のなんとも言い難い楽曲の数々を知る近道はそう簡単に見つかりそうもないが、楽曲中の瞬発的な断片を「出来事」として片付けてしまうのではなく、また「音それ自体」という言葉にも惑わされずに、そしてあきらめずに楽曲とその背景を見ていこう。

2 フェルドマンの初期作品と十二音技法

 フェルドマンの図形楽譜の楽曲「Projections 1-5」(1950-1953)と「Intersections 1-5」(1951-1953)には音域や各パートの出現頻度に均等な分布が見られ、この要素がフェルドマンにとっての全面的なアプローチを示唆していることがわかった。前回解説したように、フェルドマンの図形楽譜の楽曲は音域だけが指定されていて、演奏ごとに音の鳴り響きが変わる不確定性の音楽だ。一方、同じ時期に作曲された五線譜の作品の大半は一部の例外を除いて[5]音高、音価、ダイナミクス、奏法などほとんどの要素が楽譜に記された「普通の」楽譜の体裁をとる。全6曲からなる「Intermissions」シリーズ1、2番目「Two Intermissions」(1950)の半音階的な音高の配置、散発的なテクスチュア、極端なくらい広い音程の跳躍は、一体どこに、または誰の音楽に起源があるのだろうか。何人かの作曲家の名前が浮かぶが、ここで真っ先に浮かぶのはアントン・ヴェーベルンだろう。フェルドマンの「Two Intermissions」は例えばヴェーベルンの「Variations op. 27」(1936)第1曲目の記譜上の見た目とよく似ている。また、フェルドマンの「Nature Piece」第5曲目の短い音価での和音、極端なダイナミクスはヴェーベルンの「Variations」第2曲目と音の響きの点で類似しており、さらにどちらの曲も短いという共通点がある。だが、フェルドマンの多くの楽曲の場合、先の「Intermissions 5」と同様、半音階的な音のまとまりを配置する十二音技法に近い要素が確かに見られるが、それらの音のまとまりは音列とは言えない方法で現れるのみで完全な音列技法には発展していない。

Feldman/ Two Intermissions (Intermission 1, Intermission 2) (1950)
Feldman/ Nature Piece 5 (1951)
Webern/ Variations op. 27 (1936)

 当時のアメリカの作曲家に十二音技法がどのような意味と有用性を持っていたのか分析したStrausによれば、彼らは十二音技法に「統一性と一貫性の源泉、局所的な音程とモティーフの整合性の源泉、長い範囲でのゴールと構造的な深さの源泉a source of unity and coherence, of local intervallic and motivic consistency, of long-range goals, and structural depth」[6]を見出した。端的にいうと彼らにとっての十二音技法は「12の音[7]の世界について体系的に考える方法だ。それは音の局所的な組み合わせと網目だけでなく、さらに大きな持続による結合と構造をもたらすアプローチである。a way of thinking systematically about the world of twelve tones. It is an approach that suggests not only local combinations and networks of tones, but also associations and structures of greater duration.」[8]。同時代のヨーロッパの動向とほぼ同じく20世紀中頃以降のアメリカの、どちらかというとアカデミックな作曲家の音楽と、後の実験的な作曲家の音楽は基本的に無調だが、全員が十二音技法の後にトータル・セリーのような急進的な方向に進んだわけではなかった。当時のアメリカの作曲家の多くは好むと好まざると十二音技法の洗礼を受けており、十二音技法ほど厳密ではなくとも何かしらの音列や、列に満たないような少数の音による音群を使った方法で作曲していた。彼らは無調とトータル・セリーの中間地点として、なおかつある程度の自分の独自性を発揮できる方法として十二音技法をとりいれていたのだろう。その背景には当時の音楽教育や徒弟制度が関係していた。もちろん、アルノルト・シェーンベルクが1934年にアメリカに移住したこともこの背景に深く関わっている。フェルドマンに限らず20世紀以降のアメリカの作曲家は西海岸、東海岸ともに音楽学校の授業や教師を通じて十二音技法を習得し、この技法を用いた習作がもはや必須とされていたともいえる。ミニマル音楽で知られるラ・モンテ・ヤングとテリー・ライリーでさえ学生時代を過ごした1950年代後半には音列で作曲していた。このような背景から、彼らの一世代前に当たるフェルドマンの1940年代、1950年代の楽曲にヴェーベルンの面影を見出すことはなんら不思議ではない。フェルドマンが作曲を独習するなかでヴェーベルンら新ヴィーン楽派の音楽に触れてことは想像できるが、彼とヴェーベルンの音楽とのさらなる接点を考えると、おそらくシュテファン・ヴォルペによるレッスンが彼の初期作品の半音階書法に大きな影響を与えたのではないだろうか。ヴォルペとフェルドマンとの師弟関係から、1950年代前半のなんとも言い難い曲を知るためのヒントがいくつか見つかるかもしれない。

3 恩師シュテファン・ヴォルペ

 フェルドマンにとってヴォルペはウォリングフォード・リーガーの次に習った2番目の作曲教師だった。フェルドマンがヴォルペにレッスンを受けていたのは1944年から1949年までで、その後はニューヨークの作曲家仲間としての付き合いが続いた。

ヴォルペ(左)と妻のオラ
By unknown in 1927Public Domain

 シュテファン・ヴォルペ Stefan Wolpe[9]は1902年ベルリンに生まれた。ベルリン高等音楽学校でモスクワ出身の作曲家パウル・ユオンに作曲と理論を学ぶ。その後、彼はヴァイマールに移り、バウハウスのコミュニティで活動した。ヴォルペがバウハウスで過ごした時期は、彼にとって視覚、動力学、聴覚といった総合的な要素で音楽を考えるきっかけとなった。彼はドイツ共産党の正式な党員ではなかったがベルリン・マルクス主義労働学校に通い、マルクス、レーニン、ヘーゲル、エンゲルスなどを読み、1929年から1933年まで社会主義運動に取り組んだ。1931年にヴォルペは労働組合の劇団Die Truppeの音楽監督に就任し、主に労働歌、頌歌、行進曲、劇音楽を作曲した。1933年にナチスが政権を取ると、ヴォルペはベルリンを追放されてヴィーンに移った。ヴィーンではヴェーベルンに十二音技法を習う。1934年にパレスチナに渡り、彼はパレスチナ音楽院で教鞭を執った。パレスチナ時代の彼はアラブ古典音楽を研究し、この頃に書かれた曲にはその要素を見ることができる。1938年のアメリカ亡命後はニューヨークに永住し、フェルドマンやデイヴィッド・チュードアらに私的な作曲レッスンを行うほか、ブラック・マウンテン・カレッジの音楽監督を務めるなど、バウハウス時代に培った異分野との共生の精神をアメリカでも発揮していた。彼はフェルドマンが熱心に通っていたニューヨークの吹き溜まり、ザ・クラブの常連として抽象表現主義の画家や詩人とも親交があった。バウハウスでの経験を持ち、ザ・クラブのような場所にも積極的に顔を出していたヴォルペの経歴と暮らしぶりもニューヨークの音楽家としてのフェルドマンのふるまい方に少なからず影響を与えていたと思われる。

 フェルドマンにとってヴォルペはどのような先生だったのだろうか。彼はヴォルペとのレッスンの様子を次のように振り返る。

シュテファン・ヴォルペのもとで作曲家としての訓練を始めた頃、私たちの全てのレッスンについてまわったテーマは、なぜ私が自分のアイディアを発展させずに、1つのアイディアから別のアイディアへと移っていくのかということだった。ヴォルペはこれを「打ち消し」として説明した。多くの作曲家、特に彼の時代の作曲家と違い、彼は私のアイディアに疑問を挟まなかったし、何らかのシステムを賞揚して私にそれを使わせようともしなかった。私はこのことにとても感謝している。なぜなら、その当時、私は様々な方法の間で揺れていて、これらを用いた戦略的な解決策が自分の直面していた問題にとても大きく貢献するだろうと思っていたことが記憶にあるからだ。

In my early training as a composer with Stefan Wolpe, the one theme persistent in all our lessons was why I did not develop my ideas but went from one thing to another. “Negation” was how Wolpe characterized this. Unlike so many composers, especially of his era, he didn’t question my ideas or extol any systems for me to use. I’m thankful for this, since at that time I remember I was dangling between various procedures whose tactical solutions were to contribute so much to this problem that confronted me.[10]

 この当時のフェルドマンの「自分のアイディアを発展させずに、1つのアイディアから別のアイディアへと移っていく」思考方法は、音列に見せかけて、実はそれを展開させることはなく、その後まったく別の要素を臆面もなくとりいれる「Intermissions 5」の構成(前半は半音階的なクラスターとパッセージ、後半は突如現れた反復パターン)と重なる。ヴォルペとの「打ち消し」に基づく対話はフェルドマンが楽曲を構成する際の思考にも反映されているといえるだろう。彼のアイディアを否定せず、彼に何かを強いることもなかったヴォルペは、まだ自分の音楽を確立できていないこの若い作曲家に何らかの確信と自信をもたらしたのかもしれない。

 フェルドマンから見たヴォルペは「彼の人格の88の音全てを用いたような人物だった。彼はコインの反対側が大好きだった。彼はいつも反対側について話していて、実際、統一された対立項によるヘーゲル的な弁証法は、本質的に、彼の生涯に一貫した作曲の哲学だった。Wolpe was the kind of man who used all eighty-eight notes of his personality. He loved what was on the opposite side of the coin. He always talked about opposites, in fact, the Hegelian dialectic of unified opposites was essentially his compositional philosophy throughout his life.」[11]。表と裏、正と反といった対立概念とその止揚の力学は、例えばヴォルペの「Set of Three Movements for Two Pianos and Six Hands」(1949)に見ることができる。

Wolpe/Set of Three Movements (1949)
*リンク先の映像では作曲年代が1951年と記されているが、Wolpe Societyの作品リストに即してここでは1949年とした。

 この曲は第1パートと第2パートが1台のピアノを共有して演奏し、第3パートがもう1台のピアノを1人で演奏する、ピアノ2台に3人の奏者の編成だ。音を聴くだけではなかなかわからないのだが、Clarksonによる分析によれば、この曲は2つの流れからできていて第1パートと第2パートが1つの流れを一緒に作り、第3パートは第1、2パートと対照的なもう1つの流れを作る[12]。 例えば冒頭の数小節は1、2パートが下行音形、第3パートが上行音形で進み、相対する2つの流れが同時に起きる。こうすることで、この曲ではどちらかの方向に偏ることのない同質的で均衡のとれたテクスチュアを維持できる。ここでの同質性や均衡はポロックやマーク・ロスコやフランツ・クラインの絵画にも通じており、さらにはフェルドマンの図形楽譜作品の音域や楽器の均等な分布にもつながるといえる。実際、フェルドマンはヴォルペのこの「反対側 opposite」と全体的なアプローチが図形楽譜と初期の五線譜の作品に影響を与えたと言っている。

ヴォルペのもとでの勉強を終えてすぐに、私はこの概念を自分の音楽に取り入れた。それは私の図形楽譜の基礎となった。(中略)あるいは、私の五線譜の初期の曲におけるオクターヴと音程の(訳注:記譜上の)外見が全体的な和声言語に対する文脈から外れている。私はこれが正確に相反するものだとは思っていない。だが、ヴォルペはコインの反対側を見るよう私に教えてくれた。

I took this overall concept with me into my own music soon after finishing my studies with Wolpe. It was the basis of my graph music. … Or, in earlier notated pieces of mine the appearance of octaves and tonal intervals out of context to the overall harmonic language. I didn’t exactly think of this as opposites–but Wolpe taught me to look on the other side of the coin.[13]

たしかにここでフェルドマンが言及しているように、彼の初期の五線譜の曲の音程の用い方は特徴的で、特定の音程(フェルドマンお気に入りの音程は7度と2度)を頻出させる傾向がある。

 ヴォルペの作曲における音程について、エリオット・カーターは興味深いエピソードを書いている。自身も講師を務めたカーターは1959年のダーリントン・ホールの夏期講習でヴォルペによる講義を聴いていた。

ピアノに座るとすぐに彼(ヴォルペ)は基本的な素材である音程がいかにすばらしいのかという瞑想に没頭した。彼はそれぞれの音程をピアノで何度もくり返して弾き、歌い、唸り、大きく、柔らかく、すばやく、ゆっくりと、短く、各々の音を別個にあるいは引き離して、それらを表現豊かにハミングしていた。この授業が終わる頃には私たちは皆、時間が経つのを忘れていた。彼が――午後の時間を全てかけて――最小の音程、短2度から最大の音程、長7度へと私たちを連れて行ってくれた時、音楽が生まれ変わり、新しい光が射し始めた。私たちは皆、この時聴いたのと同じ音楽をもう二度と聴けないことはわかっていた。シュテファンは私たちにこれらの基本的な要素の生きた力を直接体験させてくれた。それからというもの(訳注:音程に対する)無関心は考えられなくなった。私たちの多くにとって、このようなレッスンは後にも先にも経験したことがなかったはずだ。

At once, sitting at the piano, he was caught up in a meditation on how wonderful these primary materials, intervals, were; playing each over and over again on the piano, singing, roaring, humming them, loudly, softly, quickly, slowly, short and detached or drawn out and expressive. All of us forgot time passing, when the class was to finish. As he led us from the smallest one, a minor second, to the largest, a major seventh–which took all afternoon–music was reborn, new light dawned, we all knew we would never again listen to music as we had. Stefan had made each of us experience very directly the living power of these primary elements. From then on indifference was impossible. Such a lesson most of us never had before or since, I imagine.[14]

 カーターのこの描写から、ヴォルペが音楽の基本要素の1つである音程を重視していたことがわかる。それぞれの音程を様々なダイナミクスや方法で弾き、歌うことで、その音程の特性について立ち止まって考える行為は、楽曲という連続性を作る一要素としての音程の捉え方と同じではない。ヴォルペはその音程独自の響きに立ち返ることを教えたかったのだろうか。これと同じようなことをヴォルペとフェルドマンがレッスンの際にやっていたかどうかはわからないが、その音程が持つ響きを注視する姿勢はフェルドマンがいうところの「音それ自体」ととても近しい関係にある。ヴォルペのこのエピソードから、「音それ自体」という言葉が、音と音との隔たりや重なり、つまり音程とその響きの意味合いも持っているのではないかと推測される。「音それ自体」という言葉は、楽音以外の音に注意を払ってあらゆる音を聴き取るケージ的な聴取の創造性に着目した考えとも結びつきやすい。だが、ヴォルペの存在を介することで、この言葉に上記の別の可能性を見出すことができた。

 一方、ヴォルペはフェルドマンのことをどのように見ていたのだろうか。1956年のダルムシュタット夏季現代音楽講習会で行った講演の中で、ヴォルペはフェルドマンの音楽がいかにして音楽における明示的な意味や明瞭な音の輪郭を回避しているのかを説明している。

彼(フェルドマン)はできるだけ切り詰めた表面と、遠くからはほとんど聴こえないくらいの音型の痕跡に興味を持っている。おそらくそれでも多すぎるくらいだ。消滅の瀬戸際に追い込まれたこの音楽は美に対する悪魔的な試練だ。こうした理由から、素材をわかりやすく実体化させるものは何も起こらない。音高の配置によるまとまりから生じた状況は、このような曲の中ではあまりにも具体的で、はっきりしすぎていて、物質的だ。ここで素材はその自発的な生成の流れの中でかたち作られる。

He is interested in surfaces that are as spare as possible and in the remnants of shapes that can barely be heard at a distance. Perhaps even these are too many. Brought to the brink of dissolution this music is a diabolic test of beauty. Because of this, nothing happens which could lead to greater substantiation [Verstofflichung] of the material. Situations derived from sets of constellations of pitches would be much too concrete, too specific, too corporeal in such a piece. Here the material is formed in the flow of its spontaneous generation.[15]

この講演が行われた1956年という年代をふまえると、ここでヴォルペが念頭に置いているフェルドマンの楽曲は「Projection」シリーズのような音が散発的に発せられる楽曲、「できるだけやわらかく Soft as possible」と楽譜に記されている「Extensions 3」(1952)のような控えめなダイナミクスによる楽曲だと考えられる。どちらの曲もまとまった音型や輪郭の印象が希薄な音楽だ。「Extensions 3」はオクターヴの反復や7度音程が頻出する点で、当時のフェルドマンの作曲の志向と嗜好の両方を反映している。

Feldman/ Extensions 3 (1952)

 フェルドマンとヴォルペの師弟関係から、1950年代前半の五線譜で書かれたフェルドマンの楽曲の鍵となる要素の1つが音程であることがわかった。音程は取り立てて珍しいものでもなく、むしろ音楽の基本中の基本だが、ここに引用したいくつかのエピソードは「音それ自体」という言葉にさらなる具体性を与えている。

4 実はそれほど単純ではない「Piano Piece 1952」(1952)

 「音それ自体」が1音の響きだけでなく、音と音とが作り出す隔たりの中で生まれる響きの関係、つまり音程も意味するならば、「Piano Piece 1952」はこの言葉が描こうとする音や音楽に近い曲かもしれない。

 タイトルが示す通り「Piano Piece 1952」は1952年に作曲された。出版された楽譜は1曲あるいは1部で完結しているが、パウル・ザッハー財団所蔵とゲッティ・インスティチュート所蔵のいくつかのスケッチによると、この曲は当初2部構成だったようだ[16]。1962年にペータース社から初めて出版された時には既に前半部分が削除されていた。同じくペータース社から1998年に出版されたフェルドマンのピアノ曲集『Morton Feldman Solo Piano Works 1950-64』に収録された際もスケッチにおける前半部分または第1曲目は跡形もなく消えている。曲が完成してまもない1952年に行われた私的な演奏会の中でフェルドマン自身がピアノを弾いた非公式な初演が行われた。公の場での初演は1959年3月2日、ニューヨーク市にてチュードアのピアノで行われた。この2つの場での演奏では、まだ前半部分が残されていた可能性がある。

 1952年の私的な初演の観客にはクリスチャン・ウォルフとルチアーノ・ベリオがいた。その時の演奏についてウォルフは次のように回想している。

彼(フェルドマン)が演奏を終えると、隣に座っていたルチアーノ・ベリオがこの曲を「弁証法的だ」と言った。彼がどの点についてそう言ったのか思い出せないが、私はこの力作に心を打たれた。当時、私にはこの曲が典型的なヨーロッパ風の音楽に聴こえた。この曲が音のこのようなパッセージを、つまりほとんど例外なく右手から左手へと行き来しながら動き、高音域のどこかと低音域のどこかを往来する規則正しい歩調での柔らかな単音の連続を言明し、概念化しているように思えた。

After he finished, Luciano Berio, sitting next to me, said something about the piece’s “dialectic.” I don’t recall just what, but I was struck by the effort, which at the time seemed to me characteristically European, to say something, to conceptualize this passage of sounds, a soft succession, regularly paced, of single notes, moving almost without exception back and forth from right hand to left, somewhere in treble to somewhere in bass and back again.[17]

この場合もやはり「出来事」と呼びたくなる、短い音価でのすばやいパッセージを主体とする第1部[18]、単音の繰り返しによる平坦な第2部(現行の出版譜はこの部分を指す)の特性をふまえると、ベリオが演奏を聴いた直後に言った「弁証法的」という言葉はこの2つの対照関係に言及していると考えられる。ウォルフが「規則正しい歩調での柔らかな単音の連続」と描写したように、現行の「Piano Piece 1952」は拍子も小節線もなく(曲の終わりを示す終止線は引かれている)、全部で171の音符がひたすら付点四分音符で書かれている。具体的なテンポは指定されていないが、楽譜の冒頭に「全ての拍を均等にゆっくりと静かにSlowly and quietly with all beats equal」の演奏指示が記されている。右手と左手が同じ歩調を保ちながら付点四分音符を単音で交互に打鍵する。この曲は最初から最後まで様々な音高の単音が鳴らされるだけの一見極めて単調で平板な曲だが、音高、音程、音域に着目するといくつかの特徴が浮かび上がってくる。

Feldman/ Piano Piece 1952

 全171音は以下の通り。奇数番号の音は右手、偶数番号の音は左手で演奏される。音名の隣の数字は音域を示している。ピアノの鍵盤の真ん中にあたるCをC4とし、その上下のオクターヴにそれぞれ番号をつけた。たとえばC3はC4の1オクターヴ下、C6はC4の2オクターヴ上を示す。この曲の最低音は42のB0、最高音は29のF#7である。隣り合った音のオクターヴ番号が離れていればいるほど音域が離れ、跳躍の幅が広くなる。例えば59番目のC#7と60番目のG1は6オクターヴ離れていて、この曲で最も広い間隔での跳躍である。

[Piano Piece 1952]音高一覧

12345678910
E♭6A2B♭4C4C#7D2F#6F4E5F#2
11121314151617181920
G#6A4B♭5E4C#7G3B4G#2B♭6C3
21222324252627282930
E4E♭3A5B2A#6E♭4E5D3F#7E2
31323334353637383940
C4E♭1D7G#3B♭4E2F#5F3E4C3
41424344454647484950
C#6B0E♭4G♭3G6C3B♭5E4G#4D3
51525354555657585960
F6B♭2B4E3E♭5G#2G4A3C#7G1
61626364656667686970
B♭4A2D6E♭2E4G#3G6D4B4B♭2
71727374757677787980
A3G#4G6C#4E♭5C3F6F#4D5E2
81828384858687888990
A6B♭3D♭6B1A4E3D6E♭4G♭4F3
919293949596979899100
E6F#1G#5B♭2E4D3F5D♭4G4D3
101102103104105106107108109110
E♭5E4C5B3C7D3G#5B♭2D♭5E2
111112113114115116117118119120
F4D4E♭4C#4E4E♭4F6G#2F#2C4
121122123124125126127128129130
B5C#3D4A2B♭5E2A♭5C4B♭6G2
131132133134135136137138139140
C#4F3G4B2E♭5E2D6G#1E5A2
141142143144145146147148149150
G4F#3F6E6E♭7B2C5C#3E♭4E2
151152153154155156157158159160
A5F3B4C4F#6B♭2A4E♭3D6C#2
161162163164165166167168169170171
G4C4B♭3C#3D5A4B♭6E2F#4G3C#6

 実際のところ、どの視点でこれらの音高と音程を見ていくかで、この曲の特性の様相が変わってくる。Nobleの分析では111〜116までの音域の密集した動きの少ない状態を「音高プラトー pitch-plateau」と称し、これら6音が同じオクターヴ内でシンメトリー状に配置されていることを指摘している[19]。音から音へと移る際の動きとその軌跡に着目した視点からは、133〜141までの範囲で右手(奇数番号の音高)がG4からG6まで上行した後、G4に戻るかのように下行する箇所も指摘できる。一方、左手(偶数番号の音高)はB2からG#1まで下行した後、A2に上行する。これらの動きをふまえると、この範囲では右手と左手が互いに反行する線を描いていることがわかる[20]。この曲は一貫して右手が高い方の音を、左手は右手より低い音を交互に打鍵してジグザグ状の軌跡を描くが、右手と左手の音域が逆転する例外的な箇所が2つある。1つ目は71-72(A3-G#4)の2音。この前後の音を含めた70-71-72-73(B♭2-A3- G#4-G6)の4音は一直線に上行する軌跡を描く[21]。2つ目は162-163(C4- B♭3)で、ここでも左右の手が交差する。先の4音とは対照的に161-162-163-164(G4-C4- B♭3-C#3)の4音は一直線に下行する軌跡を描く[22]。このように、相反する要素を曲中に並置して均衡を図るやり方はヴォルペの「Set of Three Movements」における2つの流れを想起させると同時に、フェルドマン自身の図形楽譜の楽曲に見られる音域とパートの均衡な分布とも共通している。

 ウォルフはフェルドマンがこの曲の中で特定の音程を何度も用いていることを指摘している。例えばC#-G(減5度/増4度)は5回、A-B♭(短2度/長7度)は5回、いずれもほとんど毎回異なる音域で登場する[23]。また、彼は3-5-7番目の3音(B♭4-C#7-F#6)がB♭を異名同音のA#に読み替えると嬰ヘ長調の主和音(B♭4-F#-A#-C#)になることに気づいた[24]。これと同様の現象は50-51-52(D6-F6-B♭2)でも起きていて、これら3音は変ロ長調の主和音の構成音だ。だが、既存の方法やシステムとは違う地平での音楽を志していたフェルドマンがここで調性や和声を意識していたとは考えにくい。これらの三和音は偶発的に生まれたと考えるのが適当であろう。

 半音階的な音の配置に注目すると、上述の分析とは異なる特徴が見えてくる。この曲での極端に隔たった跳躍をオクターヴの位置関係を無視して考えた場合、実はいくつかの箇所で半音階的に隣り合った2音、3音、5音からなる3種類のグループを見つけることができる。半音階的な順次進行の箇所は表中の網かけ部分で示されている。

[半音階的に隣り合う2音]
2-3
21-22
24-25
26-27
32-33
40-41
52-53
54-55
56-57
61-62
81-82
87-88
90-91
112-113
115-116
120-121
135-136
149-150
166-167

[半音階的に隣り合う3音]
4-5-6
7-8-9
11-12-13
37-38-39
63-64-65
100-101-102
146-147-148
158-159-160

[半音階的に隣り合う5音]
141-142-143-144-145

 この表から、記譜上では音が乱高下しているように見えても実は半音階的に隣接している箇所がいくつもあることがわかる。これはオクターヴ内の跳躍では得られない音響の効果を狙った配置なのだろうか。このような音域の配置はもともと近かったものを大きく引き離して、あたかも新しい技法や新たな音の響きがもたらされているように見せるフェルドマンの戦略のひとつであるようにも思われる。この曲の内部をさらに精査すれば音列に近い音と音との関係も見えてくるかもしれない。様々な視点が考えられるなかで音高、音程、音域に注目して1950年代前半の五線譜の楽曲の中でも特になんとも言い難い「Piano Piece 1952」を掘り下げてみた。「音それ自体」という言葉にくじけそうになるが、あきらめずに音を聴き、楽譜を見れば、何かしら浮かび上がってくるのだった。

5 最もなんとも言い難い曲「Variations」(1951)

 「Piano Piece 1952」と同じくらいかそれ以上になんとも言い難い曲は他にもたくさんあるのだが、なかでも「Variations」は突出している。このピアノ曲はマース・カニングハムの同題のダンス作品「Variation」のための音楽として作曲され、カニングハムとケージに献呈されている。理由は不明だが、フェルドマンの曲は「Variations」と複数形で書かれているのに対し、カニングハムのダンスは「Variation」と題されている。1951年4月12日シアトルのワシントン大学でこのダンスが初演され、ピアノはケージが弾いた。

 二分音符=64のテンポが指定されたこの曲は1小節を2/4拍子か4/8拍子で数えることができ、ペータース版の出版譜では(4/8)と括弧書きで記されている。小節数は全部で406小節。おそらくダンスの振り付けとの関係だと思われるが、1小節目から18小節目までの全ての小節に全休符が記されている。たしかに曲は始まっているけれど、しばらくの間1音も鳴らない。曲が始まって約19秒後の19小節目にようやく「できるだけ控えめに as soft as possible」の指示とともに5音からなる装飾音が初めての音としてグリッサンドで打鍵される。その後も単音や和音がほとんど不規則な間隔で装飾音として鳴らされる。いつ音が聴こえるのかわからないという点で極めて緊張感の高い曲だともいえる。この不規則な間隔で曲が進んで行くのだが、204-244小節の間では規則正しく8小節置きに同じ和音(右手C#4-A5 左手C#4-B♭4)が6回繰り返される。初め、この和音は突発的に聴こえるが、繰り返されるうちに同じ和音が同じ間隔で反復されていることに気づいてくる。反復はいくつかの他の箇所でも見られる。例えば332-389小節では、左手のF2が1つと右手のF#5が2つからなる3音パターンが連続して3回繰り返される。353-357小節ではF7が3回立て続けに鳴らされた後にA3が挿入されて、また最後にF7が鳴らされる。途中のAは演奏者と聴き手に安住を許さないフェルドマンの思惑かもしれない。曲の終盤、402-406小節は403小節目のF#7を除いて、*のようなマークが記されている。これはピアノで打楽器的な音を出す演奏指示で、最後の5小節間はこの打撃音が4回鳴らされる。この曲ではフェルドマンが同じ要素の反復を意識的に用いていることがわかる。この反復はカニングハムのダンスの振り付けと何か関係ありそうだが、あいにくこのダンスの詳細は判明していない。この時点でのフェルドマンの反復技法は主に単音や1つの和音といった断片的な要素の反復に限られており、70年代後半以降の彼の楽曲の大きな特徴である、徐々に変化しながら繰り返されるパターンとは性格が異なる。

 数えてみたところ、全406小節中、何かしらの音や記号が書かれていて音が鳴るのは合計90小節だった。1950年代前半の楽曲におけるこのような密度の低さもフェルドマンの音楽の特徴の1つといってよいだろう。

Feldman/ Variations

 次回は1950年代後半からの楽曲をとりあげる予定だ。1950年代前半の数々の試みがその後の彼の音楽をどう変えていったのだろうか。


[1] Morton Feldman, Give My Regards to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman, Edited by B. H. Friedman, Cambridge: Exact Change, 2000, p. 35
[2] Catherine Costello Hirata, “The Sounds of the Sounds Themselves: Analyzing the Early Music of Morton Feldman”, in Perspectives of New Music, Vol. 34. No. 1 (Winter, 1996), pp. 6-7
[3] Ibid., p. 7
[4] Ibid., p. 7
[5] 1台または2台のピアノのための「Intermissions 6」(1953)は五線譜に記された15個の断片の演奏順を演奏者が決める不確定性の音楽に分類される。この五線譜は通常と違い、それぞれの断片が上下左右の全方向からランダムに配置されたモビールのような外見をしている。楽譜の上ではこれらの断片は前後のつながりを持たないので、それぞれの断片を出来事と言い換えることができる。
[6] Joseph N. Straus, Twelve-Tone Music in America, Cambridge: Cambridge University Press, 2009, p. 237
[7] 1オクターヴ内に含まれる半音の数。
[8] Straus 2009, op. cit., p. 237
[9] ヴォルペの作品リストや資料はStefan Wolpe Societyのサイトで公開されている。 http://www.wolpe.org/
[10] Feldman 2000, op. cit., p. 146
[11] この文章はWolpe Societyのサイト に、また一部がMorton Feldman Page の中でも公開されている。おそらく1983年にバッファロー大学でフェルドマンが主催したヴォルペ作品のコンサートの際のレクチャーかプログラムがこの文章の出典の可能性が高い。
[12] Austin Clarkson, “Stefan Wolpe and Abstract Expressionism”, in The New York Schools of Music and Visual Arts: John Cage, Morton Feldman, Edgard Varèse, Willem de Kooning, Jasper Johns, Robert Rauschenberg, edited by Steven Johnson, New York: Routledge, 2002, p. 86
[13] Feldman, op. cit.
[14] 1982年12月10にニューヨーク市でAustin Clarksonによって行われたインタヴュー。Wolpe Societyのサイトで公開されている。
[15] Stefan Wolpe and Austin Clarkson, “On New (And Not-so-New) Music in America”, in Journal of Music Theory, Vol. 28, No. 1, 1984, p. 25
[16] Alistair Noble, Composing Ambiguity: The Early Music of Morton Feldman, Surrey: Ashgate Publishing, 2013, p. 74
[17] Christian Wolff, “The Sound Doesn’t Look Back: On Morton Feldman’s Piano Piece 1952“, 1988/1995. https://www.cnvill.net/mfwolff2.htm#wolff5
[18] Noble 2013, op. cit., p. 75 Nobleが破棄された第1部のスケッチを復元している。
[19] Ibid., p. 88
[20] Ibid., p. 88
[21] Ibid., p. 84
[22] Ibid., p. 84
[23] Wolff 1988/1988, op. cit.
[24] Ibid.

高橋智子
1978年仙台市生まれ。Joy DivisionとNew Orderが好きな無職。

(次回更新は8月20日の予定です)