Orchestra (1976)
ベケット三部作の最初は「Orchestra」。タイトルが示すとおりオーケストラの曲である。前回、フェルドマンのオーケストラ曲が1970年代に集中していることを述べた。この曲も70年代のオーケストラ曲の時代を象徴する楽曲のひとつである。2台のピアノ(第1ピアノはチェレスタも兼ねる)が入る点で、「Orchestra」は前回とりあげた「Piano and Orchestra」(1975)とよく似た編成といえる。
score: https://www.universaledition.com/morton-feldman-220/works/orchestra-3980
フェルドマンはこの曲の解説文を書いている。彼は曲の内容にはほとんど触れず、専ら自分の「壊れた記憶」について述べている。
つくづく自分は運がよいと思うのは、作曲にまつわる奇妙な癖のひとつとして、曲を完成させるや否や完全に記憶喪失のような状態になってしまうことだ。座ってみて思い出せた音はひとつもない(「Piano and Orchestra」冒頭でのピアノが鳴らすD♭の揺れ動き以外は――どうやってこれを忘れられるのか!)。
私は自分のこの幸運について書く(『タルムード』は健忘症の天使について言及している)。その意味するところは、この壊れた記憶のおかげで私のペンは止まることなく走り続けることができるのだ。私の興味を最もひきつけるのは、「内容」についての記憶からではなく、それにまつわる記憶の欠如から繰り返すことだ。
女たちとの関わりの唯一の理由が彼女たちから逃げることだったドン・ファンのように、私の作曲との関わりもそれと同じ方法でやってくる。作曲からの逃げ道だ。退屈な部分になると、ある友人は「非常用脱出口はどこだ?」とよく言った。芸術も大差ない。それは退屈なパーティだ。つまり、去り際を察知して何かを書くこと…Orchestraのような曲を。
One of the compositional quirks I’m most lucky about is the almost total state of amnesia immediately after completing a composition. There is not one of which I could sit down and recall a note of (except the opening of those oscillating D flats the piano plays in Piano and Orchestra – how could one forget that!).
I write that I’m fortunate about this (the Talmud refers to an Angel of Forgetfulness), what I mean to say is that this broken memory makes possible the never ending stopping of my pen. It is that which you repeat not from memory but from the lack of it which is the “substance” that interests me most.
Like Don Juan, whose involvement with women was only because he was on the run from them, my involvement with compositions comes about the same way: avenue of escape FROM it. As a friend used to say at a dull part, “Where’s the escape hatch?”. Art is no different. It’s a boring party. The thing is to know when to leave and write something like… Orchestra.[5]
何かの内容や実体についての記憶をもとに物事(音楽でいうならば曲中の短いフレーズなどだろうか)を繰り返すことではなく、忘れてしまったところから物事を繰り返す。忘却からの繰り返しという、この一見すると矛盾した状況は、曲が完成するや否やその曲のことがすっかり抜け落ちているフェルドマンの「壊れた記憶」によって成し遂げられる。彼の壊れた記憶は蓄積せずに常にすり抜けて空回りし、そのおかげで彼の持つペンは止まることなく音を書き続ける。ドン・ファンを引き合いに出している後半では、フェルドマンは作曲から逃れるために作曲せざるを得ない矛盾を吐露している。その結果生まれた曲のひとつが「Orchestra」である。ここでのフェルドマンの記憶と忘却についての考え方は、楽曲が長くなり始めた1976年当時と、その数年後に訪れる極端に長い楽曲の時間の性質も示唆している。演奏時間18分の「Orchestra」はそれほど長くないが、演奏時間約100分の「String Quartet No. 1」(1979)、約4時間を要する「For Philip Guston」(1984)といった楽曲の場合、たとえ自分が書いた曲であっても覚えていられないのはそれほど不自然なことではないだろう。このように考えると、ここでフェルドマンが言っている壊れた記憶は決してフェルドマンお得意の誇大表現だともいえない。聴き手の立場で考えてみると、これから詳細を見ていく「Orchestra」の場合、最初の数分間は茫洋とした音の響きがかわるがわる出てくるだけだ。曲の内容や細部をしっかり把握するという意味での記憶に残りにくい。しかし、途中から「ベケット素材」と呼ばれる特徴的なモティーフが続き、このモティーフが私たちの記憶に執拗に働きかけてくる。
「Orchestra」のテンポは♩=約66。スコア冒頭に「極端なほど柔らかくExtremely soft」と記されている。曲中で拍子が頻繁に変わるが、テンポの変化はない。Universal Edition(以下UE)のウェブサイトによると演奏時間は18分。練習記号の記載はないが場面の変化に応じて14の部分に区切ることができる。今回は3〜5音程度からなる半音階的なモティーフ「ベケット素材 Beckett material」の用法を中心に、この曲と他2つのベケット三部作の内容を考察する。
「Orchestra」には前回解説した「Piano and Orchestra」(1975)とのいくつかの共通点が見られる。「Piano and Orchestra」は独奏ピアノとオーケストラのピアノの2つのピアノパートが存在する(2つのピアノパートの関係については第12回参照)。「Orchestra」も同じく2つのピアノパートが入り、第1ピアノはチェレスタを兼ねている。2つの曲はともに2台ピアノを有するだけでなく、スコアからは音の配置や構成にも両者の類似が指摘できる。たとえば「Piano and Orchestra」のピアノパートを特徴付ける、2台ピアノ間で和音を同時または交互に鳴らして1つのまとまりを作る動きと同じものが「Orchestra」の10、14番目のセクションに現れる。他にも、音の引きのばし、突発的に挿入される短いアタック、音の入りのタイミングをずらして得られるグラデーション状の効果、同じ楽器内での半音階的な音の重なり、トレモロやロールを多用した打楽器など、「Orchestra」を構成する音の出来事や特徴の大半が「Piano and Orchestra」から派生していると考えられる。「Piano and Orchestra」を想起させるこれらの特徴は後述する残りのベケット三部作「Elemental Procedures」と「Routine Investigations」にも当てはまる。特に注目すべきはベケット三部作におけるベケット素材と「Piano and Orchestra」との関係である。変音階の特徴的なモティーフであるベケット素材は既に「Piano and Orchestra」に登場している。多くの場合、ベケットのモティーフは音の引きのばしによってもたらされる静止した感覚を打ち破るかのように登場する。狭い音域内で蠢く半音階的なモティーフは、動いているが進んでいるわけではない。もちろん発展も展開もしない。音列操作の観点から考えても規則性や転回の可能性を見出すこともできない。ただそこで動き、これまでとは全く違う様相を音楽にもたらし、聴き手の注意をひく。これがフェルドマンの音楽におけるベケット素材の存在理由と役割だろう。後に詳述するが、様々な音高や楽器によって執拗に繰り返されるベケット素材の手法は、「方法を変えて同じことを繰り返す」ベケットのやり方と重なっている。フェルドマンはこのような半音階のモティーフをベケット三部作にも用い、これら3曲にとって最も印象深いモティーフに仕立てた。そして、オペラ「Neither」でもこのモティーフが多くの場面に登場する。このように考えると、「Piano and Orchestra」、ベケット三部作、「Neither」の結びつきがより鮮明に浮かび上がる。
ベケットの半音階的なモティーフに注目して「Orchestra」の個々のセクションの特徴を概観しよう。
1: mm. 1-36
トランペットのF#4-G4-A♭4の半音階的な連なりが横にスライドして唐突に曲が始まる。この3音の後を追うように他の楽器が入ってくる。スコア1ページ目の外見がこの曲のオーケストレーションの特徴を表している。第11回で解説した「The Viola in My Life 4」(1974)と前回解説した「Piano and Orchestra」と同じく、フェルドマンはそれぞれのパートをブロック状のまとまりとみなし、それらを垂直に配置している。1ページ目では、1小節目からのトランペットのブロック、2小節目からG4を鳴らすイングリッシュ・ホルンとヴィオラのブロック、10-11小節のバスクラリネット、ホルン、ヴィオラ、コントラバスの引きのばし音のブロックは入りのタイミングが同期している。同期せずに配置されているブロックとして1小節目のバスーン、7-8小節のハープとトロンボーン、10小節目のチェロによる半音階的な和音のブロックがあげられる。8小節目の銅鑼、7-8小節目のコントラバスの短いアタック、12小節目のハープのF#3は他のパートとは与しない単独のブロックとみなすことができる。2ページ目も同じ要領で複数のブロックが配置されている。18-23小節間ではオーボエ、クラリネット、コントラ・バスーンが順番に音を引きのばす。3ページ目も音の引きのばしによるいくつかのブロックを中心に構成されているが、34小節目に突然シロフォンがE♭6を連打する。このシロフォンは一様なテクスチュアに驚きをもたらす異物の役割を持っている。
2: mm. 37-69
37-40小節間のトランペットは3つに分かれて1つのブロックを作っている。同じく3つに分かれたトロンボーンがD♭4-D4-C4の3音でトランペットの後を追う。44-48小節間にはティンパニ、シンバル、チェロによるブロックが配置されている。その後、管楽器のブロック、ハープとピアノのブロック、弦楽器のブロックが次々に登場するなか、68小節目に34小節目のシロフォンの連打を思い出させるトランペットとコントラバスの連打が挿入される。
3: mm. 70-119
ここからは半音階的な音の動きや重なりがさらに顕著になってくる。70-78ではイングリッシュ・ホルンが半音階的な3音A♭5-G5-F#5によるフレーズを作る。79-83小節間でトロンボーン、ピアノ、ハープ、コントラバスが2音か3音の半音階的な和音を順番に鳴らす。85-96小節間ではティンパニを中心とした半音階的な和音が低音楽器に点在している(スコアでは演奏楽器が明示されていないが、音高が明記されていること、いくつかの録音でこの箇所がティンパニで演奏されていることなどから、本稿ではこれをティンパニとして扱った)。97-103小節間では先のイングリッシュ・ホルンのA5とG5、第1トロンボーンのF#4、マリンバのF3が1つのフレーズを作る。116-117小節のフルートのすばやい上行形の3音が驚きの要素の働きをしている。
4: mm. 120-144
121-125小節間で1小節ごとに間をあけてフルートE6、トロンボーンD4、ヴィオラC#3の3音のまとまりができている。その後は和音や単音の引きのばしによるブロックが不規則に配置されている。ほとんどが1回きりの登場だが、129小節から現れるチェロの和音C#4-G4-D5-A♭5が何度も繰り返されて徐々に際立ってくる。
5: mm. 145-192
ここからしばらくは先のセクションにも出てきたチェロの和音C#4-G4-D5-A♭5と、新たに加わった和音C4-F#4-D♭5-G5を中心に曲が進む。チェロのこの2つの和音が繰り返される様子は「Piano and Orchestra」におけるピアノの和音の繰り返しを思い出させる。このような中心や土台ともいえる和音が絶えず鳴らされるなか、他の和音によるブロックが随所に配置されている。
6: mm. 193-209
急に曲の様相が変わり、急激なダイナミクスの変化(mp-fffへのクレシェンド)と鋭いアタック(sffz)を伴う木管楽器、金管楽器、コントラバスによる半音階的な和音が何度か鳴らされる。その合間に197-202小節間でチェロがG♭2からD♭2まで半音階的に下行する。
7: mm. 210-252
前のセクションと同じくチェロの半音階的な下行が登場する。230-250小節間での弦楽器の和音による垂直な配置のブロックに対して、232-241小節間ではイングリッシュ・ホルンとトランペットのD♭5とB3によるブロックが水平に配置されているといえる。
8: mm. 253-272
クラリネット、バスクラリネット、ファゴット、コントラ・ファゴット、ホルン、トロンボーンがF#-G-A♭からなるクラスターを作る。このクラスターはpppからmpの間で変化するヘアピン状のダイナミクスを伴う。
9: mm. 273-312
チェロの和音とピアノの和音の連打によって静かに始まるが、284-286小節でオーボエの蛇行するフレーズをひと吹きすると様相が一変する。302-312小節間でpppからfffまでの極端なダイナミクスの変化を伴ったクラスター状の和音のブロックがいたるところで発生する。特にトロンボーンとチューバの鋭いアタックが際立っている。
10: mm. 313-336
2つのピアノが同じ和音を交互に5回鳴らす。これと同じ書法は「Piano and Orchestra」でも数回用いられている。このピアノの和音の後にシンバル3つによるグラデーション状のブロック、チェロによる半音階的に下行する3音が続く。329-330小節目で再びピアノの和音が鳴らされると、ヴァイオリンのC5-D♭5-D5-E♭5からなるベケット素材のモティーフがここでようやく初めて登場する。このベケット素材にはホルン、ハープ、マリンバによる半音階的な和音のブロックが同期している。この直後のティンパニも半音階的な和音を鳴らす。
11: mm. 337-350
弦楽器、ホルン、トランペット、オーボエ、ピアノ、ハープによる和音のブロックが垂直に配置されている。ヴィオラとホルン以外の和音は、根音から9度上の構成音を最高音に据えた九の和音(ここでは第3、5音が省略されている)で統一されている。チェロの和音C#4-G4-D5は、セクション4と5のチェロの和音C#4-G4-D5-A♭5からA♭5を省略した和音とみなすことができる。
12: mm. 351-369
セクション10ではヴァイオリンのみだったベケット素材のモティーフをヴィオラとチェロも引き受ける。まるでヴィオラとチェロがこのモティーフに感染してしまったかのようだ。ファゴット、トランペット、ハープ、シロフォンは半音階的な和音によるアタックを繰り返す。
13: mm. 370-384
先ほどのベケット素材による蠢く場面から一変する。ピアノ以外の全パートがそれぞれのタイミングで音を引きのばし、グラデーション状のブロックを作っている。
14: mm. 385-414
「Piano and Orchestra」にも見られた2つのピアノの間での和音の受け渡しが行われる。ここで目をひくのは6部に分かれた銅鑼で、ダイナミクスはpppppが指定されている。ピアノとチェロとは拍子が異なり、銅鑼だけ3/4拍子で動く。同じ楽器内で揺れ動くブロックを形成している点で、この銅鑼のブロックは28-32小節間、37-40小節間のトランペットとほぼ同じ書法といえるだろう。微弱なダイナミクスとロールやトレモロの多用はフェルドマンの70年代の楽曲における打楽器書法に共通している。この時期フェルドマンが銅鑼に執着していた理由はわからないが、銅鑼のアンサンブルは「Neither」でも登場する。ピアノと銅鑼のブロックの合間にコントラバスによるC5-D♭5の半音階的な2音が2回鳴らされ、この茫漠とした空間に楔を刺す。2つのピアノによる対話は結論を見出せないまま終わってしまう。
「Orchestra」における数種類のブロックはそれぞれのブロック内で完結している。他のブロックとの水平方向の滑らかな連結はほとんど見られず、垂直に配置されている。1音単位で五線譜上の音符を見るとブロック配置のイメージをすぐにつかめないかもしれないが、上記のようにそれぞれのパートや類似した音型をまとまりとして捉えると、まるでパッチワークのようにブロックが配置されている様子を想像できる。このようなブロック状の配置は、グラフ用紙のマス目を塗りつぶした1950年代初期の図形楽譜作品を想起させる。1967年に図形楽譜をやめて以降、フェルドマンのほぼ全ての楽曲は五線譜に記譜されている。1970年代の楽曲に見られる音のまとまりのブロック状の配置から、フェルドマンが依然として図形楽譜の時と同じような発想でそれぞれの音色や音型を着想していた可能性も考えられる。