1980年代の楽曲に特徴的な編成として独奏楽器と弦楽四重奏による五重奏もあげられる。独奏楽器と弦楽四重奏のシリーズは「Clarinet and String Quartet」(1983)、「Violin and String Quartet」(1985)、「Piano and String Quartet」(1985)の3曲。第12回で解説した「Piano and Orchestra」(1975)をはじめとする1970年代の独奏楽器とオーケストラによる協奏曲風編成の楽曲と同様、1980年代の独奏楽器と弦楽四重奏曲の編成も、これを独奏楽器とアンサンブルとの協奏曲とみなすか、あるいはひとまとまりに五重奏曲として扱うか議論の余地がある。スコアや音を参照すると、80年代のこれらの楽曲も独奏楽器とアンサンブルとの関係性の点で70年代の協奏曲風編成のオーケストラ曲を踏襲しており、独奏とアンサンブルとの対照的な関係を強調しすぎない傾向が見られる。
UE: https://www.universaledition.com/morton-feldman-220/works/piano-and-string-quartet-4167
UE: https://www.universaledition.com/morton-feldman-220/works/violin-and-string-quartet-5671
クラリネット独奏と弦楽四重奏の編成は、1961年に「Two Pieces for Clarinet and String Quartet」で既に登場している。この曲には音価を定めない自由な持続の記譜法が用いられているので、1980年代の反復やヴァリエーションを主とする楽曲とは記譜法や作曲技法の点で異なる。一方、「Two Pieces for Clarinet and String Quartet」はその22年後に作曲された「Clarinet and String Quartet」と全く無関係ではないという見方もある。この2曲の関係についてUniversal Edition(以下、UE)のウェブサイトにArt Langeは次の一文を寄せている。
どちらの曲も親密で、内省的で、透き通っていて、簡潔だ。また、初期の楽曲の繊細さと短さにもかかわらず、この2曲の違いは表面的に過ぎず、曲の内容や、ましてや感覚の違いでもない。手法は違えどもこの2曲はフェルドマンの音楽に重要な事柄に光を当てて明らかにする。(訳注:音楽に対する)献身、高潔さ、驚きが不安を発見にし、情動を芸術にし、再び芸術を情動に変える。
Both are intimate, introspective, transparent, and concise, and despite the earlier work’s delicacy and brevity, their differences are of surface, not content and certainly not feeling. Though their means are unalike, they illuminate key issues in Feldman’s music: commitment, integrity, and wonder, turning anxiety into discovery, emotion into art, and art into emotion.[5]
これは抽象的で詩的な文章だが、おそらくここでLangeが言いたいのは、時を経て技法が変わってもフェルドマンの音楽の本質は揺るぎないということなのだろう。過去の楽曲との関係は「Piano and String Quartet」にも見出すことができる。「Piano and String Quartet」冒頭のアルペジオによる和音の響きは、同じくピアノを独奏楽器に据えた1975年の楽曲「Piano and Orchestra」の後半で繰り返されるベルのように揺れ動くアルペジオを否応なく思い出させる。これら2曲におけるアルペジオの響きは、「Piano and String Quartet」と「Piano and Orchestra」との10年の隔たりを埋めているかのようでもある。これはフェルドマンによる自己引用のひとつと考えられる。
UE: https://www.universaledition.com/morton-feldman-220/works/clarinet-and-string-quartet-1622
1960年代の室内楽曲にも風変わりな編成がいくつか見られたが、1980年代の風変わりな編成として「Bass Clarinet and Percussion」(1981)があげられる。この曲の編成はバス・クラリネット奏者1人と打楽器奏者2人によるトリオ。打楽器奏者1はティンパニ、シンバル3つ、ヴィブラフォン、シロフォンを、打楽器奏者2はティンパニ、銅鑼3つ、ヴィブラフォン、シロフォン、マリンバを担当する。演奏時間は約17分。D♭-D-Eの3音を様々な音域とリズムで変化させるバス・クラリネットと、この3音モティーフの陰影のように鳴らされるシンバルと銅鑼で曲が始まる。3音または4音からなる短いモティーフとその変化、7度の跳躍、不規則なリズムといった70年代後半以降のフェルドマンの音楽を特徴付ける要素がこの曲にも見られる。さらには、80年代から顕著になる、複数のパート間で同期しない(あるいは異なる)拍子の書法もこの曲に用いられている。この曲ではバス・クラリネットは頻繁に拍子が変わるが、打楽器パートは終始3/4拍子のままだ。しかし、スコアではバス・クラリネットと打楽器パートの小節線の位置が揃えられているので、パート間の拍子の違いが見落とされがちである。曲が進むにつれてバス・クラリネットには1つの音を連打するパターンが目立ってくる。この連打も反復の一種と見なすことができそうだが、拍やリズムの感覚が希薄ゆえに漠然と同じ音が連打されている印象が強い。打楽器パートではティンパニの連打が曲の中頃から頻出する。この連打もバス・クラリネットと同じく、漠然とただ打ち鳴らされている印象が強い。この曲の予測できない展開による掴み所のなさは、短い出来事が次々と現れて、持続や発展の感覚を欠いた50年代と60年代の楽曲群を思い出させる。
UE:https://www.universaledition.com/morton-feldman-220/works/bass-clarinet-and-percussion-1310
1960年代以降、フェルドマンの室内楽曲にはフルート(しばしばアルト・フルートやバス・フルートを兼ねる)、ピアノ(多くの場合チェレスタを兼ねる)、打楽器(なかでもヴィブラフォンの登場頻度が高い)がよく用いられる。これら3つの楽器によるトリオ編成の楽曲は1978年の「Why Patterns?」を皮切りに、1983年の「Crippled Symmetry」、1984年の「For Philip Guston」と続き、これらを三部作とみなすことができる。[6] フェルドマンはこの編成へのこだわりを1985年7月2日にミッデルブルクで行われた講義の中で次のように述べている。
(訳注:「Why Patterns?」について受講生から尋ねられて)その通り、私が新たな編成を考案したのだ。音については語るのに、誰も編成について語らない。しかし、ハイドンが弦楽四重奏を発明したように、私はフルート、打楽器、ピアノのためのものを発明した。私はこれに魅了されている。多くの技術的な理由で魅了されている。この編成が好きなのは、透き通っているからだ。音について言うならば、フルートに使うつもりの音と同じ音をグロッケンシュピールには使わない。
Yes, I invented a new instrumental form. No one talks about instrumental forms; they talk about notes. But like Haydn invented the string quartet, I invented something for flute, percussion and piano. I am fascinated with it; fascinated for a lot of technical reasons. I like it, it’s transparent. Speaking of notes: I wouldn’t use the same notes on the glockenspiel that I would use on the flute.[7]
上記の発言は冗談交じりにも見えるが、フェルドマンはフルート、打楽器、ピアノのトリオ編成を自分の発明だと述べている。この編成が「透き通っている」性質ゆえに彼は3パートの組み合わせに魅了されていると語る。これはどういうことなのだろうか。単純に解釈すると、性格の異なる3つの楽器の音色の聴き分けやすさに言及していると思われる。しかし、後述するが、これら3曲は3パートがそれぞれの拍子で進み、スコア上では同期していても実際の鳴り響きにおいては時間的なずれが生じるので、曲の構造の点では必ずしも平明で見渡しのよい透き通った性質とはいえない。
また、フェルドマンは「フルートに使うつもりの音と同じ音をグロッケンシュピールには使わない」と述べている。フェルドマンはここで漠然と「音 note」という言葉を使っているが、この語をさらに具体的に解釈するならば、この「音」は音色のみならず「音高 pitch」にも近い意味として読み取ることができる。フェルドマンの考えに倣うと、それぞれの楽器には適した音色や音高があり、それを的確に見定めて作曲に用いるのも作曲家の技量の1つである。この編成の3つのパートの中でもピアノは特別扱いだった。
ピアノは他と違う。もちろん、よいピアノであれば、音高の精度もよくなる。それでもなお、1つの音は単なる音ではない。当然、音は楽器次第でその音色が変わる。このことは私自身が書いた音の聴き方と、楽器に対してそれらの音をどのように選ぶのか、その方法に影響を及ぼす。
The piano is something else. Of course, the better the piano the better the focus of the pitch. So even there a note is not a note. A note changes in color in relation to the instrument, obviously. That effects the way I’m hearing my notes and how I would select them for the instruments.[8]
ピアノについて言えば、フェルドマンにとって楽器自体の品質や性能も作曲時の音選びに関係があるようだ。フェルドマンが「よい」と認めたピアノだけが出せる音があるのかもしれない。実際、フェルドマンは12歳の時にニューヨークのスタインウェイで買ったピアノを長らく愛用していた。[9] 1971年にバッファローに移ってからも彼はそのピアノと共に暮らしていたようだ。
まだそのピアノを持っている。それが「私のピアノ」だ。他のピアノはピアノではない。私のピアノはいつもフェルドマンを奏でる。私のピアノでショパン、シューマン、モーツァルトを演奏しても、それはいつもフェルドマンだ。
I still have it, it’s “my piano”, the others are not pianos. My piano always plays Feldman. If you play Chopin, Schumann, Mozart, on my piano its always Feldman[10]
他の作曲家の曲を弾いてもフェルドマンの音楽になってしまう「私のピアノ」。彼のピアノへのこだわりと愛着はこの一文が十分に伝えている。ピアノならなんでもよいというわけではなく「私のピアノ」でないとフェルドマンの音楽にならない。フェルドマンはピアノの音色に対して極めて具体的なイメージを持ちながら作曲していたと想像できるだろう。また、前回解説したように、彼の音楽を支えてきた3人のピアニストの存在も彼のピアノ曲に欠かせない。このような、編成や楽器に対する偏愛にも近いこだわりはフェルドマンの美学の一部でもある。1980年代前半においてはフルート、打楽器、ピアノの組み合わせがフェルドマンの理想を具現する手段の一つだった。
1984年に行われたケヴィン・ヴォランズとの対談でフェルドマンはヴィブラフォンの用法について次のように語っている。
フルート、ピアノ、チェレスタと打楽器。打楽器は主にヴィブラフォンとグロッケンシュピール。自分がヴィブラフォンの音を聴いている分には、この楽器があまり好きではないが、自分がこの楽器のために曲を書いているとなると、とりわけモーターを使わない状態でのこの楽器が好きだ。私が今書いているのは和音のようなもので、それを然るべき場所に配置し、チェレスタや……グロッケンシュピールと一緒に鳴らす。しかし、この曲(訳注:For Philip Guston)[11] ではヴィブラフォンの和音には無頓着だ。それほど気にしていない。
Flute, piano, celesta, and percussion. Essentially vibraphone and glock. I don’t like the vibraphone too much when I hear it, but I like it when I’m writing it, and especially without the motor. And what I’m doing now is chordal and just putting it in places and then I play it the same time as the celesta… as the glock, together. But I don’t mind it in this piece—the vibe, I don’t mind it.[12]
フェルドマンのヴィブラフォンの用法は明快だ。この楽器には主に和音を書き、モーターは回さず、楽器それ自体の自然な持続と残響を好む。この用法は1960年代の楽曲からずっと続いており、ヴィブラフォンの演奏指示には必ずと言ってよいほど「モーターなしで without motor または no motor」と記されている。
以上のように、その多くが1960年代と1970年代の楽曲において既に見られていた傾向だが、特定の楽器と編成に対するフェルドマンの好みは1980年代に入ってさらに顕著になってきたといえるだろう。