あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(17)-2 フェルドマンの最晩年の楽曲

9 Loud rap of baton and as before fortissimo, all expression gone, drowning WORD’S protestations. Pause. 指揮棒で激しく叩く音、前と同じ音楽を最強音(フォルテイシモ)で、表情抜きで奏し、《言葉》の抗議をかき消す。
 クロウクの「もっと大きく!Louder!」に応えて、「音楽」は先ほどよりも激しい調子で音を奏でる。「前と同じ音楽を」と書いてあるが、ここでの音楽は前の部分とそっくりそのまま同じというわけではなく、音域や音程などが若干変わっている。例えば、8節目での2つのフルートによるA♭5-A4のモティーフは、今度はピッコロとフルートによるC♭6とB♭5に移行する。ト書きには「最強音 fortissimo」と書いてあるが、スコアに書かれたダイナミクスはfでもffでもなくmfだ。激しめのアタックで演奏されるヴィブラフォンとピアノは半音階的な構成音の和音を鳴らす。弦楽3パートも、違うオクターヴの場合もあるが、1-2小節目のヴァイオリンのF♭5、ヴィオラのE♭4、開放弦でのチェロのD2のように、大半が半音階的に隣り合っている。

10 Rap of baton. Love and soul music, with just audible protestations – ‘No!’ ‘Please!’ ‘Please’ etc. – from WORDS. 指揮棒で叩く音。《愛》と《魂》の音楽、「やめてくれ!」とか「お願いだ!」とか「黙ってくれ!」とかいう《言葉》の抗議がわずかに聞こえてくる。
 クロウクと「言葉」は愛と魂について問答し続けている。このやりとりに耐えられなくなったクロウクはボブ(音楽)に助けを求める。「音楽」は「愛」と「魂」の音楽でクロウクをさらに追い詰める。ここでの音楽は先ほどまでの激しさから一変して穏やかな調子で進む。滑り落ちるようなヴィブラフォンの高音域でのE♭6-D♭6-C♭6-B♭5からなる4音モティーフ、4-7節でフルートとピアノに現れた7度跳躍のモティーフから派生したと思われるヴァイオリンのF5-G4-F5のモティーフ、フルート1のG♭4とフルート2のE4の重なり(G♭4をF#4に読み替えるとこの2音の音程は長2度、転回音程は短7度)、ヴィオラのC4とチェロのD4の重なり(ここも長2度だ)といった、既出の素材を少し変えて再出現させるフェルドマンおなじみの手法が用いられている。次に新たなモティーフとしてフルートの3音下行が現れる。次に、新たなモティーフとしてフルート1にB♭5-A5-G5、フルート2にA5-G5-F5の3音下行モティーフが現れる。フルート2のモティーフはヴァイオリン、ヴィオラ、チェロに受け渡される。このモティーフはヴァイオリン、ヴィオラ、チェロに受け渡される。ヴィオラはA4-G4-F4、チェロはその2オクターヴ下のA2-G2-F2で、ヴァイオリンのモティーフに翳りを与える。その間、ヴィブラフォンはA♭3-D♭4を引きのばし、フルートもG5-F4で音の引きのばしに専念し、ピアノは小節の終わりごとに規則正しくC5を短く打鍵し続ける。この部分は全体的に高い音域で書かれているせいなのか、これらのパートは現実離れした、天上で奏でられる調べのようにも聴こえる。一方、「言葉」は「音楽」によるロマンティックな調べに抗議する。

11 Adsum as before 弱音器をつけて、うやうやしく「はい」
 愛と魂についての問答に悶絶したクロウクは再び「音楽」に助けを求める。先にヴィブラフォンで演奏された4音の下行形モティーフを、開放弦のヴィオラが2オクターヴ下のE♭4-D♭4-C♭4-B♭3で演奏する。その後、スコアの4ページ目に入ると、10と同じ、フルート1とヴァイオリンのB♭5-A5-G5、フルート2のA5-G5-F5による3音の下行形モティーフが再び登場する。これらのとても単純な下行形モティーフは10、11の場面に連続して登場する。フェルドマンはこのモティーフに「愛」や「魂」を連想させる役割を持たせていたのかもしれない。ここでは同一モティーフのパート間での交換がもう1つ起きている。10ではフルートが演奏したG5-F4が、11では少し音域を変えてヴィブラフォンのF5-G5として再び登場する。ピアノは10に引き続き、C5を打楽器のような短さで規則的に打鍵する。

12 Rap the baton. Age music, soon interrupted by violent thump. 指揮棒で叩く音。《老年》の音楽、じきに棍棒の激しい音でさえぎられる
 クロウクと「言葉」の対話の主題は老年へと移る。老年の意味をクロウクに問われた「言葉」は、答えに窮しながらも彼自身の言葉を紡ごうとする。そこで流れるのが「老年の音楽」だ。「老年の音楽」の音楽と言葉との関係についてフェルドマンは次のように語っている。

その音楽は音画法[18]だったが、言葉の重なりを音楽の構造や音楽本体に当てはめるという意味でのヴァーグナー的な用法ではない。(訳注:音楽は)もっと遠くにあり、ただ進んでいる。音楽の存在、隔たり、手の届かなさが欲しかった。手は届かないが、驚くべき存在感を持っているのが音楽だ。音楽が多くの人々を惹きつけているのはこういう謎なのだ。音楽がベケットになる必要はない。音楽の情動が人々を惹きつけているのは、この絶対的な手の届かなさだ。近付けば近付くほど音楽は悲劇的になり、抗えない魅力を獲得する。

It was word painting. It’s not Wagnerian in terms of the layering of the word into the structure and body of the music. It’s more distant. It’s going along. I wanted its presence and its remoteness, its unattainableness. An unattainableness and yet a marvelous presence which is music. This mystery that music has for so many people. It doesn’t have to be Beckett. This marvelous unattainableness that the emotion of music has for people. And the closer you get, the more tragic it becomes, and the more compelling it becomes.[19]

 フェルドマンがここで採ったのは、音画法のように、言葉の意味や表現内容に即して逐語的に音楽を付けていく方法ではなかった。彼は音楽を手の届かない存在とみなし、むしろ音楽と言葉との隔たりを意識していた。言葉の意味や表現から距離を置いていようと音楽の存在感が薄れることはなく、依然、強いままである。しばしば音楽は人間の情動を喚起すると考えられているが、そのような音楽の特性に近付くと、音楽はさらに人々を魅了する。フェルドマンにとって、音楽の情動で聴き手を魅了することには危険が孕んでいた。彼の音楽は、音楽が聴衆に与えるある種のわかりやすい効果と、そこから引き出される聴衆からの反応を最初から念頭に置いていなかったはずだった。だが、「Words and Music」では、フェルドマンはしばしばクロウクと「言葉」を介して出されるベケットからの指令を遂行しなければならない。

 この場面の音楽はフルート1、2がG4、A♭4、A4、G5、A♭5の5音を交換してできる短いモティーフを中心としている。2つのフルートは12の1小節目のように、フルート1のG5とフルート2のA♭4が和音を奏でることもあれば、2-4小節目ではA♭4(フルート2)とG5による跳躍パターンを作ることもある。これらのモティーフは、4-6節の場面でフルートとピアノがそれぞれ奏でたC5-D4の跳躍を思い出させる。12の5-12小節目(スコアp. 4, mm. 11-18)のA♭4(フルート2)とG5(フルート1)は、8の場面の5-14小節目の再現ともいえる。だが、12では新たな要素としてヴィブラフォンによるD5の5連符での連打が加わる。さらには11の場面ではピアノが担っていた短い音価での規則的なアタックが、ここでは弦楽のピツィカートに移り、弦楽が担っていた和音は構成音は異なるもののピアノに移る。最後の1小節は7回繰り返すよう指示されている。各パートが特定の1音を執拗に繰り返すことで、切迫した様子を描いているとも言えなくはない。

 各パートのモティーフとパート間の関係を見る限り、フェルドマンは彼のいつものやり方でこの音楽を書いているのだとわかる。実のところ、このアンサンブルが作り出す響きに「老年の音楽」を感じるか感じないかは聴き手によるが、たとえ具体的な指示が言葉でなされようと、フェルドマンは音楽と言葉との距離を縮めようとはしなかった。フェルドマンにとっての情動は、具体性、意味、表現の要素を音楽に与えてしまう危険な誘惑だったのかもしれない。