文:高橋智子
2 反協奏曲 Piano and Orchestra
その曲を構成する音または音符に楽器の選択、音域、ダイナミクス、タイミングといったあらゆる要素の必然性を求めたフェルドマンの態度は、1970年代に集中的に書かれたオーケストラ曲にどのように反映されているのだろうか。このセクションでは独奏楽器とオーケストラによる協奏曲編成の楽曲を中心に、フェルドマンのオーケストラ曲とオーケストレーションの特徴を考察する。
ポール・グリフィスは1999年1月31日にNew York Timesに掲載されたフェルドマンのオーケストラ曲を録音したCDアルバム[1]の紹介記事の中で「フェルドマンのオーケストラへの没頭は1970年代特有の現象だった Feldman’s absorption with the orchestra was a phenomenon of the 1970’s」[2]と述べている。これまで室内楽曲を主としてきたフェルドマンの楽曲が1970年代に入ると編成と長さ両方で拡張してきたのは第11回でも既述したとおりだ。フェルドマンは唯一のオペラ「Neither」(1977)も含めて全部で11のオーケストラ曲を書いており、そのうちの10曲が1970年代に作曲された。残り1つは最晩年の1985年にニューヨーク・フィルハーモニックの委嘱によって書かれた「Coptic Light」。「Cello and Orchestra」「String Quartet and Orchestra」あるいは単に「Orchestra」など、フェルドマンのオーケストラ曲のタイトルは曲の編成をそのままタイトルにしたものがほとんどで、どれもそっけない。グリフィスは、フェルドマンがあえてこの単調なタイトルを付けたのではないかと推測している。[3] Universal Editionの「Piano and Orchestra」のページには、「このようなタイトルを付けることで、フェルドマンは作曲のプロセスよりもこの曲の音色に聴き手の注意を払わせたかった Feldman hoped thus to direct the audience’s attention to the color of the work, rather than to the process of composition」[4]と記されている。これらの一連の「名は体を表す」タイトルのオーケストラ曲には、独奏楽器とオーケストラによる「Cello and Orchestra」(1972)、「Piano and Orchestra」(1975)、「Oboe and Orchestra」(1976)、「Flute and Orchestra」(1978)が含まれる。フェルドマンはこれらを「協奏曲 concerto」と名付けなかった。前のセクションで参照したフェルドマンの楽器、音色、音に対する考えを思い出すと、これらの協奏曲編成の楽曲では、作曲家はタイトルが示すとおりの編成で、その編成のそれぞれの楽器が必然性を伴って鳴らす音符を書き記す行為に徹するのが理想とされるはずだ。元来、協奏曲は独奏と合奏(アンサンブルやオーケストラ)との対比から生まれる様々な効果を醍醐味とするが、フェルドマンの場合は従来の協奏曲のあり方とは明らかに異なる視点から、協奏曲編成の楽曲に挑んだといえるだろう。「協奏曲」と名付けていないので独奏パートの超絶技巧による華々しいカデンツァを入れる必要もない。独奏パートとオーケストラを並べただけのそっけないタイトルは、伝統的な協奏曲の概念からうまくすり抜ける手助けをしている。
チェロ、ピアノ、オーボエ、フルートを独奏パートに据えた4曲は「途切れなく続き、ゆっくりとして、概ね静かである点で、たしかに楽曲も全体的に似ている certainly the works are all alike in being continuous, slow and generally quiet.」[5]が、4曲はそれぞれ異なる特徴を持っている。グリフィスによれば、「Piano and Orchestra」は「静けさ、ベルの音、雲を連想させるsuggests stillness, bells and clouds」[6]。「Oboe and Orchestra」は「緊迫感と激しさurgent and intense」[7]を表している。「Cello and Orchestra」は「ソリストが曲の中心的な存在で、瞑想のようなフレーズを次々と打ち出し、驚くほど長い時間をかけて申し分のない結末を見つける centered on the soloist, who lifts up one contemplative phrase after another, then takes a wonderfully long time to find the right close」[8]点で、この4曲の中では従来の協奏曲のあり方に最も近い曲だといえる。反復の要素を打ち出した「Flute and Orchestra」は「無限の反復の中を漂い続けているが、モーガン氏[9]の演奏の柔和さも持ち合わせた激しさやトーマス氏[10]の演奏の静かな光の輝きを以ってしても、まだ「Coptic Light」の域には達していない drifts into endless repetitions without yet acquiring the qualities of ”Coptic Light,” whether the soft ferocity of Mr. Morgan’s performance or the quiet blaze of Mr. Thomas’s.」[11]と評されている。2人の指揮者のどんなに優れた演奏であっても“まだ「Coptic Light」の域には達していない。”の真意を補足しよう。フェルドマン最期のフル・オーケストラ曲「Coptic Light」は中東の絨毯の影響を受けた細かな反復パターンときらびやかな音色を特徴としており、1970年代のオーケストラ曲とはだいぶ性格が異なる。「Coptic Light」の燦然とした輝きに比べると、たしかにこの時期のオーケストラ曲の色彩は鮮やかさとは対極の抑制された趣を感じさせる。このような理由で、上記の紹介文では、フェルドマンの70年代のオーケストラ曲はまだ充分に熟していないと言っていると読める。しかし、後述する「Piano and Orchestra」の分析から明らかになるが、70年代のフェルドマンがきらびやかなオーケストレーションを目指していたとは考えにくい。
score: https://www.universaledition.com/morton-feldman-220/works/piano-and-orchestra-4166
score: https://www.universaledition.com/morton-feldman-220/works/flute-and-orchestra-2481
4つの協奏曲編成の楽曲の中でも「Piano and Orchestra」は独奏パートとオーケストラとの関係を考えるうえで特に興味深い。この曲は以下の引用が述べるとおり、他の3つに比べて反(アンチ)協奏曲の性格が色濃く出ている。
「Piano and Orchestra」は独奏パートの効果を最小限に抑えることに専念していて、その大部分が1つの和音か単音の反復からできた完全に静かな性質である点だけでなく、表向きの独奏者が音を鳴らさない間、オーケストラの中のピアノパートが独奏ピアノの素材をいくつか演奏する点でも反協奏曲である。
”Piano and Orchestra” is an anticoncerto, not only in its concentration on minimal effect in the solo part, much of which consists of single chords or note repetitions, all quiet, but also in its use of an orchestral piano to play some of the solo material while the ostensible soloist sits silent.[12]